俺のハリポタなんか変   作:パシフィカ

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この元闇の帝王なんか変

ゲラート・グリンデルバルド。

 

聞き間違いではなかった。

ロンも、ハンナも、ラベンダーも、ネビルの口にした名前を訂正しなかった。

落とした焼き菓子は、トムの膝で真っ二つになっていた。

 

「大丈夫?」

 

ハンナが布巾を差し出してくれた。

 

「うん。ありがとう」

全然、大丈夫ではないけれども。

グリンデルバルドだぞ。

 

ヴォルデモート以前に魔法界を揺るがした大物。

ダンブルドアのかつての友人で、後に敵となった闇の帝王。

魔法使いがマグルを支配する世界を目指した人物だったはずだ。

 

その人が、マグル生まれの子供を保護する学校で、ダンブルドアを生かす薬を作っている。人物相関図を一度、全部消したほうがいいのかもしれない。

 

「知ってるの?」

ロンに聞かれ、トムは顔を上げた。

 

「いや。長い名前だなと思って」

我ながら、ひどい返事だった。

アルバス・パーシバル・ウルフリック・ブライアン・ダンブルドアと会話した人間の言い分ではない。

 

幸い、ロンは菓子の残りを取るのに忙しかった。

 

「その先生も、ずっと船にいるの?」

 

トムは、できるだけ何でもない調子で聞いた。

 

「僕が船に来たときには、もういたよ」

ネビルが答えた。

「ダンブルドア先生とは、昔から知り合いなんだって」

「へえ。仲がいいんだ」

 

ネビルは少し考えた。

「……それは、よく分からない」

「よく言い合いしてるものね」

 

ラベンダーが口を挟んだ。

 

「廊下まで聞こえることがあるわよ」

「でも、薬は作ってくれる?」

「うん。ダンブルドア先生が飲みたがらないと、マダム・ポンフリーを呼んでくる」

 

そこだけ聞けば、気難しい老人同士の、微笑ましい話だった。

名前を伏せて聞きたかった。

 

「どうして、ここで教えることになったんだろう」

「さあ。僕も知らない。先生に聞いてみたら?」

 

ネビルが言った。

正論だったのだが……何というか、マグル生まれの子供が、ゲラート・グリンデルバルドという人物の過去を気にする理由が欲しかった。

名前を聞いただけで動揺した理由まで、説明することになっては困る。

 

     *

 

九月になると、船の暮らしにも少し慣れ、いよいよ本格的に魔法の授業が始まった。

 

海にいると、曜日は思いのほか曖昧になるが、ここで助かるのが廊下の時間割だった。その前に立つと表示が書き換わり、どの部屋でどの授業を受けるべきか教えてくれるのだ。

 

授業はおおむね、トムの想像していた魔法学校のものだった。

猫に変身したマクゴナガル先生に驚き、フリットウィック先生に合わせて呪文を大声で復唱し、ポンフリー先生の指導の下で土を作る。ただし、生徒数が少ないため、先生たちとの距離は近く、一人一人に合わせた個別指導のような状態だった。

 

中でも、クィリナス・クィレルによる魔法史の授業は意外と面白かった。

 

若い先生だった。

教科書を開くときには、まだ新しい折り目を気にするように表紙を押さえる。

けれど、一度話し始めると、年号と人名ばかりのページが、急に今の自分たちと関係のあるものに変わった。

 

「ここには、争いの原因は税の引き上げだった、と書かれていますね」

 

クィレルは黒板に、二つの数字を書いた。

 

「でも、税を上げられた人たちが、全員反乱に加わったわけではありません。

 どうしてでしょう」

 

「払える人もいたから?」

 ロンが答えた。

 

「そのとおり。それから、払うほうが、逆らうより安全だと考えた人もいました

 今の暮らしを失いたくない。これは、昔の人にもあった気持ちです

後の時代から眺めると、どうして立ち上がらなかったのかと思うことでも、その人の台所から見れば、違って見えるかもしれません」

 

正しい側と間違った側。

強い側と弱い側。

そう分ければ終わる話を、彼はそこで終わらせなかった。

 

授業の終わりには、船の小さな書架から調べ物に使える本を何冊か紹介してくれた。

その中に、近代の魔法界を扱った本があった。

 

トムは、それを借りた。

 

     *

 

次の魔法史の授業が終わったあと、トムは教卓の前に残った。

 

「先生。少し、聞いてもいいですか」

「もちろん。どこか分からなかった?」

 

クィレルは片づけかけた羊皮紙を置いた。

トムは借りた本を開き、細い紙を挟んでおいたページを示した。

 

「今の魔法界のことを知りたくて、後ろのほうも読んでみたんですけど」

 

嘘ではない。

ちゃんと読んだ。目的の名前を探して、目次から索引まで往復しただけだ。

 

「ここに、ゲラート・グリンデルバルドって。僕たちの先生と、同じ人ですか」

 

紙面の中の男は、今より若かった。

写真の下には、黒魔王という言葉があった。

 

クィレルはページを見て、それからトムを見た。

 

「同じ人です」

 

隠すでも、ごまかすでもなかった。

 

「彼はかつて、多くの支持者を集めました。魔法使いがマグルを支配するべきだと説いてね。各地で争いを起こし、マグルと魔法使いの戦争へと人々を駆り立てた。その過程で、大勢が亡くなりました」

「じゃあ、どうして、ここに?」

 

ようやく聞けた。

ただし、怖がっている子供に見える程度に、声を落とした。

 

「ダンブルドア先生に敗れたあと、彼は自身が築いたヌルメンガードという城に幽閉されました。長い年月を、そこで過ごしたんです」

 

 クィレルは椅子を引き、腰を下ろした。

 

「その間に、考えを変えた。今は、かつての行いを悔いていると聞いています」

「改心した、ということですか」

「そうですね。少なくとも、ダンブルドア先生はそう考えている」

 

 トムは、写真へ目を落とした。

 若いグリンデルバルドが、紙の外の誰かへ呼びかけていた。

 

「でも、閉じ込められていたならどうしてここに?」

 

 クィレルは少しだけ黙った。

 廊下を、誰かが走っていく音がした。続いて、走るな!と誰かが怒鳴った。

 

「ホグワーツでダンブルドア先生が敗れたあと、騎士団は、イギリスに踏みとどまれなくなりました。生き残った人たちを国外へ逃がすのを助けたのが、ホラス・スラグホーン先生です」

 

 今度は、その名前か。

 トムは口を挟まずに聞いた。

 

「以前、ホグワーツで魔法薬学を教えていた方です。教え子も知り合いも多くてね。

 国外の伝手を頼り、逃げ道をつないでくださった」

「その先生が、ダンブルドア先生の薬も?」

「できることは、してくださったそうです。

 ただ、普通の怪我ではありませんでした。

 命をつなぐだけで精いっぱいで、安全に休める場所もなかった」

 

 教卓の上で、クィレルの指が重なった。

 

「そこで、色々あって最終的にはグリンデルバルドを頼ることになった。

 ダンブルドア先生に匹敵するほど、深く魔法を知る人物です。

 危険を承知でも、ほかに望みを託せる相手がいなかったんです」

「……助けてくれたんですね」

「ええ」

 

クィレルは頷いた。

 

「この船を手に入れられたのも、彼のおかげです。

 ダームストラング専門学校との間に話をつけて、譲り受けられるようにしてくれた」

 

トムは、足元の床板を見た。

寝床も、教室も、逃げる場所も。

思っていたより、ずっと多くを、元闇の帝王から提供されていたようだ。

 

「じゃあ、グリンデルバルド先生も騎士団の一員なんですか」

「それは、少し違います」

 

クィレルは首を振った。

 

「彼は、この戦争そのものには関心を示しません。

 作戦の相談にも加わらないし、戦いに出ることもない。

 引き受けているのは、ダンブルドア先生の治療と、この船の安全を守ることです」

「授業は?」

「船の安全には、生徒が危険なときにどう行動するかも含まれる、ということでしょうね」

 

少しだけ、笑みが浮かんだ。

 

「本人に聞けば、違う答えが返ってくるかもしれませんが」

 

なるほど。

正義に目覚めて、不死鳥の騎士団へ入団したわけではないらしい。

世界を救うためでも、ヴォルデモートを倒すためでもなく、ダンブルドアを生かし、その居場所を守るためにいる。

 

それなら、少しは分かる。

分かる気がするだけで、全部納得できたわけではないけれど。

 

「怖いですか」

 

クィレルに聞かれ、トムは顔を上げた。

 

「……少し」

「本に書かれていることを、なかったことにする必要はありませんよ」

 

先生は、開かれたページへ目を向けた。

 

「助けてもらっていることと、昔したことが消えることは、別です。

 疑問に思ったら、また聞きに来てください」

 

トムは礼を言い、本を閉じた。

 

廊下へ出ると、授業を待つネビルが手を振っていた。

その向こうで、船の窓を青黒い水が流れている。

 

自分たちを隠しているのは、海だけではないのだ。

 

     *

 

上級生との触れ合いも多かった。

食卓の準備や掃除、食器の片づけは当番制で、一緒になることが多い。

教科書を借りれば、どのページで困っているのかまで知られる。

 

ある午後、トムはフレッドとジョージに挟まれ、廊下の壁へ本棚を固定する作業を手伝っていた。正確には、二人が魔法で棚を持ち上げ、トムが落ちそうな本を押さえる係だった。その隣では、双子の友人のリー・ジョーダンが、床に積まれた本を種類ごとに分けていた。

 

「右が下がってるぞ」

「そっちから見るからだ」

「本まで右へ滑ってるのは、俺の見方のせいか?」

 

リーが言うと、棚が少し傾き直った。

トムは滑ってきた一冊を、慌てて押し戻した。

 

「一年生が五人って、少ないですよね」

「多いとは言わないな」

「少ない椅子で済むのは助かる」

「そういう話じゃなくて」

 

トムが返すと、双子は同時に笑った。

 

「この二人に真面目な答えが欲しいなら、最初にそう言っておいたほうがいいぞ」

 

リーが本を拾いながら言った。

 

「それで真面目に答えるとは限らないけどな」

「おい、信用を落とすなよ」

「じゃあ上がるようなことを言ってみろよ」

 

ハハハと、トムは反応に困ってとりあえず愛想笑いを作った。

 

「同じ世代の子供はほとんどあっちのホグワーツに行っちまうしな」

 

棚が、壁の印へぴたりと収まった。

双子の片方が留め具を確かめ、もう片方がトムから本を受け取った。

 

「混血の家って、たくさんありますよね。

 そういう人たちはもっとこっちに送らないんですか?」

「親がこっちへ送ると決めなきゃ、来られないからな」

 

 リーが答えた。

 

「じゃあ、ここへ来てる人たちは、みんな家族で抵抗運動を?」

「まさか。それなら、もっと大人で混み合ってる」

「政府に逆らいたいわけじゃなくても、子供にあの授業を受けさせたくない親はいる。

 俺の親父がそうだった。血筋で友達を選べとか、誰に命令していいとか。そういうのを毎日教えられるんだぞ。さすがにそいつは違うってことで…こっちに来た。ほか、ここなら友達は自分で選べる。おかげで混血の俺は、純血のお二人様と本棚を運べてる」

 

 ジョージとフレッドは顔を見合わせて、肩をすくめた。

 

「俺は表向き、外国の学校へ送ったことになってる。

 同じ家の親戚でも、こっちへ送ったと知らないことがあるから、他人の家の事情は、あんまり外で話すなよ」

 

「はい」

 

 トムは頷いた。

 ジョージが、一冊の本を棚の隙間へ差し込んだ。

 

「それに、父さんは言ってる。あの人が魔法界をまとめたら、次はマグルだろうって」

「戦争ですか」

「父さんは、そう心配してる」

「外国と商売してる人にも、同じことを言う人がいるらしい。

 今は仕事が増えても、その先まで安心とは限らないって」

 

 マグルと戦争か…

 トムは、手元の本を見た。

 

 魔法界の中で何が起きても、マグルの街へ逃げれば関係ない。

 どこかに、まだそんな期待があった。

 逃げた先へも、戦争が来るかもしれないのだ。

 

「何だよ、難しい顔して」

 フレッドに額を軽く指で押され、トムは顔を上げた。

「その顔は、魔法史の宿題を始めてからにしろ」

「先に疲れると、損だぞ」

「ところで、その魔法史の宿題、二人とも終わったのか?」

 

 リーが尋ねた。

 双子はそろって、最後の一冊へ手を伸ばした。

 

「まずは目の前の仕事だ」

「後輩にいいところを見せないとな」

「今ので大体分かったよ」

 

 トムは少し笑った。

 最後の本を棚へ戻すと、三人は完成した仕事を満足そうに眺めた。

 

 

     *

 

そんな中、トムの魔法の勉強は、恐ろしいほど順調だった。

 

「ルーモス」

杖先に明かりが灯った。

フリットウィックが、眼鏡の奥で目を細めた。

 

「よろしい。では、そのまま保って」

 

保つ、か。難しくはなかった。

 

力がどこを通り、どこへ向かっているのか、分かる。

実際に体の中に管があるわけではない。けれど、右手を動かすときに、いちいち肘や手首へ命令を分けなくてもよいのと似ていた。

 

光を少し弱めてみる。次に少し強める。

その違いも、指先を曲げるくらいの感覚でできた。

 

「ミスターブライト、明るさを変えなくて結構ですよ」

「あ、はい」

 

遊んでいたのがばれた。

 

「ノックス」

 

光が消えた。

切り替える瞬間にも、引っかかりはなかった。

 

一方、隣のロンの杖先は、灯ったと思うとすぐに消えた。

後ろではラベンダーがバカ明るい杖を振り回し、ハンナに眩しと言われていた。

 

トムは思わず自分の杖を見た。

 

     *

 

羽を浮かせる練習も、驚くほどすんなりできた。

振って、払う。

先生の動きをよく見て、発音を確かめる。

 

「ウィンガーディアム・レビオーサ」

 

一度で羽が上がった。

 

机の上から、目の高さまで。

トムが止めようと思うと、その場に止まった。

 

右へ。左へ。ゆっくり、下へ。

 

羽は、空気に引っかかるようなこともなく、机へ戻った。

まあ、浮かせるのはね……。

 

五年間、コップを相手に似たようなことをしてきたのだ。

いきなり箒で飛べと言われたわけではない。

 

ただ、前はこんなに簡単ではなかった。

持ち上がれと念じても、落ちるときは落ちた。

少し横へ動かそうとしただけで、最初からやり直しになったこともある。

 

今は、やりたいことが、そのまま力の流れになる。

水を押し出すように力む必要も、動いてくれと祈る必要もない。

 

ネビルが自分の羽を見ながら、尋ねた。

 

「下ろすとき、急に落ちない?」

「少しずつ、力を抜くと」

「どうやって?」

 

トムは止まった。

どうやってって

それを言われると困る。

人差し指だけ動かす方法を、どうやって説明すればいいのだ。

 

「えっと……全部やめるんじゃなくて、ちょっとずつ」

「うん。その、ちょっとずつが」

 

二人で羽を見つめた。

 

できることと教えられることは別らしい。

フリットウィックが近づき、トムの説明を責めることなく、ネビルの手首の角度を直した。

 

     *

 

その上、変身術まで簡単にできるとは思わなかった。

最初はマッチ棒を針に変えるという原作で見た課題だった。

 

説明は、浮遊呪文よりずっと長かった。

形だけ似ていればよいわけではない。

色や硬さも含めて、何へ変えるのかをはっきり理解する必要があるらしい。

 

トムは配られた見本の針を指でつまみ、光へかざした。

うーん。細い金属で、多分鉄でできていて、元素記号はFeで、先が尖りってて、反対側には糸を通す穴がある。

 

マクゴナガルの説明で教わった動作を数度確かめ、そして、マッチ棒へ杖を向ける。

 

途端にマッチ棒の木目が消えた。

そして次の瞬間には、机の上で銀色の針が光っていた。

 

トムは驚いて思わず声を上げた。

それにつられてマクゴナガル先生が近寄ってくると、彼女も目を少し見開いた。

 

先生は手を伸ばし、針を持ち上げた。

先端を確かめ、指で曲がり具合を調べ、それから針穴を覗く。

 

「よくできています、ブライトさん」

 

そう言って、彼女は針を全員に回して見せた。

 

「穴まで、きちんと形になっています。

 皆さんも、完成した形をよく観察すること」

 

ラベンダーが身を乗り出した。

 

「もうできたの?」

「……できたみたい」

 

自分でも、そう答えるしかなかった。

浮かせるのは分かる。

でも、木を金属に変える練習なんて、一度もしていない。

 

マクゴナガルは別のマッチ棒を置いた。

 

「同じように、もう一度」

トムが戸惑いがちに杖を振ると、二本目もいきなり針になった。

 

トムは杖を見た。

濃い茶色の木。指に馴染む持ち手。

何も言わず、自分の手の中に収まっている。

 

うぬぼれるわけではない。

ないんだけど。

 

もしかして、私ってハーマイオニー以上の天才か?

 

原作の彼女も、最初からここまでできたわけではなかったはずだ。

大人の記憶があるから、説明を理解するのが早いのか。五年間の自主練習が効いたのか。それとも、純粋な才能なのか。

 

いずれにせよ、これは、かなり――嬉しかった。

 

     *

 

そして、いよいよ最初の闇の魔術に対する防衛術の日が来た。

教室の中央には、机がなかった。

 

普段使う机は壁際へ寄せられ、椅子が五脚、その脇に並んでいる。

 

トムは入り口から中を覗いた。

壁に固定された本棚。太い支柱。奥には物入れへ通じる扉がある。

床には何も描かれていない。檻も、水槽も、怪しい箱もない。

 

よかった。

いきなり危険な生き物と対面させられる授業ではなさそうだ。

 

杖を握る。

 

明かりはつけられる。

物も浮かせられる。

変身術だって、なかなかのものだ。

 

防衛術でも、何かできるかもしれない。

転生者なんだ。そりゃあ才能チートがあっても罰はあたらないよな。

このまま成長して、もしかしたら私が魔法界を…

 

足音が近づいた。

生徒たちの会話が、自然に途切れた。

入ってきたのは、背の高い老人だった。

 

白い髪を後ろへ撫でつけ、襟元まで整った暗い服を着ている。

杖に体重を預けることも、壁へ手をつくこともなく、教室の中央まで歩いてきた。

 

背筋が、真っすぐだった。

 

年齢は顔に出ている。

けれど、その体は、衰えたから動きを減らしているようには見えなかった。必要のない動作を、初めから持っていないようだった。

 

トムは呼吸を浅くした。

 

この人が。

 

数十年、牢獄で過ごした男。

そして今は、この船と、ダンブルドアの命を守っている。

 

老人の目が、生徒たちを一人ずつ見た。

トムと視線が合うと、その手の中の杖へ、ごく短く落ちた。

彼は眉を上げるが、直ぐに目をそらし口を開いた。

 

「ゲラート・グリンデルバルドだ」

 

 声は低く、よく通った。

 

「闇の魔術に対する防衛術を担当する」

 

 紹介は、それだけだった。

 

「全員、杖をしまいなさい」

 

 トムは手元を見た。

 

 今、何と?

 

     *

 

 全員が杖をしまうまで、グリンデルバルドは待った。

 

 最後にロンの手が空になると、老人は尋ねた。

 

「防衛術を学ぶ目的は何だ」

 

 ラベンダーが手を上げた。

 

「危険から、身を守ることです」

 

「よろしい。では、身を守れたかどうかは、何で分かる」

 

 ラベンダーは少し考えた。

 

「闇の呪文を、防げたら?」

 

「呪文以外の危険は?」

 

 彼女の口が閉じた。

 

 トムは思わず顔を上げた。

 子供相手に、随分と直接的な言い方をする。

 

 グリンデルバルドは怒ってはいなかった。

 正解でも不正解でもなく、続きを待っている。

 

「生き残ること、ですか」

 

 ネビルが答えた。

 

「そうだ」

 

 老人が頷いた。

 

「敵を倒すことではない。敵より優れた魔法を見せることでもない。

 君たちが、その場から生きて帰ることだ」

 

「ブライトくん」

「は、はい」

 

 トムはいきなり指名を受けて、少し身じろぎした。

 

「君は随分と呪文の才能があるようだが……仮に私が君たちを襲う闇の魔法使いだったとして、この部屋で身を隠せる場所を、いくつ挙げられる」

 

「え? えっと、本棚の陰と……机の下とか、ですか?」

 

「観察が足りない。中央の支柱の陰、奥の物入れ、入り口脇の壁の張り出し、窓の下の収納箱の陰、それから教卓の裏」

 

 指が動くたび、トムの視線も動いた。

 入ってきたときには、危険な生物がいないことしか確かめていなかった。

 

「ただし、姿を隠せる場所と、攻撃を防げる場所は同じではない。 

 薄い机の下に潜れば安全だと思うな。物入れに入るなら、そこから先へ出られるか。

 箱の陰なら、相手が横へ動いたときにも身を隠せるか。

 棚なら、倒れたときに自分が下敷きにならないか」

 

 老人は、生徒たちを見渡した。

 

「何をしている。メモは?」

 

 ロンがびくっとして、急いでノートを開いた。

 トムも鞄へ手を伸ばした。

 

「この船での暮らしが長い者もいるのに、いつもの部屋だからと安心しているようだが…

 君たちは戦争下にいることを忘れるな」

 

羽ペンを走らせる音の中で、グリンデルバルドは続けた。

 

「今日はまず、身を隠せる場所への移動と、そこから離れる判断、そして機を見て出入り口から脱出するための訓練を行う」

 

「防御の呪文は、教わらないんですか?」

 

 ハンナが手を上げて聞いた。

 

「いずれ教える。だが、初めて習う呪文で、長年人を殺してきた者の攻撃を防げると思うか」

 

 ハンナは手を下げた。

 

「今日、出口の位置を覚えれば、明日には迷わずそちらへ走れる。

 敵が来たときは大人が対応する。君たちはできる限り安全に、迅速にその場から離れるのだ。習い始めたばかりの魔法で応戦しようなどと考えるな」

 

 トムは、しまった杖の位置を意識した。

 マッチ棒が針になったときの嬉しさを、見られていたような気がした。

 

「逃げられなかったら?」

 

 今度はラベンダーが尋ねた。

 

「逃げるための時間と場所を作る。そのための魔法も学ぶ。

 だが、まずは逃げ道を見つけることだ。逃げる先を知らずに煙だけ撒いても、自分が迷うことになる」

 

 グリンデルバルドは、何も持っていない手を軽く開いた。

 

「この部屋から出る方法を挙げなさい」

 

     *

 

 逃げるための訓練は、そのまま何度も繰り返された。

 

 周囲を観察する。観察した結果を共有する。そしてどうするべきか考える。

 行動をきめたら合図に合わせて動く。

 前が塞がれたら、別の道を選ぶ。

 同じ場所へ全員で駆け込んで、後ろの人間を押し出さない。

 声が出せないときのために、船の中で使う簡単なハンドサインも教わった。

 開いた手のひらを見せたら、止まれ。

 手のひらを下へ向けて低く押したら、姿勢を低く。

 指で方向を示してから手招きしたら、こちらへ。

 

 簡単だと思った。

 実際に動き始めるまでは。

 

 トムは後ろを確認して、前のネビルが出した停止の合図を見落とした。

 ロンは低くかがんだまま進もうとして、ラベンダーの鞄に引っかかった。

 ハンナは出口へ着いてから振り返り、四人しかいないことに気づいた。

 

 トムが、教卓の陰に取り残されていた。

 

「ブライトくん。そこで何を待っている」

「次の合図を……」

「道は空いている。見て判断しなさい」

 

 なるほど。杖を振るより、難しいように感じた。

 前世から集団行動というか、空気読みと言うか…こういうの苦手なんだよなぁ

 

 呪文は一つも教わらなかったが覚えることは意外と多かった。

 

「まるでマグルの訓練みたいだな」

 休憩に入ったとき、ロンが小さく言った。

 

 グリンデルバルドの目が向いた。

 ロンが口をつぐむ。

 

「そうだ」

 老人は答えた。

 

 トムは顔を上げた。

 

「マグルも火事から逃げる。崩れる建物から逃げる。

 武器を持った相手から逃げる。

 そのとき、杖を持っていないというだけで、彼らの判断が間違いになるわけではない」

 

 ロンは慌てて首を振った。

 

「そういう意味じゃ」

「非難しているのではない。似ているという指摘は正しい」

 

 グリンデルバルドは椅子へ腰を下ろさず、窓の前に立った。

 背後を、小さな魚の群れが横切った。

 

「君たちは杖を得たばかりだ。だから、魔法でできることを探す。

 それ自体はよい。だが、それ以外の方法を忘れる必要はない」

 

 トムの頭に、孤児院の応接室が浮かんだ。

 床の本を動かそうとした。

 椅子を、クラウチの杖を、何でもいいから、と。

 

 ほとんど何もできなかった。

 

 それでも、生きてここにいる。

 最後にしたことは、魔法ではなかった。

 

 差し出された手を取った。

 

「……先生も、逃げたことがあるんですか」

 

 気づくと、トムは尋ねていた。

 

 全員がこちらを見た。

 質問の意味を考えてから、しまった、と思った。

 

 グリンデルバルドの顔は変わらなかった。

 

「ある」

 

 短い答えだった。

 

「逃げられなかったこともある」

 

 トムは息を止めた。

 

 老人の視線が、一瞬だけ、生徒たちから離れた。

 

「かつて、私は魔法を持たない者に、自分の計画を覆す力などないと考えていた」

 

 部屋の空気が変わった。

 教科書の説明ではなかった。

 

「うぬぼれていた。彼らにはなにもできないと。私の呪文を防げないし、私を武力で退けることはできない。そうやって、相手の力を自分の得意な物差しだけで測った」

 

 トムは黙って聞いた。

 

「愚かな考えだった」

 

 その言葉が、この男の口から出た。

 

「私を決闘で破ったのは、アルバス・ダンブルドアだ」

 

 グリンデルバルドは続けた。

 

「だが、敗北へ至る道を振り返れば、彼の力だけでは説明できない。

 私が見落とした、一人のマグルの行動が勝敗を左右した」

 

トムの頭に、映画に登場した、丸顔の愛嬌のあるおじさんが浮かんだ。

 

「私が成功を確信したとき、彼は動いた。

力で争えば勝てないと知りながら、別の手段を選んだ。

その機転と勇気が、運命を覆し、私の取り返せない失敗を生んだ」

 

誰も質問しなかった。

老人は生徒たちへ目を戻した。

 

「覚えておきなさい。魔法を使えることは、判断を誤らないことと同じではない。

 そして、逃げることにも、勇気と知恵が要る」

 

トムは、しまった杖へ触れた。

 

数日前まで、自分がこの人から学ぶことになるとは思っていなかった。

今日の朝には、この人から強い魔法を教わるのだと思っていた。

どちらも、違った。

 

グリンデルバルドは懐から時計を取り出し確認するとそのまま、入り口へ向かって歩いた。

 

「今日はここまでだ。逃げ方を覚えれば攻める際も役に立つ。

 相手がどう行動するか予想ができるからな。馬鹿にしないことだ。

 それでは君たち。部屋へ入った際に何を確認するか、また、そこからどう脱出するか。

 羊皮紙六インチ分にまとめて、次の授業で提出しなさい」

 

扉がひとりでに開いた。

 

トムは、その背中を見送った。

魔法使いの優越を説き、世界を従えようとした男。

その男が、自分を敗北させたマグルの勇気を語った。

 

改心した、とクィレルは言っていた。

いったい、何があったのだろう。




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