第1話 狼煙
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1
朝、戸口を開けると、石畳にキノコが生えていた。
一本ではなかった。
長屋の前の路地の、石畳の継ぎ目に沿って、白っぽい傘が点々と並んでいる。どれも指の先ほどの小ささで、傘には見慣れない斑点が浮いていた。
「きのこ」
マキナが、パラゴンの脇をすり抜けて、とことこと路地に出ていった。一本の前にしゃがみこむ。
「きのこ、いっぱい」
「雨が続いたからな」
パラゴンは、あくびを噛み殺しながら答えた。
路地の日だまりから、灰色と白のふかふかした猫が、のそのそと歩いてきた。この路地で、もふとも大福とも閣下とも呼ばれている猫だ。一度、屋根ほどの大きさに膨れ上がって、長屋の瓦を踏み割ったこともある。
もふは、マキナの隣に並んで、キノコに鼻を近づけた。
くしゅん、とくしゃみをした。
数日前の夕方にも、この猫は同じ路地で、同じようにくしゃみをしていた。そのときキノコは、一本きりだった。
そのことを、誰も知らない。
「マキナちゃん、触っちゃだめよ」
家の奥から、ルーチェの声がした。窓辺の寝台で、毛布を肩まで引き上げている。
「知らないキノコは、おなか壊すからね」
「たべないよ」
「ほんと?」
「……ちょっとしか」
「ちょっとも、だめ」
マキナは、しぶしぶ立ち上がった。それでも名残惜しそうに、一本だけ、指の先でつついた。
白い粉が、ふわりと舞った。
パラゴンは、剣帯を締め直して、路地を歩き出した。
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2
HUB第三支部の掲示板に、同じ依頼が四枚、並んでいた。
――石畳のキノコ抜き。南通り商店会。
「今朝から、これで四件目です」
受付のミレイが、眼鏡を押し上げながら言った。小柄な体で、カウンターの向こうから依頼書の束を差し出してくる。
「報酬は」
「通り一本につき、銅貨十枚です」
「……安いな」
「キノコ抜きですから」
もっともだった。
カウンターの端の、いつもの席から、野太い声が飛んできた。
「やめとけやめとけ。抜いても生えるやつだろ、それ」
ガルドだった。赤ら顔の大男で、つい先日まで、折れた右脚を丸椅子の横に投げ出していた。今は、両足でしっかり床を踏んでいる。松葉杖は、もうどこにもなかった。
「詳しいのか」
「田舎の婆さんちの裏庭が、毎年やられてたんだよ。キノコってのは、見えてるとこだけ抜いても意味がねえ。根っこが、下で全部繋がってやがる」
ガルドは、自分の膝をさすった。
「それに、脚が治った途端にしゃがみ仕事なんざ、ごめんだね」
「治ったなら、働いてください」
「働いてるだろ。こうして、座って」
ミレイは、それ以上は言わなかった。
マキナが、パラゴンの袖を引いた。
「きのこぬき、やる」
「銅貨十枚だぞ」
「きのこ、さわっていい?」
それが目当てらしかった。
パラゴンは、依頼書を一枚、掲示板から剥がした。日銭仕事でも、仕事は仕事だった。
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3
南の通りは、キノコだらけだった。
石畳の継ぎ目だけではない。壁の根元にも、雨樋の下にも、樽の縁にも、白い傘が点々と顔を出している。長屋の路地とは、数が違った。
「こりゃあ、ひでえな」
商店会の世話役だという金物屋の主人が、腰に手を当ててぼやいた。頭の薄くなった、人の好さそうな中年の男だった。
「三日前には、一本も生えてなかったんだがね」
パラゴンは、しゃがんで一本をつまんだ。
抜けた。
あっけないほど、手応えがなかった。根を張っている感触が、まるでない。
抜いた跡の石畳には、白い粉が点々と残っていた。
「バケツ、ここ」
マキナが、木のバケツを抱えて隣にしゃがんだ。パラゴンが抜いたキノコを、一本ずつ、丁寧にバケツに並べていく。放り込めばいいものを、傘の向きまで揃えていた。
昼過ぎには、通りの半分ほどが片付いた。
金物屋の主人が、店先の木箱に腰を下ろして、ぐるりと肩を回した。
「……なんか、楽になったな」
「働いたからだろ」
「いや、そうじゃねえんだ。肩がな、ずっと重かったんだよ。十年くらい。それが、今日はすっと軽い」
主人は、笑いながら、ゆっくりとまばたきをした。
一回の、まばたきが長かった。
「昨日は、よく眠れたしな。こんなに調子がいいのは、久しぶりだ」
向かいの八百屋が、「春だからだろ」と笑った。主人も笑った。誰も、それを悪いことだとは思っていなかった。
マキナが、キノコのバケツから顔を上げた。
「……あまい、におい」
「甘い?」
パラゴンは、鼻を鳴らしてみた。土と、埃と、隣の店の揚げ油の匂いしかしない。
「する?」「しない」「……する、のに」
マキナは、不思議そうに首をかしげた。
―――
午後、最初に抜いた場所まで戻ってきた。
石畳の継ぎ目から、小さな傘が、もう一つのぞいていた。
抜いたはずの場所だった。白い粉が残っていた、ちょうどその場所から。
根っこが、下で全部繋がってやがる。ガルドの言葉を思い出した。
パラゴンは、顔を上げた。
通りの奥に、二階建ての古い家があった。雨戸を半分閉めきった、空き家のような家だ。その二階の窓が一枚だけ、内側から白く曇っていた。
晴れた午後だった。
「パラゴン、つぎ」
マキナの声に振り向いて、もう一度見たときには、窓の曇りは、端の方から引いていくところだった。
誰かが、窓から離れたように。
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4
帰り道、市場の外れの屋台から、醤油の焦げる匂いが流れてきた。
焼き鳥の屋台だった。
銅貨十枚が手に入ったばかりだった。パラゴンの足は、勝手にそちらを向いていた。
「やきとり?」「焼き鳥だ」「おにく?」「鳥の肉だ」
マキナの目が、キノコを見ていたときより輝いた。
屋台の前には、先客が一人いた。
背の高い、若い男だった。紫がかった白銀の髪を、うなじのあたりでゆるく結んでいる。落ち着いた色の、茶人のような身なり。後ろ姿だけなら、どこかの品のいい若旦那に見えた。
パラゴンが、ねぎまを二本と、親鳥を二本頼んだ。
屋台の親父が、焼き台から最後の親鳥を二本取って、パラゴンに渡した。
「はいよ。親鳥は、これで売り切れだ」
先客の男の肩が、ぴたりと止まった。
「……親鳥、売り切れ?」
「悪いね、兄さん。今のが最後だ」
男が、ゆっくりと振り返った。
碧い瞳が、パラゴンの手の中の串を見た。それから、パラゴンの顔を見た。それから、また串を見た。
「親鳥のやつ、売り切れ……」
目に見えて、しょげていた。
背の高い男が、背を丸めて、屋台の暖簾の下でしゅんとしている。さっきまでの品のいい若旦那は、どこにもいなかった。
マキナが、パラゴンの袖を引いた。
「……パラゴン」
何を言いたいのかは、分かった。
パラゴンは、ため息をついて、親鳥を一本差し出した。
「……一本、どうぞ」
男の顔が、ぱっと明るくなった。
「わぁい!」
串を受け取るなり、男はかぶりついた。噛んで、噛んで、目を閉じた。
「うままま……」
聞いたことのない声だった。
「親鳥はね、噛むほど味が出るんだ。若鳥はやわらかいけど、こっちは長く生きたぶんだけ、ちゃんと味がある」
男は、嬉しそうに串を振った。
「ありがとう、きみ! きみも! いい人たちだ!」
距離が近かった。串を持ったまま、マキナの顔を覗き込むようにしてしゃがむ。マキナは、きょとんとして、男を見返した。
男の碧い瞳が、ほんの一拍だけ、止まった。
何か言いかけたように見えた。けれど男は、串をくわえ直して、にこにこと笑っただけだった。
「この辺り、昔は兵站の中継地だったんだよ」
男が、唐突に言った。
「北から来た荷車が、ここで馬を替えてね。ほら、あの角の石。轍の跡が残ってる。右側だけ深いのは、帰りの荷が重かったから」
「……詳しいな」
「歴史、好きなんだ!」
マキナが、首をかしげた。
「へいたん?」
「ごはんを運ぶ人たちのこと。戦はね、ごはんが先に負けるんだ」
妙に、実感のこもった言い方だった。
男は、最後のひと切れを名残惜しそうに噛みしめて、串を屋台の串入れに差した。
「ごちそうさま! この恩は、いつか返すね。倍にして!」
そう言って手を振り、市場の人混みの中へ歩いていった。
パラゴンは、その背中を目で追った。
雑踏の中で、何かが引っかかった。
足音だった。石畳の上を、あの男は足音ひとつ立てずに歩いていた。
「……」
気のせいだろう、と思うことにした。背の高い後ろ姿は、すぐに人混みに紛れて見えなくなった。
屋台の親父が、次の串を焼き台に並べながら笑った。
「あの兄さん、よく来るんだよ。いつもにこにこしてるんだが、親鳥が売り切れてるときだけ、ああなる」
マキナが、ねぎまを両手で持って、ひと口かじった。
「へんなひと」「ああ」「でも、いいひと」
「はんぶんくらいか」
「……ぜんぶくらい」
パラゴンは、残った親鳥をかじった。
確かに、噛むほど味が出た。
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5
市場の北の外れの、水の出ない噴水広場に、行列ができていた。
魔導灯の下に、十人ほど。
行列の先には、看板が一枚立っていた。
――眠れない方、ご相談ください。石は売りません。
看板の横で、痩せた男がおろおろしていた。
ヴィンスだった。いつだったか、この広場で「神託」と称して安眠のお守り石を売りさばき、石を残らず没収された男だ。今は、石を売らずに、眠れない人を噴水の縁に座らせる商売をしている。
「旦那。ちょうどいいところに」
「繁盛してるな」
「してるんですけどね……」
ヴィンスは、帳面を抱えたまま、行列を振り返った。
「みんな、ここに来る前から、眠いって言うんですよ。眠れないから来るんじゃなくて、眠いから来るんです。うちは、眠れない人のための店なんですがね」
行列に並んでいる人たちの顔は、どれも穏やかだった。
誰も、急いでいなかった。誰も、文句を言っていなかった。ただ、ぼんやりと前を向いて、ゆっくりとまばたきをしていた。
その中に、見覚えのある薄い頭があった。
「よう、傭兵さん」
金物屋の主人が、ひらひらと手を振った。
「いやあ、今日はよく眠れそうだ。せっかくだから、ここで寝ていこうと思ってな」
主人は、自分の番が来ると、噴水の縁に腰を下ろした。
そのまま、すとんと瞼が落ちた。
噴水の縁で寝転がっていた、寝間着のような衣の男が、あくびをする前だった。
昼寝の神、コテン。ヴィンスが名前を勝手に使っていたと知っても怒らず、今度は起きる前に言って、とだけ言った神だ。今は、この店の手伝いをしている。
コテンは、あくびをしなかった。
代わりに、ゆっくりと片目を開けた。
眠そうな目が、行列を見た。一人ずつ、順番に。長いこと、見ていた。
それから、何も言わずに、また目を閉じた。
「銅貨は払ってくれるんで、文句はないんですがね」
ヴィンスが、帳面に何かを書きつけながら言った。
「……なんか、気味が悪くて」
マキナが、コテンの閉じた瞼を、じっと見ていた。
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6
夜になって、雨が降り出した。
長屋の屋根を、雨粒が叩いていた。この前、大家の爺さんにどやされながら直した屋根は、一滴も漏らさなかった。
マキナは、ルーチェの寝台の足元で丸くなって、もう寝息を立てていた。指の先に、白い粉が少しだけ残っていた。
パラゴンは、灯りを消した。
―――
南の通りにも、雨が降っていた。
昼間にキノコを抜いた石畳の上に、白い粉が点々と残っていた。
雨粒が、その粉を叩いた。
しばらくは、何も起きなかった。
やがて、粉の残っていた場所から、小さな芽が、一つ、また一つと顔を出し始めた。石畳の継ぎ目に沿って、壁の根元に沿って、昼間より、ずっと多く。
金物屋の二階では、主人が、よく眠っていた。
寝台から垂れた片手が、床板を撫でていた。ゆっくりと、何度も。眠ったまま、湿った方へ。
通りの奥の、雨戸を半分閉めきった家の窓は、一晩中、白く曇っていた。
雨の中を、細かなものが、煙のように立ちのぼっていった。
夜の雨の中では、誰の目にも見えなかった。
(第1話 了)