銀と琥珀   作:らむさいだー

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第11話 たった半歩の遠さ

 

 

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1

カウンターの端の、いつもの席に、ガルドが座っていた。

 

右脚を丸椅子の横に投げ出して、壁には松葉杖を立てかけている。ジョッキの中身は、今日も水だった。

 

「……施療院の先生に、怒られませんか」

 

ミレイが、眼鏡の奥で目を細めた。

 

「怒られたさ。二回な」「なら、どうして」

「部屋にいると、天井の染みの数を数えちまうんだよ。三日で全部覚えた。もう数えるもんがねえ」

 

ガルドは、にやりと笑った。顔色は、すっかり元の赤さに戻っていた。

 

マキナが、ガルドの隣の丸椅子によじ登った。

 

「ブーツ、みつかった?」「見つかってねえ」「さがしに、いく?」

「おう。脚が治ったら、一緒に探そうな。……いや、治ったら自分で探せるな」

「じゃあ、いま、いく」

「今は無理だ。俺が階段を上がれねえ」

 

パラゴンは、そのやり取りを聞きながら、依頼の掲示板を眺めていた。

 

いつもの朝だった。

 

支部の扉が、きい、と鳴るまでは。

 

―――

 

入ってきたのは、寝間着のような衣を着た男だった。

 

寝癖のついた頭。半分だけ開いた目。裸足に、擦り切れたサンダルを引っかけている。

 

誰も、気にしなかった。

 

朝飯を食べていた傭兵たちは、ちらりと目をやっただけで、また皿に戻った。寝ぼけた近所の住人が、道を間違えて入ってきた。そういう顔だった。

 

男は、きょろきょろと支部の中を見回した。それから、パラゴンを見つけて、ゆっくりと手を振った。

 

「あ。いた。起きてる人」

 

「……コテン?」

 

パラゴンが名前を呼んだ。

 

その瞬間だった。

 

近くの卓にいた傭兵の一人が、男の額に目を留めた。埃をかぶった、円とうずまき線の紋。

 

「……おい。あれ、神紋じゃねえか」

 

支部の中が、しんとなった。

 

椅子が、がたりと鳴った。卓の近くにいた傭兵たちが、誰からともなく、じり、と半歩下がった。

 

剣に手をかけた者はいなかった。怒鳴った者もいなかった。

 

ただ、半歩。

 

何をされるか分からない、得体の知れないものから、体が勝手に距離を取った。そういう半歩だった。

 

コテンは、その半歩に気づいているのかいないのか、ふわあ、と大きなあくびをした。

 

それだけで、支部の空気が、すとんと一段落ちた。

 

張りつめていた肩が、目に見えて緩む。つられてあくびをする者まで出てきた。

 

「……なんだ」

 

誰かが、気の抜けた声で言った。

 

「あの詐欺騒ぎの、昼寝のか。市場の噴水で寝てるって噂の」

「ああ、あいつか」

「あいつは別だろ。神っていうより、昼寝のおっさんだ」

 

笑い声が、少しだけ起きた。傭兵たちは、何事もなかったように皿に戻っていった。

 

下がった半歩だけは、誰も戻さなかった。

 

―――

 

「で、どうした。お前がこんなところまで来るなんて」

 

パラゴンが訊くと、コテンは、カウンターの前の丸椅子に、よいしょと腰を下ろした。

 

「うん。……ノラ、っていう子、知ってる?」

 

パラゴンの背筋が、固くなった。

 

マキナが、ガルドの隣で顔を上げた。

 

「ノラが、連れていかれたって」

 

コテンは、あくびを噛み殺しながら、のんびりと話した。

 

「昨日の夕方、噴水で寝てたらね。灰色の服の人たちが来たの。僕が寝てると思って、そばで話してた。『区画の猫耳と箱は回収した。次はこいつだ』って」

「こいつ?」

「僕のこと、みたい。『記録にない神は、消えても誰も探さねえ』って」

 

コテンは、他人事のように首をかしげた。

 

「僕、記録にないんだって。知らなかった」

 

「……それで、どうした」

「あくびしたら、みんな座り込んじゃったから。その間に、こっちに来た。市場の人に聞いたら、傭兵はここに集まってるって」

 

マキナが、ぎゅっと丸椅子の縁を掴んだ。

 

「ノラ、どこ?」

「分かんない。箱と一緒に、って言ってた」

 

支部の中は、また静かになっていた。

 

けれど、さっきの静けさとは違った。

 

「……区画の中のことだろ」

 

近くの卓で、誰かがぼそりと言った。

 

「神同士の揉め事に、首突っ込むなよ」

「で、依頼人は誰だ。そいつか? 報酬は出るのか」

「出るわけねえだろ。区画の神だぞ」

 

悪意のある声ではなかった。誰も、コテンを睨んではいなかった。

 

ただ、自分には関係ない。そういう声だった。

 

ミレイが、カウンターの向こうで、眼鏡の縁を指で押さえた。

 

「……すみません、コテンさん。規定で、神様からの依頼は、受理できないんです」

 

言いながら、ミレイは手元の紙に、コテンの話を一言残らず書きつけていた。それから、顔を上げて、パラゴンを見た。

 

「依頼じゃなくていい」

 

パラゴンは言った。

 

コテンは、あくびをしていた。半歩下がった傭兵たちと、丸椅子の上で船を漕ぎかけている昼寝の神。その間の床板が、パラゴンの目に、妙にはっきりと見えた。

 

たった半歩だった。

 

大人の胸ほどの高さしかない、あの区画の壁と同じだった。越えようと思えば、誰でも越えられる。

 

越えようと思えば、の話だ。

 

「――箱を運ぶなら、夜の運河だ」

 

カウンターの端で、ガルドが言った。

 

水のジョッキを置いて、いつになく低い声だった。

 

「倉庫街の南の荷揚げ場。夜は見張りがいねえ。荷船が一本、下流に抜けられる。俺が荷を逃がすなら、あそこを使う」

「……詳しいな」

「逃げる側の道を読むのは、殿の仕事のうちだ」

 

ガルドは、自分の添え木の脚を、忌々しそうに叩いた。

 

「脚さえ動きゃ、殿くらいはやってやるんだがな。……悪いな。今回は、口だけだ」

「十分だ」

 

パラゴンは、コートを羽織った。

 

マキナが、丸椅子から飛び降りた。

 

コテンも、よいしょと立ち上がった。

 

「……お前も来るのか」

「うん。次は僕の番なんでしょ。だったら、寝てても起きてても、同じだから」

 

 

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2

運河沿いの倉庫街は、夜になると、水の音しかしなかった。

 

あの白い異形と戦った、排水溜めの近くだ。パラゴンは、あのときのことを思い出しかけて、振り払った。

 

ここへ来るまでの道で、コテンは三回あくびをして、二回立ち止まって寝かけた。そのたびに、マキナが袖を引っぱった。

 

「コテン、おきて」「起きてるよ」

「め、とじてた」

「目を閉じてても、起きてるときはあるんだよ。……たぶん」

 

緊張感のかけらもなかった。けれど、そのおかげで、パラゴンの肩に入りすぎていた力は、少しだけ抜けていた。

 

ノラは、今どこにいるのか。箱の中で、あの石を握っているのか。

 

考えても仕方のないことを、考えていた。

 

南の荷揚げ場には、灯りが一つだけ揺れていた。

 

石の岸壁に、平たい荷船が一艘、横付けされている。灰色のコートの男たちが、倉庫から木箱を運び出しては、荷船に積み込んでいた。

 

その中の一つに、パラゴンは見覚えがあった。

 

側面の札を剥がされた、あの箱だった。

 

区画の外れの古い倉庫で、紺色のビロードの上に灰白色の石がずらりと並べられていた箱。その中から、ノラがカケラを見つけ出した箱。ノラが長老から託されて、ずっと手を置いていた箱だった。

 

その隣に、もう一回り大きな箱があった。蓋に、空気穴のような小さな穴が、いくつも開けられていた。

 

「……ノラ」

 

マキナが、小さく呟いた。

 

パラゴンは、倉庫の影から飛び出した。

 

一人目の男が振り向く前に、剣の峰で首筋を打った。二人目が短剣を抜いた手首を、拳銃の銃把で叩き落とす。三人目が叫び声を上げかけたところに、呪符を一枚――

 

「――待て待て待て」

 

荷船の上から、声がした。

 

低い、苛立った声だった。

 

 

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3

荷船から、一人の男が岸壁に降りてきた。

 

四十前後だろうか。がっしりした体格に、灰色のコートを着ていた。ただし、前を開け放して、袖を肘までまくり上げている。第十二区画で会った、あの丁寧な男たちとは、着方からして違った。無精髭の生えた顎。腰に、刃の厚い鉈のような剣と、短銃。

 

そして、首に、黒い金属の輪がはまっていた。

 

表面に、細かな魔紋が刻まれた輪だった。

 

「こっちは急いでんだよ。邪魔すんな、傭兵」

 

男は、倒れた部下を一瞥して、舌打ちをした。

 

「三人がかりで、一人に手こずってんじゃねえ。……ったく、どいつもこいつも」

 

「その箱を置いていけ」

 

パラゴンが剣を向けると、男は、心底うんざりしたように肩をすくめた。

 

「置いてけ? 馬鹿言え。区画の在庫が、ここひと月で半分に減ったんだ。どこのどいつが連れ出してるか知らねえが、こっちは商売あがったりだ」

 

男は、顎で荷船の上の箱を示した。

 

「残ってるのは、一点も取りこぼせねえんだよ。石の箱なんざ、元はうちの在庫だ。箱ごと、が一番高く売れる」

 

在庫。一点。箱ごと。

 

区画で会った男たちは、神を「管理物」と呼んだ。この男は、神を数えていた。

 

パラゴンは、左手で呪符を引き抜いた。

 

親指で、魔紋をなぞる。

 

――何も、起きなかった。

 

紙の上の回路に、魔素が一滴も流れ込んでこなかった。いつもなら指先に感じる、空気が紙に吸い寄せられるような感触が、まったくない。

 

もう一度なぞる。同じだった。

 

別の呪符を抜く。同じだった。

 

パラゴンは、魔法使いではない。体の中の魔素は、周りの空気と変わらない。だから呪符に周りの魔素を吸わせて、紙の回路で魔法に変える。

 

その紙と周りの間に、流れが生まれなかった。紙の中も、空気も、魔素の濃さがぴたりと同じにならされていた。

 

息を吸うと、空気が妙に澱んでいた。風の止まった水の底のような、何ひとつ動かない感覚。

 

「おう、どうした。紙切れが湿気てんのか」

 

男が、にやりと笑った。

 

首の黒い輪を、指先でとんとんと叩く。

 

「……パラゴン」

 

倉庫の影で、マキナが言った。

 

目を大きく見開いて、男の首元を見ていた。

 

「あの、くびわ。……ノラの、と、おなじ」

 

パラゴンは、息を呑んだ。

 

言われてみれば、そうだった。黒い金属。細かな魔紋。あの日、ノラの首にはめられていた、神の力を封じる首輪。

 

それと同じものを、人間が、自分の首にはめていた。

 

「嬢ちゃん、いい目してるな」

 

男の目が、一瞬だけマキナに留まった。値踏みするような目だった。それから、すぐにパラゴンに戻った。

 

「魔法頼みの傭兵ってのはな。これの前じゃ、ただの剣振りだ」

 

男が、鉈を抜いた。

 

速かった。

 

見た目の鈍重さからは想像もつかない踏み込みだった。厚い刃が、パラゴンの剣を上から叩き潰すように振り下ろされる。受けた腕が、骨まで痺れた。

 

拳銃を撃つ。男は半身をずらしてかわし、そのまま肩からぶつかってきた。パラゴンの体が、岸壁の石の上を転がる。

 

起き上がりざまに、足元の砂を蹴り上げた。いつもなら、ここで風の呪符を重ねて目眩ましにする。けれど、呪符は発動しない。砂だけでは、男の目を一瞬塞ぐのが精一杯だった。

 

その一瞬に斬りかかる。

 

男は、目を閉じたまま、刃を受けた。

 

「残念だったな。お前みたいなのは、いつも同じ手を使う」

 

読まれていた。

 

パラゴンの戦い方は、銃と剣と魔法を、その場その場で組み合わせる。三つのうち一つが消えれば、組み合わせの数は、半分以下になる。

 

男は、それを知っていた。

 

鉈が、パラゴンの左の脇腹を裂いた。

 

熱い、と思った次の瞬間には、膝が石畳についていた。

 

「パラゴン!」

 

マキナの声がした。

 

男が、鉈を振りかぶった。

 

「在庫でもねえのに、手間かけさせやがって――」

 

「ふわあ」

 

場違いな声が、岸壁に響いた。

 

倉庫の影で、コテンが、大きなあくびをしていた。

 

男の膝が、かくん、と折れた。

 

「……っ、あ?」

 

振りかぶった鉈の重さに、体がついてこなかった。男は、昼下がりの長椅子から立ち上がり損ねたように、片膝をついた。起き上がりかけていた部下たちも、次々に座り込んでいく。

 

首の黒い輪は、何もしなかった。

 

「今のうち、だよ」

 

コテンが、眠そうな声で言った。

 

パラゴンは、脇腹を押さえて立ち上がった。

 

荷船の方を見る。

 

岸壁に残っていた部下の一人が、這うようにして舫い綱を解いていた。荷船が、ゆっくりと岸を離れていく。穴の開いた箱と、札の剥がれた箱を乗せたまま。

 

パラゴンは走った。

 

岸壁の縁まで、三歩。解かれた舫い綱が、石の上を滑って水へ引きずられていく。

 

手を伸ばした。

 

指先が、綱の端をかすめた。

 

掴めなかった。

 

たった半歩だった。

 

その半歩を踏み出す前に、膝が崩れた。石畳に手をついた。血が、指の間から落ちていた。

 

綱の端が、水に沈んで見えなくなった。

 

「パラゴン、だめ」

 

マキナが、パラゴンのコートの裾を掴んでいた。

 

「いま、いったら、しぬ」

 

マキナの顔は、青ざめていた。

 

パラゴンは、奥歯を噛んだ。

 

荷船が、運河の闇に溶けていく。

 

岸壁で、男が、膝をついたまま顔を上げた。怒りと、苛立ちと、それから、ひどく愉快そうなものが混ざった顔だった。

 

「……覚えたぞ、傭兵」

 

男の目が、倉庫の影のコテンに向いた。

 

「おい、寝間着。次はゆっくり寝かせてやるよ。箱の中でな」

 

 

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4

倉庫街を抜けた先の、古い石橋の下で、パラゴンは座り込んだ。

 

マキナが自分のワンピースの裾を裂いて、パラゴンの脇腹に押し当てていた。白い布が、みるみる赤く染まっていく。

 

「……いい、自分でやる」

「だめ。おさえてて、って、ルーチェが、まえに、いってた」

 

マキナの手は、震えていた。けれど、布を押さえる力だけは、緩めなかった。

 

コテンが、橋の欄干にもたれて、運河の下流を見ていた。

 

荷船の灯りは、もうどこにも見えなかった。

 

「……あの子、行かなかったのにね」

 

コテンが、ぽつりと言った。

 

責めるような声ではなかった。ただ、不思議がっているような声だった。

 

呼ばれても、行かなかった。石を置いていけなくて、区画に残った。残ったから、連れていかれた。

 

パラゴンは、答えなかった。

 

答えられる言葉を、持っていなかった。

 

呪符が、使えなかった。魔法が、使えなかった。銃と剣だけになった途端、何もできなかった。

 

あの男は、パラゴンの戦い方を知っていた。知っていて、真ん中の柱を一本抜いた。それだけで、全部崩れた。

 

パラゴンは、血に濡れた拳を、石畳に押しつけた。

 

――このままじゃ、勝てない。

 

それから、ゆっくりと立ち上がった。

 

「……パラゴン、どこ、いくの」「朝霧のところだ」

 

マキナは、パラゴンの顔を見上げた。

 

「……けが、してるのに」

「分かってる」

「きょうは、もう、ねたほうが、いい」

 

パラゴンは、マキナの頭に手を置いた。血のついていない方の手で。

 

「寝てる間に、あいつは運河の向こうに行っちまう。……ノラは、行かないことを選んだんだ。だったら、迎えに行ってやらねえと」

 

マキナは、しばらく黙っていた。それから、小さくうなずいて、パラゴンの袖を掴んだ。離さない、というように。

 

中層区の裏通りにある食堂、鉄鍋亭の灯りは、まだついていた。

 

奥の卓で、がっしりした男が、唐揚げに塩を振っていた。制服の襟を緩め、ボタンを一つ外している。

 

セイフガード第三実働部隊隊長、朝霧実だった。

 

朝霧は、入ってきたパラゴンの姿を見て、塩の瓶を置いた。脇腹の赤い布と、青ざめたマキナと、その後ろで眠そうにあくびをしている寝間着の男を、順番に見た。

 

「……おう。ひでえ顔だな」

 

朝霧は、それだけ言って、向かいの椅子を足で押し出した。

 

「座れ。まず座れ。話はそれからだ」

 

―――

 

パラゴンが話し終えるまで、朝霧は一度も口を挟まなかった。

 

区画の神々が減っていること。ノラと石の箱が連れ去られたこと。灰色のコートの男たち。首に黒い輪をはめた男。呪符が使えなかったこと。

 

聞き終えると、朝霧は、長いこと黙っていた。

 

それから、唐揚げを一つ、口に放り込んだ。

 

「……組織としちゃな」

 

噛みながら、朝霧は言った。

 

「区画のことには、手が出せねえ。区画内の住人同士の揉め事には介入しない。そういう決まりだ。上に話を上げたところで、書類が一枚増えるだけだわ」

 

パラゴンは、黙って聞いていた。

 

分かっていた。ノラを助けたときも、紋章の件のときも、そうだった。

 

朝霧は、唐揚げを飲み込んだ。

 

それから、塩の瓶を、とん、と卓に置いた。

 

「だからな」

 

朝霧の目が、パラゴンをまっすぐに見た。

 

「――俺が行く」

 

(第11話 了)

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