銀と琥珀   作:らむさいだー

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第5話 治したければ

 

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1

朝、路地が騒がしかった。

 

戸を開けると、大家の家の前に人だかりができていた。

 

大家の爺さんが、縁台に座っていた。ゆうべと同じ場所で、ゆうべと同じように、穏やかな顔をしていた。

 

生え際から、白い糸が垂れていた。

 

「なんだ、みんなして。わたしたちが――」

 

爺さんは、言いかけて口をつぐんだ。首をかしげる。

 

「……俺が、何かしたか」

 

誰も、答えなかった。

 

人だかりの端で、悪ガキ三人組が固まっていた。いつもなら真っ先に騒ぎ出す三人が、今朝は黙っていた。

 

真ん中の一人が、自分の指先をじっと見ていた。

 

爪の際から、細い白い糸が一本、のぞいていた。

 

人だかりの中から、近所の婆さんが覗き込んだ。

 

「あらまあ。疳の虫が出たんだねえ」

 

婆さんは、ころころと笑った。夜泣きやかんしゃくの強い子の指先から、白い糸のような虫が出てくる。虫封じのおまじないをすると、そうなるのだと、下町の年寄りはよく言う。

 

何人かが、つられて笑いかけた。

 

それから、誰かが、縁台の爺さんの方を見た。

 

爺さんの生え際から垂れている、同じ白い糸を。

 

笑い声は、すぐに消えた。

 

「……アルマゲストさん」

 

残りの二人が、パラゴンを見上げた。泣き出しそうな顔だった。

 

「これ、抜いたら、治る?」

 

パラゴンは、答えられなかった。

 

―――

 

家に戻ると、一会が窓を閉めていた。

 

一枚ずつ、隙間に布を詰めていく。戸口にも、濡らした手拭いを垂らした。

 

「僕、今日はここにいるね」

 

一会は、振り返らずに言った。

 

「母上のそば。窓も戸も、僕が見てる。……何も入れない」

 

いつもの声より、少しだけ静かだった。

 

寝台の上で、ルーチェが、心配そうにパラゴンを見ていた。

 

「行ってらっしゃい。……気をつけてね」

 

パラゴンは、うなずいた。マキナが、その袖をつかんでいた。

 

 

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2

HUB第三支部は、人でいっぱいだった。

 

掲示板の前に、傭兵たちが群がっていた。その真ん中に、真新しい紙が一枚、張り出されていた。

 

――キノコによる病について。管理塔第七階層・生体整合性・技術統括局〈VITA〉より。

――発症した者は、生きている間は、治らない。

――薬は効かない。抜いても、切っても、また生える。

 

紙の前で、誰も口をきかなかった。

 

みんな、知っていた。

 

この世界では、死んだ者は戻ってくる。数週間ののちに、本来の、きれいな体で。循環の機構は、ケガも病気も治さない。けれど、死ねば、体ごと元に戻す。

 

だから、答えは、一つしかなかった。

 

「……治したけりゃ、一回、死ぬしかねえってことか」

 

誰かが、ぽつりと言った。

 

支部の中が、しんとした。

 

「死ねば治る、ってのは、そりゃあ分かるけどよ……」

「数週間だぞ。その間、仕事も家族も――」

「子どもにも、言うのかよ。一回死ねって」

 

声が、あちこちで上がって、すぐにしぼんだ。

 

カウンターの向こうで、ミレイが、依頼書の束を抱えていた。

 

「セイフガードとCMAから、合同の依頼です。下町の、避難の誘導」

 

ミレイの声は、いつもより硬かった。

 

「北の高台の倉庫街まで、住民を逃がします。途中で、南へ歩く人たちとすれ違うことになります。……感染の危険があります」

 

誰も、すぐには手を挙げなかった。

 

カウンターの端の、いつもの席で、椅子が鳴った。

 

「殿は、俺がやる」

 

ガルドだった。

 

赤ら顔を、手のひらでごしごしとこすって、立ち上がる。両足で。

 

「逃げる側の道を読むのは、殿の仕事だ。……それに、こちとら、やっと脚が治ったとこでな。走りたくて、うずうずしてんだ」

「ガルドさん」

「嬢ちゃん、そんな顔すんな。書類、回してくれ」

 

ガルドは、依頼書に豪快な字で名前を書きなぐった。それから、パラゴンを振り返った。

 

「来るんだろ、傭兵」

 

パラゴンは、ペンを取った。

 

 

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3

下町の路地は、白かった。

 

石畳にも、壁にも、軒先にも、キノコが生えていた。その白い路地を、人が歩いていた。

 

まっすぐに、南へ。

 

穏やかな顔で。まばたきを、ゆっくりとしながら。

 

その流れに逆らって、パラゴンたちは、北へ人を逃がした。

 

戸を叩いて回る。まだ糸の出ていない者を、路地から連れ出す。荷物は持たせない。口を布で覆わせる。泣いている子どもを抱え上げる。

 

「こっちだ! 角を曲がれ! まっすぐの道は使うな!」

 

ガルドの声が、路地に響いた。

 

殿のガルドは、列の一番後ろを歩きながら、ひっきりなしに振り返っていた。南へ歩く感染者の列の、切れ目を読む。角を曲がる順番を決める。まっすぐにしか歩けない相手とぶつからない道を、一本ずつ選んでいく。

 

「次の角、右。その次は左だ。……おい、そこの婆さん、荷物はいい、置いてけ!」

 

マキナは、子どもの手を引いていた。

 

感染者の列のすぐ横を、平気な顔で歩いていく。すれ違いざまに、白い糸を垂らした男が咳き込んで、粉が舞った。マキナの髪にも、服にも、何もつかなかった。

 

手を引かれている子どもが、不思議そうにマキナを見上げた。

 

「おねえちゃん、こわくないの?」

「こわい。……でも、へいき」

 

マキナは、子どもの手を、少しだけ強く握った。

 

路地の先で、列が詰まった。

 

感染者の群れが、横道から溢れ出していた。十人、二十人。まっすぐに、こちらの道を横切ろうとしている。避難の列と、ちょうどぶつかる。

 

「くそ、止まれ! 下がれ!」

 

ガルドが、長銃を横にして、列の前に立ちはだかった。撃てない。相手は、ついこの前まで同じ下町で暮らしていた人たちだった。

 

そのとき、路地の反対側から、間の抜けた声がした。

 

「あ。いっぱい、いる」

 

寝間着のような衣の男が、ぺたぺたと歩いてきた。寝癖のついた頭を、ぽりぽりと掻いている。

 

コテンだった。

 

「コテン、お前、なんでここに」

「噴水のとこにね、眠い人がいっぱい来てたんだけど。眠いのに、眠くない感じの人たち。変だなって思って、ついてきた」

 

コテンは、感染者の群れを見て、眉を下げた。

 

「……みんな、歩くの、疲れてるね」

 

それから、大きく口を開けた。

 

ふわあああ、と。

 

長い、長い、あくびだった。

 

感染者たちの足が、止まった。

 

一人、また一人と、その場にすとんと座り込んでいく。まっすぐ南へ向かっていた体から、力が抜けていく。石畳の上で、壁にもたれて、みんな、目を閉じた。

 

路地が、静かになった。

 

「……今のうちだ。行け、行け!」

 

ガルドの声で、避難の列が動き出した。

 

コテンは、座り込んだ人たちの間にしゃがんで、一人ずつ、顔を覗き込んでいた。

 

「ちょっとだけ、休んでね」

 

神と人間が、同じ路地で、同じ人たちを守っていた。誰も、それを口にはしなかった。

 

 

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4

下町の北の外れの、封鎖線の前は、人の波だった。

 

逃げてきた住民たちが、縄の前で押し合っていた。泣き声と怒鳴り声が混じっていた。家族の名前を呼ぶ声。うちの子がまだ中に。通してくれ。通すな、うつる。

 

縄が、きしんだ。

 

セイフガードの若い隊員たちが、押し返されていた。

 

「下がって! 下がってください!」

 

誰も、聞いていなかった。

 

そのとき、人の波の前に、大きな背中が一つ立った。

 

朝霧だった。

 

「――聞け!」

 

大声だった。路地の端から端まで、びりびりと響いた。

 

人の波が、一瞬、止まった。

 

「押すな。押したら、倒れた奴が踏まれる。踏まれた奴は、今日は戻ってこれねえぞ」

 

朝霧は、縄の前に立ったまま、一人ずつ、顔を見ていった。

 

「中に家族が残ってる奴は、名前を言え。俺の部下が探しに行く。糸の出てる奴は、責めねえ。倉庫で寝てもらう。糸の出てねえ奴は、この先の高台だ。――順番に通す。全員、通す」

 

言い終わると、朝霧は、縄の結び目に手をかけた。

 

「一人ずつだ。いいな」

 

誰も、押さなくなった。

 

一人ずつ、縄をくぐっていく。朝霧が、その一人ひとりの肩を、軽く叩いていた。

 

マキナに手を引かれていた子どもが、朝霧を見上げて、小さな声で言った。

 

「朝霧さんがいれば、大丈夫だよね」

 

隣にいた母親が、うなずいた。その隣の老人も。

 

縄をくぐった人たちが、振り返って、朝霧の方を見た。まるで、そこに灯りがあるかのように。

 

朝霧は、それに気づかなかった。次の一人の肩を、叩いていた。

 

 

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5

避難の列が最後の角を曲がろうとしたときだった。

 

路地の脇に、男が一人、座り込んでいた。

 

顔じゅうから、白い糸が垂れていた。口の端からも、鼻の下からも。糸の先に、小さな傘がいくつも開いていた。

 

男が、咳き込んだ。

 

白い粉が、ぶわっと噴き出した。

 

その先に、列からはぐれた小さな女の子が立っていた。

 

ガルドが、動いた。

 

大きな体が、女の子の前に覆いかぶさった。粉が、ガルドの背中に、頭に、赤ら顔に、降りかかった。

 

「……っ、げほっ」

 

ガルドは、女の子を抱えたまま、路地を転がり出た。女の子を、パラゴンに押しつける。

 

「連れてけ。……布、しっかり当てさせろ」

 

ガルドは、自分の顔を袖で拭った。白い粉が、袖に残っていた。

 

ガルドは、それをしばらく見ていた。

 

それから、笑った。

 

「まあ、殿ってのは、こういう役だわな」

 

―――

 

次の日の夕方、ガルドの指が、曲がらなくなった。

 

HUBの裏の、運河沿いの石段だった。ガルドは、そこに腰を下ろしていた。避難は、ひとまず終わっていた。

 

生え際から、白い糸が垂れていた。

 

右の膝が、妙な角度で固まっていた。立ち上がろうとすると、体が、勝手に南の方へ傾いた。

 

「……こりゃ、あと一晩ってとこだな」

 

ガルドは、自分の膝を叩いた。治ったばかりの、右の膝だった。

 

「傭兵。あの張り紙、覚えてるか」

「……ああ」

「そのうち、俺も咳き込むようになる。粉を散らして、今度は、俺がうつす方になる」

 

ガルドは、運河の水面を見ていた。

 

「散らす前に、止まっとくわ」

 

パラゴンは、何も言えなかった。

 

言うべきことが、何も見つからなかった。

 

ガルドは、懐から紐で縛った包みを取り出した。運河沿いの倉庫街で夜警をしている爺さん、トビアスからの茶葉だった。

 

「これ、預かっといてくれ。戻ったら、飲む」

「……分かった」

「嬢ちゃんには、あとで言っといてくれ。書類は、戻ってから書くってな」

 

ガルドは、立てかけてあった長銃を、固まりかけた指で引き寄せた。

 

「……杖代は出ねえけどな」

 

いつもの声だった。

 

「向こう向いてろ、傭兵」

 

パラゴンは、運河の方を向いた。

 

夕日が、水面に揺れていた。

 

少しして、一発の銃声が、運河の上を渡っていった。

 

パラゴンは、振り返らなかった。

 

しばらくのあいだ、振り返れなかった。

 

 

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6

その夜、家に帰ると、一会が茶を淹れていた。

 

何も聞かなかった。ぬるい茶を一杯、パラゴンの前に置いただけだった。

 

ルーチェも、何も聞かなかった。マキナが、パラゴンの隣に黙って座って、その袖を握っていた。

 

茶は、ぬるかった。

 

パラゴンは、それを最後まで飲んだ。

 

―――

 

夜更けに、マキナが窓辺で声を上げた。

 

「……パラゴン。ひかってる」

 

窓の外を見た。

 

遠くの、区画の壁の向こうが、ぼんやりと光っていた。

 

一つではなかった。

 

第十二区画の方角にも。第四工業区画の方角にも。ポラリスのあちこちの区画の壁の向こうで、同じ淡い光が、いっせいに灯っていた。

 

神紋の光だった。

 

区画の神々の額の神紋が、一つ残らず光っていた。まるで、誰かの呼びかけに応えるように。

 

光は、しばらく夜空を照らして、それから、いっせいに消えた。

 

―――

 

翌朝、管理塔の正面の壁に、墨で書かれた文字が残されていた。

 

――神々は、帰る。

 

文字の下に、印が一つ描かれていた。

 

円環だった。

 

ただ一か所だけ、切れていた。

 

同じ文字と同じ印は、区画の壁という壁にも描かれていた。第十二区画の検問ゲートの、すぐ横の壁にも。

 

誰が描いたのか、見た者はいなかった。

 

(第5話 了)

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