ある看護師が辞めた話   作:レイ膝

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初投稿。お目汚ししたらすいません
大塚剛央さんが、「連載インタビュー第4回」で話していた島袋美由利さんの声のゴローが働いていた病院に勤務していた女性の看護師さんがモデルです
一



ある看護師が辞めた話

 

 

 

ある看護師が辞めた話

 

古い院内PHSが、ナースステーションのカウンターの上で小さく震えた。

 

「はい、三病棟です。……はい。点滴ルートの変更ですね。分かりました、こちらで確認しておきます」

 

通話を切り、私は手元の記録に目を戻した。向かいのデスクでは、新人の佐藤がカルテを確認している。真剣な顔で画面を見つめているが、髪留めが少し曲がっていた。気づいているのか、いないのか。教えてやるべきか少し迷って、結局そのままにした。自分で気づいて直すのも仕事のうちだ。……たぶん。

 

「師長」

 

顔を上げると、佐藤がこちらを見ていた。

 

「さっきの患者さんなんですけど、先生から指示が……」

 

「見せて」

 

カルテを確認し、いくつか指示を出す。佐藤は何度か頷き、「分かりました」と席へ戻っていった。

 

いつもの病棟。いつもの仕事。患者さん、看護師、医師、リハビリスタッフ。電話、記録、申し送り。何も変わらない。

 

給与に不満があるわけではない。人間関係に疲れたわけでもない。看護師という仕事が嫌になったわけでもなかった。むしろ私は、この仕事が好きだったのだと思う。

 

気がつけば後輩を育てる立場になり、医師と看護師の間に立って話を通すことにも慣れた。患者さんが何を言いたいのか、医師が何を伝えようとしているのか、新人がどこでつまずいているのか。そういうものを察するのも、いつの間にか得意になっていた。

 

だからこそ、辞める理由なんて本当はなかった。

 

それでも、ロッカーの奥には一枚の封筒が入っている。白い封筒。中身は退職届。今日、出すつもりだった。

 

いや。今日でなければ、いつ出すのだろう。

 

私は小さく息を吐いた。

 

十六年前。

 

雨宮吾郎が、いなくなった。

 

それが私の人生に、妙な癖を一つ残した。

 

雨宮吾郎。同僚だった。医師と看護師。それ以上でも、それ以下でもない。……まあ、多少気の置けない同僚ではあったけれど。

 

仕事の合間に、どうでもいい話をする。休憩時間に屋上へ行けば、いつの間にかいる。そしてこちらが聞いてもいないのに、アイドルの話を始める。

 

「だからですね、アイっていうのは――」

 

「先生」

 

「はい?」

 

「仕事中ですよ」

 

「いや、これはですね。医療従事者としても重要な――」

 

「嘘ですよね」

 

「なぜそうなるんですか!」

 

「ロリコンだからです」

 

「それはあまりにも酷くないですか!?」

 

……今思えば、よくあんなくだらない話をしていたものだ。

 

女たらしなのも、見ていればなんとなく分かった。妙に気が利くくせに、人との距離が近い。こちらが警戒しているのも気にせず、いつの間にか会話の中へ入り込んでくる。

 

だから、警戒はしていた。

 

「先生、患者さんじゃなくて女の子ばかり見てません?」

 

「そんなことないですよ!」

 

「じゃあ何を見てるんです?」

 

「人間の可能性を」

 

「便利な言葉ですね」

 

そんなやり取りもした。

 

けれど、仕事となれば真面目だった。患者さんのことになると妙に熱くなる。普段の軽薄さが嘘みたいに、患者のためなら面倒なことにも首を突っ込む。

 

だから私は、呆れていたし、毒も吐いたし、時々本気で面倒くさいと思っていた。

 

それでも、話していて楽しい人ではあった。頼りになる同僚でもあった。

 

仕事が終われば、「お疲れ様です」「お疲れ様でした」と言って別れる。それが当たり前だった。

 

だから、あの日。

 

言えなかった。

 

「お疲れ様です」

 

たった、それだけ。

 

いつもなら何でもない一言だった。

 

なのに、その一言が十六年経った今でも、喉の奥に小骨のように引っかかっている。

 

雨宮吾郎がいなくなった後、私は森へ行くようになった。

 

理由は、今でもよく分からない。

 

誰かに頼まれたわけでもない。警察から探してほしいと言われたわけでもない。ただ、病院の周囲を探しているうちに、気がつけば森へ足を向けるようになっていた。

 

一度、二度、何度も。

 

「まだ探してるの?」

 

最初の頃は、同僚にもそう言われた。

 

「先生、もう見つからないんじゃない?」

 

「そうかもしれませんね」

 

「じゃあ、なんで行くの?」

 

「……さあ」

 

本当に、自分でも分からなかった。

 

最初は休みのたびに森へ入った。そのうち月に何度かになり、二、三か月に一度になり、最後には半年に一度くらいになった。それでも、やめなかった。

 

新人に「師長って森ガールなんですか?」と言われたときには、さすがに笑った。

 

「違うわよ」

 

「でも、山道すごく詳しいですよね」

 

「昔から歩いてるから」

 

「何を探してるんですか?」

 

「……昔の知り合い」

 

そう答えて、それ以上は言わなかった。

 

知っている人間も、年々減っていった。

 

恋愛もした。医師から食事に誘われたこともあるし、付き合ったこともある。けれど、どういうわけか最後には自然消滅した。

 

踏ん切りがつかなかった。

 

何に対してなのか、自分でも分からなかった。

 

気がつけば院内では「お局様」と呼ばれていても不思議ではない年齢になっていた。陰で何を言われているかなんて知らない。

 

「昔の男でも探してるんじゃない?」

 

そんな噂くらいは、あったかもしれない。

 

……少し当たっているのが、何とも言えない。

 

でも、吾郎先生は私の「昔の男」なんて呼べるような相手ではなかった。あんな人を男として見ていたら、それこそ本人に「ロリコン」と言う資格がなくなる。

 

そう思うと、少しだけ笑えた。

 

私は仕事を続けた。

 

新人を叱った。困っていれば助けた。患者さんの話を聞いた。医師に伝えた。医師の意図を看護師に伝えた。リハビリスタッフとの調整もした。

 

気がつけば、私は看護師長になっていた。

 

「師長って、人の話を聞くの上手ですよね」

 

ある新人に、そう言われたことがある。

 

「そう?」

 

「はい」

 

私は少し考えた。

 

「……昔、話すのがやたら上手い人がいたから」

 

「誰ですか?」

 

「ロリコン」

 

「え?」

 

「なんでもない」

 

どこかの誰かを見て、話すということを覚えた。人の懐へ入るのが上手かった。くだらない話をするのも上手かった。それが仕事に役立つとは、当時は思わなかったけれど。

 

我ながら、よく頑張ったものだ。

 

森へ行くと、いつもカラスがいた。

 

春でも、夏でも、秋でも、冬でも。どこかで鳴いている。

 

カア。

 

カア。

 

まるで、「まだ探してるの?」と笑われているようだった。

 

時々、そんな馬鹿なことを考える。

 

――君は、その役じゃない。

 

そんなことを言われているような気がする。

 

もちろん、ただのカラスだ。意味なんてない。

 

……ないはずだ。

 

その日も、ナースステーションで仕事をしていると、佐藤が声をかけてきた。

 

「師長」

 

「なに?」

 

「警察から連絡がありました」

 

「警察?」

 

嫌な予感がした。

 

「病院の裏手の森で……白骨化した遺体が見つかったそうです」

 

手が止まった。

 

「……白骨?」

 

「はい。撮影に来ていたアイドルの方たちが見つけたそうで。当時の状況を知っている人から話を聞きたい、と」

 

頭の中で、何かがカチリと噛み合った。

 

十六年前。

 

雨宮吾郎。

 

森。

 

私は、ゆっくり息を吐いた。

 

規制線の前に立つ。

 

黄色いテープ。制服姿の警察官。見慣れた森。

 

けれど、十六年前とは何もかもが違って見えた。

 

私は当時のことを話した。覚えていること。彼が最後に見られた場所。当時の捜索。自分が何度もこの周辺を歩いたこと。

 

警察官が尋ねる。

 

「この辺りは、当時も探しましたか?」

 

「はい」

 

私は答えた。

 

「何度も」

 

「この場所は?」

 

私は周囲を見た。

 

「……ここも」

 

記憶を辿る。

 

「通ったはずです」

 

自分でも不思議だった。

 

「何回も」

 

なのに、見つからなかった。

 

どうして。

 

何が、私の目から隠れていたのか。

 

私は空を見上げた。

 

カラスはいなかった。

 

静かだった。

 

あれほど鳴いていたのに。

 

「……今日は、鳴かないんですね」

 

誰に言ったのか、自分でも分からなかった。

 

捜査と確認が終わった。身元確認も進み、規制線も外れた。

 

私はもう一度、その場所へ向かった。

 

何をするのか。

 

もう決めていた。

 

私は目を閉じ、軽く頭を下げる。そして。

 

「――先生」

 

十六年前、途中で終わったカンファレンスの続きをするように、言葉が出てきた。

 

「担当していた患者さん。無事に退院しましたよ」

 

返事はない。

 

「引き継ぎも、ちゃんと済ませました」

 

風が吹いた。

 

「十六年も経ちましたから。色々変わりました」

 

少し笑う。

 

「私なんて、今や看護師長ですよ」

 

胸を張る。

 

「……ああ、そうそう」

 

少しだけ、昔の調子に戻る。

 

「今は『婦長』って言わないんですよ」

 

くだらない。

 

本当に、くだらない話だ。

 

でも、そういう話をできる相手が、十六年間いなかった。

 

だから、言いたかった。

 

「それと」

 

少しだけ声が止まる。

 

「アイさんは」

 

私は息を吸った。

 

「無事に、ご出産されました」

 

返事はない。

 

「気になっていたでしょう」

 

風が木々を揺らした。

 

「ずっと、気にしていましたものね」

 

私は微笑んだ。

 

「もう、大丈夫ですよ」

 

それから、深く頭を下げる。

 

「お疲れ様でした、先生」

 

十六年遅れの、いつもの挨拶。

 

それだけだった。

 

帰り道。不思議なくらい、足取りが軽かった。

 

悲しくないわけではない。何かが消えたわけでもない。ただ。

 

もう、探さなくていい。

 

そう思えた。

 

彼なら、きっと自分でその先を調べる。そういう人だった。

 

大切な人のところへ。大切なもののところへ。

 

ちゃんと辿り着けばいい。

 

私は森を振り返らなかった。

 

病院へ戻る。

 

ロッカーを開ける。

 

奥から白い封筒を取り出した。

 

「……さて」

 

ナースステーションへ戻る。

 

佐藤が私の手元を見た。そして、目を丸くした。

 

「師長……それ」

 

「うん」

 

「まさか」

 

封筒には、『退職届』と書いてある。

 

「えっ」

 

佐藤の顔が固まった。

 

「ちょっと待ってください!」

 

周囲の看護師たちも振り返る。

 

「師長、冗談ですよね?」

 

「冗談じゃないわ」

 

「今月のシフト!」

 

「調整済み」

 

「来月のカンファレンス!」

 

「引き継いだ」

 

「新人教育!」

 

「あなたたちなら大丈夫」

 

「でも……!」

 

私は苦笑した。

 

「急に驚かせてごめんなさい」

 

「いつから決めてたんですか?」

 

「ずっと前から」

 

私は病棟を見渡した。

 

十六年。

 

長かった。

 

本当に、長かった。

 

でも、悪くない十六年だった。

 

「最後まで仕事はちゃんとしたかったから」

 

引き継ぎも、記録も、後輩への申し送りも、できることは全部終わらせた。

 

私は笑った。

 

「じゃあ、あとはよろしくお願いします」

 

「師長!」

 

背中から声が飛んでくる。

 

私は振り返らなかった。

 

有給休暇を使って、私は東京へ行くことにした。

 

目的は、特にない。

 

強いて言えば、最近若い子たちが話している「推し活」というものを、一度くらいやってみようと思った。

 

十六年間、誰かを探すことに使った時間。

 

今度は、自分のために使ってみよう。

 

そう思った。

 

そのときは、それで十分だと思っていた。

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