自分の部屋がこんなにも狭かっただろうか。
高校を辞める手続きを終えた翌日、絵名は自室の真ん中でぽつりと立ち尽くしていた。
視界に映るのは幼い頃から見慣れた机、壁に貼ったデッサンの数々、そして部屋の隅に鎮座するイーゼル。
ここで泣きながら描いた夜も、
ニーゴの作業に追われて朝を迎えた日も、
すべてがこの部屋に詰まっている。
「急に『呪い』なんて言われても、ね」
一人ごちた声が寂しく響く。
数日前まで自分はどこにでもいる「普通の高校生」だった。
それが今や、正体不明の化け物を祓うための
学校へ行くことになっている。あまりにも浮世離れした現実に、実感が追いつかないまま漠然とした不安だけが冷たい重みとなって胃のあたりに溜まっていた。
「くぅん……」
足元から温かい気配が寄り添ってきた。
実体化したキツネが、案じるように大きな瞳で絵名を見上げている。
そのふわふわとした毛並みに触れると、少しだけ動揺が収まった。
「……そうよね。あんたがいるんだから、夢じゃないのよね」
絵名は深呼吸をひとつして、大きなスーツケースと段ボール箱を引き寄せた。
何を持っていけばいいのかも分からないけれど、絶対に譲れないものだけは決まっている。
愛用の液晶タブレットとPC。
使い込まれた木製のイーゼル、数枚の新品のキャンバス、そして油彩とアクリル、水彩の絵の具類。
画筆やペインティングナイフを一つずつ丁寧におさめながら、ふと手が止まった。
(ニーゴの作業、高専に行っても本当に続けられるのかな)
全寮制で、特殊すぎる環境だ。
夜間のナイトコードへの参加や、MV用のイラスト制作に支障は出ないだろうか。
もし任務や授業で絵を描く時間が奪われたら――。
(奏とまふゆにも、ちゃんと話しておかないと……)
瑞希には直接伝えたが、奏とまふゆにはまだ全寮制の学校へ行くことしか言えていない。
自分が高校を辞めようが、住む場所が変わろうが、どんな環境になろうとニーゴのイラスト担当としての責任だけは絶対に果たす――
そう自分に言い聞かせるように、PCのコードを強く握りしめた。
服や日用品をスーツケースに詰め終えると、あれほど生活感のあった部屋が急にがらんとした無機質な空間に見えた。
自分の身体の一部を置いていってしまうような、奇妙な寂しさが胸を締め付ける。
見知らぬ場所。聞いたこともない『呪術』という世界。
本当に自分なんかがやっていけるのだろうか。
期待よりも遥かに大きい「恐怖」と「不安」が、押し寄せる波のように心を揺さぶる。
「……逃げないって、決めたでしょ」
絵名は自分の頬を両手で強く叩いた。パン、と乾いた音が部屋に響く
あの夜、死の恐怖の中で自分のすべてをぶつけて描いた。
あの瞬間の熱量を自分を肯定してくれたこのキツネのぬくもりを、偽物にはしたくない。
イーゼルをバッグにしまい、ファスナーを閉める。
準備は終わった。
慣れ親しんだ過去を後ろに置き、
絵名は誰も教えてくれない未来へと、
静かに一歩を踏み出した。