トムに魔法の使用禁止が言い渡されてから、半月ほどが過ぎ、船ではイースター休暇が始まった。
戦時下のため、生徒たちは家へ帰れない。それでも授業がなくなると、朝の広間は随分と静かになった。
上級生たちの席には空きが目立ち、早起きした数人が、寝間着の上にローブを羽織って紅茶をすすっている。
ロンはその姿を眺め、トーストを齧りながらため息をついた。
「僕たちの罰は、休み明けまで続くんだよな」
「自業自得だから仕方ないよ」
ネビルは欠伸を噛み殺し、カボチャジュースを飲んだ。
狼人間の一件は、先生たちの配慮によって公にはされなかった。だが、それで一年生5人の処罰が軽くなるわけではない。彼らには一か月におよぶ船内奉仕活動が厳格に課されていた。
ハンナはマクゴナガル先生のもとで古い教材や魔導書の整理を、ロンとネビルはハグリッドのところで力仕事や魔法植物の手入れを手伝っている。ラベンダーは、あの夜の打撲がまだ痛むというトレローニー先生の身の回りの世話を一手に引き受けていた。
そしてトムはというと、午前中は医務室でポンフリー先生の診察を受けつつ掃除の手伝いをし、午後はクィレル先生の研究室で、生徒たちの課題の整理や採点の補助を行う日々を送っていた。
「昨日は何してたの?」
トムが聞くと、ロンは肩を揉んだ。
「餌の袋を運んでた。ハグリッドは三人ならすぐ終わるって言ったけど、あの人は六つまとめて持つんだぞ。
僕たちは一つを二人でやっとなのに」
「しかも、中がカサカサ動くんだ」
ネビルが付け足すと、ハンナはカップを下ろした。
「生き物なの?」
「聞かなかった。中身を知らないほうがよく眠れそうだろ?」
トムは、それで正解だと思った。
そんな時、広間の時計が鳴ると、ラベンダーが椅子を引いた。
「もう行かなくちゃ。先生、きっとお茶を待ってるわ」
「僕も。じゃあ、またあとで」
トムは鞄を持ち上げた。
残ったトーストを必死に口へ押し込んでいるロンを置いて、静かな足取りで医務室へと向かった。
*
「おはようございます」
「おはようございます、ブライトさん」
ポンフリーは、ブートキャンプが原因で入院した上級生の口へ温度計を差し込みながら答えた。
患者は何か言おうとしたが、彼女に指を一本立てられ、おとなしく枕へ頭を戻した。
「体調はいかがですか?」
「問題ありません。朝の体温も正常でした」
「頭痛は? 手足が重く感じることはありませんか?」
「ありません」
ポンフリーはトムを窓辺へ立たせ、顔色と目を確かめた。
それから両手を出させ、指を曲げ伸ばしするよう言った。
「よろしい。今のところ、順調です」
「それなら、そろそろ――」
「まだです」
「何も言ってません」
「言う前に済ませてあげたのです」
寝台の上で、温度計をくわえた上級生が笑った。
ポンフリーは戸棚を開け、残っているシーツを数えた。
「洗濯室へ行って、様子を見てきてください。仕上がったシーツが届くはずなのに、まだ来ていません。できていれば、この籠で運んでいただけますか」
トムは空の大きな籐籠を受け取った。とほほ。今日もまた杖は戻ってこない。
十二歳の肉体にとって、シーツの山を運ぶのはそこそこの重労働になりそうだ。
木造の入り組んだ廊下の角をいくつか曲がると、前方の空間を、真っ白なシャツたちが両袖を優雅に広げて鳥のように飛んでいる姿が見えた。その後ろからは、きれいに畳まれたタオルの山が数隊、そして裾を幽霊のように揺らす黒い学生ローブが規則正しく続いていく。トムは壁際に身を寄せ、洗濯物の列をやり過ごした。
この船では、洗い終わった衣類が魔法によって自動的に持ち主の寝台へ戻るようになっている。
城のホグワーツであれば屋敷しもべ妖精たちの隠れた仕事なのだろうが、ここでは服のほうが自ら廊下を歩くのだ。
もっとも、デリケートな下着類だけは、持ち主が自分で直接引き取りに来る決まりになっており――アニメ版そらのおとしもの状態にはならないための賢明な判断だ。
洗濯室の扉を開けると、温かい石鹸の匂いがした。幾つもの桶と洗濯板が忙しく働いている。
汚れた服が桶へ飛び込むたび、洗濯板が親の仇のような勢いで擦り始めた。
あの調子で、よく穴が開かないものだ。
奥ではシャツが水を絞られ、物干し綱へ移っていた。
乾いたものから宙で畳まれ、棚へ並んでいく。その一角に、医務室の白いシーツが積み上がっていた。
「できてるじゃないか」
一枚持ち上げてみる。乾いているし、いつもの石鹸の匂いもした。
なぜ届かなかったのか分からないが、持って帰れば済む。
籠へ詰め始めたところで、背後から声がした。
「やっほー、トム」
ジニーとデメルザ、その後ろからルーナが入ってきた。
「おはよう。何か取りに来たの?」
「この子の片割れを探してるの」
ジニーが片足を上げた。靴の上に、灰色の厚手の靴下がへばりついている。
本人が履いているものとは別の靴下で、芋虫のように身をよじっていた。
「君の?」
「そう。片方だけ戻ってきたと思ったら、ずっとこれなのよ」
ジニーが外して床へ置くと、靴下は洗濯桶へ向かって少し進み、また彼女の足元へ戻ってきた。
「ついてきてほしいんじゃないかなって思ったの」
ルーナが言った。
「どうして分かるの?」
「帰りたいだけなら、一人で帰れるでしょう」
「なるほど」
彼女は相変わらずのニュータイプっぷりだった。
*
灰色の靴下は、洗濯桶の間を這っていった。
四人がついてくるのを確かめるように、ときどき爪先を持ち上げる。
デメルザは桶から飛んでくる泡を避けながら、洗濯板を眺めていた。
「うちのお父さん、洗濯は面倒だって言ってたけど」
「これなら楽そう?」
「うーん……服のほうは大変そう」
横でシャツが激しく裏返された。トムは返事を控えた。
靴下は一番奥の棚へ着くと、その下へ潜り込んだ。
トムが膝をついて覗くと、暗がりに同じ色の布が見える。ハンカチや片方だけの手袋も落ちていた。
「いた。何か長いもの、ある?」
デメルザは周囲を見回した後、掃除用のブラシを持ってきた。トムは柄を差し込み、布を手前へ寄せた。
もう片方の靴下は、ぐったりしたままだった。動いているほうが何度つついても、起き上がらない。
「魔法が切れちゃったのかな」
ルーナがしゃがみ込んだ。ジニーが拾おうとしたとき、トムはその手を止めた。
「待って」
折り返しについていた茶色い粒のようなものたちが逃げるように散っていった。
最初は埃だと思ったそれは、ジニーの指を避けるように縫い目へ逃げ込んでいく。
「虫?」
デメルザが袖を引き寄せた。
隣のハンカチにも、同じような粒が付着していた。よく見ると、細い脚が動いている。
トムは、籠へ詰めかけたシーツを振り返った。あれも動かなくなっていたのではなかったか。
「先生に見せよう」
棚にあった空き瓶を借り、ブラシの先で数匹を中へ落とした。
栓をすると、虫たちは瓶の底を忙しく歩き始めた。
「靴下は?」
「ひとまず、置いておいたほうがいいと思う」
「一緒にいてあげてね」
ルーナが動くほうの靴下へ言った。
靴下は、相棒の上へ爪先を重ねた。
*
ポンフリーは小瓶を受け取ると、明かりへかざした。
「洗濯物についていたのですか?」
「はい。動かなくなった靴下に。ほかの服にもいました」
彼女は虫眼鏡を取り出し、瓶へ当てた。
それを四人にも見えるよう傾けると、小さなカニのような姿が現れた。
幾つもの脚と、体に不釣り合いな大きな歯がある。
「チズパーフルですね」
「チズ、パープル?」
「ええ。有害な生物です。魔法生物に寄生することもあれば、魔法の道具へ取りつくこともあります」
「服を食べるんですか?」
ジニーが尋ねると、ポンフリーは首を振った。
「かかっている魔法を食べます。シーツが届かなかったのも、そのせいかもしれませんね」
トムは瓶の底を見た。
なるほど、魔法界の害虫か。
しかもこいつらは、単にマグルの世界のように服に穴を開けるだけの存在ではないようだ。
「洗濯物は持ってきていませんね?」
「置いてきました」
「よろしい。では手を洗って。私も見に行きます」
洗濯室へ戻ると、ポンフリーは動いていた洗濯板を止めた。
宙を飛んでいた服が近くの棚へ降り、桶が静かになる。最後に、絞られていたシャツが水の中へ落ちた。
彼女は棚の下へ杖を向けた。淡い光が隙間を照らし、落ちていた布が一枚ずつ浮かび上がる。
「大掃除のときには、いなかったはずなのですが。いつの間に入り込んだのでしょうね」
靴下が裏返されると、縫い目から数匹の虫が離れた。
ポンフリーはそれを空中へまとめ、杖の一振りで片づけた。
ジニーがほっと息を吐いた。
「これで終わりですか?」
「そうだとよいのですが」
ポンフリーは棚の脚へ光を当てた。木の継ぎ目で、茶色い点が動いた。
「数匹見つかったなら、隙間には数百いてもおかしくありません。洗濯物に乗って、ほかの部屋へ移っている可能性もあります」
「寝台にも?」
デメルザが嫌そうな顔をした。
「だから、まとめて調べるのです。
見つけたものだけ退治して、安心するわけにはいきません」
ポンフリーは扉へ向かい、洗濯室の使用を止める札を掛けた。
「先生方と相談します。皆さんも、ここにあるものは持ち出さないこと」
「私の靴下も?」
「あとで綺麗にしてお返しします」
床では灰色の靴下が、動かない片割れを引っ張ろうとしていた。
ルーナがしゃがみ、二足を棚の前へ並べた。
「しばらくお休みだって」
トムは空の籠を持ち上げた。
シーツを取りに来ただけのはずが、まさか洗濯室を閉鎖に追い込むとは。
*
「チズパーフルですか。それは厄介ですね」
午後、クィレルの研究室で朝の出来事を話すと、先生は採点の手を止めた。
「ポンフリー先生が、ほかの部屋も調べると言っていました」
「そうしたほうがいいでしょう。この船は、あの生き物には天国のような場所ですから」
トムは部屋を見回した。
魔法の灯りに、自分で頁をめくる本。棚の端では木彫りの小人が、傾いた本を懸命に押し戻している。
「食べ放題ですね」
「隠れ家も豊富です。床板や壁の裏へ入り込まれれば、探すだけでもひと苦労ですよ」
「船を動かす魔法まで、食べられたりしますか?」
「増えすぎれば、影響が出るかもしれません。水の中でそれを確かめる羽目にはなりたくないですね」
窓の向こうは相変わらず暗い水だった。
トムは、朝見つけた虫の小ささを思い出した。
あんなものに船を沈められては、たまらない。
「早く見つかって何よりです。先生方も手を打つでしょう。さて、今日は、こちらをお願いできますか」
クィレルが答案の束を寄せた。
今日の仕事は、マグル学を履修している生徒たちの論文を読むことだった。
マグルの暮らしを知る者の目から見て、不自然な説明がないか確かめるという内容で、トムは気になった箇所へ印をつけ、最終的にクィレルが点数をつけるという形だ。
電話の使い方や服装の違いばかりかと思ったら、上級生の課題には物理や電気の初歩まで出てきた。
電池と豆電球をつないだ回路図を見つけ、トムは少し感心した。
中学校の理科くらいは、ちゃんとやっているらしい。
「ここ、電球の中の電流を使い切ると消えると書いてあります。これ間違いにしますか?」
「ああ。その勘違いは毎年出ます。印をつけておいてください」
クィレルが横から答案を覗き込み、苦笑しながら答えた。
「電気のことも結構詳しく教えているんですね」
「電灯が光る仕組みを説明するには、必要ですから」
「魔法使いなら、ルーモスで済みますけど」
「試験でそう書いた生徒もいました。残念ながら、呪文学の試験ではありませんのでね」
トムは笑い、次の頁をめくった。電池の種類や用途が細かい字で並んでいる。
これだけ調べているなら、もっとマグルの道具を使ってもよさそうだった。
「魔法界では、こういう道具はあまり広まらないんですか?」
「欲しいものがありますか?」
「ボールペンとかですね。インクをつけ直さなくていいので」
ちょうどペン先がかすれた。クィレルは自分のインク瓶を押し出し、少し笑った。
「私も旅行先で買いました。便利でしたよ」
「だったら、もっと普及してもよさそうなのに。町や家も、ずっと昔からあまり変わっていないでしょう?」
先生は羽根ペンを置いた。
「いまの魔法は何世紀もの時間をかけて、今ある生活様式や道具に合わせて、最適化されて完成してきたものですからね」
「魔法の方を、マグルの新しい道具に合わせて新しく調整することはしないんですか?そっちの方が便利そうなのに」
「そうですね……多くの魔法使いは今の暮らしに、本質的な不便や困りごとを感じていないのです。このため、わざわざ魔法を改良する必要がない、と言うのが結論になりますね」
*
「例えば、寒い家を暖めたいとき、魔法使いならどうしますか?」
「暖炉に火をつけます」
「水を汲み、荷物を運び、壊れた椅子を直すことも、杖があればできます。マグルなら道具や人手を揃えるところを、一人で済ませられるわけです」
言われて朝の洗濯室を思い出す。魔法の桶と洗濯板があれば、衣服を洗うところから、乾燥させ、きれいに畳んで運ぶところまで、すべてが自律的に行われる。魔法使いがその恩恵に浴している限り、わざわざ電線を引いたり、洗濯機を作るための工場を建設したり、大勢の労働者を雇ったりする必要など、最初からどこにも存在しないのだ。
「もちろん、食べ物を無から作れるわけではありません。畑も仕事も必要です。
ただ、暮らしていくために大勢と仕事を分け合う必要は、マグルと比較してかなり低かったのです」
「でも、お金に困る人はいますよね」
「ええ。土地の所有や、純血の古い家柄の財産の差は厳然として存在します。杖一本あれば誰もが経済的に平等になれる、などというおとぎ話ではないのは確かです」
クィレルは机の端にあった本を脇へ寄せた。
「それでも、古い服を繕い、家を直し、家族の食事を用意することはできる。
気に入った暮らしができていれば、わざわざマグルの新しい道具に合わせようと思わないでしょう」
「魔法で間に合っていたんですね」
「そうです。それに、今の仕組みが、絶対に変わってほしくないと考えている特権的な人々もたくさんいます。自分の家系が何代にもわたって大切にしてきた伝統や誇りを、急に現れたマグルの新しい機械や思想で追い出されるのは、彼らにとって決して面白くないことですからね」
満足している人間と不満はあるが我慢できる人間。そのようなマジョリティたちが変化を望まなければ、社会はなかなか変わらないのだろう。
困らなければ知恵はでない。改善の基本精神だ。
トムは回路図へ目を落とした。
「その間に、マグルはかなり変わりましたよね」
「確かに。マグルたちは一人ではできないことを、大勢の知識と仕事を集めて実現しました。魔法使いが自分の杖で用事を済ませている間にも。そして、それを危険だと考えたのが、グリンデルバルド先生です」
トムは思わず顔を上げた。
「……えっと、1930年代の話ですか?」
「そうです。その時のことについてどのくらい知っています?」
「マグルを支配しようとした、と」
「ええ。彼が急速にその支持を魔法界全体へ広げたころ、マグルの技術はそれこそ凄まじい爆発的な発達を遂げていました。交通網、無線通信、そして何より、大量殺戮のための兵器。マグルたちの間で行われた大きな戦争の被害は、実際に戦っている兵士たちだけに留まらず、周囲のあらゆる環境を破壊し尽くしました」
先生は窓の外へ目を向けた。
「魔法使いも、彼らと全く同じ一つの世界に住んでいるのです。マグルが世界を滅ぼそうとしたとき、果たして自分たちは『隠れていればそれだけで無事で済むのか』。次のより巨大なマグルの戦争が起きたとき、隠れ潜んでいる私たちの家やコミュニティも、彼らの爆撃によって一緒に焼き尽くされるのではないか。当時の魔法使いたちが抱いていたその底知れない不安に対して、グリンデルバルドは一つの明快な『答え』を与えたのです」
「先に支配すればいい、と?」
「魔法使いが統べることで、災いを防ぐべきだと説きました。何もしなければ危険だと言われれば、普段なら反対するようなことにも、人は賛成します」
トムは少し考えた。
「支持した人たちは、みんなマグルを嫌っていたんですか?」
「そうとは限りません。家族を守りたい人もいたでしょう。戦争をなくせると信じた人も。支配を望む者だけでは、あれほど大きな勢力にはならなかったはずです」
クィレルは冷めた紅茶を一口飲んだ。
「ただし、実際に危険があったことと、彼の方法が正しかったことは、別なのですが」
*
「今の例のあの人も、同じことをしたんですか?」
「大衆の心にある恐怖を利用するという点においては、非常に酷似しています。ただ、彼が純血の古い家々に約束したものは、単なる迫り来る危機からの『安全』だけではありませんでした」
クィレルはカップを置いた。
「もっと豊かになれる。もっと大いなる力を手にできる。歴史の中で本来座るべきだった、ふさわしい地位へと戻れる。彼らは、そのように甘く囁かれたのです」
「ふさわしい地位?」
「例えば、伝統ある古い純血の魔法族の家系よりも、新しく魔法界へ参入してきた商人や、マグル生まれの魔法使いのほうが商売で大きな成功を収めていることがあります。それを見たとき、彼らは商売の才能が優秀だと客観的に受け止める人もいれば、自分のプライドが傷つき、何かが間違っている、気に入らないと激しい嫉妬を抱く人もいるでしょう」
「例え自分が困っていなくても?」
「そうです。暮らしに必要なものは持っている。それでも、相手が自分より多く持っているのが許せない」
まぁ理解はできるけど…
「きりがありませんよね」
顔に出ていたのか、クィレルが言った。
「自分の家が寒ければ、魔法の火で暖めればそれで用事は済みます。ですが、隣の家よりも常に立派でなければ絶対に嫌だという歪んだ欲望を抱けば、隣の家が新しく建て直すたびに、自分の心の中に永遠に新しい不満と憎悪が生まれ続けることになる」
「そこで、血統の話になるんですか」
クィレルは頷いた。
「自分たちが上に立つのは当然だ。その順序が乱れているから、今は不当に扱われている。そう説明されると、欲しいものを手に入れることが、奪われた権利を取り戻すことに変わります」
トムは椅子の背へ寄りかかった。
欲張っていると言われるのと、取り返していいと言われるのでは、随分と気分が違うだろう。
「それで、マグル生まれを働かせるようになったんですね」
「社会奉仕という名目でね。給料を払わず、人手を増やせる。本人に断る権利がなければ、雇い主には都合がいい」
先生は机の上の答案を揃えた。
「初めから賛成していた人ばかりでもないのでしょう。しかし、周りの店が無償の働き手を使えば、普通に賃金を払う店は競争で不利になります」
「反対していた人まで、使うようになるんですか?」
「使わなければ店を守れない、と考える者は出るでしょう。そうして利益を得るようになれば、制度がなくなるのを嫌がる。今度は、その人自身が体制を支える側になります」
トムは黙った。
命令されて従うだけなら、命令した者がいなくなれば済むのかもしれない。
だが、儲けている人間が大勢いれば、その全員が今の仕組みを守ろうとする。
「魔法省の役人も、店の主人も、みんな少しずつ関わっているんですね」
「ええ。新しい財産や地位を失いたくない人もいます。何をしたのか調べられたくない人もいるでしょう。纏めると、かつてのグリンデルバルド先生は、今ある暮らしを失うぞと人々に告げました。そして、例のあの人は、今の暮らしでは足りないはずだと囁いたのです。本来、現状に満足していたはずの人々に、もっとたくさんを与え、彼らの心を永遠に満足できない状態へと陥れたのです……これはね、トム。私たちが闇の魔術と呼ぶものの本質的な在り方と、極めて深く似ています」
「そういう魔法を使うと、もっと欲しくなるんですか?」
「多くの場合、間違いなくそうなります。自分が望んだ強大な力を最初に手に入れたその瞬間には、確かに脳を揺さぶるような激しい喜びを感じるでしょう。ですが、闇の魔術がもたらすその快楽は、決して長くは長続きしない。以前であれば十分に嬉しかったはずのささやかな日常の奇跡が、麻薬のように、どんどん物足りなく、色褪せていくのです」
「だから、もっと強い魔法を求めて、のめり込んでいって……」
「もっと強大な力があれば、もっと多くを破壊し、多くを得れば、今度こそこの不満は満たされるはずだと、本人は盲目的に考える。しかし実際では、闇の魔術を使えば使うほど、魂は飢え、その欲望を満たすために、またさらに禍々しい魔法へと手を染めていくのです」
研究室の隅で、時計が音を立てた。
「どれほどの力と富を手に入れようとも、その魂の本当の飢えが収まることは決してありません。けれど本人は、それがまだ自分の力が足りないせいだと思い込んでしまう。ゆえに、かつての時代のホグワーツや、現在の船のカリキュラムにおいて、生徒たちに闇の魔法を教えていません」
トムはその言葉を聞いて、あの夜の光を鮮烈に思い出した。
自分が一体何をどうしたのか、一か月が過ぎた今でも論理的に説明することはできない。
だが、あの極限の瞬間、自分の手の中には確かに、その場を支配できるかのような圧倒的な「力」があった。
目の前の強大な怪物を、木の葉のように簡単に吹き飛ばせるほどの力が――そして、その全能感を思い出すたびに、トムの心の奥底が、いまだにゾクゾクと怪しく震えるのを自覚していた。
あの強い力を、どうにかして自分の完全なものにしたいという誘惑が、確かに心のどこかに存在していた。
あれを続けていくと……魔法界のドパガキ誕生というわけか。
「……闇の魔術以外の魔法は、違うんですか?」
「そうですね……例えば、魔法で傷ついた誰かの身体が綺麗に治ったら、私たちはただ素直に、その事実を温かく喜ぶでしょう? 部屋を綺麗に整えたり、壊れた古いものを元通りに治したり――白魔法というものはね、そうした日常のささやかな変化に対する喜びをもたらします。私たちを内側から満足させてくれるのです。ブライト君も魔法で誰かを手助けできたとき、ただ純粋に嬉しかったでしょう?」
「はい」
「なら、その喜びを大事にしてください。足りることを知るべきなのです」
トムは机の上の答案へ目を戻した。
魔法が使えるだけで嬉しかったはずなのに、使えなくなってからは、できないことばかり数えていた気がする。
「何も欲しがらない、とはちがいますよね」
「もちろんです。向上心を持つことと、絶え間ない欲望の飢えに飲まれることは違うということです。そんなことを言われたら、私だって困りますよ。読みたい本が、まだ山ほどありますから」
棚には、入りきらない本が横向きに積まれていた。
「先に棚を増やしたほうがよさそうです」
「そうですね。ただ、それをすると、また本を増やしてしまいそうで」
トムは笑った。クィレルも口元を緩め、答案の束から一枚を抜いた。
「さて。では気持ちを切り替えて、こちらを見てもらえますか。明かりが灯っているマグルの頑丈な帽子について、マグルは自らの髪の毛から電気を流していると説明してものです」
「……それができるなら、もはや新種の魔法生物ですね」
「それはよい感想ですね。書いてあげてください」
トムは羽根ペンを取り直した。ライト付きヘルメットの説明を短く書き添えていると、廊下から足音が近づいてきた。
扉が軽くノックされ、入ってきた上級生はチズパーフルについての伝言を伝えた。
どうやら洗濯室以外の場所でも複数の巣が見つかったらしい。
「分かりました。こちらの部屋も確認しておきます」
クィレルは短く答え、扉を閉めた。
トムは椅子の下へ目をやる。午後の初めには気にも留めなかった床板の隙間が、やけに深く見えた。
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