俺のハリポタなんか変   作:パシフィカ

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このホグワーツなんか変

それはまるで内臓と皮膚をひっくり返されて、丸められて、もう一度無理やり引き延ばされたような感覚だった。

 

再び世界に放り出された途端、トムは吐いた。

膝の下には湿った土があった。

片手で草を掴み、もう片方では、まだリリーの手を握っていた。

苦しい。気持ち悪い。鼻の奥がじりじりと痛い。

 

多分これが姿現しの呪文だろうが、もっとこう……不快じゃないように改良を進めることができなかったのだろうか。

 

「ゆっくり息をして。もう着いたから」

 

背中に手が触れた。

トムは何度かえずいてから、ようやく顔を上げた。

木々の間に、崩れかけた石壁が見える。

屋根はなく、窓だったらしい穴を蔦が塞いでいた。雨の匂いがした。

孤児院も、クラウチも、応接室もない。

 

「みんなは」

 声が掠れた。

「あそこにいた、みんなは?」

 

リリーの手が止まった。

 

「あいつ、ここの連中がどうなってもいいのかって。

 院長先生も、子供も、まだ――」

 

「仲間に確かめてもらうわ」

 

「……さすがに戻れませんよね?」

 

彼女はすぐには答えなかった。

その沈黙を見て、トムは立ち上がろうとした。

足に力が入らず、また膝をつく。

 

「いま戻ったら、あなたは捕まるわ。

私ではあなたも、あそこにいる子たちも守れない」

「でも」

「だから、別の人に頼むの」

 

強い声だった。

叱られたように感じて、トムは口をつぐんだ。

リリーが杖を上げた。

 

銀色の光がこぼれ、四本の細い脚を持つ形になった。牝鹿だった。

草を踏む音も立てず、彼女の前に立っている。

 

守護霊だ。

 

トムの頭に、その言葉が浮かんだ。

 

リリーは孤児院の場所とクラウチがいることを手短に告げると、牝鹿は木々の間を駆け、消えた。

 

その光が見えなくなると、リリーは石壁に手をついた。

そういえば、さっき腕に怪我をしていたような……。

 

「えっと、その、腕の傷は?」

「大丈夫」

 

トムは、彼女の腕からまだ血が地面へ滴っているのを見て、思わず動揺した。

 

「いやいや、それ少しも大丈夫そうには見えませんよ。

 失血で倒れたりしたらどうするんですか!」

 

リリーはトムが慌ててシャツを千切って、彼女の腕を縛ろうとするところを見てぷっと小さく笑った。

 

「本当に大丈夫よ」

 

     *

 

治療は驚くほどすんなり終わった。

リリーは外套の内側から小さな薬瓶を取り出し、栓を開けるとそのままきらきらと光る橙色の液体を腕にかけた。

 

次の瞬間、みるみるうちに彼女の腕の傷はふさがっていった。

トムはそれを見て、やべー、やっぱ魔法やべー、と感動した。

 

マグルの医者なら何針か縫うのでは、と思うような傷が、一瞬で塞がったのだ。

リリーは傷の手当てを終えると、トムの方を見た。

 

「さて……自己紹介が遅れたけれど、私はリリー。リリー・ポッターよ」

 

やっぱりミセス・ポッターだった。つかぬことをお伺いしますが、旦那さんは?

息子さんは無事ですか?などの言葉が一瞬トムの脳内を駆け巡ったが、さすがにあまりにも失礼だったため、ぐっと飲み込んだ。

 

「トム・ブライトです」

「トム。もう少し歩ける?」

「はい。問題ありません。しかしどこへ?」

「今夜休める場所へ。ここには長くいられないわ」

 

彼女は耳を澄ますように顔を傾けた。

トムも真似をしたが、風に葉が擦れる音しか聞こえなかった。

 

「さっきみたいに、ぱっと移動は」

「できるわ。でも、もう姿現しの気配を隠す道具は使ってしまったの。次に使えば、追っ手に感知される可能性があるわ。それに合流先へまっすぐ行くわけにはいかないの。追われていないことを確かめて、向こうから知らせが来るのを待たないと」

 

合流先。

つまり、ほかにも人がいる。

不死鳥の騎士団だろうか。

 

彼女へぶつけたい疑問はあまりにも多かった。

 

しかし、普通の孤児院で育った十一歳の、マグル社会で育った子供が無理なく聞けるような話はほとんどなかった。

 

     *

 

それから徒歩で一時間移動し、最初の晩は、使われなくなった羊小屋で過ごした。

リリーが入り口の周りを歩いて杖を振ると、遠くの車の音が薄くなった。

 

小さな明かりの下で、二人はパンとチーズを食べた。トムは固いパンを水につけ、何とか飲み込むことに成功した。

 

はぁ。孤児院のみんなも無事なら夕食を食べている頃だろうか。

いつもの自分ならそろそろ皿を片づけて、年下の子たちを風呂へ追い立てる頃で……

 

どうしてこんなことになっちまったんだろう。

 

「あの男は、本当に教師なんですか」

リリーは親の仇のようにパンを裂いていた手を止めた。

「今のホグワーツでは、そうよ」

「偽物の手紙で、学校の人のふりをしているとかじゃなくて?」

「手紙は本物。あの人たちには、あなたを連れていく権限があるの」

 

トムは膝の上を見た。

爪の際にインクが残っていた。

 

「僕、何にサインするところだったんですか」

 

 リリーはパンを布の上に置いた。

 

「魔法の契約。あなたの自由を、学校へ引き渡す契約」

「学校へ?」

「書類ではそうなっているわ。学校があなたの居場所と仕事を決める。

誰に従うかも、どこへ行けるかも。一度契約が成立すると、逃げようとしても、魔法そのものがあなたを縛る」

 

「卒業するまで?」

 

彼女は首を横に振った。

 

トムは唖然とした。

「それって……ずっと奴隷、ってことですか」

「ええ」

そして次の言葉を口にするのも、彼女にはつらそうだった。

「今の政府は、その身分を正式に『穢れた血(マッドブラッド)』と呼んでいるわ」

 

わぁ。差別全開だ。カースト制度もびっくりだ。

 

「最初に送られるのは収容施設よ。

そこで命令に従うことを教え込まれる。杖を持つことは許されない。

 

教育を終えたと認められて、やっと魔法使いの家や施設に配属されて共用の杖を使えるようになるの」

 

特別な課程。

生活に必要な仕事。

卒業後の居場所も、学校が面倒を見る、ね。

クラウチの言葉が、一つずつ別の意味になって戻ってきた。

 

「親が、迎えに来たりは」

「親や子供には、忘却呪文が使われる」

「何を、忘れさせるんですか」

「家族がいたという事実。奴隷に帰る場所は必要ない、というのが、あの人たちの考え方よ」

 

ガッデム。

とんでもない魔法ディストピアがあるものだ。

農場送りになるジェダイ見習いよろしくでは済まない。

帰る場所まで消されるのだ。

 

トムはパンを置いた。

院長の声を思い出した。

 

スージーの顔を思い浮かべた。

 

この人生で暮らした部屋だとか、食堂とか、図書館とか、もう顔を合わせることができないかもしれない人たちを、心の中で順番に確かめた。

 

どこまで消されるところだったのだろう。

それらを全部失ったあとに残るものを、まだ自分と呼べるのだろうか。

 

「僕だけじゃないんですよね」

「ええ」

「あの男、ほかの子にも、あんなふうに」

 

 リリーは頷いた。

 

「今回はうまく彼を尾行できたわ。それにあなたのように冷静に考えて、迷って時間を稼げる子は少ないの。今年、私が助けられたのは、今のところあなた一人だけなの」

「そう……ですか……」

 

それがトムのひねり出せる精一杯の言葉だった。

 

今年は一九九一年。

なら、原作に登場したあの子や、あの子とあの子も現在進行形でとんでもなくひどい目に遭っているかもしれない。

 

そして、ハリポタ屈指の人気キャラにして、学年随一の秀才。主人公ハリーの親友であり、仲良し三人組のブレインだったハーマイオニー・グレンジャー、彼女もそんな目に遭っているかもしれないということなのか?

 

     *

 

翌朝、リリーの持つ古い紙切れに、文字が浮かび上がった。

 

昨夜、守護霊を送った仲間からの報告だった。

リリーは読み終えるまで、何も言わなかった。

 

トムは毛布を掴んだまま、リリーの顔を見た。

 

「死者はいないわ」

 

安心して全身から力が抜けた。

しかし、リリーはどこか浮かない表情をしているように見えた。

 

「怪我をした人は?」

「……」

「何が起きたの?」

「聞かないほうがいいわ」

「教えてください。これは、僕にも関わることです」

 

リリーはトムの顔をまじまじと見て、ため息をついた。

 

「あなた、本当に子どもに見えないわ。同世代と話している気分よ」

「たまに言われます。お願いです。教えてください。私が背負うべきです」

 

「……分かったわ。

 言うけれど、これはあなたの責任じゃないのよ。いい?」

「はい」

「女の子が一人、植物状態になってしまったわ。

あなたと仲のよかった子。名前は、スージー・ハミルトン」

 

胃の奥が引きつった。

目の前が真っ暗になりそうになるが、必死に耐えた。

 

「何を、されたんですか?」

「磔の呪いという、激しい苦痛を与える呪文があるの。本来は、許されざる呪文の一つよ。クラウチは、それをその子にかけ続けた。あなたへの当てつけにしたのだと思う」

 

クルーシオを!?

彼女はまだ6歳だぞ。

最近やっとABCDを覚え始めたような、そんな女の子だったんだぞ。

あまりの悔しさと怒りで思わず歯をぎりぎりと食いしばる。

 

下種野郎が。

 

「大丈夫?」

 

リリーは心配そうにトムの顔を覗き込む。

 

「……はい」

「仲間が保護して、治療を受けさせているわ。どこまで回復するかは、まだ分からない。続報が来たら、必ず伝える」

 

トムは頷くことしかできなかった。

毛布の縫い目を見つめ、深呼吸し、感情を無理やり心の中へしまい込む。

このまま暴れ散らかせるのならば楽なのだろう。

しかし、それでは自分を信頼して話してくれたリリーを裏切ることになる。

 

くそ。アンガーマネジメントの講習会なんか行かなければよかった。

 

     *

 

二日目は、バスに乗った。

 

魔女と逃亡するのだから、空飛ぶ絨毯とか、箒とか、何かそれらしい乗り物を想像していた。実際には座席の布が少し破れた、普通の路線バスだった。

 

リリーは髪を帽子に押し込み、乗る前に渡された大きめの上着で、トムも着替えている。誰から見ても、疲れた母親と、不機嫌そうな息子だった。

 

窓の外を、見慣れた世界が流れていく。

 

魔法使いの子供が奴隷にされているというのに、ガソリンスタンドでは値段の札が掛け替えられていた。

 

バスを降り、運河沿いの道へ入ってから、トムは尋ねた。

 

「どうして、誰も知らないんですか」

「魔法を使わない人たちが?」

「はい。警察も、新聞も。こんなことになっているなら」

「魔法界は、昔から存在を隠しているの。今の政府も、それを続けている」

「そっちのほうが都合がいいから?」

「ええ」

 

彼女の返事は短かった。

 

「じゃあ、魔法界の中では? みんながあいつらの仲間なんですか」

「そうではないわ」

「だったら」

「反対して捕まった人もいる。家族を守るために黙った人も。今のほうが暮らしやすくなった人もいる」

 

リリーは立ち止まり、遠くの橋を見た。

誰もいないと確かめてから、また歩き出す。

 

「今は、生まれで身分が決められる。純血の家に生まれれば、支配する側。混血なら、その下。私やあなたのようなマグル生まれは、さらに下」

 

「魔法が使えるかどうかじゃなくて?」

「両親や、その先の家族が何者だったかで決まるの」

 

本人の努力ではどうにもならないところで、人生を決める。

 

随分と古風な世界になったものだ。

血筋による身分制度を、こんな形で目の当たりにするとは。令和の人権教育はどこへ行った。いや、時代も国も違うのだが。

 

「混血の人たちは、それで納得してるんですか」

「納得させる仕組みがあるのよ。2世代、マグルやマグル生まれを家系に入れず、審査を通れば、準純血になれる」

 

「準?」

「純血と同じではないわ。でも、就ける仕事や、昇進できる地位が増える。家族のために、いつかは、と考える人も多い」

 

「自分じゃ間に合わなくても、孫とか、その子供なら」

「そう」

 

しかも審査つきだ。

家系図だけ揃えれば終わり、という話ではないのだろう。

 

「……よくできてますね」

 

言ってから、リリーの顔を見た。

 

「褒めてるんじゃないです」

「分かっているわ」

 

運河の向こうを犬が走っていった。

飼い主が名を呼ぶ。犬は一度振り返り、それから別の草むらへ飛び込んだ。

少なくとも、あいつでさえ呼ばれたからって、絶対に従わなきゃいけないわけじゃないのに

 

トムは視線を道へ戻した。

 

     *

 

午後になると雨が降った。

二人は畑の外れにある納屋で、雨脚が弱まるのを待った。

リリーが古い紙切れを杖でなぞると、何もなかった表面に文字が浮いた。

彼女はそれを読み、短い返事を書いて、また文字を消した。

 

「知らせですか」

「ええ。待ち合わせの場所が変わったの。明日は、もっと北へ行くわ」

 

 移動する合流先。

 警戒しながらの連絡。

 やはり、まともな組織ではない。

 この場合、まともではないほうが信用できるのだから、困ったものだった。

 

「学校も、さっきの身分で分かれてるんですか」

 

リリーは紙を畳んだ。

 

「今はそうよ。純血はスリザリン。準純血と混血はレイブンクロー。

 マグル生まれはハッフルパフという寮に登録される」

 

やっと聞き馴染みのある単語が出てきた。

しかし、その説明はあまりにもトムの知る内容とかけ離れていた。

 

ハッフルパフ。黄色と黒の寮。

勤勉で、公平で、誰にでも居場所を与えるはずだった場所。

公正さや忠実さを重んじ、地道な努力を惜しまない魔女や魔法使いを育て、『ファンタスティック・ビースト』の主人公、ニュート・スキャマンダーもここの出身だった。

 

「登録、って?」

「名簿上の所属よ。ハッフルパフに入れられた子供の多くは、城ではなく、別の施設へ送られる」

 

グリフィンドールは?

喉まで出た言葉を、トムは飲み込んだ。

自分は知らないはずだ。その名前も、寮が四つあったことも。

 

「……昔は、違ったんですか」

「ええ。昔は四つあったわ。私はグリフィンドールだった」

 

 リリーは少しだけ目を細めた。

 

「所属を決めるのは家系図ではなかったし、違う寮の友達もいた。喧嘩もしたけれど」

「もう一つの寮は、どうなったんですか」

「廃止されたの。反逆者を育てる寮だと言われてね」

 

 彼女は雨の向こうを見た。

 

「あそこを、今でもホグワーツと呼ぶ人はいる。

でも、私の知っている学校とは違う」

 

トムは納屋の床に落ちた藁を折った。

 

「どうして、そんなことに」

問うと、リリーはしばらく黙った。

「名前を口にすることさえ、恐れられている魔法使いがいるの」

 

誰なのかは、聞く必要がなかった。

 

「あの人は自分に賛同する人間——死喰い人を集めて、魔法界を支配しようとしていた。逆らう者を殺し、家族を脅して、味方を増やしていった。私たちも戦ったわ。止められると思っていた」

 

「私たち?」

 

「不死鳥の騎士団。そういう仲間がいるの。

 私を含めて、今の政府からは犯罪者扱いされているけれど」

 

名前が出た。

トムは頷くことだけに集中した。

 

「十年ほど前、戦いの行方が大きく変わった。

 そのあと、最後の砦だったホグワーツも攻められたの」

 

「学校が最後の砦?」

 

「ええ。ホグワーツの当時の校長は、アルバス・ダンブルドア。

 この時代で最も偉大な魔法使いだと、私は今でも思っている」

 

思っている。

その言い方が、嫌だった。まさか……

 

「先生たちは、ホグワーツでその人と戦った」

雨粒が、屋根の穴から落ちた。

「そして、負けたの」

 

トムの指の中で、藁が二つになった。

 

     *

 

ダンブルドアが負けた。

その晩、借りた毛布にくるまっても、トムは同じ言葉を何度も考えた。

 

ありえない話ではないが……

 

原作第五巻の魔法省での決闘の描写ではむしろダンブルドアのほうに余裕があったような記憶がある。少なくとも、ヴォルデモートが簡単に勝てる相手ではなかったはずだ。それにホグワーツはいわばホームグラウンド。城の構造も守りも、誰より知っていたはずだ。そんな条件下で負けるなんて……

 

そりゃあ、絶対に勝つと決まっている戦いなどない。

 

学校を守っていたなら、子供をかばったのかもしれない。卑怯な手を使われたのかもしれない。または――トムはスネイプのことを思い出しながら――裏切られたのかもしれない。

 

それとも、一度も肉体を失っていないヴォルデモートは、原作よりうんと強かったのだろうか。

 

「眠れない?」

入り口に座っていたリリーが、こちらを向いた。

「考えてました」

「そうでしょうね。いろいろ起きすぎたものね」

 

 彼女は責めなかった。

 

「少し話をしても?」

「ええ。いいわよ」

「例のあの人は、ダンブルドアに勝った後、何をしたの?」

「彼は……そうね。それまでは恐怖で部下たちをまとめていたの。怒ればすぐに殺した。失敗した部下も、邪魔になった人も。次に何をするか、側にいる人間にも分からなかった」

 

「……そんな奴に国のリーダーが務まりますかね?」

「普通は務まらないわ。でも、彼は変わったの」

 

 リリーは膝の上で指を組んだ。

 変わった?

 

「ダンブルドア先生に勝ってから、とても辛抱強くなった。相変わらず殺しはする。ただ、誰を殺せば誰が黙るか、誰を生かしておけば誰が従うか、よく考えるようになった。それに外国の魔法使いには礼儀正しく接して、取引を持ちかける。他国の名家に利益を与えて、こちらと似た制度を広めようとしている」

 

「外国へ逃げても、安全じゃない?」

 

「助けてくれる人はいる。でも、英国の法律の問題だと考える人もいる。

内戦を終わらせた指導者として、あの人を評価する人さえね」

 

トムは毛布を顎まで引き上げた。

強くなっただけではない。

癇癪を起こす独裁者が、交渉のできる独裁者になった。

何それ。嫌すぎる。

 

リリーの話すヴォルデモートには、トムが記憶している悪役の隙が少なかった。

安心して利用できそうな慢心も、都合よく自滅してくれそうな短気も、当てにできない。

 

「あの、僕――」

「うん」

 

リリーがエメラルドグリーンの瞳をこちらに向ける。

知っていることがあるんです。

この世界を、小説で読んだことがある。

言えば、どうなるだろう。

笑われるか。

気味悪がられるか。

クラウチに何かされた後遺症だと思われるか。

 

それでも、分霊箱のことは。

そこまで考えて、止まった。

どこにあった?

指輪。日記。首飾り。杯。えっと、冠と蛇。

 

それらが、この世界でも同じ場所にあると保証できるか。

 

敵の校長になったスネイプに、原作では味方だからと近づいてしまうような間違いを、ほかにもするのではないか。

 

「僕に、できることはありますか」

口から出たのは、別の言葉だった。

リリーは少し驚いて、それから毛布の端を直してくれた。

 

「今は、眠って。明日も歩くから」

 

 十一歳に対する返事としては、妥当だった。

 

     *

 

三日目の朝、リリーはトムの靴を修繕した。

靴底が剥がれかけていたのだ。

杖が触れると、開いていた隙間がぴたりと閉じた。

こういう魔法は、いい。

人を従わせたり、記憶を奪ったりするより、よっぽどいい。

 

「ありがとうございます」

「踵も擦れているわね。痛かったでしょう」

「言うと歩けなくなりそうで」

「そういうことは、歩けなくなる前に言うの」

 叱る声が、少しだけ院長に似ていた。

 

二人は小川のそばで朝食を取った。

リリーが水筒に水を入れる。

その襟元から細い鎖が滑り、小さな指輪が外へ出た。

 

トムはそれを見て、目を逸らした。

ジェームズはどうなったのか。

そして、ハリーは?救世主になった特別な子供は?

 

ただ、ここまで聞いた話から、よい答えは想像できなかった。

それでも確かめなければ、どこから世界が違っているのか分からない。

 

「ご家族は」

 声が、小さくなった。

「一緒に、逃げているんですか」

 

 リリーは水筒の蓋を閉めた。

「夫と、息子がいたわ」

 

いた。

 

「息子は、ハリーというの」

知っている。

名前も。

 

髪の色も。

母親と同じだと、何度も言われていた目の色も。

 

「一歳だった」

 

小川の水が、石を越えて流れていく。

 

「あの人が家に来た夜、夫が私たちを逃がそうとしてくれた。私は息子の部屋にいた」

 リリーは自分の手を見た。

 

「必死に庇ったわ。でも…気がついたときには、全部終わっていた」

 

トムは唇を開き、閉じた。

その夜のことを、読んで、知っているつもりだった。

リリーはそこで死んで、ハリーが生き残る。

 

愛が守った子供。

額に傷を持つ少年。

けれど、この人の息子は、一歳のままだった。

 

「……すみません」

「あなたが謝ることじゃない」

それはそうだった。

けれど、ほかの言葉が見つからなかった。

 

あなたが死ぬはずでした、と言うのか。

そうすれば、息子さんは生きられたはずです、と。

 

それとも、自分がこの世界へ来たせいかもしれません、とでも?

バタフライ効果で何もかも変えてしまったのだとしたら――。

 

いや、そうと決まったわけじゃない。今は、何も分からないのだ。

前の人生で何度も読み返した物語が、急に口にしてはいけないものになった。

 

リリーは指輪を服の中へ戻した。

 

「食べられる? 残してもいいわ」

トムは首を横に振り、冷えたパンを口へ押し込んだ。

 

     *

 

この世界とハリポタ原作の違いは、大きく二つ。

歩きながら、トムは頭の中を整理した。

まず、リリーが生きていて、ハリーが死んでいる。

だから、あの夜にヴォルデモートを倒した奇跡が起きなかった。

 

そして、第二にダンブルドアが敗北した。

ハリーがいなくても、ダンブルドアがいれば何とかなる。

そんな、読者らしい甘い期待は潰された。

 

この世界では、自分の知っている主人公はもういない。

では、次は転生者である自分の番なのか。

 

いやいやいや。

 

コップを三十センチ浮かせるので精一杯の人間に、何を期待しているのだ。

そのうち発売されるブラック・ロータスを買い込む予定の男だったんだぞ。

 

世界を救うなんて、人生設計に一行も入っていないのだ。

イギリスで暮らしていくのは、もう無理なのかもしれない。

生まれだけで迫害される国で、どうやって生きればいい。

だけど、ほかの国ならどうだろう。アメリカとか、日本とか……。

 

まずはせめて一人で生きていける年齢まで守ってもらって。

 

守ってもらって……

そこまで考えて、スージーの顔がちらちらと脳内に浮かんだ。

 

     *

 

その日の夕方、二人は森を抜けた。

 

最後の一時間は上り坂だった。

修繕してもらった靴は無事だったが、その中の足は、もう休業を申し出ていた。

 

木々の間から、鉛色の水面が見えた。

着いた先は、人家の見えない湖のほとりだった。

岸辺には古い船着き場があり、濡れた杭が何本も突き出している。

 

リリーはトムの肩に手を置き、辺りを見回した。

 

「ここですか」

「ええ」

 

何もないように見えるが……。

何かの魔法で隠されているのだろうか。

 

リリーが杖を持ち上げ、一定の間を置いて、小さな光を三度灯した。

すると、湖の水の中で、同じ光がかすかに二度瞬いた。

 

トムは目を凝らした。

 

湖面の一か所が、ゆっくりと盛り上がっていた。

風でできた波とは違う。

底に伏せていた巨大なものが、背を起こそうとしているようだった。

 

黒い棒が、水を突き破った。

 

一本、そしてもう一本。

枝のない木のように見えたそれらには、横木と、幾筋もの綱が張られていた。

 

帆柱だ。

 

巻き上げられた帆から水が流れ落ちた。濡れた索具が夕空に細い線を描き、その下から、傾いた屋根と窓、それに船尾の高い欄干が姿を現す。

 

次いで、巨大な船体が浮き上がった。

 

黒ずんだ板張りの腹から、滝のように水が落ちる。

波が岸へ押し寄せ、古い船着き場の板を叩いた。トムは思わず一歩退いた。

 

大型の帆船だった。

 

暗い船体には幾つもの補修跡があり、船尾の彫刻はところどころ欠けている。

けれど、並んだ窓には暖かな光が灯っていた。

沈没船が蘇ったような外見に反して、甲板には干されたシャツが揺れている。

 

水の中から出てきたくせに、洗濯物は乾いていた。

魔法、そこまで面倒を見てくれるのか。

 

「……船?」

「ダームストラング専門学校から譲り受けたものよ」

 

リリーが言った。

ダームストラング。

『炎のゴブレット』で、生徒たちが湖の底から乗りつけてきた、あの船か。

いやまぁ、今は一九九一年であの大会よりも前なんだけれども。

「私たちは普段は海にいるの。

 陸の隠れ家にとどまるより、場所を変えやすいし、姿を隠す魔法もかけているわ」

 

「でも、ここは湖ですよね」

「この船は、魔法で遠くの水域へ渡れるの。今日は私たちを迎えに来てくれた」

 

帆を畳んだまま、船は静かに岸へ近づいてきた。

甲板から綱が伸び、自分で杭に巻きつく。

続いて幅の広い渡り板がせり出し、船着き場へ下ろされた。

 

足音がした。

背の高い、痩せた女性が降りてきた。

 

髪をきつくまとめ、四角い眼鏡をかけている。

裾のほつれた緑のローブを着ていたが、立ち姿は少しもだらしなくなかった。

トムは、その顔を見るより先に姿勢を正した。

 

「遅くなりました、先生」

リリーが言った。

「二度も予定を変えたのはこちらです。この子が……?」

 

女性の視線がトムへ移った。

 

「ええ、そうです。利口な子です」

「ようこそ、ブライトさん。歩けますか?」

「はい」

「では、段差に気をつけて。さあ、中へ入って。荷物は私が」

 

彼女が袋へ手を伸ばす。

トムは少しためらってから渡した。

 

「私はミネルバ・マクゴナガルです」

 

知っています。

心強い原作人物の登場にトムは涙があふれそうになった。

 

     *

 

船の中には、城のような広い廊下があった。

まあ、拡張されているんだろうとは思っていた。

それでも、入る前に一度、外側を見直した。

入ってから、もう一度、後ろを見た。

 

マクゴナガルが、少しだけ口元を緩めた。

 

「慣れます」

 

廊下には大小の扉が並んでいた。

 

どこかで鍋の蓋が鳴り、玉ねぎを煮る匂いがした。

壁に貼られた時間割はひとりでに書き直され、水曜日の午後には大きく『移動』と表示されていた。

 

開いている扉の向こうでは、年齢の違う、赤い髪の子供たちが一つのテーブルを囲んでいた。

 

肘に継ぎのあるローブを着た青年が、一冊の本を隣の少女へ寄せている。

その向こうで、トムと同い年くらいの少年が羽ペンを動かす手を止めた。

 

「新しい子?」

「質問はあとです。まず食事と休息を」

 

マクゴナガルが言うと、子供たちは引っ込んだ。

少年だけ、遅れて手を振った。

 

トムは小さく振り返した。

 

     *

 

廊下の奥にたどり着くと、校長室と書かれた部屋の扉が開いた。

白い髭の老人が、杖とは別の、体を支えるための杖をついて立っていた。

 

ゆったりしたローブの片袖が、不自然に動かなかった。

その顔色は悪く、立っているだけでも疲れるらしい。

 

それでも、半月形の眼鏡の向こうの目は、こちらをはっきり見ていた。

トムの足が止まった。

 

ああ、間違いない。

この人だ。

 

マーリン勲章勲一等。大魔法使い。ウィゼンガモット首席魔法戦士。

今世紀で最も偉大な魔法使い――

 

ダンブルドア校長先生。

 

生きていたんだ!

聞けばよかったのだ。

負けたと言われたときに、そのあとどうなったのか、聞けば。

怖くて、勝手に答えを決めつけていた。

 

「アルバス。起きてよいとは言われていないはずです」

「新入生を迎えるのは、校長の仕事じゃろう」

「椅子に座っていてもできます」

「それは、まったくそのとおりじゃ」

 

老人は抵抗せず、扉のそばの椅子に腰を下ろした。

それだけで息が少し乱れた。

リリーの肩から、ようやく力が抜けた。

 

「こちらがトム・ブライトです。

クラウチより、少しだけ遅くなってしまって」

「けれど、間に合った」

 

 ダンブルドアは彼女を見た。

 

「よく帰ってきたのう、リリー」

彼女は頷いた。口角は大人に褒められた子供のように少し上がっていた。

 

「さて、ブライト君」

次にダンブルドアはトムへ声をかけた。

「安心するといい。この船は安全じゃ。そしていまのところ、ここが……」

 

「ホグワーツじゃ」

 

トムは驚いた。思わず廊下を見渡す。

自分勝手に書き換わっていく時間割。

隅に積みあがった教科書。

扉の陰で、またこちらを覗いている子供。

 

リリーはトムの肩へそっと手を置いた。

 

「城は、取られてしまったけれど」

 彼女は廊下の奥へ目を向けた。

「先生も、生徒も、まだいるわ」

 

 部屋の中で何かが破裂する音がした。

 周りに花吹雪が飛び散った。

 マクゴナガルが眼鏡の位置を直した。

 

「フレッドさん、ジョージさん! あなたたちですね」

 

「「違います、先生」」

 廊下の曲がり角で、赤い髪の双子が何事もなかったかのように立ち去ろうとする。

「「ごゆっくりどうぞ」」

 

 トムは、笑いそうになった。

 笑ったら、そのまま泣くかもしれないと思った。

 

「ここで、魔法を教えてもらえるんですか」

「もちろんじゃ」

 

 ダンブルドアが答えた。

 

「君が学びたいと思うなら」

 

 署名欄はなかった。

 羽ペンも、命令する声もなかった。

 トムは、自分の手を見た。

 洗っても落ちきらなかったインクが、指にはまだ少しだけ残っていた。

 

「……学びたいです」

 

 やっと言えた。

 前世からずっと、ずっと恋焦がれていた。

 中学で初めてあの青いハードカバーを手に取って以来の夢だった。

 形は少し違うけれど、でも、そんなことは重要じゃなかった。

 結論はとっくにでていたんだ。

 

「この、ホグワーツで学びたいです!!」

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