十月になると、時間割が信用できなくなった。
正確には、廊下に掛かった時間割は相変わらず正直だったのだが、昨日の夕方に見たものと、今朝見たものと、朝食を終えてから見たものが違うのである。
その日もトムが立ち止まると、板の上の文字がするすると並び直された。
一限目、天文学。二限目、天文学。三限目、天文学。四限目、天文学。五限目、天文学。六限目、魔法薬学。七限目、天文学。八限目、天文学。
「……この船は宇宙にでも行くつもりか?」
隣でロンが呆れたように言った。
トムも、あまりにやけくそな並び方に、時間割を調整している誰かが途中で匙を投げたのではないかと思った。
船のホグワーツは、普段は海面のはるか下を進んでいる。
昼でも夜でも星は見えないので、天文学といっても望遠鏡を覗く機会はめったになかった。授業の半分は教科書や星図を広げて星の名前と位置を覚えることで、時にはそれにまつわる伝承や象徴についての話も加わった。残りの半分は、ほとんど数学と呼んで差し支えない代物だった。十一歳の子供にとって、魔法学校で一日中受けたい授業ではない。
「魔法薬学が生き残っただけましね」
ハンナが言うと、その目の前で六限目の文字が震え始めた。五人はそろって口を閉じ、板を見つめたが、幸い、文字はしばらく揺れただけで元の場所へ落ち着いた。
「脅かさないでよ」
ラベンダーが板を小突いた。時間割は何も答えなかった。
もっとも、この奇妙な時間割は、先生たちが怠けた結果ではない。
しばらく船で休んでいた大人たちが、入れ替わり立ち替わり任務へ出るようになったのだ。朝食にいた人が夕食にはおらず、翌朝、濡れた外套を腕にかけて戻ってくることもあれば、何日も空席が続くこともあった。授業と重なれば別の大人が代わったが、それでも手が足りなくなると、実技は担当の先生がいる日にまとめられ、その空白を天文学が埋めていった。
「トレローニー先生は、任務に出ないのかしら」
「さあ。でも、あの人は、何というか……戦いには向いてなさそうじゃない?」
ロンが肩をすくめると、ラベンダーはすぐに眉を寄せた。
「それ、どういう意味?」
「そのまんまの意味だよ。この前、船が揺れただけで、自分の教科書を頭にかぶせてただろ」
「本棚から本が落ちてきたのよ。あなたなら、頭で受け止めるわけ?」
「そうじゃなくて、あの眼鏡で雨の中を飛べるのかなって」
「眼鏡のせいなら、パーシーだって飛べないことになるじゃない」
ハンナが二人の間に入り、そろそろ行かないと教室で同じ議論をすることになる、と指摘した。トムは鞄を持ち直しながら、ラベンダーには悪いが、内心ではロンの意見に頷いていた。
シビル・トレローニーは、厚い眼鏡の奥で目を大きく見開き、何枚もの薄い布と首飾りに埋もれた、ほっそりした魔女だった。歩くたびに腕輪が鳴るので、姿を見る前に近づいてきたことが分かる。
原作では自分でも制御できない、凄まじい予言の力を持つ魔女だった。
彼女は三年生以上の占い学と、一、二年生の天文学を兼任している。
トムの記憶にある原作の彼女は、もっと気軽に誰かの死を予告する人物だった。
しかし、こちらではそんなことを言い出さない。実際に大人が帰ってこなくなる学校で、子供の顔を見るたびに不吉な予言をするのは、さすがに憚られるのかもしれなかった。ただし、不幸の兆候に見えるような小さな出来事には敏感で、いちいち反応しては、どうすれば災いを避けられるか、ぶつぶつと呟いていた。
授業そのものが面白いかといえば、正直、そうでもない。
教科書を順に読み上げ、例題を説明し、残りの時間で演習をさせるという形式が多かった。質問をされてもすぐには答えられないことが多く、そのたびに自分のノートを確かめていた。
それでも、分からない子をそのままにしておこうとはしなかった。
ネビルが計算を間違えると、休み時間まで残って同じ星図を覗き込み、ようやく正しい数字が出たときには、本人より嬉しそうに頷いた。
人手不足で駆り出されているのだろう。
前の人生の記憶があるトムには、その苦労が少し分かった。
八時間のうち七時間を一緒に過ごしたいかどうかは別として、人間としては嫌いになれない先生だった。
*
その日の午前中の授業の最後は、小テストだった。
問題は簡単な座標計算で、前の人生では成人だったトムにとっては、計算そのものよりも羽ペンで数字を綺麗に書くほうが難しかった。半分ほどの時間で見直しまで終え、答案を差し出すと、トレローニーは眼鏡をずり上げながら一通り目を通した。
「ええ、よくできていますね。では、あなたは先に昼食へ行っておいでなさい」
トムは礼を言い、鞄を取りに戻った。ロンが沈みかけた船から一人だけ脱出する人間を見るような目を向けてきたが、気づかないふりをした。友情のために空腹を我慢しても、彼の計算が早く終わるわけではない。
食堂を兼ねる広間には、まだほとんど人がいなかった。
トムがスープにパンを浸していると、食器を持ったパーシー・ウィーズリーとクィレルが入ってきた。
「ここに座っても構わないかい?」
パーシーが尋ね、トムが頷くと、二人は向かいと隣へ腰を下ろした。
パーシーは皿を置く前に、机の上のパン屑をさっと払い、自分の鞄を椅子の脚へ寄せた。赤い髪はきちんと整えられ、角のそろった本が鞄から覗いている。
眼鏡の奥の目つきも、姿勢も、厳しそうなオーラを帯びていた。
双子の兄だと聞くたび、トムは血縁とは不思議なものだと思った。
原作でも、優秀な学生だったはずだ。上級生の中のハーマイオニーといってもよいくらいで、その後は魔法省で働き、家族やダンブルドアと対立した。最後には戻ってきたと記憶しているものの、そこへ至るまでには随分と長い回り道をした人物だった。
ただ、今のトムにとっては、勉強でたびたび世話になる、ありがたい先輩だった。
規律を重んじ、少し融通が利かないのは確かだったが、双子が言うほど杓子定規ではない。夜中に宿題をしていて叱られたときも、翌日には、早く片づけるための参考書を貸してくれた。
「今日は早いですね。授業はもう終わりましたか」
クィレルに聞かれ、トムは小テストを先に提出したのだと答えた。
「なるほど。ほかの先生方からも聞いていますよ。とてもよくできるそうですね」
トムは少し照れた。十一歳の子供に交じって、前世では成人男性だった人間が勉強しているのだ。ここでつまずいたら、恥ずかしいどころの話ではない。
「低学年の頃のパーシーを思い出しますね。分からない箇所に全部印をつけて、質問に来たでしょう。こちらも、いい加減には答えられなかった」
パーシーは照れたように眼鏡を押し上げたが、すぐに視線を皿へ落とした。
「……でも、どれだけ勉強しても、今のイギリスでは正式な学歴として扱われないんですよね。この学校そのものが、存在を認められていないんだから」
トムはパンを持つ手を止めた。
褒められたあとに続く言葉としては、思いがけないものだった。
「外国へ行くとかは、できないんですか?」
「ちょうど今、先生とその話をしていたんだ。外国で受けられる資格試験をいろいろとね。でも、勉強したからといって、すぐ受けさせてもらえるわけじゃない。身元を証明する書類も、推薦も、向こうで暮らすお金も要る」
パーシーはフォークで皿の端のジャガイモを寄せ、どこか思い悩んでいる様子だった。
「ここを出ても、犯罪者として追われていたら、まともな仕事を探すだけで一苦労だろう」
トムはスプーンを置いた。
それは、考えないようにしていたことだった。学校に着いた。魔法を習える。だから、その先も何とかなるような気がしていたが、入学しただけで将来の問題まで片づいたわけではない。
「……ずっと、この船で暮らすわけにもいかないですよね」
「そうだよ。父さんたちは、今をしのぐことばかり考えている。もちろん、それが大事なのは分かる。でも、僕たちには、その先があるんだ」
パーシーの声は硬かった。
クィレルは少しの間、彼を見ていたが、やがて食器を置いた。
「ウィーズリー家は純血の家です。今の政府に従えば、少なくとも、話を聞いてもらえる余地はあるでしょう。君ほどの成績と能力があれば、魔法省で責任のある仕事に就く道も、ないとは言えません」
トムは驚いて先生の顔を見た。冗談のようには聞こえなかったし、クィレルも、自分がまずいことを言ったとは思っていないようだった。
「お父さんの選んだ道を、君も必ず選ばなければならないわけではありません。将来をどうするかは、君自身が考えるべきことです」
それからトムの表情に気づいたらしく、こちらへ体を向けた。
「もちろん、マグル生まれの君たちへの扱いが正しいと言っているのではありませんよ。生まれだけを理由に自由を奪うのは、間違っています。ただ、外から反対し続けるだけでなく、パーシーのような人が中へ入り、変えられる立場を目指すという選択もある、という話です」
「中から……ですか」
「名前を言ってはいけないあの人は、恐ろしい魔法使いです。しかし、彼も初めから、今の地位にいたわけではない。かつてはホグワーツで学ぶ、一人の学生でした。今の学生の中から、彼を上回る知識や力を身につける者が現れないと、どうして言い切れるでしょう」
静かな口調だった。それだけに、トムには妙な迫力が感じられた。パーシーは顔を上げ、先生を見ていた。自分にも道があると、ようやく誰かに言ってもらえたような表情だった。
「でも、中に入れてもらうときに、何を頼まれるんでしょう」
トムの口から、言葉が出た。二人がこちらを向く。
「たとえば、お父さんがどこにいるか教えろとか。そう言われても、断れるんですか?」
パーシーの指がフォークを握り直した。
「僕がそんなことをするわけないだろう」
「先輩がしたいかどうかじゃなくて……向こうが、何をさせようとするかです。入ってからじゃ、嫌だからやめるって言えないかもしれませんし」
「じゃあ、ここで何年でも待っていろって言うのかい?」
声が急に大きくなり、トムは口を閉じた。
「僕だって、何も考えていないわけじゃない。父さんたちが危険なことをしているのも分かってるし、助けてもらった人がいることだって知ってる。でも、ここにいれば、努力がちゃんと認められるのか?」
クィレルが名前を呼びかけたが、パーシーは首を振った。
「先生だって、学生の頃は優秀だったのに。勉強ができるからって、周りが認めてくれたわけじゃないでしょう。なじめなくて、陰で笑われて、嫌がらせをされて――僕と同じです」
最後の言葉は、ほとんど一息に出た。
「ダンブルドア先生は、誰もが公平に扱われるべきだとおっしゃる。でも、ふざけるのが上手な人間が好かれて、規則を守れと言うほうが嫌われる。勉強しているだけで、点数稼ぎだとか、先生に気に入られたいんだとか言われる。それで、僕たちは正しい側にいるはずなのに、僕たちの方が我慢しろって?」
トムは返す言葉を探した。成績がよいことと、周囲に好かれることは、確かに同じではない。けれど、だから嫌がらせをされても仕方ない、ということにもならなかった。
パーシーが今訴えているのは、魔法省の採用制度だけの話ではない。
船のホグワーツでは自然といわゆる「グリフィンドール気質」の者が集まる傾向がある。原作ですら少し寮の空気感で浮いていた彼だ。ここで窮屈を覚えるその気持ちまで否定するのは、違う気がした。
「努力を笑われるのは、嫌だと思います。でも、先輩が教えてくれたことは、僕には本当に役に立ってます」
パーシーは何か言いかけた。そこへ廊下から大勢の足音が近づき、広間の扉が開いた。午前の授業を終えた生徒たちが、問題の答えや昼食の献立について話しながら入ってきた。
パーシーは急に口をつぐんだ。人の増えていく広間を見て、椅子を引いた。
「……すまない。君に話すことじゃなかった」
食べかけの皿と鞄を取り、彼は離れた席へ移っていった。
トムが見送っていると、クィレルが小さく息をついた。
「すみません。国外の試験について、少し話すつもりだったのですが……君にも役に立つ話だと思ったものですから」
「先生は、本当にパーシーが魔法省へ行ったほうがいいと思ってるんですか」
クィレルは、すぐには答えなかった。
「選べる道が一つしかないと思いながら勉強するのは、つらいことです。だから、ほかの可能性もあると伝えたかった。ただ、君の言う危険も、考えなければなりませんね」
彼はパーシーの座ったほうを見た。
「この話を、君に受け止めさせるべきではありませんでしたね。すみません」
トムは首を振ったものの、すっきりとはしなかった。社会に出れば、優秀だからというだけで希望の仕事を任されるわけではない。まして、相手はヴォルデモートだ。入口でどんな約束をさせられるかも分からない場所へ、将来の改革を当てにして入っていくのは、あまりに楽観的に思えた。
それを、クィレルが分からないとも思えなかった。
原作での彼の末路を知るトムは、そのことに、腹の底が冷えるような心地がした。
ロンたちが皿を持って近づいてきたので、トムは自分の鞄をどけた。小テストはどうだったと聞くと、ロンは「先に出たやつには教えない」と答えた。そのいつもどおりの不機嫌さに、トムは少しだけ救われた。
*
昼食のあと、六限目の魔法薬学は、リリーが代わりに教えると分かった。
ロンは天文学でなかったことだけで満足したらしく、今朝から初めて、時間割に文句を言わずに教室へ向かった。
事件は、おできを治す薬の調合実習中に起きた。
「火を強くすれば、早くできるわけじゃありません」
リリーはネビルの鍋の下を覗き込んだ。
「今は、泡が縁まで上がらない程度。そう、それくらい」
あっちはまだ時間がかかりそうだ。
トムは刻んだ材料を秤で量りながら、そう思った。
魔法薬学は、トムが前世の化学実験に抱いていたイメージとは違った。
レシピどおりに分量を揃えれば、必ず同じものができるわけではない。
材料が帯びる魔力の強弱や、扱うときの気まぐれな反応まで影響するため、素材の選定や下処理も重要だった。
原作のスネイプとは異なり、リリーは生徒一人ひとりの手順を丁寧に確認してから、次の作業へ進ませていた。
そんなとき、教室の壁を銀色の光が通り抜けた――それは猫の形をしていた。
猫は椅子の間を音もなく進み、リリーの前で軽やかに教卓へ跳び乗った。目の周りには、眼鏡を思わせる模様があった。その口から、マクゴナガルの声が聞こえたが、低すぎてトムの位置からは内容までは分からなかった。
リリーは教卓へ身を寄せ、聞き終えると短く頷いた。
「分かりました」
すると銀色の猫は光の筋になって空気に溶けていった。
リリーは杖を振って五つの鍋の火を消し、材料の皿を卓の中央へ寄せた。
その表情から、授業中の柔らかさがなくなっていた。
「授業を中断します。全員、広間へ移動して。荷物は置いていって構いません」
「どうしたんですか?」
ハンナが尋ねると、リリーはもう扉を開けながら答えた。
「これから船が緊急浮上します。廊下では手すりにつかまって。
広間に着いたら、先生の指示があるまで、そこにいること」
「先生は?」
「甲板へ行きます。マクゴナガル先生から連絡が来たの。ネビル、先頭をお願い」
ネビルは頷き、教室を出た。
トムが続こうとすると、リリーは一瞬だけ、その肩へ手を置いた。
「みんなと離れないでね」
何を聞く間もなく、彼女は反対側の廊下へ歩き出した。
廊下はすでに、わずかに傾いていた。ネビルがハンナの肩を支え、ロンが壁にぶつかりかけて手すりをつかむ。トムも手を伸ばし、冷たい金属を握った。
「いつも、こうなの?」
「こんなに急なのは、あまりない。前はもう半年くらい前だったと思う」
ネビルは角の先を確かめ、進んでいいというように手を動かした。
トムは後ろを振り返った。ラベンダーも来ている。
その後ろの教室からは上級生たちが出てきて、同じ方向へ向かっていた。
走り出したくなったが、前の人間を押したところで廊下は広くならない。
トムは手すりを離さず、前との間隔を保って進んだ。
広間の入り口には、パーシーが立っていた。
「奥へ進んで。出入り口を塞がないように。窓からも離れるんだ。
一年生は全員いるかい?」
「五人、います」
トムが答えると、パーシーはすぐ頷き、空いている長椅子を示した。
昼食のときの不満そうな顔は、どこにもなかった。
彼は後ろから来た生徒にも声をかけ、荷物を通路に置こうとした子には、卓の下へ入れるよう指示している。
1年生の五人が腰を下ろした直後、船が大きく持ち上がった。
胃だけが下に残されたような気がして、トムは卓の縁をつかんだ。
誰かが小さく叫び、床に固定された卓が低くきしんだ。
窓の外を真っ白な泡が流れ、それが突然途切れると、暗い空が現れた。
激しい雨が窓を叩いた。海の中では、どれほど水に囲まれていても静かだったのに、今は雨粒の一つ一つが船を殴りつけているようだった。
窓いっぱいに波の斜面がせり上がり、船が傾くと、また黒い空が見えた。
「座ったままで!」
パーシーの声とほとんど同時に、雷が光った。
――空に、人がいた。
一本や二本ではなかった。
十数本の箒が雨の中で交差し、赤い光を避けた影の下へ、別の影が回り込んでいった。箒の尾が火花を散らし、誰かが急降下したところで雷鳴が轟き、窓が震えた。
「誰が、こっちの人?」
ラベンダーが小声で尋ねたが、誰も答えられなかった。
次の閃光で、二人の人間を乗せた、空飛ぶオートバイが見えた。
前の人間が後ろの人間を腕で支えているらしく、追手へ杖を向けようとするたびに、オートバイは危なっかしく傾いた。
甲板へ続く階段のほうで扉が開き、足音が駆け上がっていった。しばらくして、窓の外をリリーの赤い髪が横切った。箒で舞い上がった彼女の後ろにフリットウィックとクィレルが続き、教室で見るのとはまるで違う速さで、オートバイへ近づいていく。
フリットウィックが杖を振ると、追手の一人が大きく進路を変えた。
リリーがその隙間へ入り、オートバイから落ちかけた男へ手を伸ばした。
しかし、その瞬間、波が窓を覆った。
トムは思わず立ち上がりかけた。
隣からネビルが袖をつかみ、目が合うと、何も言わずに首を振った。
トムは座り直した。
杖を持っていても、窓へ張りついても、今は何もできない。
分かっているのに、外が見えない数秒が、ひどく長く感じられた。
最初に戻ってきたのは、半巨人のハグリッドだった。
大きな体から雨水を滴らせ、近寄った上級生へ何かを言うと、壁際の頑丈な長椅子へ腰を下ろした。
そのあとに、頬から血を流したフリットウィックが続いた。すぐ後ろでは、小柄な男を載せた担架が宙を滑っていた。リリーが男の肩を支え、クィレルが杖で担架を導いていた。
「こちらへ!」
マダム・ポンフリーの声が響いた。広間の端の卓から食器がまとめて浮き上がり、代わりに白い布が広がった。男の顔を見て、医務室まで運ぶ時間さえ惜しいのだと分かった。皮膚は灰色がかり、濡れた髪が額に貼りついていた。口元だけが、呼吸のたびにかすかに動いている。
「帰還者は全員、船内です!」
リリーが廊下へ叫び、そのまま壁へ手をついた。
袖から赤い水が滴ったが、本人はそれを見る余裕もないようだった。
背後で、船が震えた。波にぶつかったときとは違う、硬い音だった。
トムが窓へ顔を向けると、箒に乗った数人の魔法使いが、黒い外套をなびかせながら船へ近づいてきた。彼らの杖先から、甲板にいる人々を狙って緑色の閃光が走った。
「……おい、あそこ!」
ロンが何かを見つけ、かすれた声を上げた。
彼の視線を追うと、窓の斜め向こう、船縁へ張り出した甲板に、老人が立っていた。
――ゲラート・グリンデルバルドだ。
足を開いて踏ん張ることも、手すりにつかまることもなく、彼はまっすぐに立っている。波で船が傾いても、そこだけ床が動いていないようだった。
敵の杖先が光った。老人が手首を動かすと、窓の外の雨が横へ払われ、いくつかの人影が箒ごと弾かれて視界から消えた。
別の方向からも閃光が飛んできたが、老人が杖を払うと、甲板の端に積まれた木箱が宙へ跳ね上がった。呪文は箱を直撃し、砕けた木片が海へ降り注いだ。
グリンデルバルドは、一歩も動かなかった。
残った人影が急に向きを変えると、その箒の先を細い光がかすめた。敵は高度を失い、波に触れる寸前で立て直して遠ざかっていったが、老人は追わず、次に近づいてくる者がいないか見ているだけだった。
トムは、自分の指が長椅子の縁に食い込んでいることに気づいた。
今は、ただ、あの人がこちら側にいることがありがたかった。
「窓から離れなさい」
びしょ濡れのマクゴナガルが広間へ入ってきた。
「これから再び潜ります。しっかりつかまっていなさい。
動ける人は、怪我人のために場所を空けるように」
生徒たちはすぐに反応した。
トムたちは荷物を片づけて奥へ移り、怪我人の周りを空けた。
上級生たちは先生の指示を受け、湯や清潔な布、包帯を用意し始めた。
やがて海が窓を覆い、激しい雨音が途絶えた。
*
「ダング。動かないで」
リリーが、白い布の上の男の肩を押さえた。
トムはその様子をこっそり窺いながら、そのあまり馴染みのない呼び名を頭の中で繰り返した。原作に登場した人物だろうか。
男の指が濡れた上着の中を探った。ポンフリーが「今は動かないで!」と叱ったが、彼は首を振り、油布を紐で縛った小さな包みを取り出した。
「……マクゴナガル」
「ええ。ここにいます」
マクゴナガルが傍らへ膝をつくと、男は包みを差し出した。指が動かなくなったのか、紐へ引っかかったまま離れず、彼女が一本ずつそっと外してやった。
「持ってきた」
「確かに受け取りました」
「……今度のは、安くねえぞ」
男の口元が歪んだ。笑ったのだと、トムには少し遅れて分かった。
「請求書なら、あとで受け取ります」
マクゴナガルの声は少し震えていた。包みを握る手には、力がこもっていた。
「ダンブルドアに……」
「届けます。必ず」
男は目を閉じた。
ポンフリーが繰り返し男の耳元で呼びかけ、リリーが魔法薬の瓶を開け、クィレルが包帯を差し出した。トムには、使われている呪文も薬も分からなかった。ただ、先生たちの動きが早くなり、それから、一つずつ止まっていくのが見えた。
「……ポピー」
マクゴナガルが呼んだ。ポンフリーは答えず、男の胸へ当てた杖を動かさなかった。
長い沈黙のあと、彼女はようやく、ゆっくりと杖を下ろした。
誰も、すぐには泣かなかった。
外套から滴る水が卓の下に小さな水たまりを作り、リリーが男の襟元を整えた。
マクゴナガルが乾いた布を顔まで引き上げると、ハグリッドが立っているのが見えた。
濡れた髭をそのままにして、帽子を握りつぶしていた。大きな手が上着のポケットへ動きかけ、中で瓶が小さく鳴った。彼はそこで手を止め、帽子を両手で握り直した。
「……いつも、ろくでもねえ面倒ごと、持ってきやがって」
誰に聞かせるでもない声だった。
その先は続かず、ハグリッドは顔を伏せた。
マクゴナガルが立ち上がり、広間を見渡した。
「マンダンガス・フレッチャーは、私たちの仲間でした。
今日、彼は帰ってくるために力を尽くしました。
そして、私たちへ大切なものを届けてくれました」
少し間を置いてから、彼女は言った。
「どうか、黙禱を」
トムは目を閉じた。ああ、やっと思い出した。
マンダンガス・フレッチャー。
盗みや怪しげな取引に手を染め、仲間からもあまり評判のよくなかった魔法使いだ。
戦いの最中に真っ先に逃げ出した男だったと、トムは記憶していた。
その男が何を怖がり、何を考えて、なぜ最後までその小さな包みを離さなかったのだろう。名前を思い出したところで、そんなことは何一つ分からなかった。
黙禱が終わると、ポンフリーは顔を上げた。
「リリー、座りなさい。フィリウス、あなたもです。
あなたたちまで倒れられては困ります」
「ほんのかすり傷ですよ、ポピー。大したことはありません。
あの一発は、運悪く掠っただけだ。
もう少し天気がよければ、全員まとめてあいてできたさ」
フリットウィックは小さな体に似合わず気丈に言い張ったが、マクゴナガルが椅子を引いてじっと見つめると、観念したように腰を下ろした。
隣では、上級生が乾いたタオルをリリーへ運んできた。
「先生」
「ありがとう」
リリーは受け取ろうとして右腕を動かしかけ、顔をしかめ、もう片方の腕でタオルを取った。ポンフリーが彼女の濡れた袖を切り開いたので、トムは目をそらした。
そこへ、グリンデルバルドが靴音を響かせて入ってきた。
老人は白い布の掛かった卓を見たが、何も言わなかった。
それから、マクゴナガルの手元へ目を向けた。
「それか」
彼女が頷き、油布の紐をほどいた。
中からさらに布が出てきた。その折り目にも水が染みていたが、最後の一枚が開かれると、乾いた赤いものが現れた。
それは大きな宝石のようだった。
磨き抜かれた装飾品とは違い、いびつで、重たそうで、内側に暗い赤い光を含んでいた。
トムはそれを見て、予感めいたものを感じた。
――1991年。ハリー・ポッターの世界、貴重な赤い石。
「賢者の石か」
グリンデルバルドが言った。
広間のどこかで、息をのむ音がした。
「本物なのですか」
マクゴナガルが尋ねると、老人は石を手のひらに載せ、指先を近づけた。
赤い色がほんの一瞬、内側から明るくなった。
「間違いない」
マクゴナガルは目を閉じた。
すぐに開いたが、その一瞬だけ、ひどく疲れた人に見えた。
「フラメル夫婦が殺されたあと、ずっと行方が分からなかったのに」
ニコラス・フラメル。もう死んでいるのか?
記憶の中では生きていた人物が、また一人、この世界からいなくなっていた。そう思うと、トムは思わず身震いした。
「ダングは、この石の手掛かりを追ってたんだ」
ハグリッドが、鼻をすすりながら口を開いた。
「途中から手紙が途絶えちまって、ようやく届いたのが、今日の合流場所を知らせる連絡だった。おれが着いたときにゃ、もう追われとった」
「私たちが出たときには、一人で飛ぶこともできなかった」
リリーが続けた。ポンフリーに腕の傷へ薬を塗られながら話していた。
「だから、甲板へ直接降りるしかなかったの」
トムは白い布を見た。
賢者の石はとんでもない価値があるものだ。金を作り出せるうえ、命を永らえさせる薬まで得られる。マンダンガスはどこかへ隠して自分だけ逃げることも、考えたかもしれない。それでも、彼はここまで持ってきた。
「これで、薬を作れるんですね」
マクゴナガルの声がした。
グリンデルバルドは石を確かめるように持ち直した。
「ああ。これで命の水を得られる。ただし、今ある薬へ混ぜれば済むものではない。
調合には数か月かかる」
老人はもう一度だけ石を見てから、顔を上げた。
「これなら、アルバスを治せる」
上級生たちの間に、小さなどよめきが広がった。
トムの心もひどく高鳴った。
あのダンブルドアが、傷を抱えて寝台にいる老人ではなく、誰もが頼りにしていた魔法使いとして戻ってくるのだ。
けれど、すぐに場は静かになった。
リリーが顔を手で覆い、傷へ触れないよう注意するポンフリーの声も、いつもより小さかった。
ハグリッドは、ついに堪えきれなくなったらしい。
顔をくしゃくしゃにして、大きな手で目元を覆うと、広間に響くほどの声を上げて泣き始めた。
*
その夜、夕食は遅くなったが、誰も文句を言わなかった。
一年生の五人は並んで、温め直されたスープを飲んだ。
昼には小テストの答えをめぐってあれほど騒いでいた食卓が、ひどく広く感じられた。
「ダンブルドア先生が、治るんだな」
ロンが言い、ネビルが「うん」と頷いた。
それ以上は誰も続けず、トムはスプーンに映る自分の顔を見つめた。
賢者の石と、クィレル。
どうしても、その二つが頭の中で結びついた。
昼食のときの会話も気になっていた。
先生は、パーシーが魔法省へ行く可能性を、あまりにも落ち着いた様子で語っていた。
だが、この世界のヴォルデモートには、誰かの頭に隠れて生き延びる必要がない。
自分の体で生き、魔法界を支配している。
そしてクィレルは仲間のために危険を承知で、あの嵐の中へ飛び出していったのだ。
原作の名前だけを見て、その人が何をするか決めつけていいのだろうか。
マンダンガスの前で、考えたばかりではなかったか。
トムは、冷めかけたスープをもう一口飲んだ。
石で薬を作って、それでダンブルドアが元気になって…時間割もましになって…
今世紀で最も偉大な魔法使いとかつての闇の帝王が手を組んでいるのだ。
もしかしたら、これでヴォルデモートだって。
ーー船の窓の外には、深海の闇がどこまでも続いていた。
お気に入り登録していただいた庵安様、抹茶3様、昼寝猫様、夢幻の君様、東京<アズマ キョウ>様、誠にありがとうございます。