________________________________________________________________________________
1
市場の北の外れに、古い噴水広場がある。
水はもう出ていない。石組みの縁は欠けて、苔がところどころに張りついている。昼を過ぎると人通りも減って、鳩と、日向ぼっこの猫くらいしかいなくなる。
広場の隅の石畳には、白墨で升目が描かれていた。子どもたちの石蹴りの跡だ。升目の中に、青く塗られた小石がいくつか転がっている。
見覚えのある青だった。少し前、この広場で「神託」を売っていた男がいた。そいつが売りさばいていたお守りの石が、没収されて、今は子どもたちの遊び道具になっている。
その縁に、寝間着のような衣を着た男が、仰向けに寝転がっていた。
寝癖のついた頭。半分だけ開いた口。額には、埃をかぶった円とうずまき線の紋が、ぼんやりと浮かんでいる。
「……いた」
マキナが、塩の包みを抱えたまま足を止めた。
市場で塩を買った帰りだった。この前、ガルドに「塩が足りねえ」と言われてから、アルマゲスト家の塩の減りが少しだけ早い。
「コテン、ねてる」「いつも寝てるだろ」「おこす?」「……いや」
パラゴンが言い終わる前に、男が、ゆっくりと片目を開けた。
「あれ。……前の、ちゃんと起きてる人だ」
昼寝の神、コテンだった。
コテンは、猫が伸びをするような速さで体を起こした。途中で一度あくびをして、それから、噴水の縁に座り直した。
「久しぶりだね。今日は、誰かに名前、使われてない?」
「使われてない。通りかかっただけだ」
「そう。よかった」
コテンは、本当に安心したように、もう一度あくびをした。
「そういえば、あのお婆さんのお孫さん、よく眠れてるって。この前、干し柿をくれたよ」
「お前にもか」
「僕にも。……干し柿って、眠くなるんだよね。甘いから」
たぶん、干し柿のせいではない。
パラゴンの肩からも、少しだけ力が抜けた。この神の近くにいると、いつもこうなる。
マキナが、コテンの隣にちょこんと座った。塩の包みを膝に乗せる。
「コテン、げんき?」「元気だよ。眠いけど」「いつも、ねむい」「うん。いつも眠い」
コテンは、ゆっくりとうなずいた。それから、ふと思い出したように、空を見上げた。
「そういえばね。この前、誘われたんだ」
「誘われた?」
パラゴンが聞き返すと、コテンは首をかしげた。自分でも、よく分からない、という顔だった。
「なんか、夢みたいな感じで。寝てたら、誰かに呼ばれたの。起きたら、ほとんど忘れちゃった」
「誰に」「分かんない」「どこへ」「それも、分かんない」
コテンは、困ったように笑った。
「覚えてるのはね、『来れば、昔みたいになれる』って。それだけ」
「むかし、みたいに」
マキナが、その言葉を小さく繰り返した。
コテンは、うーん、と唸った。
「でもさ。……昔って、いつの?」
本気で分からない、という声だった。
「僕、ずっとここで寝てたから。昔も、今も、あんまり変わらないんだよね。だから、行かなかった。眠かったし」
そのときだった。
コテンの額の紋が、光った。
埃の下で、ほんの一瞬。円とうずまき線が、灯りを透かしたように、淡く浮かび上がって、消えた。
コテンは、気づいていなかった。あくびを噛み殺しながら、鳩を眺めていた。
パラゴンも、気づいていなかった。「昔」という言葉が妙に引っかかって、噴水の涸れた底を見ていた。
気づいたのは、マキナだけだった。
マキナの顔から、表情が消えた。
たどたどしい好奇心も、塩の包みを抱える子どもっぽさも、全部どこかへ引っ込んで、ひどく静かな目が、コテンの額を見ていた。まばたきを、していなかった。
一呼吸。
「……マキナ?」
パラゴンが顔を上げたときには、マキナはもう、いつものマキナだった。塩の包みを抱え直して、首をかしげている。
「なに?」「いや。行くぞ」「うん」
パラゴンは、見ていなかった。
コテンは、ひらひらと手を振った。
「またね。起きてる人は、たまには座ったほうがいいよ。座ると、ちょっとだけ眠くなるから」
「眠くなってどうする」
「眠れるよ。それだけで、けっこういい」
コテンは、そう言ってまた噴水の縁に寝転がった。
三歩歩いて振り返ったときには、もう寝息を立てていた。
________________________________________________________________________________
2
来れば、昔みたいになれる。
その言葉が、帰り道のあいだじゅう、パラゴンの耳の奥に残っていた。
昔みたいに、と言って喜ぶのは、今がつらい者だ。コテンには、戻りたい昔がない。なら、戻りたい昔がある者は、どうするのか。
気がつくと、足が南へ向いていた。
「パラゴン、いえ、こっちじゃない」
「分かってる」「どこ、いくの?」
「……第十二区画。ノラの様子を見に行く」
マキナは、少しだけ目を見開いた。それから、塩の包みをぎゅっと抱え直して、うなずいた。
坂を下りながら、マキナがぽつりと訊いた。
「ノラ、ひとりかな」「どうだろうな」「カケラの、いし、もってるかな」「……持ってるだろうな」
あの日、石を額に押し当てて、声も出さずにうずくまっていた小さな背中を、パラゴンは覚えていた。忘れられるはずがなかった。
―――
検問ゲートの詰所には、見覚えのある制服の男がいた。
あの日と同じように、あくびを噛み殺している。パラゴンの傭兵証をろくに見もせずに、顎で中を示した。
「中で何かあっても自己責任だぞ」
ゲートをくぐると、空気が変わった。
あの日も、静かな場所だった。けれど、今日の静けさは、あの日とは質が違った。
音が少ないのではない。音を立てる者が、少ないのだ。
通りに面した家の戸が、いくつも閉まっていた。
屋根の落ちた祠に板を渡した家。石造りの社殿を布で仕切った家。どれも戸がきちんと閉められて、窓には布が掛けられている。
パラゴンは、一軒の戸の隙間から中を覗いた。
誰もいなかった。
荒らされた跡はなかった。床は掃かれ、わずかな食器は棚に重ねられ、毛布は畳まれていた。まるで、長い旅に出る前に、部屋を片付けていったように。
次の家も、その次の家も、同じだった。
ある家の戸口には、欠けた茶碗に野の花が挿して置いてあった。花はもう萎れかけていた。誰に宛てたものなのかは、分からなかった。残っていく誰かにか。それとも、ここで暮らした日々にか。
あの日、この通りでこちらを窺っていた目を、パラゴンは思い出していた。戸口の陰から警戒していた目。一瞥しただけで伏せられた目。人間が来ようが来るまいが、自分たちの明日は何も変わらないと知っている顔。
その顔の持ち主たちは、明日を変えに行ったのだろうか。
どこへ。誰に呼ばれて。
「……だれも、いない」
マキナが、パラゴンのコートの袖を小さく引いた。
あの日、水の出ない噴水の底を見下ろしていた痩せた女も、いなかった。
区画の奥、長老が住んでいた石造りの小屋の前で、パラゴンは足を止めた。
戸は、閉まっていた。
中には、誰もいなかった。
________________________________________________________________________________
3
「――なに、しにきた」
掠れた声がした。
振り返ると、崩れた石段の上に、痩せた影が座っていた。
灰色のぼさぼさの髪。猫のように尖った耳。
ノラだった。
「様子を見に来た」「……ようす」「元気そうだな」
ノラは、答えなかった。代わりに、自分の首に触れた。
首輪は、もうなかった。けれど、そこには、うっすらと輪の形の跡が残っていた。日に焼けていない、細い帯のような跡。
ノラの指が、その跡をなぞっていた。本人は、たぶん気づいていない。
「それ、痛むのか」
パラゴンが訊くと、ノラは自分の手を見下ろして、少し驚いたように指を離した。
「……いたく、ない。ちゃんと、とれた」
マキナが、石段の下にしゃがみ込んだ。ノラを見上げる。
「ノラ。みんな、どこ、いったの?」
ノラは、しばらく黙っていた。
「……よばれたって」「よばれた?」
「しりあいが、しりあいから、きいた。……だれが、よんでるのか、しらない」
ノラは、空っぽの通りを見渡した。
「ちょうろうも、いった」「長老も?」
「ほかの、くかくでも、いなくなってる、って」
ほかの区画。
パラゴンは、その言葉を頭の中で繰り返した。第十二区画だけではない、ということだ。
「なんて言って、呼ばれたんだ」
「……むかし、みたいに、なれるって」
コテンと、同じ言葉だった。
「お前は」
パラゴンが訊くと、ノラは、目を伏せた。
「……いかない」
短い答えだった。
それから、長い間があった。
「いきたく、ない、わけじゃ、ない、けど」
ノラは、それ以上言わなかった。
ノラの手の中に、小さな石があった。灰白色の、親指の先ほどの石。表面に、ほんのわずかに、赤い色が残っている。
カケラだった。
ノラの背後、崩れかけた小屋の戸口の奥に、木箱が一つ置いてあった。見覚えのある箱だった。側面の札は剥がされていたが、あの倉庫で見た箱だと、パラゴンにはすぐに分かった。
「それ、長老に預けた……」
「……ちょうろうが、いくまえに、おいてった」
ノラは、石を握ったまま、もう片方の手を、箱の蓋にそっと置いた。
置いていけない、とは言わなかった。
言わなくても、分かった。
マキナが、ノラの手の中の石を見つめていた。あの日、倉庫で見つめていたのと同じ目で。
「ノラ」「……なに」「むかしって、いいもの?」
ノラは、マキナを見た。
長いこと、見ていた。
「……しらない」
ノラは、カケラの石を、自分の胸に押し当てた。
「でも、いまより、ましかも、しれない」
マキナは、何も言わなかった。言葉を探しているように、口を小さく開けて、また閉じた。
それから、膝の上の包みを、両手でノラの方へ差し出した。
「これ、あげる」「……なに」「しお」
ノラは、差し出された包みと、マキナの顔を、交互に見た。
「……なんで、しお」「ごはん、おいしくなるから」
マキナは、それ以外の理由を持っていないようだった。
ノラは、しばらく包みを見つめていた。それから、カケラの石を握っていない方の手で、それを受け取った。
「……へんなやつ」
小さな声だった。けれど、突き放すような響きは、少しだけ薄れていた。
パラゴンは、家の塩がまた減ったな、と思った。帰りに、もう一度市場に寄らなければならない。
ノラが、ふっと顔を上げて、区画の入り口の方を睨んだ。
「さいきん、はいいろのが、しつこい」
パラゴンの背筋が、固くなった。
「灰色の……コートの連中か」
「ひとが、へったから。のこってるのに、こえ、かけてくる。……はこ、みにきたやつも、いた」
ノラの手が、箱の蓋の上で、ぎゅっと握られた。
パラゴンは、あの日の男の顔を思い出していた。黒檀の杖。丁寧すぎる物腰。「改めて、伺います」と言って、一度も振り返らずに消えた背中。
「……何かあったら、HUBに来い。第三支部だ。俺がいなくても、眼鏡の受付に言えば伝わる」
ノラは、パラゴンの顔を見た。
不思議なものを見るような目だった。
「……ここから、でたら、だめ」
パラゴンは、言葉に詰まった。
大人の胸ほどの高さしかない壁だった。越えようと思えば、誰でも越えられる。
越えようと思えば、の話だ。
「……なら、俺が来る。また来る」
ノラは、答えなかった。
ただ、首の跡に、また指を這わせていた。
________________________________________________________________________________
4
日が、傾き始めていた。
帰りの検問ゲートで、パラゴンは足を止めた。詰所の窓から、制服の男が退屈そうにこちらを見ている。
「なあ。最近、誰か出ていったか」
男は、きょとんとした顔をした。それから、鼻で笑った。
「出ていった? ここからか?」「ああ」
「冗談言うなよ。ここ数百年、誰も出てねえよ」
男は、机の上の分厚い帳面を、指でとんとんと叩いた。
「記録にもそう書いてある。出た者、なし。毎日な」
男は、それで話は終わりだとばかりに、また大きなあくびをした。
帳面には、出た者なし、と書いてある。
区画の中には、戸を閉ざした空き家が並んでいる。
どちらかが、間違っている。けれど、それを確かめようとする者は、この詰所には一人もいなかった。数百年、誰も越えなかった壁だ。誰も、数えようとすら思わない。
パラゴンは、何も言わなかった。
マキナが、パラゴンのコートの袖を握っていた。
パラゴンは、振り返った。
大人の胸ほどの高さしかない、低い壁。越えようと思えば誰でも越えられる壁が、数百年、一度も越えられずに立っていた壁。
その向こうに、夕日に染まった通りが続いていた。
戸を閉ざした家が並んでいた。風に鳴るトタン板の音だけが、かすかに届いてくる。
どこかの戸口の奥では、ノラが今も、石を握って座っているはずだった。
けれど、見渡した通りのどこにも、動くものの影はなかった。
神は、見当たらなかった。
(第10話 了)