船の生活に変化が訪れたのは、話をしてから数日後のことだった。
正直なところ、もっと先だと思っていた。
実際にソ連が崩壊するまで、まだ半月以上ある。何かが変わるとしても、クリスマスが明けてからだろう――そう考えていたのだが、歴史の教科書に載る日付まで、世の中が律儀に待ってくれるわけではないらしい。
まず、料理が変わった。
いつもの煮込みに代わって、キャベツの入った温かいスープが出た。小ぶりな団子のようなものには肉が包まれ、酸味のある白いクリームが添えられている。翌日には、肉や野菜を詰めたパンが並んだ。
食堂で聞いた名前は、ペリメニにピロシキ。
ロシア料理だった。
「そっちは中、何が入ってる?」
ロンがネビルの手元を覗き込んだ。
「僕のは肉。そっちは?」
「キャベツ」
トムも、自分のパンを一口かじってみた。
中身は、ゆで卵だった。
それを知ったロンは、パンが積み上がった大皿を、畏怖を込めた表情で見つめた。
「百味ビーンズパンってことか」
向かいでは、ラベンダーが口元へ運びかけたパンを止めた。
彼女は真剣な顔でパンを割り、中身が鼻くそではないことを慎重に確認した。
次に、廊下の隅へ木箱が積まれるようになった。
箱は次々と空いていた部屋へ運び込まれ、その部屋は数日のうちに倉庫になった。
箱の文字は英語ではなく、トムには読めなかったが、ロシア語のように思えた。
早速グリンデルバルドに、例の情報が役立ったのかと尋ねると、彼は空でなくなった薬瓶を棚へ戻した。
「役立ったかどうかは、マクゴナガルにでも聞きたまえ。私は仕入れの報告を受ける立場ではないのでね」
それ以上は答えてくれなかった。
ただ、その日の口ぶりは、いつもより少し機嫌がよさそうだった。
*
その休日の早朝、ほとんど人がいない食堂で朝食を取り終えたトムは図書室へ行って時間を潰すつもりだった。
特訓の結果、閉心術はともかく、早起きが体に染みつき始めた。
授業の課題は済ませてあるし、ロンやネビルが起きてくるまで、少し本でも読もう。
そう考えていた。
「おう、トムじゃねえか!」
廊下の先から、大きな声がした。
振り向くと、ハグリッドが手を振っていた。
分厚い外套を着て、片手に桃色の傘を持っている。
近づいてきた顔は、少し赤かった。
「いいとこで会ったな。暇か?」
「図書室に行こうかと」
「本は逃げねえよ。どうだ、外の風に当たりたくねえか?」
トムは足を止めた。
「外ですか?」
「ああ。ちょいと荷物を運ぶんだ。つき合ってくれよ」
確かに、昨日船が浮上すると聞いていた。
しかし、それは自由に外へ出ていいという意味ではないはずだった。
「僕も出ていいんですか。先生に聞かなくても」
「俺と一緒だ。どこへ行くわけでもねえ」
肩へ大きな手が置かれた。
息に、酒の匂いが混じっていた。
「でも、許可とか」
「細けえことは気にすんな。荷物のとこまで行って、戻るだけだ」
そのまま、進行方向を変えられた。
トムは数歩ついていってから、ようやく言った。
「上着を取ってきてもいいですか」
ハグリッドは、初めてトムの服装に気づいたように見下ろした。
「おっと。そいつぁ要るな」
そこは、細かいことではなかったらしい。
*
外へ出た瞬間、トムは息を詰めた。
冷たい、というより、痛かった。
頬と鼻がいっぺんに冷え、吸い込んだ空気が喉の奥へ刺さる。
慌てて襟元を引き上げると、ハグリッドが隣で笑った。
「いい風だろ」
風に対する評価基準が違う。
それでも、トムは顔を上げた。
灰色の空の下に、湖が広がっていた。
岸辺は白く、浅いところには氷が張っている。
船のそばだけ暗い水がのぞき、その向こうでは、雪をかぶった木々が細い幹を並べていた。
建物も、道を行く車も見えなかった。
木立の奥まで、ただ雪が続いている。
「ここ、どこですか」
「シベリアだとよ」
隣町のような調子だった。
トムは、もう一度湖を見た。
昨日まで、船倉の窓の向こうには暗い水があった。
それが今、シベリアの湖に浮かんでいる。
頭で理解するより先に、吐いた息が白く流れた。
渡し板を降り、岸へ踏み出す。
雪が靴の下で鳴った。
トムは二歩ほど歩いて、足元を見た。もう一度踏むと、また音がした。
「久しぶりか、陸は」
「はい」
ハグリッドは急かさなかった。
トムは手袋をはめた指を握り、遠くの木立を見た。
こんなに先まで見通せる場所に立つこと自体、久しぶりだった。
*
荷物は、その景色の中に、ぽつんと置かれていた。
木箱。樽。厚い布をかけた包み。
人影のない岸辺に、それだけが山になっている。
まるで、引っ越しの途中で家だけがどこかへ行ってしまったようだった。
「置きっぱなしなんですか」
「先に置いていく約束だ。確認は済んでる。俺たちは運ぶだけだ」
ハグリッドは荷札を一つ覗き込み、頷いた。
そして、桃色の傘を持ち上げた。
「さて、さっさと済ませちまおう」
傘の先が、荷物の山へ向けられた。
小さく何かを呟き、ひと振りする。
何も起きなかった。
ハグリッドは傘を見て、もう一度振った。
今度は、一番手前の木箱が揺れた。
片側が浮き、いったん下がり、ようやく底全体が雪から離れる。
その隣の樽も、遅れて持ち上がった――まるで寒さで動きたくない家畜の群れのようだった。
一つが前へ出ると、後ろの箱がしぶしぶ続く。
布をかけた包みは、隣の樽へ寄りかかるように傾き、ハグリッドに傘で指されてから姿勢を直した。
「ほれ、並べ。そっちじゃねえ」
荷物は、いやいやという様子で列になった。
それから、ゆっくりと船へ向かって動き始めた。
本当に、ゆっくりだった。
トムは先頭の箱と船の入り口を交互に見た。
急げば一分もかからない距離が、随分遠く感じられた。
「……これ、ずっとこの速さですか」
「割れもんがあるからな」
ハグリッドは厳かに言った。
傘をもうひと振りしたが、速さは変わらなかった。
「急がせりゃいいってもんじゃねえ」
どうやら、そういうことにするらしい。
トムは列の最後尾で斜めになっていた小箱へ杖を向け、そっと水平に戻した。
「お、助かる。やっぱり連れてきてよかったな」
ハグリッドは嬉しそうに言った。
正式に手伝いへ任命されたのは、今だった気がした。
*
二人は荷物の列に沿って、少しずつ歩いた。
前の箱が止まれば後ろも止まり、樽が横を向けば、ハグリッドが傘で直した。
トムは小さな荷物がぶつからないように間を空ける。
「こいつら見てると、犬を思い出すな」
ハグリッドが言った。
「犬?」
「ああ。俺、犬を飼ってたんだ。でけえくせに臆病でよ。散歩へ出たがったくせに、嫌なもんがあると、こうやって動かなくなる」
目の前の樽が、ぴたりと止まった。
ハグリッドが鼻を鳴らし、傘を向けた。
「まったく、そっくりだ」
犬は、怖いときにはハグリッドの後ろへ隠れたという。
大きな体を無理に押し込むので、椅子ごと倒されたことがある。
食事の時間には誰より早く気づき、床へ落ちたものは、落とした本人が拾う前になくなっていた。
ハグリッドの話は、犬の寝場所から、噛まれた靴、よだれで読めなくなった手紙へと移った。
トムは笑いながら、小箱の進路を直した。
「今は、船にいないんですか」
ハグリッドの笑みが、少し止まった。
「いなくなっちまった」
傘の先が下がった。
列の途中の箱も少し下がり、彼は慌てて持ち直した。
「ホグワーツで戦いがあったときにな。あの騒ぎだ。
どっかへ逃げたんだろうとは思ったが、ろくに捜す暇もなくてよ」
それきり、会えていないのだろう。
ハグリッドは、しばらく次の言葉を探していた。
「森のほうへ行ったのかもしれねえ。
鼻は利く奴だったから、うまく逃げたんじゃねえかって……
今でも、そう思うことはある」
トムは、何と答えればよいか分からなかった。
生きていると慰めることも、死んだと決めつけることもできなかった。
ハグリッドは木立を見た。
この森ではない。
分かっていても、見てしまったようだった。
「いねえって分かってても、でかい犬が通ると振り向いちまう。馬鹿みてえだろ」
「……そんなこと、ないと思います」
トムが答えると、ハグリッドは鼻をすすった。
「そうか」
それから、先頭の箱へ声を張った。
「ほら、そこで休むな。あとちょっとだ」
*
最初の荷物が船へ入るまでに、ハグリッドの話は、ホグワーツでの戦いへ移っていた。
どこから攻め込まれ、誰がどこで戦ったのか。そういう整った説明ではなかった。
割れた窓。廊下へ飛び出してきた子供。
いつもなら通れるはずの場所を塞いでいた瓦礫。
ハグリッドは、そのとき見たものを、思い出した順に話した。
「名前を呼んでも、聞こえねえんだ。
俺の声でもだぞ。あっちで何か崩れて、こっちで誰かが叫んでよ」
生徒を運び出し、戻って別の者を捜した。
どこへ行けば誰がいるか、知り尽くしていたはずの城で、人を見つけられなくなった。
途中で犬の姿がないことにも気づいたが、捜しに戻ろうとするたび、別の誰かに呼ばれたという。
「俺がもう一回、あっちへ行ってりゃって、考えることはある。
だが、そのときゃ、そのときのことで精いっぱいでな」
トムは、ハグリッドの肩を見た。
木箱を軽々と持ち上げる腕がある。大抵の人間より、ずっと大きく、強い。
それでも、運び出せなかったものがあった。
ダンブルドアが敗れたと聞いたときのことは、ハグリッドも、よく覚えていないと言った。
そんなはずはない、と最初は思った。
誰かが間違えたのだろう。
別の場所へ行けば、いつもどおり指示を出している彼に会えるのではないか。
「だが、本当だった」
大きな手が、傘の柄を握り直した。
「そのあとも、しばらくは癖が抜けねえ。
何かあれば、ダンブルドアに聞こうって思っちまうんだ。
あの人だって、何でもできるわけじゃねえのにな」
船内から、次の荷物を運んでよいと声がかかった。
二人は、岸に残る荷物へ戻った。
ハグリッドが傘を振る。
次の木箱の群れも、起こされたことが不満そうに、のっそりと浮かび上がった。
「おめえ、さっきから上手に直すな」
ハグリッドが言った。
トムは、斜めになった包みを下ろさずに支えていた。
「授業で練習しているので」
「そういや、グリンデルバルドとも特訓してるってな」
トムは顔を上げた。
「聞いたんですか」
「ああ。毎朝、二人きりだって? よくやるもんだ。
俺なら、あんなおっかねえ人と向かい合ってたら、落ち着くもんも落ち着かねえぞ」
「僕も、落ち着いていないです」
ハグリッドは声を上げて笑った。
「それでも行くんだろ。
度胸があるじゃねえか」
度胸というか、成り行きというか。
トムは苦笑いを浮かべた。
「正直、俺ぁ今でも怖えよ」
笑いを収めてから、ハグリッドは続けた。
「ダンブルドアが信じてなきゃ、いくら何でも、あの人をここへ入れようとは思わねえ」
「どうして、頼ることになったんですか」
トムは尋ねた。
毎朝会っているのに、考えてみれば、その経緯を知らない。
「最初に言い出したのは、アバーフォース。ああ、ダンブルドアの弟さんだよ」
*
次の荷物が入り口へ着くまでの間、ハグリッドは岸辺の石に腰を下ろした。
トムにも、雪を払った場所を示す。座ると、隣の男が風を遮ってくれた。
「兄弟で、ちっとも似てねえようで、妙なとこがそっくりなんだ。
どっちも、自分がこうと決めたら聞かねえ。
昔、店で山羊が――いや、今はそっちの話じゃねえな」
ハグリッドは顎髭を掻いた。
そこからの話は、長かった。
トムはときどき荷物へ杖を向けながら、ほとんど黙って聞いていた。
戦いに敗れたあと、騎士団は、残った者を集めるだけでも苦労したという。
怪我人を移さなければならない。家へ帰れない者を隠さなければならない。
誰かを捜しに行きたくても、そのための人手を出せない。
頼れるはずの相手へ連絡しても、返事が来ないことがあった。
返事がないのは断られたからなのか、捕まったからなのか。それさえ分からなかった。
ハグリッドの話は、雨の中で待った夜や、運びきれなかった荷物へ何度も逸れた。
そのたびに彼は、いや、あれはもっとあとだったか、と首をひねった。
日付も順番も曖昧だったが、誰もまともに眠っていなかったことだけは伝わってきた。
「マクゴナガル先生も、ひでえ顔をしてた。
休んでくれって言いてえんだが、言えば俺のほうが寝ろって怒られそうでな」
少し笑って、膝に手を置いた。
アバーフォースが訪ねてきたのは、そんな中だった。
ほかに当てがないと言うなら、まだ一つある。
ヌルメンガードへ行け、と。
「俺ぁ、最初、何を言ってんだか分からなかった。
なんで今、牢獄の話なんかするんだってよ」
あの男がいるだろう、と言われ、ようやく分かった。
――グリンデルバルド。
その名が出ただけで、反対する者はいた。何をしてきた男か忘れたのか。
誰が捕らえたと思っている。助けを頼めば、喜んで応じるとでも思うのか。
アバーフォースは、ひとつも嬉しそうな顔をしなかったという。
「信用しろとは言ってねえ、ってな。杖がなくたって、そこらの魔法使いを束にしたより厄介だ。闇の魔法について知ってることも、おまえらとは桁が違う。兄貴を助ける手立てを、何か知ってるかもしれん。ほかに当てがあるなら、今ここで言ってみろ、ってよ」
ハグリッドは、船へ向かう木箱を眺めた。
「誰も、何も言えなかった」
トムは、知っている兄弟の過去を思った。
アバーフォースにとって、グリンデルバルドの名は、簡単に口へ出せるものではなかったはずだ。
それでも、行けと言った。
その言葉を口にしなければならないほど、追い詰められていたのだ。
「……でも、杖がなくてもって?」
ハグリッドは、トムの手元へ目をやった。
「あの人は、自分の呪いのせいで二度と杖を使えねぇようになった」
「取り上げられたんじゃなくて?」
「そういうのじゃねぇ。自業自得だって聞いた」
トムは、グリンデルバルドの手を思い出した。
指先の動き。物がひとりでに動く様子。
杖を使わないことと、使えないことは違った。
「あの人は、自分で建てた城に閉じ込められた。
もともとは、自分に逆らう連中を入れるための場所だったらしい。
それが、最後には自分の牢屋になった。杖も使えねえまま、何十年もだ」
ハグリッドは、傘を両膝の上へ置いた。
「俺も、杖を折られたからな」
声が、少し低くなった。
「いろいろあって……学校を追い出されてよ。もうここにいちゃいけねえんだと思った。昨日まで入ってた教室に、みんなが入っていく。俺は行っちゃいけねえ。だったら、どこへ行けばいいんだってな」
ハグリッドは、そのころはまだ子供だった。
隣の大きな男が、廊下の隅で途方に暮れている姿を、トムはうまく想像できなかった。
「ダンブルドアが、仕事をくれたんだ。ここにいていい、やることはあるって」
最初から何でもできたわけではない、と彼は続けた。
道具の使い方を間違え、力を入れすぎて柄を折り、頼まれたものと違うものを運んだ。そこで話は、何本の箒を折ったかという方向へ逸れた。
トムが笑うと、ハグリッドも笑った。
「だが、今日しくじっても、明日はあれをやれって言われる。
もう来るなとは言われねえ。それが、ありがたかったんだ」
彼は、膝の上の傘を指で撫でた。
「あれがなかったら、俺ぁ、どうなってたか分からねえ。
だから、あの人が牢ん中で何を考えてたか、ときどき気になるんだよ。
明日も、その次の日も、何にも変わらねえ。それが何十年も続くなんてな」
トムは、湖の向こうを見た。
風に当たりたかっただけだった。船の外へ出られると聞いて、すぐに嬉しくなった。
それを思うと、何十年という長さが、今までより遠く感じられた。
「もちろん、あの人のしたことが、それでよくなるわけじゃねえぞ」
ハグリッドは急いで付け加えた。
「ひでえことをした。それは間違いねえ。だが……いや、うまく言えねえな」
先頭の木箱が、渡し板の脇へ寄りすぎた。
ハグリッドは立ち上がり、傘を振った。
「そっちは湖だ。どこへ行くつもりだ、おめえ」
木箱は少し戻り、何事もなかったように船へ入っていった。
*
「それで、グリンデルバルド先生は、すぐに来てくれたんですか」
トムが話を戻すと、ハグリッドは首を振った。
「最初は断られたらしい」
最初の訪問には、ハグリッドは加わっていなかった。
戻った者の顔を見て、うまくいかなかったことを知っただけだという。
何を頼み、どう断られたかは、詳しく聞かされなかった。
「そりゃ、俺たちに義理なんかねえからな。
でも、ちょうどその頃に目を覚ましたダンブルドアが自分で話すって言ったんだ」
どうやって会わせるか、そのために何が必要か。
また、眠らずに相談する夜が続いた。
そして、二人は話をした。
そこで何があったのか、ハグリッドは知らない。
「ただ、約束をしたって、ダンブルドアが言った。
それから、あの人は城を出てきたんだ」
「何を約束したんですか」
「知らねえ」
今度の返事には、迷いがなかった。
「あの二人しか知らねえよ」
トムは、岸辺に残る荷物へ視線を落とした。
牢から出してやる。その代わりに協力する。
それだけなのだろうか。
「騎士団には、入っていないんですよね」
「ああ。命令を聞くために来たんじゃねえって、最初っから言ってた。あれを頼んでも断るし、これを頼めば、なんで自分でやらねえって言う。こないだだって、部屋の前に置いた箱について、俺に十五分も説教してよ」
ハグリッドは不満そうに眉を寄せた。
「邪魔なら、ひょいと動かせばいいだろうに」
トムには、目に浮かぶようだった。
自分も同じことを言われそうな気がする。
「だが、あの人が来てから、助かったこともある」
ハグリッドは、声を落ち着かせた。
「普通の手当てじゃどうにもならねえ呪いにも、何をされたか分かることがある。逃げるにしたって、相手が何をしてくるか知らなきゃ逃げられねえ。そういうとき、あの人は知ってた」
感謝しているのだと思った。
怖くないわけではない。信用しきれているわけでもない。
それでも、助けられたことまで否定したくはない。
ハグリッドの話は、そこへ来るたび、少し言葉に詰まった。
最後に残った樽が、ぐらりと傾いた。
トムは杖を向けて支え、列へ戻した。
「すまねえな。俺ばっかり喋っちまって」
「いえ。知らない話ばかりだったので」
「知らねえほうがいい話も、あるんだがなあ」
そう言った本人が、次の話を始めた。
*
荷札の剥がれかけた箱を見つけたのが、きっかけだった。
ハグリッドはそれを押さえ、箱の側面に残る文字を眺めた。
「ダングがいりゃ、こういうのも、もうちっと話が早かったかもしれねえな」
「ダング?」
「フレッチャーだ。マンダンガス・フレッチャー」
トムは口を閉じた。
「あいつ、こういう商売のことになると、やたら詳しくてよ。
誰に聞けばいいか、誰の言うことは信用しちゃいけねえか、よく知ってた。
自分も信用ならねえくせにな」
以前、一緒に買い付けへ行ったとき、話がまとまる直前に、フレッチャーが帰ると言い出したことがあった。
手ぶらで戻るつもりかとハグリッドが怒りかけると、外套の裾を引かれた。
いいから外へ出ろ。振り返るな。
本当に道まで出たところで、売り手のほうから呼び止められたという。
「そんで、値段が下がった。俺には分からねえよ。
買いたくて来たのに、いらねえふりをするんだからな」
ハグリッドは鼻を鳴らした。
「あとで手間賃までふんだくりやがった。
あいつが黙って親切だけするわけがねえんだ」
笑ったが、笑いは長く続かなかった。
「あいつが運んできたもんで、今も助かってる。
本人は、もういねえのによ」
トムは、少し声を落とした。
「賢者の石ですか」
ハグリッドがこちらを見た。
それから、長く息を吐いた。
「……ああ」
湖を渡る風が、外套の裾を揺らした。
「あれがなきゃ、買えなかったもんもある。
ダンブルドアを助ける見込みだって違ってただろう。
だが、持ってりゃいいことばっかりってわけでもねえ」
「追われるから?」
「このところ、しつけえんだ。
前に使えた場所が使えねえ。取引相手に、知らねえ奴が尋ねてきたって話もある」
だから今日も、相手が荷物を置いて去ったあとで取りに来たのだという。
人がいないから安全なのではない。
顔を合わせる者を減らし、船へつながる道を少しでも隠そうとしていた。
「前から、捕まえようとしてたんじゃないんですか」
「そりゃ、見つかりゃ危ねえ。だが、すぐに全部潰すより、誰が手を貸すか見てたほうが、連中には都合がよかったんだと」
ハグリッドは、船のほうを見た。
「寝床を貸した。食いもんを渡した。それだけで、ダンブルドアの仲間だって言える。
もともと気に入らねえ奴を捕まえる口実にもなる。
俺たちを助けたせいで、その家の者まで連れていかれるんだ」
トムは新聞の見出しを思い出した。
反逆者への援助。秩序の回復。
そこへ書かれる言葉は、きっと整っているのだろう。
「石が来てから、前とは違ってきた。俺に詳しいことは分からねえが、同じ逃げ方ばっかりしてりゃいいとは、言えなくなってる」
ぽつんと置かれた荷物が、最初とは違って見えた。
これをここへ運んだ人がいる。
トムは顔も名前も知らない。
知らずに済むよう、誰かが手順を決めたのかもしれなかった。
「でもよ。いくら安全だからって、石をグリンデルバルドに預けるってのは、どうなんだろうな」
トムは顔を上げた。
「先生たちも、あの人が石をどうしてるか知ってるんですか?」
「ああ。マクゴナガル先生なんか、せめてしまっとけって言ったらしいぞ。
だが、次に行ったら、また机の上だ。まるで文鎮だな、ありゃ」
トムは、修行のときに見た石を思い出した。
自分も最初は、そんなところに置くものなのかと思った。
だが、あの部屋には見慣れないものが多すぎる。
ほかの道具も似たような扱いだったので、そのうち気にしなくなっていた。
「荷物を届けた上級生まで、見たって言ってた。
あれが本物かって、俺に聞くんだぞ。俺に聞かれてもなあ」
ハグリッドは顎髭を掻いた。
「せめて人が来るときくらい、引き出しに入れときゃいいのによ」
自分の前でだけ、出したままにしていたのではないらしい。
注意する人がいないわけでもなかった。
トムは少し引っ掛かったが、グリンデルバルドが人の忠告を素直に聞く姿も、あまり想像できなかった。
「まあ、あの人の目の前で盗もうなんて奴は、そういねえだろう。だが、預かってる本人が使っちまったらどうするんだ? 金も命の水も作れる石だぞ。あの人が、いつまでも生きられるようになっちまったら――」
ハグリッドの口が止まった。
顎髭を大きな手で押さえ、トムを見下ろす。
「今のは、喋ることじゃなかったな」
トムは、どう答えればよいか分からなかった。
「ほかじゃ言わねえでくれ。俺だって、あの人が裏切るって決めつけてるわけじゃねえ。ダンブルドアが信じてるんだ。それは、分かってる」
ハグリッドは、もう一度船を見た。
「ダンブルドアに間違いはねえ。分かっちゃいるんだが、あの人が石をいじってるのを見ると、どうにも落ち着かねえんだよ」
トムは、少し考えてから頷いた。
「分かる気がします」
ハグリッドは、困ったように笑った。
「おめえに、こんな話をしてもしょうがねえな。
外の風に当てるだけのつもりだったんだが」
ずいぶん長く当たっている。
トムの鼻の感覚は、とっくに怪しくなっていた。
「そろそろ、中の空気にも当たりたいです」
ハグリッドは声を上げて笑い、傘を持ち直した。
「違いねえ。ほら、最後のやつだ。今度こそ働けよ」
最後尾の木箱が、しぶしぶ船へ向かった。
*
船内へ戻ると、暖かい空気に頬がじんじんした。
手袋を外し、指を曲げ伸ばしする。
ハグリッドは傘を脇へ抱え、満足そうに運び込んだ荷物を眺めていた。
「助かったぞ、トム。おめえがいなきゃ、もうちっとかかってた」
荷物を実際に動かしていた時間と、話していた時間では、どちらが長かっただろう。
考えかけたところで、廊下の向こうから足音がした。
「ハグリッド」
マクゴナガルだった。
彼女の目が、ハグリッドからトムへ移った。
外套と帽子と、赤くなった鼻の上で止まる。
「ブライトさんも、外へ?」
「俺の手伝いだ。上手いもんだぞ、この子は」
「手伝いを頼むなら、先に私へ知らせてください」
ハグリッドの肩が少し縮んだ。
「ちょいとそこまでだったんで」
「距離の問題ではありません」
細かいことではなかったらしい。
トムは黙って立っていた。
マクゴナガルは、彼の外套についた雪を杖のひと振りで落とした。
「次からは、出る前に確認するように」
「はい」
「トム。食堂へ行きなさい。温かいものを飲んで、体を暖めること」
トムは頷き、ハグリッドへ礼を言った。
彼は大きな手を振ってくれたが、そのあと、マクゴナガルにもう一度名前を呼ばれ、彼女についていった。
廊下を歩くうちに、足の冷たさが少しずつ抜けていった。
図書室へ行くつもりだった。
それが、シベリアの湖畔へ連れ出され、犬の話を聞き、戦いの話を聞き、最後には、ほかの教師まで賢者の石の置き方に口を出していると知った。
ハグリッドと話すときは、終わる場所を予想しないほうがよさそうだ。
食堂の入り口で、トムは一度足を止めた。
明日の朝には、また、あの部屋へ行く。
グリンデルバルドはいつものように座り、トムが集中を切らせれば指摘するだろう。
言い訳をすれば、もっと嫌な言い方で言い返すに違いない。
けれど、その姿を、今までとまったく同じには見られそうになかった。
何十年も閉じた部屋で朝を迎えてきた人なのだ。
明日も、その次の日も、同じ場所にいると思いながら。
ダンブルドアは、その人に何を約束したのだろう。
外へ出してやる。
それだけで、あの老人が誰かを助けるようになるとは思えなかった。
まして、かつて自分を倒した相手を。
厨房の中から、温かいスープの匂いがした。
トムは冷えた指をもう一度握り、食堂へ入った。
酔って口が軽くなるハグリッドでした。
今日(10月1日)はここまで。