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1
朝、台所のかまどの前に、毛布の塊が落ちていた。
塊は、ときどき、もぞもぞと動いた。端から、紫がかった白銀の髪がはみ出していた。
ゆうべ、茶屋の軒下に置き忘れてきたルーチェの毛布だった。店を出るとき、一会はちゃんとそれを抱えて帰ってきた。そして、そのまま、かまどの前で丸くなった。
帰ってきた、というのも妙な話だった。ここは、パラゴンの家だ。
マキナが、毛布の塊の横にしゃがんで、じっと見ていた。
「……おきない」
「起こさなくていい」
「おきた」
塊が、むくりと起き上がった。毛布の中から、寝ぐせのついた頭が出てきた。
一会は、窓辺の寝台の方を見て、ぱっと顔を輝かせた。
「母上、おはよう!」
「おはよう、一会さん」
ルーチェは、寝台の上で、くすくすと笑っていた。
パラゴンは、額に手を当てた。
「……いつまでいる気だ」
「お店が直るまで!」
「いつ直る」
「うーん。柱に矢がいっぱい刺さってたからなぁ」
一会は、指を折って数え始めて、途中でやめた。
―――
朝ごはんは僕が作る、と一会は言った。
鍋を火にかけて、豆を入れて、水を入れ忘れた。
焦げる匂いがしてきたところで、寝台からルーチェの声が飛んだ。
「一会さん、お水!」
「お水!」
「それはお茶用のお水!」
「お茶用のお水!」
結局、朝ごはんはパラゴンが作り直した。
その間に、一会は、焦げた鍋の隣で黙々と湯を沸かしていた。棚の奥から出てきた、いつ買ったかも分からない安い茶葉で、四人分の茶を淹れる。
ひと口飲んで、パラゴンは眉を上げた。
同じ茶葉のはずだった。いつもの、あの渋いだけの茶とは、まるで別物だった。ぬるくて、やわらかくて、苦くなかった。
「……お前、茶だけは」
「茶だけは、ね!」
一会は、胸を張った。
窓辺では、マキナが、一会に淹れてもらった白湯の湯呑みを両手で持っていた。
湯呑みを、手のひらの上で、そっと二回まわす。それから、ひと口すする。
一会が、目を丸くした。
「マキナちゃん、それ」
「しょうめん、よける」
茶屋の茶室で、一会がパラゴンに教えた作法だった。マキナは、それを横で見ていたらしい。
「わぁい! マキナちゃん、天才!」
一会が、自分の湯呑みを持ってマキナの隣に座った。二人並んで、同じように二回まわして、同じようにすすった。
ルーチェが、寝台の上で、また笑っていた。
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2
パン屋へ行く、とマキナが言った。
一会が、行く、と言った。パラゴンは、少し考えてから、剣帯を締めた。
表通りに出て、すぐに分かった。
街の空気が、昨日までと違っていた。
大通りの角ごとに、灰色の制服が立っていた。セイフガードの巡回だった。いつもなら二人一組で気だるげに歩いている連中が、今日は四人、五人と固まって、通りを行き交う人の顔を一人ずつ見ていた。
壁という壁に、張り紙があった。
――キノコに触れないこと。
――南へ歩いていく者を見かけたら、最寄りの詰所へ。
店の半分ほどは、戸を閉めていた。開いている店も、戸口に目の粗い布を垂らしていた。すれ違う人たちは、口元を手拭いで覆って、足早に通り過ぎていった。
誰も、立ち話をしていなかった。
「……しずか」
マキナが、パラゴンの手を握った。
一会は、張り紙の一枚を見上げていた。いつものにこにこ顔で。それでも、張り紙の前で足を止めた時間は、少しだけ長かった。
パン屋は、開いていた。
いつもの丸いパンは、半分しか並んでいなかった。粉の荷が、南の通りを抜けてこないのだと、パン屋の女将は言った。
「今日は、おひとつずつね。ごめんなさいね、マキナちゃん」
「ひとつで、いい」
マキナは、銅貨を差し出して、紙袋を大事そうに受け取った。
一会は、並んでいるパンを片っ端から欲しがって、女将に困った顔をされていた。
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3
南の通りの入り口に、縄が張られていた。
縄の前に、セイフガードが何人も立っていた。その中に、見覚えのある大きな背中があった。
「そっちの角にも一人置け。南へ歩いてくやつは、止めなくていい。止めても止まらねえ。ぶつかって転ばねえように、前をあけてやれ」
部下に指示を飛ばしている。声が、少しかすれていた。
朝霧だった。
振り返った朝霧の目の下に、濃い隈があった。
「おう、傭兵。……嬢ちゃんも一緒か。こんな日に、散歩か」
「パンを買いに来た」
「そりゃあ、大事な用だわ」
朝霧は、マキナの紙袋を見て、少しだけ笑った。
「……寝てないのか」
「寝る暇がありゃあな」
朝霧は、縄の向こうの通りを顎で示した。
南の通りは、白かった。人の姿は、どこにもなかった。
「昨日の昼から、あっちこっちで、まっすぐ南へ歩き出すやつが出てる。止めようとしても止まらねえ。歩かせとくと、区画の壁にぶつかって、そこで止まる」
「……それで」
「壁の前で拾って、倉庫に集めて寝かせてる。寝かせると、おとなしくなる。……おとなしくはなるんだがな」
朝霧は、言葉を切った。
「寝たまま、手が床を撫でてんだよ。全員。ずーっと」
パラゴンは、金物屋の主人の、生え際から垂れていた白い糸を思い出した。
「医者は」
「分からねえってよ。薬も効かねえ。CMAも管理塔も、朝から走り回ってる。……キノコの出どころも、まだつかめてねえ」
朝霧は、縄の結び目を確かめるように、指で弾いた。
「お前も、あんまり出歩くなよ。嬢ちゃんと、妹さんのためにもな」
それから、パラゴンの後ろに目をやった。
「……で、そっちのは」
「ドーモ! 超絶暗黒極悪非道、一騎当千常勝不敗の天才軍師茶人です!」
一会が、元気よく手を挙げた。
朝霧は、しばらく黙っていた。
「……傭兵。妙なのを拾ったな」
「拾ったんじゃない。拾わされたんだ」
「どっちでもいいわ」
朝霧は、手をひらひらさせて、また部下の方へ向き直った。
三人が歩き出してから、パラゴンは、一度だけ振り返った。
朝霧が、こちらを見ていた。
パラゴンではなく、その隣を、にこにこと歩いていく背の高い男の背中を。
ほんの少しのあいだだけ。それから、朝霧は、また縄の方へ向き直った。
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4
市場の外れの焼き鳥の屋台は、まだ開いていた。
醤油の焦げる匂いが、人の減った通りに、いつもより遠くまで流れていた。
一会の足が、止まった。
焼き台の上に、親鳥の串が並んでいた。
「……ある」
「今日はあるよ、兄さん」
屋台の親父が、串を返しながら笑った。
「わぁい!」
一会は、三本買った。一本をマキナに、一本をパラゴンに渡して、自分の一本にかぶりつく。
「うままま……」
親父は、焼き台の火を眺めながら言った。
「ただ、しばらく店じまいだ。南から煙が……いや、あれは胞子っていうのか。とにかく、客が来ねえ。明日からは、家で大人しくしてるわ」
一会の顎が、止まった。
「……しばらく、ない?」
「しばらく、ねえな」
一会は、手の中の串を見下ろした。それから、残りのひと切れを、さっきよりずっとゆっくり噛みしめた。
「じゃあ、今日のは、大事に食べる」
親父が、笑った。少しだけ、寂しそうに。
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5
夜、ルーチェが言った。
「一会さん。何か、お話して」
一会は、毛布にくるまって、かまどの前に座っていた。今日は、手荒れの薬を薄く塗っていた。
「お話?」
「お兄ちゃんはね、いつも仕事の話しかしてくれないの。それも、ちょっとだけ」
パラゴンは、戸口の柱にもたれて、黙っていた。反論の余地はなかった。
「うーん。じゃあ、昔の戦の話」
「いいわね」
マキナが、ルーチェの寝台の足元に、ぺたんと座った。
一会は、話し始めた。
ずっと昔、この都市ができるより前に、北の平原であった戦の話だった。雪解けの泥で荷車が動かなくなって、どちらの軍も、三日のあいだ一歩も進めなかったこと。四日目の朝、先に動いたのは、ごはんの荷が先に尽きた方だったこと。
「泥ってね、踏むと、ぐちゃって音がするでしょ。三日も続くと、みんな、その音が嫌いになるんだ。自分の足音なのにね」
一会の話は、妙に細かかった。
泥の匂い。夜明けの空の色。寒さで割れた唇に、塩を塗った兵がいたこと。まるで、その場に立って見てきたようだった。
ルーチェは、寝台の上で膝を抱えて、目を輝かせて聞いていた。マキナは、途中で一度、パラゴンの方を振り返って、それからまた一会を見た。
パラゴンは、戸口で腕を組んでいた。
戦の話を、そんなふうに語る人間を、パラゴンは何人も知っていた。企業連紛争を生き延びた、古い傭兵たち。彼らの話も、いつも、泥と匂いと、どうでもいいような細かいことばかりだった。
歴史好きの変わり者、にしては。
考えかけて、やめた。
話が終わると、ルーチェは、ほう、と息をついた。
「一会さんは、物知りね」
「歴史、好きなんだ!」
ルーチェは、しばらく一会の顔を見ていた。それから、首をかしげた。
「一会さんは、どうしてお茶を?」
一会は、すぐには答えなかった。
かまどの火が、ぱちりと鳴った。
「それまではね、ずっと熱かったんだ」
いつもの声だった。いつもの、ゆるい声のままだった。
「熱くて、苦くて。……ひとつのことだけ、ずっと信じてた」
一会は、毛布の端を指でいじりながら、火を見ていた。
「それがある日、急に、分からなくなっちゃった。信じてたものが、何だったのか。……そしたら、何にも楽しくなくなって」
かまどの火が、また小さく鳴った。
「そのとき、誰かが、ぬるいお茶を一杯くれたんだ」
「熱くも、苦くもなくて。……それが、すごくおいしかった」
それきり、一会は黙った。
誰が、とは言わなかった。何があって、とも言わなかった。
ルーチェも、聞かなかった。
代わりに、にっこりと笑った。
「じゃあ、明日も淹れてね」
一会が、顔を上げた。
碧い瞳が、少しのあいだ、ルーチェを見ていた。
「……うん」
小さな声だった。
それから、毛布にくるまったまま、少しだけ身を乗り出した。
「母上は? 母上の話も聞きたい」
「わたし? わたしは、ずっとここにいるから、お話なんてないわよ」
「ここにいて、何してるの」
ルーチェは、少し考えてから、窓の方を見た。
「明日のことを考えてるの。明日は、マキナちゃんがどんなパンを買ってくるかな、とか。お兄ちゃんは何時に帰ってくるかな、とか。……熱が下がったら、窓を開けて、路地の猫を呼んでみようかな、とか」
一会は、黙って聞いていた。
ルーチェの話は、どれも小さかった。明日の、その先の、そのまた明日の、小さなことばかりだった。
一会は、それを一つずつ、大事そうにうなずきながら聞いていた。
「……一会さん。どうして、わたしのこと、母上って呼ぶの?」
一会は、首をかしげた。自分でも、考えたことがなかったような顔だった。
「うーん。……母上はね、明日の話をしてくれるから」
ルーチェは、きょとんとした。それから、ふわりと笑った。
一会は、かまどの火と、寝台のルーチェと、その足元で膝を抱えているマキナと、戸口のパラゴンを、順番に見た。
「……この家、ぬるいね」
「褒めてるの?」
「すごく」
一会は、毛布を肩まで引き上げて、満足そうに目を細めた。
パラゴンは、何も言わなかった。
マキナが、ルーチェの寝台の足元で、小さくあくびをした。
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6
寝る前に、パラゴンは窓の戸締まりを確かめた。
路地は、暗かった。
長屋の角の、大家の家の前に、小さな灯りが一つ揺れていた。
大家の爺さんが、戸口の縁台に座っていた。ついこの前、猫に踏み割られた屋根の瓦を、パラゴンに直させた爺さんだ。「向きが逆だ」と、梯子の下からさんざんどやされた。
爺さんは、ぼりぼりと額の生え際を掻いていた。
「おう、傭兵。まだ起きてたか」
「爺さんこそ」
「なんだか、目が冴えちまってな」
爺さんは、からからと笑った。
「いや、冴えてるってのとも違うな。……なんだか、楽でな。腰の痛えのが、今日はさっぱりだ」
ゆっくりと、まばたきをした。
一回の、まばたきが長かった。
パラゴンは、窓枠に手をかけたまま、動けなかった。
爺さんの足元の石畳の継ぎ目に、白っぽい小さな傘が、一つ、顔を出していた。
(第4話 了)