俺のハリポタなんか変   作:パシフィカ

6 / 10
このハロウィンなんか変

賢者の石が届いてから、大人たちはますます忙しくなった。

 

調合室へ続く廊下には、見慣れない木箱が積まれるようになった。

乾いた根を詰めた箱、布を掛けた瓶、蓋の隙間から時々かすかな音を立てる箱もあったが、そちらに耳を近づけたロンは、通りかかったポンフリーに何も言われず両肩をつかまれ、反対向きに直された。

 

時間割の変更も続いた。

けれど、先生たちの様子は以前と違っていた。

先生たちの目の下の隈は、ひどくなる一方だった。それでも皆の顔はどこか明るく、足取りは軽かった。

 

トレローニーまで変わった。

 

授業中に天井からぶら下げた天球儀が外れ、彼女の真横に落ちた。

しかし、先生は胸元の首飾りを握ってしばらく黙り込んだあと、やがて厳かに言った。

 

「いい予兆ですね。滞っていたものが、動き始めたのかもしれませんね」

 

ロンは驚きのあまりひっくり返りそうになった。

トムの耳元で「留め具が緩んでたんだろ」と囁き、ラベンダーに睨まれた。

 

     *

 

そんなふうにして迎えた十月最後の週、マクゴナガルは夕食のあと、ハロウィーンの宴会を開くと発表した。

 

任務の都合がつく不死鳥の騎士団のメンバーも集まり、船を浮上させ、甲板で食事をするという。

 

甲板、という言葉のあたりから、生徒たちはそわそわし始めた。

「外でですか?」

ハンナが思わず尋ねた。

マクゴナガルは頷いたが、歓声が上がる前に片手を上げた。

 

「防寒着は必ず着用すること。手すりに登らないこと。

 甲板の使用できる範囲は、当日お知らせします。

 箒を持ち出してよいという意味でもありませんよ、ウィーズリーさんたち」

 

フレッドとジョージは、まだ何も言っていない、という顔をした。

それを見たリーが吹き出したので、三人そろって先生に見られることになった。

 

「見つかったりしないんですか」

 

少し離れた席から質問が出た。

トムも同じことを考えていた。

前に浮上したときには、窓の外を殺人呪文が飛んでいたのだ。

 

「場所と時間は慎重に選びます。魔法省の通常業務も祝祭に合わせて手薄になりますが、それを当てにしているわけではありません。見張りと隠蔽の魔法を配置し、問題があれば直ちに中止します」

 

マクゴナガルが言い終えると、フリットウィックが高い声で付け加えた。

 

「明かりが海の遠くまで見えないようにもしておきます。

 ですから皆さん、飾り付けの光を、私に断らず強くしないでくださいね」

 

これは、ほとんど開催決定に聞こえた。

今度こそ歓声が上がり、ロンが嬉しそうに卓を叩いた。

 

「やっと本物の星が見られるぞ」

「名前は覚えてる?」

 

ハンナに言われ、ロンは一瞬だけ笑顔を引っ込めた。

 

「今、試験しなくてもいいだろ」

 

     *

 

準備には一年生も駆り出された。

 

ラベンダーは話を聞いた途端に目を輝かせ、どこから持ってきたのか、色の違う布や紐を卓いっぱいに広げた。

 

ハンナはその横で必要なものを書き出し、途中から、ラベンダーが増やそうとする飾りと、実際に残っている材料を照らし合わせる仕事に追われた。

 

「それを全部ここに使ったら、入り口の分がなくなるわ」

「こっちのほうが目立つもの」

「入り口を通らない人はいないと思うけど」

 

トムは紙で作ったコウモリを持ち上げ、自分の担当する花綱へ並べてみた。

 

浮かせることも、決めた場所へ止めることも簡単だった。

左右対称に、同じ間隔で、向きまで揃えると、なかなかよい出来に見えた。

 

「どうかな」

「点呼を取るの?」

 

ラベンダーが言った。

 

「全部、こっちを向いているじゃない。もう少し、飛んでるみたいにできない?」

 

トムは一匹おきに向きを変えた。

彼女はしばらく眺めたあと、今度は「喧嘩してるみたい」と言った。

 

魔法の成績と、飾り付けの才能は別物らしい。

前世の高校時代の文化祭の気分だ。

 

     *

 

ネビルはカボチャの中身を丁寧にくり抜き、ロンはその隣で、不必要なくらい長い牙を彫っていた。ハンナが蝋燭を入れようとして手を引っかけると、ロンはしぶしぶ牙を一本減らした。途中で双子とリーが来て、何かを仕込もうとしたが、後ろからパーシーに呼び止められた。

 

「食事をする場所なんだぞ。客の顔に何かを飛ばすつもりなら、やめておけ」

「歓迎の気持ちだよ」

「なら口で言えばいい」

 

パーシーは彼らから小さな袋を取り上げ、そのまま去るかと思いきや、天井近くの紐を見上げて眉をひそめた。

 

「そこへ結ぶと、扉を開けるたびに擦れる。もう一つ奥の金具を使うんだ」

 

ジョージが大げさに感心してみせた。

 

「さすがだな。規則違反の飾りは見逃さない」

「落ちてから直すのは君たちだからね」

 

そう言いながらも、パーシーは自分で杖を抜き、無言で紐を掛け直してくれた。

 

十月三十一日の午後には、船内のあちこちに、あとで甲板へ運び出す飾りが並んでいた。トムとロンは、予備の蝋燭と紐を広間へ運ぶ係になっていた。箱を閉じようとしたところへ、リーが顔を出した。

 

「おい、ウィーズリー。父さんと母さんが来たぞ」

 

 ロンは紐を巻いていた手を止めた。

 

「もう? 夕方だって言ってたのに」

「準備を手伝いに来たんだってさ」

 

 言い終わらないうちに、廊下から聞き慣れない声がした。

 ロンは椅子から立ち上がり、扉へ顔を向けた。

 

「母さん!」

 

入り口に、赤毛のふくよかな魔女と、背の高い、少し髪の薄くなった男が立っていた。魔女は抱えていた包みを夫へ押しつけ、両腕を広げた。

 

「ロン! 顔をよく見せてちょうだい。ちゃんと食べてる? 少し痩せたんじゃないの?」

「食べてるよ。母さん、みんな見てるって」

 

ロンはそう言いながら、抱き締められたまま動かなかった。母親がようやく腕を緩めると、今度は父親が肩へ手を置き、頭のてっぺんを確かめるように眺めた。

 

「少し背が伸びたかな」

「そうかな。こっちでは、みんな――」

 

そこへ双子が割り込んだ。

 

「母さん、僕らも痩せた」

「特に菓子が足りてない」

「そうでしょうとも。手紙には食べ物のことばかりでしたからね」

 

モリー・ウィーズリーは二人を睨んだが、それぞれを引き寄せて抱き締めた。

フレッドが何か言いかけたものの、母親の肩に顔が埋もれて、くぐもった音にしかならなかった。ジョージは父親の持つ包みへ手を伸ばし、見てもいない母親に「それは皆さんの分です」と止められた。

 

トムは蝋燭の箱に手を置いたまま、その様子を眺めた。

いつも廊下を占領している兄弟が、急に、それぞれの年齢の子供に見えた。

 

「パーシーは?」

 

 アーサーが尋ねると、天井の紐を確かめていた本人が、少し急いで歩いてきた。

 

「ここだよ、父さん。母さんも、無事でよかった」

 

モリーは返事の代わりに息子の胸元をつかみ、しわになった襟を直してから抱き締めた。パーシーは眼鏡がずれないよう顔を上げたものの、拒みはしなかった。

 

「あなたこそ。あまり遅くまで勉強しているんじゃないでしょうね」

「必要な分はやってるよ」

「必要な睡眠も取りなさい」

 

アーサーが小さく笑った。パーシーも口元を緩め、ずれた眼鏡を押し戻した。

ロンがトムを振り返った。

 

「母さん、この子がトム。前に手紙で話しただろ」

 

 トムが挨拶すると、モリーは笑顔を向けた。

 

「会えて嬉しいわ。ロンがいつもお世話になって」

「母さん、それじゃ僕が迷惑ばっかりかけてるみたいだろ」

「違うのかい?」

 

 双子のどちらかが言い、ロンが振り向いた。

 アーサーは笑いながら、手にした包みを持ち上げた。

 

「これを置ける場所を教えてくれるかな。厨房へ届けるものもあるんだ」

「僕が案内するよ」

 

パーシーが一つ引き取り、双子も今度はちゃんと荷物を受け取った。モリーに近況を尋ねられ、ロンも一緒に歩きかけたが、途中で思い出したように足を止めた。

 

「あ、トム。蝋燭、運ぶんだった」

「これくらい、一人で大丈夫だよ。行っておいで」

「本当? じゃあ、あとで戻るから」

 

ロンは紐の束を箱の上へ載せると、両親を追いかけた。

廊下へ出る前から、今日の授業について話し始めていた。

 

ハンナとラベンダーは別の教室へ布を取りに行き、ネビルは出来上がったカボチャを上級生と運び出していた。

残ったトムは箱を抱え、片腕に紐の束を掛けた。

軽いものばかりだし、広間まではすぐだったため、両手がふさがることはあまり気にしなかった。

 

教室を出てしばらく進むと、壁に掛けかけた紙の星が何枚か床に落ちているのが見えた。拾おうとして腰をかがめると、箱の中で蝋燭が転がった。紐も肘からずり落ちかけたので、トムは慌てて体を起こした。

 

もう、面倒だな。

 

紙の星へ意識を向けると、一枚がふわりと浮いた。壁の紐のところまで持ち上げ、折り曲げてある端を引っかける。もう一枚、もう一枚。杖を使うほど高い場所でも、重いものでもなかった。最後の一枚は裏返っていたので、途中でくるりと回してから掛けた。

 

「それは、いつからできる」

 すぐ後ろでその声が聞こえ、トムは紐の束を取り落としかけた。

 

廊下の曲がり角に、グリンデルバルドが立っていた。

 

片手には、布で包んだ細長い器具を持っている。

調合室から出てきたところらしかった。

 

「えっと……物を浮かせること、ですか」

「杖を使わずに、だ」

 

トムは壁の星を見た。

どこかへ逃げていってくれればよかったのに、どれも行儀よく紐に掛かっていた。

 

「小さい頃からです。六歳くらいに、物が動くことがあるって気づいて。

 それから、少しずつ練習しました」

 

老人は何も言わなかった。

その沈黙が気になって、トムは余計なことまで付け足した。

 

「最初は、ほとんどできませんでした。コップを持ち上げても、すぐ落ちたり。

 今みたいに動かせるようになったのは、ここで習い始めてからです」

「どのように動かしている」

「どのようにって……持ち上げて、行ってほしいところへ」

 

自分でも、説明になっていないと思った。けれど、ほかに言いようがなかった。

手を伸ばすとき、まず何を考えるかと聞かれても困る。

 

「力が、そっちへ行く感じです。途中で強すぎたら弱くして、向きがずれたら直して……変ですか?」

 

グリンデルバルドは、壁の星からトムへ視線を戻した。

手にしていた器具を窓辺の棚へ置き、ゆっくりと口を開いた。

 

「杖なしの魔法そのものは、異常ではない。ただし、君の年齢で、習ってもいない制御をそのように説明できるのは、普通ではない。幼い子供の魔力は、水路のない水溜まりのようなものだ。水はあるが、どこへ流せばよいか分からない状態だ。恐怖や怒りで水があふれれば何かは起こるが、望んだものだけに、望んだ強さで届くとは限らない」

 

孤児院の窓に入ったひびを思い出した。

あのときは、割ろうと思ったわけではなかった。

 

「杖は、流れを導く助けになる。呪文と動作を学び、何度も使うことで、力の通る道を覚える。その感覚が身について、初めて杖なしでも同じ流れを作れるようになるのだ。君は、その道を覚える以前から、道を作っていたと言っている」

「五年くらい、練習してましたし……才能、でしょうか」

「それだけで片づくものではない」

 

返事は鋭く、トムは黙った。

グリンデルバルドは眉をひそめ、何か考え込んでいた。

褒められているとは、とても思えなかった。

トムは腕の中の箱へ視線を落とした。

 

「すみません。これ、持っていかないと。ハンナたちが待ってるので」

 

老人が目を上げた。

「君は、何のためにこの船へ来た」

その声が、妙に長く伸びた。

 

     *

 

何のために。

言葉は一度しか発せられていないはずなのに、トムの頭の奥で繰り返された。

廊下が遠くなったようだった。腕の中の箱の重さは感じるのに、指先がどこにあるのか、すぐには分からない。

 

答えなければ、と思った。

船へ来たのは、リリーに連れられたからだ。

その前は、孤児院から逃げた。さらにその前は――紙の匂いがした。

 

図書室だった。低い書架。透明な覆いの掛かった表紙。貸出日を記した紙。

自分のものではないような、大きな手が本を開いている。

 

待ちに待って借りた本だった。

帰り道も、食事中も、続きを読みたくて仕方がなかった。

 

眠る時間を過ぎても頁をめくり、明日のことなど考えず、まだ見たことのない城の廊下を追いかけた。

 

魔法が使えたら。

あの学校へ行けたら。

 

「……ホグワーツで、魔法の勉強がしたかったです」

 

自分の声が聞こえた。

口にしてから、そんな単純なことを、まだ願っていたのかと思った。

 

目の前で、グリンデルバルドの眉がわずかに上がった。

 

「今のは?――君は、何者だ」

 

 何者だ。

 何者だ。

 

問いが重なった。

トムは答えを探そうとしたが、その瞬間、別の声が頭の中に蘇った。

 

署名しなさい。

灰色の背広。机の上の許諾書。インク瓶へ沈んでいく羽ペン。違う、と思っているのに、右手を引き戻せなかった。

これは……あのときのように、安心して任せてしまいたくなる感覚ではない。しかし、自分の中へ誰かが勝手に入り、自分より先に答えを取り出そうとしている、その気味の悪さは同じだった。

 

嫌だ。

 

廊下を見ようとした。壁の星を数えようとした。けれど、その間に見知らぬ部屋や昔の顔が滑り込み、どれが今なのか分からなくなっていく――そんな時、突然スージーの顔が浮かんだ。

 

笑っていた顔。その名前を呼ぶ声。

自分が帰ってこなかったあと、彼女に何が起きたのか。

 

やめろ。

胸の奥が縮んだ。何かを思い出させられるたび、そのさらに奥へ手を差し込まれるようだった。取られる。知られてしまう。何を、と考える余裕もなく、トムはただ、相手を押し返そうとした。

 

抵抗しろ。抵抗しろ。

目の前の銀色の瞳から顔をそむけたいのに、首が動かない。汗が背中を流れ、息が喉で止まった。

 

次の瞬間、廊下が破裂した。

 

紙の星が一斉に裂け、紐が金具から弾け飛んだ。壁へ立てかけてあった飾り枠が倒れ、箱の蓋が跳ね上がった。蝋燭が宙へ散り、トムは思わず目をつぶった。

 

箱が床へ落ちる音がした。

やっと息を吸えた。

 

トムは壁へ肩をぶつけ、そのまま片手をついて体を支えた。

 

足元へ蝋燭が転がり、靴に当たった。

廊下は廊下に戻っていた。図書室も、机の上の許諾書も、もうなかった。

 

グリンデルバルドはまだこちらを見ていた。

 

初めて、はっきりと怪訝そうな顔をしていた。

老人の前では、尖った木片がいくつか宙に止まっていた。彼が指先を下へ向けると、それらはぽとぽと床に落ちた。

 

「何の音です?」

廊下の先から声がした。

 

フリットウィックが足早に現れ、その後ろから何人かの生徒が顔を出した。トムは口を開いたが、喉がひりついただけで声にならなかった。

 

「怪我はありませんか、ブライトさん?」

 

フリットウィックが近づいた。

トムは首を振った。しかし先生はさらに顔を覗き込み、手と腕に傷がないか確かめた。

 

「ここで何が?」

「大事はない」

 

グリンデルバルドはトムより先に答えた。いつもの調子の声だった。

彼は棚に置いた器具を取り、トムをもう一度だけ見た。

 

「あとできれいに片づけなさい」

 

誰に言ったのか分からなかった。

老人はそのまま廊下を歩いていき、角の向こうへ消えた。

フリットウィックはその背中へ一度目を向けてから、トムに向き直った。

 

「何かの呪文を練習していたのですか」

 

トムは、老人の消えた角を見た。まだ戻ってくるかもしれないと思った。何かを言えば、また、あの目がこちらを向くかもしれない。

それになんと言えばいい?服従の呪文をかけられたかもしれないって?本来のマグル生まれの1年生ならインペリオのいの字も知らないはずだ。

 

「……分かりません。急に」

「そうですか…まず座りましょう。君、ココアを一杯お願いできますか」

 

一人の上級生がココアを取りに行き、別の生徒が近くの教室から椅子を運んでくれた。トムが腰を下ろすと、ようやく、自分の膝が震えていることに気づいた。

 

あの人は、船を守った。薬だって作っている。敵じゃない。

そう考えようとしても、体は納得しなかった。

 

     *

 

気分が落ち着くまで休むように言われたが、トムはあまり長く座っていなかった。

割れたものは先生たちが片づけてくれることになり、手伝いへ戻る必要もなかったので、ココアを飲み終えると、リリーを探しに行った――自分をここまで連れてきてくれた彼女なら信じてくれると思った。

 

マグル生まれの十一歳が、本来覚える前の高騰のテクニックを使った――ポリジュースや変身する魔法がある戦時下の魔法界で、怪しまれないほうが変だ。

 

グリンデルバルドは何のためにここへ来たのかと聞いてきた。

理由はきっと、疑われたためだ…けれど、尋ねればよかったではないか。

答えを信じるかどうかは別として、少なくとも、聞けばよかった。

自分の頭の中へ勝手に入ってこなくても。

 

リリーは教室にも広間にもいなかった。

医務室を覗くと、ポンフリーに呼び止められ、顔色が悪いと椅子へ座らされた。

擦り傷を確かめられたあと、何かあったのかと尋ねられたが、トムはリリー先生と話したいのだとだけ答えた。

 

「今は、一人になりたいのだと思います」

 ポンフリーの声が少し柔らかくなった。

「急ぎの話なら、私が聞きますよ」

 

トムは膝の上で手を握った。

そうか、今日はハロウィーンだった。十月三十一日。

朝からカボチャや紙のコウモリに囲まれていたのに、その日付が何を意味するのか、今になって思い出した――リリーにとっては、夫と息子を失った日だ。

 

「……あとで、先生が戻ったら。話したいって、伝えてもらえますか」

 

ポンフリーは頷いた。

トムが立ち上がってからも、何か言いたそうに見ていたが、呼び止めはしなかった。

 

甲板へ通じる扉が開いていて、階段の上から冷たい空気が流れてきた。歓声が聞こえた。どうやらパーティーはもう始まったようだ。

 

トムは手すりにつかまり、ゆっくりと上った。

頭の上には、本物の空があった。

雲の切れ間に、星がいくつも見えた。

 

紙の上の黒い点でも、天球儀に描かれた小さな印でもない。

見上げれば、首が痛くなるほど高いところまで続いていた。甲板の明かりは柔らかく、船縁へ近づくと薄れていき、その先には暗い海が広がっている。見張りの大人が離れた場所に立ち、手すりへ張られた細い銀色の線が、時々かすかに光った。

 

トムは深く息を吸った。

潮の匂いがした。さっきからずっと鼻の奥に残っていた、あの図書室の紙の匂いが、ようやく消えた気がした。

 

気を取り直して甲板に向かった。

既に始まった宴会の席はほとんど埋まっていた。

 

     *

 

「おお、トム! こっちが……ひっく、空いとるぞ!」

 

ハグリッドの大きな手が上がった。断る理由を考える前に、隣の席を空けてもらってしまった。もう片側では、トレローニーが何枚ものショールを椅子の背へ掛け、湯気の立つカップを両手で包んでいた。

 

トムが座ると、二人の間から別々の酒の匂いがした。

 

ハグリッドの前には、普通なら水差しとして使うような容器が置かれていた。トレローニーの飲み物は香辛料の匂いが強かったが、彼女が袖の陰から小瓶を取り出して足しているのを見て、トムはお茶ではないと悟った。

 

「冷えるでしょう。少しいかが、あなた」

 

トレローニーが小瓶を持ち上げた。

 

「いえ、大丈夫です」

「一口なら、体があったまるぞ」

 

ハグリッドまで自分の容器を動かしたので、トムは急いで卓の反対側を指した。

 

「あの、カボチャジュースが欲しいです」

 

二人は少し残念そうだったが、ハグリッドは素直にジュースを取ってくれた。ただし、ついでに盛ってくれた肉の量は、トムが三人いても十分だった。

 

甲板の中央では、双子とリーのカボチャが口を開け、客が通るたびに何かを言っていた。遠すぎて内容は分からなかったが、パーシーが三回目に前を通ったときには、カボチャへ長い説教を始めたので、歓迎の言葉ではなさそうだった。

 

少し離れた卓からラベンダーが手を振った。ハンナが隣を詰めようとしてくれたが、今さら立つと、ハグリッドの好意を踏みにじるような気がした。トムは大丈夫だと手を振り返し、肉を切り始めた。

 

「今夜の星は、とてもよい配置ですねえ」

トレローニーが言った。カップを持ち上げると腕輪が鳴り、彼女はしばらく空を眺めてから、ふとトムへ顔を向けた。

 

「あぁ!そうだ。あなたの手を、一度、ちゃんと見せてちょうだい」

「手、ですか?」

「ええ。最初に授業で見たときから、ずっと気になっていたの」

 

トムは少しためらった。今日、人に何かを調べられるのは、もう十分だった。けれど、トレローニーは杖を持たず、ただ手のひらを上へ向けて待っていたので、左手を差し出した。

 

先生は眼鏡をずり上げ、親指の付け根を指先でそっとなぞった。

 

「やはり、不思議ねえ……。最初は、本当に驚きましたよ。ここで途切れて、それなのに、こちらがこんなにはっきり」

「何がですか」

「生命線ですよ、あなた。」

「え?」

 

「あなた、生まれてすぐに亡くなる運命であることはしっていて?」

 

ハグリッドの容器が、どんと卓に置かれた。

「おいおい、こんなヒッに、子供にそんな話をするもんじゃねえ」

 

トレローニーは口を閉じた。トムの手を握ったまま、ハグリッドを見た。

 

「いえ、そういうつもりでは。今ここに、元気で座っているのですから。

 むしろ、不思議なほど強い運命を――」

 

「だったら、元気でよかったでいいじゃねえか」

 

先生は唇をすぼめたが、言い返さなかった。

トムの手をそっと離し、「ごめんなさいね。悪い癖で。悪気はないの」と呟くと、カップへ視線を落とした。

 

トムは手を卓の下へ引っ込めた。

ただの手相だ。しかも、酔っている。

 

そう考えようとしたのに、指先が冷たくなっていた。

赤ん坊のうちに死ぬはずだった。

グリンデルバルドには、才能だけで説明できるものではないと言われた。

 

同じ日のうちに別々の場所から、自分がここにいることを不思議がられた気がした。

 

ずっと脳内にこびり付いている暗澹な気持が浮かび上がる――もし、魔法界のこの状況が自分が転生したことが原因だったら?一人の赤ん坊が生き残ったから、別の赤ん坊が犠牲になったとしたら?

 

「気にせんでええ」

ハグリッドが、大きな声を少しだけ落とした。

「おまえさんは、ちゃんと食って、勉強して、寝りゃええんだ」

 

肉をさらに一切れ載せられた。トムは礼を言った。

ハグリッドの目は赤かったが、今は皿を見て、本気で足りるかどうか心配しているらしかった。

 

誰かが魔法をかけたのだろうか。

頭上の紙のコウモリがまるで生きているかのように縦横無尽に飛び始め、生徒たちが歓声を上げた。

 

     *

 

甲板の笑い声は、船の奥までは届かなかった。

 

ダンブルドアの部屋では、小さなランプが卓を照らしていた。寝台の背を起こした老人の膝には毛布が掛けられ、すぐ手の届く場所に、水と薬の瓶が並んでいる。開かれた本は、先ほどから同じ頁のままだった。

 

「宴会には行かんのかね、ゲラート」

「見張りは引き継いだ。私は騒がしい場所を好まない」

「昔は、随分と大勢の前で話すのが好きじゃったが」

「聞く側に回る趣味はなかった」

 

ダンブルドアは微笑んだ。グリンデルバルドは椅子に座らず、卓に置いた記録へ目を落としていた。瓶の残量を確かめ、短く数字を書き込むと、ようやく筆を置いた。

 

「一年生たちは、どうかね」

「騒がしく、不注意で、自分が何を知らないかも知らない」

「それは、一年生の説明としては的確じゃろうな」

 

グリンデルバルドが顔を上げた。

ダンブルドアは穏やかな表情のまま、続きを待っていた。

 

「ロングボトムは、退くべきときに退かない。誰かを守ると決めた途端、ほかの手段を考えなくなる。あれを勇気と呼んで放置すれば、いずれ本人も守る相手も失う」

「責任感はある」

「だから厄介だ。ウィーズリーは状況を読むが、読めたと思ったところで確認をやめる。ブラウンは危険を見る前に足を出す。アボットは、自分が傷つくより、相手を傷つけることを恐れている」

 

ダンブルドアは口を挟まずに聞いていた。

グリンデルバルドは机の端へ指を置き、少し間を空けた。

 

「ブライトは、特に悪い」

「ほう」

「理解が早くて成功も早い。そのため、理解した範囲の外にも物事があることを、すぐ忘れる。危険を知らないのではない。知っているつもりでいる」

 

ダンブルドアの指が、本の端を撫でた。

 

「才能ある者には、珍しくない。君もそうだった」

「……幼い者が持つには、成功の根拠が多すぎる。失敗するまで、自分が何を思い違いしていたのか分からん。その最初の失敗を、君の計画に賭けるつもりか」

 

声が低くなった。

 

「愚かな計画だ、アルバス。子供の判断に頼らなければ成立しない仕組みは、いずれ破綻する」

 

ダンブルドアは目を閉じた。しばらくの間、二人とも話さなかった。船体のどこかで木が低くきしみ、卓の水に小さな波紋が立った。

 

「賢者の石は、もうここに来た」

 

やがて、ダンブルドアが言った。

 

「止まっていたものが動き出す。これ以上待つことは出来ん」

「そのために、十一歳を選ぶのか」

「……より大きな善のためじゃ。必要なことを教え、守れるものも用意する。それでも最後には、その者の判断を信じなければならん」

 

グリンデルバルドの目が細くなった。一方、ダンブルドアは目を開けた。

 

「この五人の中で、いずれ任せるとしたら、誰じゃね」

 

グリンデルバルドは答えなかった。

窓のない壁へ一度視線を向け、それから、膝の毛布へ戻した。

ダンブルドアはただ待った。

 

「ブライトだ」

 

ようやく、名前が一つ吐き出された。

 

「一番悪いと、言わんかったかの」

「マグルの世界で育っている。こちらの常識が通じない相手を、最初から無能だと思い込む危険は、ほかの四人より少ない。そして――」

 

グリンデルバルドは言葉を切った。

 

「今日、少し確かめた。あの少年には、不審な点がある」

ダンブルドアの顔から、微笑みが消えた。

 

「何をした」

「心を探った」

 

卓の向こうで、ダンブルドアがゆっくりと息を吐いた。

 

「本人の許しは」

 

沈黙が答えになった。

 

「ゲラート。あの子は、ここへ学びに来たんじゃ。尋問を受けに来たのではない」

「私の船へ何が入ってきたのかを確かめる必要はある」

「だからといって、何をしてもよいわけではない。あの子がこの船で安心して眠れなくなったら、それは我々の失敗じゃ」

 

グリンデルバルドは顎を引いたが、謝罪はしなかった。

ダンブルドアも、それで話を終えたことにはしなかった。

 

「次に同じことをする前には、わしに話してもらう。

トムには、話を聞ける者をつけよう」

 

グリンデルバルドはしばらく卓を見ていた。

 

「彼は抵抗した」

やがて、短く言った。

 

「閉心術か」

 

「違う。守るべきものを整理して隠したのではない。恐怖で混乱しながら、こちらを押し返した。周囲の飾りを吹き飛ばすほど魔力を乱して、それでも、自分の内側へ戻ろうとした」

 

「君に怯えたのじゃろう」

「そうだ」

 

今度は、否定しなかった。

 

「私の問いに答えることより、拒むことを選んだ。

自分が何をされているのかも、十分には分かっていなかっただろうに」

 

ダンブルドアは相手の顔を見た。

 

「それを、評価しているのじゃな」

「命じられたとおりに動く者が欲しいなら、別の者を選べ」

 

長い沈黙のあと、ダンブルドアの目に、かすかな光が戻った。

 

「しかし、不審な点があるのじゃろう?」

「悪意は感じられなかった」

 

それっきりグリンデルバルドは黙った。

 

その視線は自分の空いた手へ一瞬だけ落ちた。指を閉じ、また開く。何かの持ち心地を思い出すような、ごく小さな動きだった。ダンブルドアはそれを見たが、何も尋ねなかった。

 

代わりに、小さく笑った。

 

「何がおかしい」

「いや。随分と厳しく当たるのに、よく見ておると思ってな」

 

グリンデルバルドは記録を閉じた。

 

「次の薬は、半時間後だ。眠ったふりでやり過ごそうとしても無駄だぞ」

「覚えておこう」

 

老人が扉へ向かうと、ダンブルドアはもう一度、その背へ声をかけた。

「ゲラート。あの子が拒んだことを認めるなら、次は、その拒絶を尊重してやってくれ」

 

グリンデルバルドは扉に手を掛けたまま止まった。

しかし、振り返らずに部屋を出ていった。

 

扉が閉まると、遠くから、一瞬だけ笑い声が聞こえた。甲板では、まだ宴会が続いていた。ダンブルドアは本を閉じ、その表紙へ手を置き、しばらくその音に耳を澄ませていた。

 

主人公は自分が転生者と明かすべきかどうか

  • 洗いざらい明かすべき
  • 隠すべき
  • 転生は隠し、リドルの情報だけ明かす
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。