医務室のドアを開けるとそこには相変わらずの消毒液の匂いと淡い煙草の煙が漂っていた。
「おかえり。……って、なんだいそのボロボロな姿は。真希だけじゃなく絵名まで擦り傷だらけじゃないか」
パイプ椅子に腰掛け灰皿に煙草の灰を落としながら、家入硝子が呆れたように二人を迎えた。
一度気絶してここに運ばれたとき、素っ気なくもどこか落ち着いた声で「家入硝子だ」と名乗られたのを絵名は覚えていた。
けれど、こうして自分の足で医務室に入り彼女と目を合わせるのはこれが初めてだった。
「報告にあった呪霊と階級が違ってたんだよ。
準一級クラスが出やがった」
真希が忌々しそうに吐き捨て、パイプ椅子を引き寄せて座る。
「準一級……。よくまあ無事で戻ってきたね」
硝子は苦笑しながら立ち上がり、絵名の前まで歩み寄ってきた。
「なっ…ちゃんと……祓ったわよ」
絵名はムッとして言い返したが全身の肉体が悲鳴をあげているのは隠せなかった。
準一級の圧迫感に晒された恐怖の反動と肘や膝に作った無数の擦り傷、そして激しい呪力消費による疲労で膝がガクガクと震えている。
絵名の足元では、茜色と濃紺のグラデーションを纏った狐が心配そうに「キュゥ」と鳴いて絵名の脚に頭を擦り付けていた。
「へえ…この狐が噂の『作品』かい。綺麗な色だね。……っと、動かないでおくれよ」
硝子は絵名の肩にそっと手を置くと怪我のひどい絵名の右腕へ視線を落とした。呪霊の衝撃で皮膚が裂け、赤黒い血が滲んでいる。
「痛むかい?」
「……まあ、ちょっとね。でも、これくらい平気――」
絵名が言いかけた、その瞬間だった。
硝子の両手が淡い、柔らかな光を帯びた。
熱でもなく、冷たさでもない、不思議な生命の波動のようなものが硝子の手掌から溢れ出し、絵名の右腕を包み込んでいく。
「え……?」
絵名が息をのむ暇すらなかった。
じんじんと主張していた痛みがまるで最初から存在しなかったかのように引いていく。
皮膚の亀裂が引き締まり赤黒い血が乾いて、新しく滑らかな肌が瞬く間に再生されていく
擦り傷も、青アザも、ものの数秒ですべて消えてなくなった。
「つっ……!?なに、これ……!?」
絵名は自分の右腕をまじまじと見つめた。
さっきまで確かにそこにあった激痛も、赤々とした傷口も、綺麗さっぱり消え去っている。
自分の腕を何度もさすり触ってみるが、跡形もない。
「反転術式だよ」
硝子は手を放すとポケットからライターを取り出して煙草に再び火をつけた。
「本来、呪力ってのは『負』のエネルギーだ。
破壊や殺傷には向いているが物を生み出したり治したりはできない。
それを『負×負=正』の計算で増幅させて肉体を再生させる技さ。私にしかできない芸だけどね」
「正の……エネルギー……」
絵名は言葉を失っていた。
怪我をすれば絆創膏を貼り日にちをかけて治るのを待つ。それが絵名の知る「当たり前の世界」だった。
なのに、この呪術の世界では――一瞬で傷が塞がり壊れた肉体が元通りになる。
その圧倒的な理不尽さと、科学では説明のつかない異質さに絵名は背筋が寒くなるような感覚を覚えた。
(こんな力があるなんて・・・ここはいったい
どういう世界なの……?)
絵術という異能を宿してしまった自分自身。
反転術式で傷を一瞬で消し去る大人。
圧倒的な身体能力で呪霊と渡り合う真希。
「何をそんなに怯えた顔をしてるんだい?」
硝子が紫煙の向こうから、絵名を覗き込んだ。
「あ、ううん。ただ...なんか、本当にすごい世界なんだなって。一瞬で傷が治るなんてちょっと怖くて……」
「フン、まともな感覚だよ」
硝子は短く息を吐き出すと絵名の手に視線を落とした。
その指先には反転術式でも消えない、絵具の小さな汚れと長年筆を握り続けてできた小さな「筆ダコ」が残っていた。
「傷は治せても、お前がこれまで積み重ねてきた努力や時間は消えないさ。その手……絵描きの手だろう?」
「……っ」
「呪術師なんてのはどこか狂ってる奴らの集まりだ。だがね、お前みたいに『自分の世界』を持ったままここにいる奴は案外強いもんさ。
自分を見失わないからね」
硝子の言葉は飾り気がない分、じわりと絵名の胸の奥に染み込んできた。
真希もまたパイプ椅子に深々と寄りかかりながら、ニヤリと笑う。
「そうだぞ東雲。さっきの威勢はどうした。
あんな準一級相手にタンカ切ってみせたんだ
胸張りな」
「……言われなくても、胸くらい張るわよ」
絵名は小さく強がると、自分の綺麗な右手を強く握り締めた。
反転術式という理不尽な力を見せつけられても自分がキャンバスに向かってきた時間は何一つ変わらない。
「硝子さん、手当てありがとう」
「いいえ。またボロボロになったら来な。
ただし、真希みたいに無理しすぎるんじゃないよ」
「おい硝子さん、余計なこと言うな」
小さく笑い合う大人たちと真希を見つめながら絵名は足元の黄昏色の狐をそっと抱き上げた。
茜色と濃紺の毛並みが、医務室の静けさの中で温かく揺れていた。