ゲラート・グリンデルバルド。
聞き間違いではなかった。
ロンも、ハンナも、ラベンダーも、ネビルの口にした名前を訂正しなかった。
落とした焼き菓子は、トムの膝で真っ二つになっていた。
「大丈夫?」
ハンナが布巾を差し出してくれた。
「うん。ありがとう」
全然、大丈夫ではないけれども。
グリンデルバルドだぞ。
ヴォルデモート以前に魔法界を揺るがした大物。
ダンブルドアのかつての友人で、後に敵となった闇の帝王。
魔法使いがマグルを支配する世界を目指した人物だったはずだ。
その人が、マグル生まれの子供を保護する学校で、ダンブルドアを生かす薬を作っている。人物相関図を一度、全部消したほうがいいのかもしれない。
「知ってるの?」
ロンに聞かれ、トムは顔を上げた。
「いや。長い名前だなと思って」
我ながら、ひどい返事だった。
アルバス・パーシバル・ウルフリック・ブライアン・ダンブルドアと会話した人間の言い分ではない。
幸い、ロンは菓子の残りを取るのに忙しかった。
「その先生も、ずっと船にいるの?」
トムは、できるだけ何でもない調子で聞いた。
「僕が船に来たときには、もういたよ」
ネビルが答えた。
「ダンブルドア先生とは、昔から知り合いなんだって」
「へえ。仲がいいんだ」
ネビルは少し考えた。
「……それは、よく分からない」
「よく言い合いしてるものね」
ラベンダーが口を挟んだ。
「廊下まで聞こえることがあるわよ」
「でも、薬は作ってくれる?」
「うん。ダンブルドア先生が飲みたがらないと、マダム・ポンフリーを呼んでくる」
そこだけ聞けば、気難しい老人同士の、微笑ましい話だった。
名前を伏せて聞きたかった。
「どうして、ここで教えることになったんだろう」
「さあ。僕も知らない。先生に聞いてみたら?」
ネビルが言った。
正論だったのだが……何というか、マグル生まれの子供が、ゲラート・グリンデルバルドという人物の過去を気にする理由が欲しかった。
名前を聞いただけで動揺した理由まで、説明することになっては困る。
*
九月になると、船の暮らしにも少し慣れ、いよいよ本格的に魔法の授業が始まった。
海にいると、曜日は思いのほか曖昧になるが、ここで助かるのが廊下の時間割だった。その前に立つと表示が書き換わり、どの部屋でどの授業を受けるべきか教えてくれるのだ。
授業はおおむね、トムの想像していた魔法学校のものだった。
猫に変身したマクゴナガル先生に驚き、フリットウィック先生に合わせて呪文を大声で復唱し、ポンフリー先生の指導の下で土を作る。ただし、生徒数が少ないため、先生たちとの距離は近く、一人一人に合わせた個別指導のような状態だった。
中でも、クィリナス・クィレルによる魔法史の授業は意外と面白かった。
若い先生だった。
教科書を開くときには、まだ新しい折り目を気にするように表紙を押さえる。
けれど、一度話し始めると、年号と人名ばかりのページが、急に今の自分たちと関係のあるものに変わった。
「ここには、争いの原因は税の引き上げだった、と書かれていますね」
クィレルは黒板に、二つの数字を書いた。
「でも、税を上げられた人たちが、全員反乱に加わったわけではありません。どうしてでしょう」
「払える人もいたから?」
ロンが答えた。
「そのとおり。それから、払うほうが、逆らうより安全だと考えた人もいました」
黒板に、もう一本、線が引かれた。
「今の暮らしを失いたくない。これは、昔の人にもあった気持ちです。後の時代から眺めると、どうして立ち上がらなかったのかと思うことでも、その人の台所から見れば、違って見えるかもしれません」
正しい側と間違った側。
強い側と弱い側。
そう分ければ終わる話を、彼はそこで終わらせなかった。
授業の終わりには、船の小さな書架から調べ物に使える本を何冊か紹介してくれた。
その中に、近代の魔法界を扱った本があった。
トムは、それを借りた。
*
次の魔法史の授業が終わったあと、トムは教卓の前に残った。
「先生。少し、聞いてもいいですか」
「もちろん。どこか分からなかった?」
クィレルは片づけかけた羊皮紙を置いた。
トムは借りた本を開き、細い紙を挟んでおいたページを示した。
「今の魔法界のことを知りたくて、後ろのほうも読んでみたんですけど」
嘘ではない。
ちゃんと読んだ。目的の名前を探して、目次から索引まで往復しただけだ。
「ここに、ゲラート・グリンデルバルドって。僕たちの先生と、同じ人ですか」
紙面の中の男は、今より若かった。
写真の下には、黒魔王という言葉があった。
クィレルはページを見て、それからトムを見た。
「同じ人です」
隠すでも、ごまかすでもなかった。
「彼はかつて、多くの支持者を集めました。魔法使いがマグルを支配するべきだと説いてね。各地で争いを起こし、マグルと魔法使いの戦争へと人々を駆り立てた。その過程で、大勢が亡くなりました」
「じゃあ、どうして、ここに?」
ようやく聞けた。
ただし、怖がっている子供に見える程度に、声を落とした。
「ダンブルドア先生に敗れたあと、彼は自身が築いたヌルメンガードという城に幽閉されました。長い年月を、そこで過ごしたんです」
クィレルは椅子を引き、腰を下ろした。
「その間に、考えを変えた。今は、かつての行いを悔いていると聞いています」
「改心した、ということですか」
「そうですね。少なくとも、ダンブルドア先生はそう考えている」
トムは、写真へ目を落とした。
若いグリンデルバルドが、紙の外の誰かへ呼びかけていた。
「でも、閉じ込められていたならどうしてここに?」
クィレルは少しだけ黙った。
廊下を、誰かが走っていった。続いて、走らないで、という声がした。
「ホグワーツでダンブルドア先生が敗れたあと、騎士団は、イギリスに踏みとどまれなくなりました。生き残った人たちを国外へ逃がすのを助けたのが、ホラス・スラグホーン先生です」
今度は、その名前か。
トムは口を挟まずに聞いた。
「以前、ホグワーツで魔法薬学を教えていた方です。教え子も知り合いも多くてね。国外の伝手を頼り、逃げ道をつないでくださった」
「その先生が、ダンブルドア先生の薬も?」
「できることは、してくださったそうです。ただ、普通の怪我ではありませんでした。命をつなぐだけで精いっぱいで、安全に休める場所もなかった」
教卓の上で、クィレルの指が重なった。
「そこで、色々あって最終的にはグリンデルバルドを頼ることになった。ダンブルドア先生に匹敵するほど、深く魔法を知る人物です。危険を承知でも、ほかに望みを託せる相手がいなかったんです」
「……助けてくれたんですね」
「ええ」
クィレルは頷いた。
「この船を手に入れられたのも、彼のおかげです。ダームストラング専門学校との間に話をつけて、譲り受けられるようにしてくれた」
トムは、足元の床板を見た。
寝床も、教室も、逃げる場所も。
思っていたより、ずっと多くを、元闇の帝王から提供されていたようだ。
「じゃあ、グリンデルバルド先生も騎士団の一員なんですか」
「それは、少し違います」
クィレルは首を振った。
「彼は、この戦争そのものには関心を示しません。作戦の相談にも加わらないし、戦いに出ることもない。引き受けているのは、ダンブルドア先生の治療と、この船の安全を守ることです」
「授業は?」
「船の安全には、生徒が危険なときにどう行動するかも含まれる、ということでしょうね」
少しだけ、笑みが浮かんだ。
「本人に聞けば、違う答えが返ってくるかもしれませんが」
なるほど。
正義に目覚めて、不死鳥の騎士団へ入団したわけではないらしい。
世界を救うためでも、ヴォルデモートを倒すためでもなく、ダンブルドアを生かし、その居場所を守るためにいる。
それなら、少しは分かる。
分かる気がするだけで、全部納得できたわけではないけれど。
「怖いですか」
クィレルに聞かれ、トムは顔を上げた。
「……少し」
「本に書かれていることを、なかったことにする必要はありませんよ」
先生は、開かれたページへ目を向けた。
「助けてもらっていることと、昔したことが消えることは、別です。疑問に思ったら、また聞きに来てください」
トムは礼を言い、本を閉じた。
廊下へ出ると、授業を待つネビルが手を振っていた。
その向こうで、船の窓を青黒い水が流れている。
自分たちを隠しているのは、海だけではないのだ。
*
上級生との触れ合いも多かった。
食卓の準備や掃除、食器の片づけは当番制で、一緒になることが多い。
教科書を借りれば、どのページで困っているのかまで知られる。
ある午後、トムはフレッドとジョージに挟まれ、廊下の壁へ本棚を固定する作業を手伝っていた。正確には、二人が魔法で棚を持ち上げ、トムが落ちそうな本を押さえる係だった。その隣では、双子の友人のリー・ジョーダンが、床に積まれた本を種類ごとに分けていた。
「右が下がってるぞ」
「そっちから見るからだ」
「本まで右へ滑ってるのは、俺の見方のせいか?」
リーが言うと、棚が少し傾き直った。
トムは滑ってきた一冊を、慌てて押し戻した。
「一年生が五人って、少ないですよね」
「多いとは言わないな」
「少ない椅子で済むのは助かる」
「そういう話じゃなくて」
トムが返すと、双子は同時に笑った。
「この二人に真面目な答えが欲しいなら、最初にそう言っておいたほうがいいぞ」
リーが本を拾いながら言った。
「それで真面目に答えるとは限らないけどな」
「おい、信用を落とすなよ」
「じゃあ上がるようなことを言ってみろよ」
ハハハと、トムは反応に困ってとりあえず愛想笑いを作った。
「同じ世代の子供はほとんどあっちのホグワーツに行っちまうしな」
棚が、壁の印へぴたりと収まった。
双子の片方が留め具を確かめ、もう片方がトムから本を受け取った。
「混血の家って、たくさんありますよね。
そういう人たちはもっとこっちに送らないんですか?」
「親がこっちへ送ると決めなきゃ、来られないからな」
リーが答えた。
「じゃあ、ここへ来てる人たちは、みんな家族で抵抗運動を?」
「まさか。それなら、もっと大人で混み合ってる」
「政府に逆らいたいわけじゃなくても、子供にあの授業を受けさせたくない親はいる」
リーが、抱えていた本を棚へ置いた。
「俺の親父がそうだった。血筋で友達を選べとか、誰に命令していいとか。そういうのを毎日教えられるんだぞ。さすがにそいつは違うってことで…こっちに来た。ほか、ここなら友達は自分で選べる。おかげで混血の俺は、純血のお二人様と本棚を運べてる」
ジョージとフレッドは顔を見合わせて、肩をすくめた。
「俺は表向き、外国の学校へ送ったことになってる。
同じ家の親戚でも、こっちへ送ったと知らないことがあるから、他人の家の事情は、あんまり外で話すなよ」
「はい」
トムは頷いた。
ジョージが、一冊の本を棚の隙間へ差し込んだ。
「それに、父さんは言ってる。あの人が魔法界をまとめたら、次はマグルだろうって」
「戦争ですか」
「父さんは、そう心配してる」
「外国と商売してる人にも、同じことを言う人がいるらしい。
今は仕事が増えても、その先まで安心とは限らないって」
マグルと戦争か…
トムは、手元の本を見た。
魔法界の中で何が起きても、マグルの街へ逃げれば関係ない。
どこかに、まだそんな期待があった。
逃げた先へも、戦争が来るかもしれないのだ。
「何だよ、難しい顔して」
フレッドに額を軽く指で押され、トムは顔を上げた。
「その顔は、魔法史の宿題を始めてからにしろ」
「先に疲れると、損だぞ」
「ところで、その魔法史の宿題、二人とも終わったのか?」
リーが尋ねた。
双子はそろって、最後の一冊へ手を伸ばした。
「まずは目の前の仕事だ」
「後輩にいいところを見せないとな」
「今ので大体分かったよ」
トムは少し笑った。
最後の本を棚へ戻すと、三人は完成した仕事を満足そうに眺めた。
*
そんな中、トムの魔法の勉強は、恐ろしいほど順調だった。
「ルーモス」
杖先に明かりが灯った。
フリットウィックが、眼鏡の奥で目を細めた。
「よろしい。では、そのまま保って」
保つ、か。難しくはなかった。
力がどこを通り、どこへ向かっているのか、分かる。
実際に体の中に管があるわけではない。けれど、右手を動かすときに、いちいち肘や手首へ命令を分けなくてもよいのと似ていた。
光を少し弱めてみる。次に少し強める。
その違いも、指先を曲げるくらいの感覚でできた。
「ミスターブライト、明るさを変えなくて結構ですよ」
「あ、はい」
遊んでいたのがばれた。
「ノックス」
光が消えた。
切り替える瞬間にも、引っかかりはなかった。
一方、隣のロンの杖先は、灯ったと思うとすぐに消えた。
後ろではラベンダーがバカ明るい杖を振り回し、ハンナに眩しと言われていた。
トムは自分の杖を見た。
これは……。
*
羽を浮かせる練習も、驚くほどすんなりできた。
振って、払う。
先生の動きをよく見て、発音を確かめる。
「ウィンガーディアム・レビオーサ」
一度で羽が上がった。
机の上から、目の高さまで。
トムが止めようと思うと、その場に止まった。
右へ。左へ。ゆっくり、下へ。
羽は、空気に引っかかるようなこともなく、机へ戻った。
まあ、浮かせるのはね……。
五年間、コップを相手に似たようなことをしてきたのだ。
いきなり箒で飛べと言われたわけではない。
ただ、前はこんなに簡単ではなかった。
持ち上がれと念じても、落ちるときは落ちた。
少し横へ動かそうとしただけで、最初からやり直しになったこともある。
今は、やりたいことが、そのまま力の流れになる。
水を押し出すように力む必要も、動いてくれと祈る必要もない。
ネビルが自分の羽を見ながら、尋ねた。
「下ろすとき、急に落ちない?」
「少しずつ、力を抜くと」
「どうやって?」
トムは止まった。
どうやってって
それを言われると困る。
人差し指だけ動かす方法を、どうやって説明すればいいのだ。
「えっと……全部やめるんじゃなくて、ちょっとずつ」
「うん。その、ちょっとずつが」
二人で羽を見つめた。
できることと教えられることは別らしい。
フリットウィックが近づき、トムの説明を責めることなく、ネビルの手首の角度を直した。
*
しかし、変身術まで簡単にできるとは思わなかった。
最初はマッチ棒を針に変えるという原作で見た課題だった。
説明は、浮遊呪文よりずっと長かった。
形だけ似ていればよいわけではない。色や硬さも含めて、何へ変えるのかをはっきり理解する必要があるらしい。
トムは配られた見本の針を指でつまみ、光へかざした。
うーん。細い金属で、多分鉄でできていて、元素記号はFeで、先が尖りってて、反対側には糸を通す穴がある。
マクゴナガルの説明で教わった動作を数度確かめ、そして、マッチ棒へ杖を向ける。
途端にマッチ棒の木目が消えた。
そして次の瞬間には、机の上で銀色の針が光っていた。
トムは驚いて思わず声を上げた。
それにつられてマクゴナガル先生が近寄ってくると、彼女も目を少し見開いた。
先生は手を伸ばし、針を持ち上げた。
先端を確かめ、指で曲がり具合を調べ、それから針穴を覗く。
「よくできています、ブライトさん」
そう言って、彼女は針を全員に回して見せた。
「穴まで、きちんと形になっています。皆さんも、完成した形をよく観察すること」
ラベンダーが身を乗り出した。
「もうできたの?」
「……できたみたい」
自分でも、そう答えるしかなかった。
浮かせるのは分かる。
でも、木を金属に変える練習なんて、一度もしていない。
マクゴナガルは別のマッチ棒を置いた。
「同じように、もう一度」
トムが戸惑いがちに杖を振ると、二本目もいきなり針になった。
トムは杖を見た。
濃い茶色の木。指に馴染む持ち手。
何も言わず、自分の手の中に収まっている。
うぬぼれるわけではない。
ないんだけど。
もしかして、私ってハーマイオニー以上の天才か?
原作の彼女も、最初からここまでできたわけではなかったはずだ。
大人の記憶があるから、説明を理解するのが早いのか。五年間の自主練習が効いたのか。それとも、純粋な才能なのか。
いずれにせよ、これは、かなり――嬉しかった。
*
そして、いよいよ最初の闇の魔術に対する防衛術の日が来た。
教室の中央には、机がなかった。
普段使う机は壁際へ寄せられ、椅子が五脚、その脇に並んでいる。
トムは入り口から中を覗いた。
壁に固定された本棚。太い支柱。奥には物入れへ通じる扉がある。
床には何も描かれていない。檻も、水槽も、怪しい箱もない。
よかった。
いきなり危険な生き物と対面させられる授業ではなさそうだ。
杖を握る。
明かりはつけられる。
物も浮かせられる。
変身術だって、なかなかのものだ。
防衛術でも、何かできるかもしれない。
転生者なんだ。そりゃあ才能チートがあっても罰はあたらないよな。
このまま成長して、もしか知ら私が魔法界を…
足音が近づいた。
生徒たちの会話が、自然に途切れた。
入ってきたのは、背の高い老人だった。
白い髪を後ろへ撫でつけ、襟元まで整った暗い服を着ている。
杖に体重を預けることも、壁へ手をつくこともなく、教室の中央まで歩いてきた。
背筋が、真っすぐだった。
年齢は顔に出ている。
けれど、その体は、衰えたから動きを減らしているようには見えなかった。必要のない動作を、初めから持っていないようだった。
トムは呼吸を浅くした。
この人が。
数十年、牢獄で過ごした男。
そして今は、この船と、ダンブルドアの命を守っている。
老人の目が、生徒たちを一人ずつ見た。
トムと視線が合うと、その手の中の杖へ、ごく短く落ちた。
彼は眉を上げるが、直ぐに目をそらし口を開いた。
「ゲラート・グリンデルバルドだ」
声は低く、よく通った。
「闇の魔術に対する防衛術を担当する」
紹介は、それだけだった。
「全員、杖をしまいなさい」
トムは手元を見た。
今、何と?
*
全員が杖をしまうまで、グリンデルバルドは待った。
最後にロンの手が空になると、老人は尋ねた。
「防衛術を学ぶ目的は何だ」
ラベンダーが手を上げた。
「闇の魔法から、身を守ることです」
「よろしい。では、身を守れたかどうかは、何で分かる」
ラベンダーは少し考えた。
「呪文を、防げたら?」
「一つ防いだあと、次の一つで死んだ場合は?」
彼女の口が閉じた。
トムは思わず顔を上げた。
子供相手に、随分と直接的な言い方をする。
グリンデルバルドは怒ってはいなかった。
正解でも不正解でもなく、続きを待っている。
「生き残ること、ですか」
ネビルが答えた。
「そうだ」
老人が頷いた。
「敵を倒すことではない。敵より優れた魔法を見せることでもない。君たちが、その場から生きて帰ることだ」
「ブライトくん」
「は、はい」
トムはいきなり指名を受けて、少し身じろぎした。
「君は随分と呪文の才能があるようだが……仮に私が君たちを襲う闇の魔法使いだったとして、この部屋で身を隠せる場所を、いくつ挙げられる」
「え? えっと、本棚の陰と……机の下とか、ですか?」
「観察が足りない。中央の支柱の陰、奥の物入れ、入り口脇の壁の張り出し、窓の下の収納箱の陰、それから教卓の裏」
指が動くたび、トムの視線も動いた。
入ってきたときには、危険な生物がいないことしか確かめていなかった。
「ただし、姿を隠せる場所と、攻撃を防げる場所は同じではない。薄い机の下に潜れば安全だと思うな。物入れに入るなら、そこから先へ出られるか。箱の陰なら、相手が横へ動いたときにも身を隠せるか。棚なら、倒れたときに自分が下敷きにならないか」
老人は、生徒たちを見渡した。
「何をしている。メモは?」
ロンがびくっとして、急いでノートを開いた。
トムも鞄へ手を伸ばした。
「この船での暮らしが長い者もいるのに、いつもの部屋だからと安心しているようだが、君たちは戦争下にいることを忘れるな」
羽ペンを走らせる音の中で、グリンデルバルドは続けた。
「今日はまず、身を隠せる場所への移動と、そこから離れる判断、そして機を見て出入り口から脱出するための訓練を行う」
「防御の呪文は、教わらないんですか?」
ハンナが手を上げて聞いた。
「いずれ教える。だが、初めて習う呪文で、長年人を殺してきた者の攻撃を防げると思うか」
ハンナは手を下げた。
「今日、出口の位置を覚えれば、明日には迷わずそちらへ走れる。敵が来たときは大人が対応する。君たちはできる限り安全に、迅速にその場から離れるのだ。習い始めたばかりの魔法で応戦しようなどと考えるな」
トムは、しまった杖の位置を意識した。
マッチ棒が針になったときの嬉しさを、見られていたような気がした。
「逃げられなかったら?」
今度はラベンダーが尋ねた。
「逃げるための時間と場所を作る。そのための魔法も学ぶ。だが、まずは逃げ道を見つけることだ。逃げる先を知らずに煙だけ撒いても、自分が迷う」
グリンデルバルドは、何も持っていない手を軽く開いた。
「この部屋から出る方法を挙げなさい」
*
逃げるための訓練は、そのまま何度も繰り返された。
周囲を観察する。観察し結果を共有する。そしてどうするべきか考える。
行動をきめたら合図に合わせて動く。
前が塞がれたら、別の道を選ぶ。
同じ場所へ全員で駆け込んで、後ろの人間を押し出さない。
声が出せないときのために、船の中で使う簡単なハンドサインも教わった。
開いた手のひらを見せたら、止まれ。
手のひらを下へ向けて低く押したら、姿勢を低く。
指で方向を示してから手招きしたら、こちらへ。
簡単だと思った。
実際に動き始めるまでは。
トムは前を見ていて、後ろのネビルが出した停止の合図を見落とした。
ロンは低くかがんだまま進もうとして、ラベンダーの鞄に引っかかった。
ハンナは出口へ着いてから振り返り、四人しかいないことに気づいた。
トムが、教卓の陰に取り残されていた。
「ブライトくん。そこで何を待っている」
「次の合図を……」
「道は空いている。見て判断しなさい」
なるほど。杖を振るより、難しいように感じた。
前世から集団行動というか、空気読みと言うか…こういうの苦手なんだよなぁ
呪文は一つも教わらなかったが覚えることは意外と多かった。
「まるでマグルの訓練みたいだな」
休憩に入ったとき、ロンが小さく言った。
グリンデルバルドの目が向いた。
ロンが口をつぐむ。
「そうだ」
老人は答えた。
トムは顔を上げた。
「マグルも火事から逃げる。崩れる建物から逃げる。武器を持った相手から逃げる。そのとき、杖を持っていないというだけで、彼らの判断が間違いになるわけではない」
ロンは慌てて首を振った。
「そういう意味じゃ」
「非難しているのではない。似ているという指摘は正しい」
グリンデルバルドは椅子へ腰を下ろさず、窓の前に立った。
背後を、小さな魚の群れが横切った。
「君たちは杖を得たばかりだ。だから、魔法でできることを探す。それ自体はよい。だが、それ以外の方法を忘れる必要はない」
トムの頭に、孤児院の応接室が浮かんだ。
床の本を動かそうとした。
椅子を、クラウチの杖を、何でもいいから、と。
ほとんど何もできなかった。
それでも、生きてここにいる。
最後にしたことは、魔法ではなかった。
差し出された手を取った。
「……先生も、逃げたことがあるんですか」
気づくと、トムは尋ねていた。
全員がこちらを見た。
質問の意味を考えてから、しまった、と思った。
グリンデルバルドの顔は変わらなかった。
「ある」
短い答えだった。
「逃げられなかったこともある」
トムは息を止めた。
老人の視線が、一瞬だけ、生徒たちから離れた。
「かつて、私は魔法を持たない者に、自分の計画を覆す力などないと考えていた」
部屋の空気が変わった。
教科書の説明ではなかった。
「うぬぼれていた。彼らにはなにもできないと。私の呪文を防げないし、私を武力で退けることはできない。そうやって、相手の力を自分の得意な物差しだけで測った」
トムは黙って聞いた。
「愚かな考えだった」
その言葉が、この男の口から出た。
「私を決闘で破ったのは、アルバス・ダンブルドアだ」
グリンデルバルドは続けた。
「だが、敗北へ至る道を振り返れば、彼の魔力だけでは説明できない。私が見落とした、一人のマグルの行動が勝敗を左右した」
トムの頭に、映画に登場した、丸顔の愛嬌のあるおじさんが浮かんだ。
「私が成功を確信したとき、彼は動いた。力で争えば勝てないと知りながら、別の手段を選んだ。その機転と勇気が、私の取り返せない失敗を生んだ」
誰も質問しなかった。
老人は生徒たちへ目を戻した。
「覚えておきなさい。魔法を使えることは、判断を誤らないことと同じではない。
そして、逃げることにも、勇気と知恵が要る」
トムは、しまった杖へ触れた。
数日前まで、自分がこの人から学ぶことになるとは思っていなかった。
今日の朝には、この人から強い魔法を教わるのだと思っていた。
どちらも、違った。
グリンデルバルドは懐から時計を取り出し確認するとそのまま、入り口へ向かって歩いた。
「今日はここまでだ。逃げ方を覚えれば攻める際も役に立つ。相手がどう行動するか予想ができるからな。馬鹿にしないことだ。それでは君たち。部屋へ入った際に何を確認するか、また、そこからどう脱出するか。羊皮紙六インチ分にまとめて、次の授業で提出しなさい」
扉がひとりでに開いた。
トムは、その背中を見送った。
魔法使いの優越を説き、世界を従えようとした男。
その男が、自分を敗北させたマグルの勇気を語った。
改心した、とクィレルは言っていた。
いったい、何があったのだろう。
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