雨上がりのしっとりとした空気が漂う高専の敷地内。
絵名は少し重い足取りで医務室のドアの前に立っていた。
足元には夕暮れ色の光を纏ったトワイライトが静かに寄り添い、絵名の様子を伺うように首を傾げている。
「……トワイ、静かにしててね」
小声で言うとトワイは『きゅう』と短く鳴いておとなしく伏せた。
絵名は息をひとつ吐き静かにドアをノックして中に入る。
室内には微かに消毒液の匂いと、紫煙が漂っていた。
パイプ椅子に深々と腰掛けた家入硝子が、灰皿に煙草の灰を落としながら、ちらりと絵名に視線を向ける。
「ん……なんだ、絵名か。怪我でもしたか?」
「っ……いえ、違くて。
その、…あいつら」
絵名は気まずそうに視線を泳がせながらスカートの端をぎゅっと握りしめた。
「一年生…怪我、ひどかったのかなって...
私、直接聞くのもあれだし……」
自分の一歩届かない判断のせいで、彼らを危険に晒してしまったという罪悪感。
直接顔を合わせたらどんな顔をすればいいのか分からない。
そんな絵名の不器用な意図を察したのか、硝子は可笑しそうに「ふっ」と口元を緩めた。
「なんだ、心配してきてくれたのか。……大丈夫打撲と軽い擦り傷程度だ。今朝にはもう元気にグラウンドで暴れてたよ」
「……そう。なら、よかった…」
あからさまにホッとした表情を浮かべる絵名を見て、硝子は煙草を咥え直すとデスクに肘をついて絵名をまっすぐに見つめた。
「五条から聞いたよ。自分の身体を削って
そいつを生み出したんだって?」
硝子の視線が、絵名の足元で丸くなっているトワイライトに注がれる。
「……うん。あの時、本当に死ぬかもって思って……。でも、何も残せないまま消えるなんて絶対に嫌だった。『これが私の絵だ』って世界に叩きつけてからじゃないと死ねないって……そう思ったら勝手に手が動いてた」
強がりでも何でもなく、それが絵名の本音だ
硝子は煙をくゆらせながらどこか温かい眼差しで目を細める。
「いい度胸だ。術式や呪力の話はよく分からんが……お前の描いたものは、ちゃんと人を助けたよ。自分を誇りな」
大人からの飾らない認めの言葉に絵名の胸の奥がじんわりと熱くなった。
医務室を後にし、地下演習場へと向かう廊下を歩いていると天井の梁からひょいと人影が飛び降りてきた。
「やあ絵名!硝子と密会?」
「きゃあっ!? ……ちょっと、驚かせないでよ五条先生!」
目隠しをした男――五条悟が、相変わらずの呑気な調子で立っていた。
五条は絵名の足元にいるトワイライトに視線を落とすとしゃがみ込んで「トワイちゃん、調子はどう〜?」と気安く手を伸ばす。
トワイは一瞬警戒するように耳をすませたが、絵名が害はないと判断しているのを察して、静かに嗅ぎにいった。
「……トワイライトよ。トワイって呼んでるのは私だけなんだから、勝手に呼ばないで」
「はいはい。
で? 新しいお友達を描く準備はできた?」
五条の何気ない問いかけに絵名はぴたりと足を止めた。
スケッチブックを抱える手に、ぎゅっと力がこもる。
「……ううん。描かない。……描けない」
「へえ、どうして?」
五条がアイマスク越しに絵名を見下ろす。絵名は逃げずに、まっすぐに五条を見つめ返した。
「トワイが生まれたのは……私が死に直面して
『絶対に自分の絵をこの世に残す』『これが私の描いた証だ』って、命を懸けて感情をぶつけたから。……そんな絵、簡単にポンポン描けるわけないでしょ」
テキトーな気持ちで描いたストックなんて
あの極限状態では何の役にも立たなかった。
命を宿すということは、絵名の魂そのものを削り出してキャンバスに叩きつけるということだ。
「安易に描いたってトワイにも、次に描く子にも失礼だわ。……今の私には、まだ次を描くための理由が足りない」
絵名の言葉を聞き五条はしばらく沈黙した。
そして――満足そうに、ニッと口角を上げる。
「正解。……自分の呪術の本質、ちゃんと分かってるじゃん」
五条は絵名の頭にぽんと手を置いた。
「呪力で形を作るだけなら誰でもできる。でも、君の術式に『命』を吹き込むのは君の強い情熱と執着だ。
焦る必要はないよ。君が本当に『描きたい』『護りたい』と思えた時に最高のキャンバスを仕上げなよ」
自分の部屋に戻った絵名は机の上にスケッチブックを開き、筆を手に取ってみる。
_________白紙のキャンバス。
今の自分には次にどんな絵を描けばいいのか、まだ答えは出ない。
(……すぐには、描けないや)
でも、以前のような「才能がない」という絶望や焦りは不思議と湧いてこなかった。
「……トワイ」
絵名が呼ぶとトワイライトがトコトコと寄ってきて、絵名の膝の上にポンとあごを乗せてきた。
黄昏色の毛並みを愛おしく撫でながら絵名は静かに、けれど力強く呟く。
「誤魔化すのはもうやめる。
あんたみたいに、私が胸を張って『自分の生きた証』だって言える絵を……これから、ゆっくり見つけていくから」
部屋の窓から差し込む夕空の光が絵名とトワイライトを柔らかく包み込んでいく。
まだ完成していない透明なキャンバスを前に、絵名は一歩ずつ、己の足で歩み始めていた。