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1
「おい傭兵、その瓦は向きが逆だ」
下から、しわがれた声が飛んできた。
パラゴンは、長屋の屋根の上で手を止めた。言われてみれば、逆だった。
「……細かいな」
「細かくなきゃ雨が漏るんだよ。ほれ、次」
長屋の大家の爺さんが、梯子の下から新しい瓦を差し上げてくる。パラゴンは受け取って、割れた跡に一枚ずつ嵌めていった。
ふた月ほど前、この路地の猫が屋根と同じくらいの大きさに膨れ上がって、ここの瓦を景気よく踏み割った。壊れた園芸用の魔道具に、頭から突っ込んだせいだった。そのとき爺さんに言われたのだ。今度うちの屋根直すの手伝えよ、と。
断らなかった自分が悪い。
マキナは、朝からパン屋へおつかいに出ている。いつだったか、ルーチェに「明日はパン屋さんにしよっか」と言われて以来、パン屋はマキナのお気に入りの行き先になっていた。
「傭兵ってのは、もっと手際がいいもんだと思ってたがな」
「傭兵を何だと思ってるんだ」
「力仕事が得意な若いの」
反論は、しないことにした。
当の猫は、路地の日だまりで長くなって寝ていた。灰色と白のふかふかした毛並み。今は、ちゃんと猫の大きさだった。
もふ、と呼ぶ者もいる。大福、と呼ぶ者もいる。角のご隠居だけは、閣下と呼ぶ。本人は、どの名前にも返事をしない。
最後の一枚を嵌め終えたとき、路地の向こうから、ばたばたと足音が近づいてきた。
近所の悪ガキ三人組だった。
「アルマゲストさーん!」
「たいへんたいへん!」
「赤いおっちゃんが、杖なしで歩いてる!」
パラゴンは、屋根の上で顔を上げた。
「……どこでだ」
「HUBの前! 杖、ぶん投げてた!」
ちょうどそこへ、パンの紙袋を抱えたマキナが戻ってきた。三人組の話を聞くなり、紙袋を抱えたまま目を輝かせる。
「ガルド、なおった?」
「なおった!」「走ってた!」「すげえ速かった!」
もふが、片目だけ開けた。それから、面倒くさそうにあくびをした。
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2
カウンターの端の、いつもの席に、ガルドが座っていた。
壁に、松葉杖は立てかけていなかった。右脚を丸椅子の横に投げ出すこともなく、両足でちゃんと床を踏んでいる。
赤ら顔は、今日も赤かった。
「おう、遅えよ」
「屋根を直してたんだ」
「なんで傭兵が屋根を直してんだ」
パラゴンの後ろから、マキナが駆け寄った。ガルドの右脚を、しゃがんで覗き込む。
「なおった?」「治った」「いたくない?」
「痛くねえ。医者にも、もう来るなって言われた。追い出されたとも言うな」
ガルドは、自分の膝をぱんと叩いた。
カウンターの上には、紐で縛った茶葉の包みと、角をきっちり揃えて畳んだ手拭いが並んでいた。運河沿いの倉庫街で夜警をしている爺さん、トビアスからの茶葉。洗濯屋の女将からの、洗い立ての手拭い。脚を折ったときにも届いた、同じ二つだった。
「また茶葉だ。あの爺さん、俺を夜警にでもする気か」
文句を言いながら、ガルドは茶葉の包みを、一番手の届くところに置き直した。
カウンターの向こうで、ミレイが一枚の書類を差し出した。
「ガルドさん。本日で、杖代の支給は終了です。ここに署名をお願いします」
「おう。世話んなったな」
紙からはみ出しそうな、豪快に崩れた字だった。ガルドは書き終えると、満足げに顔を上げた。
「嬢ちゃん、エール一杯」
「まだお昼ですよ」
ガルドは、壁の時計を見た。
夕方前には飲まない。それが、この男の数少ない決まりだった。
「……水だ」
支部のあちこちから、笑い声が起きた。
「それと、もう一つ」
ミレイが、CMAから届いた書類の束をめくった。
一番上の封筒に、「審理」の二文字と、ケイン・ハルデンの名前が見えた。企業連紛争の生き残りで、第四工業区画で暴れて拘束された、パラゴンの昔の戦友の名前だった。
ミレイは、その封筒をそっと束の下に回した。パラゴンは、何も言わなかった。
ミレイが、カウンターの下から包みを取り出した。油紙で包まれた、長靴ほどの大きさのもの。紐に、札が一枚くくりつけてある。
「CMAから、遺失物の返還です。今朝、届きました」
「遺失物?」
ガルドが、札を裏返した。
事務的な活字が、並んでいた。
――分類不明の脅威 第四十七号 現場回収物
――品目:靴(右)
――模造体残骸内より回収。解析終了につき返還。
ガルドは、しばらく札を眺めていた。
それから、油紙を剥いだ。
中から出てきたのは、使い込まれた革のブーツだった。右足の。
「……ブーツ」
マキナが、小さく言った。
ガルドの部屋から、片方だけ消えていたブーツだった。脚が治ったら一緒に探そう、と約束していたブーツ。
ふた月前、ガルドは運河の地下の排水溜めで、自分の右脚を柱にぶつけて折った。触ったものを真似る白い異形に、中身を丸ごと持っていかれないためだった。腫れ上がった脚から抜けたブーツは、そのまま地下に残っていたらしい。
そして、ガルドの形をした白い染みの中から、見つかった。
パラゴンは、あの地下で見た偽物たちを思い出していた。ランタンを逆さに提げた老人。赤くない大男。みんな、少しずつ間違っていた。
その一体が、本物のブーツを片方だけ履いていた。
真似るために。
ブーツの縫い目に、白い粉のようなものが、まだうっすらと残っていた。
支部の中が、少しだけ静かになった。
「……履いてやがったのか、あいつ」
ガルドが、ぼそりと言った。
それから、ブーツを逆さにして、とんとんと振った。白い粉が、床にぱらぱらと落ちた。
「サイズが合ってねえだろ、どうせ」
いつもの声だった。
マキナが、ブーツの踵に、そっと指で触れた。
「……さがしに、いくって、いったのに」
「おう」
「さがす、まえに、もどってきた」
「そういうこともある。探しに来てくれるって言ってくれりゃ、十分だ」
ガルドは、マキナの頭を大きな手でぐしゃぐしゃと撫でた。
「洗えば履ける。……いや、二回洗うか」
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3
管理塔の第四階層は、紙の匂いがした。
インフラ局、グリッド。都市の水と魔導灯と下水を、帳面の上で管理している部署だ。窓の外には中央都市の屋根が広がっていたが、机に向かう職員の誰も、それを見ていなかった。
若い事務員が一人、分厚い帳面をめくる手を止めた。
第十二区画。上水の使用量。
先月の数字と、今月の数字を見比べる。それから、先々月の数字を見る。
もう一度、見比べた。
「……課長」
事務員は、帳面を持って奥の机へ行った。
「第十二区画なんですが。水の使用量が、この二か月で半分近くまで落ちています。魔導灯の方も」
「漏水は」
「報告は上がっていません。管も異常なしです」
課長は、帳面をちらりと見た。それから、また自分の書類に目を戻した。
「神の区画だろ」
「はい」
「誤差だ」
課長の手が、判子を取った。
保留。
赤い字が、帳面の余白に押された。
事務員は、自分の机に戻った。帳面を閉じて、「保留」の箱に入れた。箱の中には、同じ判の押された書類が、もう腰の高さまで積まれていた。
椅子に座り直してから、事務員は一度だけ、帳面の入った箱を振り返った。
水を使わなくなった神々は、いったい、どこで水を飲んでいるのだろう。
考えかけて、やめた。次の帳面が、机の上で待っていた。
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4
市場の北の外れの、水の出ない噴水広場に、看板が一枚立っていた。
――眠れない方、ご相談ください。石は売りません。
板切れに、几帳面な字で書いてある。
看板の横には、見覚えのある痩せた男が、折り畳みの椅子に座っていた。
ヴィンスだった。いつだったか、この広場で「神託」と称して安眠のお守り石を売りさばいていた男だ。石は全部没収され、市場への出入りは当分禁止になったはずだった。
その足元で、寝間着のような衣の男が、噴水の縁に寝転がっていた。
「……コテン?」
パラゴンが呼ぶと、昼寝の神は、ゆっくりと片目を開けた。
「あ。起きてる人。と、マキナ」
「なにしてるの?」
「お手伝い。……たぶん」
噴水の縁には、客らしい男が一人、腰かけていた。目の下に、濃い隈がある。
コテンが、ふわあ、と大きなあくびをした。
客の男の瞼が、すとんと落ちた。そのまま、噴水の縁にもたれて、寝息を立て始める。
ヴィンスが、手元の帳面に何かを書きつけた。
「……何やってんだ、あんたは」
「ご覧のとおりですよ、旦那」
ヴィンスは、肩をすくめた。
「広場で座ってるだけです。眠れないって人が来たら、ここに座ってもらう。一回、銅貨一枚。石は売ってません。売ってませんからね」
最後の一言だけ、やけに力が入っていた。
「お前、それでいいのか」
パラゴンがコテンに訊くと、コテンは、うーん、と唸った。
「いいよ。起きる前に、言ってくれたから」
そういえば、そんなことを言っていた。自分の名前を勝手に使われたと知ったときも、この神は怒らなかった。ただ、今度は起きる前に言って、とだけ言ったのだ。
「それにね。ここで寝てると、僕も眠れるから。前とおんなじ」
ヴィンスが、帳面から顔を上げた。
「……売り上げの半分は、この方の分です。干し柿と、毛布代」
「干し柿、眠くなるんだよね。甘いから」
たぶん、干し柿のせいではない。
広場の隅では、子どもたちが石蹴りをしていた。升目の中を跳ねていく小石は、どれも青く塗られていた。ヴィンスは、それを見ないようにしていた。
マキナが、ヴィンスの看板を見上げた。
「いしは、うりません」
「売りません」
「……ほんと?」
「本当です」
マキナは、少し考えてから、うなずいた。
「じゃあ、いいひと。はんぶんくらい」
ヴィンスは、何とも言えない顔をした。
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5
第十二区画の検問ゲートでは、見覚えのある詰所の男が、今日もあくびを噛み殺していた。
「中で何かあっても自己責任だぞ」
いつもの台詞だった。
区画の通りは、前に来たときより、また少し静かになっていた。戸を閉ざした家が、一軒、二軒、増えている。どの家も荒らされた跡はなく、きちんと片付けられていた。
崩れかけた小屋の戸口に、ノラが座っていた。
灰色のぼさぼさの髪。猫のように尖った耳。背中の奥には、札を剥がされた木箱が一つ。
ノラは、二人を見ると、ほんの少しだけ顔を上げた。
「……きた」
「来た。塩、持ってきた」
マキナが、包みを両手で差し出した。
ノラは、包みを見て、それからマキナを見た。
「……まだ、ある」
「つかった?」
ノラは、しばらく黙っていた。
「……すこし、つかった」
「なにに?」
「いも、ゆでた」
マキナの顔が、ぱっと明るくなった。
「おいしかった?」
ノラは、ふいと顔を背けた。尖った耳の先が、少しだけ赤くなった。
「……ふつう」
それから、差し出された包みを、石を握っていない方の手で受け取った。
「でも、もらう」
パラゴンは、通りの先を見やった。向かいの家の戸口に、欠けた茶碗が一つ、置かれたままになっていた。挿してあった野の花は、とっくに枯れていた。
「……減ったな」
「……へった」
ノラは、背中の箱の蓋に、そっと手を置いた。
「でも、はこ、ある、から」
前にも聞いた言葉だった。前より、ほんの少しだけ、声が柔らかかった。
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6
管理塔の上層の廊下に、煙草の匂いが流れていた。
拳に古い傷の走った女が、廊下の突き当たりの扉を、ノックもせずに開けた。
部屋の中は、墨の匂いがした。
窓際の机に、誰かが背を向けて座っていた。筆を持った手が、紙の上をゆっくりと動いている。机の上にも、床の上にも、書き終えた紙が何枚も広げてあった。
女は、窓枠に腰を下ろした。煙を、窓の外へ吐く。
筆は、止まらなかった。
「南の方で、妙なキノコが生えてるって報告が来てる」
女は、窓の外を見たまま言った。
筆が、止まった。
ほんの一瞬だけ。紙の上に、墨が小さく滲んだ。
それから、また動き出した。
「ま、お前の出番になるかは知らねえけどな」
女は、煙草を窓枠に押しつけて消した。
背を向けたままの主は、何も言わなかった。筆の音だけが、墨の匂いの中で続いていた。
―――
夕方の路地に、屋根を直し終えた長屋の影が長く伸びていた。
もふが、日だまりの名残を追うように、石畳の上をのそのそと歩いていた。
ふと、足を止める。
石畳の継ぎ目に、小さなキノコが一本、生えていた。白っぽい傘に、見慣れない斑点が浮いている。昨日までは、なかったものだった。
もふは、鼻を近づけて、ふんふんと嗅いだ。
くしゅん、とくしゃみをした。
それから、何事もなかったように、また歩き出した。
路地を行き交う誰も、そのキノコには気づかなかった。
(幕間 了)