荷物を部屋の床にドサッと置いた瞬間だった。
まだイーゼルも組み立てていない段ボールだらけの部屋のドアが勢いよく開く。
「はい絵名、荷ほどきは後すぐ行くよ!」
「…は?え、ちょっと待ってよ!今着いたばかりじゃない!」
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黒塗りのセダンが、静まり返った廃雑居ビルの前で停車した。
後部座席で抱えられたスケッチブックの上には一匹の小さな子狐が丸くなって乗っていた。
絵名が緊張で膝を震わせていると子狐は「キュゥ」と愛らしい声を上げて絵名の手にすり寄ってくる。
(……大丈夫。私にはこの子がいる)
冷や汗を拭いながら、絵名は車から降りた。
「あの、五条さん。いくら上層部からの試練とはいえ彼女はまだ術式を自覚したばかりの普通の女子高生です。一人で行かせるのは無茶です!」
助手席の伊知地が心配そうな声をあげるが
五条は車内から気のない様子で返した。
「伊知地、声が大きい。…いいかい、上層部は絵名の存在を管理できない異端だと警戒してる
ここで少しでも『使えない』と判断されたら、即座に拘束されるか処刑対象だよ」
「っ……!」
五条がゆっくりと振り返る。目隠しの奥から向けられる視線には、一切の冗談が混ざっていなかった。
「だからこれは絵名の適性試験。
死にそうになったら僕が助けるけど、助けられた瞬間に絵名の評価は『保護対象の落ちこぼれ』確定ね。自由なんて与えられないし高専での居場所もなくなる。……どうする?」
理不尽で冷酷な二択。
昨日の夜まで、ただの高校生だった。
『絵名の絵のおかげで、私の曲が完成するんだよ。これからもよろしくね』――奏の感謝。
『絵名が描く絵の方が、私は好き』――まふゆに言われた言葉。
『瑞希が話してもいいって思えるまで……私、待ってるから』――瑞希と交わした約束。
(私……みんなのいる場所に帰るんじゃないの?私の大切な場所も大好きな絵を描く自由も奪われてたまるか……っ!)
「……ふざけないでよ」
絵名は抱きしめていた子狐を優しく抱え直し
力任せに車から降りた。
「私を……誰だと思ってんのよ!
伊知地が「“闇より出でて闇より黒く……”」と唱え、黒い帳が降りていく。
漆黒の闇に包まれた廃ビルの中へ、絵名は踏み出した。
ビルの中は、腐敗臭と冷気が満ちていた。
足が竦みそうになり呼吸が浅くなる。
それでも絵名は、隣を歩く小さな狐の頭をそっと撫でて心を落ち着かせた。
「あそ……ぼ……」
暗闇の天井から、無数の目が蠢く気味の悪い三級呪霊がヌッと姿を現した。
その圧倒的な異形とプレッシャーに触れた瞬間絵名の体が恐怖で硬直する。
(無理……!怖い……っ!)
恐怖に飲み込まれそうになったその時、足元にいた子狐が絵名を庇うように前へ躍り出た。
絵名は唇を強く噛み締め、必死で指先の震えを止めた。
「いけっ……!」
絵名が呪力を込めると同時に、子狐の体がしなやかに大きく膨れ上がり美しく優雅な大狐へと姿を変えた。
大狐は空中を舞うように躍動し、鋭い爪で呪霊の触手を一閃する。
「ギギャアアアッ!?」
だが、呪霊の硬い皮膚に阻まれ爪が浅く弾かれた。
絵名は素早くスケッチブックを開き、筆をとった。
「届いて……っ!」
キャンバスの上に一瞬で鋭い刃の軌線を描き足す。
絵名が描いた線がそのまま呪力の刃となって大狐の爪に纏い、輝きを放った。
再び跳躍した大狐は流れるような美しい軌道を描いて呪霊の首元を深々と切り裂く
鮮やかな一閃。呪霊は悲鳴をあげる暇もなく
黒い霧となって空気中に溶けていった。
静寂が戻った室内で大狐はゆっくりと絵名の元へ戻るとぽんっと音を立てて元の小さな子狐の姿に戻り、絵名の足元に甘えるように寄り添った
「はぁ……っ、
はぁ……っ勝った……!」
緊張が解け絵名はそのままその場に膝をついた。
膝の上に乗ってきた子狐を愛おしく抱きしめながら、静かに息を整える。
「へえ、上出来じゃん」
帳が上がり五条がゆっくりと歩み寄ってきた。
「体は硬くなってたけど、土壇場で腹を括ったね、絵名」
五条はしゃがみ込み、荒い息を吐く絵名の頭をぽんぽんと撫でた。
「これで上層部のジジイ共も文句は言えないよ」
「…当たり前でしょ私は……絶対に諦めないんだから……」
そのまま張り詰めていた糸が切れ、
絵名は前へと倒れ込んだ。五条がそれを軽々と受け止める。
「さーてと、高専に戻ろうか」
夕刻の風が吹き抜ける中、絵名は子狐を抱いたまま静かな眠りについた。
• 上層部の理屈:
「普通の非術師は感情を漏らすだけだが、絵名は『強力な呪霊や式神をその場で生み出す発生源』そのものだ。
精神的に不安定になった瞬間、特級クラスの呪霊を生み出して街を破壊させる危険がある」
「自分で生んだ呪いに喰われず、即座にそれを超える式神を描いて相殺・吸収した? 呪霊操術や過呪怨霊の変種ではないか?」と邪推し、第二の夏油や乙骨になるのではないかと恐れている