25時05分。
いつもならパソコンのスピーカーから
「あー、ごめん!遅くなった!」と少し焦った絵名の声が響く時間だった。
けれど、画面に並んでいるアイコンは三つだけ。「えななん」のアイコンは暗い灰色のまま
灯る気配すらない。
「……来ないね、えななん」
瑞希がマウスを弄りながらぽつりと呟いた。
いつもの軽快な調子ではあるものの、画面を覗き込む瞳にはどこか懸念が混ざっている。
「うん。メッセージを送ってみたんだけど
既読もつかないみたい」
奏の返声は重く、静かだった。
絵名が最近どこか余裕なさそうにしていたのを思い出して、「体調を崩して倒れていないか」と不安が胸をかすめる。
「……来ないなら、私たちは作業を進めるだけじゃないの?」
まふゆが淡々とした抑揚のない声で言った。
「そうだけどさぁ。連絡なしで来ないなんて
えななんにしては珍しいじゃん?」
瑞希が言葉を重ねるが、まふゆは画面を見つめたまま動かない。
いつもなら自分の言葉に素早く反応し
時に怒り、時に必死な目で自分に食ってかかってくる絵名の声がない。
静かすぎる通話室に、まふゆの心の中には説明のつかない微かな冷たさとザラついた違和感が残っていた。
(……来ないなら、それでいいはずなのに)
まふゆは感情の失われた瞳で、誰もいない「えななん」のアイコンをただ見つめていた。
_________
一方その頃、都立呪術高専の医務室。
消毒液の匂いが充満する静かな部屋で絵名は
白いベッドに横たわり静かな寝息を立てていた。
その枕元では小さくなった子狐が心配そうに絵名の頬へ鼻先を寄せていた。
傍らのパイプ椅子には高専に持ち込まれたスケッチブックが雑然と置かれている。
「——で、この子が例の『非呪術師の女子高生』か」
白衣を着た家入硝子が、咥えた煙草にライターで火をつけながら、ベッドの上の絵名を覗き込んだ。
「学校敷地内は禁煙だよ、硝子」
パイプ椅子に深々と腰掛けスマホをいじっていた五条が呆れたように言う。
「誰も見てやしないよ。……それにしても
ひどい呪力酔いだ。身体も完全に硬直していた痕跡がある。呪霊のプレッシャーに直面して
相当生きた心地がしなかったろうに」
硝子は紫煙をくゆらせながら、絵名の顔色を診て手際よく処置を進めた。
「でも、ちゃんと一人で三級を祓って戻ってきたよ。土壇場で腹くくって描いた術式を起動させた。…筋は悪くないよ」
「ふうん。……見たところ普通の女子高生だし、あのスケッチブックを見る限り趣味か学校で絵でも描いてる子なんだろう、そんな子がよく足竦ませながら戦えたね」
硝子は置かれたスケッチブックに一瞬だけ目をやったがそれ以上に追求することはしなかった。
彼女にとっても、
五条にとっても、
目の前の少女が普段どんな生活をしていて、
何を目指しているのかなどまだ興味の対象外だったからだ。
「さあね。
ただ土壇場での執着心だけは一人前だったよ。必死だったから」
五条は立ち上がり、ポケットに手を突っ込みながらベッドへと近づいた。
「とりあえず上層部への報告は『適性あり』で通しておくよ。
ジジイ共の言いなりになって殺されるくらいなら高専で囲っておく方がマシだしね」
「……相変わらず、強引だねぇ」
硝子は溜息をつきながら煙草の灰を落とした。
「とりあえず、今夜はここで泥のように眠らせるよ。起こすんじゃないよ」
「はーい。じゃ、あとはよろしく〜」
五条はひらひらと手を振りながら医務室を後にした。
静まり返った医務室で絵名はうなされるように小さく眉を寄せた。
夢の中で、いつもの冷酷な声が耳を刺す。
『お前には才能がない』
という父親の冷ややかな一言。
絵画教室の講師から投げつけられた厳しい酷評。
ネットに書き込まれた自分の描いた絵への嫌がらせのようなアンチコメント。
(違う……私だって……っ)
『画家になりたい』なんて、口が裂けても言えなかった。
そんな大層な夢を口にすれば、「才能もないくせに」「笑わせるな」と否定されるのが怖くてたまらなかったから。
声に出すことすら許されない、胸の奥底に秘めた痛々しいほどの想い。
「……ん……っ……」
絵名の目尻から、小さな涙がひとしずく伝い
枕を濡らした。
手元に転がったスマホにはナイトコードの仲間たちからの通知が、誰にも気づかれないまま虚しく灯っては消えていた。