ある看護師が辞めた話 作:レイ膝
元看護師が辞めた話
引き継ぎを済ませた。退職届も出した。有給休暇の予定も立てた。見事なまでに、飛ぶ鳥跡を濁さず。
「……うん」
東京の街を歩きながら、私は一人で頷いた。これなら、あのカラスも褒めてくれるだろう。
――よくやった。ようやく辞めたか。これで森をうろうろする理由もなくなったな。
「……って、何考えてるんだろ」
思わず苦笑する。言う相手もいないのに。
十六年間、私は随分と一人で喋るようになった。正確には、心の中で誰かに話しかける癖がついたのだろう。あの森で、いつも頭上から鳴いていたカラスにまで、勝手に意味を持たせていたくらいなのだから。
「……我ながら面倒ね」
もちろん、返事はない。
東京へ来たのは、せっかく仕事を辞めたのだから、少しくらい遊んでもいいだろうと思ったからだ。若い子たちが楽しそうに話している「推し活」というものも、一度くらいやってみようと思った。
けれど、実際にやってみると、どうにもピンとこない。楽しくないわけではない。嫌いでもない。ただ、十六年間探していたものとは、やっぱり少し違う気がした。
そんなある日、ホテルのテレビから聞き覚えのある名前が流れてきた。
アイドル。ドーム公演。映画。そして――B小町。
私は画面を見つめた。名前そのものに覚えがあるわけではない。けれど、その名前の向こうにあるものに、どうしても引っかかる。
気になって少し調べてみた。メンバーの名前、経歴、過去の写真。その情報を追っているうちに、十六年前の記憶が蘇った。
病院で見た、あの小さな命。
「あの子たち……なのかしら」
もちろん、確信なんてない。十六年も経っている。私にとっては十六年だ。雨宮吾郎がいなくなってからの十六年。森を歩き続けた十六年。
けれど、彼らにとっては――十五年。
その違いが、妙に胸に引っかかった。
私は十六年を「探す時間」として過ごした。けれど彼らは、その十五年を彼ら自身の人生として生きてきた。同じ時間の中にいたはずなのに、歩いてきた道はまるで違う。
「……まあ」
私はスマートフォンを伏せた。
「私には関係ない話よね」
そう言い聞かせる。それでも、映画の広告を見ていると妙に覚えがある。
「あ」
そういえば。
辞める前、誰かに話を聞かれた。十六年前のことについて。私は断った。あの頃は、まだ話す気になれなかったのだ。
「……映画、か」
気がつけばチケットを取っていた。そして、ドーム公演のチケットまで取っていた。
「何してるんだろ、私」
自分でも呆れた。
まあ、せっかくの休みだ。映画を見て、ドーム公演に行って。それくらいしたって罰は当たらないだろう。
映画を見た。
劇場を出ると、周囲では観客たちが感想を話していた。泣いている人もいる。私はその輪から少し離れたところで、しばらく何も言わなかった。
当事者ではない。私はただの看護師だった。物語の中心にいたわけではない。
それでも、十六年前の病院を知っている。あの頃の空気を知っている。だから、他の観客より少しだけ、「そうだったのか」と思えることがある。
「あの子達が……」
小さく呟く。
十六年前、病院で見た小さな命。そして今、スクリーンの中にいる彼ら。
「……大きくなったわね」
自分でも妙な言葉だと思った。
私は十六年を知っている。けれど、彼らの十五年は知らない。だからこそ、映画の中に描かれたものを見ても、知っているようで何も知らない。その距離が、かえって不思議だった。
映画を見た。けれど、何かが劇的に変わるわけではなかった。
私は私。元看護師。森を十六年間歩いた女。それだけだ。
ドーム公演まで、まだ時間がある。することがない。私は何となく海へ向かった。
東京の海は、人が多く、建物が多く、どこか騒がしい。私はしばらく水面を眺めていた。
これから、どうしよう。
看護師を辞めた。森へ行く理由もなくなった。推し活も、思っていたほどしっくりこなかった。
「……何にも考えてなかったな」
十六年間、私はずっと何かを探していた。見つかったら、きっと次がある。そう思っていた。
でも、見つかった後のことなんて、何も考えていなかった。
「……東京も、もういいかな」
そう思った、その瞬間だった。
視界の端で、人影が動いた。
二人。
「……?」
次の瞬間、大きな水音がした。
二人が海へ落ちた。
「――!」
考えるより先に、私は走っていた。
海は冷たかった。服が水を吸って、一気に身体が重くなる。頭では分かっている。自分まで飛び込むべきではない。まず通報。救助要請。安全確保。
それでも、目の前に人がいる。
身体が動いた。
私は泳いだ。
一人が水面に見えた。もう一人は見えない。今は一人を助けるしかない。
意識がない。
重い。
思っていた以上に重かった。
「……っ!」
腕が痛い。息が苦しい。自分まで危ない。そんな考えが頭をよぎる。
それでも、離さない。
転落した場所が埠頭に近かったのは幸運だった。私は何とか青年の身体を岸へ寄せ、引き上げた。倒れ込みそうになる。けれど、まだ終わらない。
意識はない。けれど、呼吸はある。脈も触れる。看護師だった頃の判断が、ほとんど反射のように頭をよぎった。今は胸骨圧迫ではない。腹部からの出血を止める。私は傷口を圧迫した。
私は傷口を圧迫しながら、スマートフォンを取り出した。救急要請。場所。意識の有無。呼吸状態。出血。そして、もう一人が見つからないこと。
必要なことを伝え、電話を切った。
そこで、ようやく一息ついた。
身体が震えている。寒い。疲れた。興奮が引いて、自分の状態が分かってくる。
「……まずいな」
それでも、手は止めない。
そのときだった。
助けた青年の顔が目に入った。
「……あ」
見覚えがある。
映画で見た。写真で見た。
そして、十六年前。
吾郎先生を見つけてくれた子達。
その関係者として、以前調べたことがあった。誰が先生を見つけたのか。どうして調べたのか。今となっては、自分でも分からない。お礼を言うためでもない。会うつもりでもない。ただ、知りたかった。
そのとき見た顔と、今、目の前にある顔が重なった。
「……そう」
私は息を吐いた。
「あなた……吾郎先生を見つけてくださった方の……」
返事はない。もちろん、聞こえていないだろう。
「……映画、見たばかりなのに」
私は小さく笑った。
「気づくのが遅いのね、私」
十六年前、病院で見た赤ん坊。その子たちが、今、目の前にいる。
何かを感じる。それが何なのか、私には分からない。運命だとか、前世だとか。そんなことを考える余裕もない。
今は、この人を生かす。
それだけ。
「聞こえてます?」
返事はない。
「聞こえてなくてもいいです」
私は傷口を押さえ続けた。
「ありがとうございます」
少しだけ笑う。
「何のことか分からないでしょうけど」
私は海を見る。
「私、ずっと踏ん切りがつかなかったんです」
違う。
私は言い直した。
「……踏ん切りがつかなかったんじゃないですね」
何かを探すことで。何かを終わらせないことで、自分の人生を少しだけ止めていた。
「ただの自己満足で、人生を使っていたのかもしれません」
そして、目の前の青年を見る。
「でも」
私は笑った。
「あなた達に、助けてもらったみたいです」
もちろん、彼は答えない。
「だから、お相子ですね」
遠くからサイレンが聞こえた。
「何があったのかは知りません。でも」
音が近づいてくる。
「命を大事にしてくださいね」
私は微笑んだ。
「生きてください」
言わなかった。
――お疲れ様。
それはまだ早い。
この人には、まだこれからがある。
そのとき、頭上からカラスの声が聞こえた。
カア。
カア。
いつもの声より、ずっと慌てているように聞こえる。
私は空を見上げた。
「……何よ」
もう一度。
カア。
「今さら心配してるの?」
もちろん、返事はない。
けれど、少しだけ懐かしかった。
サイレンが近づく。人の声がする。
そして私は、力を抜いた。
目を覚ますと、白い天井だった。
「……また病院」
思わず呟く。
どうやら低体温と疲労で倒れたらしい。幸い、大きな問題はなかった。
そして、人づてに聞いた。
助けた青年は、生きている。
「……そう」
それだけだった。
けれど、胸の奥が少しだけ軽くなった。
後になって、家族の人から礼を言われた。その中に、妙齢の女性がいた。
私は一瞬、思った。
――吾郎先生。
こういう人、好きだっただろうな。
本当に。昔から。
しょうもない人だった。
「……あの人、十六年前から変わってませんね」
もちろん、ここにはいない。
私は少し笑った。
そして、礼を受け取った。
彼本人には、会わなかった。
会わなくていい。
私に時間を使うより、彼には彼自身の人生がある。
それでいい。
退院の日。
私は病院の玄関を出た。
外の空気を吸う。
そこで、ふと思った。
人を助けることが、嫌いではなかった。むしろ、嬉しかった。
看護師を辞めたばかりなのに、私はまだ人を助ける仕事がしたいと思っている。
「……因果なものね」
アラフォー。
今さら、また看護師に戻るのもどうかと思う。それに、せっかく新しい人生を始めるのだから、別の形でもいい。
私はスマートフォンを取り出した。
看護師として働きながら勉強した心理学。資格も、必要な要件を満たして取ってある。けれど、結局それを仕事として使うことはなかった。
「……相談員、か」
人の話を聞く。一人で抱え込んでいる人に寄り添う。必要なら、医師や心理職、福祉職につなぐ。
自分一人で解決しようとしない。
それなら、看護師として積み重ねたものも無駄にはならない。
私は求人サイトを開いた。相談員。相談支援。医療。福祉。いくつか検索する。
「……あるじゃない」
思ったより、選べる。
まだ。
私にも、次がある。
私は画面を眺めながら笑った。
「自分への言及が、少しは減るかしらね」
そのとき、ふと視界の端に少女がいた。
美しく、けれどどこか淡い髪。カラスの羽を思わせる艷やかさ。
少女は私を見ると、深々と頭を下げた。
私は少し驚いた。病院関係者の大人とでも思ったのだろうか。
私は軽く会釈を返す。
少女が顔を上げた。
目が合った。
初めて見るはずなのに、なぜか、どこか懐かしい。
そんな気がした。
けれど、私はそれ以上考えなかった。
人には、それぞれの人生がある。
私にも。この子にも。そして、十六年前にいなくなった、あの人にも。
私はもう、誰かを探すためには歩かない。
今度は、自分が何をしたいのか。それを探すために歩こう。
私はスマートフォンを見る。保存した求人。その一番上を開いた。
「……まずは、話を聞きに行ってみようかな」
呟いて、私は歩き出した。
東京の街を。
今度は誰かを探すためではなく、自分の次の居場所を探すために。
空を見上げる。
カラスは、鳴かなかった。
それでいい。
もう、私に何かを教える必要はないのだろう。
私は歩き続けた。
今度こそ。
自分の人生を探すために。
アニメでの慇懃無礼敬語から看護師長になるくらい成長してるので口調は変わるだろうなと思い。少し残す感じに変えてます。
アイのお母さんみたいに過去にとらわれてるけど、さりなちゃん程では無いですが、ゴロー先生との出会いは強さに変えれる出会いだったかなと。考えてみればアイとの出会いが薄ければ薄いほど、自分を推して生きていく決断が出来る人多い気が(MEMちょとか)…こっからまだまだ心の傷の癒えない星の子とカウンセリングするかもしれないし、子供部屋おじさんな映画監督とかの相談を受けるかもしれない。
そんなif話
こういう救いはダメですか