パーシーの杖先を見たまま、トムは指を止めた。
右の袖口に、自分の杖がある。あと少し手を動かせば掴める。
しかし、相手はすでにこちらへ狙いをつけていた。
「手を見せるんだ。ゆっくりと、僕に見えるように」
声まで同じだった。桟橋でロンを引き戻し、自分たちを船へ入れてくれた声だ。
なのに今は、床へ倒れた弟を見ようともしない。
「……兄貴、何、してんだよ……」
ロンが肘をついて起き上がろうとすると、パーシーの杖がわずかに動いた。
「そのまま寝ていろ」
「何で――」
「ロン、動くな」
自分でも驚くほど低い声が出た。
ゆっくりと両手を床から離した。袖の中で杖がずれ、手首へ触れる。
パーシーの目が、その動きを追っていた。
ラベンダーはすぐ隣にいる。
転んだときにも手放さなかった杖を、体の陰へ隠していた。
――隙を作らなくては。
*
船の外では、グリンデルバルドが桟橋の付け根から動けずにいた。
頭上から落ちた呪文が、持ち上げた岩へ突き刺さる。
砕けた破片を払いのける間にも、森の縁から別の光が走った。
右手でそれを逸らし、左手を握る。
クラウチの足元で地面が陥没した。だが、男はすでに跳び退いていた。
「遅くなりましたね!」
木立の向こうから声がした。
グリンデルバルドは答えなかった。
追撃しかけた腕を横へ払い、船へ飛んだ呪文を弾く。
船腹の防壁はまだ戻っていない。時間を稼ぐ必要がある。
ベラトリックスが箒を傾けた。
「死ね!老い耄れが!!」
緑の光が走る。
老人の手招きに応じて、壊れた荷車が跳ね上がった。
呪文を受け、車輪と板が宙へ散る。
その破片の向こうで、クラウチが場所を変えていた。
二人は、同時には攻めてこなかった。
一方を退ければ、もう一方が船を狙う。
反撃のために踏み出そうとするたび、老人は桟橋へ引き戻された。
攻撃を逸らし、壊れかけた桟橋を支え続ける指先が、かすかに震えた。
その時、森際で土が噴き上がった。
森と桟橋の間で、ムーディーが片膝をついていた。
義足の先が、崩れた地面へ深く食い込んでいた。
彼は前方へ呪文を放ちながら脚を引いたが、抜けなかった。
それを見逃さなかったドロホフが木陰から出た。
ムーディーの杖がそちらを向くより早く、男の腕が横へ振られた。
紫の炎が、弧を描いた。
ムーディーが身をひねる。しかし、義足が抜けない。
自身の死を覚悟するが、その瞬間、グリンデルバルドがそちらへ左腕を突き出した。
ムーディーの前で地面が盛り上がる。
土と石が壁を作り、その中央へ紫の光が食い込んだ。
壁が内側から裂けた。砕けた石を浴びながら、ムーディーは身を伏せる。
衝撃で足元の土が崩れ、ようやく義足が抜けた。
しかし、その瞬間に隙が生まれた。
「そっちを見ている場合ですか?」
乾いた音を残して、クラウチの姿が消えた。
狙いは船ではなかった。
次の瞬間、男はグリンデルバルドの背後に現れた。
高い背もたれの椅子に座ったままの、アルバス・ダンブルドア。そのすぐ前だった。
老人が振り向く。
ベラトリックスの次の呪文が、艦橋へ向かって落ちる。
そっちを防がなければ、再起動を進めている船を直撃する。
グリンデルバルドの右手が上がった。
もう一方で、クラウチは勝利を確信して笑った。
ダンブルドアまで、もう数歩しかなかった。
グリンデルバルドの手は、船へ向いたままだ。
クラウチは杖先を、主の宿敵の胸へ向けた。
*
「……パーシー先輩、ではないですね」
赤い扉の前で、トムは必死に言葉を絞り出す。
相手の口元に、薄い笑みが浮かんだ。
「おや、どうしてそう思う?僕が裏切るはずはないとでも?」
「先輩は――」
「手土産を用意するつもりでね。これであっちの方のホグワーツへ迎えてもらえる。
スラグホーン先生からも紹介状をいただいている。純血の僕なら喜んで受け入れるとね」
もっともらしい説明だった。
パーシーが自分の将来に人一倍思い悩んでいたのは事実だ。
だが、数か月前、背後の赤い扉の中で、彼は兄弟たちへ告げていた。
自分はあちら側へは行かないと。
それに、桟橋でロンを引き戻したあの手を、トムは見ていた。
「先輩は、僕たちが逃げ遅れたと知って戻ってきたんです」
「だから、今も探しに来たんだろう」
「だったら、どうしてロンを見ないんですか」
相手の目が、初めてロンへ動いた。
ラベンダーの肩が動いた。
「リクタスセンプラ!」
彼女の体の陰から光が飛んだ。男は半歩横へずれ、杖を振る。
呪文は天井の梁へ逸れ、火花を散らした。
その間に、トムも杖を抜いた。
「グリセオ!」
相手の靴の下で床が滑る。男の踵が流れ、体が傾く。
そこへラベンダーが間髪入れずに次の呪文を重ねる。
「ペトリフィカス・トタルス!」
二人でならば!
*
桟橋の脇で、クラウチは杖を振り下ろそうとしてまさにその時、彼にとって予想外のことが起きた。
その目の前で、ダンブルドアが立ち上がったのだ。
膝から毛布が滑り落ち、その下に隠されていた杖が、クラウチを捉えた。
クラウチの笑みが消えた。
咄嗟に防御魔法へ切り替える。それでも衝撃を殺しきれず、胸を打たれて後ろへ飛んだ。
踵が地面を擦り、背中が木の幹へ叩きつけられた。
肺から息が漏れた。それでも、クラウチは杖を離さなかった。
「馬鹿な……!」
咳き込みながら顔を上げる。
「お前は、魔法を――」
目の前で見る見る内に長い銀の髭が縮んでいく。
痩せた頬が変わり、曲がった鼻筋が整う。
銀髪へ赤い色が差し、身を包んでいた長衣の肩が落ちた。
丸い眼鏡を外したのは、リリー・ポッターだった。
クラウチは彼女を見つめた。
それから、船の入口へ目を走らせる。
「いつ、入れ替わった」
リリーは答えず、杖を構え直した。
生徒たちの避難に紛れて本物を船へ移したことも、代わって椅子へ座った時刻も、教えるつもりはなかった。
クラウチが横へ転がった。
直前まで頭のあった場所で、木の皮が弾ける。
彼は幹の陰へ身を滑り込ませ、歯を食いしばった。
動けない老人を仕留めるつもりで、遮蔽物のない場所まで出てきてしまった。
今は、その老人が座っていた椅子へ近づくこともできない。
「先生なら、ここにいないわ」
リリーが言った。
背後で低い唸りが響き、船腹に沿って青白い光が走った。
防壁が起動したのだ。桟橋の先から、退避を促す声が上がる。
「あなたを待っている暇はないわ」
クラウチが木陰から杖を突き出したときには、彼女の姿は消えていた。
乾いた破裂音が、別の場所で鳴った。
負傷者を運ぶヘスチアへ狙いを定めていた死喰い人が、息を呑んだ。射線上に、赤毛の女が突然現れた。
思わず唱えかけた呪文が途切れる。
リリー・ポッターを殺すな。主の命令が、振り下ろしかけた腕を止めた。
しかし、リリーの腕は止まらなかった。
「セクタムセンプラ!」
男の胸元が裂けた。杖が手から落ち、遅れて膝が地面へつく。
この呪文を教えた男の声が、頭の奥をよぎった。今では、この世で最も憎い声だった。
「ヘスチア、船へ!」
リリーは倒れた男から目を離し、再び姿を消した。
次に現れたのは、ムーディーへ杖を向けていた二人の前だった。
一人が慌てて杖先を上げ、もう一人は呪文を飲み込んだ。
足を引きずりながら後退していたムーディーが、振り向きざまに杖を振った。
その赤い光が片方を捉えた。
リリーは残る一人の呪文を弾き、後退する味方へ道を空ける。
「回り込め!その女には当てるな!」
誰かが怒鳴った。
リリーはその声を頼りに、次の場所へ移った。
敵が狙いを変えれば、その前へ出る。
杖が止まった瞬間に反撃し、負傷者が退く時間を稼ぐ。
彼女が現れるたびに、死喰い人たちの攻撃が途切れた。
*
船内では、ラベンダーの金縛り呪文が男へ迫っていた。
男は壁へ手をつき、身を低く沈めた。光が肩すれすれを通り、廊下の奥で弾ける。
その姿勢のまま、杖がトムへ向いた。
トムは本能的に床を蹴って横へ転がった。何かが頬をかすめ、背後の壁を叩く。身を起こすより先に、もう一度杖を振ろうとした。
床板を変える。蔦でも、縄でもいい。足を止めるものに――。
「エクスペリアームス」
指が勝手に開き、杖が宙を飛んだ。
トムは反射的に手を伸ばした。その胸へ次の呪文が命中し、背中が石壁へ叩きつけられる。息が詰まり、声も出なかった。
「フリペンド! フリペンド!」
ラベンダーの呪文が立て続けに飛んだ。
相手の正面へ一発、逃げようとした側へもう一発。
ブートキャンプで何度も練習した攻め方だった。
「プロテゴ」
どちらも届かなかった。
相手の前で光が弾け、見えない壁に波紋が広がる。
パーシーの顔をした男は、姿勢を立て直すと、ラベンダーへ杖を向けた。
「インカルセラス」
太い縄が飛び出した。
ラベンダーは一本目を身をひねってかわし、足元へ伸びた二本目を跳び越えた。
しかし、背後へ抜けたはずの縄が向きを変える。着地した足首を取られ、よろめいたところへ残りが絡みついた。
両腕を体へ縛りつけられ、彼女は床へ倒れた。杖が乾いた音を立てて転がる。
相手の足場を崩し、避けた先へ次の呪文を重ねる。訓練どおりに動けたはずだった。
それでも、男は倒れなかった。二人がかりの攻撃を防ぎながら、こちらを一人ずつ無力化したーー力量さが開きすぎたのだ。
トムは落ちた杖を見た。手を伸ばせば、また撃たれる。
男はすぐに床へ杖を向け、滑る呪文を解いた。そして魔法でひょいとトムとラベンダーの杖を拾い、さらに倒れた三人の杖も回収する。
「最初の一発が外れたところで、逃げるべきでしたね」
彼の口調が変わった。
ようやく戻りかけていたトムの呼吸が、止まった。
「もっとも、お友達を置いていけない。君たちは、そういう子でした」
男が自分へ杖を向けると、鮮やかな赤毛の色が変わり始めた。
頬が痩せ、顎の形が変わる。眼鏡の奥の目元まで、別のものになっていく。トムはその顔を知っていた。
見慣れた顔になるほど、何かの間違いだと思いたくなった。
「嘘……先生?」
縄に縛られたラベンダーが、床の上で呟いた。
クィレルは眼鏡を外し、ローブの内側へしまった。
「兄貴に、何をした!」
ロンが立ち上がりかけたが、杖を向けられて止まった。
「安心してください、ロン。パーシーは無事です。船を出る際に目立ちたくなかったので、変身術で姿を借りました」
「こんなこと、どうして――」
「座りなさい。ここで余計な怪我をする必要はありません」
その穏やかな声に、トムは吐き気を覚えた。
原作では敵だった。それでも、この船の先生は違うのだと、何度も思った。
授業を受け、お茶を飲み、自分の記憶まで見せてきた。
その人が今、こちらへ杖を向けている。
クィレルは赤い扉へ目を向けた。
「中へ入りましょう。廊下では、誰かの邪魔になります。トム、開けてください」
――誰かに見られるから。
頭の中で、言葉が勝手に置き換わった。
壁へ手をつき、立ち上がった。背中が痛み、呼吸をするたびに胸が軋む。
扉の前まで歩き、決められたリズムで叩いた。掛け金の外れる音を聞いてから、扉を押し開ける。
黄色いハロが足元へ寄ってきた。いつもなら邪魔だと言うところだった。今は、その丸い体が靴へ触れるだけで、妙に泣きたくなった。
クィレルが杖を振ると、四人の体が床から浮き上がった。
ロンは身をよじったが、宙では踏ん張ることもできない。気を失ったネビル、金縛りにされたハンナ、縄に縛られたラベンダーとともに、扉の向こうへ運ばれていく。植物の箱も、そのあとを追った。
トムが続こうとしたとき、クィレルの目が上へ動いた。
緑色のハロが、扉の上を漂っていた。
「それも、一緒に」
*
倉庫は、以前よりがらんとしていた。
駆除のために荷物を運び出したのだろう。
壁際の棚には小箱が数個残るだけで、鏡には布が掛けられている。
クィレルは四人を床へ下ろした。ハンナは目だけを動かし、トムを追っていた。
ネビルは浅く息をしている。
「先生、お願いです。こんなこと、やめてください」
ラベンダーが縄に縛られたまま訴えた。
クィレルは答えず、扉を閉めて杖で叩いた。廊下から聞こえていた声が遠のく。
先生たちは外で戦っている。上級生たちは船を動かしている。
そのすぐそばに、自分たちはいるのに。
「まずは、こちらを確かめましょう」
クィレルが左手を差し出した。
緑色のハロが空中で止まった。
耳のような蓋をばたつかせ、後ろへ逃げようとしたが、そのまま引き寄せられて先生の手へ収まる。
「イヤイヤ!タスケロ!ヤダー」
場違いな声が響いた。
「トム。これの腹を開けてください。君以外が開ければ、何か呪いが作動するかもしれません」
「……何のために?」
「中に、必要なものが入っているかもしれません」
クィレルの手の中にあるその丸い緑色の機械を見つめた。
自分が作り、クリスマスにグリンデルバルドへ贈ったおもちゃだ。
誕生日に返されたときには、知らない魔法が幾つも追加されていた。
それでも、ただのハロのはずだった。
「……どうやって開ければいいですか?」
「それは私には分かりません。どうぞ、ご自分で考えてください。これは元々、君自身の手で組み上げたのでしょう?」
トムは唇を噛んだ。
「もし、僕がこれを開けたら、ここにいるみんなを、今すぐ解放してくれますか」
「すべての用事が無事に済めば、君たちは全員、この部屋から安全に出られますよ」
「そういう意味で聞いているんじゃありません!」
クィレルは、トムをじっと見た。
「誰も殺すつもりはありません。君たちが、大人しくしていれば」
背後でラベンダーが縄を緩めようと身をよじっていた。ロンは小さく首を振っている。
拒めば、次は誰に杖が向く。
トムはハロを受け取った。クィレルの杖先は、胸から外れなかった。
――グリンデルバルドはこれをスニッチに似せて改造した。
逃げ回る金色の球で、最初に増えれ人間だけに反応する、しかし、これには本物ほど高度な仕掛けは施されていない。もっと純粋で単純な仕掛けだ。
トムは腹の継ぎ目へ指を当てた。ハロは嫌がるように口を堅く閉める。
前はそこで調べて手を止めた。組み込まれた魔法を解けば、動かなくなるかもしれない。それを恐れた。
だが、守っている中身を見せないことが、このハロの役目なら。
動かしたまま開けようとする限り、閉じる仕掛けが働くのではないか。
自分が作ったときには、調整のために動きを止める方法を用意していた。
改造された今も、それが残っているなら。
トムは底へ指を滑らせ、小さな出っ張りを押し込んだ。
耳が止まった。目の光が消え、浮こうとしていた力が腕の中から抜ける。
もう一度、継ぎ目に指を掛けた。
今度は、抵抗がなかった。
開いた腹の中に、赤い石が収まっていた。
*
船外では、リリーが騎士団員たちを桟橋へ退かせていた。
その行く手を狙う杖の前へ姿を現した瞬間、足元の地面が爆ぜた。
横へ跳んだ肩を石片が打つ。膝をつきながら張った盾へ、二発目が叩きつけられた。
「それで、いつまでも通用すると思った?」
いつの間にか岸へ降りていたベラトリックスが、杖を向けていた。
「レストレンジ! ご命令を忘れたのか!」
背後でドロホフが叫ぶ。
ベラトリックスは振り返りもしなかった。
「だったら、あなたが捕まえなさいよ! アバダ・ケダブラ!」
リリーは脇に転がる木箱を引き寄せた。
緑の光が突き刺さり、木片が顔の横を飛んでいく。
身を伏せたところへ次の呪文が来た。盾で受けたものの押し切られ、土の上を滑る。
相手のためらいを突く戦い方は、この女には通じなかった。
ベラトリックスの顔には笑みが浮かんだ。
その杖先は、最初からリリーの喉を狙っていた。
*
倉庫の中。賢者の石は光を受ける角度によって、赤色の奥に金色を滲ませた。
グリンデルバルドの机で、紙の束を押さえていた石だ。
無造作に置かれていた、あれが。
「……そんな!どうして」
クィレルの杖が動いた。
石が浮き上がり、トムの手元を離れる。
止めなければと思ったときには、もう先生の手に収まっていた。
「随分、信頼されていたんですね」
「僕は、知りませんでした」
喉が乾いていた。
「こんなものが入っているなんて」
「そのようですね」
クィレルは石を灯りへかざした。
その顔に、初めてはっきりとした笑みが浮かぶ。
トムは空になったハロを抱えた。
あの老人は、何を考えている。
ずっと鞄へ入れ、机に置き、友達の前で転がしていた。
その中に賢者の石を隠して、何も教えずに持たせていたのか。
「先生は……いつから知っていたんですか」
「確かめられたのは、今です。チズパーフルを仕込み、駆除のために部屋や荷物が開けられるたび、私も調査に加わりました。しかし、石は見つからなかった」
「じゃあ、虫も、先生が?」
「ええ。結果として、船を停める必要まで生じましたね。それでも見つからず、以前見せてもらった記憶を思い返したんです」
トムの指に力が入った。
憂いの篩。
机の横に並んで、自分の誕生日を眺めた。
あの時に先生はハロを見て、よくできていると言った。
「グリンデルバルド先生が、わざわざスニッチ擬きに手を加えて返したものです。
それに、君にはほかにも、彼から与えられたものがありますからね」
クィレルは奪った杖の中から、トムのものを持ち上げた。
「それは、帽子から――」
「渡され方ではなく、元の持ち主の話ですよ。知らなかったのですね。これはかつて――グリンデルバルドが使っていた杖です」
トムは言葉を失った。
杖分けの日、ダンブルドアが目を見開いた顔。前の持ち主を教えてくれなかった帽子。
そして、狼人間を前に、まるであらかじめドルール・トルケレの回路が存在したかのようなあの感覚。
「君は、自分がどれほど目を掛けられているか、知らなかったんですね」
別々だったものがつながった。
だが、納得より先に腹が立った。
なぜ、誰も教えてくれなかったのだ。
*
船が大きく揺れた。
棚に残っていた小箱が滑り落ち、床へぶつかった。
ラベンダーが身を寄せ、ハンナの顔をかばう。
クィレルは天井を見上げたが、慌てる様子はなかった。
「防壁の次は、推進の仕掛けですか。あまり時間はありませんね」
石をローブへ収め、奪った杖を背後の棚へ置いた。
自分の杖だけは手放さず、トムへ向き直る。
「君に、一つ提案があります。私と来ませんか」
後ろで、ロンが息を吸った。
「ふざけるな!」
「ウィーズリー君。君には聞いていません」
杖先が動き、ロンの体が床へ押しつけられた。
苦しげな声に、トムは一歩踏み出しかけた。
「やめてください!」
クィレルが杖を戻すと、ロンは咳き込んだ。
「トム。以前、城のホグワーツで学びたいかと尋ねたことを覚えていますか」
覚えていた。お茶を飲みながら、先生は将来について話してくれた。
両親は亡くなっている。孤児院で育った。
出自を証明するものが少なければ、混血として登録し直すことも、不可能ではないと。
「今なら、それができます。この石を持ち帰れば、私たちの言葉にも重みが生まれるでしょう」
「僕の戸籍を変えるんですか」
「必要な記録を整えるんです。ご両親について君が詳しく知らなくても、不自然ではありません」
いつもの授業のような説明だった。
「君は優秀です。理解が早く、よく努力する。ここで終わらせるには惜しい」
壁の向こうで低い音が続いていた。
船を動かそうとしている音なのか、敵の攻撃なのか、もう分からなかった。
「トム、よく現実を見なさい。仮に今夜の死喰い人の襲撃を奇跡的に乗り切れたとしても、次があります。そしてその次も、そのまた次もだ。君たちが大人になるまで、これから何年も、この船が逃げ続けられると思いますか」
「……みんなは?」
クィレルは答えなかった。
「船のみんなや、騎士団の人たちは?」
「君が引き受けるべき責任ではありません」
「無事でいられるかって聞いているんです」
先生の口元から笑みが消えた。
「全員を助けられる機会など、そうあるものではありません。自分に差し出されたものまで捨てる必要はないでしょう」
トムは腕の中のハロを床へ置いた。
「先生が話してくれたんですよ。向こうでは、マグル生まれを奴隷として働かせているって。人体実験にも使っているって」
「知っているから、君をその立場に置かずに済むと言っているんです」
「知っていて、あんたはそこへ行くんですか」
クィレルは一度、口を閉じた。
「ここで学び続けた先に、何があるんです?正式な資格は得られず、見合った地位も望めない。魔法省から見れば、私たちはテロリストです」
彼の言葉が少し速くなった。
「ただ逃げ帰れば、私たちはダンブルドアを見限った小心者として扱われるでしょう。しかし、この石があれば違う。あの方は、働きに応じた報酬をくださる。スラグホーン先生からの紹介状もあります」
「まさか……先生にも?」
「ええ。準純血として認められれば、私の将来も変わります」
クリスマスの夜、スラグホーンと話していたのは、パーシーだけではなかった。
クィレルも、あの場にいたのだ。
「だから、僕にも混血になれと?」
「君なら城で学び、その能力に見合った仕事にも就けるでしょう」
「僕自身は何も変わらないのに、書類を変えれば?」
「そういう社会ですからね」
トムはすぅと息を吸った。
以前、同じような話をされたときは、うまく言い返せなかった。
年上の、しかも先生のイデオロギーや政治思想についてどうのこうの言うのは失礼だと思ったのだ。だが今、背後には、その先生に倒された友人たちがいる。
かつてないほどに、自分の頭に血が登る感覚を覚える。
アンガーマネジメントなんか糞くらえ!
「仮にも魔法史の先生なのに、よくもそんな幼稚なことを!働きに応じた報酬だと言いながら、まず生まれを書き換えないと、まともに評価もされないのに!?」
「君も恩恵を受けられる側になるのですよ」
「その仕組みが間違っているって言ってるんです!」
クィレルは眉をひそめた。
「世の中を動かすのは利益です、トム。今の体制で地位も財産も得た人々が、あの方を支えている。正論を聞かされたくらいで、それを手放しはしません」
「その利益の話をしているんだ!奴隷制度なんて時代錯誤もほどがある。確かに特権階級は一時的に儲かるかもしれない。でも、本来自由に学んで、何かを発明したり、誰かを治したりするたくさんの人の機会と彼らが納めるはずの税金が奪われる!一方的な供給で需要が減るなんて、経済的に行き詰まるのは目に見えているじゃないか!デスイーター側だって逃げた人を追うにも、反抗する人を押さえつけるにも、人や金が必要だ。一部の人の儲けのために、魔法界全体が代金を払ってるんだ」
「それでも、逆らえないほどの力があれば、秩序は保てます」
「黙らせても、奪ったものは戻らない。騎士団を倒れたって、声を上げる人は絶対に減らずに、増え続ける」
「君は、あの方の力を知らない」
「そんなの、あんたの感想ですよね」
トムは顔を上げた。
「ヴォルデモートがどうした」
背後でロンが息を呑んだ。クィレルの目が細くなった。
「所詮、一人じゃないか。魔法界全部を見張って、すべての反抗を自分で潰すのか?」
声が震えた。それでも、目は逸らさなかった。
「どれだけ強くても、一人で社会は動かせない。従えば得をする人がいるから、今は支配できているんでしょう。でも、奪われる側にだって、支配を終わらせたい根拠がいくらでも出てくる。今いる人を黙らせても、その理由まで消せるわけじゃない!あんたの教えている魔法史が証明しているでしょ!だからそこ、少しでもいい明日のために、間違っていることには間違っている声を上げるないといけないんだ!」
*
岸辺では、リリーの退路を塞がれかけていた。
ベラトリックスが追いすがるたび、後退しながら張る盾が甲高い音を立てた。
その呪文を弾いた反動で、腕が跳ね上がり、顔に苦痛が浮かぶ。
「逃がすものですか!」
ベラトリックスが杖を振りかぶった、まさにその時だった。
無数の銀色の鉤が彼女に向かって飛んできた。
彼女は身をひねって避けた。鉤はローブの裾を裂き、背後の木へ突き刺さる。
そこから伸びた鎖が、岸辺の草を薙ぎ倒した。
水面に、いくつもの頭が浮かんでいた。
長い髪を背へ払い、人魚たちが浅瀬へ進み出る。
手には槍と網。船の周囲を旋回していた箒が一斉に高度を上げたが、一騎だけ遅れた。
投げ上げられた網が、箒の尾を絡め取る。
乗り手が叫んだ。柄を立てて振り切ろうとしたものの、網につながった綱が水中へ引かれ、箒ごと水面へ叩きつけられた。
「水際から離れろ!」
ドロホフが怒鳴った。
森の側でも、声が上がった。
低い影が木々の間を走っていた。子供ではない。
革の胴着を着込み、湾曲した短剣や小さな盾を携えた――ゴブリンたちだった。
先頭の一人が、木陰に伏せていた闇祓いへ盾を向けた。
放たれた呪文が盾の表面を滑り、脇の幹を削る。その間に別のゴブリンが地面へ手をついた。
闇祓いの足元で、露出した木の根が絡み合った。
膝をついたところへ、ムーディーの失神呪文が命中した。
「ゴルヌック!遅いぞ!」
ムーディーが怒鳴ると、先頭のゴブリンが尖った歯を見せた。
「先に囲んでいた連中へ文句を言え。二組ほど片づけてきた」
彼は手を振り、仲間を左右へ散らした。
闇祓いたちが森へ向き直る。船へ集中していた杖が分かれ、騎士団員たちの退く道に、わずかな隙間ができた。
「今だ、負傷者を運べ!」
ムーディーの声で、倒木の陰へ身を寄せていたヘスチアたちが、負傷者を支えて桟橋へ走った。
リリーも後退しようとしたが、赤い光が行く手を遮った。
ベラトリックスは援軍へ目もくれず、彼女だけを追っていた。
「ずいぶんと、お友達が多いのね!」
次の呪文が来る。
リリーが身を伏せると、頭上を通った光が岸辺の杭を砕いた。飛び散った木片を払いながら、彼女は杖を振り返した。
ベラトリックスが防いだ、その一瞬だった。
横から走った鎖が、二人の間を断ち切った。
リリーは追撃せず、桟橋へ駆けた。
浅瀬の人魚が彼女へ片手を上げ、すぐに次の鉤を構える。
グリンデルバルドの周囲へ降っていた呪文も、まばらになっていた。
船の防壁へ攻撃が弾かれるのを確かめ、老人は桟橋を支えていた左手を下ろした。
背後では騎士団員が支柱へ杖を向け、補強を引き継いでいる。
ようやく息を整え、クラウチが木陰から出て来た。
「亜人どもまで、ダンブルドアに飼われたか」
その声に、盾を持ったゴブリンが振り向いた。
「我々の店を取り上げ、自由な取引を禁じておいて、敵が増えるのがそんなに不思議か?」
クラウチの杖先が動いた。
しかし、ゴブリンたちはすでに木の陰へ退いていた。
*
倉庫へも、くぐもった衝撃が伝わってきた。
外で誰が戦っているのか、トムには分からなかった。
クィレルの返事を待つ間に、自分の呼吸の荒さに気づいた。
目の前には杖がある。こちらにはない。
言い返したところで、それが変わるわけではなかった。
「……君を説得できると思ったのですが。見込み違いでしたね」
「先生こそ、戻れないんですか」
口にしてから、自分でも驚いた。
「石を返して、みんなの呪文を解いてください。外では、先生たちがまだ戦っています。今なら――」
「その先は言わなくて結構です」
静かな声だったが、トムは口を閉じた。
クィレルは扉へ目を向けた。遠くで何かが崩れ、足元へ振動が伝わってくる。
それが収まると、先生は再びこちらを見た。
「時間を使いすぎましたね」
杖が持ち上がった。
トムは背後の四人をかばうように身をずらした。
「殺すんですか」
「そのつもりなら、話をする必要はありませんでした」
いつもの授業と同じ調子で、クィレルは答えた。
「忘れてもらいます。私に会ったことも、石を見たことも。君たちは避難の途中で道を間違え、船が揺れた拍子に怪我をした。それだけです」
「そんなの、無理があるだろ。僕たちは見たぞ」
ロンが壁へ手をつき、体を起こした。
「あんた兄貴に化けて、僕たちを――」
杖先を向けられ、動きが止まる。
「トム。わかりますよね。私がこれからしようと思っていることを」
トムは背後を振り返った。
自分の記憶を守る方法を教えた人が、今、それを奪おうとしていた。
「――オブリビエイト」
光がロンへ届いた。彼の言葉が途切れ、壁を支えていた腕から力が抜ける。
「やめろ!」
トムが踏み出すより早く、クィレルの杖が戻った。
見えない力に押され、背中が壁へ張りつく。肩を動かそうとしても離れなかった。
「そこで待っていなさい」
先生はネビルへ向き直り、同じ呪文を唱えた。
次にハンナ。目だけでこちらを追っていた彼女の視線が止まった。
ラベンダーは縄に縛られたまま顔を背けたが、逃れられなかった。
呪文を受けると動きが止まり、瞼が閉じた。
「残念ですよ。トム」
最後に、クィレルはトムへ向き直った。
壁へ押しつける力が緩む。トムは足を踏ん張ったが、杖先から逃げられる距離ではなかった。
やばいやばいやばい。
守らないと。自分の記憶を。
閉心術は役に立つのか。分からない。だが、ほかに頼れるものがなかった。
ステップ1、雑念を制御する。
ステップ2、潜在意識の動きを最低限まで絞る。
ステップ3、守りたい記憶の抽出。
そして、本で読んだだけの、次の段階。
ステップ4、精神防壁の構築――思い浮かべたのは、毎日書いている日記帳だった。
今起きたことを頁の中へ収める。
目の前で、クィレルの唇が動いた。
トムは、その日記帳を一気に閉じた。
次の瞬間、クィレルの杖の先端から放たれた光がトムの頭に吸い込まれた。
後で少し文章修正するかも。話の流れは変わりません。
今後の変なハリポタについて、方向性として最も希望するもの
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現在の方向性で続きを読みたい
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主人公の判断・行動の合理性を高める
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人物たちの性格や言動を原作に忠実に
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独自の魔法設定を控える。
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説明や訓練を短くして、事件や物語を進める
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仲間との日常や明るい掛け合いを増やす
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その他(よければ感想欄へ)