俺のハリポタなんか変   作:パシフィカ

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この掃除なんか変

波乱続きだった一九九一年が終わり、暦は一九九二年になった。

新しい年。新しい気持ち。少し成長した自分になれた気がした。

しかし、残念ながら修行の進み具合は昨年から据え置きだった。

 

トムはいつもの通り倉庫に入ると、まずは鏡の前ではなく、部屋の隅へ行く。

そこには座布団が敷かれ、壁には「忍」と書かれた掛け軸をかけている。

あえて鏡が見えないよう、壁へ向けて座禅を組む。

 

近ごろは、少しやり方を変えてみることにした。

まずはこちらで普通の瞑想をする。

雑念が十分に落ち着いたと思ってから、鏡の前へ移動する。

 

いきなり心の底から望むものを見せられて、何も考えるなと言われても難しい。

空腹の人間を焼肉屋に座らせ、肉のことを考えるなと言うようなものだ。

 

もっとも、このやり方であっても思ったほどうまくいかなかった。

 

頭が空っぽになったと思えてから、鏡の前へ移動する。

その中では前世の自分がピザとコーラでべとべとにした手でコントローラーを握りながら、ブラッドボーン2の聖杯ダンジョンに潜っていた。

――自分の願望に戦慄し、思わず情緒が乱れる。

 

そして再び座布団のほうへトボトボ帰っていくことになるのだ。

 

まぁ、そんな感じにネテロ会長よろしく、瞑想の基礎固めしつつ、落ち着くまでの時間を短縮し、最終的には鏡に向き合う時間を増やしていこうという訳だ。

 

「ブライト、2ジカン、タッタゾ」

 

木箱の上で、黄色い球体が両耳を開いた。

新しく作った、自分用のハロだ。今回は飛行機能を諦め、その代わりに、マクゴナガルの指導で時間を測る仕組みを加えてある。

 

「分かった。ありがとう」

 

耳を押すと、ハロは口を閉ざした。

 

     *

 

新学期が近づくにつれ、上級生たちの様子が変わってきた。

 

朝食の席では、アンジェリーナが片手にパン、もう片方に呪文書を持っていた。

向かいの生徒も本を広げ、卓の上の塩入れを動かしながら何かを説明している。

 

「去年は、こっちを押さえている間に、反対側から逃げられたわ」

「じゃあ、先に出口を塞いどけばいいんじゃない?」

「塞いだわよ。でも別の出口を作られた。だから今年は別の作戦を取ろうと思うの……」

 

トムは、口へ運びかけたスプーンを止めた。

何の話だろう。クディッチではなさそうだけど…

 

廊下ではリーが杖を振る練習をしていた。

床に置いた雑巾が跳ね上がり、空中で四角く広がり、近くの手すりへ巻きついた。

 

「遅い。もっと早く締めないと」

隣の上級生に言われ、リーは真面目な顔で頷いた。

 

図書室でも同じだった。

普段なら棚で眠っているような分厚い本が、机の上に積まれている。

『家庭の頑固な汚れとその対処』という題名の下には、小さな文字で『汚れが対処を拒む場合を含む』と書かれていた。

 

何だか嫌な予感がする。

 

休憩時間にトムがその話をすると、ロンは露骨に顔をしかめた。

 

「ああ。もうそんな時期か」

 

ハンナとラベンダーは顔を見合わせた。

「試験の準備か何か?」

 

ハンナが尋ねると、ロンは首を振った。

 

「それならまだましさ。戦争の準備だよ」

「戦争!?どういうこと?」

 

答えが返る前に、卓の脇で金属がぶつかる音がした。

ネビルが、大きなバケツを置いたところだった。

袖を肘までまくり、中には布、刷毛、洗剤の瓶が隙間なく詰めてある。

 

ネビルは四人の顔を見ると、にやりと笑った。

 

「もうすぐ大掃除だよ。みんな」

 

     *

 

一月五日の朝、広間には生徒たちと、清掃に加わる大人たちが集まった。

マクゴナガルの前で長い羊皮紙がほどけ、名前が次々と移動して班に分かれていく。

トムは自分の名前を追い、いつもの四人と同じ欄へ収まるのを見届けた。

 

「新学期に備え、船内の清掃と各区画の点検を行います。

 必ず担当の先生の指示に従うこと。

 許可なく扉を開けたり、狭い隙間へ手を入れたりしてはいけません」

 

 マクゴナガルは眼鏡越しに生徒たちを見渡したあと、床へ視線を落とした。

 

「そして、今年こそは、余計な手間をかけずに終えたいものです」

 

 頭上で梁が鳴った。

 みしり、という音が、広間の端まで響く。

 

「異論を求めているのではありません」

 

彼女が天井へ告げると、梁は「ぎしぃぃ」と低く唸った。

トムは口を開けたまま、先生と天井を交互に見た。

 

えっ。

今、会話してた?

 

「こいつ、大掃除が嫌いなんだよ」

 

ネビルが声を潜めた。

 

「こいつって、船?」

「うん。普段の掃除は平気なんだけど、板を外したり、奥まで調べたりすると嫌がるんだ」

「えっと……でもピカピカになるのは、気持ちよくないのかな」

「君だって、内臓の中までブラシでこすられたら嫌だろ」

 

ロンが言った。足元の板が、こつ、と鳴った。

 

「ほら。こいつもそうだと言ってる」

「言葉が分かるの?」

「分からないけど、たぶん合ってる」

 

 たいへん自信のある通訳だった。

 

 ネビルは羊皮紙を確かめ、バケツの取っ手を握り直した。

 

「僕たちは下の廊下だって。行こう。扉が開いてるうちに」

 

 最後の一言の意味は、すぐに分かった。

 五人が近づいた途端、広間の扉が閉まり始めたのだ。ネビルが慌ててバケツを滑らせる。扉はバケツを挟み、そこで止まった。

 

「よかった。間に合った」

 ネビルは扉を押さえ、皆を先に通した。

「さぁ、行って!」

 

トムは、取っ手へ手をかける前に扉の厚みを確かめた。

今日は一日、自分の学校を相手することになるらしい。

 

     *

 

最初の仕事は、廊下の腰壁を拭くことだった。

フリットウィックが取り外した真鍮の覆いを、五人で順番に磨く。先生は露わになった壁の内側へ杖を差し入れ、留め具や継ぎ目を点検していた。

 

洗剤の匂い。布の擦れる音。少しずつ明るくなる金属の表面。

なんだ、普通の掃除ではないか。

 

「あら?」

 

ラベンダーの声で顔を上げた。

彼女の前にあった黒い染みが、壁を横へ滑っていた。

 

「ちょっと。まだ拭いてないのに!」

 

布で追うと、染みは風景画の裏へ潜った。絵の中の羊飼いが振り返り、杖を振って何か文句を言う。

 

「ハンナ、そこ持ち上げて!」

「待って、いま――」

 

額縁を浮かせた隙間へラベンダーが布を差し込む。しかし、染みはわずかな隙に反対側から抜け出し、今度はトムの手元へ滑ってきた。

 

「こっち来た!」

「下に布を当てて! 下から逃げるんだ!」

ネビルに言われるまま、トムは壁へ布を押しつけた。ラベンダーの手が上から迫る。

挟まれた染みは小さく縮み、布の中へ吸い込まれた。

 

取れた!

手の中の布が、むずむずと動く。

 

「先生。この汚れ、生きてるんですか?」

「いいえ。ただ、船の魔法の影響を受けているんですね。

そのまま布を畳んで、そちらの瓶へ。そうそう、角から出ないように」

 

フリットウィックは壁の中から顔を上げ、トムの手元を確かめた。

 

「蓋もしっかり閉めてくださいね」

生きていない汚れに、ずいぶん逃走対策が必要だった。

「早く入れてくれよ」

 

ロンが瓶の蓋を持ち上げた。トムが布を押し込み、すかさず蓋を戻す。

二人でねじって閉めると、瓶の底で布がぺたりと広がった。

 

「これで一つね」

 

ハンナの声に、トムは廊下の先を見た。

壁の染みが、あちこちから額縁へにじり寄っている。

羊飼いは羊を追い立て、隣の絵へ避難し始めていた。

 

 

     *

 

午前中が終わるころには、ネビル以外の4人も徐々に船の扱いを覚えてきた。

 

例えば雑巾を見せたまま扉に近づくと、閉められてしまう。だから、後ろ手に持って入る。床の継ぎ目を強くこすると板が持ち上がるので、膝をついて体重をかける。そして、集めた埃を通気口の下へ置いてはいけない。

 

この教訓は、全員が身をもって体験した。

 

そろそろ廊下の掃除も終わりかと思った頃、頭上の通気口の格子が突然、すう、と空気を吸った。

 ネビルが顔を上げて、表情を変える。

「伏せろ!」

 

しかし、彼の注意は間に合わなかった。

通気口は積み上げた埃を一斉に吹き上げ、廊下が灰色になった。

 

トムは目を閉じ、口も閉じ、そのまま何秒か息を止めた。

しばらく経って、やっと埃が落ち着き始める。

 

「……ひどいわ」

目を開けると、ハンナは髪から綿埃をつまみ取った。

ラベンダーは真っ白になった全身を見て、憮然とした表情で立ち尽くし、ロンはそんな彼女を見て噴き出し、すぐにむせる。離れたネビルでさえ眉毛が真っ白になった――とんでもない大惨事だ。

 

「これは、どういうことですか」

 

五人の背筋が伸びた。

巡回でやって来たマクゴナガルは埃まみれの生徒たちの顔を順に見て、まだ笑うように震えている通気口へ目を向けた。

 

 彼女は杖のひと振りで舞った埃をまとめる。

 

「もう一度やったら、格子も外して、一枚ずつ洗います。よろしいですね」

 

通気口は動かなくなった。

トムは密かに感心した。生徒だけでなく、船舶への指導まで行き届いている。

 

     *

 

次に割り振られた部屋は、普段の教室よりずっと暖かかった。

天井から籠がいくつも下がり、壁際には鉢植えと木箱が並んでいる。

どこかで虫の羽音がして、青い花が、こちらを見るように向きを変えた。

 

この時、ハグリッドは部屋の中央で、大きな手を慎重に開き何かを待っている雰囲気だった。

 

「そいつは横から持つんだ。

 上から掴むと、怖がって膨らむ」

 

横の2年生の先輩の両手から、白い毛がはみ出していた。

毛は説明を聞いている間にも膨らみ、彼の顔を隠した。

 

「……ハグリッド!もう膨らんでる!!」

「落ち着け。息をゆっくり吐け」

 

先輩は一瞬パニックになったが、やがて言われたとおりにした。

すると、白い塊も少しづつ縮む。

 

トムは興味深くそれを観察した。

「あれってなに?」

「ケセランパセランだよ。歴代の上級生たちが育てて、増えたんだって」

 

ネビルが答えた。

 言われて見渡すと、籠の中にも、窓の縁にも、棚の上にも白い綿毛のような塊がいた。幾つかは空中を漂い、部屋の隅で寄り集まっている。

 

ハンナが近づくと、ハグリッドは顔をほころばせた。

「だろう? 人懐っこい連中なんだ。手を温めて、こう、出してみな」

 

大きな掌を擦り合わせた後、上へ向ける。

ハンナも真似をすると、一匹の毛玉がゆっくり降りてきた。

指の間へ白い毛が垂れ、彼女は息をひそめて笑った。

 

「軽い!持ってないみたい」

「面白そう!私もやりたい。ほら、おいで」

 

そういうラベンダーの手には二匹が収まったいった。

ロンも両手を出したが、近くの毛玉たちは逆に天井のほうへ上がってしまった。

 

「え、僕は何もしてないぞ」

「手が冷てえんだ。ちゃんと温めてやれ」

 

ロンは掌を擦り、今度は息まで吹きかけた。

 

トムのところへも一匹来たが、袖へ触れた途端、くるりと向きを変えた。

 

「おめえ、石鹸がついてるな。そこの流しで、よくすすいでこい」

 

ハグリッドに促され、トムは袖口の匂いを嗅いだ。

なるほど。魔法界では温厚そうな毛玉ですら、ちゃんと手順を守って接しないといけないのか。

 

     *

 

ここでの仕事は、上級生たちが生き物を別の籠へ移している間に、棚や空になった飼育箱を掃除することだった。

 

ただし、見た目が埃とほとんど同じなのが問題だった。

 

ロンが床の隅へ箒を差し込むと、白い塊が一斉に舞い上がった。

 

「ロン!そっちはケセランパセランよ!」

「分かってる! その下の埃を取ろうとしたんだ!」

 

逃げた毛玉たちはハグリッドへ殺到した。

一匹、二匹と髭へ潜り込み、最後には顎のあたりがすっかり白くなった。

 

「よしよし。びっくりしたな。もう大丈夫だ」

ハグリッドは髭を撫でた。怒る気配は少しもない。

横で数を数えていた先輩が、指を折り直す。

 

「先生、さっきより一匹多いです」

「そいつは俺の髭だ」

「どれがですか?」

 

ハグリッドは困ったように顎を見下ろした。

 

隣では、ハンナの肩に一匹が落ち着いていた。

彼女はその側の腕をなるべく動かさず、片手で丁寧に棚を拭いている。

掃除の効率は落ちていたが、毛玉はたいへん満足そうだった。

 

     *

 

夕方、操舵室の敷居をまたいだトムは、思わず立ち止まった。

 

まず、正面には大きな舵輪があった。

黒く艶のある木の持ち手には、長年、人の手に擦られた跡がある。

その向こうの窓いっぱいに薄暗い水が広がり、銀色の魚が光を反射して横切った。

 

次に、部屋の中央の大きな机には海図が開かれていた。

描かれた岸へ小さな波が寄せ、青い線がゆっくりと位置を変える。周囲に並ぶ真鍮の計器では、針がそれぞれ違う速さで揺れていた。

一つだけ、数字のない文字盤がある。目盛りの片端には眠っている船、もう片端には帆を張った船の絵が描かれていた。

 

「見るだけですよ、ブライトさん」

 

伸びかけた手を、トムはバケツの取っ手へ戻した。

 

「これ、何を測ってるんですか?」

「船を動かす魔法の働き具合です。今は進まず、同じ深さに留まっていますね」

「帆がなくても、進めるんですよね?」

「ええ。箒を思い浮かべてごらんなさい。柄にかけられた魔法で空を飛ぶでしょう? この船にも、水の中を進むための魔法が組み込まれています。こちらの舵輪で、向きを伝えるんです」

 

フリットウィックが舵輪へ手を添えた。

計器の針が動き、窓の外の魚が一斉に向きを変える。

 

「遠くの湖へ出られるのも、その魔法ですか?」

 

ハンナの問いに、先生は海図を示した。

 

「そちらは別です。通れる水域同士を魔法でつなぎ、その間を渡ります。もっとも、どこへでも出られるわけではありませんよ。安全な道を選ぶために、この海図があるんです」

 

杖先が近づくと、青い線の一本が横へ曲がった。

 

「今日は、そちらへは行きません。ええ、分かっていますとも」

 

線はゆっくり元へ戻った。

経路を提案し、採用されなければ不満も示す。ずいぶん積極的なカーナビだった。

 

いい機会だったので、トムはさらに質問を重ねた。

 

「これだけ水の中にいて、隙間から漏れたりしないんですか?」

「そのための保護がかかっています。外の水を入れず、中の空気を保つ。水の重みで船が潰されるのも防いでいますよ」

「板が割れても?」

 

 ロンが口を挟んだ。

 

「小さな傷なら、魔法が補います。もちろん、修理をさぼっていいということではありません。今日、皆さんが磨いてくれた覆いの下にも、その保護を支える細工があるんです」

 

先生は壁を軽く叩いた。

 

「きれいにすれば、傷んだところを見つけやすくなるでしょう?」

 

トムは、朝から磨いた真鍮の板を思い出した。

ただ飾りを光らせていたわけではなかったらしい。

 

「でも、船が扉を閉めたり、床を動かしたりするのは……」

「ああ、そちらとは分けてあります。水を防ぐ仕組みまで好きに動かせたら、くしゃみ一つで、皆さん泳ぐことになってしまいますからね」

 

 床が、短く鳴った。

 

「おや。お気に召しませんか?でもみなさんはあなたが好きだからこうして掃除しているんですよ」

 

フリットウィックは楽しそうに言い、上級生を呼んで机の下を開けさせた。

内側には紐や細い鎖が幾筋も走り、真鍮の板に刻まれた文字が順番に光っている。

     *

 

最後の仕事場へ向かう途中、ラベンダーが扉の前で眉を顰め、足を止めた。

 

「ここ、もう終わってるわよ」

 

――扉には「清掃済み」の札が掛かっていた。

 

ネビルは札を見て、それからドアノブを見て、それをひねって扉を開けようとしてみた。しかし、扉はびくともしなかった。

 

ハンナはマクゴナガルを呼びに行き、しばらくして、滅多にないことだが、腕をまくった彼女がやって来た。

 

「先生。僕たちが来た時にはこうなっていました」

 

マクゴナガルは羊皮紙へ目を落とした。

眉が、少し上がった。

 

扉が、かちりと鳴った。

 

「開けなさい」

 

返事はなかった。

 

彼女が杖を上げると、直ぐに鍵が外れた。

ネビルがバケツを差し込み、トムとロンが扉を押す。

隙間から箒の柄が突き出した。続いてモップ、丸めた絨毯、何枚もの汚れた布。中の荷物を少しずつ押し戻して、ようやく扉が開いた。

 

部屋は物で埋まっていた。

棚にも床にも、積み重なった道具の間にも、灰色の埃が詰まっている。

 

トムは廊下を振り返った。自分たちが拭く前から、きれいになっていた場所が幾つもある。掃除に協力していたのではない。見えないところへ押し込んでいただけだったのだ。

 

マクゴナガルは、部屋の中をしばらく眺めた。

 

「なるほど。ずいぶん念入りに片づけたものですね」

 

声は静かだった。

トムは、握っていた雑巾をきちんと畳んだ。

 

「では、隠した分も、すべてきれいにしましょう。

 扉は開けたままにしておきなさい」

 

頭上で梁が長く軋んだ。

残念ながらこの場に船の言い訳を聞くものはいなかった。

 

 

     *

 

広間へ戻るころには、バケツを置くだけで腕が痛んだ。

トムは椅子へ体を預け、卓の上に用意されている食事を見つめた。

腹は減っている。しかし、あれを口まで運ぶために使える腕が残っていなかった。

 

ハンナは髪を結び直し、ラベンダーとロンは袖口から出した埃を慎重に布へ包んでいる。ネビルは両手でカップを持ち、ほっとした顔で湯気を眺めていた。

 

「今年は、早く終わったね」

「これで?」

 

 トムが尋ねると、ネビルは頷いた。

 

「去年は、帰ろうとしたら階段がなくなってて。

 先生を呼びに行くのも大変だったんだ」

 

乾いた笑いを上げた。原作では屋敷しもべ妖精たちが城のホグワーツの掃除をしていたが、彼らも日々このような苦労を味わっているのだろうか。

 

仕上げの確認をしていた大人たちも殆ど戻ってきた。

ハグリッドの髭には、まだ白い毛玉がひとつ残っている。

上級生に指摘されると、彼はそっと摘まみ上げ、上着の大きなポケットへ収めた。周りの生徒が笑い、ハグリッドも笑った。

 

周りでは埃ひとつ見当たらず、窓はピカピカに磨きあげられていた。

どうやら、ついに大掃除は無事終わったようだ。

 

トムは両足を伸ばした。

床板が小さく鳴る。今度は、持ち上がらなかった。

 

「お疲れさま」

足元へ言うと、ロンが呆れた顔をした。

 

「褒めることないだろ。あれだけ邪魔したんだぞ」

「でも、きれいになったし」

「来年も同じことをするに決まってる」

「……たぶん、褒めなくてもすると思う」

 

ネビルがカップの向こうから言った。

反論はなかった。

 

ようやくスプーンを持ち上げる元気が出た時、広間の入口にクィレルが現れた。

片手には杖。ローブの裾が黒く濡れ、歩くたび、床に小さな滴が落ちた。

 

彼は生徒たちの卓を通り過ぎ、マクゴナガルへ近づいた。

 

「先生。少し、よろしいでしょうか」

「どうしました、クィレル先生」

「下の区画で水が入っています。船尾側の、物置の先です」

 

 ロンがパンをちぎった。

 

「今度は水まで隠してたのか」

 

トムも笑いかけた。

しかし、フリットウィックはカップを置いたまま、手を離さなかった。

 

「溜まっているだけですか? それとも、今も?」

「継ぎ目から流れ込んでいます。内側の扉は閉めてきました」

 

椅子が床を擦った。

マクゴナガルが立ち上がり、クィレルへ何か尋ねる。

彼が声を落としたので、答えは聞き取れなかった。

フリットウィックは杖を出していた。

ハグリッドも、食べかけのパンを皿へ戻した。

 

「皆さんは、ここにいなさい。上級生もです。指示があるまでは、下へ降りないように」

 

マクゴナガルの声で、周りの会話が止まった。

先生たちが出ていくと、ロンはちぎったパンを手にしたまま、入口を見ていた。

トムも持ち上げたスプーンを皿へ戻した。

 

板が割れても、魔法が補う。

フリットウィックは、そう言っていた。

 

廊下の奥で、木が軋んだ。

今日、一日中聞いていた音だった。

船を叱る声は、もう聞こえなかった。

 

     *

 

最後の階段を下りると、マクゴナガルの靴底が濡れた。

廊下の突き当たりから薄く水が広がっている。

扉の前に引かれた銀色の線が、それ以上の流れをせき止めていた。

 

「中に人は?」

「いません。隣の物置も確認しました」

 

クィレルの答えを聞き、マクゴナガルはフリットウィックへ場所を譲った。

彼が杖を上げると、敷居の銀の線が上へ伸び、扉を覆った。

 

「ハグリッド。ゆっくり開けてください」

 

大きな手が取っ手を引いた。

水が手前へ押し寄せ、敷居の上で盛り上がる。

透明な仕切りに阻まれた波が、部屋の中へ返った。

 

マクゴナガルは杖の明かりを高くした。

壁に空の棚が一つ。水に浮いた木箱が、その下でゆっくり回っている。

奥の継ぎ目から噴き出す細い流れが、水面を絶えず叩いていた。

深さは、すでに膝ほどあった。

 

「見つけたときは、まだ足首まででした」

 

クィレルが言った。

マクゴナガルは扉の内側についた濡れ跡を見た。

報告を聞いて下りてくる、その間にも水は増えている。

 

「外から何かにぶつかったのでしょうか?」

「それだけなら、保護は働くはずです」

 

フリットウィックは仕切りを保ったまま、壁へ杖先を向け直した。

 

「外板と保護の両方が、同じ場所で損なわれています。

 これは、普通の水漏れとは違いますよ」

「そのようだな」

 

階段のほうから声がした。

グリンデルバルドが下りてきていた。

上着は肩へ羽織っただけで、ボタンは空いていた。

 

「お呼びするところでした」

「床が騒ぐのでな。何が壊れた?」

「まだ調べているところです」

 

老人はフリットウィックの横から船室を覗き、壁へ片手を向けた。

噴き出す水の表面を、霜が走った。

流れが継ぎ目から伸びた形のまま凍り、水音が途絶える。

部屋に残った波が、棚の下で揺れていた。

 

「今のうちに見たまえ」

 

マクゴナガルが入口の仕切りを引き受け、フリットウィックが両手を空けた。

杖先で描いた輪から淡い光が広がり、水面を越えて壁へ届く。

木の表面に細い線が現れ、床や天井へ枝分かれしていった。

 

一か所だけ、つながらない。

フリットウィックがもう一度なぞる。光は同じところで消えた。

 

「この部屋だけです。保護が、ここで途切れています」

「清掃の際に、何か外した可能性は?」

 

クィレルが尋ねた。

マクゴナガルは片手で羊皮紙を開いた。

 

「床と棚の清掃、点検口の蓋の確認。保護を支える部分には触れていません」

「ええ。それに、拭いた程度で外れるものではありませんよ」

 

フリットウィックは消えた光の先を見つめた。

 

「古くなって弱まったのなら、周囲にも兆候が出ます。しかし、隣の部分は正常です。

ここだけ、これほどはっきり切れているというのは……」

「別の魔法が干渉したか。それも、強い」

 

グリンデルバルドの声に、マクゴナガルは顔を上げた。

 

「そう判断する根拠があるのですか?」

「可能性を挙げている。結論が欲しければ、調べたまえ」

 

老人の指がわずかに曲がった。

水を塞いでいた氷に亀裂が入り、白い筋が端まで伸びた。

 

「ただし、手早く頼む。いつまでも押さえてはおれん」

 

フリットウィックが壁から杖を引いた。

 

「ここで保護をかけ直すのは危険です。

 陸で内張りを外し、つながりが失われた場所を確かめる必要があります」

「板だけでも、先に直せんのか?」

 

ハグリッドが水面を覗いた。

 

「保護が戻らないままでは、直した板へ水の圧力がかかります。

 隣まで割れてしまうかもしれません」

 

ぱきり、と氷が鳴った。

マクゴナガルは羊皮紙をしまった。

 

「では、この部屋を封印しましょう。機を見て浮上できる場所へ移ります。

 修理はその後です」

「隣との境も固めましょう。入口だけでは足りません」

「ハグリッド、扉を支えてください。クィレル先生は床と右の壁を。

 私は左側と天井を受け持ちます」

 

ハグリッドが扉を引き寄せ、両手を当てた。

クィレルが腰を落として杖を構える。

フリットウィックの呪文に合わせ、敷居の銀色の線が太くなり、左右の壁へ這い上がった。

 

マクゴナガルの杖へ、重みがかかった。

先端を支えようと指を締める。水が新しい境を押し、銀の線が天井の角で震えた。

 

「ミネルバ、もう少し上です。そう、そのまま」

 

二本の光が重なった。

奥で氷が砕けた。

水音が戻り、扉がハグリッドの掌の下で震える。

冷たい飛沫が、マクゴナガルの頬へ飛んだ。

 

「持ってるぞ。続けてくれ!」

 

ハグリッドが肩を扉へ当てた。

グリンデルバルドの手が動く。細い光が扉の中央を横切り、左右の柱へ食い込んだ。

振動が弱まる。

 

「仕上げたまえ」

 

マクゴナガルは呪文を途切れさせなかった。

足元へ流れていた水が止まる。扉の隙間から聞こえる音が遠ざかり、やがて厚い壁の向こうで鳴っているようになった。

 

銀色の線が一度輝き、木の中へ沈んだ。

 

フリットウィックは扉から床、左右の壁へと杖先を移し、最後に天井を確かめた。

 

「ええ。保っています。隣の区画も無事です」

 

ハグリッドが、少しずつ体を離した。

扉は動かなかった。

 

マクゴナガルも杖を下ろした。濡れた指が冷え、握り直すと関節が痛んだ。

 

「この区画への立ち入りを禁じます。生徒たちへ知らせてください。停泊場所についても、すぐに相談しましょう」

 

取り出した羊皮紙の端には、水滴がついていた。

部屋の番号の横に、点検を終えた印がある。ほんの数時間前に記されたものだ。

 

「担当した方々から、順番に話を聞きます。何を動かし、何を見たのか。

 小さなことでも確認しなければなりません」

 

グリンデルバルドは、閉じた扉を見ていた。

――その向こうで、水が低く鳴り続けていた。

 

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