銀と琥珀   作:らむさいだー

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第12話 箱の中身

 

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1

鉄鍋亭の奥の卓で、朝霧は運河の地図を広げていた。

 

油の染みた紙の上を、太い指がなぞっていく。倉庫街の南の荷揚げ場から、運河は二度曲がって、市の外へ抜けている。

 

「荷船が一本、下流に抜けられる、ってガルドが言ってたんだな」

「ああ。逃げる側の道を読むのは、殿の仕事のうちだと」

「さすが、あのおっさんだわ」

 

朝霧の指が、地図の端近くで止まった。

 

「ここだ。第二水門」

 

運河が市の外へ出る手前に、小さな印があった。

 

「この先は川の水位が低い。荷船は、水門の中で水を抜いて、高さを合わせてからでないと出られねえ。で、この水門は夜は閉まってる。開くのは夜明けの一回目だ」

「……じゃあ、荷船は」

「今ごろ、水門の中で足止めだ。朝まで、どこにも行けねえ」

 

パラゴンは、脇腹の包帯を押さえた。鉄鍋亭の女将が、何も言わずに巻き直してくれたものだった。

 

「組織は動けないんじゃなかったのか」

「区画の中のことにはな」

 

朝霧は、にやりと笑った。

 

「運河は区画の外だ。区画から運び出された荷を、運河で密輸してる連中がいる。――そりゃあ、セイフガードの仕事だわ」

 

決まりは変わっていなかった。朝霧は、決まりの内側で、通れる道を探し当てただけだった。

 

「本当は、もっとまっとうな手でやりてえんだけどな。こっちにも立場ってもんがある。すまんな」

 

「十分だ」

 

パラゴンは言った。それから、自分の手のひらを見下ろした。

 

「……問題は、あの首の輪だ」

 

あの中では、呪符が動かなかった。一枚目も、二枚目も。銃と剣だけになった途端、何もできなかった。

 

「……朝霧。魔素ってのは、濃いところから薄いところへ流れるよな」

「なんだ急に。ガキの頃に習う話だろ」

 

パラゴンは、ポーチから呪符を一枚取り出して、卓に置いた。

 

呪符の紙の中は、周りより魔素が薄く作ってある。魔紋をなぞると、周りの魔素が紙の回路へ流れ込む。その流れが、光や風になる。

 

あのとき、紙は何も吸わなかった。紙の中も周りも、同じ濃さだったからだ。空気まで澱んで、どこにも流れがなかった。

 

……まるで、あたりの濃さを全部ならしているみたいだった。

 

コテンのあくびは効いた。首の輪は、何もしなかった。止められるのは、魔素の流れだけなのかもしれない。

 

パラゴンがそこまで話すと、朝霧は腕を組んだ。

 

「……そういや、うちの隊に報告が上がってたな。隣の管区の魔導士が、黒い輪をはめた男とやり合って、詠唱が通らなかったって」

「魔導士が?」

「自分の中の魔素まで、周りと同じになっちまったみたいだった、ってよ。そのときは、腕の悪い言い訳だと思って読み流したんだが」

 

朝霧は、太い指で卓をとんとんと叩いた。

 

「魔法使いでも駄目、か。……紙も空気も人の体も、全部同じ濃さにされちまうなら、流れなんざ起きようがねえわな」

 

「……止められるのは、魔素の流れだけ、か」

 

パラゴンは、地図の上に置かれた朝霧の手を見た。太い指の、分厚い手のひら。

 

「あんたの銃は、魔法か」

「いや? 生まれつきの手癖みてえなもんだ。触ったもんから、銃が生えてくる。魔素なんざ、使ってる覚えはねえな」

「なら、あいつの近くでも使える」

「……かもな」

 

パラゴンは、自分の手のひらをもう一度見下ろした。

 

「俺は、使えない。魔法なしじゃ、あいつには勝てない。ゆうべ、よく分かった」

「おう」

「だから、剣では勝負しない」

 

朝霧が、眉を上げた。

 

パラゴンは、地図の上の第二水門の印を、指で叩いた。

 

「あいつは、神を『在庫』って呼んでた。一点も取りこぼせない、ってな。……荷を数える奴は、荷から目を離せない」

 

「水門番に、話をつけられるか。合図をしたら、下流側の扉を少しだけ開けてほしい」

「開けてどうする」

「水が下に引かれる。船が動く」

 

朝霧は、しばらく地図を眺めていた。それから、太い指で水門の印をなぞった。

 

「……あいつの目の前で、在庫を流してみせるってわけか」

「ああ」

「水門番の爺さんとは、飲み仲間だ。夜明け前に叩き起こしてやるわ。合図は、空に一発。それでいいな」

 

「周りの連中は、あんたに頼みたい」

「おう。で、あいつは」

「俺がやる」

「その腹でか」

「半歩でいい。ゆうべは、それが届かなかった」

 

朝霧は、しばらくパラゴンの顔を眺めていた。

 

「……ぶっつけ本番だな」「いつものことだ」

 

パラゴンの袖を、小さな手が掴んだ。

 

マキナだった。

 

「わたしも、いく」「……」

「ノラ、むかえに、いく。いっしょに」

 

パラゴンは、マキナの顔を見た。青ざめていた顔に、少しだけ色が戻っていた。

 

止めても、ついてくる。そういう顔だった。

 

「……離れるなよ」「うん」

 

―――

 

コテンは、アルマゲスト家に置いていくことになった。

 

次はお前だ、と言われた神を、戦いの場に連れていくわけにはいかない。噴水広場に帰すわけにもいかない。

 

夜更けに戸を叩くと、ルーチェは寝間着のまま出てきた。兄の脇腹の包帯を見て息を呑み、その後ろに立つ寝癖の男を見て、目を丸くした。

 

「えっと……こちらは」

「コテン。昼寝の神だ。朝まで、置いてやってくれ」

「かみ、さま?」

 

コテンは、玄関の段差にちょこんと腰を下ろして、ルーチェを見上げた。

 

「こんばんは。お邪魔します。……長椅子、ある?」

 

ルーチェは、ぱちぱちと瞬きをした。

 

それから、ふわりと笑った。

 

「ありますよ。毛布も、出しますね」

 

 

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2

第二水門は、夜明け前の霧の中に沈んでいた。

 

運河沿いの道を下っていくと、途中で霧の様子が変わった。

 

手前の霧は、川風に流されてゆっくりと動いている。その先で、霧がぴたりと止まっていた。水門をまるごと包むように、ざっと五十メートル。境目から向こうの霧だけが、水の底に沈んだように少しも動かなかった。

 

「……あれか」「あれだな」

 

パラゴンは、後ろを振り返った。

 

「マキナ。ここで待ってろ。霧の外だ」

「……うん」

 

マキナは、境目の手前で足を止めた。握っていたコートの裾から、そっと手を離した。

 

パラゴンは、止まった霧の中へ踏み込んだ。

 

空気が澱んだ。風の止まった水の底のような、何ひとつ動かない感覚。ゆうべと同じだった。

 

石積みの壁に挟まれた細長い閘室に、あの平たい荷船が浮かんでいた。前後の鉄の扉は、どちらも固く閉じている。水門の脇には、小さな石造りの番小屋。灰色のコートの男たちが、その前で焚き火を囲んでいた。

 

閘室の上には、鉄の手すりのついた渡り板が一本、架かっていた。

 

その渡り板の真ん中に、男が一人、手すりにもたれて立っていた。

 

がっしりした体。前を開け放した灰色のコート。首に、黒い金属の輪。

 

グレイヴだった。

 

「……しつこい傭兵だな」

 

グレイヴは、霧の向こうから現れたパラゴンを見て、うんざりしたように言った。

 

「腹、裂いてやったろ。寝てろよ」「寝てたら、朝になる」

 

パラゴンは、渡り板のたもとで足を止めた。

 

「で、今度は二人か」

 

グレイヴの目が、パラゴンの隣に立つ男に移った。制服の襟を緩めた、がっしりした男。

 

「セイフガード第三実働部隊、朝霧だ」

 

朝霧は、気さくに片手を上げた。

 

「運河で、区画から運び出された荷を密輸してるって通報があってな。悪いが、その船の中身、改めさせてもらうわ」

「セイフガードは区画のことには口出ししねえ決まりだろうが」

「おう。だから区画の外で話してんだよ」

 

グレイヴが、舌打ちをした。焚き火の周りの男たちが、一斉に立ち上がる。

 

朝霧は、しゃがみ込んで、石畳に手のひらをついた。

 

石畳が、軋んだ。

 

焚き火を囲む男たちの足元で、石の継ぎ目が盛り上がった。そこから、黒い銃身が突き出した。一本、二本、五本、八本。石から直接生えた銃口が、男たちをぐるりと取り囲んで、ぴたりと狙いを定めていた。

 

男たちが、その場で凍りついた。

 

「……は?」

 

グレイヴの顔から、苛立ちが消えた。

 

「魔法じゃ、ねえ……?」

「ああ。生まれつきの手癖みてえなもんでな。お前さんの首輪じゃ、止まらねえらしい」

 

朝霧が、渡り板の端の手すりに手を伸ばした。

 

「――火ぃ持ってこい!」

 

グレイヴが、荷船に向かって怒鳴った。さっきまでのうんざりした声ではなかった。

 

荷船の上で、部下の一人が松明に火を移した。積み上げた木箱の山に、瓶の中身をぶちまける。つんと、油の匂いがした。

 

その山の中に、蓋に空気穴の開いた箱があった。札を剥がされた、石の箱もあった。

 

「そいつが一歩でも動いたら、火ぃつけろ! 聞こえたか!」

 

松明の火が、油に濡れた箱の上で揺れた。

 

朝霧の手が、手すりの手前で止まった。

 

「……てめえ」

「撃ってみろよ、隊長さん。松明が落ちりゃ、船ごと燃えるぜ」

 

朝霧は、伸ばしかけた手を、ゆっくりと下ろした。石畳の銃口は、焚き火の男たちを囲んだままだった。

 

グレイヴは、荒い息を一つ吐いて、ようやく笑った。こめかみに、汗が一筋流れていた。それから、パラゴンの方へ顎をしゃくった。

 

「そっちの傭兵は、来ていいぜ。紙切れしか持ってねえ手負いに、火をつけるほどのこともねえ」

 

グレイヴが、鉈を抜いた。

 

「来いよ。ゆうべの続きだ。今度は、腹じゃ済まさねえ」

 

パラゴンは、朝霧を見た。

 

朝霧は、奥歯を噛んでいた。けれど、目だけで小さくうなずいた。

 

「……合図、忘れんなよ」

 

パラゴンにしか聞こえない声だった。

 

パラゴンは答えずに、焚き火から燃えさしを一本引き抜いた。それから、渡り板へ踏み出した。

 

 

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3

渡り板の上の霧は、重く澱んだまま、少しも動かなかった。

 

パラゴンは、燃えさしを投げた。

 

グレイヴの顔めがけて、赤い火の粉が散る。グレイヴは鉈の腹でそれを払い落とした。腕が上がった隙に、拳銃を撃つ。一発目は、コートの袖をかすめた。二発目は、鉈に弾かれた。

 

「火遊びの次は、豆鉄砲か」

 

グレイヴが踏み込んでくる。厚い刃が、上から叩き潰すように振り下ろされる。剣で受けた。腕が痺れる。脇腹の傷が、焼けるように痛んだ。

 

霧に紛れて、渡り板の支柱の陰へ回る。鉈が支柱に食い込んで、木屑が散った。その一瞬に、剣を横に薙ぐ。グレイヴは半歩下がってかわした。

 

二合、三合。

 

剣でも、読みでも、グレイヴが上だった。

 

押されながら、パラゴンは見ていた。

 

荷船が軋むたびに、グレイヴの目がそちらへ流れる。ほんの一瞬だけ。波が船腹を叩く音にも、松明の部下が足を踏み替える音にも。

 

剣を合わせている間も、この男は荷を数えている。

 

渡り板の手すりに、背中がぶつかった。下は、暗い閘室の水面だった。

 

手すりの柱に、太い綱が一本巻きつけてあった。下の荷船へ、斜めに伸びている。

 

舫い綱だった。

 

ゆうべ、指先がかすめて、掴めなかった綱。

 

綱を切って、扉を開ければ、船は傾く。傾けば、松明の男はよろける。

 

よろけた松明が、油の上に落ちたら。

 

パラゴンの喉が、ひとりでに鳴った。ゆうべ決めたときとは、状況が変わっていた。

 

渡り板のたもとを、目の端で見た。朝霧の手が、手すりのすぐそばで止まっている。指先だけが、手すりに触れていた。

 

朝霧なら、外さない。

 

外したら、と考えかけて、やめた。このまま剣を合わせていれば、どのみち先に倒れるのは自分だった。

 

「お前みたいなのは、いつも同じ手を使う」

 

グレイヴが、鉈を振りかぶった。

 

「剣で受けて、隙を見て――」

 

パラゴンは、剣を受けに上げなかった。

 

横に振った。

 

刃が、舫い綱を断ち切った。

 

「――朝霧!」

 

渡り板のたもとで、朝霧の指先が触れていた手すりから、銃身が一本、空へ向かって生えた。銃声が一発、霧の上へ抜けた。

 

向こう岸の巻き上げ小屋で、鎖の鳴る音がした。下流側の扉が、ほんのわずかに口を開ける。

 

閘室の水が、どっと下へ引かれた。

 

綱を失った荷船が、ぐらりと傾いた。そのまま、細く開いた扉の方へ、水に引きずられて滑り出す。

 

松明の部下が、よろけた。

 

朝霧の指の下で、手すりからもう一本、銃身が生えた。今度は、荷船を向いていた。火を噴いた。松明が部下の手から弾け飛んで、閘室の水に落ちた。じゅっ、と音がして、消えた。

 

グレイヴは、鉈を振りかぶったまま、荷船を見ていた。

 

流れていく。穴の開いた箱が。石の箱が。一点も取りこぼせない、在庫が。

 

切れた綱の端が、船に引かれて、手すりの上をずるずると滑っていく。

 

グレイヴは、鉈を放り出した。手すりから身を乗り出して、落ちていく綱の端へ手を伸ばした。

 

指先が、綱の端をかすめた。

 

掴めなかった。

 

たった半歩だった。

 

その半歩ぶん乗り出した背中に、パラゴンは踏み込んだ。

 

半歩。

 

ゆうべ、届かなかった半歩だった。

 

今度は、踏み出した。

 

グレイヴの襟首を掴んで、手すりから引き剥がす。膝の裏を蹴って、渡り板に叩き伏せた。

 

「てめえ――」

 

グレイヴが、肘をパラゴンの脇腹の傷に叩き込んだ。目の前が白くなった。それでも、襟首を掴んだ手は離さなかった。

 

全体重をかけて、押さえ込む。

 

「動くなよ」

 

朝霧の声がした。

 

渡り板の手すりから。足元の板から。閘室の石壁から。黒い銃口が、次々に生えてきた。枝が伸びるように、グレイヴの頭の周りをぐるりと取り囲んで、ぴたりと止まった。

 

十本を超える銃口が、一人の男を見下ろしていた。

 

グレイヴは、動かなかった。

 

下流側の扉が、また鎖の音を立てて閉じていった。荷船は、閘室の端の石壁にごつんとぶつかって、止まった。

 

「……ったく」

 

グレイヴが、血の混じった唾を吐いた。

 

「荷に目ぇ取られるとはな」

 

パラゴンは、答えなかった。答える息が、残っていなかった。

 

朝霧が、渡り板を渡ってきた。グレイヴの両手を後ろで縛り上げ、それから、首の黒い輪に手をかけた。

 

留め金を外す。かちり、と小さな音がした。

 

その瞬間、空気が戻ってきた。

 

止まっていた霧が、川風にほどけて流れ出した。

 

グレイヴの懐で、ざらざらと雑音が鳴り始めた。襟の裏の小さな金属の徽章が、その雑音に合わせて、かすかに明滅していた。

 

胸いっぱいに息が入る。指先に、あの感触が戻ってくる。周りの空気が、紙に吸い寄せられるような、いつもの感触。

 

朝霧は、外した輪を手のひらの上で転がして、しげしげと眺めた。

 

「こんな首輪ひとつで、魔導士まで黙らせるってんだからな。……物騒な世の中になったもんだわ」

 

 

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4

番小屋の前は、静かになっていた。

 

灰色のコートの男たちは、石畳から生えた銃口に囲まれたまま、一人残らず地面に伏せていた。誰も、動こうとしなかった。

 

荷船の上の松明の男も、両手を上げて降りてきた。朝霧は、そいつらをまとめて縛り上げた。それから、パラゴンの顔を覗き込んだ。

 

「顔色、最悪だぞ。まあ、立ってるだけ上出来だわ」

 

朝霧は、渡り板の上に転がったグレイヴを見下ろした。

 

「運河での密輸の現行犯。詰所まで来てもらうぞ」

 

グレイヴは、笑った。

 

喉の奥で、くつくつと。痛みに顔を歪めながら。

 

「……勘違いすんなよ、傭兵」

 

グレイヴの目が、パラゴンを見上げた。

 

「我々は『樹』の枝だ。……枝を一本折ったくらいで、樹は倒れん」

 

樹。

 

パラゴンの頭に、一つの形が浮かんだ。

 

区画の倉庫で拾った、小さな金属の徽章。大きく枝を広げた一本の樹。その枝のうちの一本だけが、根元から断ち切られたように欠けていた。

 

あのとき、雑貨屋の老人が、去り際にぽつりと漏らした言葉。

 

――昔、「樹」を名乗る連中がいた。

 

紋章と、名前と、神を売る男たち。ばらばらだったものが、一本の幹に繋がった。

 

グレイヴは、パラゴンの肩越しに、どこかを見ていた。

 

「それとな」

 

パラゴンが振り返ると、水門の縁に、マキナが立っていた。霧が流れ出したのを見て、駆けてきたらしい。白いワンピースの裾が、霧の中でかすかに揺れていた。

 

「上は、あの銀色の娘に興味があるらしいがな」

 

パラゴンは、グレイヴに向き直った。

 

「……どういう意味だ」

「さあな。俺は在庫を運ぶだけだ。上の考えなんざ――」

 

そのとき、首輪が外れてからグレイヴの懐で鳴り続けていた雑音が、ふいに大きくなった。襟の裏の徽章が、強く光った。

 

通信用の魔導具だった。

 

雑音の向こうから、女の声が漏れ聞こえた。

 

『――あらあら。折れちゃったのぉ?』

 

間延びした、どこか楽しげな声。

 

パラゴンは、その声を知っていた。区画の倉庫で、黒檀の杖の男の胸元から聞こえた声だった。在庫は惜しいけど、足がつくほうが面倒だもの、と笑った声。

 

グレイヴの顔から、血の気が引いた。さっきまでの不敵な笑みが、どこにもなかった。

 

『……まあ、いいけど』

 

声は、心底どうでもよさそうに続けた。

 

『枝なんて、またいくらでも生えるもの。……ね?』

 

「待っ――」

 

グレイヴが、声を上げかけた。

 

『だからぁ。折れた枝は、もういらないの』

 

じゅっ、と小さな音がした。

 

グレイヴのコートの襟の裏から、細い煙が上がった。そこに留めてあった小さな金属の徽章が、赤く焼けていた。大きく枝を広げた、一本の樹の紋。その刻み目が、端から黒く焼け潰れていく。

 

グレイヴは、焼けた徽章を襟ごと掴んだ。指の間から、焦げた匂いがした。

 

『ばいばい』

 

ぷつり、と音が途切れた。

 

それきり、魔導具は何も言わなかった。

 

グレイヴは、黒く潰れた徽章を握ったまま、動かなかった。

 

「……切りやがった」

 

掠れた声だった。さっき「樹は倒れん」と笑った男と、同じ声には聞こえなかった。

 

いつだったか、朝霧が鉄鍋亭で言っていた。あの紋章は、ただの飾りじゃない。身分証で、上と話すための鍵だ、と。

 

その鍵を、向こうから焼き潰したのだ。

 

―――

 

荷船の中の、穴の開いた箱の蓋を、パラゴンは剣の柄でこじ開けた。

 

中で、灰色の髪が、びくりと動いた。

 

ノラだった。

 

膝を抱えて、箱の底に丸まっていた。両手で、小さな石を胸に押し当てていた。灰白色の、頬に赤い模様の切れ端が残る石。

 

ノラが、顔を上げた。

 

パラゴンを見た。

 

「……きた」

 

掠れた声だった。

 

また来る、とパラゴンが言ったのは、ほんの数日前だった。

 

「迎えに来た」

 

パラゴンは、手を差し出した。

 

ノラは、その手をしばらく見つめていた。それから、石を握っていない方の手で、そっと掴んだ。

 

マキナが、箱の縁から顔を出した。

 

「ノラ。けが、ない?」「……ない」「よかった」「……しお、まだ、ある」

 

マキナは、きょとんとした。それから、ぱっと顔を輝かせた。

 

「つかって、ない?」「……もったいない、から」

 

ノラは、ふいと顔を背けた。尖った耳の先が、ほんの少しだけ赤くなっていた。

 

隣の箱は、無事だった。札を剥がされた、石の箱。ノラは、箱から這い出すなり、その蓋に両手を置いた。

 

長いこと、そうしていた。

 

「……区画に、戻るのか」

 

パラゴンが訊くと、ノラは、箱に手を置いたまま、うなずいた。

 

「……かえる。くかくに」「また狙われるかもしれないぞ」「……しってる」

 

ノラは、顔を上げた。

 

「でも、はこ、ある、から。……えらんだ、から」

 

行かないことを選んだ神は、戻ることも、自分で選んだ。

 

パラゴンは、それ以上何も言わなかった。

 

「送ってく。箱は、俺が担いでくわ。区画の門の前までな。そっから先は、俺は入れねえ。……決まりだからな」

「……いい。そこまでで、いい」

 

ノラは、朝霧を見上げて、小さく頭を下げた。

 

―――

 

夜が明けかけた頃、紺色の背広の男が、水門に現れた。朝霧が、詰所を通して呼んでおいたらしい。

 

企業調停庁、CMAの第二監督課の執行官、フェルナーだった。紛争の残党が暴れた件で、一度だけ顔を合わせたことがある。声の低い男だった。

 

朝霧が、黒い輪を差し出した。フェルナーは手袋をはめた指でそれを受け取り、細かな魔紋を、しばらく黙って眺めていた。

 

「危険な魔道具は、こちらの管轄です」

「密輸犯は、うちの管轄だわ」

 

朝霧が、縛り上げたグレイヴを顎で示した。

 

フェルナーは、ちらりと朝霧を見て、それから輪を布に包んだ。

 

「解析は、ベル&クレストに回します。……では、朝霧隊長。アルマゲストさんも」

 

それだけ言って、フェルナーは霧の中へ戻っていった。

 

パラゴンは、輪が包まれていった布の白さを、しばらく目で追っていた。

 

なぜか、運河の地下の排水溜めを思い出していた。白い異形の残骸に細い針を当てていた、解析屋の女。エルニア・リップ。

 

――本体は、もっと丁寧なはずだ。これは検証用。

 

あのとき、女が言ったのは、あの異形のことだった。

 

けれど、布に包まれていった輪の魔紋は、ひどく細かく、ひどく丁寧だった。

 

その声が、耳から離れなかった。

 

東の空が、白み始めていた。

 

向こう岸の巻き上げ小屋から、水門番の爺さんが顔を出した。朝霧に叩き起こされたせいか、まだ眠そうだった。縛られた男たちの列を見て首を振りながら、いつも通り巻き上げ機の把手に手をかけた。

 

ぎい、と重い音がして、第二水門の扉が、ゆっくりと開き始めた。

 

もう、どこへも行かない荷船の前で。

 

 

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5

アルマゲスト家に帰り着いたのは、朝日がすっかり昇った頃だった。

 

居間の長椅子で、コテンが寝ていた。

 

毛布が、肩までかけてあった。寝癖の頭の下には、ルーチェのお気に入りのクッションが敷いてある。静かな寝息が、部屋の空気をゆっくりと揺らしていた。

 

ルーチェは、その向かいの椅子で、膝の上に本を広げたまま、うとうとしていた。

 

玄関の音に、はっと顔を上げる。兄の姿を見て、包帯を見て、それから、ほうっと息をついた。

 

「おかえり、お兄ちゃん。……マキナちゃんも」

「ただいま」「ただいま」

 

ルーチェは、長椅子のコテンを見て、声をひそめて笑った。

 

「ずっと、寝てたの。一回だけ起きて、『ここ、いい長椅子だね』って言って、また寝ちゃった」

「……らしいな」

「なんだかね。コテンさんがいると、ちっとも怖くなかったの。お兄ちゃんたちが危ないところに行ってるのに、変だよね」

 

それは、たぶん、あくびのせいだけではなかった。

 

パラゴンは、脇腹の包帯を押さえながら、台所へ向かった。湯を沸かす。手が、まだ少しだけ震えていた。

 

居間から、櫛の音が聞こえてきた。

 

―――

 

ルーチェは、長椅子の端に座って、膝の前の床にマキナを座らせていた。

 

夜霧で湿った銀色の髪を、柔らかい櫛でゆっくりと梳いていく。

 

「ノラちゃん、っていう子は、大丈夫だった?」

「うん。くかくに、かえった。じぶんで、えらんで」

「そっか」

「しお、まだ、つかってないって。もったいないって」

 

ルーチェが、くすくすと笑った。

 

しばらく、櫛の音だけが続いた。

 

「……ルーチェ」「なあに?」

 

マキナは、前を向いたまま言った。

 

「まえに、きいたよね」

 

ルーチェの櫛が、止まった。

 

ずっと前。マキナがこの家に来た最初の日。HUBに届いた箱から飛び出してきた、名前も分からない銀色の髪の女の子に、ルーチェは訊いた。

 

マキナちゃんは、お兄ちゃんのこと、探してたの?

 

あのとき、マキナは、笑ってごまかした。

 

「……おにいちゃんのこと、さがしてたの、って」

「……うん」

 

マキナは、少しだけ黙った。

 

台所で、湯が沸く音がした。パラゴンは、火を止めた。止めたまま、動かなかった。

 

「うん。さがしてた」

 

マキナの声は、小さかった。けれど、たどたどしくはなかった。

 

「……でも」

 

マキナは、自分の膝の上で、両手をぎゅっと握った。

 

「いまは、それだけじゃ、ない」

 

ルーチェは、何も訊かなかった。

 

なぜ探していたのか。何のために。それだけじゃないって、何なのか。

 

何も訊かずに、止まっていた櫛を、また動かし始めた。

 

「……そっか」

 

それだけ言って、マキナの髪をひと房すくい上げて、編み始めた。

 

台所の戸口に、パラゴンが立っていた。

 

マキナが、振り返ろうとした。ルーチェの指が、髪を押さえてそれを止めた。

 

「動いちゃだめ。曲がっちゃう」

 

パラゴンは、戸口の柱にもたれた。

 

訊きたいことは、いくらでもあった。あの箱に、誰が詰めたのか。どうして自分だったのか。上は、あの銀色の娘に興味がある――あの男の言葉は、何を意味していたのか。

 

けれど、口から出たのは、一言だけだった。

 

「……そうか」

 

マキナの肩から、力が抜けるのが見えた。

 

長椅子の上で、コテンが寝返りを打った。むにゃむにゃと、何か寝言を言った。

 

窓から、朝の光が差し込んでいた。

 

パラゴンは、あの日のことを思い出していた。

 

HUBのカウンターの上で、がたがたと揺れていた箱。禁輸種の獣でも入っているのかと、皆で身構えた箱。蓋を突き破って飛び出してきて、「やっと見つけた」と抱きついてきた、白いワンピースの女の子。

 

あの箱の本当の中身が何だったのか、パラゴンは、まだ知らない。

 

それでも――

 

編み上がった三つ編みの先で、青いリボンが、朝の光の中で揺れていた。

 

それで十分だと、今は思えた。

 

(第12話 了)

 

 

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エピローグ

管理塔の上層は、いつも静かだった。

 

中央都市ポラリスの真ん中に立つ、十五の階層を持つ塔。見上げれば、先端は雲に届きそうなほど高い。受付と住民登録の窓口がある下の階層の喧騒は、ここまでは届かない。

 

第十三階層。

 

思想実行実現部隊――ダエーワ。

 

その廊下の突き当たりの窓辺に、女が一人、腰かけていた。

 

ワンピースの上に、片側だけの半甲冑。白い髪。膝の上に、手のひらほどの通信用の魔導具を載せて、指先で弄んでいる。

 

窓の外には、夜明けの街が広がっていた。その南の端に、低い壁に囲まれた区画が、小さく見えた。

 

「あーあ。折れちゃった」

 

女は、楽しそうに言った。

 

「在庫は惜しいけど、ね。……まあ、いっか。代わりに、いいこと聞いちゃったし」

 

女は、魔導具を窓の外へ、ぽいと放った。

 

地上は、目がくらむほど遠い。小さな影は、あっという間に点になって、見えなくなった。

 

「――また、何か企んでるのか」

 

廊下の向こうから、低い声がした。

 

煙草の匂いがした。

 

拳に古い傷の走った女が、壁にもたれていた。煙を吐きながら、窓辺の女を横目で見ている。

 

「企んでないよぉ。ちょっと、お庭の手入れをね」

 

窓辺の女は、にっこりと笑った。

 

「剪定。……折れた枝は、ちゃんと切っておかないとね」

 

煙草の女は、しばらく黙って煙を吐いていた。

 

それから、踵を返した。

 

「……ほどほどにしとけよ、七番」

 

足音が遠ざかっていく。

 

窓辺の女は、ひらひらと手を振った。それから、また窓の外を見下ろした。

 

女の目は、南の端の区画を素通りして、下層の家並みへ滑っていった。

 

傭兵が一人、銀色の髪の娘を連れて帰る家。どこにでもある、小さな屋根の群れ。そのどれか一つに、白いワンピースの少女がいるはずだった。

 

「――ふふ」

 

ダエーワ七番は、目を細めて笑った。

 

「見ぃつけた」

 

(第1章 中央都市編 了)

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