プロローグ
暗い。狭い。それから、ほんの少しだけ息苦しい。
膝を抱えたまま、少女は揺れを数えていた。持ち上げられて、下ろされて、また持ち上げられる。そのたびに、梱包材の隙間から細い光の線が走っては消えた。
一回目は、遠すぎた。 二回目は、声が届かなかった。 三回目は――思い出したくない。
「……こんどは」
呟いた声は、分厚い箱の内側に吸い込まれて、誰にも聞こえなかった。
「こんどは、ちゃんと、あいにいく」
________________________________________
1
中央都市ポラリスの朝は、上から順番にやってくる。
空を突く上層区画のガラス塔がまず光を浴び、それが中層の商業区へ、最後に配管と洗濯物が絡まり合う下層の路地へと、ゆっくり滑り落ちてくる。パラゴン・アルマゲストの部屋に日が差すのは、だいたい朝の九時を過ぎてからだ。
「……ルーチェ。起きてるか」
薄いカーテンを半分だけ開けて、パラゴンはベッドを覗き込んだ。毛布の塊がもぞりと動き、蜂蜜色の髪がはみ出す。
「おきてるよー……おはよ、お兄ちゃん」
声が少し掠れていた。額に手を当てると、ほんのり熱い。
「微熱だな。今日は寝てろ」 「えー、せっかく晴れてるのに」 「晴れてても寝てろ。薬は棚の二段目。昼はスープ温めて――」 「わかってるってば。お兄ちゃん、それ毎朝言ってる」
ルーチェはくすくす笑って、白くて細い指をひらひらと振った。
「いってらっしゃい。ケガしないでね」 「ああ。今日は運び屋の真似事くらいしかないよ」
嘘ではない。少なくとも、この時点では本当にそう思っていた。
古い防刃コートを羽織り、腰に拳銃、背中に使い込んだ片刃の剣を吊る。袖口から覗く手首には、白く引き攣れた古傷が一本走っている。油田の掘削リグで、暴走した採掘獣に噛まれた痕だ。
半年前まで、パラゴンは西都市に拠点を置く石油掘削会社、ポートマーズの機動部隊員だった。給料は悪くなかったし、社宅もあったし、ルーチェの薬代は福利厚生で半分出た。
それが、あの日を境に全部消えた。
西都市が、崩れた。都市ごと吹き飛んだ、と言ったほうが近いかもしれない。後に「暫定十級」と格付けされることになる異形の神格が暴れ回り、最後にパラゴンがどうにかそれを地に落としたときには、帰るべき街はもう瓦礫の海になっていた。油田も、本社も、社宅も。拠点を丸ごと失ったポートマーズは、取引先ともども連鎖的に潰れた。解散の通知を受け取ったのは、避難先の仮設テントの中だった。清算の手続きは、半年経った今もまだ終わっていない。
後ろ盾を失った人間がこの街で生きる方法は、そう多くない。
「ま、なんとかなってるしな」
誰に言うでもなく呟いて、パラゴンは錆びた階段を降りた。
________________________________________
2
HUB第三支部は、中層区の外れにある。
看板には「傭兵登録・依頼仲介所」と堅苦しく書いてあるが、扉を開ければ中身はほぼ酒場だ。昼間から酒と揚げ物の油の匂いが漂い、壁一面の掲示板には依頼書がびっしりと貼られ、その前で柄の悪い連中がああでもないこうでもないと騒いでいる。
「おう、パラゴン! 生きてたか!」
入るなり、カウンター席の大男がジョッキを掲げた。赤ら顔のベテラン傭兵、ガルドだ。
「三日前に会ったろ」 「三日ありゃ人は死ぬんだよ、この商売はな。ガハハ!」
笑えない冗談を豪快に笑い飛ばすガルドを横目に、パラゴンは受付に向かう。カウンターの向こうで、眼鏡をかけた小柄な女性が顔を上げた。受付係のミレイだ。
「おはようございます、パラゴンさん。ちょうどよかった。指名依頼、来てますよ」 「また?」 「『また』って言えるの、この支部じゃパラゴンさんくらいですからね」
ミレイは呆れたように肩をすくめた。
「暫定十級を落とした人に、みんな仕事を頼みたいんですよ。もうちょっと自覚してください」 「あれはほとんど運だよ。それに一人でやったわけじゃない」 「はいはい。その謙遜、そろそろ嫌味に聞こえる人もいますからね」
差し出された依頼書に目を落として、パラゴンは眉を寄せた。
――依頼内容:HUB第三支部宛てに届く荷物一点を受領し、指定場所まで運搬すること。 ――指定場所:第七区画、旧倉庫街十四番。 ――報酬:……
「……ゼロ、一個多くないか、これ」 「多くないです。わたしも三回数えました」
普通の運搬依頼の、ざっと二十倍。家賃と薬代を払って、それでもしばらくは余裕で暮らせる額だった。
「依頼主は?」 「それが……」
ミレイが指差した欄を見る。依頼主の名前が書かれているはずの場所は、インクが滲んだように黒く潰れていて、一文字も読み取れなかった。
「匿名扱いで、窓口にも連絡先が残ってないんです。報酬は前払いで預託済みなので、書類上は問題ないんですけど」 「書類上は、ね」
匿名。高すぎる報酬。読めない依頼主。怪しさの役満だ。
パラゴンは依頼書を指で弾きながら、今朝のルーチェの熱っぽい額を思い出していた。薬の在庫は、あと一週間分もない。
「……受けるよ」 「言うと思いました」
ミレイは受注印をぽんと押し、それからカウンターの下を覗き込んだ。
「で、その荷物なんですけど。もう届いてます」
________________________________________
3
それは、酒場の真ん中に鎮座していた。
大人が一人、膝を抱えればどうにか入れそうな木箱だ。表面は分厚い防水布で覆われ、その上から金属のバンドが何重にも巻かれている。貼られた伝票には「天地無用」「取扱注意」「なまもの」の判子が、押し放題だったみたいに無秩序に並んでいた。
「……なまもの?」
パラゴンが呟いた、そのときだった。
ガタッ。
箱が、揺れた。
酒場の喧騒が、一瞬で止まる。
ガタ、ガタガタッ。ゴトン。
「…………おい」
ガルドがジョッキを置いた。その顔から酔いの赤みがすっと引いている。
「今、動いたよな」 「動きましたね」 「動いたな」
箱の周りに、いつの間にか傭兵たちの輪ができていた。誰もが適度な距離を保ったまま、腰の得物に手をかけている。
「禁輸種じゃねえのか、こいつ」 「この大きさだと、擬態トカゲの成体とか……」 「バカ、あれは臭いですぐ分かる。牙ネズミの群れかもしれねえぞ」 「群れはやだなあ……」
好き勝手な憶測が飛び交う中、箱はますます激しく揺れる。まるで中身が、外に出たくてたまらないとでもいうように。
「ミレイ、下がってろ」
パラゴンは剣ではなくナイフを抜いた。狭い屋内で長物は振れない。左手には拳銃。安全装置を外す。
「ガルド、右。開けた瞬間に何か出たら頼む」 「おうよ。ったく、朝から面倒な荷物引き当てやがって」
慎重に箱へ近づき、金属バンドの一本にナイフの刃を当てる。
息を止める。
周囲の傭兵たちが、ごくりと唾を飲む音が聞こえた。
刃が、バンドを断ち切る――その、寸前。
バキャアッ!
箱の天板が、内側から吹っ飛んだ。
木片が舞う。防水布が裂ける。反射的に銃口を上げたパラゴンの視界いっぱいに、白いものが飛び込んできた。
牙でも、爪でも、鱗でもない。
ふわりと広がる、純白のワンピースの裾。光を弾く、銀色の長い髪。
「――やっと見つけたー!!」
どすん、と。
パラゴンは、真正面から抱きつかれた。
「…………は?」
胸元に、少女の頭がある。細い腕が背中にしっかりと回されている。ナイフと拳銃を持ったまま、パラゴンは両手を宙に浮かせて完全に硬直した。
酒場は、静まり返っていた。
ガルドは斧を構えた姿勢のまま固まり、ミレイはカウンターの陰で眼鏡をずり落としかけ、奥の席の若い傭兵は口を開けたまま揚げ芋を床に落としていた。
たっぷり三秒。
「「「…………女の子ォ!?」」」
HUB第三支部が、揺れた。
「女の子だ!」「箱から女の子が出たぞ!」「禁輸種じゃなかった!」「いや、ある意味もっとヤバいだろ!」「誘拐か!? 人身売買か!?」「パラゴンお前、何運ぼうとしてたんだ!」
「俺が知りたいよ!」
叫び返しながら、パラゴンは武器をしまい、なんとか少女を引き剥がそうとした。が、離れない。見た目は華奢なのに、腕の力が妙に強い。
「おい、ちょっと、離れ――」 「やだ」 「やだじゃない」 「……もうちょっとだけ。やっと、なの」
胸元でくぐもった声がして、パラゴンは言葉を詰まらせた。
少女の肩が、ほんの少しだけ震えている気がした。
気のせいかもしれない。気のせいじゃないかもしれない。どちらにせよ、それを力ずくで引き剥がせるほど、パラゴンは器用な人間ではなかった。
「……あー。分かった。分かったから、とりあえず落ち着け。な?」
ぽん、と。ぎこちなく銀色の頭に手を置く。
少女が、ぱっと顔を上げた。
大きな瞳だった。色の薄い、透き通るような瞳が、パラゴンの琥珀色の目をまっすぐに映している。
「……うん。おちついた」
少女は、ふにゃりと笑った。
その顔があまりにも無防備で、あまりにも嬉しそうで、パラゴンは次に言うはずだった言葉を、全部どこかに落としてしまった。
________________________________________
4
「で」
酒場の隅のテーブル。向かいに座らせた少女を前に、パラゴンは腕を組んだ。両脇にはガルドとミレイが陣取り、さらにその背後を野次馬の傭兵たちが遠巻きに囲んでいる。事情聴取というより、見世物だった。
「名前は?」 「マキナ」 「マキナ。……それだけ?」 「それだけ」
少女――マキナは、ミレイが持ってきたホットミルクのマグを両手で抱え、湯気をじっと見つめていた。
「どこから来た?」 「……はこ」 「箱に入る前の話だ」 「えっと。……とおいところ」 「なんで箱に入ってた?」 「いろいろ、あって」 「その『いろいろ』を聞いてるんだけどな」 「いろいろは、いろいろ」
のれんに腕押しとはこのことだ。
「誰かに無理やり入れられたとか、そういうのじゃないんだな?」 「ちがう。じぶんで、はいった」 「自分で!?」
思わず声が裏返った。マキナはきょとんとして、それからマグの中身を一口すすり――目をまん丸にした。
「……あったかい。あまい」 「ホットミルクですよ。はちみつ入り」
ミレイが言うと、マキナはミレイを見て、マグを見て、もう一度ミレイを見た。
「これ、すごい。すごいね。ありがとう。あなた、やさしいひと」 「えっ、あ、はい。どういたしまして……?」
ストレートすぎる感謝に、ミレイがちょっと頬を赤くする。
マキナの興味は止まらなかった。ガルドのジョッキの泡をつついて「これ、くも?」と聞き、壁の依頼書を眺めて「かみ、いっぱい。みんな、おねがいごと?」と首を傾げ、ガルドの顔の傷を見て「いたかった?」と真顔で尋ねた。
「お、おう。まあ、昔な」 「そっか。……がんばったんだね」 「…………」
歴戦の大男が、黙ってジョッキで顔を隠した。
「……おい、パラゴン。この子、なんかこう、アレだな」 「なんだよ」 「放っとけねえタイプだ」 「分かってるよ」
パラゴンはこめかみを押さえた。
「ミレイ。こういう場合、HUBで保護とかできないのか」 「身元不明者の保護はHUBの管轄外です。セイフガードに引き渡すのが規則なんですけど……」 「この辺の担当は第3実働部隊だろ。パラゴン、お前、朝霧の旦那には顔が利くじゃねえか」
ガルドの言葉に、パラゴンは「世話になってるだけだよ」と苦い顔をした。ミレイも小さく首を振って、ちらりとマキナを見た。
「隊長さんがまともでも、規則は規則です。セイフガードに渡したら、たぶん、身元が分かるまで収容施設ですね」 「……だよな」
ポラリスの収容施設がどういう場所か、この場にいる全員がなんとなく知っている。身寄りのない者、書類のない者、この街の「正規の住人」になれない者が、ひとまとめに押し込まれる場所だ。
「やだ」
マキナが、ぽつりと言った。
「わたし、パラゴンと、いっしょがいい」
テーブルの空気が、少しだけ止まった。
「……俺、名前言ったか?」
パラゴンが聞くと、マキナは一瞬だけ動きを止めた。それから、ぱちぱちと二回まばたきをして。
「……えっと。いらいしょ。かいてあった」 「依頼書は俺のポケットの中だけど」 「…………きこえた。さっき。ガルドが、よんでた」
ガルドが「言ったっけか?」と首を捻る。言ったかもしれないし、言っていないかもしれない。朝からの騒ぎで、誰もはっきりとは覚えていなかった。
マキナはマグに顔を半分うずめて、上目遣いでこちらを見ている。
「……だめ?」
ずるい、とパラゴンは思った。その聞き方は、ずるい。
「…………身元が分かるまで、だからな」 「! うん!」
マキナが満面の笑みを浮かべ、野次馬の傭兵たちから「おおー」と謎の拍手が起きた。
「うるさいぞお前ら」 「パラゴンが女の子お持ち帰りだー!」 「言い方!!」
________________________________________
5
下層区の古いアパート、三階の角部屋。それがアルマゲスト兄妹の家だ。
「わあ……」
扉を開けた瞬間から、マキナはきょろきょろと部屋中を見回していた。窓辺の鉢植え、壁のひび、台所の欠けたマグカップ。何もかもが珍しいものであるかのように、目を輝かせている。
「狭いだろ」 「せまい。……でも、いいにおい」 「そうか?」 「うん。ひとが、ちゃんと、すんでるにおい」
変わったことを言う子だ、とパラゴンは思う。
「ちょっとここで待ってろ。妹の様子を見てくる」
奥の部屋の扉を静かに開ける。ルーチェは眠っていたが、朝より呼吸が浅かった。額に手を当てると、明らかに熱が上がっている。
「……ったく、無理して起きてたな」
枕元のスープの皿は、半分も減っていない。パラゴンは濡らしたタオルを絞って額に乗せ、薬の残りを確かめ、乱れた毛布を肩まで引き上げた。手つきに迷いはない。何百回と繰り返してきた動作だった。
ふと気づくと、扉の隙間からマキナが覗いていた。
さっきまでの落ち着きのなさが嘘のように、静かにこちらを見ている。
「……だいじな、ひと?」 「妹だよ。ルーチェっていうんだ。身体が弱くてな」 「そっか」
マキナはそれ以上何も聞かなかった。ただ、眠るルーチェと、タオルを替えるパラゴンの手を、じっと見ていた。何かを確かめるように。あるいは、何かを覚えておこうとするように。
「……ん……お兄ちゃん……?」
ルーチェが薄く目を開けた。
「悪い、起こしたか」 「ううん……おかえり。……あれ?」
熱でとろんとした瞳が、パラゴンの肩越しに、扉の隙間の白い影を捉える。
「……天使さま?」 「ちがう。マキナ」
マキナが扉からひょこっと顔を出した。
「マキナ、ちゃん……?」 「うん。はじめまして、ルーチェ」
パラゴンは内心で頭を抱えた。どう説明する。仕事の荷物から出てきた女の子を拾ってきました、とでも言うのか。熱のある妹に。
「あー、ルーチェ。この子はな、その、ちょっと事情があって――」 「きれいな髪……」 「え? あ、うん。ルーチェも、きれい。はちみつみたい」 「ほんと? えへへ、うれしい」 「ほんと。わたし、うそ、へた」 「あはは、なにそれー」
……あれ?
「ねえねえ、マキナちゃん、そのワンピースどこで買ったの?」 「かってない。さいしょから、きてた」 「さいしょから? すごーい、おしゃれさんだ」 「ルーチェのそれは?」 「これ? パジャマだよ。うさぎの柄なの。見て見て、しっぽついてる」 「……! しっぽ! さわっていい?」 「いいよー」
パラゴンが説明の言葉を探しているうちに、マキナはベッドの縁にちょこんと腰掛け、ルーチェはマキナの銀髪を指に巻きつけて遊び始めていた。
「……お前ら、初対面だよな?」 「うん」 「そうだよ?」
二人そろってきょとんと振り返る。
「なんでもう仲良くなってるんだ……」
「お兄ちゃん、スープあっためてきて。マキナちゃんのぶんも」 「スープ! のみたい!」 「ほらー、マキナちゃんもこう言ってるし」 「……はいはい」
台所に追いやられたパラゴンの背後から、きゃっきゃと弾む笑い声が聞こえてくる。熱があるくせに、ルーチェの声はここしばらくで一番楽しそうだった。
鍋をかき混ぜながら、パラゴンは小さく息をついた。
怪しい依頼。箱から出てきた、正体不明の少女。何ひとつ解決していない。
けれど。
「お兄ちゃーん! マキナちゃん、今日泊まってってもいいよねー?」 「いいよねー?」 「……最初からそのつもりだよ」
まあ、いいか。今日のところは。
________________________________________
6
翌日。パラゴンは一人でHUBを訪れていた。
――と言いたいところだが、実際には背後にマキナがくっついている。家に置いていこうとしたら「いっしょがいい」の一点張りで、ルーチェにまで「連れてってあげなよー」と加勢されたのだ。
「依頼の件、確認したいんだけど」
カウンターに昨日の依頼書を置こうとして、パラゴンは手を止めた。
ポケットから取り出した紙が、白い。
「……は?」
裏返す。透かす。何度見ても同じだった。昨日確かに読んだはずの依頼内容も、報酬額も、ミレイが押した受注印さえも、きれいさっぱり消えている。ただの、何も書かれていない紙切れ。
「ミレイ。昨日の指名依頼、記録を出してくれ」 「はい、ちょっと待ってくださいね。えっと、昨日の受注分は……」
端末を叩いていたミレイの指が、止まった。
「……あれ?」
もう一度。さらにもう一度。ミレイの表情が、困惑から、はっきりとした戸惑いに変わっていく。
「ない、です」 「ない?」 「受注記録も、発注記録も、報酬の預託記録も。昨日の日付で、パラゴンさん宛ての指名依頼は……一件も、登録されてません」 「そんなわけないだろ。お前が判子押したんだぞ」 「押しました! 覚えてます! でも、記録上は……最初から、そんな依頼なかったことになってるんです」
背筋に、冷たいものが走った。
HUBの記録は、傭兵の報酬と信用を担保する生命線だ。誰かが改竄したなら大問題だし、改竄の痕跡すら残っていないなら――それは、もっと大問題だった。
「あの箱は?」 「昨日の夜、清掃業者さんが回収しちゃいました。……そういえば、その業者さんの記録も、ない、ですね……」
ミレイの声が、どんどん小さくなっていく。
パラゴンは、ゆっくりと振り返った。
マキナは、カウンター脇の丸椅子に腰掛けて、ミレイからもらった飴玉を舐めていた。足をぷらぷらさせながら、壁の依頼書をのんびり眺めている。
「……マキナ」 「んー?」 「何か知ってるか?」 「なにも」
即答だった。
「ほんとに?」 「ほんと。……あ、この飴、いちごあじ。パラゴンも、たべる?」
差し出された包み紙を、パラゴンは無言で見つめた。
マキナは、にこにこしている。
昨日「うそ、へた」と言っていた少女は、少なくとも今この瞬間、驚くほど上手に何も知らない顔をしていた。
◇
その夜。
小さな食卓に、三人分の皿が並んだ。熱がだいぶ引いたルーチェは久しぶりに起き出して、兄の作ったシチューを嬉しそうに頬張っている。マキナはマキナで、初めて見るらしいニンジンを匙の上でじっと観察してから、恐る恐る口に運んでいた。
「……あまい。これも、あまい」 「でしょー? お兄ちゃんのシチュー、ニンジンが甘いの」 「すごいね、パラゴン」 「煮込んだだけだよ」
HUBでの一件は、まだ二人には話していない。話したところで、何をどう説明すればいいのか分からなかった。
依頼は存在しなかった。 箱を送った者も、受け取るはずだった者も、どこにもいない。 なのに、マキナだけが、ここにいる。
「ねえ、マキナちゃん」
ルーチェが、匙を置いた。熱の名残でほんのり赤い頬のまま、澄んだ目でマキナを見る。
いつもの、なんでもないお喋りの続きのような調子だった。
「マキナちゃんは、お兄ちゃんのこと、探してたの?」
――見つけたの、ではなく。 探してたの、と。
マキナの匙が、止まった。
ほんの一瞬。瞬き一回ぶんくらいの、短い沈黙だった。その間、あれほどくるくると変わっていた表情が、どこにも行き場をなくしたように、ぴたりと固まって見えた。
パラゴンは、何も言わずにマキナを見ていた。
それから、マキナは笑った。
「……えへへ」
困ったような、照れたような、どこか泣きそうにも見える、不器用な笑い方だった。
「ないしょ」
そう言って、マキナはシチューのニンジンをもうひとつ、口に放り込んだ。
「……あまいね」
誰に向けたともつかないその言葉が、小さな食卓の上に、ふわりと落ちた。
(第1話 了)