トムは思わず手元の手紙を二度見した。
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ホグワーツ魔法魔術学校
校長 セブルス・スネイプ
マーリン勲章、勲二等、魔法省魔法薬研究顧問、国際魔法薬学連盟会長
親愛なるブライト殿
このたび、貴殿のホグワーツ魔法魔術学校への入学がめでたく許可されましたことを、心よりお喜び申し上げます。教科書並びに必要な教材のリストを同封いたします。
新学期は九月一日に始まります。
七月三十一日必着で、ふくろう便でのお返事をお待ちしております。
敬具
副校長 ベラトリックス・レストレンジ
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文字は変わらなかった。
紙を傾けても、瞬きをしても、ダンブルドアやマクゴナガルの名前はなかった。
「驚くのも無理はない」
向かいの青年が、穏やかに言った。
数分前、彼は「闇の魔術に対する防衛術」の教師、バーテミウス・クラウチ・ジュニアと名乗った。
トムは手紙から顔を上げ、改めて青年を観察した。
明るい色の髪をきちんと撫でつけ、仕立てのよい灰色の背広を着ている。
年齢は三十歳前後だろうか。長い指にも、磨かれた革靴にも、清潔で几帳面な印象があった。
孤児院を訪れる役所の人間より、よほど役所の人間らしい。
彼は薄い唇に人を引きつける魅力的な笑みを浮かべ、安心させるような声色で続けた。
「自分が魔法使いだと知らされて、すぐに受け入れられる子は少ない。だが、君には心当たりがあるはずだ。普通では説明できないことが、身の回りで起きたことは?」
「……えっと、何度かあります」
「そうだろうね」
クラウチはその答えに満足そうに頷いた。
応接室の窓の向こうでは、年下の子供たちが庭でボールを蹴っていた。
赤いボールが花壇に飛び込み、誰かが叫ぶ。
「ホグワーツでは、君はもう自分を隠す必要がない。同じ資質を持つ子供たちと寝起きし、決まった時間に食事を取り、規則正しい生活を送る。最初は戸惑うだろうが、すぐに何をすべきか分かるようになるよ」
彼は机の上の許諾書を、トムのほうへ少し押した。
「君たちのように、魔法使いの家庭に育たなかった子には、特別な課程が用意されている。魔法社会の習慣から、能力の扱い方、将来の生活に必要な仕事まで、一つずつ身につけられる」
「仕事、ですか」
「誰にでも役割があるからね。魔法界の就職事情は明るい。売り手市場だ。卒業後の居場所についても、学校が面倒を見るから、衣食住の心配をせずに暮らせるんだ。君には、特にありがたい話ではないかな」
孤児院の日に焼けたカーテン。
綿のはみ出した長椅子。
机の脚に挟まれた、がたつき止めの厚紙。
青年の視線がそれらを通り過ぎた。
「必要な物は支給される。保護者に費用を請求することもない。院長先生にも、その点は安心していただいたよ」
院長は、別室でほかの書類を確認している。
子供にも心の準備が必要でしょう、と二人きりで話すことを提案したのは、この青年だった。
「さあ。あとは許諾書に君が署名するだけだ」
差し出された羽ペンを、トムは受け取った。
それは人生を決める道具としては軽すぎるように思えた。
*
不思議なことに、トムには前の人生の記憶がある。
どうして生まれ変わったのかは覚えていない。
ただ、気がつけば赤ん坊で、周りは英語らしき言語で会話しており、英検準2級の力で辛うじて自分の両親が事故で無くなり、自分だけが生き残ったことを理解した。
その後は、この孤児院で十一年間暮らしてきた。
大人の記憶があったため、子供同士の付き合いも比較的うまく立ち回れた。
靴紐を結び方や算数を教え、夜中に泣き出した子の話を聞いているうちに、いつの間にか年下の連中をまとめる役になっていた――もっとも、相手が子供とはいえ、頼られるのは悪い気分ではなかった。
不思議な力に気づいたのは、六歳の頃だった。
自分の靴下を洗うのが億劫だと思った次の瞬間、靴下がひとりでに冷たい石鹸水の中で踊り始めたのだ。
最初は、子供の体になってしまったせいで幻覚でも見たのか、単なる錯覚か、それとも自分がいよいよ狂ったのかと思った。
しかし、ジャガイモを剥いていればジャガイモが恥ずかしそうに皮を脱ぎ、紙飛行機を飛ばせば明らかに物理法則に反して部屋の中を延々と飛び続ける。そんな光景をまざまざと見せつけられるうちに、嫌でも自覚せざるを得なくなった。
――自分には、超能力のような不思議な力が備わっている。
力を自覚した最初の頃は、そりゃあもう、第二の人生でとんでもない当たりくじを引いたと興奮したものだ。
しかし、力を使う練習を重ねるうちに、それがひどく気まぐれであることに気がついた。
瞬きするだけで物が動くこともあれば、いくら睨んでも何も起きないこともある。
怒った拍子に窓にひびを入れたときには、便利さより先に修理代の心配をした。
――諦めきれずに五年練習した今でも、せいぜいコップを三十センチほど、安定して浮かせられるかどうかという程度だ。
学園都市だったらレベル2ぎりぎりってところだろうか? とてもじゃないが実用的じゃない。
それに、仮に自由に使えたとして、それでどうしろというのか?
テレビ局に売り込むか、研究者に調べてもらうか?
しかし、前の世界の記憶を頼りに考えると、どうも1990年代のイギリスで自分の人権が完璧に守られるとは、そこまで信じきれなかった。
万が一、実験動物みたいになったら?
そもそも、特殊能力に目覚めたからといって、それが自分だけだと、なぜ断言できるのか?実は、社会の裏で魔術と科学が交差したり、闇の秘密結社と正義の超能力学園がバトルしたり、超古代人が覚醒してバイクで爆走していたりしたらどうする?
この程度の能力でどう太刀打ちするというのだ?
それだったら、そもそも能力なんてものは忘れて、表の世界だけで生きていくのもいいのではないか?
幸い、この世界は前の世界と瓜二つだった。
国の名前も、店に並ぶ商品も、古いテレビから流れる音楽も知っている。
多少の記憶違いはあっても、暮らしていて大きな矛盾を感じたことはない。
だったら、無理に超能力を使う必要もない。
働けるようになったら金を貯めて……
ソ連崩壊をどう利用すればいいかは思いつかないが、マイクロソフトや、いずれ登場するNVIDIAの株を買えばいい。もっと先にはビットコインもある。
細かい値動きは忘れていても、これから四十年近くの間に世界がどう動くか、その知識があるのだ。いくらでも稼げるだろう。
少し危険だが、ユーチューブの最初の波に乗るのもいい。
異世界帰りのおじさんよろしく能力を使って、種のない手品を披露するのだ。種明かしを求められたら、企業秘密です、と笑えばいい。
そんなふうに将来を設計し、孤児院のガキンチョたちの相手に無双し、六歳のスージーに「将来はお嫁さんになる」と告白されたりもして、それなりに新しい人生を謳歌していたところに――その手紙は届いたのだ。
*
まじかー、この世界、ハリポタだったかー。
トムは羽ペンを握り直しながら考えた。
設計していた人選プランがガラガラと崩れる音が脳内に響く。
無論、トムもかの世界的な児童文学を読んだことがある。
細部まで原作を暗記しているわけではない。
呪文だとか、細かい設定だとかは忘れかけている。
それでも、中学生のときに図書室で三週間も貸し出しを待ち、ようやく手に取った魔法の世界の物語を徹夜で読んだ、あの興奮は今でも忘れられないし、この手紙を十数年待ち続けたもう一人の自分が心になかに住んでいて、例の魔法学校へ入学しない手はないように思えた。
だが、それへ歯止めをかけるのが手紙の内容だ。
まず、なんと、あのセブルス・スネイプ先生が校長と来た。
セブルス・スネイプ。
ホグワーツで魔法薬学を教えていた、陰気で皮肉屋の先生だ。
ハリーにはやたらと当たりが強く、初めて読んだときには、こいつが黒幕だろうと何度も疑った覚えがある。
実は元は死喰い人でありながら、ダンブルドアに協力してヴォルデモートを欺き続けた二重スパイ。
その根底にあったのは、ハリーの母親、リリーへの想いだった。
彼女を救えなかった後悔を抱え、その息子を陰から守り続けた男。
最後まで読めば印象がひっくり返る、あの先生である。
もっとも、事情を知ったからといって、自分が彼の授業を受けたいかは別問題だ。
実験で失敗するたび、鼻で笑われながら減点される学校生活は、できれば遠慮したい。
それでも、味方なら頼もしい人物ではある。
原作でも最後のほうで校長にはなっていたはずだが、いくら何でも早すぎないか?
まあ、仮に自分が生まれたバタフライ効果でダンブルドアが引退し、ゲラート・グリンデルバルドとドイツの田舎で腐女子歓喜仲良くよろしくやっていて、マクゴナガル先生も校長就任を辞退した、みたいな流れで彼が校長になったとしよう――それでも万に一つあるかないか以下の確立だが…
そんなわずかな可能性を吹き飛ばすのが手紙の署名だ――副校長ベラトリックス・レストレンジ。
第五巻でハリーの名付け親、シリウス・ブラックを殺した女だ。
残忍で、ヴォルデモートに心酔した死喰い人筆頭。
この時代にはアズカバンで冷や飯を食っているはずの女の名前が、なぜか堂々と教育を預かる責任者として載っている。
冗談にしても、人選が悪すぎる。
マクゴナガルはどうした? ダンブルドアは何をしている。ハリー・ポッターは?
頭の中でそんな考えがぐるぐると巡り、浮かんでは消えて、ひどく混乱した。
「何か、気になることでも?」
そう言われて、トムは顔を上げた。
クラウチ・ジュニアは相変わらずの笑みを浮かべ、こちらを優しく見つめている。
もちろん、彼の名前にも覚えがある。
原作第四巻、『炎のゴブレット』で教師になりすまし、一年がかりでハリーを罠に誘い込んだ死喰い人。
悲惨な末路を迎えたが、ヴォルデモートの復活に馬鹿でかい貢献をした忠実な配下だ。
そんな彼がホグワーツの教師?
「……ここを出たら、休みには帰ってこられますか」
「外出や面会は、課程と習熟度に応じて許可される」
「えっと、でも急に孤児院を離れるなんて……」
「別れがつらいのは最初だけだ。新しい生活に集中すれば、過去を振り返る必要もなくなる」
「はぁ……」
そもそも、この許諾書ってやつは何だ?
原作では手紙と、あとは教科書や持ち物のリストだけではなかったか?
許諾書には、細かい文字が隙間なく並んでいた。
教育上必要とされる措置への包括的同意。
身元情報の適切な管理。
適性に応じた進路指定の受諾。
普通の子供には理解が難しい内容だ。
読んでいると、クラウチの指が署名欄を叩いた。
「難しく考えることはない。
君ぐらいの年頃の子が、みんな済ませている手続きだよ」
「院長先生と、もう一度相談しても――」
「先生の承諾は得ている」
「ミスター・クラウチ……」
トムは確信こそ持てなかったが、何となく、目の前の人物を信じられないと感じた。
明確な理由はなかった。
あるとしたら、ハリポタ世界の知識だろう。
しかし、創作の世界へ転生したと考えること自体がばかばかしい。
現実が何もかも小説の中の出来事に沿っているなんてことはあり得ないだろうし、この世界ではクラウチ・ジュニアとベラトリックスやホグワーツの名前が何かの偶然で重なっているだけで、彼らがとんでもない善玉的な人物なのかもしれない。
だけど、J・K・ローリングが列車の窓越しに眼鏡の少年を見かけ、偶然思いついたあの物語は、トムの中にあまりにも強く残っていた。
「すみません。今日は、決められません」
青年の笑顔が止まった。
ほんの一瞬だった。それでも、目の奥に浮かんだものは見えた。
子供を相手にした困惑でも、説得に疲れた大人の苛立ちでもない。
なぜ言いつけどおりに動かないのか。
そんな、冷たい不満だった。
「トム」
青年の右手が、机の陰で動いた。
「署名しなさい」
目の奥に、光が走った気がした。
――駄目だ。
トムはこの瞬間、やっとはっきりとそう思った。
しかし同時に、なぜかひどく安心した。
考えなくていい。
悩まなくていい。
名前を書けば、それで済む。
胸のつかえがほどけ、頭の中が柔らかい綿で満たされていく。
右手が動いた。
やめろ。
羽ペンの先が、インク瓶に沈む。
やめろって。
誰も押さえていない。
手首にも指にも触れられていない。
それなのに、自分の手を引き戻せなかった。
「そう。そこだ」
青年が優しく言った。
ペン先が署名欄の上へ移動する。
震える指先につられて、インクが一滴落ちた。
名前を書け。
違う。
名前を書けば楽になる。
誰か。
唇が動かなかった。
黒いペン先が、紙に触れる。
その瞬間、真横で空気が破裂した。
*
トムはソファごと跳ねた。
握っていた羽ペンが指を離れ、机の縁に当たって床へ落ちる。
誰もいなかった場所に、女が立っていた。
――それは赤い髪をしていた。
くたびれた外套。
そして、机越しの青年へ真っすぐ向けられた杖。
「その子から離れて」
クラウチはすでに椅子を引き、立ち上がっていた。
右手には、細い杖がある。
「リリー」
彼は、思いがけず古い知人に会ったように微笑んだ。
「相変わらず、訪問の礼儀を知らないらしい」
リリー。
トムは女の横顔を見上げた。
頬はこけ、目の下には隈があった。
息が少し荒い。こちらを一瞬だけ見た瞳は、鮮やかで印象的な――緑色だった。
リリー? まさか、リリー・ポッター……。
まだ頭がうまく回らず、トムはそのエメラルドグリーンの魅力的な瞳を見つめ、ぼんやりとそう思った。
原作では死んでいるはずの人で、主人公ハリーポッターの母親。
「諦めなさい、バーテミウス。この子はいただいていくわ」
「入学の手続き中だ。部外者に口を挟まれる筋合いはない」
「その子に、何をさせようとしていたの」
「署名だよ。見れば分かるだろう?」
彼女の肩越しに、青年がトムを見た。
「君も驚いただろう。だが、動かずに――」
「エクスペリアームス!」
赤い光が走った。
クラウチの前で光が弾け、机が横倒しになった。インク瓶が砕け、黒い染みが絨毯へ広がる。
トムの襟首が引かれた。
リリーに引き倒されたトムの頭の上を、次の閃光が通過する。
背後の本棚が轟音を立てた。
「伏せて!」
言われるまでもなかった。
トムは床に這いつくばった。
クラウチが杖を振る。
リリーが短く呪文を唱える。
耳のすぐ上で硬いものが割れるような音がして、頬に熱風が触れた。テレビで見た光の撃ち合いとは違う。
目で追えない。顔を上げることさえできない。
「子供のいる部屋で、先に仕掛けるとはね」
クラウチの声は、まだ落ち着いていた。
「君たちの正義には、いつも感心させられる」
リリーは答える代わりに杖を突き出した。
横倒しの机が滑り、クラウチへ突進する。
青年が半歩退いた。机は途中で二つに裂け、その間から白い光が飛んできた。
リリーの体が壁に叩きつけられた。
「っ……!」
それでも杖は下がらなかった。
彼女はトムの前へ戻り、次の一撃を受け止めた。
外で子供の悲鳴が上がる。
リリーの目が、窓へ動いた。
クラウチの杖先も、同じ方角へ傾き、緑の閃光が散った。
リリーが大きく腕を振ると、窓の前のソファがウサギのように跳ね上がった。
その背が弾け、中の綿が雪のように舞った。
すぐに次の呪文が来た。
リリーは受け止めきれず、片膝をついた。左の袖が裂け、手首へ血が流れた。
トムは床に爪を立てた。
何か動かせ。
椅子でも、本でも、あいつの杖でも。
近くに落ちた本が、わずかに震えた。
それだけだった。
「無理をするな、リリー」
クラウチが瓦礫を踏み越えた。
「君を殺すなというご命令は、今でも有効だ。命の心配はいらない」
杖先は、彼女の顔を狙っていた。
「もっとも、五体満足でお連れしろとは言われていないが」
リリーが杖を振り、床に散った木片が舞い上がった。
クラウチは腕を払った。木片は彼の前で勢いを失い、ぱらぱらと落ちる。
「セブルスは喜ぶだろうな」
青年の笑みが深くなった。
「君を引き渡せば、あの男にも大きな貸しができる。今日はついているよ。子供を一人迎えに来ただけで――」
「黙れ」
リリーの呪文が、彼の頬をかすめた。
背後の壁に穴が開いた。
クラウチは指先で頬に触れ、そこについた血を眺めた。
笑みが消えた。
次の一撃で、リリーの防御が砕けた。
彼女は後ろへよろめき、トムのすぐそばに膝をついた。
呼吸が苦しげに途切れる。それでも杖先だけは、青年から離れなかった。
左手が、トムの目の前に差し出された。
「私の手を取って」
血のついた手だった。
「動くな、トム!」
クラウチが怒鳴った。
トムの肩が跳ねた。
「その女はテロリストだ!
魔法省に指名手配されている闇の魔法使いだぞ。
ついていけば、二度と表の世界へは戻れない!」
開いた窓の向こうで、誰かがトムの名前を呼んでいた。
院長の声だった。
ここに残れば。
目が、床の許諾書を捉えた。
署名欄には、自分の名前の代わりに黒い染みがあった。
――どうするどうするどうする
トムの体は震えていた。
前世ではこんな修羅場を経験したことなどなかった。
戦闘なんてものはテレビやコンピューターか、またはゲーム機の中の出来事だった。
ここでとっさにどう決断しろと!?
世界がまるでスローモーションのかのようにゆっくり動くように感じる。
どくりどくりと心臓が強く鳴る。
窓の近く、緑の閃光で散らばったソファを見る、雲の子を散らすように逃げていく子供たちを見る。
あの男はは今、何をしようとした?
「その手を取るな。ここの連中がどうなってもいいのか」
クラウチの声が低くなった。
「信じて!!」
リリーと呼ばれた女性は必死に叫んだ。
リリー・ポッターは、死んでいるはずだった。
ベラトリックスが副校長をしているような世界で、自分の記憶がどこまで通じるのかも分からなかった。
それでも、覚えている。小説で、映画で、ゲームで、それは記憶に焼き付いている。
息子の前に立ち、最後までどかなかった母親を。
その人が今、自分の前で血を流している。
――ならば、信じるべきはどっちなのか。
ええい、J・K・ローリング様、私に加護を。
トムは、差し出された手を握った。
驚くほど、強く握り返された。
次の瞬間、怒号がさく裂したかと思うと、クラウチが杖を突き出した。
が、その呪文が届くよりも先に世界が潰れた。
胸も、頭も、手足も、見えない帯に締め上げられる。
息を吸えない。床が消える。遠くで、青年はまだ何かを叫んでいた。
トムはただ、掴んだ手を離さないことだけを考えた。
*
呪文は、誰もいなくなった壁に命中した。
漆喰が崩れ、静かになった応接室へ落ちた。
クラウチはしばらく、二人が消えた場所を見つめていた。
廊下では足音が近づいていた。
女の声。子供の泣き声。誰かが警察を呼べと言っている。
彼は杖を下ろした。
背広の肩に白い埃が積もっていた。袖にも、襟にも。
一つずつ、丁寧に払い落とす。
靴の先に、羽ペンが触れた。
クラウチはそれを拾い、折れ曲がった先端を確かめると、床の許諾書へ放り投げた。
「……今年は、一人ぐらい譲ってやるよ」
鼻を鳴らした。
返事をする者はいなかった。
彼は内ポケットから次の封筒を取り出し、宛名を確かめた。
それから舌なめずりをし、杖を構えながら応接室を出た。
先に、ここの後始末から始めよう。