銀と琥珀   作:らむさいだー

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第10話 神は、見当たらなかった

 

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1

市場の北の外れに、古い噴水広場がある。

 

水はもう出ていない。石組みの縁は欠けて、苔がところどころに張りついている。昼を過ぎると人通りも減って、鳩と、日向ぼっこの猫くらいしかいなくなる。

 

広場の隅の石畳には、白墨で升目が描かれていた。子どもたちの石蹴りの跡だ。升目の中に、青く塗られた小石がいくつか転がっている。

 

見覚えのある青だった。少し前、この広場で「神託」を売っていた男がいた。そいつが売りさばいていたお守りの石が、没収されて、今は子どもたちの遊び道具になっている。

 

その縁に、寝間着のような衣を着た男が、仰向けに寝転がっていた。

 

寝癖のついた頭。半分だけ開いた口。額には、埃をかぶった円とうずまき線の紋が、ぼんやりと浮かんでいる。

 

「……いた」

 

マキナが、塩の包みを抱えたまま足を止めた。

 

市場で塩を買った帰りだった。この前、ガルドに「塩が足りねえ」と言われてから、アルマゲスト家の塩の減りが少しだけ早い。

 

「コテン、ねてる」「いつも寝てるだろ」「おこす?」「……いや」

 

パラゴンが言い終わる前に、男が、ゆっくりと片目を開けた。

 

「あれ。……前の、ちゃんと起きてる人だ」

 

昼寝の神、コテンだった。

 

コテンは、猫が伸びをするような速さで体を起こした。途中で一度あくびをして、それから、噴水の縁に座り直した。

 

「久しぶりだね。今日は、誰かに名前、使われてない?」

「使われてない。通りかかっただけだ」

「そう。よかった」

 

コテンは、本当に安心したように、もう一度あくびをした。

 

「そういえば、あのお婆さんのお孫さん、よく眠れてるって。この前、干し柿をくれたよ」

「お前にもか」

「僕にも。……干し柿って、眠くなるんだよね。甘いから」

 

たぶん、干し柿のせいではない。

 

パラゴンの肩からも、少しだけ力が抜けた。この神の近くにいると、いつもこうなる。

 

マキナが、コテンの隣にちょこんと座った。塩の包みを膝に乗せる。

 

「コテン、げんき?」「元気だよ。眠いけど」「いつも、ねむい」「うん。いつも眠い」

 

コテンは、ゆっくりとうなずいた。それから、ふと思い出したように、空を見上げた。

 

「そういえばね。この前、誘われたんだ」

 

「誘われた?」

 

パラゴンが聞き返すと、コテンは首をかしげた。自分でも、よく分からない、という顔だった。

 

「なんか、夢みたいな感じで。寝てたら、誰かに呼ばれたの。起きたら、ほとんど忘れちゃった」

「誰に」「分かんない」「どこへ」「それも、分かんない」

 

コテンは、困ったように笑った。

 

「覚えてるのはね、『来れば、昔みたいになれる』って。それだけ」

 

「むかし、みたいに」

 

マキナが、その言葉を小さく繰り返した。

 

コテンは、うーん、と唸った。

 

「でもさ。……昔って、いつの?」

 

本気で分からない、という声だった。

 

「僕、ずっとここで寝てたから。昔も、今も、あんまり変わらないんだよね。だから、行かなかった。眠かったし」

 

そのときだった。

 

コテンの額の紋が、光った。

 

埃の下で、ほんの一瞬。円とうずまき線が、灯りを透かしたように、淡く浮かび上がって、消えた。

 

コテンは、気づいていなかった。あくびを噛み殺しながら、鳩を眺めていた。

 

パラゴンも、気づいていなかった。「昔」という言葉が妙に引っかかって、噴水の涸れた底を見ていた。

 

気づいたのは、マキナだけだった。

 

マキナの顔から、表情が消えた。

 

たどたどしい好奇心も、塩の包みを抱える子どもっぽさも、全部どこかへ引っ込んで、ひどく静かな目が、コテンの額を見ていた。まばたきを、していなかった。

 

一呼吸。

 

「……マキナ?」

 

パラゴンが顔を上げたときには、マキナはもう、いつものマキナだった。塩の包みを抱え直して、首をかしげている。

 

「なに?」「いや。行くぞ」「うん」

 

パラゴンは、見ていなかった。

 

コテンは、ひらひらと手を振った。

 

「またね。起きてる人は、たまには座ったほうがいいよ。座ると、ちょっとだけ眠くなるから」

「眠くなってどうする」

「眠れるよ。それだけで、けっこういい」

 

コテンは、そう言ってまた噴水の縁に寝転がった。

 

三歩歩いて振り返ったときには、もう寝息を立てていた。

 

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2

来れば、昔みたいになれる。

 

その言葉が、帰り道のあいだじゅう、パラゴンの耳の奥に残っていた。

 

昔みたいに、と言って喜ぶのは、今がつらい者だ。コテンには、戻りたい昔がない。なら、戻りたい昔がある者は、どうするのか。

 

気がつくと、足が南へ向いていた。

 

「パラゴン、いえ、こっちじゃない」

「分かってる」「どこ、いくの?」

「……第十二区画。ノラの様子を見に行く」

 

マキナは、少しだけ目を見開いた。それから、塩の包みをぎゅっと抱え直して、うなずいた。

 

坂を下りながら、マキナがぽつりと訊いた。

 

「ノラ、ひとりかな」「どうだろうな」「カケラの、いし、もってるかな」「……持ってるだろうな」

 

あの日、石を額に押し当てて、声も出さずにうずくまっていた小さな背中を、パラゴンは覚えていた。忘れられるはずがなかった。

 

―――

 

検問ゲートの詰所には、見覚えのある制服の男がいた。

 

あの日と同じように、あくびを噛み殺している。パラゴンの傭兵証をろくに見もせずに、顎で中を示した。

 

「中で何かあっても自己責任だぞ」

 

ゲートをくぐると、空気が変わった。

 

あの日も、静かな場所だった。けれど、今日の静けさは、あの日とは質が違った。

 

音が少ないのではない。音を立てる者が、少ないのだ。

 

通りに面した家の戸が、いくつも閉まっていた。

 

屋根の落ちた祠に板を渡した家。石造りの社殿を布で仕切った家。どれも戸がきちんと閉められて、窓には布が掛けられている。

 

パラゴンは、一軒の戸の隙間から中を覗いた。

 

誰もいなかった。

 

荒らされた跡はなかった。床は掃かれ、わずかな食器は棚に重ねられ、毛布は畳まれていた。まるで、長い旅に出る前に、部屋を片付けていったように。

 

次の家も、その次の家も、同じだった。

 

ある家の戸口には、欠けた茶碗に野の花が挿して置いてあった。花はもう萎れかけていた。誰に宛てたものなのかは、分からなかった。残っていく誰かにか。それとも、ここで暮らした日々にか。

 

あの日、この通りでこちらを窺っていた目を、パラゴンは思い出していた。戸口の陰から警戒していた目。一瞥しただけで伏せられた目。人間が来ようが来るまいが、自分たちの明日は何も変わらないと知っている顔。

 

その顔の持ち主たちは、明日を変えに行ったのだろうか。

 

どこへ。誰に呼ばれて。

 

「……だれも、いない」

 

マキナが、パラゴンのコートの袖を小さく引いた。

 

あの日、水の出ない噴水の底を見下ろしていた痩せた女も、いなかった。

 

区画の奥、長老が住んでいた石造りの小屋の前で、パラゴンは足を止めた。

 

戸は、閉まっていた。

 

中には、誰もいなかった。

 

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3

「――なに、しにきた」

 

掠れた声がした。

 

振り返ると、崩れた石段の上に、痩せた影が座っていた。

 

灰色のぼさぼさの髪。猫のように尖った耳。

 

ノラだった。

 

「様子を見に来た」「……ようす」「元気そうだな」

 

ノラは、答えなかった。代わりに、自分の首に触れた。

 

首輪は、もうなかった。けれど、そこには、うっすらと輪の形の跡が残っていた。日に焼けていない、細い帯のような跡。

 

ノラの指が、その跡をなぞっていた。本人は、たぶん気づいていない。

 

「それ、痛むのか」

 

パラゴンが訊くと、ノラは自分の手を見下ろして、少し驚いたように指を離した。

 

「……いたく、ない。ちゃんと、とれた」

 

マキナが、石段の下にしゃがみ込んだ。ノラを見上げる。

 

「ノラ。みんな、どこ、いったの?」

 

ノラは、しばらく黙っていた。

 

「……よばれたって」「よばれた?」

「しりあいが、しりあいから、きいた。……だれが、よんでるのか、しらない」

 

ノラは、空っぽの通りを見渡した。

 

「ちょうろうも、いった」「長老も?」

「ほかの、くかくでも、いなくなってる、って」

 

ほかの区画。

 

パラゴンは、その言葉を頭の中で繰り返した。第十二区画だけではない、ということだ。

 

「なんて言って、呼ばれたんだ」

「……むかし、みたいに、なれるって」

 

コテンと、同じ言葉だった。

 

「お前は」

 

パラゴンが訊くと、ノラは、目を伏せた。

 

「……いかない」

 

短い答えだった。

 

それから、長い間があった。

 

「いきたく、ない、わけじゃ、ない、けど」

 

ノラは、それ以上言わなかった。

 

ノラの手の中に、小さな石があった。灰白色の、親指の先ほどの石。表面に、ほんのわずかに、赤い色が残っている。

 

カケラだった。

 

ノラの背後、崩れかけた小屋の戸口の奥に、木箱が一つ置いてあった。見覚えのある箱だった。側面の札は剥がされていたが、あの倉庫で見た箱だと、パラゴンにはすぐに分かった。

 

「それ、長老に預けた……」

「……ちょうろうが、いくまえに、おいてった」

 

ノラは、石を握ったまま、もう片方の手を、箱の蓋にそっと置いた。

 

置いていけない、とは言わなかった。

 

言わなくても、分かった。

 

マキナが、ノラの手の中の石を見つめていた。あの日、倉庫で見つめていたのと同じ目で。

 

「ノラ」「……なに」「むかしって、いいもの?」

 

ノラは、マキナを見た。

 

長いこと、見ていた。

 

「……しらない」

 

ノラは、カケラの石を、自分の胸に押し当てた。

 

「でも、いまより、ましかも、しれない」

 

マキナは、何も言わなかった。言葉を探しているように、口を小さく開けて、また閉じた。

 

それから、膝の上の包みを、両手でノラの方へ差し出した。

 

「これ、あげる」「……なに」「しお」

 

ノラは、差し出された包みと、マキナの顔を、交互に見た。

 

「……なんで、しお」「ごはん、おいしくなるから」

 

マキナは、それ以外の理由を持っていないようだった。

 

ノラは、しばらく包みを見つめていた。それから、カケラの石を握っていない方の手で、それを受け取った。

 

「……へんなやつ」

 

小さな声だった。けれど、突き放すような響きは、少しだけ薄れていた。

 

パラゴンは、家の塩がまた減ったな、と思った。帰りに、もう一度市場に寄らなければならない。

 

ノラが、ふっと顔を上げて、区画の入り口の方を睨んだ。

 

「さいきん、はいいろのが、しつこい」

 

パラゴンの背筋が、固くなった。

 

「灰色の……コートの連中か」

「ひとが、へったから。のこってるのに、こえ、かけてくる。……はこ、みにきたやつも、いた」

 

ノラの手が、箱の蓋の上で、ぎゅっと握られた。

 

パラゴンは、あの日の男の顔を思い出していた。黒檀の杖。丁寧すぎる物腰。「改めて、伺います」と言って、一度も振り返らずに消えた背中。

 

「……何かあったら、HUBに来い。第三支部だ。俺がいなくても、眼鏡の受付に言えば伝わる」

 

ノラは、パラゴンの顔を見た。

 

不思議なものを見るような目だった。

 

「……ここから、でたら、だめ」

 

パラゴンは、言葉に詰まった。

 

大人の胸ほどの高さしかない壁だった。越えようと思えば、誰でも越えられる。

 

越えようと思えば、の話だ。

 

「……なら、俺が来る。また来る」

 

ノラは、答えなかった。

 

ただ、首の跡に、また指を這わせていた。

 

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4

日が、傾き始めていた。

 

帰りの検問ゲートで、パラゴンは足を止めた。詰所の窓から、制服の男が退屈そうにこちらを見ている。

 

「なあ。最近、誰か出ていったか」

 

男は、きょとんとした顔をした。それから、鼻で笑った。

 

「出ていった? ここからか?」「ああ」

「冗談言うなよ。ここ数百年、誰も出てねえよ」

 

男は、机の上の分厚い帳面を、指でとんとんと叩いた。

 

「記録にもそう書いてある。出た者、なし。毎日な」

 

男は、それで話は終わりだとばかりに、また大きなあくびをした。

 

帳面には、出た者なし、と書いてある。

 

区画の中には、戸を閉ざした空き家が並んでいる。

 

どちらかが、間違っている。けれど、それを確かめようとする者は、この詰所には一人もいなかった。数百年、誰も越えなかった壁だ。誰も、数えようとすら思わない。

 

パラゴンは、何も言わなかった。

 

マキナが、パラゴンのコートの袖を握っていた。

 

パラゴンは、振り返った。

 

大人の胸ほどの高さしかない、低い壁。越えようと思えば誰でも越えられる壁が、数百年、一度も越えられずに立っていた壁。

 

その向こうに、夕日に染まった通りが続いていた。

 

戸を閉ざした家が並んでいた。風に鳴るトタン板の音だけが、かすかに届いてくる。

 

どこかの戸口の奥では、ノラが今も、石を握って座っているはずだった。

 

けれど、見渡した通りのどこにも、動くものの影はなかった。

 

神は、見当たらなかった。

 

(第10話 了)

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