あんまり話が進まなくて申し訳ない…
リリーが最後の階段を駆け上がったとき、物の壊れる音はもう聞こえなくなっていた。
廊下には木片が散らばり、トレローニーの部屋の扉はなくなっている。
戸口から中を覗くと、ロンが片腕を押さえて壁際に座っていた。
その向こうではラベンダーが杖を構えたまま、床に伏せた灰色の獣を見つめている。
「誰も動かないで!」
ロンが顔を上げた。
何か言おうとして唇が動いたが、声は出なかった。代わりに、部屋の隅を指さす。
――壊れた棚のそばに、少年が倒れていた。
顔には血の気がなく、投げ出された手の先に杖が落ちている。
服には木片が刺さり、頬には乾きかけた血がついていた。
リリーが近寄って膝をつくのとほぼ同時に、グリンデルバルドが入ってきた。
老人は獣を見るなり片手を振った。破れたカーテンが床を滑り、四肢へ巻きつく。布は幾重にも重なって鋼の帯へ変わり、灰色の体を押さえ込んだ。
「シビルは私が見ている。彼らを」
リリーはトムの首元へ指を当てた。脈はある。
顔を寄せると、かすかな息が頬に触れた。
「トム。聞こえる?」
返事はなかった。額にかかった髪を払っても、瞼は動かない。
「ポピー、こちらをお願い!」
続いて入ってきた先生たちが子供のそばへ向かった。
ポンフリーが隣にしゃがみ、トムの上へ杖をかざす。
リリーは場所を空けようとした。その指に少年の袖が引っかかり、一度腰を下ろす。
布を外してから、冷たい手を両手で包んだ。
ムーディーは拘束された獣と子供たちの間に立ち、義眼を部屋の隅まで巡らせた。
「噛まれた者はいるか?」
「僕は、噛まれてません。でも、ラベンダーが……」
ロンの声が途切れた。
ラベンダーは呼ばれても顔を上げず、狼人間へ杖を向け続けていた。
マクゴナガルが、その前へ膝をついた。
「ブラウンさん。こちらをご覧なさい」
「先生に……」
「ええ」
「あの水晶玉を、落としたんです。頭に。それで、動かなくなって……」
マクゴナガルは獣へ目を向けた。金属の帯の間で、灰色の胸がゆっくり上下している。そのそばに転がった水晶玉には、深いひびが入っていた。
「トレローニー先生は生きています。先生も治療を受けますから、今は杖を下ろしなさい」
「でも、また起きたら」
「私たちがいます」
ラベンダーはようやくマクゴナガルの存在に気が付いたかのように彼女のことを見た。
震えていた腕が下がり、そのまま泣き出した。
少し離れたところで、棚の下に挟まっていたネビルが助け出された。
足を動かそうとすると顔をしかめたため、フリットウィックがすぐに止める。
「立たなくて結構。運びますからね」
その声に、ネビルは上着の内側へ手を入れた。
「あの、これを……」
小瓶を差し出す手が震えていた。
「先生の薬です。ロンから預かって、僕が返すつもりだったんです。でも、扉が壊れて……」
マクゴナガルが瓶を受け取った。
「分かりました。詳しい話は、あとで聞きます」
先生たちが担架を並べ始めた。
戸口に立っていたハンナは、トムを見つけると、リリーのそばまで来て足を止めた。
「先生、トムは……」
「息はしているわ。今、診てもらっているところ」
ハンナは頷いたが、その目はトムから離れなかった。
「ハンナ、そこの本を退けてくれる? 担架を通したいの」
「はい」
彼女はしゃがみ込み、散らばった本を拾い始めた。
一冊取り落とし、もう一度拾う。
リリーはその背中を見てから、握っていた手へ目を戻した。
トムの指は、まだ動かなかった。
*
グリンデルバルドは、狼人間の向こうに倒れた棚を見ていた。
獣が突き破った床。爪で裂かれた家具。扉を塞ごうとして変形させたらしい小卓。
それらとは別に、部屋の隅から押し広げられたような破壊の跡があった。
床の砂と破片が弧を描いて寄り、棚は壁へ叩きつけられている。
老人はトムが倒れていた場所へ歩き、床の杖を拾い上げた。
――闇の魔法だった。
追い詰められた子供の魔法が暴発し、たまたま似た結果になったのではない。
この壊れ方を、彼は知っていた。
教えた覚えはなかった。
「ウィーズリーは、その子が獣を吹き飛ばしたと言っている」
義足の音が止まり、ムーディーが隣へ立った。青い義眼が、杖から壊れた棚へ動く。
「そうらしいな」
「何を使った?」
「本人に聞かねば分からん」
「一年生の衝撃呪文で、ああはならんぞ」
グリンデルバルドはトムを見た。
ポンフリーが何かを尋ねながら瞼を持ち上げていたが、少年は反応しない。
「危機に瀕した子供が、普段以上の魔法を使う。珍しい話ではあるまい」
「威力の話だけをしているんじゃない」
「承知している。一度話したように、この私が直々に訓練を監督しているのだ。目を覚ましてから確かめよう」
ムーディーの普通の目が細くなった。
「何か心当たりがあるようだな。今ここであの子を起こせるのかね?」
「起こそうともしないでください!」
ポンフリーが顔を上げた。
「医務室へ運びます。ほかの三人も担架に乗せて。シビルは別室です。姿が戻るまで、必ず誰かが付き添ってください」
「私がつこう」
グリンデルバルドは杖を布で包み、懐へ収めた。
「その杖も調べる必要がある」
「私が預かる。話は子供たちの治療が済んでからだ」
ムーディーは返事をしなかった。
担架が浮かび上がると脇へ退いたが、義眼は老人の懐を向いたままだった。
*
シャキ、シャキ、シャキ。
どこかで、鋏の音がしていた。
まどろみの中、トムが目を覚ますと、目の前で女たちが糸を紡いでいる。
顔は見えない。ただ、薄暗がりの中で動く手だけが見えた。
女の一人が、細い糸をつまみ上げた。
もう一人がその長さを測り、三人目が鋏を開く。そして今まさにその刃が閉じようとしたとき――その手が止まった。
一本だったはずの糸に、別の糸が絡んでいた。
目でたどると、さらに一本、その向こうにも一本。
五本の糸が互いを引き、ほどけそうでほどけない結び目を作っている。
鋏を持つ女が、糸を裏返した。
長い沈黙のあと、やがてゆっくりと刃を引いた。
糸は、そのまま残っていた。そして、次の瞬間。それは微かに光を帯びた。
女たちは再び手を動かし始める、再び運命を紡ぎ始めた彼女たちは――
「ト…トム……トム?」
目を開けると、リリーが顔を覗き込んでいた。
背後には白い衝立があり、その上に木の梁が見える。
医務室だ。
そう分かった途端、昨夜のことが戻ってきた。
砕けた扉。灰色の毛。ラベンダーへ迫る牙。
「ラ、ラベンダーは!?」
「無事よ。隣で寝ているわ」
リリーが少し身を引いた。向こうの寝台で、頭に包帯を巻いたラベンダーが眠っている。その先にはネビルがいて、反対側の寝台からはロンの赤毛が見えた。
「誰か、噛まれて……」
「誰も噛まれていません。ポンフリー先生が確かめてくださったわ」
トムはラベンダーを見つめた。布団がゆっくり上下している。
最後に杖が熱くなったことは覚えていた。
あの瞬間だけ、どうすれば力を出せるのか分かった気がする。
けれど、そのあとは見ていない。
間に合ったのだ!
「トレローニー先生は?」
「先生も別のお部屋で休んでいらっしゃるわ」
ようやく枕へ頭を戻すと、リリーが握っていた手をそっと離した。
「お水、飲める?」
頷いたものの、コップを持つだけで腕が重かった。
リリーに支えてもらい、少しずつ飲む。窓の向こうは暗い水だったが、壁の時計は朝の時刻を示していた。
ずいぶん眠っていたらしい。
もう少し起き上がろうとしたところで、衝立の向こうからポンフリーが現れた。
「そのまま。動かなくて結構です」
「でも、もう――」
「目が覚めたところでしょう」
反論する間もなく瞼の裏を調べられ、痛む場所を聞かれた。背中も脇腹も痛い。
それ以上に、身体の芯に力が入らなかった。
ポンフリーは診察を終えると、薬杯を渡した。
「しばらく一切魔法を使わず、安静にして休むこと」
「授業でもですか?」
「ダメです」
「じゃあ……」
「昨夜、あなたは呼びかけにも反応しませんでした。目を覚ましたからといって、もう元通りではありません。こっそり試して確かめるような真似はしないこと。杖を使わなくても同じです」
トムは薬杯へ目を落とした。先回りされてしまった。
リリーを見ても、助け舟は出なかった。
「先生のおっしゃるとおりよ」
「……はい」
薬は苦かった。飲み終えても、口の奥に味が残った。
授業を休んで寝ていてよい。普段なら少し嬉しくなる言葉だったはずだ。
けれど今は、自分の手がひどく頼りなく見える。
魔法を使えば、いつもの感覚が戻るだろうか。
考えかけて、ポンフリーの視線に気づいた。トムは両手を布団の中へ戻した。
*
朝食のあと、寝台の間へ椅子が運び込まれた。
ハンナが入ってくると、ロンが顔を上げた。
何か言おうとしたようだったが、その前にマクゴナガルとリリーが続いてきたため、口を閉じた。
五人の前に、見覚えのある瓶が置かれた。
「順番に確認します」
マクゴナガルが言った。
「最初に、ハグリッドとトレローニー先生の飲み物を無断で持ち出した。その場には、全員がいたのですね?」
五人が頷いた。
「そして、それを調べたあと、ポッター先生にはウィーズリー兄弟から渡された飲み物だと説明した」
「言ったのは、僕です」
ロンが答えた。
「ほかの皆さんも、嘘だと分かっていましたね」
「……はい」
トムは布団の上で手を組んだ。
あのとき訂正しなかったことを、今になって何度も思い返していた。
マクゴナガルの視線が、ロンとラベンダーへ移る。
「そして、あなたたち二人は薬を入れ替えた。何の薬か、分かっていましたか」
「ポリジュース薬かもしれないと……」
「かもしれない。それだけですね?」
ロンはシーツを握り、頷いた。
「もし偽物だったら、また船が危ないと思って。だから、僕たちが確かめなきゃって」
「本物の先生が病気で、その薬を必要としていた場合は、どうするつもりでした?」
返事はなかった。
「それに、本当に敵だったとしても、あなたたち二人で正体を暴き、そのあとどうするつもりだったのですか」
ロンが口を開きかけ、閉じた。
ラベンダーは膝の上で両手を握っていた。
「少し確かめて、何も起きなければ戻すつもりでした」
「その間、先生は必要な薬を飲めません。あなたたちが何も起きていないと思っている間もです」
マクゴナガルは怒鳴らなかった。
そのせいで、言葉が一つずつ、逃げ場なく聞こえた。
ロンもラベンダーも、もう何も言えなかった。
リリーが机に置かれた小さな瓶へ手を添えた。
「最初に、誰のものか教えてくれれば、私から確認できたのよ。どうして隠したの?」
「何で盗んだのか聞かれると思って……信じてくれないだろうし、怒られると思ったんです」
ロンの声は小さかった。
「ええ、叱ったでしょうね。でも、その時点で止められたわ」
リリーは二人を見た。
「トレローニー先生は、今朝から何度もあなたたちのことを尋ねていらっしゃるの。誰かを噛まなかったか、怪我はどうかって」
ラベンダーが目を伏せた。ロンも、握っていたシーツから手を離した。
「先生に、謝りたいです」
「お会いできるようになったら、一緒に行きましょう。今は先生も休む必要があります」
トムがそこで顔を上げた。
「僕が、ポリジュース薬の話をしたんです」
そう言うと、マクゴナガルがこちらを向いた。
「自分の飲み物を持っている人には気をつけたほうがいいって。僕が言ったから、みんなが先生を疑うようになって……」
「その話をしたことと、薬を入れ替えたことは別です」
先生はきっぱりと言った。
彼女はなぜトムがポリジュース薬を知っているのか、聞かなかった。
「あなたが反省すべきなのは、飲み物を盗む計画に加わったことと、嘘だと分かっていて黙っていたことです。ほかの人のしたことまで、一人で引き受ける必要はありません」
「でも、僕がそそのかしたようなものです」
「そう言ってしまったら、ウィーズリーさんとブラウンさんは、ご自身の間違いに気が付けません」
トムは口を閉じた。
先生はハンナへ向き直った。
「アボットさん。あなたのおかげで、私たちは現場へ向かえました。よく来てくれました」
ハンナは小さく頷いた。
「ロングボトムさん。薬を返すよう求めたのはよいことです。ただ、なぜもっと早く大人に相談できなかったのですか?友人を裏切らないことは重要ですが、時に間違いを正そうとする勇気も必要です」
ネビルは、膝の包帯を見つめながら頷いた。
「それから、ブライトさん」
トムは背筋を伸ばしかけ、脇腹の痛みに動きを止めた。
「友達を助けようとしたことは聞きました。ですが、先生を呼ぶ役を頼んだからといって、あなた一人で狼人間へ向かってよいことにはなりません」
「……はい」
「助けに行ったあなたまで倒れていたのです。私たちがどう思ったか、少しは考えなさい」
リリーの顔を見ることができなかった。
前世から数えれば、自分の方が長く生きている。
それでも昨夜、倒れている自分を見つけ、朝までそばにいてくれたのは彼女だった。
「すみませんでした」
今度は、誰の代わりでもなく謝った。
*
処分は、怪我が治ってから受けることになった。
五人とも、飲み物を持ち出した相手へ謝罪すること。
しばらく放課後は、先生の監督のもとで手伝いをすること。
ロンとラベンダーには、放課後の行動を事前に報告するよう、さらに言い渡された。
先生たちが出ていくと、医務室は静かになった。
ロンは長いことシーツを見ていた。
やがて、トムの方を向かないまま口を開いた。
「僕、先生に全部は言わなかった」
誰も返事をしなかった。
「船が心配だったのは、本当だよ。また襲われたら嫌だし、誰かが中にいるなら、見つけなきゃって思った。でも……それだけじゃなかった」
彼は一度唇を舐めた。
「僕が見つけたかったんだ」
トムはロンを見た。
「先生たちも見つけられなかった奴を、僕が見つけたらって。兄貴たちも、ちょっとは驚くだろ。僕を見直すって」
ロンは短く息を吐いた。
「十日も待って、その間に大人が全部調べたら、僕たちは何もしないままだ。それが嫌だったんだと思う」
「ロン……」
ハンナが呼んだが、彼は首を振った。
「だから、普通の薬かもしれないって言われても、ちゃんと聞かなかった。先生が怪しいって思えることばっかり探してた」
シーツの皺を指で伸ばし、また掴む。
「食事を運ばなくていいって言われたときも、怖いより先に、やっぱり何かあるんだって思った。先生が偽物だったら、僕が正しかったことになるだろ」
ラベンダーが顔を上げた。
ロンは彼女を見て、すぐ目を伏せた。
「でも、本当に何かあったら、何もできなかった。椅子を持って立ってただけだ。君が倒れても、先生がこっちに来たら……」
声が詰まった。
「トムまで倒れて。僕が、あんなことしなければ」
トムはすぐには返事ができなかった。
昨夜、ハンナから話を聞いたときは、腹が立った。
待とうと言ったのに。何の薬かも分からないのに。
今も、その気持ちが消えたわけではない。
「……腹は立ってるよ」
ロンが頷いた。
「うん」
「待っててほしかったし、ハンナの話も聞いてほしかった」
「うん」
「でも、僕も最初に止めきれなかった。先生に本当のことを話せばよかった」
ラベンダーが布団の上で手を握った。
「私も、ロンが間違ってたって分かればいいと思ってた」
ロンが彼女を見る。
「先生が偽物じゃないって分かったら、謝るって言ったでしょう。それが聞きたかったの。先生のためだと思ってたけど、私も、自分が正しかったことにしたかった」
彼女は包帯へ触れかけ、手を下ろした。
「何も変わらないはずだって、決めてたのよ」
少しの間、誰も喋らなかった。
ネビルが小さく言った。
「次は、先生に話そう」
「うん」
ハンナが答えた。
「誰かに止められたら、ちゃんと聞いて。私が言っても駄目なら、トムが言えば聞くかもしれないって、思いたくない」
ロンはようやく彼女へ顔を向けた。
「ごめん、ハンナ」
「私にも謝ってほしかったけど、次にやめてくれる方がいい」
「やめるよ」
その返事に、ハンナは頷いた。
廊下で足音がして、四人は思わず口を閉じた。
ポンフリーが入ってくると、ロンとネビルがほとんど同時に横になる。
「今さら寝たふりをしても結構です。静かに休んでくれれば」
先生は薬の盆を置いた。
トムも枕へ頭を戻した。ロンがこちらを見たので、小さく頷いた。
笑う気にはまだなれなかったが、顔を背けるつもりもなかった。
*
午後にはロンとネビルが医務室を出た。
ラベンダーも、翌朝もう一度診察を受ける約束で寮へ戻っていった。
トムだけは、残された。
ハンナが置いていった本を読んでみたものの、同じ行へ何度も目が戻る。
ページをめくるのさえ面倒になり、本を胸の上へ伏せた。
少し前までは、もっと魔法を使えるようになりたかった。
何か思いつけば、すぐに試したかった。
今は、まだ使えるのかどうかを確かめたかった。
「本を乗せて眠ると、知識が染み込むという説でも見つけたかね?」
目を開けると、グリンデルバルドが寝台の横に立っていた。
「先生……」
慌てて本を持ち上げようとして、取り落としかけた。
老人はそれを拾うと、脇の台へ置いた。
「大人しくしているようだな」
「そうするように言われましたから」
「珍しく、指示が伝わったらしい」
トムは布団の上へ手を戻した。
「あの、僕の杖は」
「預かっている。失くしてはおらん」
安心すると同時に、まだ返してもらえないのだと分かった。
「最後に……魔法を使ったんです」
グリンデルバルドは黙って続きを待った。
「先生が敵に使ったような魔法です……杖が熱くなって。どうすれば力を出せるのか、急に分かった気がして。でも、今は……同じことをしようとしても、どうしたらいいのか分かりません」
「同じことをしようとしたのかね?」
「しません。思い出そうとしただけです」
「なるほど。君は自分自身の忍耐を高く見積もっているようだな」
トムは黙った。確かに、杖があったら少し試していたかもしれない。
「先生には、何の魔法か分かりますか?」
「今は、君が何を覚えているかを先に確かめたい。身体が戻ってから聞こう」
「でも――」
「順番を守りたまえ。君は昨夜も、それを飛ばして寝台を一つ占領することになった」
言い返せなかった。
グリンデルバルドは台の上の薬杯へ目を落とした。
トムもそちらを見てから、声を小さくした。
「僕、また魔法を使えますよね?」
老人がこちらへ視線を戻した。
「休めと言われたのであって、二度と使えんと言われたのではあるまい。クィレル君には、課外授業を休ませると伝えた」
トムは息を吐いた。胸の奥にあったものが、少し緩んだ。
「魔法を使わない記憶の整理の練習の方法はありますか?」
「君には、何もしない練習が必要らしいな」
老人は本を顎で示した。
「眠いなら閉じたままにしておきたまえ。今日は、それで十分だ」
結局、杖も答えも置いてはいかなかった。
けれど、トムは本を開き直さなかった。
今度こそ目を閉じると、思っていたよりすぐに眠りが来た。
*
事件から三日後、五人はリリーに付き添われてトレローニーの部屋を訪ねた。
トムは短い外出を許されていたが、魔法は禁止されたままだった。
階段を上がりきると、少し息が切れた。前を歩いていたネビルが気づいて足を緩め、五人の歩調が揃った。
廊下の破片は片づけられていた。扉も直っている。だが、戸口の脇には修理を待つ椅子が置かれ、張り替えられた木枠だけが周囲より明るかった。
ロンが、その前で立ち止まった。
リリーは急かさず、彼が顔を上げるのを待ってから扉を叩いた。
「シビル。子供たちが来たわ」
「……お入りなさい」
いつもの香の匂いはしなかった。
トレローニーは肘掛け椅子に座り、膝に毛布を掛けていた。
頭には包帯が巻かれ、眼鏡のつるの片方だけが新しい。
部屋の棚は半分ほど空で、水晶玉の台座には何も載っていなかった。
ラベンダーが、そこを見て俯いた。
「お座りなさい。五人で戸口を塞いでは、リリーが入れませんよ」
皆が慌てて動いた。ロンは椅子へ座ってからも、膝の上で手を擦り合わせていた。
やがて、先生の顔を見た。
「薬を入れ替えたのは、僕とラベンダーです」
「ええ。聞きました」
「誰かが先生に化けてるんじゃないかって、疑ってました。薬が切れたら、元に戻ると思って」
一度、言葉が途切れた。
「何の薬か分からないのに、勝手に取ってすみませんでした。それに……僕が偽物を見つけたら、みんなに認めてもらえると思ってました」
トレローニーは黙って聞いていた。
「先生が本物だったときのことを、ちゃんと考えてませんでした。先生が何のために飲んでるかも」
ロンは膝の上で拳を握った。
「本当に、すみませんでした」
ラベンダーも顔を上げた。
「私は、先生が偽物じゃないって証明したかったんです。そうすれば、ロンも疑うのをやめると思って。でも、それで先生の薬を取っていいわけじゃありませんでした」
彼女の声は震えたが、最後まで続いた。
「私も手伝いました。ごめんなさい」
ネビルは、最初に飲み物を少し取ればよいと提案したことを話した。
ハンナは計画に加わったことと、リリーへの説明を訂正しなかったことを謝った。
トムも、先生を疑ったまま本人に何も尋ねず、持ち物を調べたことを詫びた。
トレローニーは、全員が話し終わるまで口を挟まなかった。
しばらくして、膝の毛布へ目を落とした。
「あの晩、わたくしは薬を飲んだつもりでいました」
ロンの肩が動いた。
「少し味が違いましたが、同じ瓶でしたからね。飲んだのだから大丈夫だと、そう思っていました」
先生は毛布の端を指でつまんだ。
「変身は、薬を飲んでも起こります。いつものことでした。ですから、初めのうちは……」
そこで言葉が切れた。
トムは、誰もいない部屋で変身を待っていた先生を思った。
食事を断り、子供たちを帰し、必要な薬を飲んだつもりでいたのだ。
「そのあとのことは、よく覚えていません」
トレローニーが顔を上げた。
「皆さんに噛み傷がなかったと聞いて、安心しました」
ラベンダーが鼻をすすった。
「ですが、安心したからといって、もう何でもないことにはできません。あなた方がわたくしの部屋へ来ると聞いて、今日は少し怖かったのです」
誰も動かなかった。
先生は小卓の茶器を見た。いつもの瓶は、そこにはなかった。
「何を持っていかれるのかと考えながら、お客様を迎えたくはありません」
「もうしません」
ロンが答えた。
「はい。そうしてください」
声は静かだった。
「わたくしが話していないことがあるのは、事実です。でも、話さないからといって、皆さんが勝手に調べてよいわけではありません。心配なことがあるなら、先生方へ相談なさい」
五人は頷いた。
ラベンダーが、空の台座へ目を向けた。
「水晶玉も……私が壊しました」
「ええ」
「先生の頭に落としたんです。ほかに、どうしたらいいか分からなくて」
トレローニーの手が包帯へ触れた。ラベンダーはそれを見て、口元を押さえた。
「ごめんなさい」
「ブラウンさん。薬を入れ替えたことについては、謝っていただきました」
先生は手を下ろした。
「ですが、そのあと、自分を守ったことまで謝らなくてよいのです」
「でも、先生に」
「止めてくれなければ、わたくしがあなたを噛んでいたかもしれません」
ラベンダーが息を詰めた。
「そうならずに済みました。水晶玉は惜しいですが、あなたを守れたのであれば、十分に役割りを果たせたと言えます」
トレローニーは小卓の引き出しを開け、ハンカチを取り出した。
ラベンダーが受け取ると、その手を一度だけ軽く叩いた。
彼女はハンカチへ顔を押し当てた。
「ごめんなさい……」
先生はそれ以上、何も言わなかった。
トムは、空の台座を見つめた。
昨夜ではない。もう三日前なのに、牙がラベンダーへ迫った瞬間は、目を閉じればすぐに浮かぶ。あのときは、知っている映画の場面と重なって、同じことが起きるのだと思った。
けれど、自分が倒れたあとも、ラベンダーはそこにいた。杖を握り、水晶玉を持ち上げ、自分で生き延びた。
それは、トムの知らなかった彼女だった。
隣で泣いている少女は、知っている結末まで歩いていく登場人物ではない。
間違えもするし、怖がりもする。
それでも、追い詰められたところで、自分にできることを選んだ。
トムはラベンダーから目を逸らし、膝の上の手を開いた。
自分が知っていることだけで、彼女の行き先を決めるのは、もうやめようと思った。
*
リリーが立ち上がった。
「今日は、このくらいにしましょう。シビルも、まだ休まなければいけないわ」
「ええ。そうさせてもらいます」
五人も椅子から立った。
ラベンダーは借りたハンカチを見て、洗って返すと言った。
「急がなくて結構ですよ」
トレローニーは答え、少し間を置いた。
「持ってくるときは、先に知らせてくださいね」
「はい」
ロンが扉を開け、皆が出るのを待った。
廊下へ出てから、彼は一度だけ部屋を振り返った。
何か言いかけたが、やめて頭を下げる。
「失礼しました、先生」
今度は、瓶の場所も、先生が何をするのかも確かめなかった。
扉を静かに閉めると、ロンはリリーの後について歩き始めた。
更新は
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量より質。少し空いても良い。
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質より量。毎秒更新しろ。