「東雲さん。
あなたに今必要なのは、無茶な焦りではなく十分な睡眠と栄養です」
目の前に突き出されたのは、栄養ドリンクではなくベーカリーの紙袋だった。
「……え?」
絵名が呆然と見上げると、そこにはビシッと仕立ての良いスーツを着こなし特徴的な眼鏡をかけた背の高い男が立っていた。
五条悟の気まぐれな指名で、今日の単独調査任務に「指導役」として同行することになった1級呪術師——七海建人だ。
「五条さんから聞いています。
あなたは普段、スケッチブックに描いたものを具現化して戦うそうですね。観察眼と描画の工夫で補っているのは評価しますが...自分を追い詰めすぎです」
「ぐ、追い詰めてないですっ…!私だって好きで焦ってるわけじゃない!」
「事実を言ったまでです」
七海は腕時計に視線を落とすと、静かにため息をついた。
「呪術師はクソです
そして労働もクソです
同じクソなら、少しでも効率よく自分の健康を損なわずにこなすべき。ついてきなさい
18時までにこのエリアの調査を終わらせます」
淡々と歩き出す七海の背中を、絵名は不満げに睨みつけながら追いかけた。
(なんなのあいつ……五条先生とは真逆のタイプだけど、堅物そうで絶対話通じないじゃん……)
廃ビル内での低級呪霊の捜索中、影から飛び出してきた呪霊に対し絵名は咄嗟にスケッチブックを開き、素早くペンを走らせて足止めの「鉄格子」を描いて具現化させようとした。
だが、課題の焦りで手元が狂い、描画が一瞬遅れて呪霊の爪が迫る。
その瞬間、絵名の手首を七海が素早くけれど痛みのない絶妙な力加減で掴んで後ろへ引き寄せた。
「——落ち着きなさい」
七海は短刀(鉈)を抜くと、呪霊に向かって一歩踏み出した。
次の瞬間、ザシュッ!という鮮やかな一閃とともに、呪霊が綺麗な7:3の比率の地点で一刀両断され、霧のように消え去る。
無駄が一切ない完璧な1級呪術師の立ち回り
絵名は息を呑み、その手際に見入ってしまった。
「……すごい」
「当然です。私はプロですから」
七海は刃を納めると、何事もなかったかのようにスーツの袖を整えた。
「東雲さん。観察眼と描くスピードはあなたの素晴らしい武器ですが焦りで筆を乱して倒れては元も子もありません。あなたはまだ高校生だ。
自分の身を壊してまで成果を出そうとする必要も、大人ぶって一人で責任を背負う必要もありません」
「……でも、私にはこれくらいしか、 すぐに上手く描いて見せなきゃ、誰も...私の絵も、存在も認めてくれない……っ」
雪平先生からの酷評、
高専での焦り、
父親からの言葉、視線。
募っていた感情が溢れ、絵名はスケッチブックを強く抱きしめた。
七海は少しだけ目元を緩めると絵名の頭の上にぽんと静かに手を置いた。
「誰かに認めさせるために自分を追い詰め削る必要はありません。
あなたはまずあなた自身を大切にしなさい。責任を持つのは我々大人の役目です」
かつて誰も言ってくれなかった言葉。
「子供でいていい」と肯定されたような感覚に、絵名の胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
任務が終わり、時刻はちょうど17時50分。
七海は絵名を駅前の静かな喫茶店に連れて行くと、香ばしいバターの香りがする焼き立てのクロワッサンと甘いカフェオレを注文してくれた。
「美味しい……」
思わず零れた呟きに、七海は満足そうに小さく頷く。
「労働の後の糖分と炭水化物は効率的な回復手段です」
「…ねえ、七海さん。
七海さんはなんで……呪術師やってるの?
正直、ちっとも楽しそうに見えないけど」
クロワッサンを頬張りながら尋ねると、七海はコーヒーカップを置き淡々と答えた。
「私がここで仕事をすれば、誰かの平穏な日常が少しだけ守られます。
そして、私にはその適性と責任がある。...それだけですよ」
「誰かの平穏な日常を守る……」
その言葉が、絵名の頭の中で雪平先生の課題と重なった。
『東雲さんが一番大切にしたい誰かの心に、たった一人でいいから届く絵』
(……自分の強さや存在を証明するためじゃなくて、大切な誰かの日常を守るため喜ばせるために描く……)
目の前で静かにコーヒーを飲む、少し不器用でけれど誰よりも誠実な1級呪術師の姿。
そして、画面の向こうで自分の絵を待ってくれているニーゴの仲間たち。
「……七海さん」
「なんでしょう」
「このクロワッサン、すっごく美味しい。
ありがと」
「……どういたしまして。18時になりました、撤収しましょう」
店を出る夕暮れの街並みの中、絵名はカバンの中にあるスケッチブックの重みをいつもより少しだけ温かく感じていた。