誤字報告誠にありがとうございます。
ムーディーの課外訓練で散々な目に遭ってから、三週間が過ぎた。
二月も下旬に入り、一年生たちは毎週のようにポンフリー先生の世話になった。
当たり前だが、彼女はムーディーの主催する課外活動――彼女に言わせれば「加害活動」らしいが――に、かなり悪い印象を抱いているようで、治療の間に聞こえてくる独り言から察するに、彼の義足をもう一本増やしてやりたいと思っている可能性すらある。
しかし、この船には騒ぎ立てるPTA的団体はなく、魔法省の教育部門へ苦情を申し立てるわけにもいかない。
その結果、何だかんだでブートキャンプは続けられている状態だ。
*
一方、毎朝の修行には、これといった成果がない。
みぞの鏡に何が映っても、以前ほど一喜一憂はしなくなった。
だが平静でいることと、心を読まれないことは、どうやら別らしい――どんなに落ち着いていても、結局鏡の中では自分が望んだ未来の姿が映し出されていた。
ではどうすればいいのか?という点が全く見えてこない。
いよいよグリンデルバルドへ聞きに行くべきかと悩み始めた頃、つまり2月24日、トム・ブライトの体は12歳になった。
*
自分の誕生日を忘れていたわけではなかった。
ただ、前世と今回の人生の二つがあるため、前者のほうを意識しがちだった。
朝食に好きなものを少し多く取って、そのくらいで、この日の特別な用事は済んだつもりだった。
夕食のあと、トムがそろそろ寝室で日記でもつけようと考えていたところ、ロンが袖を掴んだ。
「こっち」
「何?」
「いいから」
そのまま彼に共同休憩室の隅へ連れていかれた。普段、五人で課題を広げている机に、白い布が掛かっている。その上には小さなケーキがあり、クリームで書かれた名前の周りを、十二本のろうそくが囲んでいた。
椅子の背には色紙をつないだ輪が渡されている。
最後の一輪を留めていたラベンダーが、こちらを見て慌てて立った。
「ちょっと、まだ――」
「もう呼んでこいって言っただろ」
「火をつけてからって言ったの!」
ハンナはクスクス笑って、杖を振った。
ろうそくの先へ順番に火がともり、ネビルが両手で守っていた紙の飾りを、ケーキの後ろへ立てる。文字たちは踊りながら、『ハッピーバースデー』という言葉を作った。
「「「「お誕生日、おめでとう!」」」」
声はあまり揃わなかった。
ロンが一拍遅れ、ラベンダーが彼を見たので、トムも笑みを零した。
「ありがとう。でも、どうして知ってるの?」
「ポッター先生が教えてくれたの」
ハンナがケーキの皿を少し手前へ寄せた。
端に、ナイフを入れる場所を相談したらしい小さな印がある。
「言ってくれればよかったのに」とラベンダーが言った。「危うく普通に宿題をして終わるところだったわ」
「ごめんごめん」
トムは椅子を引いた。机の下に、包みがいくつか隠してあるのが見えた。
自分が来る前に、四人がここで準備をしていたのだ。朝食でも授業中でも、誰もそれらしいことを言わなかった。
少しだけ、心の中が温かくなった。
「願い事をしてからよ」
ラベンダーがろうそくを指した。
願い事か。その言葉に、朝の鏡が浮かんだ。毎朝、あれほど見せられているのに、いざ自分で選ぶとなると迷うものらしい。
何にするか決める前に、ロンがケーキへ近づきすぎ、袖をネビルに引かれた。
トムは笑って、ひとまず火を吹き消した。
*
ケーキを切り分けるのは、ハンナが引き受けた。
ロンが皿を配り、ラベンダーが飾りの文字を杖先で直している間に、ネビルが紙袋をトムの膝へ載せた。
「これ、四人で作ったんだ。本を読むときに使えると思って」
袋の中には薄い箱が入っていた。蓋を開けると、細長い革のしおりがあり、その上で黒い猫が丸くなっている。
最初はただの絵に見えたが、トムが指を近づけると、猫は面倒そうに顔を上げて伸びをする。それから革の端まで歩き、下を覗いた。
「見てて」
ハンナが自分の鞄から教科書を取り出し、開いたページへしおりを重ねた。
猫が片足を伸ばし、印刷された行の上へ降りる。そのまま文字の間を歩き、余白へ座って尻尾を足に巻きつけた。
しおりのほうには、もう何も描かれていない。
「読み終わったところで待っててくれるの。次に開くとき、表紙を二回叩けば――」
本を閉じ、指先で叩くと、教科書がひとりでに開いた。同じページで、黒猫があくびをしていた。
「すごい!」
トムも本を閉じてみた。表紙を二度叩くと、今度は少し先のページが開いた。
黒猫は鳥籠の挿絵の前へ腹這いになり、中の鳥へ前足を伸ばしている。
「ああ、また……」
ネビルが肩を落とした。
ラベンダーが元のページを指で示し、小さな声で「戻って」と呼んだが、猫は耳を動かしただけだった。
「まだ、場所を覚えさせる魔法がうまくいかないんだ」とネビルが説明した。「じっとしてることもあるんだけど、気に入った絵があると、そっちへ行っちゃって」
「動かすのはできたのよ。でも、どこまで動いていいかを教えるのが難しくて」
「だから犬にすればよかったんだ」
「犬にしたって、呪文は同じでしょ」
「でも、呼んだら戻ってきそうだろ」
ハンナは革のしおりをページの端へ当てた。
「少しずつ直すから。今は普通のしおりのつもりで使ってね」
猫はやれやれと言う様子でしおりの中へ戻っていく。
トムはその様子を眺め、しおりを受け取った。
「このままでも、僕は好きだよ」
四人がこちらを見た。
「毎回、どこを開くか楽しみになるし」
「宿題の途中でも?」
「それは、ちょっと困る」
よく見ると、猫の片耳は少し大きく、革の縁の縫い目も途中から間隔が変わっていた。
誰が何を担当したのだろう。四人が顔を寄せ、猫を同じページへ留めようと相談しているところが、何となく想像できた。
トムが指を差し出すと、小さな鼻が近づき、指先へ顔を擦りつけた。
感触はなかったが、その仕草につられて、つい撫でるように指を動かしてしまう。
「ありがとう。毎日使うよ」
*
「あと、これ!先生たちからも預かってるの」
ハンナが机の下から籠を引き出した。大小の包みが重なり、それぞれに小さなカードが添えられている。
マクゴナガルからは、丈夫な杖入れだった。
留め具へ指を掛けると口が開き、手を離すと閉じる。
カードには、『杖を抜くたびに服と格闘しないように』とあった。
どこから話が伝わったかは、聞くまでもない。
「試してみろよ」
ロンに促され、ベルトへ留めた。
杖の柄はちょうど手の届くところへ収まり、少し引けば、引っかからずに抜ける。
ありがたい。次からは杖を抜くスピードでマッドアイから死亡判定を下されることは減りそうだ。
リリーからは、首へ巻くと端が動いて結び目を作るマフラーだった。
朝の廊下は冷えるから、とカードにある。
ハグリッドの大きな包みには、巨大な焼きパンがぎっしり詰まっていた。
ロンは一枚持ち上げ、机へ軽く当てて硬い音を確かめると、何も言わず紅茶のポットを引き寄せた。
プレゼントはまだ数個あったが、一つ一つ開封していると、急に隙間から緑色の球体が飛び出した。
「ブライト!オソイ!オソイ!」
「ハロ!?」
驚いて思わず声を上げてしまった。
緑の球体は耳のような羽をパタパタさせて浮かび上がり、トムの鼻先でぴたりと止まった。そして、品定めするように彼の周りを半周した。
「これって……君がグリンデルバルド先生にあげたやつだろ?」とロンが聞いた。
「うん……多分そうだけど」
「返されたの?」
クリスマスに贈った物が、誕生日に戻ってきた。
普通なら何か失礼をしたのではないかと心配になるところだが、あの人の場合、ちょっと判断が難しい。
底に挟まっていた紙片が落ち、ネビルが拾って渡してくれた。
『君の作品には、改善の余地が随分あった。手本として返す。
まずは動きをよく観察したまえ。分解は認めん。
12歳になったことには、祝意を表する。
G・Gより』
「誕生日プレゼントが課題かよ」
トムもそう思ったが、目の前のハロから目を離せなかった。
何もないところで、これほど正確に止まっていられるものなのか。耳を動かす間隔も、傾きを直す速さも、自分が作ったときとはまるで違う。
さらに腹の継ぎ目を観察しようとしていると、その下へケーキの皿が差し込まれた。
「観察はあと。先に食べて」
「おっと、そうだった」
トムはハロを机へ下ろし、ようやくケーキにフォークを入れた。
口に運ぶとクリームは甘く、スポンジには少し酸っぱいジャムが挟まっている。
おいしいと言うと、ラベンダーは満足そうに自分の皿へ戻った。
*
翌朝、トムはいつも通り枕へ顔を埋めたロンに行き先と戻る時刻を伝えた。
返事の代わりに長いあくびが返ってきたが、幸い、隣の寝台で目を擦っていたネビルが、分かった、と答えてくれた。
しかし、階段を下り、大きな窓のそばを通りかかろうとしたところで、トムは異変に気が付き、足を止めた。
――大きな段ボール箱が廊下に置かれていた。
昨日まではなかったはずだ。すかさず柱の陰に隠れ、様子をうかがう。
箱の側面には、ロシア語の商品名が印刷されていた。トンクスかウィーズリーの双子が設置した罠か?
そんな風に警戒していると、ピクリと箱が少し動いた。底から指が出て、窓のほうへにじり寄っていく。
そこで初めて、向こう側に靴下を履いた足が覗いていることに気づいた。
……スネークのコスプレか何かだろうか?
「何してるの?」
思わず声をかけると、箱が止まった。しばらくして手前側が持ち上がり、淡い金髪と、丸い目が現れた。
ルーナ・ラブグッドだった。
「深海オオヤツメウナギを待ってるの」
「……段ボールをかぶって?」
「見られてるって分かると、潜っちゃうから。
口に吸盤があるんだよ。窓にくっつくところを見たくて」
オオヤツメウナギね。トムは窓へ目を向けた。
灯りの届く範囲には、何も漂っていなかった。
そもそも、船が今どれほど深いところを進んでいるのかも知らない。
「それ、ここにいるの?」
「いるかもしれない。レオナルド・ネッシーさんは死海で見たんだって」
「誰?」
「お父さんの雑誌の読者。深海オオヤツメウナギは本当にいるって、お手紙をくれたの」
「死海って湖だよね?でもウナギの名前は深海なの?」
「死海も名前に海はついているから」
名前を根拠に生息地を決めつけるな、という生物学的、いや哲学的押し問答だろうか?
トムがどこから突っ込めばいいか悩んでいると、ルーナは箱を少し回した。
段ボールの窓側には穴が開いており、そこから外を見ていたらしい。
そういえば、新しく来た子供たちと一緒に話すことはあったが、彼女と二人だけで話すのはこれが初めてだ。
これは決してネガティブな意味ではないのだが、原作の通り、不思議な雰囲気を持つ子だ。
「トムは何しに行くの?」
「修行。先生から課題を出されてるんだ」
「毎朝、ずっと?」
「クリスマスの頃からだから、大体2か月くらいかな。なかなか難しくて」
「何をするの?」
トムは少し考えた。
閉心術を初めから10歳の子供に紹介するのは難しいし、鏡についてもどこまで話していいのかも分からない。
とりあえずアバウトに説明することにした。
「心の中の望みを見せる道具があってね。それに何も見せないようにする練習なんだ。
その前で気持ちを落ち着かせることは出来るようになったけど、相変わらず心の内を読まれてしまうみたいで。どうやったら自分の本心を隠せるのか悩んでる」
ルーナは段ボールを両手で支えたまま、少し首を傾け、考えるそぶりを見せた。
「……レオナルドさんも、なかなかうまくいかなかったんだって」
「その人も、こういう練習を?」
「ううん。ウナギを見ようとして」
ん?この話の流れでウナギの話にもどるの?
「その時、レオナルドさんの乗っていた舟の下を長い影が通って、すごく揺れたの。
それで、彼は水に輪が広がっているところへ、眠らせる呪文をかけたんだって。
何度も何度も。
眠ったら、それが何かゆっくり見られるでしょう?
でも、ちっとも効かなかった」
少し困惑したトムを置いてけぼりにして、ルーナは読者の手紙の続きを話し始めた。
「えっと、ウナギに呪文が効かなかったってこと?」
「当たらなかったんだと思う。だって波紋はウナギじゃないでしょ?
ウナギが動いたら波紋はできるけど、広がっている間にも泳いでるもの。
同じところには、もういなかったかもしれない。
だから、まずは水の下のウナギを誘い出さないと」
「なるほど」
「レオナルドさんは岸へ戻ってこの話したら、周りの人に波に揺れただけだとか、水草の影だとか言われたんだって。それでお父さんにお手紙をくれたの。自分が見たものは分かってるって」
岸にいた人たちの言い分はもっともだ。そもそも、死海は塩分が濃すぎて魚は生きていけないと思うのだが……
まぁそこは魔法界の生物なら関係ないのか?
「だからね。トムも水の下を見るべきだと思う」
全く何の話なのか理解できなかった。
*
気を取り直してたどり着いた倉庫は、いつもと同じ匂いがした。
木箱に黄色いハロを置き、壁へ向かって座る。
息を数えているうちに、寝室で聞いた寝返りの音や、昨日の祝いの席、ルーナとの奇妙な会話の内容が少しずつ遠のいた。
頃合いを見て椅子へ移り、鏡へ向き直る。
古い電灯の下に、見覚えのある鍋があった。安い卓上コンロに、不揃いの取り皿。テーブルの半分をTRPGのルールブックと紙が占め、箸袋のそばにはダイスが転がっている。
鍋の周りを大学時代の友人たちが取り囲んでいた。
そして、少し成長したトム・ブライトの姿も、その中にいた。
友人の1人が鍋をよそおうとして、キャラクターシートへ汁が跳ね、持ち主が慌てて持ち上げた。ほかの連中は楽しそうに笑った。
ああ、こういう夜は確かに楽しかった。
授業後に誰かの家になんとなく集まって、なんとなくで作った飯で夜通しゲームとか、くらだない話とかを楽しむみたいな。
トムはそこで、呼吸に意識を集中させて、ノスタルジーと言うか、羨望というかそう言う気持ちを落ち着かせた。
しかし、鏡の中の様子に変化が現れることはない。
相変わらず、自分のどこが悪いのかがわからない。
「――トムも水の下を見るべきだと思う」
唐突に、先ほどルーナに言われた言葉を思い出した。
思わず水面の下で暴れる巨大なウナギの姿を連想してしまった。
ウナギが動くと、水面に巨大な波紋が出来る。
しかし、それはあくまでウナギが動いた跡であって、そのものではない。
だから、水面にいくら呪文を打ち込んでも、ウナギには当たらなかった。
慌ててそれを雑念として追い払おうとした。しかし、ふと思った。
そういえば、自分はどうだろうか?
毎朝、楽しくなったり、懐かしくなったりするたびに、その気持ちを静めていた。
けれど、そもそもみぞの鏡は心の奥の欲求を映し出している。
みんな大好きフロイト先生的に考えるなら無意識――つまり思考の水面下でウナギのように暴れる欲求だ。いくら水面を落ち着かせても、ウナギは泳ぎまくっているのだから、意味がないのではないか?
「――だが、何を内側へ収めるのかも知らず、どう守る?」
グリンデルバルドの問いがフラッシュバックする。
「そもそも閉心術とは心の境界を確かめるための術だ。自分が何を見て、何を聞いて、何を思ったのか。それを正しく認識し、魂を見つめ直す」
自分の心の内側に秘められた、本当の願い。
トムは両手を膝へ置き、もう一度、鏡を見た。
成長したトムが友人たちと遊んでいた。
私はこの姿であの頃へ戻りたいのだろうか。いや、そういうわけではない、
今の学校も、覚えた呪文たちも、昨日もらった贈り物も好きだ。
懐かしい人たちには会いたいだろう。
でも、あの時代へ戻れさえすれば満足するかというと、少し違う。
これまで鏡に映ったものを思い返した。
読みたかった漫画の最終巻。まだ遊んだことのないゲーム。好きなシチュエーションボイス。仲間たちと過ごすホグワーツ。
場所も、年齢も、一緒にいる顔ぶれも違う。
それでも、そこにいる自分は、いつも好きなものに夢中だった。
そうか。
私は思いっきり、好きなことに打ち込みたいのだ。
仲間と一緒に楽しめたら、なおいい。
そう考えると、昨日しおりの猫を撫でようとしたことが浮かんだ。
紙に描かれた猫が、別の本へ歩いていく。それだけで面白かった。
ハロが鼻先でぴたりと止まったときにも、どうすればこんなふうに動かせるのか知りたくて、ケーキのことまで忘れていた。
自分は、魔法が好きなのだ。
初めて物を浮かせられたときは、嬉しかった。杖を振れば形が変わり、自分で作ったものが動く。上手くいけば誰かに見せたくなるし、友人が何かに成功すれば、自分も試したくなる。教科書の先を読んでいたのも、生き残るためだけではなかった。次には何ができるのか、単純に楽しみだった。
できれば、ずっとそうしていたかった。
自分も仲間たちも無事で、明日もまた好きなことに取り組む。
我ながら、小市民過ぎる。
トムは鏡の中の自分を見た。好きなことに夢中で、周りの仲間たちも楽しそうにしている。自分は、こういう時間がずっと続いてほしい。願いとしては随分ささやかで我儘だが、口の中でそう言ってみると、ようやく腑に落ちた感じがした。
やっと理解した。この訓練の本当の目的は、感情の下で暴れるウナギを映像を通して確かめることだったのだ。今なら、自分の願いを意識して捉えられるような気がする。そして、目標はこの欲求を捨てて解脱を目指せということなのだろうか?
いや、瞑想の練習でも、考え事を一つ静めるためにそれを捨てろとは言われていない。
欲しいものが分かったからといって、諦める必要はないはずだった。
ペルソナ4でもそうだ。
そういう矮小で情けない自分を認めるところから始めないといけないのだ。
トムはゆっくり息を吐いた。魔法を使いたい。皆と楽しみたい。
その願いを自分のものとして意識したまま、空気が出ていく感覚へ注意を向けた。
最初は、昨日の猫やハロが次々と浮かんだ。しおりの魔法を一緒に直してみたい。ハロの動きも、もう一度確かめたい。考え始めると、すぐに続きを追いかけそうになった。
けれど、何に心が動いているかは、もう分かっていた。浮かんだことを否定せず、その先を考えるのを休んで、次の息を吐く。最初の練習で、何度も繰り返したやり方だった。
息を吸い、また吐く。肩に入っていた力が抜けた。
頭の中の言葉が途切れても、胸にはまだ浮き立つ感じが残っていた。
いつもなら、そこで静かになったつもりになっていたのだろう。
今日は、その根元の欲求も意識した。
鏡の向こうをもっと見たいという気持ちも、新しい魔法を試したいという気持ちも、少しずつ落ち着いていった。楽しみは、自分の中にある。今すぐその続きを追わなくても、失われはしない――そう思えたあとは、心の中が急速に落ち着いていった。
鍋の向こうの電灯が、いつ消えたのか分からなかった。
鏡の中には、木箱が映っていた。
その前に椅子があり、少し大きい袖から手を出した少年が座っている。
足は床についていた。十一歳ではなく、昨日、十二歳になった自分だった。
トムは息を止めた。
できた。
そう思った途端、鏡の奥へ明かりが差した。
テーブルが戻り、友人がダイスをこちらへ差し出していた。
トムはしばらく、そのまま座っていた。一分には遠かった。
一秒を満たしていたかも怪しい。
けれど、そこには確実にそのままの自分が写っていた。
「よっし!」
声を上げてガッツポーズをした。
立ち上がって座布団へ戻ることはしなかった。
膝の上で手を楽に置き直し、もう一度、息を吐いた。
*
黄色いハロに時間を告げられるまで、その朝は椅子を離れなかった。
帰りの廊下には、まだルーナのダンボール箱があった。
「さっきの話、ありがとう」
箱の端が持ち上がり、ルーナは髪を頬から払ってトムを見上げた。
「ウナギの?」
「そう。おかげで大分わかって来た」
「見つけたの?」
「うん。僕のウナギを」
トムは窓の外へ目を向けた。今日は小さな魚が何匹か、灯りの端を泳いでいた。
ルーナのお目当てらしいものは見えなかった。
「そっちは、まだ?」
「うん。この箱、ロシア語が書いてあるからかな」
「ウナギって字が読めるの?」
「読めないって、確かめた人もいないでしょう」
そう言われると、何も切り返せなかった。
古代ギリシャでソクラテスと会話している人間はこういう気分なのだろうか。
トムが朝食に誘うと、ルーナは箱を持ち上げた。
淡い髪が静電気で頬に張りつき、彼女は少し首を振ってから、敷物を拾い上げる。
「箱、置いていかないの?」
「踏まれたら困るもの」
両手で抱えた箱に顔を半分隠したまま、ルーナは歩き出した。
トムもその隣に並ぶ。階段を上がると、広間から食器の触れ合う音が聞こえた。
入口でロンがこちらに気づき、隣の椅子を足で引いた。
*
よく考えたら、僕のウナギって結構きわどいセクハラじゃないか??
展開的に
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冗長・遅い
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丁度いい