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1
日が傾くのを待って、茶室を出た。
「角の多い道なら、あの人たちは来ないよ」
男は、そう言って先に立った。
右に曲がる。左に曲がる。塀と塀のあいだの、人ひとりやっと通れる隙間を抜ける。洗濯物の下をくぐって、また曲がる。パラゴンが長く住んでいる下町なのに、知らない道ばかりだった。
男は、一度も迷わなかった。足音も、やはり立てなかった。
大通りを横切るとき、一度だけ立ち止まった。
通りの向こうを、人が歩いていた。三人、四人。夕暮れの中を、一列になって、まっすぐ南へ。誰も、前の人の背中しか見ていなかった。
マキナが、パラゴンの手を握った。
男は、その列が通り過ぎるのを黙って待ってから、また歩き出した。
「……南に、何がある」
「さあ。湿った方、かなぁ」
男は、振り返らずに答えた。
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2
「おかえりなさい。……あら」
窓辺の寝台で、ルーチェが目を丸くした。
パラゴンの後ろから、背の高い男がひょいと顔を出して、にこにこと手を振っていた。
「お客さん?」
「……恩人だ。一応」
「一応?」
「超絶暗黒極悪非道、一騎当千常勝不敗の天才軍師茶人です!」
ルーチェは、ぱちぱちと瞬きをした。それから、ころころと笑い出した。
「天才軍師茶人さん。お名前は?」
「一会!」
今度は、あっさり出てきた。
「茶名だけどね。お茶の人の名前。いちえ、って読むの」
パラゴンは、茶室で名前を聞いたときのことを思い出した。あっ、お湯が沸いてる、で流されたのだった。
「……さっきは、言わなかっただろ」
「聞かれ方が、よくなかったのかも」
一会は、悪びれもせずに言った。
―――
夕飯は、豆と根菜の煮込みだった。
一会は、ひと口食べて目を閉じた。
「うままま……」
「お前、それしか言わないのか」
「おいしいときは、これしか出ないんだよ」
ルーチェが、嬉しそうに笑った。
マキナは、一会の隣に座って、じっとその顔を見ていた。それから台所へとことこと行って、小さな湯呑みを持って戻ってきた。湯冷ましの白湯が、半分ほど入っていた。
「……おかえし」
「わぁい」
一会は、両手で受け取って、ひと口すすった。
その肩が、小さく震えた。
よく見ると、さっきから、ときどき震えていた。煮込みの湯気の前で、背を丸めている。
「……寒いの?」
ルーチェが、首をかしげた。
「うーん。手荒れの薬をね、塗りすぎちゃって。すーすーするやつ」
一会は、指の先をひらひらさせた。茶を点てる手の、指の節がつやつやと光っていた。
「塗りすぎると、寒いんだよね」
「塗りすぎなきゃいいだろ」
「塗ってるうちに、楽しくなっちゃうんだよ」
ルーチェが、寝台の端から毛布を一枚引っぱった。
「パラゴン、これ」
パラゴンが受け取って、一会の肩に掛けた。ルーチェは、空になった一会の皿を見て、もう一杯よそうように言った。
「お薬は、薄く塗るの。それと、湯冷めしないように、帰り道は首を隠してね」
一会は、毛布にくるまったまま、ルーチェを見ていた。
「ちゃんと温かくして帰るのよ」
一会は、きょとんとした顔で、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「……母上?」
ルーチェが、吹き出した。
「母上は、まだ早いかな」
「ううん。母上だ。今の、母上だった」
一会は、なぜか一人で納得したようにうなずいた。
「はい、母上! 薄く塗ります!」
ルーチェは、お腹を押さえて笑っていた。パラゴンは、額に手を当てた。
マキナが、一会とルーチェを交互に見て、首をかしげた。
「……ははうえ?」
「マキナちゃんは、真似しなくていいのよ」
―――
帰り際、ルーチェが言った。
「暗いし、外は大変なんでしょう。パラゴン、送ってあげて」
一会は、毛布を返そうとして、ルーチェに押し戻されていた。
「それは、明日返しに来てくれればいいから」
「明日も来ていいの?」
「毛布を返しにね」
一会は、毛布を大事そうに抱え直した。
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3
角を七つ曲がった路地の奥に、その店はあった。
古い、小さな茶屋だった。軒に色の褪せた暖簾が一枚。昼間に転がり込んだ躙口は、この店の裏手の、板塀の側にあったらしい。
「僕のお店」
一会が、少し得意そうに言った。
「お客さん、あんまり来ないけどね。角を七つ曲がらないと着かないから」
「自分で言うのか」
「隠れ家には、ちょうどいいんだよ」
灯りは、消えていた。
一会の足が、戸口の前で止まった。
戸が、少しだけ開いていた。
一会は、何も言わなかった。毛布を、そっと軒下の樽の上に置いた。それから、戸を開けた。
月明かりが、細長く土間に差し込んだ。
店の中は、卓と椅子が並んだ、狭い土間だった。その奥に、茶室へ続く襖。
戸口から、その襖まで。
まっすぐな一本の線の上に、誰かが立っていた。
背が高かった。一会と同じくらいか、それ以上。けれど、体のどこもかしこも細かった。乾いた枝のように。黒い髪を後頭部の一箇所できつく結んでいて、額の皮膚が、少し引っ張られていた。
手には、弓が一張り。古くて、華奢で、飾りのない弓だった。都市のどこにでも転がっていそうな、ただの道具に見えた。
その目が、二人を見た。
見る、というより、測っていた。
「ホダの網に、穴がある」
短い声だった。
「塞ぎに来た」
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4
射手が、足元の卓を蹴った。
卓が横に滑って、壁にぶつかった。もう一つ。椅子が倒れる。並んでいた卓が、次々と土間の端へ押しやられていく。
戸口から襖まで、何もない通路ができた。
一本の、まっすぐな線。
「距離、五歩」
弓に、矢が番えられていた。いつ番えたのか、見えなかった。
パラゴンは、剣を抜いて踏み込んだ。
弦の音。
外套の裾が、後ろに引っぱられた。振り返ると、裾が、戸口の柱に矢で縫い止められていた。
矢は、パラゴンの脚の、指一本ぶん外を通っていた。
外したのではない。そこを狙ったのだと、分かった。
パラゴンは、裾を引き裂いて前に出た。懐から呪符を抜いて、指で紋をなぞる。風が、土間の中を吹き抜けた。
二本目の矢が、風に押されて横へ逸れた。
逸れた矢は、壁際の棚に突き刺さった。棚の上の茶碗が一つ、弾かれて落ちて、床で砕けた。
「あっ」
戸口で、一会が小さく声を上げた。
「それ、気に入ってたやつ……」
射手は、そちらを見なかった。
「風、右から。二」
呟きながら、もう次の矢を番えていた。
三本目の矢は、風の中をまっすぐに抜けてきた。パラゴンの左の袖が、背後の柱に縫い止められた。
「話は、当たってから」
四本目が番えられていた。
そこで、射手の目が、何かに引かれるように、ほんの一瞬だけ戸口の一会の方へ動いた。
測ろうとしていた。
けれど、その目が、一会の上で止まらなかった。一会は、戸口に立っているだけだった。構えてもいない。武器も持っていない。それなのに、射手の目は、一会のどこに線を引けばいいのか、決めかねているように見えた。
一会が、土間に一歩、踏み入った。
足音は、しなかった。
パラゴンと射手のあいだの、まっすぐな線の上に。
「……席を、設けましょう」
一会の声が、変わっていた。
茶室で茶を点てていたときの、あの静かな声だった。
「一服、差し上げます」
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5
射手は、頭を下げていた。
気がつくと、そうしていた。狭い戸口をくぐるときのように、身をかがめて、肩をすぼめて。
顔を上げると、畳の上にいた。
四畳半。低い天井。土壁。隅に切られた炉で、釜が小さな音を立てていた。
土間は、どこにもなかった。柱に縫い止めたはずの傭兵の姿も、なかった。
炉の向こうに、一会が座っていた。
「この席は、僕の点てた一服を飲み終えるまで、誰も出られません」
一会は、茶碗を膝の前に置きながら言った。
「僕も、です」
射手は、弓を持ったまま、部屋を見回した。
線を、探していた。
見つからなかった。
炉は、部屋の隅に斜めに切られていた。床の間の柱は、削っていない自然の木で、ゆるく曲がっていた。天井は、場所ごとに高さが違った。壁と壁の角さえ、どこか、まっすぐではなかった。
窓と出口を結ぶ直線が、この部屋には一本もなかった。
射手は、矢を番えた。
一会は、脇の水差しから、冷たい水をひと杓、釜に差した。しゅんしゅんと鳴っていた湯の音が、すっと静まった。
弓を引く。狙う。
一会の肩と、射手の鏃のあいだに、釜の湯気が立ちのぼっていた。射手が半歩ずれると、一会は茶筅の穂先を湯にくぐらせるために、半歩ぶんだけ身を傾けた。ただ、点前をしているだけだった。
射手は、弦を放した。
矢は、床の間の曲がった柱に刺さった。
一会は、そちらを見もしなかった。竹の匙で、緑の粉を二度すくった。
「茶は、戦いじゃないよ」
静かな声だった。
「だから、ここでは、誰も誰かを射なくていい」
茶筅が、碗の底を細かく行き来し始めた。
射手は、二本目の矢を番えなかった。
呼吸が浅かった。自分でも、それが分かった。こんなに近くで、誰かと向き合って座ったことが、いつ以来なのか思い出せなかった。遠くから決めて、近づかれない。それが、ずっと自分のやり方だった。
碗が、射手の前に置かれた。正面を、射手に向けて。
一会も、自分の碗を手に取った。
「冷めないうちに」
射手は、長いあいだ碗を見ていた。
それから、弓を畳に置いた。
碗を両手で持ち上げる。ぬるかった。
ひと口、飲んだ。
温かいものが、喉を下りていった。胸の奥に落ちて、そこから、ゆっくりと広がっていった。浅かった呼吸が、一つ、深くなった。
弦の溝が骨まで刻まれた左手の指が、碗の縁で、ほどけていった。
ずっと張りつめていたものが、ぬるい湯に浸かったように、ゆるんでいく。
向かいで、一会も同じ碗を傾けていた。
「……ぬくい」
一会は、とろんとした目で、幸せそうに息をついた。
射手は、最後のひと口を飲み干した。
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6
パラゴンは、柱に縫い止められた袖を引き剥がそうとしていた。
一会が「一服、差し上げます」と言った次の瞬間、土間の真ん中に、小さな庵が建っていた。
襖の奥の、店の茶室ではなかった。ついさっきまで射手が立っていた、その場所に。
土壁と、低い屋根。膝の高さに、小さな戸が一つだけ。一会と射手の姿は、どこにもなかった。庵の中から、釜の湯の鳴る音だけが、かすかに聞こえていた。
やっと袖が外れたとき、庵が、ふっと消えた。
湯気がほどけるように。
土間の真ん中に、射手が膝をついていた。その向かいで、一会が、ちょこんと正座していた。
射手が、立ち上がった。
弓を取って、矢を番えようとする。
指が、弦の上で滑った。もう一度。矢筈が、うまく弦にかからない。
射手は、自分の左手を見下ろした。
指先が、まだ温かかった。
長いあいだ、そうしていた。それから、矢を矢筒に戻した。
戸口へ向かって歩いていく。まっすぐに。一会の横を、すれ違う。
「……ぬるい」
それだけ言った。
戸口で一度だけ立ち止まって、弦を指で弾いた。
びぃん、と。
その音が、少しだけ揺れていた。
射手の背中が、月明かりの路地に消えた。
―――
土間には、蹴り倒された卓と椅子と、砕けた茶碗が散らばっていた。柱には、矢が何本も刺さったままだった。棚は傾いて、暖簾は半分ちぎれていた。
一会は、しゃがみこんで、砕けた茶碗の欠片を一つ拾った。
「これ、気に入ってたのになぁ」
いつもの声だった。
パラゴンは、剣を鞘に収めた。
「……今のは、何だ」
「一服、差し上げただけだよ」
一会は、欠片を掌の上で転がして、それから立ち上がって、店の中をぐるりと見回した。
「……しばらく、お店、お休みかぁ」
それから、くるりとパラゴンの方を向いた。
碧い瞳が、にこにこと笑っていた。
「……ねえ。きみんち、空いてる?」
軒下の樽の上で、ルーチェの毛布が、夜風にふわりと揺れていた。
(第3話 了)