三月に入った最初の週、トムはグリンデルバルドの調薬室を訪ねた。
扉を叩くと、中から短い返事があった。薬草の匂いがする部屋では、老人が鍋の上へ顔を寄せている。何かが煮えているらしいが、立ち上る湯気は途中で曲がり、天井に吊るされた瓶へ吸い込まれていた。
瓶の底には、黄色い液体がゆっくり溜まっている。
「先生。鏡の課題ができるようになりました」
グリンデルバルドは鍋から顔を上げた。片方の眉が、珍しく少し動いた。
「一度、映らなくなったという話なら聞かんぞ」
「一分間です。昨日と今朝、両方できました。時間も測りました」
できたと思った途端に、鏡の中で遊びが始まってしまう。
そこから一分まで延ばすのに、さらに何日もかかった。
途中で時間が気になり、あと何秒かと考えて失敗したこともある。自分の集中力の敵が自分の時計であるとは、なかなか面倒な話だった。
老人はトムを少し眺め、鍋の火を弱めた。
「君のことだ。やり方が違っていても、辛抱強く同じことを続けるだろうと思っていた。イースターまではかかると見ていたが、多少は脳を使えるらしいな」
「ありがとうございます」
トムは胸を張った。毎朝の努力が報われたのだ。
多少の嫌味くらい、今なら褒め言葉として受け取れる。
グリンデルバルドはつまらなそうに鼻を鳴らし、机に積まれた本を一冊抜いた。
その拍子に、紙の束がずれた。
以前はその上に赤い石が載っていたはずだが、今は何もない。
一月の騒ぎ以来、別の場所へ移したのだろう。
机の上には相変わらず危なそうな瓶が並んでおり、物が一つ減ったくらいでは、片づいたようには見えなかった。
「では、ようやくスタートラインに立ったな」
「……え、スタートラインですか?」
「そうだ。これで本当の閉心術の基礎に入ることができる」
トムは思わず天を仰いだ。秋から座り続け、冬の間は鏡とにらめっこをしていた。
だが、あれはまだ、チュートリアル前!?
「だからこそ、習得できる者は少ない。
この本を持っていきなさい。よく読み込むように」
老人は抜き取った本をトムに渡した。受け取って表紙を確認すると、こう書かれていた――『マインドを守る呪文:開心術に対抗するための実用ガイド』。
挟まれていた紙には、細い文字で要点や注意事項が書き込まれていた。
「ステップ3。記憶の取り出し方と改変の仕方を覚えたまえ。
必要なものを迅速に選び、正確に呼び起こす。
最終的に一部を隠したり、手を加えたりするのだ」
「記憶を、変えるんですか」
「変え方を知れば、自分の記憶を調べる際にも、どこに注意すべきか分かるだろう。閉心術を実戦で使うには、さらに精神防衛の構築が必要だが――ひとまずこの段階を終えれば、記憶に手を加えられた痕跡を探すことはできるはずだ。順調に進めば、君が望んでいたアルバスとの会話も許そう」
「本当ですか!」
トムの心が躍った。数か月にわたる単調な訓練を乗り越えて、やっとゴールが見えた。
もうすぐ、原作知識チートのタグが活きる時が来るのだ!
「この部分はクィレル君に習いたまえ」
「クィレル先生に?」
歴史の授業で穏やかに話している顔が浮かんだ。
グリンデルバルドとは、ずいぶん関係性が遠い先生に思えた。
「あれは典型的なレイブンクローだ。頭に知識を詰め込み、必要なときに取り出すことには長けている。使い道はともかく、整理の仕方なら教えられるだろう」
「先生が教えてくださるんじゃないんですか?」
「私は忙しい。君が昨日と一昨日を取り違えるたびに、いちいち付き合ってはおれん」
クィレル先生も、別に暇ではないと思うのだが……。
「訓練ではアルバスが持っている憂いの篩というもの借りて使う。
クィレル君にはこちらから話をしておこう」
憂いの篩。原作にも登場した、国宝級と言ってもよさそうな代物だ。
ホグワーツの歴代校長が受け継いできたもので、取り出した記憶を入れ、客観的に見直すことができる。
「……つまりそれって、僕の記憶も見てもらうことになるんですよね」
「その知識を持っているなら話は早い。何を取り出すかは君が決める。見せたくないものは見せんでいい」
トムは本へ目を落とした。前世の記憶を出す必要はない。
昨日の授業でも、朝食でもいいなら、困ることはなさそうだった。
「分かりました。やってみます」
*
クィレル先生はすんなりと指導を引き受けてくれた。
毎週二回、夕食後に彼の研究室で個人レッスンを受けることになった。
最初の訓練の日、挨拶をして研究室へ入ると、ドライヤーや電動髭剃りなど、マグルの日用品がいくつか目についた。
本棚には様々な分野の本が几帳面に並べられている。
部屋の中央の机には、大きな石の鉢が置かれていた。
縁には文字や模様が刻まれ、中では銀色のものが渦を巻いている。
水にしては濃く、霧にしては重そうだった。近づいて覗くと、底で何かが動いたように見えたが、すぐに銀色の流れへ紛れてしまった。
「これが憂いの篩ですか?」
「ええ。ダンブルドア先生からお借りしました。扱いには気をつけてください。替えを買いに行ける品ではありませんから」
クィレルに椅子を勧められ、トムはこれまでの修行の内容と進み具合を話した。
先生は感心した様子で頷いた。
「毎朝、それだけ続けてきたんですね。十二歳で、なかなかできることではありませんよ。ブライト君はかなり忍耐強いのですね。グリンデルバルド先生も口には出しておりませんが、きっとそういうところは評価していると思います」
素直に褒められると、少し照れくさかった。
実際は前世と合わせて40歳後半のおっさんが自分探しに半年かかったようなものだ。とてもじゃないが自慢できない。
「それでは、これを使うとどんなふうになるか、一度実際に見てみましょう。
きっとその方が理解しやすいですしね。城のホグワーツを見たことは?」
「ありません」
「それなら、ちょうどいい。私が学生だった頃の光景を少しお見せします」
先生は杖先をこめかみへ当てた。少し目を伏せ、それから手を離す。
銀色の細いものが、杖先に引かれて伸びてきた。
トムは思わず身を乗り出した。
実際に見ると、頭から何かを抜いているという事実がなかなか強烈だった。痛くはないのだろうか。
クィレルが杖を鉢へ寄せると、銀色の糸が中へ落ちた。
表面に波が広がり、その下に長い卓が現れる。
「顔を近づけて。私も一緒に行きます」
トムは先生を見てから、鉢を覗き込んだ。
銀色の表面が近づいたかと思うと、足元がなくなった。
*
靴の裏に、硬い床が触れた。
顔を上げたトムは、そのまま口を開けた。頭上には夜空が広がり、数えきれないろうそくが浮かんでいる。四本の長い卓には料理が並び、その両側を黒いローブ姿の生徒たちが埋めていた。皿や杯の音、あちこちから上がる笑い声が、高い天井へ響いている。
映画で見た、あの大広間だった。
けれど、画面で見るのとは感動が全く違う。
夕食の時間だろうか、長机の端から端まで生徒たちが座っていた。一面には香ばしい焼いた肉の匂いがして、すぐ横を通った少女の袖が腕をすり抜けた。
「触れられませんよ。こちらの声も聞こえません」
隣に立ったクィレルは、トムが人を避けようとする様子を見て、少し笑った。
生徒たちの向こうを見渡すと、奥の席には見覚えのある先生たちがいた。
フリットウィックは誰かと楽しそうに話している。
マクゴナガルは今より少し若く見えたが、通路でふざける生徒へ向ける顔は同じだった。
「あそこにいるのが私です」
言われた先に、痩せた少年がいた。
髪をきちんと撫でつけ、脇に分厚い本を抱えている。
今のクィレルの面影はあるが、背筋が妙に固かった。
少年の前には、腹の出た、立派な口髭の教授――スラグホーンが立っていた。
「よく調べたね、クィリナス。あの二冊を読み比べた生徒は、今年は君だけだったよ」
若いクィレルの顔がぱっと明るくなった。
「あ、ありがとうございます、せ、先生。ただ、第三版では注釈が変わっていて、それだと――」
「うむ、その話はまた聞こう。食事が冷めてしまうからね」
教授は少年の肩を叩き、別の卓へ向かった。
それでも若いクィレルは嬉しそうで、本を胸へ抱え直すと、自分の席へ戻っていった。
「懐かしいですね。このときは課題のために図書室へ通い詰めていました。
見てもらえたのが嬉しかったんですよ」
隣のクィレルは、少年が腰を下ろすのを眺めていた。
トムもその顔を見たあと、卓へ目を戻した。
しかし、同じ卓にいた少年が、若いクィレルの本を指さして、何か意味ありげな笑みを浮かべた。
「また先生のところで尻尾を振っていたのか、クィリナス。だったら――」
声が急に遠くなった。白いものが卓の上を横切った。湯気かと思ったが、皿も人の顔も隠してしまうほど濃い。向こうで笑い声がし、何かが床へ落ちる音がした。
次の瞬間、霧は消えていた。
若いクィレルは席に座り、黙って食事をしていた。目の前の皿には、さっきまでなかったプディングが載っている。
本を指さしていた少年は二つ向こうの席へ移り、別の生徒と話していた。
トムは卓の下を覗いた。床には何もなく、さっきの本も若いクィレルの膝の上に載っている。
「……先生?」
隣のクィレルは答える代わりに、手を差し出した。
トムがその手を取ると、大広間が遠ざかり、再び足元が引かれた。
*
研究室へ戻ると、ろうそくの数がずいぶん少なく感じられた。窓の向こうも、星空ではなく暗い水だった。
クィレルは杖先で鉢から記憶をすくい取り、小さな瓶へ入れた。トムは椅子へ腰を下ろし、まだ少しふわふわする頭を押さえた。
「途中で、時間が飛びませんでしたか」
「お気づきになられましたか?」
「食べ物が変わっていました。それに、さっきまで隣にいた人が、急に別の席へ移っていて」
「そうですね。あれでは、何か隠したと丸わかりですよね?」
先生は瓶を机へ置いた。銀色の記憶の途中に、少し濁った塊があった。
「お見せする前に、一部へ手を加えました。まずはこれが出来るように目指しましょう」
「何かされたんですか?」
口にしてから、トムは少し後悔した。
隠したことだったのに、気安く聞いてしまった。デリカシーの欠片もない行動だった。
クィレルは瓶の蓋を閉じ、苦笑した。
「本ばかり読んでいる子供でしたから。面白くないと思う生徒もいたんです」
「でも、先生に褒められて……」
「ええ。嬉しかったですよ。だから、今でもあの日を覚えています」
クィレルは椅子を引いて座った。
トムはいつぞやのパーシーの言葉を思い出した――先生だって、学生の頃は優秀だったのに。勉強ができるからって、周りが認めてくれたわけじゃないでしょう。なじめなくて、陰で笑われて、嫌がらせをされて――
「楽しかった日にも、嫌なことは起こります。普段は、思い出したいところを思い出せばいい。けれど、篩で見せるとなると、そうはいきません」
トムは銀色の瓶を見た。
教授に褒められた少年の顔と、そのあと黙って食事をしていた姿が浮かぶ。
何を言われたのかは分からなかった。先生も、それ以上説明しなかった。
「見せる場面を選ぶことと、その中身を変えることは別です。
今の記憶も、隠した部分の前と後がつながっていませんでしたね。
違和感なく隠すには、高度な技術が必要です。
残念ながら、私もそこまではできません」
「食べ物や、人の場所も変えないといけないんですか」
「自然に見せようと思えば。話していた相手の返事も、その間に周りで起きたことも。
言葉を一つ消して、あとはそのままというわけにはいきません」
クィレルは瓶をしまい、再びトムに向き直った。
「さて、記憶の改変はまだ先の話です。
まずは、自分の選んだ部分を正しく取り出すところから始めましょう」
「はい」
トムは頷き、杖を抜いた。
「印象に残っている、楽しい場面を思い出してください。
そのほうが取り組みやすいでしょうから。
もちろん、私に見せても差し支えないもので」
「……先週、誕生日を祝ってもらいました」
「それはいいですね。何をしているところにしましょうか」
しおりをもらったところ、と答えると、クィレルは具体的にどこからどこまで取り出すつもりなのか尋ねた。
トムは少し考え、包みを受け取って中のしおりを見るまで、と決めた。
*
先生に教わったとおり、杖先をこめかみへ当てる。
誕生日の夜を思い出す。白い布の掛かった机。ケーキ。ネビルが膝へ載せてくれた紙袋。その中に入っていた薄い箱。
杖をゆっくり離したが、何も出てこなかった。
「集中することが大事です。瞑想を思い出してください」
「……はい」
「では、もう一度」
そうやって何度か繰り返しているうちに、こめかみの辺りが妙にくすぐったくなった。
すぐには目を開けず、しおりの上で丸くなっている黒猫を思い浮かべたまま、杖を動かした。
細い銀色の糸が伸びていた。
「出た」
「そのまま、こちらへ」
息を詰めながら、鉢へ落とす。
銀色の糸が表面へ溶け込み、見覚えのある机が現れた。
*
「ちょっと、まだ――」
「もう呼んでこいって言っただろ」
「火をつけてからって言ったの!」
篩の中へ入ると、ラベンダーがロンに文句を言っていた。
トムは隣のクィレルを見た。まだ、しおりどころか、ろうそくの火もついていない。
「決めたところより少し前からになりましたね」
先生はそう言っただけで、怒りはしなかった。
二人で机の横に立ち、誕生日の自分を眺める。四人から祝いの言葉をかけられたトムは、思っていた以上ににやけていた。
こんな顔をしていたのか。
別に悪いことではないのに、先生と並んで見ると妙に恥ずかしい。
ケーキの火を吹き消し、皿が配られる。ようやくネビルが紙袋を膝へ置いた。
「これ、四人で作ったんだ。本を読むときに使えると思って」
そこからは覚えているとおりだった。
箱を開け、トムが指を近づけると黒猫が伸びをした。
ハンナが教科書を持ってきて、使い方を見せてくれる。
しかし、箱を開けたあとも、記憶は終わらなかった。
猫が勝手に鳥籠のページへ移り、やがて先生たちからのプレゼントを開け始めた。
そして、ハロがプレゼントの山から飛び出した。
クィレルはハロを興味深げに、まじまじと観察した。
「これは、よくできていますね」
「クリスマスにグリンデルバルド先生に贈ったんですが、ずいぶん改造されて返ってきたんです……」
先生はそれを聞いて、なるほど、とわずかに頷いた。
*
研究室へ戻ると、クィレルは時計を確かめていた。
トムが思っていたより、ずいぶん時間が過ぎていた。
「記憶は取り出せています。次は、範囲を絞ってみましょう」
「しおりをもらったところだけ、思い出したつもりだったんですが」
「それを思い浮かべたあと、ほかのプレゼントのことも思い出してしまいましたか」
「……その通りだと思います」
「記憶は連続したものです。一つ思い出すと、それにつながることも浮かんできますからね」
「少し休みましょうか」
クィレルが杖を振ると、棚からカップが二つ降りてきた。
ポットが傾き、紅茶を注いでいく。トムは杖を置いて受け取った。
何度も同じ場面を思い浮かべていたせいか、温かいものを飲むと、ようやく研究室へ戻ってきた気がした。
「城は、どうでしたか?」
「すごかったです。天井も、あんなに高くて。あそこで毎日食事をしていたんですよね」
「ええ。慣れると、天井を見上げることも減ってしまうんですが」
クィレルは砂糖壺をトムのほうへ寄せた。
「図書室もお見せすればよかったですね。君なら、なかなか出てこなくなるかもしれません」
「船の図書室より、広いんですか?」
「比べものになりません。ここへ持ち出せた本は、ほんの一部ですから」
トムは壁の本棚を見た。自分には、この部屋にあるものだけでも、読み終えるまで何年かかるか分からない。
それでも、あの城の図書室に入れると聞けば、きっと喜んでついていっただろう。
「もし君が混血の魔法使いだったら、あちらで学びたいと思いますか?」
カップへ伸ばしかけた手が止まった。
クィレルは静かに紅茶を飲んでいた。
「……今のホグワーツで、ですか?」
「ええ。正式な生徒として。ほかの生徒と同じ授業を受け、試験を受けて、卒業できるとしたら」
あの大広間の席に、自分が座っているところを想像した。
知らない教室を巡り、図書室で本を探す。夢にまで見た魔法学校での生活だ。
しかし、続いて浮かんだのは、自分へ許諾書を差し出したクラウチだった。
「でも、僕はマグル生まれです」
「ご両親は、君が生まれて間もなく亡くなられたのでしたね。そのあと、孤児院へ」
「はい」
「ご両親について、詳しいことを聞いた覚えは?」
「ほとんどありません」
この体の記憶を探ってみても、両親の顔は浮かばなかった。
孤児院の大人から聞いた話も少ない。
先生が何を言おうとしているのか、まだ分からなかった。
「君自身が知らず、親族とのつながりも分からない。
であれば、残された記録がすべて正しいか、確かめる余地はあります」
「記録、ですか」
「出生や家族についての記録です。
純血となると、何代にもわたって家系を示さなければならないでしょう。
ですが、混血なら、ご両親のどちらかに魔法使いの血が流れていればいい」
トムは驚いて先生の顔を見た。
「そういうことに、するってことですか?」
クィレルはカップを受け皿へ戻した。
「記録を訂正し、混血として認めてもらえれば、正式な入学手続きを取れる可能性はあります。もちろん、簡単な話ではありませんよ。書類を書き換えるだけで済むわけではありませんから」
訂正という言葉が、少し引っかかった。
本当に親のどちらかが魔法使いだったと分かるのと、そう書かれた書類を用意するのとでは、随分違う。
「それで、ばれたら?」
「危険でしょうね。ただ、城で学ぶ道が、初めから何もかも閉ざされているとは限らないんです」
先生の話し方は、授業で別の説を紹介するときと同じだった。トムはカップを両手で包んだ。
入学できれば、船を降りて暮らせる。
襲撃のたびに広間へ集められることもなくなるのかもしれない。
けれど、城にいる生徒の全員が、同じように学べているわけではない。
「混血になれれば、奉仕活動へ行かされることもないんですよね」
「今の制度では、マグル生まれの生徒とは扱いが違います」
「僕の書類だけ変わったら、僕だけですか」
クィレルはすぐには答えなかった。トムは机の向こうの憂いの篩へ目をやった。
さっきまで、自分の誕生日会が映っていた。
「城には行ってみたいです。本も読みたいし、知らない魔法も習いたいです。
でも、向こうへ行っても、たぶん気になります。マグルの生徒たちがどうなってしまうのか」
「知らない他の子のことでも心配なのですか?」
「……うまく言えないですね…」
口にしてから、少し子供っぽい説明だと思った。
もっと立派なことを言うつもりだったわけではないが、いまのトムは上手に言語化できなかった。
クィレルはトムをしばらく見て、小さく頷いた。
「君の気持ちは分かりました。急に、難しいことを聞きましたね」
「先生は、戻りたいですか?」
今度はクィレルが手を止めた。
窓の外を、小さな魚が横切っていった。
「……まだ読み終えていない本が、少しありますからね」
先生はそう答え、残りの紅茶を飲んだ。トムには、それが冗談なのか分からなかった。
カップを空にすると、クィレルはポットと一緒に棚へ戻した。
「さて、続けましょう。楽しい記憶は、つい先まで追いたくなりますからね。
今度は、包みを受け取るところからです」
*
何度か試しても、始まりや終わりが少しずつずれた。
短くしようとすると、今度は膝の上に最初から箱が載っている。
トムはいったん杖を下ろし、息を吐いた。
早く成功させようとして、杖を握る手に力が入っていた。
目を閉じ、いつもの瞑想と同じように呼吸を整える。
気が急いていることを意識したまま、しばらく待った。
落ち着いてから、ネビルが袋を持ち上げるところを思い出した。
膝へ載せてもらい、箱を取り出す。
四人で作ってくれたと聞いた嬉しさとともに、ハロが飛び出した場面まで浮かびかけたが、続きを追わず、袋を受け取る手へ注意を戻した。
今は、ここだけでいい。
蓋を開け、丸くなっている黒猫を見る。
そこまでを思い浮かべ、トムはもう一度、杖先をこめかみへ当てた。
取り出した記憶は、ネビルが袋を持ち上げるところから始まった。
机のそばに立ち、トムは自分が受け取るのを見た。
袋から箱を出し、蓋を開ける。
猫へ指を近づける少し前に、場面が途切れた。
研究室へ戻ると、クィレルが頷いた。
「今度は、決めたところが取り出せましたね」
トムは息を吐いた。ほんの短い記憶なのに、大仕事を終えた気がした。
先生は小瓶を差し出し、取り出した記憶を収めるのを手伝ってくれた。篩の表面から共同休憩室が消え、銀色の渦が戻ってくる。
「最初は、それで十分です。手順に慣れれば、もっと楽になります。本日は戻し方を確かめて終わりにしましょう」
「ほかの記憶で試さなくてもいいんですか?」
「次にしましょう。精神的な疲労は、意外に尾を引きますから」
なるほど。ムーディーズブートキャンプと違って、疲れ始めてから本番、という方針ではないらしい。ありがたいことだった。
教わりながら記憶を戻し、瓶を空にすると、クィレルが声をかけた。
「いい誕生日だったんですね」
「はい」
今度は、考えずに答えられた。
クィレルは少し笑い、石の鉢へ布を掛けた。
「次もぜひ、楽しかった特別な思い出を選んでおいてください」
展開的に
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冗長・遅い
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丁度いい