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1
鉄鍋亭の奥の卓で、朝霧は運河の地図を広げていた。
油の染みた紙の上を、太い指がなぞっていく。倉庫街の南の荷揚げ場から、運河は二度曲がって、市の外へ抜けている。
「荷船が一本、下流に抜けられる、ってガルドが言ってたんだな」
「ああ。逃げる側の道を読むのは、殿の仕事のうちだと」
「さすが、あのおっさんだわ」
朝霧の指が、地図の端近くで止まった。
「ここだ。第二水門」
運河が市の外へ出る手前に、小さな印があった。
「この先は川の水位が低い。荷船は、水門の中で水を抜いて、高さを合わせてからでないと出られねえ。で、この水門は夜は閉まってる。開くのは夜明けの一回目だ」
「……じゃあ、荷船は」
「今ごろ、水門の中で足止めだ。朝まで、どこにも行けねえ」
パラゴンは、脇腹の包帯を押さえた。鉄鍋亭の女将が、何も言わずに巻き直してくれたものだった。
「組織は動けないんじゃなかったのか」
「区画の中のことにはな」
朝霧は、にやりと笑った。
「運河は区画の外だ。区画から運び出された荷を、運河で密輸してる連中がいる。――そりゃあ、セイフガードの仕事だわ」
決まりは変わっていなかった。朝霧は、決まりの内側で、通れる道を探し当てただけだった。
「本当は、もっとまっとうな手でやりてえんだけどな。こっちにも立場ってもんがある。すまんな」
「十分だ」
パラゴンは言った。それから、自分の手のひらを見下ろした。
「……問題は、あの首の輪だ」
あの中では、呪符が動かなかった。一枚目も、二枚目も。銃と剣だけになった途端、何もできなかった。
「……朝霧。魔素ってのは、濃いところから薄いところへ流れるよな」
「なんだ急に。ガキの頃に習う話だろ」
パラゴンは、ポーチから呪符を一枚取り出して、卓に置いた。
呪符の紙の中は、周りより魔素が薄く作ってある。魔紋をなぞると、周りの魔素が紙の回路へ流れ込む。その流れが、光や風になる。
あのとき、紙は何も吸わなかった。紙の中も周りも、同じ濃さだったからだ。空気まで澱んで、どこにも流れがなかった。
……まるで、あたりの濃さを全部ならしているみたいだった。
コテンのあくびは効いた。首の輪は、何もしなかった。止められるのは、魔素の流れだけなのかもしれない。
パラゴンがそこまで話すと、朝霧は腕を組んだ。
「……そういや、うちの隊に報告が上がってたな。隣の管区の魔導士が、黒い輪をはめた男とやり合って、詠唱が通らなかったって」
「魔導士が?」
「自分の中の魔素まで、周りと同じになっちまったみたいだった、ってよ。そのときは、腕の悪い言い訳だと思って読み流したんだが」
朝霧は、太い指で卓をとんとんと叩いた。
「魔法使いでも駄目、か。……紙も空気も人の体も、全部同じ濃さにされちまうなら、流れなんざ起きようがねえわな」
「……止められるのは、魔素の流れだけ、か」
パラゴンは、地図の上に置かれた朝霧の手を見た。太い指の、分厚い手のひら。
「あんたの銃は、魔法か」
「いや? 生まれつきの手癖みてえなもんだ。触ったもんから、銃が生えてくる。魔素なんざ、使ってる覚えはねえな」
「なら、あいつの近くでも使える」
「……かもな」
パラゴンは、自分の手のひらをもう一度見下ろした。
「俺は、使えない。魔法なしじゃ、あいつには勝てない。ゆうべ、よく分かった」
「おう」
「だから、剣では勝負しない」
朝霧が、眉を上げた。
パラゴンは、地図の上の第二水門の印を、指で叩いた。
「あいつは、神を『在庫』って呼んでた。一点も取りこぼせない、ってな。……荷を数える奴は、荷から目を離せない」
「水門番に、話をつけられるか。合図をしたら、下流側の扉を少しだけ開けてほしい」
「開けてどうする」
「水が下に引かれる。船が動く」
朝霧は、しばらく地図を眺めていた。それから、太い指で水門の印をなぞった。
「……あいつの目の前で、在庫を流してみせるってわけか」
「ああ」
「水門番の爺さんとは、飲み仲間だ。夜明け前に叩き起こしてやるわ。合図は、空に一発。それでいいな」
「周りの連中は、あんたに頼みたい」
「おう。で、あいつは」
「俺がやる」
「その腹でか」
「半歩でいい。ゆうべは、それが届かなかった」
朝霧は、しばらくパラゴンの顔を眺めていた。
「……ぶっつけ本番だな」「いつものことだ」
パラゴンの袖を、小さな手が掴んだ。
マキナだった。
「わたしも、いく」「……」
「ノラ、むかえに、いく。いっしょに」
パラゴンは、マキナの顔を見た。青ざめていた顔に、少しだけ色が戻っていた。
止めても、ついてくる。そういう顔だった。
「……離れるなよ」「うん」
―――
コテンは、アルマゲスト家に置いていくことになった。
次はお前だ、と言われた神を、戦いの場に連れていくわけにはいかない。噴水広場に帰すわけにもいかない。
夜更けに戸を叩くと、ルーチェは寝間着のまま出てきた。兄の脇腹の包帯を見て息を呑み、その後ろに立つ寝癖の男を見て、目を丸くした。
「えっと……こちらは」
「コテン。昼寝の神だ。朝まで、置いてやってくれ」
「かみ、さま?」
コテンは、玄関の段差にちょこんと腰を下ろして、ルーチェを見上げた。
「こんばんは。お邪魔します。……長椅子、ある?」
ルーチェは、ぱちぱちと瞬きをした。
それから、ふわりと笑った。
「ありますよ。毛布も、出しますね」
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2
第二水門は、夜明け前の霧の中に沈んでいた。
運河沿いの道を下っていくと、途中で霧の様子が変わった。
手前の霧は、川風に流されてゆっくりと動いている。その先で、霧がぴたりと止まっていた。水門をまるごと包むように、ざっと五十メートル。境目から向こうの霧だけが、水の底に沈んだように少しも動かなかった。
「……あれか」「あれだな」
パラゴンは、後ろを振り返った。
「マキナ。ここで待ってろ。霧の外だ」
「……うん」
マキナは、境目の手前で足を止めた。握っていたコートの裾から、そっと手を離した。
パラゴンは、止まった霧の中へ踏み込んだ。
空気が澱んだ。風の止まった水の底のような、何ひとつ動かない感覚。ゆうべと同じだった。
石積みの壁に挟まれた細長い閘室に、あの平たい荷船が浮かんでいた。前後の鉄の扉は、どちらも固く閉じている。水門の脇には、小さな石造りの番小屋。灰色のコートの男たちが、その前で焚き火を囲んでいた。
閘室の上には、鉄の手すりのついた渡り板が一本、架かっていた。
その渡り板の真ん中に、男が一人、手すりにもたれて立っていた。
がっしりした体。前を開け放した灰色のコート。首に、黒い金属の輪。
グレイヴだった。
「……しつこい傭兵だな」
グレイヴは、霧の向こうから現れたパラゴンを見て、うんざりしたように言った。
「腹、裂いてやったろ。寝てろよ」「寝てたら、朝になる」
パラゴンは、渡り板のたもとで足を止めた。
「で、今度は二人か」
グレイヴの目が、パラゴンの隣に立つ男に移った。制服の襟を緩めた、がっしりした男。
「セイフガード第三実働部隊、朝霧だ」
朝霧は、気さくに片手を上げた。
「運河で、区画から運び出された荷を密輸してるって通報があってな。悪いが、その船の中身、改めさせてもらうわ」
「セイフガードは区画のことには口出ししねえ決まりだろうが」
「おう。だから区画の外で話してんだよ」
グレイヴが、舌打ちをした。焚き火の周りの男たちが、一斉に立ち上がる。
朝霧は、しゃがみ込んで、石畳に手のひらをついた。
石畳が、軋んだ。
焚き火を囲む男たちの足元で、石の継ぎ目が盛り上がった。そこから、黒い銃身が突き出した。一本、二本、五本、八本。石から直接生えた銃口が、男たちをぐるりと取り囲んで、ぴたりと狙いを定めていた。
男たちが、その場で凍りついた。
「……は?」
グレイヴの顔から、苛立ちが消えた。
「魔法じゃ、ねえ……?」
「ああ。生まれつきの手癖みてえなもんでな。お前さんの首輪じゃ、止まらねえらしい」
朝霧が、渡り板の端の手すりに手を伸ばした。
「――火ぃ持ってこい!」
グレイヴが、荷船に向かって怒鳴った。さっきまでのうんざりした声ではなかった。
荷船の上で、部下の一人が松明に火を移した。積み上げた木箱の山に、瓶の中身をぶちまける。つんと、油の匂いがした。
その山の中に、蓋に空気穴の開いた箱があった。札を剥がされた、石の箱もあった。
「そいつが一歩でも動いたら、火ぃつけろ! 聞こえたか!」
松明の火が、油に濡れた箱の上で揺れた。
朝霧の手が、手すりの手前で止まった。
「……てめえ」
「撃ってみろよ、隊長さん。松明が落ちりゃ、船ごと燃えるぜ」
朝霧は、伸ばしかけた手を、ゆっくりと下ろした。石畳の銃口は、焚き火の男たちを囲んだままだった。
グレイヴは、荒い息を一つ吐いて、ようやく笑った。こめかみに、汗が一筋流れていた。それから、パラゴンの方へ顎をしゃくった。
「そっちの傭兵は、来ていいぜ。紙切れしか持ってねえ手負いに、火をつけるほどのこともねえ」
グレイヴが、鉈を抜いた。
「来いよ。ゆうべの続きだ。今度は、腹じゃ済まさねえ」
パラゴンは、朝霧を見た。
朝霧は、奥歯を噛んでいた。けれど、目だけで小さくうなずいた。
「……合図、忘れんなよ」
パラゴンにしか聞こえない声だった。
パラゴンは答えずに、焚き火から燃えさしを一本引き抜いた。それから、渡り板へ踏み出した。
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3
渡り板の上の霧は、重く澱んだまま、少しも動かなかった。
パラゴンは、燃えさしを投げた。
グレイヴの顔めがけて、赤い火の粉が散る。グレイヴは鉈の腹でそれを払い落とした。腕が上がった隙に、拳銃を撃つ。一発目は、コートの袖をかすめた。二発目は、鉈に弾かれた。
「火遊びの次は、豆鉄砲か」
グレイヴが踏み込んでくる。厚い刃が、上から叩き潰すように振り下ろされる。剣で受けた。腕が痺れる。脇腹の傷が、焼けるように痛んだ。
霧に紛れて、渡り板の支柱の陰へ回る。鉈が支柱に食い込んで、木屑が散った。その一瞬に、剣を横に薙ぐ。グレイヴは半歩下がってかわした。
二合、三合。
剣でも、読みでも、グレイヴが上だった。
押されながら、パラゴンは見ていた。
荷船が軋むたびに、グレイヴの目がそちらへ流れる。ほんの一瞬だけ。波が船腹を叩く音にも、松明の部下が足を踏み替える音にも。
剣を合わせている間も、この男は荷を数えている。
渡り板の手すりに、背中がぶつかった。下は、暗い閘室の水面だった。
手すりの柱に、太い綱が一本巻きつけてあった。下の荷船へ、斜めに伸びている。
舫い綱だった。
ゆうべ、指先がかすめて、掴めなかった綱。
綱を切って、扉を開ければ、船は傾く。傾けば、松明の男はよろける。
よろけた松明が、油の上に落ちたら。
パラゴンの喉が、ひとりでに鳴った。ゆうべ決めたときとは、状況が変わっていた。
渡り板のたもとを、目の端で見た。朝霧の手が、手すりのすぐそばで止まっている。指先だけが、手すりに触れていた。
朝霧なら、外さない。
外したら、と考えかけて、やめた。このまま剣を合わせていれば、どのみち先に倒れるのは自分だった。
「お前みたいなのは、いつも同じ手を使う」
グレイヴが、鉈を振りかぶった。
「剣で受けて、隙を見て――」
パラゴンは、剣を受けに上げなかった。
横に振った。
刃が、舫い綱を断ち切った。
「――朝霧!」
渡り板のたもとで、朝霧の指先が触れていた手すりから、銃身が一本、空へ向かって生えた。銃声が一発、霧の上へ抜けた。
向こう岸の巻き上げ小屋で、鎖の鳴る音がした。下流側の扉が、ほんのわずかに口を開ける。
閘室の水が、どっと下へ引かれた。
綱を失った荷船が、ぐらりと傾いた。そのまま、細く開いた扉の方へ、水に引きずられて滑り出す。
松明の部下が、よろけた。
朝霧の指の下で、手すりからもう一本、銃身が生えた。今度は、荷船を向いていた。火を噴いた。松明が部下の手から弾け飛んで、閘室の水に落ちた。じゅっ、と音がして、消えた。
グレイヴは、鉈を振りかぶったまま、荷船を見ていた。
流れていく。穴の開いた箱が。石の箱が。一点も取りこぼせない、在庫が。
切れた綱の端が、船に引かれて、手すりの上をずるずると滑っていく。
グレイヴは、鉈を放り出した。手すりから身を乗り出して、落ちていく綱の端へ手を伸ばした。
指先が、綱の端をかすめた。
掴めなかった。
たった半歩だった。
その半歩ぶん乗り出した背中に、パラゴンは踏み込んだ。
半歩。
ゆうべ、届かなかった半歩だった。
今度は、踏み出した。
グレイヴの襟首を掴んで、手すりから引き剥がす。膝の裏を蹴って、渡り板に叩き伏せた。
「てめえ――」
グレイヴが、肘をパラゴンの脇腹の傷に叩き込んだ。目の前が白くなった。それでも、襟首を掴んだ手は離さなかった。
全体重をかけて、押さえ込む。
「動くなよ」
朝霧の声がした。
渡り板の手すりから。足元の板から。閘室の石壁から。黒い銃口が、次々に生えてきた。枝が伸びるように、グレイヴの頭の周りをぐるりと取り囲んで、ぴたりと止まった。
十本を超える銃口が、一人の男を見下ろしていた。
グレイヴは、動かなかった。
下流側の扉が、また鎖の音を立てて閉じていった。荷船は、閘室の端の石壁にごつんとぶつかって、止まった。
「……ったく」
グレイヴが、血の混じった唾を吐いた。
「荷に目ぇ取られるとはな」
パラゴンは、答えなかった。答える息が、残っていなかった。
朝霧が、渡り板を渡ってきた。グレイヴの両手を後ろで縛り上げ、それから、首の黒い輪に手をかけた。
留め金を外す。かちり、と小さな音がした。
その瞬間、空気が戻ってきた。
止まっていた霧が、川風にほどけて流れ出した。
グレイヴの懐で、ざらざらと雑音が鳴り始めた。襟の裏の小さな金属の徽章が、その雑音に合わせて、かすかに明滅していた。
胸いっぱいに息が入る。指先に、あの感触が戻ってくる。周りの空気が、紙に吸い寄せられるような、いつもの感触。
朝霧は、外した輪を手のひらの上で転がして、しげしげと眺めた。
「こんな首輪ひとつで、魔導士まで黙らせるってんだからな。……物騒な世の中になったもんだわ」
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4
番小屋の前は、静かになっていた。
灰色のコートの男たちは、石畳から生えた銃口に囲まれたまま、一人残らず地面に伏せていた。誰も、動こうとしなかった。
荷船の上の松明の男も、両手を上げて降りてきた。朝霧は、そいつらをまとめて縛り上げた。それから、パラゴンの顔を覗き込んだ。
「顔色、最悪だぞ。まあ、立ってるだけ上出来だわ」
朝霧は、渡り板の上に転がったグレイヴを見下ろした。
「運河での密輸の現行犯。詰所まで来てもらうぞ」
グレイヴは、笑った。
喉の奥で、くつくつと。痛みに顔を歪めながら。
「……勘違いすんなよ、傭兵」
グレイヴの目が、パラゴンを見上げた。
「我々は『樹』の枝だ。……枝を一本折ったくらいで、樹は倒れん」
樹。
パラゴンの頭に、一つの形が浮かんだ。
区画の倉庫で拾った、小さな金属の徽章。大きく枝を広げた一本の樹。その枝のうちの一本だけが、根元から断ち切られたように欠けていた。
あのとき、雑貨屋の老人が、去り際にぽつりと漏らした言葉。
――昔、「樹」を名乗る連中がいた。
紋章と、名前と、神を売る男たち。ばらばらだったものが、一本の幹に繋がった。
グレイヴは、パラゴンの肩越しに、どこかを見ていた。
「それとな」
パラゴンが振り返ると、水門の縁に、マキナが立っていた。霧が流れ出したのを見て、駆けてきたらしい。白いワンピースの裾が、霧の中でかすかに揺れていた。
「上は、あの銀色の娘に興味があるらしいがな」
パラゴンは、グレイヴに向き直った。
「……どういう意味だ」
「さあな。俺は在庫を運ぶだけだ。上の考えなんざ――」
そのとき、首輪が外れてからグレイヴの懐で鳴り続けていた雑音が、ふいに大きくなった。襟の裏の徽章が、強く光った。
通信用の魔導具だった。
雑音の向こうから、女の声が漏れ聞こえた。
『――あらあら。折れちゃったのぉ?』
間延びした、どこか楽しげな声。
パラゴンは、その声を知っていた。区画の倉庫で、黒檀の杖の男の胸元から聞こえた声だった。在庫は惜しいけど、足がつくほうが面倒だもの、と笑った声。
グレイヴの顔から、血の気が引いた。さっきまでの不敵な笑みが、どこにもなかった。
『……まあ、いいけど』
声は、心底どうでもよさそうに続けた。
『枝なんて、またいくらでも生えるもの。……ね?』
「待っ――」
グレイヴが、声を上げかけた。
『だからぁ。折れた枝は、もういらないの』
じゅっ、と小さな音がした。
グレイヴのコートの襟の裏から、細い煙が上がった。そこに留めてあった小さな金属の徽章が、赤く焼けていた。大きく枝を広げた、一本の樹の紋。その刻み目が、端から黒く焼け潰れていく。
グレイヴは、焼けた徽章を襟ごと掴んだ。指の間から、焦げた匂いがした。
『ばいばい』
ぷつり、と音が途切れた。
それきり、魔導具は何も言わなかった。
グレイヴは、黒く潰れた徽章を握ったまま、動かなかった。
「……切りやがった」
掠れた声だった。さっき「樹は倒れん」と笑った男と、同じ声には聞こえなかった。
いつだったか、朝霧が鉄鍋亭で言っていた。あの紋章は、ただの飾りじゃない。身分証で、上と話すための鍵だ、と。
その鍵を、向こうから焼き潰したのだ。
―――
荷船の中の、穴の開いた箱の蓋を、パラゴンは剣の柄でこじ開けた。
中で、灰色の髪が、びくりと動いた。
ノラだった。
膝を抱えて、箱の底に丸まっていた。両手で、小さな石を胸に押し当てていた。灰白色の、頬に赤い模様の切れ端が残る石。
ノラが、顔を上げた。
パラゴンを見た。
「……きた」
掠れた声だった。
また来る、とパラゴンが言ったのは、ほんの数日前だった。
「迎えに来た」
パラゴンは、手を差し出した。
ノラは、その手をしばらく見つめていた。それから、石を握っていない方の手で、そっと掴んだ。
マキナが、箱の縁から顔を出した。
「ノラ。けが、ない?」「……ない」「よかった」「……しお、まだ、ある」
マキナは、きょとんとした。それから、ぱっと顔を輝かせた。
「つかって、ない?」「……もったいない、から」
ノラは、ふいと顔を背けた。尖った耳の先が、ほんの少しだけ赤くなっていた。
隣の箱は、無事だった。札を剥がされた、石の箱。ノラは、箱から這い出すなり、その蓋に両手を置いた。
長いこと、そうしていた。
「……区画に、戻るのか」
パラゴンが訊くと、ノラは、箱に手を置いたまま、うなずいた。
「……かえる。くかくに」「また狙われるかもしれないぞ」「……しってる」
ノラは、顔を上げた。
「でも、はこ、ある、から。……えらんだ、から」
行かないことを選んだ神は、戻ることも、自分で選んだ。
パラゴンは、それ以上何も言わなかった。
「送ってく。箱は、俺が担いでくわ。区画の門の前までな。そっから先は、俺は入れねえ。……決まりだからな」
「……いい。そこまでで、いい」
ノラは、朝霧を見上げて、小さく頭を下げた。
―――
夜が明けかけた頃、紺色の背広の男が、水門に現れた。朝霧が、詰所を通して呼んでおいたらしい。
企業調停庁、CMAの第二監督課の執行官、フェルナーだった。紛争の残党が暴れた件で、一度だけ顔を合わせたことがある。声の低い男だった。
朝霧が、黒い輪を差し出した。フェルナーは手袋をはめた指でそれを受け取り、細かな魔紋を、しばらく黙って眺めていた。
「危険な魔道具は、こちらの管轄です」
「密輸犯は、うちの管轄だわ」
朝霧が、縛り上げたグレイヴを顎で示した。
フェルナーは、ちらりと朝霧を見て、それから輪を布に包んだ。
「解析は、ベル&クレストに回します。……では、朝霧隊長。アルマゲストさんも」
それだけ言って、フェルナーは霧の中へ戻っていった。
パラゴンは、輪が包まれていった布の白さを、しばらく目で追っていた。
なぜか、運河の地下の排水溜めを思い出していた。白い異形の残骸に細い針を当てていた、解析屋の女。エルニア・リップ。
――本体は、もっと丁寧なはずだ。これは検証用。
あのとき、女が言ったのは、あの異形のことだった。
けれど、布に包まれていった輪の魔紋は、ひどく細かく、ひどく丁寧だった。
その声が、耳から離れなかった。
東の空が、白み始めていた。
向こう岸の巻き上げ小屋から、水門番の爺さんが顔を出した。朝霧に叩き起こされたせいか、まだ眠そうだった。縛られた男たちの列を見て首を振りながら、いつも通り巻き上げ機の把手に手をかけた。
ぎい、と重い音がして、第二水門の扉が、ゆっくりと開き始めた。
もう、どこへも行かない荷船の前で。
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5
アルマゲスト家に帰り着いたのは、朝日がすっかり昇った頃だった。
居間の長椅子で、コテンが寝ていた。
毛布が、肩までかけてあった。寝癖の頭の下には、ルーチェのお気に入りのクッションが敷いてある。静かな寝息が、部屋の空気をゆっくりと揺らしていた。
ルーチェは、その向かいの椅子で、膝の上に本を広げたまま、うとうとしていた。
玄関の音に、はっと顔を上げる。兄の姿を見て、包帯を見て、それから、ほうっと息をついた。
「おかえり、お兄ちゃん。……マキナちゃんも」
「ただいま」「ただいま」
ルーチェは、長椅子のコテンを見て、声をひそめて笑った。
「ずっと、寝てたの。一回だけ起きて、『ここ、いい長椅子だね』って言って、また寝ちゃった」
「……らしいな」
「なんだかね。コテンさんがいると、ちっとも怖くなかったの。お兄ちゃんたちが危ないところに行ってるのに、変だよね」
それは、たぶん、あくびのせいだけではなかった。
パラゴンは、脇腹の包帯を押さえながら、台所へ向かった。湯を沸かす。手が、まだ少しだけ震えていた。
居間から、櫛の音が聞こえてきた。
―――
ルーチェは、長椅子の端に座って、膝の前の床にマキナを座らせていた。
夜霧で湿った銀色の髪を、柔らかい櫛でゆっくりと梳いていく。
「ノラちゃん、っていう子は、大丈夫だった?」
「うん。くかくに、かえった。じぶんで、えらんで」
「そっか」
「しお、まだ、つかってないって。もったいないって」
ルーチェが、くすくすと笑った。
しばらく、櫛の音だけが続いた。
「……ルーチェ」「なあに?」
マキナは、前を向いたまま言った。
「まえに、きいたよね」
ルーチェの櫛が、止まった。
ずっと前。マキナがこの家に来た最初の日。HUBに届いた箱から飛び出してきた、名前も分からない銀色の髪の女の子に、ルーチェは訊いた。
マキナちゃんは、お兄ちゃんのこと、探してたの?
あのとき、マキナは、笑ってごまかした。
「……おにいちゃんのこと、さがしてたの、って」
「……うん」
マキナは、少しだけ黙った。
台所で、湯が沸く音がした。パラゴンは、火を止めた。止めたまま、動かなかった。
「うん。さがしてた」
マキナの声は、小さかった。けれど、たどたどしくはなかった。
「……でも」
マキナは、自分の膝の上で、両手をぎゅっと握った。
「いまは、それだけじゃ、ない」
ルーチェは、何も訊かなかった。
なぜ探していたのか。何のために。それだけじゃないって、何なのか。
何も訊かずに、止まっていた櫛を、また動かし始めた。
「……そっか」
それだけ言って、マキナの髪をひと房すくい上げて、編み始めた。
台所の戸口に、パラゴンが立っていた。
マキナが、振り返ろうとした。ルーチェの指が、髪を押さえてそれを止めた。
「動いちゃだめ。曲がっちゃう」
パラゴンは、戸口の柱にもたれた。
訊きたいことは、いくらでもあった。あの箱に、誰が詰めたのか。どうして自分だったのか。上は、あの銀色の娘に興味がある――あの男の言葉は、何を意味していたのか。
けれど、口から出たのは、一言だけだった。
「……そうか」
マキナの肩から、力が抜けるのが見えた。
長椅子の上で、コテンが寝返りを打った。むにゃむにゃと、何か寝言を言った。
窓から、朝の光が差し込んでいた。
パラゴンは、あの日のことを思い出していた。
HUBのカウンターの上で、がたがたと揺れていた箱。禁輸種の獣でも入っているのかと、皆で身構えた箱。蓋を突き破って飛び出してきて、「やっと見つけた」と抱きついてきた、白いワンピースの女の子。
あの箱の本当の中身が何だったのか、パラゴンは、まだ知らない。
それでも――
編み上がった三つ編みの先で、青いリボンが、朝の光の中で揺れていた。
それで十分だと、今は思えた。
(第12話 了)
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エピローグ
管理塔の上層は、いつも静かだった。
中央都市ポラリスの真ん中に立つ、十五の階層を持つ塔。見上げれば、先端は雲に届きそうなほど高い。受付と住民登録の窓口がある下の階層の喧騒は、ここまでは届かない。
第十三階層。
思想実行実現部隊――ダエーワ。
その廊下の突き当たりの窓辺に、女が一人、腰かけていた。
ワンピースの上に、片側だけの半甲冑。白い髪。膝の上に、手のひらほどの通信用の魔導具を載せて、指先で弄んでいる。
窓の外には、夜明けの街が広がっていた。その南の端に、低い壁に囲まれた区画が、小さく見えた。
「あーあ。折れちゃった」
女は、楽しそうに言った。
「在庫は惜しいけど、ね。……まあ、いっか。代わりに、いいこと聞いちゃったし」
女は、魔導具を窓の外へ、ぽいと放った。
地上は、目がくらむほど遠い。小さな影は、あっという間に点になって、見えなくなった。
「――また、何か企んでるのか」
廊下の向こうから、低い声がした。
煙草の匂いがした。
拳に古い傷の走った女が、壁にもたれていた。煙を吐きながら、窓辺の女を横目で見ている。
「企んでないよぉ。ちょっと、お庭の手入れをね」
窓辺の女は、にっこりと笑った。
「剪定。……折れた枝は、ちゃんと切っておかないとね」
煙草の女は、しばらく黙って煙を吐いていた。
それから、踵を返した。
「……ほどほどにしとけよ、七番」
足音が遠ざかっていく。
窓辺の女は、ひらひらと手を振った。それから、また窓の外を見下ろした。
女の目は、南の端の区画を素通りして、下層の家並みへ滑っていった。
傭兵が一人、銀色の髪の娘を連れて帰る家。どこにでもある、小さな屋根の群れ。そのどれか一つに、白いワンピースの少女がいるはずだった。
「――ふふ」
ダエーワ七番は、目を細めて笑った。
「見ぃつけた」
(第1章 中央都市編 了)