銀と琥珀   作:らむさいだー

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第3話 茶の湯

 

 

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1

日が傾くのを待って、茶室を出た。

 

「角の多い道なら、あの人たちは来ないよ」

 

男は、そう言って先に立った。

 

右に曲がる。左に曲がる。塀と塀のあいだの、人ひとりやっと通れる隙間を抜ける。洗濯物の下をくぐって、また曲がる。パラゴンが長く住んでいる下町なのに、知らない道ばかりだった。

 

男は、一度も迷わなかった。足音も、やはり立てなかった。

 

大通りを横切るとき、一度だけ立ち止まった。

 

通りの向こうを、人が歩いていた。三人、四人。夕暮れの中を、一列になって、まっすぐ南へ。誰も、前の人の背中しか見ていなかった。

 

マキナが、パラゴンの手を握った。

 

男は、その列が通り過ぎるのを黙って待ってから、また歩き出した。

 

「……南に、何がある」

「さあ。湿った方、かなぁ」

 

男は、振り返らずに答えた。

 

 

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2

「おかえりなさい。……あら」

 

窓辺の寝台で、ルーチェが目を丸くした。

 

パラゴンの後ろから、背の高い男がひょいと顔を出して、にこにこと手を振っていた。

 

「お客さん?」

「……恩人だ。一応」

「一応?」

「超絶暗黒極悪非道、一騎当千常勝不敗の天才軍師茶人です!」

 

ルーチェは、ぱちぱちと瞬きをした。それから、ころころと笑い出した。

 

「天才軍師茶人さん。お名前は?」

「一会!」

 

今度は、あっさり出てきた。

 

「茶名だけどね。お茶の人の名前。いちえ、って読むの」

 

パラゴンは、茶室で名前を聞いたときのことを思い出した。あっ、お湯が沸いてる、で流されたのだった。

 

「……さっきは、言わなかっただろ」

「聞かれ方が、よくなかったのかも」

 

一会は、悪びれもせずに言った。

 

―――

 

夕飯は、豆と根菜の煮込みだった。

 

一会は、ひと口食べて目を閉じた。

 

「うままま……」

「お前、それしか言わないのか」

「おいしいときは、これしか出ないんだよ」

 

ルーチェが、嬉しそうに笑った。

 

マキナは、一会の隣に座って、じっとその顔を見ていた。それから台所へとことこと行って、小さな湯呑みを持って戻ってきた。湯冷ましの白湯が、半分ほど入っていた。

 

「……おかえし」

「わぁい」

 

一会は、両手で受け取って、ひと口すすった。

 

その肩が、小さく震えた。

 

よく見ると、さっきから、ときどき震えていた。煮込みの湯気の前で、背を丸めている。

 

「……寒いの?」

 

ルーチェが、首をかしげた。

 

「うーん。手荒れの薬をね、塗りすぎちゃって。すーすーするやつ」

 

一会は、指の先をひらひらさせた。茶を点てる手の、指の節がつやつやと光っていた。

 

「塗りすぎると、寒いんだよね」

「塗りすぎなきゃいいだろ」

「塗ってるうちに、楽しくなっちゃうんだよ」

 

ルーチェが、寝台の端から毛布を一枚引っぱった。

 

「パラゴン、これ」

 

パラゴンが受け取って、一会の肩に掛けた。ルーチェは、空になった一会の皿を見て、もう一杯よそうように言った。

 

「お薬は、薄く塗るの。それと、湯冷めしないように、帰り道は首を隠してね」

 

一会は、毛布にくるまったまま、ルーチェを見ていた。

 

「ちゃんと温かくして帰るのよ」

 

一会は、きょとんとした顔で、しばらく黙っていた。

 

それから、ぽつりと言った。

 

「……母上?」

 

ルーチェが、吹き出した。

 

「母上は、まだ早いかな」

「ううん。母上だ。今の、母上だった」

 

一会は、なぜか一人で納得したようにうなずいた。

 

「はい、母上! 薄く塗ります!」

 

ルーチェは、お腹を押さえて笑っていた。パラゴンは、額に手を当てた。

 

マキナが、一会とルーチェを交互に見て、首をかしげた。

 

「……ははうえ?」

「マキナちゃんは、真似しなくていいのよ」

 

―――

 

帰り際、ルーチェが言った。

 

「暗いし、外は大変なんでしょう。パラゴン、送ってあげて」

 

一会は、毛布を返そうとして、ルーチェに押し戻されていた。

 

「それは、明日返しに来てくれればいいから」

「明日も来ていいの?」

「毛布を返しにね」

 

一会は、毛布を大事そうに抱え直した。

 

 

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3

角を七つ曲がった路地の奥に、その店はあった。

 

古い、小さな茶屋だった。軒に色の褪せた暖簾が一枚。昼間に転がり込んだ躙口は、この店の裏手の、板塀の側にあったらしい。

 

「僕のお店」

 

一会が、少し得意そうに言った。

 

「お客さん、あんまり来ないけどね。角を七つ曲がらないと着かないから」

「自分で言うのか」

「隠れ家には、ちょうどいいんだよ」

 

灯りは、消えていた。

 

一会の足が、戸口の前で止まった。

 

戸が、少しだけ開いていた。

 

一会は、何も言わなかった。毛布を、そっと軒下の樽の上に置いた。それから、戸を開けた。

 

月明かりが、細長く土間に差し込んだ。

 

店の中は、卓と椅子が並んだ、狭い土間だった。その奥に、茶室へ続く襖。

 

戸口から、その襖まで。

 

まっすぐな一本の線の上に、誰かが立っていた。

 

背が高かった。一会と同じくらいか、それ以上。けれど、体のどこもかしこも細かった。乾いた枝のように。黒い髪を後頭部の一箇所できつく結んでいて、額の皮膚が、少し引っ張られていた。

 

手には、弓が一張り。古くて、華奢で、飾りのない弓だった。都市のどこにでも転がっていそうな、ただの道具に見えた。

 

その目が、二人を見た。

 

見る、というより、測っていた。

 

「ホダの網に、穴がある」

 

短い声だった。

 

「塞ぎに来た」

 

 

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4

射手が、足元の卓を蹴った。

 

卓が横に滑って、壁にぶつかった。もう一つ。椅子が倒れる。並んでいた卓が、次々と土間の端へ押しやられていく。

 

戸口から襖まで、何もない通路ができた。

 

一本の、まっすぐな線。

 

「距離、五歩」

 

弓に、矢が番えられていた。いつ番えたのか、見えなかった。

 

パラゴンは、剣を抜いて踏み込んだ。

 

弦の音。

 

外套の裾が、後ろに引っぱられた。振り返ると、裾が、戸口の柱に矢で縫い止められていた。

 

矢は、パラゴンの脚の、指一本ぶん外を通っていた。

 

外したのではない。そこを狙ったのだと、分かった。

 

パラゴンは、裾を引き裂いて前に出た。懐から呪符を抜いて、指で紋をなぞる。風が、土間の中を吹き抜けた。

 

二本目の矢が、風に押されて横へ逸れた。

 

逸れた矢は、壁際の棚に突き刺さった。棚の上の茶碗が一つ、弾かれて落ちて、床で砕けた。

 

「あっ」

 

戸口で、一会が小さく声を上げた。

 

「それ、気に入ってたやつ……」

 

射手は、そちらを見なかった。

 

「風、右から。二」

 

呟きながら、もう次の矢を番えていた。

 

三本目の矢は、風の中をまっすぐに抜けてきた。パラゴンの左の袖が、背後の柱に縫い止められた。

 

「話は、当たってから」

 

四本目が番えられていた。

 

そこで、射手の目が、何かに引かれるように、ほんの一瞬だけ戸口の一会の方へ動いた。

 

測ろうとしていた。

 

けれど、その目が、一会の上で止まらなかった。一会は、戸口に立っているだけだった。構えてもいない。武器も持っていない。それなのに、射手の目は、一会のどこに線を引けばいいのか、決めかねているように見えた。

 

一会が、土間に一歩、踏み入った。

 

足音は、しなかった。

 

パラゴンと射手のあいだの、まっすぐな線の上に。

 

「……席を、設けましょう」

 

一会の声が、変わっていた。

 

茶室で茶を点てていたときの、あの静かな声だった。

 

「一服、差し上げます」

 

 

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5

射手は、頭を下げていた。

 

気がつくと、そうしていた。狭い戸口をくぐるときのように、身をかがめて、肩をすぼめて。

 

顔を上げると、畳の上にいた。

 

四畳半。低い天井。土壁。隅に切られた炉で、釜が小さな音を立てていた。

 

土間は、どこにもなかった。柱に縫い止めたはずの傭兵の姿も、なかった。

 

炉の向こうに、一会が座っていた。

 

「この席は、僕の点てた一服を飲み終えるまで、誰も出られません」

 

一会は、茶碗を膝の前に置きながら言った。

 

「僕も、です」

 

射手は、弓を持ったまま、部屋を見回した。

 

線を、探していた。

 

見つからなかった。

 

炉は、部屋の隅に斜めに切られていた。床の間の柱は、削っていない自然の木で、ゆるく曲がっていた。天井は、場所ごとに高さが違った。壁と壁の角さえ、どこか、まっすぐではなかった。

 

窓と出口を結ぶ直線が、この部屋には一本もなかった。

 

射手は、矢を番えた。

 

一会は、脇の水差しから、冷たい水をひと杓、釜に差した。しゅんしゅんと鳴っていた湯の音が、すっと静まった。

 

弓を引く。狙う。

 

一会の肩と、射手の鏃のあいだに、釜の湯気が立ちのぼっていた。射手が半歩ずれると、一会は茶筅の穂先を湯にくぐらせるために、半歩ぶんだけ身を傾けた。ただ、点前をしているだけだった。

 

射手は、弦を放した。

 

矢は、床の間の曲がった柱に刺さった。

 

一会は、そちらを見もしなかった。竹の匙で、緑の粉を二度すくった。

 

「茶は、戦いじゃないよ」

 

静かな声だった。

 

「だから、ここでは、誰も誰かを射なくていい」

 

茶筅が、碗の底を細かく行き来し始めた。

 

射手は、二本目の矢を番えなかった。

 

呼吸が浅かった。自分でも、それが分かった。こんなに近くで、誰かと向き合って座ったことが、いつ以来なのか思い出せなかった。遠くから決めて、近づかれない。それが、ずっと自分のやり方だった。

 

碗が、射手の前に置かれた。正面を、射手に向けて。

 

一会も、自分の碗を手に取った。

 

「冷めないうちに」

 

射手は、長いあいだ碗を見ていた。

 

それから、弓を畳に置いた。

 

碗を両手で持ち上げる。ぬるかった。

 

ひと口、飲んだ。

 

温かいものが、喉を下りていった。胸の奥に落ちて、そこから、ゆっくりと広がっていった。浅かった呼吸が、一つ、深くなった。

 

弦の溝が骨まで刻まれた左手の指が、碗の縁で、ほどけていった。

 

ずっと張りつめていたものが、ぬるい湯に浸かったように、ゆるんでいく。

 

向かいで、一会も同じ碗を傾けていた。

 

「……ぬくい」

 

一会は、とろんとした目で、幸せそうに息をついた。

 

射手は、最後のひと口を飲み干した。

 

 

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6

パラゴンは、柱に縫い止められた袖を引き剥がそうとしていた。

 

一会が「一服、差し上げます」と言った次の瞬間、土間の真ん中に、小さな庵が建っていた。

 

襖の奥の、店の茶室ではなかった。ついさっきまで射手が立っていた、その場所に。

 

土壁と、低い屋根。膝の高さに、小さな戸が一つだけ。一会と射手の姿は、どこにもなかった。庵の中から、釜の湯の鳴る音だけが、かすかに聞こえていた。

 

やっと袖が外れたとき、庵が、ふっと消えた。

 

湯気がほどけるように。

 

土間の真ん中に、射手が膝をついていた。その向かいで、一会が、ちょこんと正座していた。

 

射手が、立ち上がった。

 

弓を取って、矢を番えようとする。

 

指が、弦の上で滑った。もう一度。矢筈が、うまく弦にかからない。

 

射手は、自分の左手を見下ろした。

 

指先が、まだ温かかった。

 

長いあいだ、そうしていた。それから、矢を矢筒に戻した。

 

戸口へ向かって歩いていく。まっすぐに。一会の横を、すれ違う。

 

「……ぬるい」

 

それだけ言った。

 

戸口で一度だけ立ち止まって、弦を指で弾いた。

 

びぃん、と。

 

その音が、少しだけ揺れていた。

 

射手の背中が、月明かりの路地に消えた。

 

―――

 

土間には、蹴り倒された卓と椅子と、砕けた茶碗が散らばっていた。柱には、矢が何本も刺さったままだった。棚は傾いて、暖簾は半分ちぎれていた。

 

一会は、しゃがみこんで、砕けた茶碗の欠片を一つ拾った。

 

「これ、気に入ってたのになぁ」

 

いつもの声だった。

 

パラゴンは、剣を鞘に収めた。

 

「……今のは、何だ」

「一服、差し上げただけだよ」

 

一会は、欠片を掌の上で転がして、それから立ち上がって、店の中をぐるりと見回した。

 

「……しばらく、お店、お休みかぁ」

 

それから、くるりとパラゴンの方を向いた。

 

碧い瞳が、にこにこと笑っていた。

 

「……ねえ。きみんち、空いてる?」

 

軒下の樽の上で、ルーチェの毛布が、夜風にふわりと揺れていた。

 

(第3話 了)

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