トムにとって波乱の1991年が明け、ついに暦は1992年へ突入した。
だからといって、修行がいきなり新展開を迎えるわけではなかった。
トムがいつもの通り倉庫に入ると、まずは鏡の前ではなく、部屋の隅へ行った。
そこには座布団が敷かれ、壁には「忍」と書かれた掛け軸をかけている。
あえて鏡が見えないよう、壁へ向けて座禅を組む。
近ごろは、少しやり方を変えてみた。
まずはこちらで普通の瞑想をする。雑念が十分に落ち着いたと思ってから、鏡の前へ移動する。
いきなり心の底から望むものを見せられて、何も考えるなと言われても難しい。
空腹の人間を焼肉屋に座らせ、肉のことを考えるなと言うようなものだ。
まずは店に入る前に、腹を落ち着けることにしたのだ。
もっとも、思ったほどうまくいかなかった。
雑念が消えたと思い、ゆっくり立ち上がり、鏡の前へ座る。
鏡の中では前世の自分がリーグオブレジェンドで50連勝してマスターランクへ昇格していた。
――一気に情緒を乱される。
トムは再び座布団のほうへとぼとぼ帰っていく。
まぁ、そんな感じにネテロ会長よろしく、基礎固めして瞑想へ入るまでの時間が短くして、その分だけ鏡に向き合う時間を増やしていこうという訳だ。
「ブライト、2ジカン、タッタゾ」
椅子の脇から声がした。
トムは目を開けた。
小さな黄色の球体が、木箱の上で両耳を開いていた。
新しく作った、自分用のハロだった。
今回のバージョンは飛ばない。その代わり、マクゴナガルの指導の下で時間を測る機能を加えたのだ。
「分かった。ありがとう」
耳を押すと、ハロは黙った。
*
新学期が近づくと、上級生たちの様子がおかしくなった。
最初に気づいたのは、朝食の席だった。
アンジェリーナが、パンを片手に呪文書を読んでいた。
向かいの生徒も、別の本を広げている。二人とも、試合前の選手のような顔をしていた。
「去年は、押さえている間に反対側から出てきたの」
「なら、先に出口を塞げばいいんじゃないか?」
「塞いだわよ。勝手に別の出口を作ったの」
トムは、口へ運びかけたスプーンを止めた。
何の話だろう。隠れん坊か何か?
廊下に出ると、リーが杖を振る練習をしている。
床に置いた雑巾が跳ね上がり、空中で四角く広がり、近くの手すりへ巻きついた。
「遅い。もっと早く締めないと」
隣の上級生に言われ、リーは真面目な顔で頷いた。
図書室でも同じだった。
普段なら棚で眠っているような分厚い本が、机の上に積まれている。
『家庭の頑固な汚れとその対処』という題名の下には、小さな文字で『汚れが対処を拒む場合を含む』と書かれていた。
嫌な予感がする。
トムがその話をすると、ロンは露骨に顔をしかめた。
ハンナとラベンダーは顔を見合わせた。
「試験?」とハンナが尋ねた。
「試験なら、まだよかったんだけど」
ロンは言った。
「僕、去年、靴を片方取られたんだ」
「誰に?」
答えが返る前に、ネビルが来た。
袖を肘までまくり、片手に大きなバケツを提げている。
その中には、布と刷毛と洗剤が大量に詰まっている。。
ネビルは四人の顔を見ると、にやりと笑った。
「掃除戦争の開幕だ」
*
1月5日の朝、広間には生徒たちと大人の何人かが集まっていた。
マクゴナガルの前には長い羊皮紙が浮かび、名前が次々と班に分けられていく。
「新学期に備え、船内の清掃と各区画の点検を行います。
一年生は必ず担当者の指示に従うこと。
閉じた扉を無理に開けたり、狭い隙間へ手を入れたりしないように」
そこで彼女は、床へ目を落とした。
「今年こそ、円滑に終えられることを期待しています」
頭の上で、梁がみしりと大きく軋む音鳴った。
マクゴナガルは、天井を見上げると、そのまま梁へ冷たく言い放つ。
「異論は認めません」
「ぎりりりり」
もう一度、梁が鳴った。
さっきより低く、唸るような音だった。
えっ。
今、会話した?
「こいつ、掃除が嫌いなんだ」
ネビルが小声で言った。
「こいつって、船が?」
「うん。普段の掃除はいいんだけど、板を外して磨いたり、奥まで調べたりすると嫌がるみたい」
「えっと。ピカピカになるのは気持ちいいんじゃないの?」
足元の板が、ことりと鳴った。
「尻の穴の中までに歯ブラシを突っ込まれてゴシゴシ洗われるのは流石にいやだろって言ってる」
ロンは真顔で言った。
「僕たちは下の廊下だって。さぁ行こう」
ネビルがバケツを持ち直した。
彼はためらわずに歩き出した。
トムたちがついていくと、広間の扉が素早く閉まろうとした。
ネビルは足を止めず、バケツを扉の下へ滑らせた。
こつん、と音がして、バケツが挟まり、扉が止まる。
「こういうのは、魔法より早いんだ」
なるほど、これは一筋縄ではいかなさそうだ。
*
最初の仕事は、腰壁を拭くことだった。
フリットウィックが外した真鍮の覆いを、トムたちが順番に磨いていく。
その間に、先生は壁の内側へ杖を差し入れ、継ぎ目や留め具を調べていた。
意外と普通だ。
そう思った直後、ラベンダーの前にあった黒い染みが、横へ動いた。
「あっ」
彼女が布を伸ばすと、染みはするすると逃げ、小さな風景画の裏へ隠れた。
絵の中の羊飼いが、迷惑そうに振り返った。
「そこ、押さえて!」
ハンナが額縁を持ち上げる。
ラベンダーが布を突っ込む。
黒い染みは反対側へ抜け、今度はトムの前へ滑ってきた。
「こっち来た!」
「下を塞いで!」
ネビルの声に従って布を当てた。
染みは行き場をなくし、丸く縮んだ。
取れた。
手の中の布が、むずむずと動く。
「先生! これ、生きてます?」
「いいえ。布を畳んで、そちらの瓶へ入れてください」
フリットウィックは壁の中を見たまま答えた。
それから、少し考えて付け足した。
「蓋はしっかりと」
生きてない汚れに必要な注意か、それは。
ロンが瓶の蓋を開けた。
トムが布を放り込み、二人がかりで閉める。
瓶の底で、布が不満そうに広がった。
「一個目だね」
ハンナが言った。
トムは廊下を見渡した。
壁のあちこちで、染みがじわじわと額縁へ近づいていた。
羊飼いは、羊を連れて絵の外へ逃げていった。
*
午前中が終わるころには、トムにも船の扱いが少し分かってきた。
雑巾を持って扉へ向かうと閉じられる。
したがって雑巾は背中へ隠す。
床の継ぎ目を強くこすると足元を持ち上げられるので、両膝をついて作業する。
集めた埃は、通気口の前に置いてはいけない。
最後の教訓は、五人全員が同時に学んだ。
頭の上の格子が、すう、と息を吸ったのである。
「伏せて!」
ネビルが叫ぶのと、埃が爆発するのは、ほとんど同時だった。
しばらくして、ハンナが髪から綿埃を取り、トムを見た。
「……あなたも、眉毛が白い」
「知りたくなかった」
ロンは笑っていたが、その口からも埃が出た。
通りかかったマクゴナガルが、五人と通気口を見比べた。
彼女は杖を一振りして埃をまとめると、格子の前へ立った。
「もう一度やったら、そこも外して洗います」
格子は、ぴたりと静かになった。
強い。
流石は先生だ。船舶への生徒指導までできる。
*
次に割り振られた部屋は、普段の教室よりずっと暖かかった。
天井から籠がいくつも下がり、壁際には鉢植えと木箱が並んでいる。
どこかで虫の羽音がして、青い花が、こちらを見るように向きを変えた。
この時、ハグリッドは部屋の中央で、大きな手を慎重に開き何かを待っている雰囲気だった。
「そいつは横から持つんだ。
上から掴むと、怖がって膨らむ」
横の2年生の先輩の両手から、白い毛がはみ出していた。
毛は説明を聞いている間にも膨らみ、やがて彼の顔を隠した。
「……ハグリッド!もう膨らんでる!!」
「落ち着け。息をゆっくり吐け」
先輩は一瞬パニックになったが、やがて言われたとおりにした。
すると、白い塊も少しづつ縮む。
トムは興味深くそれを観察した。
「あれってなに?」
「ケセランパセランだよ。歴代の上級生たちが育てて、増えたんだって」
綿毛を丸めたような生き物が、籠の中にも、棚の上にも、窓の縁にもいる。
何匹かは空中をふわふわと漂い、部屋の隅でひとかたまりになっていた。
「可愛い」
ハンナが声を落とした。
ハグリッドはトムたちに気が付くと、髭を揺らしながら近づいてくる。
「だろう。こんな感じに手を温めてから出してみな」
ハンナがハグリッドの真似をして、両手を擦り、広げて差し出す。
一匹のケセランパセランがゆっくり降りてきて、その掌に収まった。
白い毛が指の間へ柔らかく垂れた。
ラベンダーも手を差し出した。
すぐに二匹が降りてきた。
「僕も」
ロンが手を出すと、毛玉たちは少し上へ逃げた。
「なんで?」
「冷てえんだろうな。温めてからだ」
ロンは不服そうに両手を擦った。
トムも真似をしたが、一匹が袖へ触れた途端、くるりと向きを変えて逃げた。
「石鹸の匂いがついてるな。そこで手を洗ってこい」
ハグリッドに言われ、トムは流しへ向かった。
温厚そうな生き物たちだったが、彼らなりの審査基準があるらしい。
ここでの仕事は、上級生たちが生き物を別の籠へ移している間に、棚や空になった飼育箱を掃除することだった。
ただし、見た目が埃とほとんど同じなのが問題だった。
ロンが床の隅へ箒を差し込むと、白い塊が一斉に舞い上がった。
「待って! そっちは生き物よ!」
「分かってるよ! その下のを取ろうとしたんだ!」
逃げた毛玉がハグリッドの髭へ集まった。
一匹、二匹と潜り込み、最後には顎のあたりがすっかり白くなった。
「よしよし。驚いたな」
ハグリッドは髭を撫でた。
その横で、先輩が数を数えていた。
「先生、さっきより一匹多いです」
「そいつは俺の髭だ」
「どれですか?」
ハグリッドは困ったように顎を見下ろした。
トムは笑いをこらえながら、洗った餌皿を布の上へ並べた。
隣のハンナの肩にも、一匹が落ち着いている。
彼女はそれを起こさないよう、片方の肩を少し上げたまま働いていた。
*
夕方、五人は操舵室へ入ることになった。
トムは敷居をまたぐなり、手にしたバケツの重さを忘れた。
正面には、大きな舵輪があった。
黒く艶のある木でできており、持ち手には何人もの手に擦られた跡がある。
その向こうの窓には、薄暗い水が広がっていた。
細い銀色の魚が、窓の端から端へ走っていく。
机の上には、海図が開かれていた。
描かれた岸辺へ小さな波が寄せ、青い線がゆっくり場所を変えている。真鍮の計器が幾つも並び、針はそれぞれ違う速さで揺れていた。
ひとつだけ、文字盤に数字がないものがあった。
目盛りの端には、眠っている船の絵が描かれている。反対側には、帆をいっぱいに張った船。
今、針はほぼ真ん中で止まっていた。
「それには触れないでくださいね」
フリットウィックに言われ、トムは伸びかけた手を引っ込めた。
「何を測っているんですか?」
「船を進ませる魔法の働き具合です。今は移動せず、同じ深さに留まっています」
「帆を使わなくても進むんですよね」
「ええ。箒と少し似ていますね。箒は柄にかけられた魔法で空を飛びますが、この船では、船体に組み込まれた魔法が水の中を進む力を生みます。舵輪で、その向きを伝えるのです」
先生が舵輪へ手を添えると、真鍮の針が小さく揺れた。
窓の外を横切っていた魚が、一斉に向きを変える。
「では、遠くの湖へ出たりするのも、その魔法ですか?」
ハンナが尋ねた。
「そちらは別の仕組みです。通れる水域同士を魔法でつなぎ、その間を渡ります。ただし、どこへでも自由に出られるわけではありません。安全に通れる道を選ぶために、この海図があります」
海図の青い線を、先生が杖先で示した。
線の一本が、触れられるのを嫌がるように少し曲がった。
「そこは今日は通りませんよ」
言われると、線は元へ戻った。
便利な上に、自己主張もするカーナビだった。
トムは窓へ近づいた。
すぐ向こうを魚が泳いでいるのに、硝子の縁にも壁にも、水が滲んだ跡はない。
「これだけ水の中にいて、隙間から漏れてきたりしないんですか?」
「普通はありません。船の外の水を入れず、中の空気を保つ魔法が、船体を包んでいます。水の重みに船が潰されないようにする働きもありますよ」
「板が割れても?」とロンが聞いた。
「小さな傷や隙間なら、魔法が補います。もちろん、だから修理をしなくてよいわけではありません」
フリットウィックはそこで壁を軽く叩いた。
「今日、皆さんに磨いてもらっている真鍮の覆いの下にも、その魔法を支える細工があります。汚れを落とせば、傷んでいる場所を見つけやすくなるでしょう?」
トムは朝から磨いてきた何枚もの板を思い出した。
飾りをぴかぴかにしていただけではなかったらしい。
「でも、船が勝手に扉を動かしたりするのは、大丈夫なんですか?」
「船内の物を動かす仕組みと、外の水を防ぐ仕組みは分けられています。そこまで好きにさせたら、くしゃみのたびに全員が泳ぐことになりますからね」
床が、不服そうに鳴った。
五人は揃って足元を見た。
「しかし、皆さんが叱るようになってから、ずいぶん大人しくなりました」
フリットウィックは満足そうに頷き、上級生二人を呼んで、机の下を開かせた。
扉の内側には、色の違う紐や細い鎖が幾つも走っていた。真鍮の小さな板に刻まれた文字が、順番に淡く光っている。
見たい。
とても見たい。
しかし、トムたちに任されたのは、取り外した手すりと、予備の灯りの掃除だった。
ロンが舵輪のそばを通ると、持ち手が少し動いた。
彼が振り返る。
舵輪は止まっていた。
歩き出すと、また動いた。
上着の裾へ引っかけようとしている。
「見えてるぞ」
ロンが言うと、舵輪は何もしていないというように、ゆっくり正面へ戻った。
「ロンって結構嫌われてるよね?」とラベンダーが尋ねた。
「以前、靴を取り返したとき、ちょっと蹴ったんだ」
「船を?」
「僕の足が、まだ半分入ってたから!」
トムは笑いながら、磨いた手すりを乾いた布へ載せた。
ハンナが仕上げの液を塗る。
そのあと、指定された時間だけ触らずに置かなければならなかった。
トムはポケットからハロを取り出した。
「三分たったら、教えて」
右の耳を押して、木箱の上へ置く。
しばらくして、ハロが耳を開いた。
「ハロ。サンプン」
「ありがとう。先生、こっちは乾きました」
フリットウィックが手すりを確かめ、頷いた。
「結構。では、次の一本を」
トムはハロを持ち上げた。
今日は、なかなか役に立っている。
時を正確に刻む相棒と、船の操舵室で働く私。
気分は艦長だ。右舷、洗剤うすいよ、何してんの。
その足元で、床板が持ち上がった。
トムは慌てて木箱を掴んだ。
*
最後に残ったのは、細い廊下の奥にある空き船室だった。
清掃済み、と書かれた札が掛かっていた。
ラベンダーが足を止めた。
「ここ、もう終わってるんじゃない?」
ネビルは札を見て、扉を見た。
それから、引率のマクゴナガルを振り返った。
「先生。この札、誰が掛けたんですか?」
マクゴナガルは羊皮紙へ目を落とした。
眉が、少し上がった。
扉が、かちりと鳴った。
「開けなさい」
返事はなかった。
彼女が杖を上げると、直ぐに鍵が外れた。
ネビルが素早くバケツを差し込むと、扉の隙間から、箒の柄が一本突き出した。
続いて、モップ。
丸まった古い絨毯。
何枚もの汚れた布。
扉を開くにつれ、部屋いっぱいに詰め込まれた荷物が見えてきた。
その隙間という隙間を、灰色の埃が埋めている。
ロンが指を差した。
「あれ! 僕の靴!」
天井近くの棚で、片方だけの靴が横を向いていた。
トムは、朝からぴかぴかになった廊下を思い出した。
自分たちが拭いていない場所まで、いつの間にかきれいになっていた。
そういうことか。
大人しく掃除されているふりをして、こっちへ押し込んでいたのか。
マクゴナガルは、しばらく部屋の中を見つめていた。
「なるほど」
声は静かだった。
トムは反射的に背筋を伸ばした。
「では、ここまで終わらせましょう」
天井の梁が、長く軋んだ。
今度ばかりは、船に同情できなかった。
*
全てが終わったころには、腕を持ち上げるのも億劫になっていた。
広間へ戻ったトムは、椅子へ腰を下ろした。
ロンは隣で、取り戻した靴を検分している。
磨き上げられてはいたが、今の足には小さかった。
「一年返すのが遅いんだよ」
床へ向けて文句を言っていた。
ハンナは髪を結び直し、ラベンダーは袖口から埃の塊をつまみ出した。
ネビルは両手で飲み物のカップを包み、満足そうに息をついた。
「今年は早かったね」
「去年は何があったの?」
「階段が、途中でなくなったんだ」
乾いた笑いを上げた。原作では屋敷しもべ妖精たちが城のホグワーツの掃除をしていたが、彼らも日々このような苦労を味わっているのだろうか。
大人たちも殆ど戻ってきた。
ハグリッドの髭には、まだ白い毛玉がひとつ残っている。
上級生が指摘すると、彼はそっと摘まみ上げ、大きなポケットへ入れた。
広間には食事の用意が整っていた。当番の5年生がパンを運び込み、3年生がスープをよそう。
窓の留め具は光り、卓には布巾の筋ひとつ残っていない。
廊下から流れてくる空気も、いつもより少し軽く感じた。
トムは両足を伸ばした。
靴の下で、床が小さく鳴るが、持ち上がることはなくなった。
「お疲れさま」
何となく、足元へ言ってみた。
ロンがこちらを見て、鼻で笑った。
「甘い顔すると、来年もやるぞ」
「甘い顔しなくても、やると思う」
ネビルが答えた。
そのとおりだと思った。
トムがスープの皿を受け取ったとき、広間の入口で足音が止まった。
クィレル先生だった。
片手に杖を持ち、ローブの裾が濃く濡れていた。
彼は広間を見渡し、マクゴナガルたちの卓へ向かった。
「少し、来ていただけますか」
マクゴナガルが顔を上げた。
「どうしました?」
「下の区画で、浸水しています。船尾側の物置の先です」
ロンがパンをちぎりながら、小さくため息をついた。
「今度は水を隠してたのかよ」
しかし、フリットウィックは笑わなかった。
置こうとしていたカップを、卓へ戻した。
「床に溜まっているのですか?」
「いいえ。継ぎ目から、今も入っています。内側の扉は閉めてきました」
マクゴナガルが立ち上がった。
椅子の脚が、床を擦った。
「どちらの継ぎ目です?」
クィレルは声を落として答えた。
その言葉までは、トムには聞こえなかった。
ただ、マクゴナガルの口元が引き締まるのが見えた。
フリットウィックはすでに杖を取り出していた。ハグリッドもカップを置き、立ち上がる。
「皆さんは、ここにいなさい」
マクゴナガルが生徒たちへ告げた。
掃除の途中にも、何度も聞いた指示だった。
それなのに、さっきまでとは違って聞こえた。
先生たちはクィレルについて、広間を出ていった。
ロンの手が止まっていた。
ネビルも、もう笑っていなかった。
トムはスプーンを置いた。
廊下の奥で、木が軋んだ。
今日、一日中聞いていた音だった。
船を叱るものはいなかった。
*
下へ降りるにつれ、空気が冷たくなった。
マクゴナガルはローブの裾を持ち上げ、最後の階段を下りた。
廊下には、水の匂いがしていた。
クィレルが先に立ち、突き当たりの扉を示す。
扉の下には薄く水が広がっていたが、銀色の細い線にせき止められ、それ以上は進んでいなかった。
「中に人は?」
「いません。隣の物置も確かめました」
マクゴナガルが頷くと、フリットウィックが扉へ杖を向けた。
銀の線が、敷居から少しずつ上へ伸びる。
「開けてください」
ハグリッドが取っ手を引いた。
扉の向こうで、水が揺れた。
敷居を越えようとした波は、透明な板にぶつかったように止まった。
マクゴナガルは杖の明かりを高く掲げた。
使われていない、小さな船室だった。
空の棚がひとつ、壁に取り付けられている。
その下では、浮き上がった木箱がゆっくり回っていた。
水はすでに、膝ほどの深さになっている。
奥の壁の継ぎ目から、細い流れが絶えず噴き出していた。
「先ほどは、まだ足首まででした」
クィレルが言った。
マクゴナガルは水面を見つめた。
掃除用の水をこぼした量ではない。
「外から何かにぶつけられたのでしょうか」
「それだけでは、こうはなりません」
フリットウィックの声は硬かった。
「板が傷んでも、水を防ぐ魔法は働くはずです。
外板と保護の両方が、同じ場所で損なわれています」
彼は片手で透明な仕切りを保ちながら、壁の継ぎ目を見た。
「少なくとも、普通の水漏れではありません」
「見れば分かる」
背後から声がした。
マクゴナガルが振り返ると、グリンデルバルドが階段を下りてくるところだった。
上着は羽織っただけで、前が開いている。
「お呼びするところでした」
「床が騒ぐのでな。何が壊れた?」
「まだ分かりません」
グリンデルバルドが扉の前へ来ると、フリットウィックの横から中を覗いた。老人は水の勢いを確かめ、それから壁へ手を向ける。
噴き出していた水が、細い棒のように固まった。
流れの表面に白い霜が走り、壁際から水音が消える。
「今のうちに見たまえ」
フリットウィックが頷いた。
マクゴナガルは彼に代わって入口の仕切りを支えた。
小柄な教師が杖先で空中へ輪を描く。
淡い光が水面を越え、奥の壁へ広がった。木の表面に細い線が浮かび、天井と床のほうへ枝分かれしていく。
その一部が、途中で途切れていた。
フリットウィックは眉を寄せ、もう一度同じ場所をなぞった。
光はやはり、継ぎ目の手前で消えた。
「この部屋だけ、保護がつながっていません」
「掃除で、何かを外したのでは?」
クィレルが尋ねた。
マクゴナガルは手元の羊皮紙を開いた。
「ここは備品のない空き船室です。床と棚を拭き、点検口の蓋を確認しただけ。
保護を支える部分には触れていません」
「その程度で外れるものでもありませんよ」
フリットウィックは消えた線を見つめていた。
「長い間に傷んだ可能性はあります。ただ、それなら隣にも弱まりが出るはずです。
ここだけ、これほどはっきり途切れるのは……」
「別の魔法が干渉したか」
グリンデルバルドが言った。
誰もすぐには答えなかった。
マクゴナガルは彼へ目を向けた。
「そう判断できますか?」
「可能性を挙げただけだ。調べる前に答えを決めても役には立たん」
老人は腕をわずかに震えた。
凍った水の棒に、細い亀裂が入っていた。
「それより、いつまでここを押さえさせる気だね」
フリットウィックが杖を下ろした。
「この状態で、保護をかけ直すのは危険です。
一度陸で内張りを外して、どこでつながりが失われているのか確かめなければ」
「板だけ直すわけにはいかんのか?」
ハグリッドが尋ねた。
「外の水を防げないままでは、直したところへ圧力がかかります。
今度は隣が割れるかもしれません」
氷の中で、ぱきりと音がした。
マクゴナガルは入口の仕切りを握り直すように、杖を構えた。
「では、まずこの部屋を封印します。浮上できる場所へ移り、修理はそれからです」
フリットウィックがすぐに頷いた。
「隣の部屋との境も固めましょう。入口だけでは足りません」
「ハグリッド、この扉を支えてください。クィレル先生は、床から右の壁へ。
私は天井と左側を受け持ちます」
マクゴナガルは指示を出した。
ハグリッドが扉を引き寄せ、両手で押さえる。
クィレルは腰を落とし、杖先を床へ向けた。
フリットウィックの唱える呪文に合わせ、敷居の銀色の線が濃くなった。
線は左右へ広がり、壁を上り、天井へ届く。
マクゴナガルは、自分の杖へかかる重みが変わるのを感じた。
部屋の内側に溜まった水が、新しく築かれた境を押していた。
「もう少し、上を」
フリットウィックの言葉に、杖を上げた。
天井の角で二本の光が重なった。
奥の壁で、氷が砕けた。
水音が一気に戻った。
扉がハグリッドの手の中で震え、下から冷たい飛沫が散った。
グリンデルバルドが手を振った。
扉の中央に細い光が走り、左右の柱へ食い込むように伸びた。
「続けたまえ」
マクゴナガルは返事をせず、呪文を唱え続けた。
足元の水が止まる。
扉の隙間から漏れていた音が遠くなり、最後には、厚い壁の向こうで鳴っているようにしか聞こえなくなった。
銀色の線が一度だけ強く輝き、木の中へ沈んだ。
フリットウィックは、すぐには杖を下ろさなかった。
扉、床、左右の壁を順番に確かめ、それからようやく息を吐いた。
「保ちました。隣の区画にも広がっていません」
ハグリッドが、ゆっくり扉から手を離した。
扉は動かなかった。
マクゴナガルも杖を下ろした。
指が冷たくなっていた。
「ここへは誰も近づけないように。機を見て、どこかで停泊して修理しましょう」
彼女は手元の羊皮紙へ目を落とした。
部屋の番号の横には、点検を終えた印がある。
今日、ほんの数時間前につけられたものだった。
「この区画を担当した方々から、順番に話を聞きます。
何を動かし、何を見たのか。小さなことでも、確かめましょう」
グリンデルバルドは扉を見ていた。
封じられた部屋の向こうで、水が低く鳴った。
どの一年生が好き?
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トム
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ロン
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ハンナ
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ラベンダー
-
ネビル