船の生活は、拍子抜けするほど早く元へ戻った。
先生たちは授業をし、課題を出して、その提出が遅れれば叱った。
侵入者が捕まっていなくても、変身術の論文の締め切りは待ってくれない。
正常性バイアスというやつだろうか。それとも単に、怖がっている暇がないだけか。
ともかく、いつもどおりの船の日常が戻ってきた。
新しく来た子供たちも、少しずつここでの生活に慣れ始めていた。
授業には参加できないが、空き時間のある上級生が読み書きや計算を見てくれている。
食器を並べたり、洗濯物を運んだりと、自分たちから手伝いを申し出ることもあった。
コリンは、頼まれたことに大抵質問を三つほど足してから取り掛かった。
デニスは兄の真似をし、ジニーは兄たちに頼む前に自分でやってしまう。
船自体も、ときどき子供たちの相手をしていた。
廊下で、船が奇妙なボール遊びに付き合っているところを見かけたことがある。
デメルザがボールの壁当てで遊んでいると、突然壁の板が跳ね起き、あらぬ方向にボールを打った。
彼女がボールを追いかけると、今度は床の板が傾き、ボールを反対方向に転がしていく。
「この!」
デメルザがムキになって追いかけると、床がコトコトと笑うように鳴った。
その近くでトムは急に傾いた床で転んだ。
遊ぶのはいいけれど、授業に向かう人間まで巻き込まないでほしかった。
*
一方、追加の護衛として滞在しているはずのトンクスは、生徒たちをからかうのに忙しかった。
消灯後に出歩く生徒の前に顔を歪に変え、暗がりから突然現れたり、廊下ですれ違った生徒に先生の顔で追加の課題を出したりと、上級生たちが彼女を見て悲鳴を上げる理由は段々わかってきた。
もう一人のムーディーはというと、職務に忠実で、文字どおり目を光らせていた。
授業中に廊下を歩いていた生徒は行き先を尋ねられ、普段と違う階段を使った先生は理由を尋ねられた。
*
「止まれ」
朝の廊下で、その声がした。
倉庫の扉へ手を伸ばしかけたトムは思わず姿勢を正し、振り返った。
――マッドアイ・ムーディーが階段の下に立っていた。
「名前は」
「トム・ブライトです」
「どこへ行く」
「ここを通って倉庫へいきます」
「何をしに」
「練習を。グリンデルバルド先生の課題で、瞑想をしています」
義足が廊下を叩いた。
ムーディーは扉の前まで来ると、普通の目でトムを見下ろし、義眼で扉の向こうを見た。
「毎朝か?」
「はい」
「一人で?」
「基本的には」
「今朝、ここへ来ることを誰に伝えた?」
「いつものことなので」
「誰に、言ってきた?」
トムは口を閉じた。
これはまずいパターンだ。
「……誰にも」
「戻らなかったら、誰が気づく」
朝食へ出なければ、ネビルとロンは気づくだろう。
「同じ部屋の友達が」
「いつだ?」
「朝食のときには」
ムーディーは廊下の時計を見た。
朝食まではまだずいぶんある。
「その頃にはお前は冷たくなっとるかもしれんな」
「ハイ……すみません。次からは気を付けます」
船で死を予告する役は、トレローニーだけで十分なのだが。
「ここへ来る途中、何人とすれ違った?」
「誰とも」
「本当か?」
トムは来た道を振り返った。
階段。廊下。閉じた教室の扉。
確かに、誰もいなかったはずだ。
「俺は二つ前の角にいたぞ」
トムはムーディーを見た。
「……見えませんでした」
「見ているだけで、警戒していない。視界には死角があることを忘れるな」
男は壁際へ寄った。そこには柱の出っ張りがあり、肩を引くだけで体の半分が隠れた。
「敵は廊下の真ん中で、名札をつけて待っちゃくれん。杖は?」
トムは外套の内側へ手を入れた。
裏地に指が引っかかり、柄をつかむまでに少し手間取った。
「死んだぞ」
「……はい」
「もう一度だ」
トムは杖をしまい直し、もう一度抜いた。
今度は引っかからなかった。
ムーディーは鼻を鳴らした。
「使う前に自分の服と格闘するな。抜ける場所へ入れておけ。常に警戒せよ!」
最後だけ声が大きかった。
トムの肩が跳ねた。
ムーディーは赤い扉を押し開け、倉庫の隅まで目を走らせた。
「練習の許可は、俺から先生に確かめる。明日からは同室の者へ行き先を言え。戻る時刻もだ」
「分かりました」
「時刻を過ぎても戻らなければ、先生を呼ばせろ。友達だけで探しに来させるな」
ようやく道が空いた。
トムは部屋へ入り、扉を閉めてから敷物へ座った。
瞑想を始める前から、頭に余計な考えがいっぱいになってしまった。
*
その週のことである。
一年生たちが時間割を見に行くと、掲示板の前に人だかりができていた。
上級生の背中の間へ潜り込み、トムたちは紙を見上げた。
いつもの時間割の隣に、大きな張り紙が増えている。
『ムーディーズ・ブートキャンプ』
太い文字の下に、青い目が一つ描かれていた。
その目がぎょろりと動き、掲示を見ている生徒たちを順番に睨む。
「何だ、これ」
ロンが言った。
トムも、同じことを思っていた。
ブートキャンプ――これまたおよそ魔法界で見るとは思わなかった単語だ。
「名前は気にしないで。あたしが書いたの」
背後からトンクスが顔を出した。
上級生たちが少し道を空ける。彼女は掲示の下へ、もう一枚の羊皮紙を貼った。
「マッドアイがね、この船の生徒は警戒心が足りないって。
危険に出くわしたときの練習をしてくれるそうだよ。
コース別に分けてあるから、低学年でも参加していいよ」
「授業ですか?」
「希望者だけ。放課後クラブみたいな感じ。
参加したい子は、ここへ名前を書いて」
羽根ペンを差し出された上級生が、隣の友人を見た。
友人は掲示を読むふりをした。
「どうしたの? 去年は、あたしより呪文を撃つのが速いって自慢してたじゃん」
「それは、先輩が転んでたからで」
「そうそう。相手が転んでる間に勝てるのは大事だよ。確かめてもらいなー」
上級生は渋々ペンを取った。
一人が書くと、周りも書き始める。
急に用事を思い出したと言って去っていく生徒もいたが、トンクスは追わなかった。
「どうする?」
トムが尋ねると、ラベンダーは張り紙の目と睨み合っていた。
「一年生でも大丈夫っぽい」
「難しさで分かれてるんだって」ハンナが言った。「なんだか楽しそうじゃない?」
その想定は間違いなく、確実に、絶対甘いぞ、とトムは思った。
原作の授業よろしく禁じられた呪文を使われる可能性すらあるんだぞ。
いや、そもそもあれは4年生向けだし、実際には変身したクラウチ・ジュニアがやったことだが。
ロンは署名欄を覗き込み、兄たちの名前を見つけた。
「兄貴たちまでいる。ひどい目に遭うなら、見ておかないとな」
「ムーディーさんならきっといい勉強になる!」
ネビルはノリノリで率先して自分の名前を書いた。
トムも名前を書いた。
例の朝の尋問で、思うところはあった。
日記をつけ始めてから、確かに周囲の様子について自分なりによく観察しているつもりだった。
しかし、指摘されるまではムーディーに全く気付かなかった。
ムーディーならもう少し体系的な訓練をしてくれるかもしれない。
署名を終えると、紙に描かれた青い目が一度、瞬きをした。
――スパルタすぎるかもしれないという欠点を除けば。
*
最初のムーディーズ・ブートキャンプの開催は、木曜日の放課後だった。
下層の廊下へ降りると、五つの空き部屋の扉に、それぞれ札が掛かっていた――『クラバート向け』、『マグル向け』、『初級』、『中級』、『上級』。
トムは、一番左の札を二度見した。
「クラバート向け?」
確か猿と蛙の中間のような魔法生物で、危険を察知すると額の突起が赤く点滅して仲間に知らせる。
「危険に敏感な生き物だ。少なくてもお前たちよりはな」
横から声がした。
ムーディーが、壁へ背を預けて立っていた。
今日も、近づくまで気づかなかった。
「一年生は一番左だ」
「初級じゃないんですか?」
ラベンダーが尋ねた。
「最初から初級をやれる自信があるのか?」
次の瞬間、左から二番目の扉が勢いよく開いた。
出てきた三年生は、片手で鼻を押さえていた。指の間から血が垂れ、シャツの襟へ落ちている。
もう一人はその肩を借り、右足を床につけないように歩いていた。
一年生たちは全員思わず後ろへ下がった。
「上を向かない。血を飲んじゃうよ。
ほら、少しかがむ、小鼻のところを押さえて」
トンクスが二人を廊下の長椅子へ座らせた。
傍らの机には、包帯と薬瓶、水差しが並んでいる。
「あたしを見て。目が回ったりはしてない?」
「さっきは、少し。箱に頭をぶつけて」
「分かった。頭も打ったんだね。二人とも、ポンフリー先生に診てもらおう」
ムーディーはその様子を手元の羊皮紙へ短く書きつけた。
トムはその扉の札を見直して息を呑む――『マグル向け』
マグルはマグルでも、グリーンベレー向けなのかもしれない。
さらに横を見ると、中級コースの前では、六年生二人が小声で打ち合わせをしている。
扉が開くと、二人は杖を構えて入っていった。
その扉が閉まるより先に、向こうで何かが砕けた。
「プロテゴ! 立ち止まるな!」
「分かってる!」
怒鳴り声が途切れ、扉の板がびりびりと震えた。
トンクスがその扉に掛かった札を裏返した。『使用中』の文字が現れる。
ムーディーは一年生たちへ向き直った。
「さて、二人一組だ。この先で出口を探して出てこい。相棒を置いて出てきても、終わったことにはならん。
使うのは、今までの授業で習った魔法だけだ。知らん呪文を試して、もう一人を吹き飛ばすな」
「コースごとに一組ずつね。次の組は、呼ばれるまで待ってて」
トンクスはそう言い、一年生の名簿へ目を落とした。
「トムとロン。ネビルとラベンダー。ハンナは、ちょっと待ってて」
「分かりました」
「立てなくなったら、赤い火花を上げろ」
ムーディーが続けた。
「それもできなければ叫べ。だが、ちょっと転んだくらいで迎えを待つな。敵は助け起こしてくれんぞ」
トムは、三年生の鼻から落ちる血を見た。
「……ケガするような仕掛けがあるんですか?」
「避けなければな。だが、命を落とす仕掛けはない。中の様子は、こっちで見ている」
ムーディーは左端の扉を押し開けた。
「常に警戒せよ!
中へ入ってから思い出すようでは遅い!」
*
部屋は奥へ長かった。
左右に木箱と棚が並び、その間を幅二メートルほどの通路が曲がりくねって続いている。
天井の灯りは弱く、積み上げた箱の裏は暗かった。
「ルーモス」
ロンが杖を上げた。
トムも明かりをつけ、二人で床を照らしながら進んだ。
「意外と普通だな」
「フラグはやめろって」
足元には古い縄や木屑が散っていた。
トムが縄をまたぎ、次の一歩を踏み出したとき、足首に細いものが触れた。
ぷつり。
右の棚から砂袋が飛び出した。
左肩にまともに食らい、トムはロンを巻き込んで木箱へ倒れ込んだ。角で肘を擦り、息が詰まる。
顔を上げかけると、袋が鼻先をかすめて戻ってきた。
「伏せろ!」
ロンに外套を引かれ、床へ腹をつけた。
頭の上を袋が往復する。二人は揺れの外へ這い出し、棚の陰でようやく起き上がった。
砂袋は天井から吊られていた。さっきまで歩いていた場所を、まだゆっくり横切っている。
トムの左肩が熱い。袖をめくると、肘の皮が剝け、木屑が血に張りついていた。
始まって一分も経っていない――11歳にすることかよ!?
「大丈夫?」
「たぶん。ロンは?」
「腰を打った。何を踏んだんだ?」
ロンが床へ顔を近づけようとした。
トムは襟をつかんで止めた。足首へ触れた感覚が残っている。縄よりずっと細く、明かりをつけていても見えなかった。
杖先の灯りを消し、床の少し上へ狙いをつけた。
「バーバジオ」
白い火花が扇状に散った。
膝の高さで、細い線が光った。通路の左右をつなぐ透明な糸だった。
ロンがそこへ明かりを寄せる。糸の端は左の箱の穴へ続き、向かいの壁には丸いへこみがいくつも残っていた。
もう一度、少し高く火花を散らした。
胸の高さにも一本あった。
ロンが無言で身を引いた。
クラバートの危険察知能力を、少々甘く見ていたらしい。
*
と、そんな風にワイヤートラップだらけの空間を25メートルほど来たところで、背後の天井板が開いた。
ドスリ、と木の人形が落ちてきた。
それは成人ほどの背丈があり、黒いフードの下に丸太の顔が覗く。
胴は木樽の様に見え、手足は太い割り木だった。そして、その右手には棍棒を握られている。
体の剥き出しの歯車が軋み、大きな足が一方床を踏んだ。
「フリペンド!」
ロンの呪文で、人形は一歩下がり、近くの箱を踏んだ。
だが、すぐに体勢を立て直し、箱を踏み越えてきた。
「効かないよ!?」
人形が箱を跨いだ。
速い。成人と同じ程度の歩幅であるため、子供のトムたちにすぐにでも追いつきそうだった。
トムは固まったロンの袖を引き、通路を走った。
後ろから、木の足が床を打つ音が迫る。
出口までは、まだどれくらいの距離か分からない。
それに途中には罠が残っているかもしれない。全速力で走るわけにもいかなかった。
「止めないと!」
ロンが振り返り、棍棒を避けた。
すぐ横の箱が割れ、木片が頬をかすめる。
「やってみる!」
トムは通路の右端へ寄り、人形の足元へ杖を向けた。
「グリセオ!」
すべすべ呪文によって床板が、濡れたように光った。
人形の右足が前へ滑る。
踏ん張ろうとした左足も流れ、木の体が仰向けに倒れた。
棍棒が床を打ち、二人の靴へ振動が伝わった。
「行こう!」
今度はロンがトムを引いた。
振り返ると、人形は起き上がろうとしていた。
手をつくたびに滑り、棍棒で床を叩いている。
ずっと止まってくれるわけではない。
トムは走りながら杖を振り、先へ火花を散らした。
糸は見えなかった。
そして、次の周り角を曲がると、『出口』とデカデカ書かれた扉の前に出た。
*
背後で棍棒が床を叩く音が響く。
「早く!」
ロンは杖を構えて振り返りながら、せかした。
「わかってる!」
トムは急いでドアノブを回した。扉はスムーズに向こうへ動いた。
しかし、その先に廊下はなかった。
黒い板が一枚、壁のように立っていた。その表面に嘲笑うように赤い文字が浮かぶ。
『出口が本物とは限らない』
トムは、それを最後まで読み終えられなかった。
足元で、床板が跳ねたかと思うと、左右の床が一斉に下へ折れた。
箱も棚も、壁際へ引っ込んでいく。
まずい。体が傾く。
トムは足を踏み直したが、靴底が床の縁を滑った。
杖を握った右手が空を切った。
「トム!」
左右の板が下へ折れ、箱と棚が壁際へ引っ込んだ。トムの右足を載せた板も傾いた。
踏み替えようとした靴が滑る。
顎を板の縁へ打ちつけた。目の前が白黒した。
本能的に振り回した両手が何かに掛かり、必死にしがみつく。杖が指から離れ、暗がりへ回りながら落ちて――下で乾いた音がした。
トムは床の縁にぶら下がっていた。
残っているのは、通路の中央を走る二枚分の細い板だけだった。下は三メートルほどの落とし穴になっており、杖が落ちたのだ
左肩が痛んだ。
砂袋を受けた腕に力を入れると、指がずれる。
ロンが橋へ腹這いになり、トムの右腕を両手でつかんだ。
上着が脇へ食い込み。引かれるまま肘を上げようとしたが、左肩が動かない。
靴で裏側を探っても、足を掛けるところはなかった。
そんな中、木の足音がした。
ロンの肩越しに、人形が見えた。
角を曲がり、橋へ足を載せている。滑らせた床は、すでに下へ折り畳まれていた。
「後ろ!」
ロンが振り向き、右手を杖へ伸ばした。
杖は、二人のすぐ脇に置かれていた。トムを両手で引くために離したのだ。
支える力が弱まり、トムの体が沈んだ。
ロンが慌てて両手でつかみ直す。
靴底が板を擦った。二人とも、じりじりと縁へ引きずられる。
人形の影が、ロンの背中へ落ちた。
*
棍棒が上がった。
その先端にある黒い節まで見えた。
ロンは振り向けない。自分を離さなければ杖も取れない。
あれが背中へ落ちれば、二人とも下へ落ちる。
トムは杖を探しかけた。
下だ。拾う時間はない。
止めなければ。
突き出しかけた左手が、板を握り直した。杖もないのに、何ができる。
肩へ痛みが走った。
その向こうで、ロンの指がトムの袖へ食い込んでいた。
トムは棍棒を見た。それは木製だった
――「杖は、流れを導く助けになる。呪文と動作を学び、何度も使うことで、力の通る道を覚える」
唐突に、グリンデルバルドの言葉が脳内に浮かんだ。そういえば、木を別のものに変える練習は幾度もして来た。
それは変身術の基礎と言っていい。授業で杖を振るたびに、同じところを通る感覚があった。
手の中が熱くなり、杖先へ押し出したものが、狙った物へ届く。力任せに押すような作業ではない。木目全体に力を均一にして……
あの嵐の日に甲板に立つグリンデルバルドの姿が思い浮かべる。
そうだ。力の流れの感覚、それを掴み、まねして対象に向かって伸ばす。
トムは板から左手を離した。人形の方へ向ける。
ロンが重さを受け、低く呻いた。
咄嗟にイメージできたのは朝食で幾度も食べた柔らかいパン。
指でつまむとへこむ皮。ちぎった断面の白い中身。小さな穴がいくつもあって、握れば簡単に潰れてしまう。
小麦粉の集合体を発酵させ、焼いて、固めたもの。
振り下ろされる木製の棍棒の形は、そのままでいい。ただ、中身をイメージしたものへと変えていく。
木目も節もなくして、空気を含んだ柔らかいものに。
指先が熱くなった。
いつもなら杖へ流していた力を、そのまま空中へ流す。
途中で散ってしまいそうになるのを、意識を集中して棍棒へ押し出す。パンを指で潰した感触に全神経を注ぎ繋ぎ止める。
人形の腕が動いた。
棍棒が今まさにロンの肩にあたろうとする。
――パンになれ
トムはそれにそう命じた。
次の瞬間、棍棒の先が膨らんだ。
木目が消え、表面が薄いきつね色に変わる。握りの部分まで変化が走った。
太いパンが、ロンの背中へ落ちた。
真ん中から潰れ、裂けた皮の間から香ばしい白い中身がはみ出した。
ロンは目をつぶって首をすくめたが、腕を離さなかった。
人形がもう一度殴る。曲がったパンの先がちぎれ、二人の肩へパンくずが降った。
トムは左腕を板へ戻した。
痛みをこらえて肘を引っかけ、胸を縁へ押しつける。重さが板へ移った。
「杖を!」
ロンは左手でトムを支えたまま、右手で杖を拾った。
人形は潰れたパンを振り上げていた。その足元へ、ロンが杖先を向ける。
「グリセオ!」
人形の足元だけが光った。
片足が橋の外へ滑り、木の腰が傾く。空いた手が橋の縁を掠め、人形は横向きに落ちていった。
その足先がロンのすねを打ち、彼は呻き、膝をついて踏みとどまる。
下で鈍い音がした。
ロンは杖を握ったまま、トムの上着へ手を掛けた。
トムは板に載せた左肘を支えに体を捩り、右膝を縁へ引っかけた。
二人で後ろへ転がり、ようやく橋の上へ這い上がった。
しばらく、息しか出なかった。
トムは頬を板へ押しつけた。顎も肩も痛い。左手の指先だけが、まだ熱かった。
「……いま、何した?」
ロンの声が、すぐそばでした。
「パンに、した」
それ以上は、うまく説明できなかった。
*
ロンは腫れ始めたすねをさすり、トムは下の落とし穴を見た。
幸い、杖は折れずに引っかかっている。
「ウィンガーディウム・レヴィオサー。いや、ウィンガーディウム・レヴィオーサ」
ロンの呪文で、杖が浮いた。
一度橋の裏を擦ったが、ゆっくり上がってくる。トムは身を乗り出さずに届くところまで待ち、両手で受け取った。
「ありがとう」
ロンは頷き、すねを押さえ直した。
トムは杖の明かりで部屋を見回した。
正面の偽の出口は行き止まりだった。右の壁には、棚が引っ込んだあとに小さな扉が現れている。
橋からは二メートルほど離れ、折り畳まれた床板が、その間へ垂れ下がっていた。
トムは床板の端を浮かせた。
橋の側面に残った蝶番が軋み、板がゆっくり持ち上がる。
先を扉の敷居へ載せると、橋から壁へ細い道ができた。
両端が掛かっているのを確かめ、さらに呪文で支えた。
「先に行って。向こうから支えて」
ロンが四つ這いで渡った。
扉の前の狭い足場へ着くと、振り返って板へ杖を向ける。
トムも、左肩をかばいながら這って渡った。
取っ手へ手を伸ばす前に、二人は立ち止まった。
トムが火花を散らし、ロンが扉の上と下、蝶番を調べる。
何も見つからなかった。
二人で脇へ寄り、ロンが取っ手を引いた。
廊下の明かりが足元へ差し込んだ。
*
「出てきた!」
ラベンダーの声がした。
トムとロンが這い出すと、ハンナが口元へ手を当てた。
ネビルが近づき、ロンへ肩を貸す。
「何があったの?」
ラベンダーはトムの顔を見て、それから服に付いたパンくずを見た。
「中に何がいるの? その血、どこから?」
トムは顎へ触れた。
指先が赤くなった。
「人形と……床が」
「床?」
「落ちるんだ」
ロンが言った。
ラベンダーが、これから入る扉を見た。
「床が落ちるの?」
「僕が落ちた」
トムが訂正した。
「似たようなものだろ」
「立ち話はあと。座って」
トンクスが二人を長椅子へ連れていった。
ロンのすねを見ると、すぐにズボンの裾をまくった。
赤黒く腫れている。
「これはポンフリー先生に見せよう。トム、君も。顎を上げて」
濡れた布で、顎についた血が拭われた。
トムは思わず顔を引いた。
「痛い?」
「痛いです」
「少し我慢して。服にもついてるから」
トムは膝の上で拳を握った。
トンクスは肘の傷も確かめ、ロンのすねとともに手当てをした。
*
ムーディーは、部屋の底から拾い上げた人形を運んできた。
片脚の関節が外れ、右手には半分に折れたパンが握られていた。
それを長椅子の前へ置いた。
「入口から見ていたぞ」
義眼が、トムを向いた。
「最初の糸に引っかかったあと、火花を使ったな」
「はい」
「床を滑らせたのは?」
「僕です」
「人形を壊そうとせず、足を止めた。悪くない」
ムーディーは木の足を靴先で押した。
「だが、扉を見つけたら全部忘れた」
トムとロンは黙った。
「『出口』と書いていれば安全な出口か? 敵が出口を用意して、御丁寧にお見送りしてくれるとでも思ったか!」
「……出られると思って」
「そこを狙われる。逃げられると思ったとき、助かったと思ったときだ。常に警戒せよ!」
隣の扉から出てきた上級生まで、びくっとした。
ムーディーは声を落とし、ロンを見た。
「相棒を引き上げようとしたのは、よかった。放り出して逃げなかった」
「はい」
「次は、腕力だけで引き上げようとするな。上着を浮かせ、体を支える手もあった。
杖を使う手まで塞げば、敵が来ても対処できん」
ロンが、自分の杖へ目を落とした。
「ブライト」
「はい」
「こいつを変えたとき、杖は下だったな」
トムは頷いた。
「呪文も聞こえなかった」
「呪文より先に、変えようと思って」
ムーディーは、しばらくトムを見た。
義眼だけが、人形の握るパンとトムの間を往復した。
「よくやった。実戦なら、肩の骨を砕かれていたところだ」
隣で、ロンが少し身を固くした。
「仕掛けは当たる直前に力を抜く。だが、おまえたちが助かる方法を考えたのは確かだ」
「では、もう一度やれと言われて、できるか?」
トムは潰れたパンを見た。
さっきは、あの柔らかさを必死に思い浮かべていた。
今なら同じようにできるのだろうか。
「……分かりません」
「なら、それを当てにするな」
ムーディーは自分の杖を出した。
「杖なしの魔法は一見便利に見えるが、道具を使わずに済むのと、使わんほうがいいというのは別の話だ。
杖は制限ではない。むしろ魔法使いの力を最大限に引き出す便利なものだ」
杖先を人形へ向けると、パンが木の棍棒へ戻り、外れた関節が元の位置へ収まった。
「魔法使いは昔から、護符だの水晶だの、いろいろ試してきた。杖がこれだけ使われとるのには理由がある。
簡単に持ち歩け、力を集中させ、狙いをつけられる。喧嘩で、素手とナイフを使うのとでは、どっちが有利だ?」
「呪文も、唱えたほうがいいんですか?」
トムは尋ねた。
「省けば、そのぶん自分でやらにゃならん。狙いも、力も、魔法の形もだ」
ムーディーはロンの包帯を見た。
「例えば死の呪いだ。お前たちのような無防備な子供を殺すだけなら、俺でも声は要らん」
周りが静かになった。
「だが、動き回る大人の魔法使いを、確実に仕留めるとなれば話は違う。俺は唱える。
相手は棒立ちで待ってはくれん。届かせるために使えるものは、全部使う」
トムは湖畔で見た緑の光を思い出した。
あのときムーディーが叫んだ声も。
「声を出さんほうが都合のいい場面もある。杖へ手が届かんこともある。そのために覚えるのはいい。
だが、格好をつけて手順を省くな。次の一発で自分が死ぬと思って選べ」
「でも、グリンデルバルド先生は……」
「杖を持ったほうが強い。俺の見立てでは、今は本来の力の四割も出せていればいいほうだ」
ムーディーは杖をしまった。
「来週また来い。今日どこで失敗したか、二人でよく話しておけ」
ロンが札へ目を向けた。
『クラバート向け』
まだまだこの魔法生物を超えるの先になりそうだ。
*
トンクスが二人を医務室へ連れていく準備をしている間に、ネビルとラベンダーの順番になった。
ラベンダーは扉の前で振り返った。
「最初は、糸なのね?」
「僕らのときは」
トムが答えた。
「あと、人形。床を滑らせれば転ぶ」
ロンが付け加えた。
ラベンダーは何度も頷いた。
ネビルはすでに杖を抜き、取っ手の上と下を見ていた。
「行こう。まず、入口から確かめよう」
二人が中へ入る。
扉が閉まった。
直後、ラベンダーの声がした。
「ネビル!床が滑る!」
ロンが、ゆっくりムーディーを見た。
老人は傷だらけの口元を歪めた。
「レッスンワン。敵も学ぶ」