俺のハリポタなんか変   作:パシフィカ

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!!!!!!注意!!!!!!


本章には、津波を描写する場面が含まれます。

災害の記憶を呼び起こしたり、強い不安を感じたりする可能性がありますので、こうした描写に不安のある方は、ご自身の心身の状態に合わせ、無理のない範囲でお読みください。

また、別途津波表現を控えたバージョンを用意します。


この精神防壁なんか変

トムラは、よく言えば慎重で、悪く言えば優柔不断な気質の人間だった。

 

何かを決める前にはもう少し考えたがり、意見を求められると、答えるより先に相手の顔を見る。

他人に気を遣うあまり、自分がどうしたいのかまで曖昧になってしまうところがあり、付き合いやすくはあっても、少し退屈な人物だったかもしれない。

 

この性格は両親の仕事の影響を受けたのかもしれない。転勤が多い職場で、子供のころは何度も転校した。

ようやく周囲に馴染んだころには次の学校へ移り、そこでまた、人との距離を一から測り直す。

 

前の学校では笑ってもらえた冗談が通じず、親しくなったつもりで話し掛ければ、思いがけず冷たい返事が返ってくる。

そんな経験を繰り返すうちに、何も言わなければ傷つかずに済むと覚えてしまった。

 

必然的に、一人で過ごす時間が増えた。

ゲームも漫画も好きだったが、いちばん長く付き合ったのは小説だった――もっとも効率的に集中して時間を消費できたのだ。

 

頁を開けば、自分から話し掛けなくても、物語の中の誰かが冒険へ連れ出してくれる。

勇気を振り絞り、友人を信じ、ときには知恵を絞って困難を乗り越える彼らの姿は、教室で透明になりたいと願っていたトムラに、それとは違う生き方があることを教えてくれた。

 

もっとも、本を読んでいるだけで、何かが変わるわけではない。

どうして自分の人生には面白いことが起きないのだろうと嘆きながら、部活の誘いを断り、学校行事では目立たない役を選び、休日には部屋へ閉じこもっていた時期もあった。

 

幸いそんな中二的な考え方も、中学校を卒業するころには終わった。

そもそも、世の中が退屈だったのではない。何事も始める前からつまらないと決めつけ、始めても上達する前にやめてしまう、そんなつまらない自分が自分の人生を最も退屈にしてしまったのだ。

 

だから、高校へ入ってからは、できるだけ何事にも真面目に取り組むようにした。

何か立派な目標があったわけではない。

苦手な科目でも勉強を投げ出さず、文化祭の仕事を引き受けたら最後までやる。

物語の中の友人たちのように、一度くらいは一生懸命になってみようと思っただけだった。

 

そうして続けていれば、小さな結果は残った。前より点が取れたり、自分が作ったものを誰かが喜んでくれたりする。

それが嬉しくて、次もやってみる。ずいぶん単純なことだったが、トムラがそれを覚えたのは、周囲より少し遅かった。

 

コミュニケーション能力は相変わらずだったが、人間関係の衝突が多い年齢層の中で、忍耐強く相手のよいところを見つけるまで待てることは、以外にも一種の一風変わった連中の気持ちを理解できて、親友と言えるような連中が2、3出来るようになった。

 

そして、自分の学力より少し上のレベルの学校に努力して入り、何となくで選択した学科、なんとなく入った文芸サークルの中で、なんとなく出版関係の仕事をしたいと思った。文学崩れという風に表現するべきか、数々の小説が灰色だった自分を救い、気付きをもたらしてくれたように、創作物で誰かの心を動かし、誰かの心を豊かにできたらなと思った。

 

最終的には何とか出版社に勤めることが出来、ややブロックな環境だが、周囲の人間に恵まれ、気が付いたころには30台前半で親からしつこく婚活について言及されているところで――トムラは突然の死を迎えることになった。

 

     *

 

咄嗟での精神防壁の構築は、成功したとは言えなかった。

 

閉心術の教本に書かれていたのは、日記帳を閉じるという想像だけで完成するような、都合のよい防御ではない。

意識の表層を整え、守りたい記憶を分け、その周囲へ別の思考を巡らせる。

 

侵入してきた相手に、どこへ進めば目的のものへたどり着くのか分からなくさせるためには、絶えず変化する心の動きを、自分で把握していなければならなかった。

 

トムはまだ記憶の整理に関する訓練を終えていなかった。

そしていまや慣れていた感情制御も覚束ず――恐怖も怒りも残ったまま、覚えた手順に従って魔力を動かし、今起きたことを守ろうとしていただけだった。

 

クィレルの忘却術は、そのあまりにも未完成の防壁へ食い込んだ。

 

頭の中で閉じた日記帳が、内側から膨らむ。

押さえ込もうとしても、頁の間から言葉が零れていき、つい先ほどまで確かだった出来事が、意味を失おうとしていた。

先生の顔と赤い石、床へ倒れた友人たち。それぞれは覚えているのに、どうしてそれらが同じ場所にあったのか、分からなくなりかけている。

 

忘れてはいけない。そう思うほど、守るべき記憶へ意識が集まった。

 

トムはそれらを、もっと奥へ隠そうとした。

思い出し慣れた船での生活よりも、孤児院の記憶よりも深いところへ、無我夢中で押し込んでいく。

その途中で、意識の底にある、ひどく近づきにくい場所へ触れーーそしてあることに気が付いた。

 

そういえば、そうだった。前世の最後を思い出そうとすると、必ず考えが逸れていた。

記憶がないのだと思っていたが、そこには何もないのではなかった。何かがあるからこそ、意識が近づかないようにしていたのだ。

 

――トムに知る由はなかったが、それは精神が自身の健全性を保つために、あえて無意識に封印していたものだ。覚えていては、狂ってしまう。そう判断した心が、勝手に作り上げた一種の壁だった。

 

それが何なのかを確かめる余裕はなく、とにかく急いでいたトムは壁までも、自分の防壁へ組み込んでしまった。

 

クィレルの魔法は壁で食い止められた。消すべき記憶へ届こうとした力が、意識そのものを遠ざける働きとぶつかり、互いを崩していく。

咄嗟に作った防壁では足りなかった。

しかし、ちょうど心が自分を守るために立てた壁が完全に崩れたところで――忘却術の力も、尽きた。

 

そしてトムの記憶は蘇った。

それは、本来人の身であっては、決して見るべきじゃないものだった。

 

     *

 

最初に思い出したのは、揺れだった。

机の上の紙コップが倒れ、中身が書類へ広がっていく。

それを避けようとして椅子から腰を浮かせた途端、体が大きく傾き、トムラは机の縁を掴んだ。

 

取材先の事務所だった。海に近い町で、午前中には港の写真も撮っていた。

窓の向こうに倉庫があり、その前をトラックが何台も行き来していたことを、よく覚えている。

 

誰かが机の下へ入れと叫んだ。棚のファイルが次々に落ち、天井の照明が大きく揺れている。

床に膝をついても体が動かされ、掴んだ机の脚までずれていった。

 

揺れは、いつまでも終わらなかった。少し弱まったと思って顔を上げると、また大きく動く。

隣で誰かが「やばい、やばい、でかすぎる」と笑って繰り返していた。トムラも、まったく同じことを思っていた。

 

ようやく外へ出たころには、携帯電話がつながらなくなっていた。

道路には人が集まり、建物を見上げる者もいれば、車を出そうとしている者もいる。

自分だけがどうすればよいのか分かっていない気がして、トムラは取材先の人たちのそばを離れなかった。

 

防災放送が、津波からの避難を呼び掛けていた。

 

海の近くにいてはいけない。それは分かったが、どの道が高台へ続くのかは知らない。

案内してくれる人について進みながら、トムラは実家へ電話を掛けた。何度試してもつながらず、やがて諦めてポケットへしまった。

 

道路の先には、車の列ができていた。歩道にも人が増え、前を歩く人の背中が見えなくなる。

誰かが車の窓を叩き、何かを叫びながら走っていったので、トムラもつられて足を速めた。

 

後ろから、大きな音がした。

 

振り返っても、海は見えなかった。

代わりに、建物の間から、黒い塊が押し寄せていた。

 

水だと理解するまでに、一瞬かかった。道路を塞ぐほどの流れが、車を横向きに押し、電柱へぶつけ、そのまま運んでくる。

看板や木材が混じり、硬いもの同士がぶつかる音が、どこからともなく続いていた。

 

さっきまで自分たちがいた交差点が、水に消えた。

 

トムラは前を向き、走った。息が苦しく、鞄が脚へぶつかって邪魔だった。肩から外そうとして、うまく外れない。

目の前の人が建物の外階段へ向かうのを見て、そちらへ手を伸ばした。

 

その足を、背後から何かが払った。

 

冷たかった。何が起きたのか考えるより先に、体が横へ流され、肩が硬いものへぶつかった。

口を閉じたつもりなのに泥の味がし、慌てて息を吐くと、そのあとが吸えなくなった。

 

上下が分からなかった。明るいほうへ手を伸ばし、指先に触れたものを掴んだが、次の瞬間には離れていた。

靴の片方が脱げたことを、なぜかはっきりと覚えている。

 

その先の記憶は、音から順に消えていた。

 

     *

 

気がつくと、歩いていた。

濡れていない。肩も痛くない。息を吸っても咳は出ず、さっきまでの苦しさは嘘のようになくなっていた。

 

白っぽい道の両側を、水が流れている。川幅はよく分からなかった。

近くを見れば足を浸せそうなほど浅いのに、遠くへ目を向けると、向こう岸がないようにも見えた。

 

ほかにも人がいた気がする。しかし、顔を見ようとすると、いつの間にか遠ざかっていた。

声を掛けたいとも、追い掛けたいとも思わず、トムラはただ道に沿って歩いて、そして、突然気が付いた

 

――あ、やべ。死んだのか。

 

最初の感想は、その程度だった。死んだあとには川を渡るというし、ここが三途の川なのだろう。

宗教に熱心だった覚えはないが、目の前の景色へ当てはめるなら、それがいちばん分かりやすかった。

 

そういえば、保険証の裏にあった臓器提供の意思表示を、結局、記入していなかった。

せめて音無君みたいに、最後に誰かの役へ立てたらよかったとか――そんな場違いなことまで浮かんだ。

まぁ、そもそも自分の体はどうなったのだろうと思うと、土台無理な話だろうけれども。

 

しばらく歩いてから、実家へ電話がつながらなかったことを思い出した。

 

家族は、自分がどうなったか知っているのだろうか。会社には返していない機材があり、来週確認すると約束した原稿も残っている。

友人から来た「今度いつ空いている」というメッセージにも、返事をしていなかった。

 

来週は、もうないのだ。

 

そう気づくと、足が遅くなった。家へ帰って風呂に入り、冷蔵庫の残り物を確かめることもなければ、読みかけの小説の続きも読めない。

面倒だと思っていた仕事も、親からの結婚の催促も、これで終わりだった。せめての救いはハリポタを生きている内に読み切れたことだ。

おお、偉大なるJKローリングの加護よ。

 

そう考えていると、道の先に古い石のアーチを発見した。

 

柱の表面は削れ、ところどころ欠けている。中央へ掛かった薄い布が、風もないのに揺れていた。

その向こうから何かが聞こえ、言葉は分からないのに、そちらへ進むのだということだけは理解できた。ハリポタを思い出した影響か、そうか、これが死のアーチかと思った。

 

怖かったが、同時に安堵もあった。もう疲れなくてよいし、何かを間違える心配もない。

長い一日を終えて眠るときのような気持ちが、少しずつ広がっていく。

 

ただ、その安堵を感じている自分も、向こうへ行けばいなくなる。

新しい旅が始まるのかもしれない。それでも、今ここで考えているトムラという人間が、そのまま続くわけではないのだと感じた。

――それが怖くて思わず二の足を踏む。

 

そうしていると、道の脇から、かすかな声が聞こえた。

 

何かが地面へ張りついていた。赤黒い皮膚のようなものが不格好な手足を包み、薄い膜を引きずりながら動こうとしている。

人間の赤ん坊に似ていたが、顔を見た瞬間、それとは違うと分かった。

 

鼻がなかった。細い裂け目のような目が、こちらを向いている。

何だこいつ?

 

トムラは、思わずしゃがみ込んだ。何かに似ている気がしたけれども……まさか、ヴォルデモート卿!?

まじまじと見つめて、確かに闇の帝王の末路に似ているような気がする。

いや、まぁあれは小説の話だから、本当は水子霊とかそういうものかもしれない。

 

そんなことを考えている間も、目の前のものは身をよじっていた。

地面から離れようとするたびに、張りついた膜が引っ張られ、弱々しい声が漏れる。

 

触れてよいものではないと思った。

しかし、トムラのやっかいな性格が、少し向きを変えてやれば楽になるのではないかと、手を伸ばしてしまった。

 

指先が触れた途端、ひどく嫌な感覚がした。熱いとも冷たいとも違う。

触れたところから、こちらの皮膚まで自分のものではなくなっていくようで、激しい苦痛を感じた。

 

「……!すまん。無理だ」

 

慌てて手を引いたが、相手は答えなかった。助けを求めていたのか、それとも近づくなと言っていたのかも分からない。

ただ、これほどになっても、まだ先へ進めずにいるのだろうと思った。

 

死にたくなかったのだ。

その気持ちだけは、理解できた。

自分だって怖いし、できるものなら帰りたい。けれど、ここへ張りついていれば戻れるわけでもないのだろう。

 

目の前の哀れの存在のおかげで、決心がついた。

トムラは立ち上がり、もう一度だけ振り返ってから、アーチへ向かった。

 

薄い布が顔へ触れたが、冷たさも重さもなかった。その向こうへ足を踏み入れると、考えている自分の輪郭が、少しずつ曖昧になっていった。

 

     *

 

それは、本来なら恐ろしいことではなかったのかもしれない。

 

眠りへ落ちるように、何かを手放すように、自分と周囲の区別が薄くなっていく。

その先に何があったのかは、今でも分からない。途中で、引き戻されたからだ。

 

背後で何かが裂けた。

 

アーチの向こう側で、道に亀裂が走っていた。その底から、形のないものが伸びてくる。

目に入っているのに、何色なのか、どんな形なのかを考えることができなかった。

 

それが、地面へ張りついていたものを掴んだ。

 

悲鳴が響き、ヴォルデモートの成れの果て?らしきものが引き剥がされていく。

そのとき、トムラの指先にも、鋭く引かれる感覚が走った。

 

先ほど触れたところに、何かが残っていた。細い糸のように伸び、アーチの向こうへつながっていたそれが、急に張り詰めたのだ。

 

手を引こうとした。しかし、引き戻すための腕が、もうはっきりしなかった。

自分の形を保っていたものは半ばほどけ、何をどう動かせばよいのかも分からない。

 

それでも、引っ張られた。

 

一度ほどけたものを、無理やり狭いところへ押し戻される。痛いと思ったが、何が痛いのか分からなかった。

体の外側にあるはずのものが内側を通り、遠くの景色が、思い出よりも近い場所で潰れていく。

 

それからの光景を形容するとしたら、それはまるで一種の脅迫観念に囚われた七つの柱が複数の触手のようなもので、捻じれた胎盤と逆立つ夜鷹は二人目の賢者に詰め寄り、羊頭をした幼虫の十一面体の黒曜石でできた刀が振り下ろし、その時に死によって彩られた意思は…

 

     *

 

トムは床の上で息を吸い、そのまま吐けなくなった。

 

伊■モ日キサレテイル気ガシタ。床エ降■レテイル保保ガ■ブンノモノナノカ分カラ■、痲ノマエノモクメノ向■■、白■未知ガカサナッテミエル。

 

■弐居ル筈ナノニ、■うして船画来タノ加賀繋ガラナカッタ

 

全ての思考が崩れかけたところで、閉じかけの日記帳が浮かんだ。

そうだ。自分は今、記憶を守っている途中だった。

 

トムは、よみがえったものを理解しようとするのをやめた。あの道も、アーチも、そのあとに見たものも、一度に考えてはいけない。

記憶を取り出す訓練でしてきたように、出来事の範囲を決め、それ以外から切り離す。

 

そこへ置いて、今は開かない。

 

自分でも驚くほど必死に、その作業を続けた。

以前のように、存在すら思い出せなくすることはできなかったが、目の前の床を、床として見られる程度には遠ざけられ――死のアーチからの帰り道の記憶を封印した。

 

木の匂いがし、口の中には血の味があった。舌を噛んだのだろう。

呼吸をすると胸が痛み、その痛みが、自分にはまだ体があると教えてくれた。

 

顔を上げようとして、トムは動きを止めた。

床の中を、何かが流れていた。

 

木目とは違う。灯りが映り込んでいるわけでもない。

そこに力があり、どちらへ動こうとしているのかが、見るともなく分かった。

 

その流れは壁へ続き、天井を巡り、部屋の外へ伸びている。

途中で途切れている箇所もあれば、今まさにつながり直しているところもあった。

 

船の魔法だった。

 

それだけではない。

友人たちの体に残る魔法の気配も、赤い扉へ集まっている力も、同じように感じられた。

 

今まで自分の体の中にしかなかった感覚が、その外へ続いていた。

 

     *

 

トムの膝から力が抜けたとき、クィレルは杖先を下げた。

 

倒れかけた体を魔法で受け止め、床へ横たえる。頭を打たせる必要はなかった。

記憶を扱った直後なら、なおさらだ。

 

しばらく待っても、少年は動かなかった。

クィレルは呼吸を確かめると、棚へ置いていた五本の杖を取り上げ、それぞれ持ち主の手が届くところへ戻した。

 

これから船がどうなるにせよ、目を覚ましたときには、自分を守る手段が必要になる。

ブラウンを縛っていた縄を消し、アボットの金縛りも解いてから、五人の顔を順に見た。

 

最後に、トムへ目を止めた。

 

よくできる生徒だった。教えたことを覚え、自分なりに考え、分からなければ尋ねに来る。

説明する側が、つい余計な話までしてしまうような子供だった。

 

連れていければよかったのに。彼らを完全に守る力が自分にあればよかったのに。

 

そう思ったが、これ以上考えても仕方がなかった。

今の言い争いも、自分への失望も、目を覚ましたときには残っていない。

それが、彼らにしてやれる最後のことだった。

 

「……すみません」

 

小さく呟いてから、ローブの内側へ触れた。石はそこにある。

これを持っていき、ヴォルデモート陣営での地位を得る。それが自分のするべきことだ。

 

クィレルは赤い扉へ向かった。廊下を通って戻れば、誰と鉢合わせするか分からない。

この部屋の出口を、直接、船の外へつなぎ直すつもりだった。

 

取っ手の上へ杖先を当て、岸辺の景色を思い浮かべる。壁の向こうでは、騒動の音がほどんど消えており、船を動かす低い音が続いていた。

もう、猶予はなかった。

 

――突然、背後で、空気が軋んだ。

 

クィレルは振り返るより先に防御した。急激に膨れ上がった魔力へ反応し、体の周囲に防壁を張りながら右へ跳ぶ。

その直後、聞き慣れた生徒の声が、呪文を唱えた。

 

「ドルール・トルケレ」

 

床を這うように走った歪みが、防壁へ食い込んだ。耳の奥で悲鳴が響き、盾が砕ける。

クィレルはさらに身を捻ったが、避け切れず、左肩から脇腹を衝撃にさらわれた。

 

壁へ叩きつけられるより先に、体の内側で何かが折れた。

床へ落ちたときには息と一緒に血がこぼれ、左腕の感覚がなくなっていた。

 

それでも右手の杖だけは離さず、クィレルは顔を上げた。

 

トムが立っていた。

片手を壁へつき、もう片方をこちらへ伸ばしている。その手には、杖がなかった。

 

「……ばかなッ」

 

答えは返ってこなかった。

 

     *

 

トムには、クィレルの魔法が崩れるところまで見えていた。

 

防壁へぶつかった自分の力が、その表面を捻じ曲げ、奥へ食い込んでいく。

形を保てなくなった魔法が散り、残った衝撃がクィレルを弾き飛ばした。

 

空間そのものに、悲鳴を上げさせる。

 

グリンデルバルドの説明が、今なら分かった。

つい先ほどまで、自分がその悲鳴の中へ押し込まれていたからだ。

 

自分の形を失い、ありえない向きへ引き延ばされる苦痛。それを思い出すだけで、どう歪めれば壊れるのかが理解できた。

覚えていた呪文は、その感覚を外へ流し出すための形になった。

 

当たった。

 

クィレルが、倒れている。

 

胸の奥に強い熱が広がった。恐怖が消えたわけではない。むしろ、苦痛も怒りも恐怖も、区別がつかないほど激しく動いている。そ

れなのに、魔法を使うことだけは、ひどく簡単に思えた。

 

足元に、自分の杖があった。手を伸ばすとそれは床を滑り、掌へ収まる。

握った瞬間、周囲へ広がりすぎていた感覚が、杖先を中心にまとまった。

 

「エクスペリアームス!」

 

一度見ただけの魔法を、いとも容易く唱えた。クィレルは床へ片膝をついたまま杖を払い、赤い光を横へ逸らした。

呪文は棚の脚を砕いたが、トムはその音を待たず、次の魔法を放っていた。

 

「フリペンド!」

 

今度は防壁に受け止められた。

しかし、その防壁へどこから力が集まり、どこが強く、どこが薄くなっているのかまで分かった。

 

クィレルは左側を庇っている。

踏ん張る足の位置も、動かせる方向も限られていた。

 

「グリセオ!」

 

靴の下へ魔法を滑り込ませると、クィレルの踵が流れた。倒れかけた彼は右手を棚へ向け、崩れた板を立ち上がらせる。

二人の間へ壁が割り込んだが、トムはその下端を細い蔦へ変え、左右へ引き開いた。

 

その隙間から光が飛び込んできた。

 

来ると分かっていても、体はすぐには動かなかった。

身を捻った頬へ熱が走り、背後の壁で木片が弾ける。

トムはよろめきながらも踏みとどまり、クィレルの杖先へ狙いを戻した。

 

「トム! やめなさい!」

 

その声が、ひどく遠く聞こえた。昨日までなら手を止めていたかもしれない。

だが、クィレルが喋っている間にも、右手へ次の魔法を集めているのが分かった。

 

トムは返事をせず、先に呪文を放った。

 

     *

 

左の肋骨が折れている。息を吸うたびに喉へ血が上がる感覚から、肺も無事ではないのだろう。

クィレルはそう判断したが、治療のために杖を向ける暇がなかった。

 

衝撃呪文、武装解除、全身金縛り。続けて飛んでくるそれらは、どれも生徒に使わせたことのある魔法だった。

トムが杖を動かす癖も、狙いをつけるときの視線も知っている。

 

だが、その間へ、本来習っていないはずの魔法が混じった。

 

足元の板が縄になり、肩を狙う呪文を避けた先で、目を焼くほどの火花が弾ける。ムーディーが訓練で使っていた目くらましだった。

クィレルも一度見ているが、トムへ教えたとは聞いていなかった。

 

さらに、床へ散った木片が一斉に持ち上がった。

盾を広げて受け止めると、その向こうで少年が杖を振り上げる。

 

空気が軋んだ。

 

クィレルは床へ転がった。直後、背後の壁が内側へ潰れ、板の継ぎ目が裂ける。

左半身へ走った痛みに視界が暗くなったが、呻いている暇さえなかった。

 

「インカルセラス!」

 

太い縄を放つと、トムは一本を切り、二本目へ杖を向けた。

何をしたのか、縄は途中で勢いを失って落ちたが、三本目は少年の足首を捉えた。

 

トムの体が引かれる。ようやく生まれた隙へ、クィレルは続けて失神呪文を放った。

 

しかし、少年は踏みとどまろうとせず、縄に引かれるまま床へ身を投げた。

赤い光が頭上を通過し、倒れた棚へぶつかる。トムはその陰で足の縄を切り、すぐに杖を突き出してきた。

 

完璧に動けているわけではない。実際、額からは血が流れ、呼吸も乱れていた。

それでも、こちらが何をしようとしているかを、見てから反応しているのでは遅いはずの速さで察知してくる。

 

クィレルは防壁を張り直し、わずかな間に杖を自分の胸へ向けた。応急の治療で呼吸を整えた途端、また衝撃が盾へぶつかる。

 

足場の悪い床で後退を強いられながら、少年の顔を見た。

 

怒っている。それだけではなかった。

目を見開き、息を切らし、魔法が成功するたびに、自分でも信じられないものを見たような表情をする。

痛みも疲労も、今は本人の意識へ届いていないのかもしれなかった。

 

長く続く状態ではない。

 

そう判断したが、自分の体が、それまで持つ保証もなかった。左腕はもう使えず、踏み込むたびに脇腹が軋む。

防ぎ損ねた衝撃をあと一度まともに受ければ、立ち上がれなくなるだろう。

 

クィレルはローブの内側を肘で押さえた。

 

石を持ち帰る。それが目的だ。トムを倒すことではない。

 

迫る呪文を弾き、その反動を利用して赤い扉へ背を寄せる。

杖先を取っ手へ滑らせ、先ほど途中で止めた魔法をつなぎ直した。

 

     *

 

勝てると、トムは思った。

 

クィレルの中には、自分よりもはるかに大きな力が残っている。

正確に測れるわけではないが、自分の魔力は、その五分の一ほどにしか感じられなかった。すべてをぶつけ合えば、先に尽きるのはこちらだ。

 

それでも、今この瞬間に動かせる量はこちらも負けていなかった。例えるなら貯水槽で、蓄えられている水の量はクィレルの方が多い。

しかし、蛇口のサイズは同じくらいで、一度に出せる水の量は同じくらいか、何ならこちら側の方が多かった。

 

今までは魔力を引き出し、呪文に合う形へ整え、それから杖の先へ通していた。

途中でどこかが引っかかれば失敗し、うまくいったときも、どうして成功したのか説明できないことが多かった。

 

今は、その過程が分かった。必要なところへ力を通し、余計なところへ流れれば戻す。

呪文が何をしようとしているのか理解できるので、途中からでも働きへ触れられた。

――まるでキャンパスに絵の具を塗りつけているだけで、絵が完成していくような様子だ。

 

しかも、クィレルは怪我をしている。トムが魔法を重ねれば、防御に力を回さなければならず、十分に立て直す暇がない。

ブートキャンプで散々やられたことを、今は自分がしていた。

 

このまま押し切ればいい。

 

クィレルが扉へ背を寄せたので、トムは一歩踏み込んだ。

逃げ道を塞ぐため、取っ手へ狙いを移しかけた瞬間、赤い扉が内側へ弾けた。

 

湖水が、戸口いっぱいに押し寄せた。

 

床を叩いた水が白く泡立ち、クィレルの足元をさらう。彼は取っ手を掴んで耐えたが、その体は大きく傾いた。

扉をつなぐ位置が低すぎたのか、すでに船が沈み始めていたのか、外には暗い水しか見えなかった。

 

逃がさない。

 

トムは流れ込む水を踏み、杖を向けた。クィレルは戸口へ体を寄せ、外へ出るために魔法を使おうとしている。

今なら、こちらを防ぐ手がない。

 

「ドルール・トルケレ!」

 

 空間が悲鳴を上げた。

 

 狙いはクィレルの背中だった。そこまでの距離も、流れ込む水の動きも分かっていた。

 力は思い描いたとおりに走り、今度こそ当たるはずだった。

 

 ーーしかし、その途中で、魔法が曲がった。

 

 ほんのわずかだった。しかし、そのわずかで衝撃はクィレルの横を通り抜け、扉の脇の壁へ食い込んだ。

 板が潰れ、木片が弾け、残っていた棚が音を立てて崩れる。

 

クィレルが振り返った。

何か言ったように見えたが、水音に紛れて聞こえなかった。

 

彼は杖を湖水へ向け、押し寄せる流れに短い隙間を作ると、そこへ体を滑り込ませた。

次の瞬間には、暗い水の向こうへ姿が消えていた。

 

「待て!」

 

トムは追い掛けようとして、膝へぶつかった水に足を取られた。

よろめいた背後で、重いものが床を擦る音がした。

 

ロンの体が動いていた。

 

自分で起き上がったのではない。流れに押され、壁際から離れていく。ハンナの頬へ水が掛かり、ラベンダーのローブが大きく広がった。

もう少し水位が上がれば、四人とも顔まで浸かってしまう。

 

トムは杖の向きを変えた。

 

戸口へ力をぶつけると、水が盛り上がった。目に見えない壁へせき止められ、流れが左右へ散る。

しかし、止まったのは一瞬だった。湖の重みがこちらへ押しかかり、杖を握る指が震え始める。

 

この水全部を押し返す必要はない。

 

扉が閉まる間だけ、ここを空ければいい。

 

トムは戸口の中央へ力を集め、流れを左右へ分けた。開き切っていた扉が、少しずつ戻ってくる。

水の向こうへ取っ手を捉え、こちらへ引くと、肩を引き抜かれるような負荷が掛かった。

 

動け。早く閉まれ。

 

さっきまで簡単だったはずの魔法が、ひどく重かった。視界の端が暗くなり、足元へ意識を向ける余裕もなくなる。

それでも、背後で友人が咳き込むような音を立てたので、トムは残っていた力を絞り出した。

 

赤い扉が閉まった。

激しい音とともに床が震え、水の流入が途絶える。トムは取っ手へ向けていた杖を下ろそうとして、そのまま膝をついた。

 

     *

 

両手を床へつくと、水が冷たかった。

 

顔を上げ、友人たちを確かめる。水位はもう上がっていない。全員の顔が水面より上にあり、胸もわずかに動いていた。

トムは彼らを浮かせようと杖を向けたが、何も起こらなかった。

 

もう一度試そうとして、指が震えた。

 

使い切ったのだ。

 

さっきまで見えていたものも、薄れていた。床はただの床へ戻り、そこを流れる魔力を探そうとすると、頭の奥が痛む。

体のあちこちが遅れて痛み始め、息を吸うだけでも肋骨の辺りが軋んだ。

 

トムは這うようにロンへ近づき、肩を掴んだ。少しずつ引きずって、倒れた棚の板へ上半身を乗せる。

それだけで息が上がったが、顔へ水が掛からなくなったのを見て、ようやく手を離した。

 

クィレルは逃げた。賢者の石を持って。

 

勝てたはずだったと思うと、胸の中が沈んだ。

もう少し落ち着いていれば、最後の呪文を外さなければ、水が入る前に扉を塞いでいれば。

今になって、できたはずのことばかりが浮かんでくる。

 

――そこで、トムは顔を上げた。

 

最後の呪文は、本当に外したのか。

 

狙いは見えていた。杖を振った手がぶれたわけでも、クィレルが避けたわけでもない。

まっすぐ進んでいた力が、途中で別の向きへ押された。

 

何かに触れたのだ。

 

トムは壊れた壁を見た。その手前の水面へ、細かな波紋が広がっている。

もう水は流れ込んでいないのに、誰も立っていないはずの場所で、もう一つ波紋ができた。

 

喉が鳴った。

 

「……グリンデルバルド先生?」

 

返事は、すぐにはなかった。

 

やがて何もないところから手が現れ、空中の布を掴んだ。それが引き下ろされると、透明マントの下から、グリンデルバルドが姿を現した。

今後の変なハリポタについて、方向性として最も希望するもの

  • 現在の方向性で続きを読みたい
  • 主人公の判断・行動の合理性を高める
  • 人物たちの性格や言動を原作に忠実に
  • 独自の魔法設定を控える。
  • 説明や訓練を短くして、事件や物語を進める
  • 仲間との日常や明るい掛け合いを増やす
  • その他(よければ感想欄へ)
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