最初に案内されたのは、教室ではなく大浴室だった。
マクゴナガル先生が汚れを落とすだけなら魔法でも済むが、疲れを落とすならまずは湯舟に浸かるといいとまるで日本人みたいなことを言い出したのだ。
いかにも大航海時代と言う風の帆船ではあるが、謎の仕組みでいい香りの温かい湯が出てきて、石鹸はすさまじい勢いで泡を出して、勝手に全身を覆っていく。ビバ魔法文明。
たかが風呂でここまで感動するとは思わなかった。
泥を落とし、髪を洗い、ようやく肩まで湯船に浸かる。目を閉じると、体がそのまま沈んでいきそうだった。
しかし、静かになると、スージーの顔が浮かんだ。
トムは目を開けた。
湯の表面に映った十一歳の自分の顔を、手でかき消した。
*
着替えを終えて出てくると、廊下に丸顔の少年が立っていた。
片手に畳んだタオルを持ち、もう片方の手で小さな籠を提げている。
「トムだよね。これ、洗濯物を入れていいって」
「あ、ありがとう」
「僕はネビル。ネビル・ロングボトム」
トムは、脱いだ服を籠へ入れかけた姿勢で止まった。
ネビル。
あのネビル・ロングボトム。
原作の最終決戦でグリフィンドールの剣を抜き、大活躍した人物だ。
「どうかした?」
「いや。よろしく」
「こちらこそ。お腹は空いてる?」
答えるより先に、腹が鳴った。
ネビルは笑わなかった。
当然のことが確認できた、という顔で頷いた。
「じゃあ、先に食べよう。みんなも待ってる」
籠を受け取ると、彼は迷いなく廊下を歩き始めた。
「ここ、夜になると少し暗くなるんだ。床の端に光ってる線があるだろう。
寝室とか食堂までは、それが行き先を教えてくれる。
そうだ、あの赤い扉には気を付けて、入るときは先生が一緒のときだけ」
「間違えて入ったらどうなるの?」
「うーん。倉庫に行ったり、作業場に行ったり。あと、外へ飛ばされることもある。扉の気分次第。あいつ気まぐれなんだ」
トムは通りがかりの赤い扉を見た。
「……今って、外は?」
「海。もう湖から移ったよ」
「外に飛ばされたら」
「ハハ、深海の中だね。水圧でぺちゃんこかも」
おいおい。笑いごとちゃうやろ。聞いておいてよかった。
夜中にトイレと間違えたら、取り返しがつかないところだった。
「潜るときには知らせがあるから、そのときは甲板へ出ないで。揺れても、船の中にいれば大丈夫」
言い慣れた説明だった。
トムが思っていたネビルよりも、声がはっきりしている。
話している途中で相手の顔をうかがい、言葉を引っ込めるようなところがない。
知っているはずなのに、自分の知識と異なる少年の背中を、トムは改めて見た。
*
小さな談話室には、三人の子供がいた。
一人は赤毛の少年。
もう二人は、向かい合わせに座った少女たちだった。
「連れてきたよ」
ネビルが声をかけると、先ほど手を振ってくれた赤毛の少年が椅子を引いた。
「こっち。スープ、まだ温かいから」
机の上には、パンと湯気の立つ器があった。
トムは礼を言い、腰を下ろした。
「僕、ロン。ロン・ウィーズリー」
やっぱり!
いや、赤毛とそばかすと、その鼻を見たときから、そうじゃないかとは思ってたよ。
もちろん、トムはそれを口には出さなかった。
「トム・ブライトです」
「私はラベンダー・ブラウン」
少女の一人が、待っていたように身を乗り出した。
「こっちがハンナ」
「ハンナ・アボット。よろしくね」
もう一人の少女が微笑んだ。
彼女は机に置いてあった水差しを取り、空のコップに水を注いでくれた。
ロン。ネビル。ラベンダー。ハンナ。
知っている名前が、四つ。
どれも、かつて本の中で見た名前だった。
「リリーさんと来たんだよね。ずっと歩いてきたの?」
ラベンダーが尋ねた。
「歩いたり、バスに乗ったり」
「バス?」
「大きな車。たくさん人が乗れるやつ」
「へえ。船より揺れる?」
「ここの船があんまり揺れないから、比べにくいかな」
スプーンを口へ運ぶ。
じゃがいもが柔らかかった。
それだけで、話の続きを忘れそうになった。
「質問は、食べ終わってからにしよう」
ハンナが言った。
「あ、ごめん」
「いや、大丈夫」
「そう言いながら、目が半分閉じてる」
ロンに指摘され、トムは瞬きをした。
「僕も初めて船に乗った日は、夕食の途中で寝たよ」
ネビルが空いていた椅子に座った。
「朝まで気づかなかった」
「寝たのは椅子で?」
「起きたのはベッド。誰かが運んでくれたんだと思う」
「それ、ちょっと怖くない?」
「ここでは、いつものことだから」
その言い方には、無理に安心させようとする響きがなかった。
「ネビルは長いの? ここ」
「船に来る前から、騎士団のみんなと暮らしてたんだ。小さい頃から、ずっと」
トムは頷いた。
両親のことも、おばあさんのことも、聞かなかった。
このネビルは、大人たちの後ろに隠れて育ったのではないのだろう。
食事の皿を並べたり、具合の悪い人へ水を運んだり、戻ってきた誰かの荷物を受け取ったり。
そういう毎日の中で、自分の居場所を知っている。
「明日は僕たちの入学の儀式なんだ。君も間に合ってよかった」
ロンが言った。
「明日? まだ九月じゃないよね」
「授業は九月から。でも、こういうのは先生たちが集まれるときにやるんだって」
「今度は揃うといいけど…去年は急な移動を途中に挟んだから、結局2,3人しかいなかったんだ」
「それは困るな」
トムが答えると、ロンは少し笑った。
ロンもまた、この船の暮らしが長いのかもしれない。
少しずつ、肩の力が抜けた。
四人とも、普通に話している。
自分がマグル生まれかどうか、誰も尋ねなかった。
「今年の新入生は、これで全員?」
「うん。今のところ、五人」
ネビルが答えた。
五人。
トムは、空になりかけたスープの器を見た。
ハーマイオニーはいない。
予想していたことだった。
それでも、本人たちの口から人数を聞くと、胸の奥が冷えた。
今頃、どこにいるのだろう。
まだ両親と暮らしているだろうか。それとも、あの許諾書に――。
「おかわり、いる?」
ハンナの声で顔を上げた。
「……いや。ありがとう。おいしかった」
スプーンを置くと、急に体が重くなった。
ネビルが立ち上がった。
「寝室へ行こう。明日、また話せるから」
*
男子の寝室には、三つの寝台があった。
壁際の棚に鉢植えが置かれている。
葉の縁が薄く紫色で、トムには見覚えのない植物だった。
「それ、なんの植物?」
「アグラオフォティス。悪魔祓いの力がある草だよ。水をあげたりしないでね。元々は大理石の山とかにしか生えないから、結構分量がシビアで」
ネビルは鉢の下の受け皿を確かめながら答えた。
「本当は日が当たる場所へ出してあげたいんだけど、甲板へ持っていけない日もあるし、ここなら世話をしやすいから置いてる。」
植物の話をしているときの顔は、先ほどより少し明るいように見えた。
そこは知っているネビルと、同じかもしれない。
「君は窓側でいい?」
「いいよ」
トムは答え、寝台へ腰を下ろした。
毛布を引き寄せると、清潔な布の匂いがした。
話したいことは色々あった。
今の状況とか、今後のこととか、船のホグワーツのこととか。
けれど、今は口を開いたら、まともな説明より先に欠伸が出そうだった。
「なにか用があったら、起こしていいから」
ネビルが小さな明かりを落とした。
トムは頷いた。まさか自分が11歳の子供に気を使われるとは思わなかったが、悪い気分じゃなかった。
目を閉じる直前、船板の軋む音が聞こえた。
*
儀式が行われたのは、次の日の夕方だった。
机を並べていた大きな部屋から、教科書や羊皮紙が片づけられ、代わりに長い食卓が置かれていた。
壁には四つの古い旗が掛けられている。
獅子。蛇。鷲。穴熊。
四つともあった。
トムは緑色の旗を見上げた。
端が焦げていたが、ほかの旗と同じ高さに掛けられている。
部屋の奥には、背もたれの高い椅子が用意されていた。
ダンブルドアはすでに座っていた。昨日より顔色はよさそうだったが、膝の上には薄い毛布が掛けられている。
その前に、丸椅子が一脚。
上には、古びた帽子が載っていた。
おお!
トムは息を止めた。
つぎはぎだらけの、先の折れた帽子。
映画で見たのと似ても似つかないような…しかし、それは間違いなく、組分け帽子だった。
いよいよか。
元々自分はハッフルパフ希望だった――勿論今の世界じゃないハリポタの――こっそりおいしい夜食を食えそうだし、周りは優しいだろうし、そこまで騒がしくないとかそんな風に考えていたが、実際の自分の適性はどうなのかやっぱり気になるものだ。
あれでも、これって頭の中を読むんじゃなかったか?
やべ、前世とか、小説とか、分霊箱の話とか全部ばれるじゃん!!
おいおいおい、いくら組分け帽子の口が堅いとは言え、ちょっとは心の準備をさせてくれ。
「では、今年の新入生を迎える儀式を始めます」
そんなトムの内心などお構いなしに、マクゴナガルが言った。
トムは背筋を伸ばした。
「知っての通り、今の私たちには、寮ごとの談話室も、十分な寝室もありません。
授業も生活も、できるだけ一緒に行います」
彼女は四つの旗を見た。
「そのため、今年も組み分けではなく、杖の授受を行います」
助かった。
トムは、こっそり息を吐いた。
その瞬間、帽子の皺が動いた。
「だからといって、引退したわけじゃないぞ」
ひび割れた声がした。
ハンナが少し肩を跳ねさせる。
「私には、まだ仕事がある」
「ええ。そのとおりです」
マクゴナガルは帽子を持ち上げ、口を上へ向けた。
「皆さんは一人ずつ、この中へ手を入れてください。この中には、杖が納められています」
マクゴナガルが続けた。
「不死鳥の騎士団の仲間たちの遺品を中心に、私たちの活動を支える方々から託された杖も納めてあります。
いずれも、ここで学ぶ皆さんのために預かったものです」
部屋が静かになった。
トムは改めて帽子を見た。
古い布の内側は暗く、底が見えなかった。
「回収できたものを調べ、再び使えるように手入れしてあります。
ただし、どの杖でもよいというわけではありません」
「相性があるからだ」
帽子はわずかに身じろぎして、口を開く。
「杖にも好みがある。私が君たちと杖が出会う手助けをする。手をゆっくり入れて、慌てずに待つのだ。
あとは、向こうが君を気に入るかどうか次第。なに、みんな優しい子だ。きっといいパートナーが見つかる」
トムの右手が、無意識に開いたり閉じたりした。
杖。
自分の杖が、手に入るのだ。
その喜びに続いて、別のものが胸に触れた。
誰かが死んだから、ここにある杖だ。
そういう杖が、あの小さな帽子の中に何本もある。
その重い事実がトムの胸にのしかかる。
「一つ、覚えておいてほしい」
ダンブルドアは、新入生たちを見渡した。
「この杖を受け取ることは、前の持ち主の代わりに戦うと約束することではない。
君たちは、まず学ぶためにここへ来たのじゃ」
声は大きくなかった。
それでも、部屋の端まで届いた。
「何のために使うかは、学びながら考えてほしい。誰かの傷を癒やすことも、壊れたものを直すこともできる。
もちろん、鍋を焦がさずに夕食を作るためにも」
後ろの席から、小さな笑い声がした。
トムは自分の靴を見た。
そういう魔法は、確かにいいと思った。
*
最初に呼ばれたのは、ハンナだった。
彼女は丸椅子の前へ進み、ためらいがちに帽子へ手を入れた。
指先が入り、手首が入り、帽子の深さを越えているはずの場所まで腕が沈む。
しばらくして、彼女の顔が変わった。
「……これ?」
「引いてごらん」
帽子に促され、ハンナが手を抜いた。
握られていたのは、淡い色の細い杖だった。
持ち手には使い込まれた艶があり、先端から小さな金色の光がこぼれた。
「エドガー・ボーンズの杖だ」
帽子が、先ほどより静かな声で告げた。
「最初の不死鳥の騎士団に加わった、優れた魔法使いだった。彼も、その家族も、死喰い人に命を奪われた」
ハンナは杖先の光を見つめた。
「私が、使ってもいいんですか」
「そのために、ここにある。君まで、しまい込むことはない」
帽子の皺が、かすかに緩んだ。
「君の手の中で、また魔法を使いたいようだ」
彼女はそれを両手で包んだ。
拍手が起こるまで、周りを見るのも忘れていた。
次はラベンダーだった。
彼女は帽子の中で何かに触れたらしく、一度、くすぐったそうに笑った。
引き抜いた杖から白い火花が散ると、驚いて目を丸くし、それから少し誇らしげに胸を張った。
「マーレーン・マッキノン。彼女も、最初の騎士団の一員だった」
帽子が名を告げると、ラベンダーの目が杖へ戻った。
「闇の勢力に立ち向かい、命を落とした魔女だ。この杖は、彼女の手を離れてから、新しい持ち主を待っていた」
ラベンダーは、つい先ほどまで火花を眺めていた杖を、そっと持ち直した。
「……大切にします」
「大切にするのは結構。だが、使うのを怖がる必要はないぞ。最初から上手に扱える子など、そうはいない」
彼女は小さく頷いた。
白い火花が、もう一度だけ杖先に灯った。
ネビルは、前へ出る途中で丸椅子の脚の下に敷かれた布がずれていることに気づき、足先で直した。
こういうところだ。
トムは内心で感心した。
けれど、帽子へ入れた手は、なかなか戻ってこなかった。
ネビルが唇を結ぶ。
その横顔には、初めて年相応の不安が見えた。
「フランク・ロングボトムの杖がある」
帽子が言った。
「君の父親だ。闇祓いとして、そして騎士団の一員として、闇の勢力に立ち向かった魔法使いだ」
ネビルの指が、帽子の中で止まった。
「君にぴったりの相棒だと思う。けれど、この杖は迷っている。
自分の主人を守れなかったのに、再びその息子のそばにいてよいのか」
帽子がそういうと、ネビルが息をのんだ。
「僕は、その杖がいいです。僕の、父さんの杖が」
そうして、手をゆっくり引き出すと、やがて、ずっしりとした杖が姿を現した。
掌の中で向きを確かめると、杖先から柔らかな緑がかった光が流れた。
ネビルは息を吐き、笑った。
ロンの番になると、後ろのほうで双子が背伸びをした。
「長いやつがいいぞ」
「なくしても見つけやすい」
「ウィーズリーさんたち」
マクゴナガルが振り返った。
双子は同時に姿勢を正した。
ロンは耳まで赤くしながら、帽子へ手を突っ込んだ。
そして、やや長めの杖を握って戻ってきた。
「ファビアン・プルウェットの杖だ」
ロンが顔を上げた。
後ろで背伸びをしていた双子も、動きを止めた。
「君の母親の兄弟だな。兄弟のギデオンとともに騎士団で戦い、五人の死喰い人に襲われて命を落とした。二人とも、最後まで勇敢に戦ったと伝えられている」
「母さんから、聞いたことがある」
ロンは小さく言った。
杖を握り直し、それから後ろを振り返った。
「母さんに見せなきゃな」
双子のどちらかが、今度はからかう調子ではなく言った。
ロンは頷き、杖へ目を戻した。その顔は嬉しそうで、少しだけ困ったようでもあった。
最後に、トムの名前が呼ばれた。
*
近くで見ると、帽子の縫い目は思っていた以上に粗かった。
何度も直されているらしい。
新しい糸も、色褪せた糸もある。
「右手でいいのですか」
「普段、よく使うほうで」
マクゴナガルが答えた。
トムは頷き、指を入れた。
布には触れた。
その先には、何もなかった。
暗い水へ手を沈めるような感覚だった。
冷たくはない。ただ、自分の指先がどこにあるのか、急に分からなくなる。
木に触れた。
一本ではなかった。
指の脇を、いくつもの細いものが滑っていった。
どれを掴めばいい。
いや、慌てなくていいと言っていた。
トムは手を開いたまま待った。
ざらり、と指の腹を擦るものがあった。
少し離れ、それからもう一度、掌に触れる。
自然に指が曲がった。
握った瞬間、手の中が温かくなった。
「それでいい」
帽子の声がした。
引き抜くと、稲妻は走らなかった。周りに強風が吹いたり、祝福のファンファーレが鳴ったりもしなかった。
それはただ、手に合った。
ずっと足りなかった指が、一本増えたようだった。
杖先から、小さな光が一つ灯った。
トムは息を止めた。
自分の魔法だった。
靴下を洗わせたり、コップを持ち上げたりした、あの気まぐれな力が、今は掌から真っすぐ先へ続いているように感じられた。
拍手が聞こえた。
顔を上げると、リリーがこちらを見ていた。
トムは杖を少し持ち上げた。
見せたかった。
彼女は頷いた。
しかし、そこで気がついた。彼女の隣で、ダンブルドアが驚いたように目を見開いていた。
帽子へ視線を落としたが、帽子は沈黙していた。
さっきみたいに、この杖が誰のものだったのか紹介しようとしなかった。
口に出して聞くべきか悩んでいると、マクゴナガル先生が肩に手を置いた。
「さ、席へ」
*
五人が席に戻ると、短い黙祷があった。
部屋にいる大人たちの表情は酷く厳かに見えた。
トムは目を閉じ、原作に登場した騎士団のメンバーたちを思い返した。
手に持った杖を強く握り、ありがとうございますと、それだけを心の中で言った。
*
校歌斉唱後、晩餐会が始まった。
杖を振れば食卓いっぱいに料理が現れるのかと思ったが、台所の扉が開き、年上の生徒たちが鍋と大皿を持ってきた。幾つかの皿だけは、誰にも持たれずに宙を進んでいる。
魔法と人手の併用。
現実的だ。
ネビルは立ち上がりかけ、マクゴナガルに座っているよう言われた。
「今日は、あなたたちを迎える食事です」
そう言われると、彼は少し照れたように腰を下ろした。
焼いたじゃがいも。大きな肉のパイ。豆と人参。湯気の立つソース。
豪華絢爛ではない。
けれど、トムには十分すぎた。
全員の皿が揃ったところで、マクゴナガルが立ち上がった。
「食事の前に、先生方を紹介します。
すでに知っている方も多いでしょうが、新入生はよく聞いてください」
トムは姿勢を直した。
教師紹介。
これも、あの世界の学校生活だ。
「呪文学は、フリットウィック先生」
小柄な男性が、席で手を上げた。
「よろしく。杖を手に入れたからには、早く使いたくて仕方ないでしょうね。
ですが、最初は持ち方からです。隣の人の鼻へ向けないこと。自分の鼻にもね」
トムは、机の上に置いた杖をそっと横へ向け直した。
フリットウィックが椅子から降りるとき、ローブの裾が少し持ち上がった。
片脚の膝から下に、木と金属で作られた義足が見えた。
床に触れる音が、左右で違った。
先生は慣れた様子で体を支え、近くの生徒へパン籠を回している。
トムは目を逸らした。
「私は変身術を担当します」
マクゴナガルが続けた。
「練習は必ず指定の場所で行うこと。食器を変身させた場合、自分の分が足りなくなっても台所へ取りに来てはいけません」
双子のほうで、誰かが咳払いをした。
「薬草学は、ポンフリー先生です。医務室も担当してくださいます」
白いエプロンをつけた女性が、五人へ順番に目を向けた。
「怪我や体調不良を隠さないこと。特に、呪文の練習中におかしなことが起きたら、すぐに来なさい。
自分で治そうとして、もっと悪くする生徒が毎年います」
ポンフリー先生が薬草学。
トムは少し意外に思った。
スプラウト先生は、いないのか。
「私が教えられることには限りもありますが、スプラウト先生の教材が残っています。
まずは、植物を安全に扱うことと、正しく育てることから始めましょう」
ポンフリーはそう言い、静かに腰を下ろした。
「魔法史は、クィレル先生」
トムの手が止まった。
痩せた若い教師が立ち上がった。
頭には、何も巻いていなかった。
「クィリナス・クィレルです。年代を覚えるのも大切ですが、何が、どうして起きたのかを考える授業にしたいと思っています」
声は少し硬かった。
それでも、トムが記憶しているような極端な吃音はなかった。
「資料が足りないところもあります。皆さんには、同じ本を交代で使ってもらうことになるでしょう」
そう言って、少し申し訳なさそうに微笑んだ。
スネイプが敵の学校の校長で、クィレルがこちらの歴史の先生かー
トムはまるで歴史の転換点を見ているような感慨深い気持ちになった。
クィリナス・クィレルは原作1巻でラスボスを務めた人物だ。実は頭を死んだはずのヴォルデモートと共有し、賢者の石を盗もうとしたが、ハリー・ポッターやその仲間の活躍で悲惨な末路を迎えた。
「魔法生物飼育学は、ハグリッド先生です」
大きな影が動いた。
トムは顔を上げ、そのまま、さらに上を見た。
それまで部屋の奥に置かれた大きな上着だと思っていたものが、人間だった。
いや、人間にしては大きすぎる。
「ルビウ、ッ、ハグリッドだ。よろしくな、ヒック」
髭の中から声がした。ひどく酔っているのか、しゃっくりが絶えない様子だ。
「船じゃッ。飼える生き物にも限りがあるッ…
世話をする連中には会って、もらう」
呂律が回らない様子でそこまで言うと、彼は椅子にへたり込んだ。
トムは眉をひそめた。
原作におけるハグリッドは優しい半巨人だ。生徒にもフレンドリーに接し、少し頼りがいが怪しいが、信頼できる大人だった。しかし、このホグワーツの彼は…忌憚ない意見としては飲んだくれのアル中に見えた。
「魔法薬学と、闇の魔術に対する防衛術は、同じ先生が担当します。
ただし、本日は薬の調製中で出席できません。授業の際に、改めて自己紹介するでしょう。
不在の際はリリー・ポッター先生が代理を務めます」
マクゴナガルはそう締めくくった。
魔法薬学と、防衛術が同じ先生か
組み合わせだけなら、実にスネイプらしいけれども。
ダンブルドアが、座ったまま軽く手を上げた。
「では、冷めないうちにいただくとしよう」
それは今日一番、全員から歓迎された言葉だった。
*
パイの中には、肉がちゃんと入っていた。
孤児院の料理に文句を言うつもりはないが、あちらでは肉を見つけると少し得をした気分になった。
ここのパイは、どこを切っても肉が出てくる。
しばらくは、食べることに集中した。
ラベンダーが自分の杖を撫でながら火花について話し、ハンナも似た様子で杖を持って寝るときにどこへ置けばいいのか尋ねていた。ネビルは食卓で杖を振るのだけはやめるよう彼女らへ言っていた。
「振ってないわ。見てただけ」
ラベンダーが反論しようとしたところで、フリットウィックが近くを通った。
こつこつ、と義足の音がした。
トムは顔を上げ、先生が通り過ぎてから、小さな声で尋ねた。
「フリットウィック先生の足、戦争で?」
ネビルが頷いた。
「グレイバックと戦ったときに」
聞き覚えのある名前に、トムの背筋が伸びた。
「狼人間だよ。フェンリール・グレイバック」
ロンが声を落とした。
「先生が倒したんだ。すさまじい戦いだったらしい。」
トムはフリットウィックを見た。
先生は年上の生徒から何か聞かれ、身振りを交えて答えていた。
片足を失った先生。
そして、その先生が倒した敵。
物語で読んだ名前の向こうに、ここで起きた戦いがあった。
「薬草学の先生も、変わったの?」
言ってから、言葉を足した。
「さっき、別の先生の教材って言ってたから」
「スプラウト先生のこと?」
ネビルが答えた。
「ホグワーツを守る戦いで亡くなったんだって。僕は、覚えていないけど」
彼の目が、少し伏せられた。
「先生の本には、書き込みがいっぱいあるんだ。どの葉っぱから弱るとか、寒いときは水を減らすとか。ポンフリー先生が、それも一緒に教えてくれる」
トムは頷いた。
今朝、寝室にあった鉢植えが浮かんだ。
ネビルは、会った記憶のない先生から、今も何かを教わっている。
机の端に置いた杖を見た。
ここには、そういうものが多いのだろう。
*
食事が一段落すると、焼き菓子の皿が回ってきた。
ハンナが一枚取り、トムの前へ差し出した。
「ありがとう」
受け取ってから、トムは食卓の奥へ目を向けた。
ダンブルドアの皿には、まだ料理が残っている。校長は隣のマクゴナガルと話していたが、ときおり言葉を切り、ゆっくりと息をついていた。
「そういえば、今日いなかった先生って、いつも忙しいの?」
ネビルが顔を上げた。
「魔法薬学と、防衛術の先生?」
「うん。薬を作ってるって言ってたけど」
「ダンブルドア先生の薬だよ。調製を始めると、長い間、調合室から出てこないんだ」
ロンが焼き菓子を飲み込み、口を挟んだ。
「うちの兄貴たちでも、あの部屋にはいたずらしない」
「それ、相当じゃない?」
「相当だよ」
妙に説得力のある説明だった。
「ダンブルドア先生の傷、普通の薬じゃ治らないんだって」
ネビルが続けた。
「だから、その先生が特別な薬を作ってる。難しいことは僕にも分からないけど、飲まないと具合が悪くなるんだ」
「魔法薬に詳しい人なんだね」
「うん。闇の魔法にも。ポンフリー先生が、あの人でなければ分からないことがあるって言ってた」
魔法薬を作れて、闇の魔法に詳しい。
ダンブルドアを生かすために、食事の席にも出てこない。
誰だろう。
スラグホーンか。
いや、防衛術も教えるだろうか。ほかに、そんな人物がいたか? ルーピンは魔法薬の専門家という印象ではないし。まさか、実はスネイプがやっぱり二重スパイで、こちらにも出入りしているとか?
「どんな人なの?」
「ちょっと怖いわよ」
ラベンダーが答えた。
「この間、廊下で会ったんだけど、こっちを見ただけで、言おうとしてたことを忘れちゃった」
「でも、挨拶したら返してくれたでしょう?」
ハンナが言った。
「それは、そうだけど」
「僕は、質問すれば答えてくれる人だと思う」
ネビルは二人を見てから、トムへ向き直った。
「ただ、調合中は邪魔しないほうがいい。用事があったら、先にリリー先生に聞くといいよ」
なるほど。
気難しいが、仕事はできる先生ということか。
そのくらいなら、魔法学校でなくても珍しくはない。
「それで、名前は?」
ネビルは、水の入ったコップを置いた。
「グリンデルバルド先生」
トムは、手に持っていた焼き菓子を落とした。