________________________________________
1
朝、路地が騒がしかった。
戸を開けると、大家の家の前に人だかりができていた。
大家の爺さんが、縁台に座っていた。ゆうべと同じ場所で、ゆうべと同じように、穏やかな顔をしていた。
生え際から、白い糸が垂れていた。
「なんだ、みんなして。わたしたちが――」
爺さんは、言いかけて口をつぐんだ。首をかしげる。
「……俺が、何かしたか」
誰も、答えなかった。
人だかりの端で、悪ガキ三人組が固まっていた。いつもなら真っ先に騒ぎ出す三人が、今朝は黙っていた。
真ん中の一人が、自分の指先をじっと見ていた。
爪の際から、細い白い糸が一本、のぞいていた。
人だかりの中から、近所の婆さんが覗き込んだ。
「あらまあ。疳の虫が出たんだねえ」
婆さんは、ころころと笑った。夜泣きやかんしゃくの強い子の指先から、白い糸のような虫が出てくる。虫封じのおまじないをすると、そうなるのだと、下町の年寄りはよく言う。
何人かが、つられて笑いかけた。
それから、誰かが、縁台の爺さんの方を見た。
爺さんの生え際から垂れている、同じ白い糸を。
笑い声は、すぐに消えた。
「……アルマゲストさん」
残りの二人が、パラゴンを見上げた。泣き出しそうな顔だった。
「これ、抜いたら、治る?」
パラゴンは、答えられなかった。
―――
家に戻ると、一会が窓を閉めていた。
一枚ずつ、隙間に布を詰めていく。戸口にも、濡らした手拭いを垂らした。
「僕、今日はここにいるね」
一会は、振り返らずに言った。
「母上のそば。窓も戸も、僕が見てる。……何も入れない」
いつもの声より、少しだけ静かだった。
寝台の上で、ルーチェが、心配そうにパラゴンを見ていた。
「行ってらっしゃい。……気をつけてね」
パラゴンは、うなずいた。マキナが、その袖をつかんでいた。
________________________________________
2
HUB第三支部は、人でいっぱいだった。
掲示板の前に、傭兵たちが群がっていた。その真ん中に、真新しい紙が一枚、張り出されていた。
――キノコによる病について。管理塔第七階層・生体整合性・技術統括局〈VITA〉より。
――発症した者は、生きている間は、治らない。
――薬は効かない。抜いても、切っても、また生える。
紙の前で、誰も口をきかなかった。
みんな、知っていた。
この世界では、死んだ者は戻ってくる。数週間ののちに、本来の、きれいな体で。循環の機構は、ケガも病気も治さない。けれど、死ねば、体ごと元に戻す。
だから、答えは、一つしかなかった。
「……治したけりゃ、一回、死ぬしかねえってことか」
誰かが、ぽつりと言った。
支部の中が、しんとした。
「死ねば治る、ってのは、そりゃあ分かるけどよ……」
「数週間だぞ。その間、仕事も家族も――」
「子どもにも、言うのかよ。一回死ねって」
声が、あちこちで上がって、すぐにしぼんだ。
カウンターの向こうで、ミレイが、依頼書の束を抱えていた。
「セイフガードとCMAから、合同の依頼です。下町の、避難の誘導」
ミレイの声は、いつもより硬かった。
「北の高台の倉庫街まで、住民を逃がします。途中で、南へ歩く人たちとすれ違うことになります。……感染の危険があります」
誰も、すぐには手を挙げなかった。
カウンターの端の、いつもの席で、椅子が鳴った。
「殿は、俺がやる」
ガルドだった。
赤ら顔を、手のひらでごしごしとこすって、立ち上がる。両足で。
「逃げる側の道を読むのは、殿の仕事だ。……それに、こちとら、やっと脚が治ったとこでな。走りたくて、うずうずしてんだ」
「ガルドさん」
「嬢ちゃん、そんな顔すんな。書類、回してくれ」
ガルドは、依頼書に豪快な字で名前を書きなぐった。それから、パラゴンを振り返った。
「来るんだろ、傭兵」
パラゴンは、ペンを取った。
________________________________________
3
下町の路地は、白かった。
石畳にも、壁にも、軒先にも、キノコが生えていた。その白い路地を、人が歩いていた。
まっすぐに、南へ。
穏やかな顔で。まばたきを、ゆっくりとしながら。
その流れに逆らって、パラゴンたちは、北へ人を逃がした。
戸を叩いて回る。まだ糸の出ていない者を、路地から連れ出す。荷物は持たせない。口を布で覆わせる。泣いている子どもを抱え上げる。
「こっちだ! 角を曲がれ! まっすぐの道は使うな!」
ガルドの声が、路地に響いた。
殿のガルドは、列の一番後ろを歩きながら、ひっきりなしに振り返っていた。南へ歩く感染者の列の、切れ目を読む。角を曲がる順番を決める。まっすぐにしか歩けない相手とぶつからない道を、一本ずつ選んでいく。
「次の角、右。その次は左だ。……おい、そこの婆さん、荷物はいい、置いてけ!」
マキナは、子どもの手を引いていた。
感染者の列のすぐ横を、平気な顔で歩いていく。すれ違いざまに、白い糸を垂らした男が咳き込んで、粉が舞った。マキナの髪にも、服にも、何もつかなかった。
手を引かれている子どもが、不思議そうにマキナを見上げた。
「おねえちゃん、こわくないの?」
「こわい。……でも、へいき」
マキナは、子どもの手を、少しだけ強く握った。
路地の先で、列が詰まった。
感染者の群れが、横道から溢れ出していた。十人、二十人。まっすぐに、こちらの道を横切ろうとしている。避難の列と、ちょうどぶつかる。
「くそ、止まれ! 下がれ!」
ガルドが、長銃を横にして、列の前に立ちはだかった。撃てない。相手は、ついこの前まで同じ下町で暮らしていた人たちだった。
そのとき、路地の反対側から、間の抜けた声がした。
「あ。いっぱい、いる」
寝間着のような衣の男が、ぺたぺたと歩いてきた。寝癖のついた頭を、ぽりぽりと掻いている。
コテンだった。
「コテン、お前、なんでここに」
「噴水のとこにね、眠い人がいっぱい来てたんだけど。眠いのに、眠くない感じの人たち。変だなって思って、ついてきた」
コテンは、感染者の群れを見て、眉を下げた。
「……みんな、歩くの、疲れてるね」
それから、大きく口を開けた。
ふわあああ、と。
長い、長い、あくびだった。
感染者たちの足が、止まった。
一人、また一人と、その場にすとんと座り込んでいく。まっすぐ南へ向かっていた体から、力が抜けていく。石畳の上で、壁にもたれて、みんな、目を閉じた。
路地が、静かになった。
「……今のうちだ。行け、行け!」
ガルドの声で、避難の列が動き出した。
コテンは、座り込んだ人たちの間にしゃがんで、一人ずつ、顔を覗き込んでいた。
「ちょっとだけ、休んでね」
神と人間が、同じ路地で、同じ人たちを守っていた。誰も、それを口にはしなかった。
________________________________________
4
下町の北の外れの、封鎖線の前は、人の波だった。
逃げてきた住民たちが、縄の前で押し合っていた。泣き声と怒鳴り声が混じっていた。家族の名前を呼ぶ声。うちの子がまだ中に。通してくれ。通すな、うつる。
縄が、きしんだ。
セイフガードの若い隊員たちが、押し返されていた。
「下がって! 下がってください!」
誰も、聞いていなかった。
そのとき、人の波の前に、大きな背中が一つ立った。
朝霧だった。
「――聞け!」
大声だった。路地の端から端まで、びりびりと響いた。
人の波が、一瞬、止まった。
「押すな。押したら、倒れた奴が踏まれる。踏まれた奴は、今日は戻ってこれねえぞ」
朝霧は、縄の前に立ったまま、一人ずつ、顔を見ていった。
「中に家族が残ってる奴は、名前を言え。俺の部下が探しに行く。糸の出てる奴は、責めねえ。倉庫で寝てもらう。糸の出てねえ奴は、この先の高台だ。――順番に通す。全員、通す」
言い終わると、朝霧は、縄の結び目に手をかけた。
「一人ずつだ。いいな」
誰も、押さなくなった。
一人ずつ、縄をくぐっていく。朝霧が、その一人ひとりの肩を、軽く叩いていた。
マキナに手を引かれていた子どもが、朝霧を見上げて、小さな声で言った。
「朝霧さんがいれば、大丈夫だよね」
隣にいた母親が、うなずいた。その隣の老人も。
縄をくぐった人たちが、振り返って、朝霧の方を見た。まるで、そこに灯りがあるかのように。
朝霧は、それに気づかなかった。次の一人の肩を、叩いていた。
________________________________________
5
避難の列が最後の角を曲がろうとしたときだった。
路地の脇に、男が一人、座り込んでいた。
顔じゅうから、白い糸が垂れていた。口の端からも、鼻の下からも。糸の先に、小さな傘がいくつも開いていた。
男が、咳き込んだ。
白い粉が、ぶわっと噴き出した。
その先に、列からはぐれた小さな女の子が立っていた。
ガルドが、動いた。
大きな体が、女の子の前に覆いかぶさった。粉が、ガルドの背中に、頭に、赤ら顔に、降りかかった。
「……っ、げほっ」
ガルドは、女の子を抱えたまま、路地を転がり出た。女の子を、パラゴンに押しつける。
「連れてけ。……布、しっかり当てさせろ」
ガルドは、自分の顔を袖で拭った。白い粉が、袖に残っていた。
ガルドは、それをしばらく見ていた。
それから、笑った。
「まあ、殿ってのは、こういう役だわな」
―――
次の日の夕方、ガルドの指が、曲がらなくなった。
HUBの裏の、運河沿いの石段だった。ガルドは、そこに腰を下ろしていた。避難は、ひとまず終わっていた。
生え際から、白い糸が垂れていた。
右の膝が、妙な角度で固まっていた。立ち上がろうとすると、体が、勝手に南の方へ傾いた。
「……こりゃ、あと一晩ってとこだな」
ガルドは、自分の膝を叩いた。治ったばかりの、右の膝だった。
「傭兵。あの張り紙、覚えてるか」
「……ああ」
「そのうち、俺も咳き込むようになる。粉を散らして、今度は、俺がうつす方になる」
ガルドは、運河の水面を見ていた。
「散らす前に、止まっとくわ」
パラゴンは、何も言えなかった。
言うべきことが、何も見つからなかった。
ガルドは、懐から紐で縛った包みを取り出した。運河沿いの倉庫街で夜警をしている爺さん、トビアスからの茶葉だった。
「これ、預かっといてくれ。戻ったら、飲む」
「……分かった」
「嬢ちゃんには、あとで言っといてくれ。書類は、戻ってから書くってな」
ガルドは、立てかけてあった長銃を、固まりかけた指で引き寄せた。
「……杖代は出ねえけどな」
いつもの声だった。
「向こう向いてろ、傭兵」
パラゴンは、運河の方を向いた。
夕日が、水面に揺れていた。
少しして、一発の銃声が、運河の上を渡っていった。
パラゴンは、振り返らなかった。
しばらくのあいだ、振り返れなかった。
________________________________________
6
その夜、家に帰ると、一会が茶を淹れていた。
何も聞かなかった。ぬるい茶を一杯、パラゴンの前に置いただけだった。
ルーチェも、何も聞かなかった。マキナが、パラゴンの隣に黙って座って、その袖を握っていた。
茶は、ぬるかった。
パラゴンは、それを最後まで飲んだ。
―――
夜更けに、マキナが窓辺で声を上げた。
「……パラゴン。ひかってる」
窓の外を見た。
遠くの、区画の壁の向こうが、ぼんやりと光っていた。
一つではなかった。
第十二区画の方角にも。第四工業区画の方角にも。ポラリスのあちこちの区画の壁の向こうで、同じ淡い光が、いっせいに灯っていた。
神紋の光だった。
区画の神々の額の神紋が、一つ残らず光っていた。まるで、誰かの呼びかけに応えるように。
光は、しばらく夜空を照らして、それから、いっせいに消えた。
―――
翌朝、管理塔の正面の壁に、墨で書かれた文字が残されていた。
――神々は、帰る。
文字の下に、印が一つ描かれていた。
円環だった。
ただ一か所だけ、切れていた。
同じ文字と同じ印は、区画の壁という壁にも描かれていた。第十二区画の検問ゲートの、すぐ横の壁にも。
誰が描いたのか、見た者はいなかった。
(第5話 了)