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1
雨は、明け方にやんだ。
南の通りに着いたとき、パラゴンは足を止めた。
白かった。
石畳の継ぎ目という継ぎ目から、白い傘が隙間なく顔を出している。壁の根元にも、樽の縁にも、軒先の雨樋の中にも。昨日の昼に半分片付けたはずの通りが、昨日の朝より、ずっと白くなっていた。
「……ふえた」
マキナが、パラゴンの外套の裾をつかんだ。
「銅貨十枚じゃ、割に合わねえな、こりゃ」
背中から、声がした。
金物屋の主人だった。頭の薄くなった、人の好さそうな商店会の世話役。昨日、店先の木箱に腰かけて、肩が軽くなったと笑っていた男だ。
今朝も、笑っていた。
「いやあ、ゆうべは、よく眠れてな。広場の相談所で、ひと眠りしてから帰ったんだ」
主人は、ぼりぼりと額の生え際を掻いた。
パラゴンは、その指の先を見た。
生え際から、白い糸が何本か垂れていた。髪の毛より細く、蜘蛛の糸より柔らかそうな、白い糸。爪の際にも、同じものがのぞいている。
「……親父さん。それ」
「ん? ああ、これか。痒くてな。汗疹みてえなもんだろ」
主人は、からからと笑った。
「今日もな、わたしたちが――」
言いかけて、主人は口をつぐんだ。首をかしげる。
「……俺が、だ。俺が、手伝うよ。キノコ抜き」
言い間違いだと、本人は思ったらしかった。すぐにまた笑って、店の奥へ軍手を取りに戻っていった。
マキナが、主人の背中を見送っていた。
「……いま、わたしたちって、いった」
「言い間違いだろ」
そう答えながら、パラゴンは、通りの奥を見ていた。
雨戸を半分閉めきった、二階建ての古い家。昨日、晴れた午後に、窓が一枚だけ内側から曇っていた家。
今朝も、その窓は白く曇っていた。
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2
戸に、鍵はかかっていなかった。
押すと、湿った木の音を立てて、内側へ開いた。
むっとした空気が、顔に当たった。雨上がりの森の、土の底のような匂い。その奥に、かすかに甘いものが混じっている。
「……あまい」
マキナが、小さく言った。今度は、パラゴンにも分かった。
中は、白かった。
床板の上にも、壁にも、天井の梁にも、キノコがびっしりと生えていた。傘の大きなもの、小さなもの、細い軸が束になったもの。家具の形が、白い傘に覆われて、ぼんやりとしか分からない。朝の光が、曇った窓越しに、白くにじんで差し込んでいた。
パラゴンは、首に巻いていた布を引き上げて、口と鼻を覆った。
二階へ続く階段の上で、何かが動いた。
「――ああ。お客さん」
低い声だった。息の多い、湿った声。
階段を、誰かがゆっくりと下りてきた。
背はそれほど高くない。肩につく長さの髪は、濡れたように重く垂れていて、毛先の一点だけ、今にも水が滴りそうだった。肌は、紙を湿らせたような灰白。男とも女ともつかない顔が、薄く笑っていた。
重ねた薄布の衣を引きずって、その誰かは、一段ずつ、足元を確かめるように下りてくる。
手には、杖が一本。皮を剥いだ、古い木の杖だった。節のところから、小さな傘が何本か生えていて、それが、かすかに膨らんではしぼんでいた。
呼吸していた。
「よく来てくれました。雨のあとは、いいでしょう。わたしたちも、よく伸びる」
目は笑っていた。けれど、その目はパラゴンの顔を見ていなかった。パラゴンの足元の、濡れた床板を見ていた。
「……これは、お前の仕業か」
「仕業。ええ、そうとも言えますね」
否定しなかった。
「――大丈夫。痛いのは、最初だけ。わたしが、あとは、わたしたちが、ちゃんと休ませてあげます」
パラゴンは、剣を抜いた。
床から伸びてきた白い糸の束を、横に払う。糸は、あっけなく切れた。
切れた端から、もう次の糸が伸びていた。
もう一度、払う。切れる。伸びる。払う。伸びる。
斬っても斬っても、手応えがなかった。濡れた紙を斬っているようだった。
パラゴンは、剣を左手に持ち替えて、懐から呪符を一枚抜いた。指で紋をなぞる。周りの空気が、紙の中へ吸い込まれていく感触。
風が、部屋の中で渦を巻いた。
白い傘が、根こそぎ吹き飛んだ。
そして、舞い上がった。
傘の裏から、白い粉が、煙のように噴き出した。部屋じゅうが、一瞬で白く霞んだ。
「ああ――」
杖の主が、嬉しそうに目を細めた。
「ありがとう。わたしたちだけでは、そこまで遠くへは、飛べないので」
パラゴンは、口の布を押さえて、後ろへ跳んだ。
戦いに、なっていなかった。
相手は、一度も手を上げていない。斬りかかってもこない。ただ、階段の途中に立って、生やしているだけだった。
「マキナ、出るぞ!」
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3
通りに転がり出て、パラゴンは布を引き下ろした。
息を吸う。吐く。
外套の裾が、白かった。
裾だけではない。袖口にも、剣帯の縫い目にも、白い糸が芽吹いていた。指の先ほどの小さな傘が、布の上に、もう一つ、二つ。
パラゴンは、外套をばさばさと叩いた。糸が、ぱらぱらと落ちる。袖を払う。剣帯を払う。
それから、隣を見た。
マキナが、そこに立っていた。
銀色の髪にも、服にも、白いものは何ひとつ付いていなかった。パラゴンと同じ部屋にいて、同じ粉の中をくぐってきたのに。
マキナ自身も、自分の袖を見下ろしていた。裏返して、もう一度見る。
「……ない」
「なんでお前だけ」
マキナは、首を横に振った。分からない、という顔だった。
戸口の暗がりに、杖の主が立っていた。
外には出てこなかった。戸口の内側から、首をかしげて、マキナを見ていた。その目が、初めて、足元ではなく、誰かの顔に焦点を結んでいた。
「……生えませんね」
独り言のようだった。
「いい材じゃない」
杖の主は、杖の節に生えた傘を一つ、指でつまんで、潰した。
甘い匂いが、濃くなった。
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4
通りの向こうで、戸の開く音がした。
一軒、また一軒。
家々から、人が出てきた。
見覚えのある顔が、いくつもあった。ゆうべ、市場の北の噴水広場で、安眠相談所の行列に並んでいた人たちだった。穏やかな顔で、ぼんやりと前を向いて、まばたきを、ゆっくりとしていた人たち。
今も、同じ顔をしていた。
同じ顔のまま、こちらへ歩いてくる。
誰も、急いでいなかった。誰も、声を上げなかった。髪の生え際から、爪の際から、口の端から、白い糸を垂らして、まっすぐに。
その中に、軍手をはめた、頭の薄い男がいた。
「……親父さん」
金物屋の主人は、パラゴンを見た。
目が、合った。
「……傭兵さん」
主人の顔が、くしゃりと歪んだ。笑おうとして、うまくいかない顔だった。
「悪いな。わたしたちの……俺の、足が、止まらねえんだ」
意識は、あった。自分が何をしているのか、分かっていた。分かったまま、歩いていた。
パラゴンは、剣の柄を握りしめた。
抜けなかった。
相手は、今朝、キノコ抜きを手伝うと言って軍手を取りに戻っていった、金物屋の親父だった。
「走れ!」
マキナの手をつかんで、パラゴンは走った。
路地を曲がる。後ろで、足音が追ってくる。慌てた足音ではなかった。一定の速さで、ぴたりと揃った、同じ足音。
振り返ると、先頭の男が、曲がり角の壁に、正面からぶつかっていた。
ぶつかって、止まって、ぎこちなく体の向きを変えて、また歩き出した。
まるで、関節が、一つの方向にしか曲がらないように。
路地を、また曲がる。もう一つ曲がる。角を曲がるたびに、後ろの足音は少しずつ遠のいた。下町の細い路地は、どこも同じように見えた。
三つ目の角を曲がった先は、長くまっすぐな路地だった。片側は高い板塀、もう片側は窓のない倉の壁。
その向こうの端から、白い糸を垂らした人影が、こちらへ歩いてきていた。
振り返ると、今曲がってきた角でも、先頭の男が壁にぶつかって、ぎこちなく向きを変えるところだった。
前にも、後ろにも。
足音が、両側から近づいてくる。
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5
足元で、かたん、と音がした。
板塀の、膝より低いところに、小さな戸があった。今の今まで、板の継ぎ目にしか見えなかった戸だ。
それが、内側から開いていた。
白い手が、にゅっと出てきた。
手は、マキナの襟首をつかんで、ひょいと引っ張り込んだ。
「マキナ!」
パラゴンが屈みこむと、手がもう一度出てきて、今度はパラゴンの外套の裾をつかんだ。
頭を下げて、肩をすぼめて、這うようにして、狭い戸口をくぐった。
戸が、ぱたんと閉まった。
薄暗い、狭い部屋だった。
畳が、四枚半。低い天井。土壁。部屋の隅に炉が切ってあって、鉄の釜が、しゅんしゅんと小さな音を立てていた。
板塀の向こうを、足音が通り過ぎていった。
ぴたりと揃った、同じ足音。両側からの足音が、戸の前で止まることもなく、ただ、まっすぐに行き過ぎた。やがて、路地の両端で、壁にぶつかる鈍い音がした。それから足音は、角の向こうへ遠ざかって、聞こえなくなった。
パラゴンは、息を殺したまま、顔を上げた。
炉の向こうに、男が座っていた。
紫がかった白銀の髪を、うなじのあたりでゆるく結んだ、背の高い男。碧い瞳が、にこにこと笑っていた。
マキナが、畳の上にぺたんと座ったまま、男を指さした。
「……やきとりのひと」
「そう! やきとりのひとだ!」
男は、嬉しそうに両手を広げた。それから、柄杓で釜の湯を汲みながら、急に胸を張った。
「そして何を隠そう! 超絶暗黒極悪非道、一騎当千常勝不敗の天才軍師茶人!」
釜の湯気が、ふわりと立ちのぼった。
「……は?」
パラゴンの口から、それしか出なかった。
「天才軍師茶人、だよ」
「……名前は」
「名前? えーっと、名前はねえ……あっ、お湯が沸いてる」
釜の湯は、さっきから沸いていた。
男は、パラゴンの問いをどこかに置き忘れたまま、茶碗を並べ始めた。
「あの人たち、曲がれないんだ」
茶碗を並べる手を止めずに、男は言った。
「まっすぐにしか歩けない。向きを変えるのは、壁にぶつかったときだけ。だから、横にある低い戸には入ってこられないんだ。お店の表の入り口なんて、角を七つ曲がらないと着かないしね」
さらりとした言い方だった。
さっき、曲がり角の壁に正面からぶつかっていた男の姿を、パラゴンは思い出した。この男は、それを見ていたのか。それとも、見ていなくても分かったのか。
「……なんで、助けた」
「串一本の恩!」
男は、指を一本立てた。
「昨日、親鳥をもらったでしょ。いつか倍にして返すって言ったもん」
そういえば、屋台で別れ際に、そんなことを言っていた。
「串一本で、二人まるごと。倍どころじゃないな。僕、太っ腹だ」
男は、自分で言って、自分で満足そうにうなずいた。
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6
男が、背筋を伸ばして座り直した。
その瞬間、部屋の空気が変わった。
さっきまで両手を広げて胸を張っていた男が、膝の前に手をついて、静かに一礼していた。
脇の水差しから、冷たい水をひと杓、釜に差す。しゅんしゅんと鳴っていた湯の音が、すっと静まった。
柄杓で湯を汲んで、茶碗に注ぐ。茶筅の穂先を、その湯にくぐらせる。穂先を一本ずつ確かめるように、ゆっくりと。湯を捨てて、白い布で茶碗の内側をひと回り拭う。
黒い漆の小さな器から、細い竹の匙で、緑の粉を二度すくった。
湯を注ぐ。茶筅が、碗の底を細かく行き来し始めた。
釜の音と、茶筅の音のほかは、何も聞こえなかった。
目を伏せた横顔に、笑みはなかった。一つの無駄もなく、一つの余計な音も立てずに、手が動いていく。碗の中が、きめの細かい泡で、ふっくらと覆われていった。
最後に、茶筅が泡の真ん中から、すっと引き上げられた。
パラゴンは、黙ってそれを見ていた。
屋台で「うままま」と唸っていた男と、同じ男とは思えなかった。
茶碗が、パラゴンの前に置かれた。絵の描かれた面が、まっすぐパラゴンの方を向いていた。
「どうぞ」
声まで、静かだった。
パラゴンが、茶碗をそのまま口へ運ぼうとすると、男が小さく言った。
「正面は、よけて。……手前に、ふた回し」
言われたとおりに、茶碗を手のひらの上で二度、回した。絵が、横へずれた。
口をつける。ぬるかった。苦みは、ほとんどなかった。細かい泡が舌の上でほどけて、青い草の香りだけが、やわらかく広がった。
張りつめていた肩から、少しだけ力が抜けた。
男が、次の茶碗に手を伸ばした。マキナの分だった。
その手が、ほんの一拍だけ、止まった。
碧い瞳が、マキナを見た。マキナは、畳の上に座ったまま、男を見返していた。
男は、茶碗を脇へ戻した。黒い漆の器にも、触れなかった。代わりに、白い小ぶりの碗を取って、柄杓で釜の湯を汲み、そのまま注いだ。
碗を膝の前に置いて、湯気が落ち着くのを、しばらく待った。
「……この子には、茶より白湯か」
碗が、マキナの前に置かれた。正面を、マキナに向けて。
マキナは、両手で碗を包むように持って、そっとひと口すすった。
「……あったかい」
「でしょ!」
男の声が、元に戻っていた。膝を崩して、にこにこと笑う。それから、自分の分の茶をささっと点てて、ずずっとすすった。さっきの静けさは、どこにもなかった。
「うまい! 僕、天才!」
パラゴンは、茶碗を置いた。
「……外で、何が起きてる」
「うーん。僕も、全部は知らないんだよね」
男は、茶碗を両手で包んで、首をかしげた。
「キノコが増えて、キノコが生えた人が、まっすぐ歩き出して。みんな、楽になったって言ってる。……楽になったって言ってるのが、いちばん困るなぁ」
最後の一言だけ、笑っていなかった。
釜の湯が、しゅんしゅんと鳴っていた。
そのとき、板塀の外で、音がした。
びぃん、と。
一度だけ。
張りつめた弦を、指で弾いたような音だった。狭い路地の、壁と壁のあいだを、その音が真っすぐに走り抜けていった。
男の手が、茶碗を持ったまま止まった。
笑っていなかった。
何も言わなかった。ただ、音のした方の土壁を、しばらく見ていた。
それから、何事もなかったように、茶をすすった。
「……おかわり、いる?」
(第2話 了)