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1
カウンターの端の、いつもの席に、ガルドが座っていた。
右脚を丸椅子の横に投げ出して、壁には松葉杖を立てかけている。ジョッキの中身は、今日も水だった。
「……施療院の先生に、怒られませんか」
ミレイが、眼鏡の奥で目を細めた。
「怒られたさ。二回な」「なら、どうして」
「部屋にいると、天井の染みの数を数えちまうんだよ。三日で全部覚えた。もう数えるもんがねえ」
ガルドは、にやりと笑った。顔色は、すっかり元の赤さに戻っていた。
マキナが、ガルドの隣の丸椅子によじ登った。
「ブーツ、みつかった?」「見つかってねえ」「さがしに、いく?」
「おう。脚が治ったら、一緒に探そうな。……いや、治ったら自分で探せるな」
「じゃあ、いま、いく」
「今は無理だ。俺が階段を上がれねえ」
パラゴンは、そのやり取りを聞きながら、依頼の掲示板を眺めていた。
いつもの朝だった。
支部の扉が、きい、と鳴るまでは。
―――
入ってきたのは、寝間着のような衣を着た男だった。
寝癖のついた頭。半分だけ開いた目。裸足に、擦り切れたサンダルを引っかけている。
誰も、気にしなかった。
朝飯を食べていた傭兵たちは、ちらりと目をやっただけで、また皿に戻った。寝ぼけた近所の住人が、道を間違えて入ってきた。そういう顔だった。
男は、きょろきょろと支部の中を見回した。それから、パラゴンを見つけて、ゆっくりと手を振った。
「あ。いた。起きてる人」
「……コテン?」
パラゴンが名前を呼んだ。
その瞬間だった。
近くの卓にいた傭兵の一人が、男の額に目を留めた。埃をかぶった、円とうずまき線の紋。
「……おい。あれ、神紋じゃねえか」
支部の中が、しんとなった。
椅子が、がたりと鳴った。卓の近くにいた傭兵たちが、誰からともなく、じり、と半歩下がった。
剣に手をかけた者はいなかった。怒鳴った者もいなかった。
ただ、半歩。
何をされるか分からない、得体の知れないものから、体が勝手に距離を取った。そういう半歩だった。
コテンは、その半歩に気づいているのかいないのか、ふわあ、と大きなあくびをした。
それだけで、支部の空気が、すとんと一段落ちた。
張りつめていた肩が、目に見えて緩む。つられてあくびをする者まで出てきた。
「……なんだ」
誰かが、気の抜けた声で言った。
「あの詐欺騒ぎの、昼寝のか。市場の噴水で寝てるって噂の」
「ああ、あいつか」
「あいつは別だろ。神っていうより、昼寝のおっさんだ」
笑い声が、少しだけ起きた。傭兵たちは、何事もなかったように皿に戻っていった。
下がった半歩だけは、誰も戻さなかった。
―――
「で、どうした。お前がこんなところまで来るなんて」
パラゴンが訊くと、コテンは、カウンターの前の丸椅子に、よいしょと腰を下ろした。
「うん。……ノラ、っていう子、知ってる?」
パラゴンの背筋が、固くなった。
マキナが、ガルドの隣で顔を上げた。
「ノラが、連れていかれたって」
コテンは、あくびを噛み殺しながら、のんびりと話した。
「昨日の夕方、噴水で寝てたらね。灰色の服の人たちが来たの。僕が寝てると思って、そばで話してた。『区画の猫耳と箱は回収した。次はこいつだ』って」
「こいつ?」
「僕のこと、みたい。『記録にない神は、消えても誰も探さねえ』って」
コテンは、他人事のように首をかしげた。
「僕、記録にないんだって。知らなかった」
「……それで、どうした」
「あくびしたら、みんな座り込んじゃったから。その間に、こっちに来た。市場の人に聞いたら、傭兵はここに集まってるって」
マキナが、ぎゅっと丸椅子の縁を掴んだ。
「ノラ、どこ?」
「分かんない。箱と一緒に、って言ってた」
支部の中は、また静かになっていた。
けれど、さっきの静けさとは違った。
「……区画の中のことだろ」
近くの卓で、誰かがぼそりと言った。
「神同士の揉め事に、首突っ込むなよ」
「で、依頼人は誰だ。そいつか? 報酬は出るのか」
「出るわけねえだろ。区画の神だぞ」
悪意のある声ではなかった。誰も、コテンを睨んではいなかった。
ただ、自分には関係ない。そういう声だった。
ミレイが、カウンターの向こうで、眼鏡の縁を指で押さえた。
「……すみません、コテンさん。規定で、神様からの依頼は、受理できないんです」
言いながら、ミレイは手元の紙に、コテンの話を一言残らず書きつけていた。それから、顔を上げて、パラゴンを見た。
「依頼じゃなくていい」
パラゴンは言った。
コテンは、あくびをしていた。半歩下がった傭兵たちと、丸椅子の上で船を漕ぎかけている昼寝の神。その間の床板が、パラゴンの目に、妙にはっきりと見えた。
たった半歩だった。
大人の胸ほどの高さしかない、あの区画の壁と同じだった。越えようと思えば、誰でも越えられる。
越えようと思えば、の話だ。
「――箱を運ぶなら、夜の運河だ」
カウンターの端で、ガルドが言った。
水のジョッキを置いて、いつになく低い声だった。
「倉庫街の南の荷揚げ場。夜は見張りがいねえ。荷船が一本、下流に抜けられる。俺が荷を逃がすなら、あそこを使う」
「……詳しいな」
「逃げる側の道を読むのは、殿の仕事のうちだ」
ガルドは、自分の添え木の脚を、忌々しそうに叩いた。
「脚さえ動きゃ、殿くらいはやってやるんだがな。……悪いな。今回は、口だけだ」
「十分だ」
パラゴンは、コートを羽織った。
マキナが、丸椅子から飛び降りた。
コテンも、よいしょと立ち上がった。
「……お前も来るのか」
「うん。次は僕の番なんでしょ。だったら、寝てても起きてても、同じだから」
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2
運河沿いの倉庫街は、夜になると、水の音しかしなかった。
あの白い異形と戦った、排水溜めの近くだ。パラゴンは、あのときのことを思い出しかけて、振り払った。
ここへ来るまでの道で、コテンは三回あくびをして、二回立ち止まって寝かけた。そのたびに、マキナが袖を引っぱった。
「コテン、おきて」「起きてるよ」
「め、とじてた」
「目を閉じてても、起きてるときはあるんだよ。……たぶん」
緊張感のかけらもなかった。けれど、そのおかげで、パラゴンの肩に入りすぎていた力は、少しだけ抜けていた。
ノラは、今どこにいるのか。箱の中で、あの石を握っているのか。
考えても仕方のないことを、考えていた。
南の荷揚げ場には、灯りが一つだけ揺れていた。
石の岸壁に、平たい荷船が一艘、横付けされている。灰色のコートの男たちが、倉庫から木箱を運び出しては、荷船に積み込んでいた。
その中の一つに、パラゴンは見覚えがあった。
側面の札を剥がされた、あの箱だった。
区画の外れの古い倉庫で、紺色のビロードの上に灰白色の石がずらりと並べられていた箱。その中から、ノラがカケラを見つけ出した箱。ノラが長老から託されて、ずっと手を置いていた箱だった。
その隣に、もう一回り大きな箱があった。蓋に、空気穴のような小さな穴が、いくつも開けられていた。
「……ノラ」
マキナが、小さく呟いた。
パラゴンは、倉庫の影から飛び出した。
一人目の男が振り向く前に、剣の峰で首筋を打った。二人目が短剣を抜いた手首を、拳銃の銃把で叩き落とす。三人目が叫び声を上げかけたところに、呪符を一枚――
「――待て待て待て」
荷船の上から、声がした。
低い、苛立った声だった。
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3
荷船から、一人の男が岸壁に降りてきた。
四十前後だろうか。がっしりした体格に、灰色のコートを着ていた。ただし、前を開け放して、袖を肘までまくり上げている。第十二区画で会った、あの丁寧な男たちとは、着方からして違った。無精髭の生えた顎。腰に、刃の厚い鉈のような剣と、短銃。
そして、首に、黒い金属の輪がはまっていた。
表面に、細かな魔紋が刻まれた輪だった。
「こっちは急いでんだよ。邪魔すんな、傭兵」
男は、倒れた部下を一瞥して、舌打ちをした。
「三人がかりで、一人に手こずってんじゃねえ。……ったく、どいつもこいつも」
「その箱を置いていけ」
パラゴンが剣を向けると、男は、心底うんざりしたように肩をすくめた。
「置いてけ? 馬鹿言え。区画の在庫が、ここひと月で半分に減ったんだ。どこのどいつが連れ出してるか知らねえが、こっちは商売あがったりだ」
男は、顎で荷船の上の箱を示した。
「残ってるのは、一点も取りこぼせねえんだよ。石の箱なんざ、元はうちの在庫だ。箱ごと、が一番高く売れる」
在庫。一点。箱ごと。
区画で会った男たちは、神を「管理物」と呼んだ。この男は、神を数えていた。
パラゴンは、左手で呪符を引き抜いた。
親指で、魔紋をなぞる。
――何も、起きなかった。
紙の上の回路に、魔素が一滴も流れ込んでこなかった。いつもなら指先に感じる、空気が紙に吸い寄せられるような感触が、まったくない。
もう一度なぞる。同じだった。
別の呪符を抜く。同じだった。
パラゴンは、魔法使いではない。体の中の魔素は、周りの空気と変わらない。だから呪符に周りの魔素を吸わせて、紙の回路で魔法に変える。
その紙と周りの間に、流れが生まれなかった。紙の中も、空気も、魔素の濃さがぴたりと同じにならされていた。
息を吸うと、空気が妙に澱んでいた。風の止まった水の底のような、何ひとつ動かない感覚。
「おう、どうした。紙切れが湿気てんのか」
男が、にやりと笑った。
首の黒い輪を、指先でとんとんと叩く。
「……パラゴン」
倉庫の影で、マキナが言った。
目を大きく見開いて、男の首元を見ていた。
「あの、くびわ。……ノラの、と、おなじ」
パラゴンは、息を呑んだ。
言われてみれば、そうだった。黒い金属。細かな魔紋。あの日、ノラの首にはめられていた、神の力を封じる首輪。
それと同じものを、人間が、自分の首にはめていた。
「嬢ちゃん、いい目してるな」
男の目が、一瞬だけマキナに留まった。値踏みするような目だった。それから、すぐにパラゴンに戻った。
「魔法頼みの傭兵ってのはな。これの前じゃ、ただの剣振りだ」
男が、鉈を抜いた。
速かった。
見た目の鈍重さからは想像もつかない踏み込みだった。厚い刃が、パラゴンの剣を上から叩き潰すように振り下ろされる。受けた腕が、骨まで痺れた。
拳銃を撃つ。男は半身をずらしてかわし、そのまま肩からぶつかってきた。パラゴンの体が、岸壁の石の上を転がる。
起き上がりざまに、足元の砂を蹴り上げた。いつもなら、ここで風の呪符を重ねて目眩ましにする。けれど、呪符は発動しない。砂だけでは、男の目を一瞬塞ぐのが精一杯だった。
その一瞬に斬りかかる。
男は、目を閉じたまま、刃を受けた。
「残念だったな。お前みたいなのは、いつも同じ手を使う」
読まれていた。
パラゴンの戦い方は、銃と剣と魔法を、その場その場で組み合わせる。三つのうち一つが消えれば、組み合わせの数は、半分以下になる。
男は、それを知っていた。
鉈が、パラゴンの左の脇腹を裂いた。
熱い、と思った次の瞬間には、膝が石畳についていた。
「パラゴン!」
マキナの声がした。
男が、鉈を振りかぶった。
「在庫でもねえのに、手間かけさせやがって――」
「ふわあ」
場違いな声が、岸壁に響いた。
倉庫の影で、コテンが、大きなあくびをしていた。
男の膝が、かくん、と折れた。
「……っ、あ?」
振りかぶった鉈の重さに、体がついてこなかった。男は、昼下がりの長椅子から立ち上がり損ねたように、片膝をついた。起き上がりかけていた部下たちも、次々に座り込んでいく。
首の黒い輪は、何もしなかった。
「今のうち、だよ」
コテンが、眠そうな声で言った。
パラゴンは、脇腹を押さえて立ち上がった。
荷船の方を見る。
岸壁に残っていた部下の一人が、這うようにして舫い綱を解いていた。荷船が、ゆっくりと岸を離れていく。穴の開いた箱と、札の剥がれた箱を乗せたまま。
パラゴンは走った。
岸壁の縁まで、三歩。解かれた舫い綱が、石の上を滑って水へ引きずられていく。
手を伸ばした。
指先が、綱の端をかすめた。
掴めなかった。
たった半歩だった。
その半歩を踏み出す前に、膝が崩れた。石畳に手をついた。血が、指の間から落ちていた。
綱の端が、水に沈んで見えなくなった。
「パラゴン、だめ」
マキナが、パラゴンのコートの裾を掴んでいた。
「いま、いったら、しぬ」
マキナの顔は、青ざめていた。
パラゴンは、奥歯を噛んだ。
荷船が、運河の闇に溶けていく。
岸壁で、男が、膝をついたまま顔を上げた。怒りと、苛立ちと、それから、ひどく愉快そうなものが混ざった顔だった。
「……覚えたぞ、傭兵」
男の目が、倉庫の影のコテンに向いた。
「おい、寝間着。次はゆっくり寝かせてやるよ。箱の中でな」
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4
倉庫街を抜けた先の、古い石橋の下で、パラゴンは座り込んだ。
マキナが自分のワンピースの裾を裂いて、パラゴンの脇腹に押し当てていた。白い布が、みるみる赤く染まっていく。
「……いい、自分でやる」
「だめ。おさえてて、って、ルーチェが、まえに、いってた」
マキナの手は、震えていた。けれど、布を押さえる力だけは、緩めなかった。
コテンが、橋の欄干にもたれて、運河の下流を見ていた。
荷船の灯りは、もうどこにも見えなかった。
「……あの子、行かなかったのにね」
コテンが、ぽつりと言った。
責めるような声ではなかった。ただ、不思議がっているような声だった。
呼ばれても、行かなかった。石を置いていけなくて、区画に残った。残ったから、連れていかれた。
パラゴンは、答えなかった。
答えられる言葉を、持っていなかった。
呪符が、使えなかった。魔法が、使えなかった。銃と剣だけになった途端、何もできなかった。
あの男は、パラゴンの戦い方を知っていた。知っていて、真ん中の柱を一本抜いた。それだけで、全部崩れた。
パラゴンは、血に濡れた拳を、石畳に押しつけた。
――このままじゃ、勝てない。
それから、ゆっくりと立ち上がった。
「……パラゴン、どこ、いくの」「朝霧のところだ」
マキナは、パラゴンの顔を見上げた。
「……けが、してるのに」
「分かってる」
「きょうは、もう、ねたほうが、いい」
パラゴンは、マキナの頭に手を置いた。血のついていない方の手で。
「寝てる間に、あいつは運河の向こうに行っちまう。……ノラは、行かないことを選んだんだ。だったら、迎えに行ってやらねえと」
マキナは、しばらく黙っていた。それから、小さくうなずいて、パラゴンの袖を掴んだ。離さない、というように。
中層区の裏通りにある食堂、鉄鍋亭の灯りは、まだついていた。
奥の卓で、がっしりした男が、唐揚げに塩を振っていた。制服の襟を緩め、ボタンを一つ外している。
セイフガード第三実働部隊隊長、朝霧実だった。
朝霧は、入ってきたパラゴンの姿を見て、塩の瓶を置いた。脇腹の赤い布と、青ざめたマキナと、その後ろで眠そうにあくびをしている寝間着の男を、順番に見た。
「……おう。ひでえ顔だな」
朝霧は、それだけ言って、向かいの椅子を足で押し出した。
「座れ。まず座れ。話はそれからだ」
―――
パラゴンが話し終えるまで、朝霧は一度も口を挟まなかった。
区画の神々が減っていること。ノラと石の箱が連れ去られたこと。灰色のコートの男たち。首に黒い輪をはめた男。呪符が使えなかったこと。
聞き終えると、朝霧は、長いこと黙っていた。
それから、唐揚げを一つ、口に放り込んだ。
「……組織としちゃな」
噛みながら、朝霧は言った。
「区画のことには、手が出せねえ。区画内の住人同士の揉め事には介入しない。そういう決まりだ。上に話を上げたところで、書類が一枚増えるだけだわ」
パラゴンは、黙って聞いていた。
分かっていた。ノラを助けたときも、紋章の件のときも、そうだった。
朝霧は、唐揚げを飲み込んだ。
それから、塩の瓶を、とん、と卓に置いた。
「だからな」
朝霧の目が、パラゴンをまっすぐに見た。
「――俺が行く」
(第11話 了)