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1
街は、朝から一つの話で持ちきりだった。
――神々は、帰る。
管理塔の壁の墨の文字と、一か所だけ切れた円環。夜のうちに、区画の神紋がいっせいに光ったこと。噂は、一晩で街じゅうに広がっていた。
HUB第三支部も、その話ばかりだった。
「帰るって、どこへだよ」
「知るか。神の考えることなんざ」
「キノコも、神の仕業なんじゃねえのか」
「区画の連中が、示し合わせてやったってか」
カウンターの向こうで、ミレイが書類を揃えていた。
その目が、一度だけ、カウンターの端の席へ動いた。
いつもの丸椅子には、誰も座っていなかった。立てかけてあるはずの長銃もなかった。
ミレイは、何も言わずに、また書類に目を戻した。
パラゴンの懐には、紐で縛った茶葉の包みが一つ、入っていた。
「おい、聞いたか」
隣の卓で、傭兵の一人が声を落とした。
「管理塔が、ダエーワを出すらしいぞ」
卓の周りが、少しだけ静かになった。
ダエーワ。管理塔の第十三階層。番号で呼ばれる、ほんの一握りの者たち。名前は誰でも知っている。けれど、実際に見たことのある者は、ほとんどいなかった。
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2
昼過ぎ、長屋の路地の窓が、白く曇り始めた。
一枚、また一枚。
晴れた日だった。雨の気配もなかった。それなのに、路地に面した窓という窓が、内側から、じわりと白く曇っていった。
石畳の継ぎ目から、白い糸が起き上がった。
糸は、みるみる太くなった。束になって、壁を這い上がり、軒先を覆い、屋根の上で傘を開いた。路地が、白い森に呑まれていく。
パラゴンは、家の戸口で剣を抜いた。
路地の奥から、誰かが歩いてきた。
重ねた薄布の衣を、引きずって。紙を湿らせたような、灰白の肌。濡れたように重い髪。手には、節から小さな傘を生やした、皮を剥いだ木の杖。
南の通りの、あの空き家の階段を下りてきた誰か。
その周りを、人が歩いていた。
大家の爺さんがいた。ゆうべまで縁台で笑っていた爺さんが、生え際から白い糸を垂らして、ゆっくりと歩いていた。その後ろに、近所の女将たち。そして、悪ガキ三人組。
三人とも、指先から、首筋から、白い糸を垂らしていた。穏やかな顔で、まばたきを、ゆっくりとしていた。
「……っ」
パラゴンの喉が、詰まった。
杖の主が、立ち止まった。
「こんにちは。……ああ、よかった。いた」
その目が、パラゴンの後ろを見ていた。
戸口の陰から顔を出した、マキナを。
「材の違う方を、見に来ました」
パラゴンは、後ろ手に戸を押した。
「一会。ルーチェを頼む。――開けるな」
戸の向こうで、一瞬だけ、間があった。
「……うん」
静かな声だった。戸が、ぴたりと閉まった。
「マキナ、下がってろ」
パラゴンは、踏み込んだ。
剣を、横に払う。杖の主の前に垂れていた白い菌糸の幕が、切れて落ちた。
その向こうで、杖の主は、一歩も動いていなかった。
もう一度、踏み込む。今度は、杖を握る手を狙った。
刃が届く前に、足元の石畳から白い束が伸びて、剣に絡みついた。振りほどく。絡みつく。振りほどく。
杖の主は、パラゴンを見ていなかった。
一度も。
戦いに、ならなかった。
剣で払った菌糸は、切れた端からまた伸びた。呪符は使えなかった。風を起こせば、胞子が路地じゅうに舞う。その先には、家がある。戸の向こうに、ルーチェがいる。
足元の石畳から、白い糸の束が巻きついてきた。
振りほどく。また巻きつく。足首に、膝に。
パラゴンは、石畳に膝をついた。
杖の主は、パラゴンの横を、ゆっくりと通り過ぎていった。見向きもしなかった。
白い糸が、マキナの方へ伸びていった。
マキナの足元に。服の裾に。髪に。
糸は、マキナに触れた。
そして、そこで、止まった。
芽吹かなかった。傘も開かなかった。白い糸は、マキナの上で、行き場を失ったように、力なく垂れ下がった。
杖の主が、首をかしげた。
「……やっぱり、生えない」
一歩、近づく。
「わたしたちの、どれとも違う。人でもない。石でもない。……あなたは、何の材なんでしょう」
マキナは、答えなかった。
答えを、持っていなかった。
パラゴンは、足に巻きついた糸を剣で断ち切った。這うようにして、マキナの腕をつかむ。路地の脇の、古い井戸の陰へ転がり込んだ。
白い森の中で、杖の主が、ゆっくりとこちらを振り返った。
そのときだった。
「――あー。いたいた」
気の抜けた声が、路地の入り口から聞こえた。
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3
白い森の入り口に、男が一人、立っていた。
茶色い外套。長い、くすんだ灰銀の髪。半分だけ開いた目。少し疲れたような、ぼんやりした顔だった。
外套の下から、錆びた鎖が何本も垂れていた。鎖は、何かを幾重にも巻き込んで、男の体に括りつけていた。
パラゴンは、その顔を知っていた。
半年前、西都市。空を裂いて落ちた、一本の光の矢。それから、刀一振りで隣に並んだ男。
男は、キノコに覆われた路地を見回して、ぽりぽりと頭を掻いた。
「……キノコ、すご」
それから、杖の主の方を向いて、ぺこりと頭を下げた。
「ダエーワ十三番、朧です」
丁寧な声だった。
「えっと……ほだ木の神さん、で合ってます? 公務で来ました。杖、預からせてもらいます」
井戸の陰で、パラゴンは息を殺した。
……朧?
あのとき、あの男は、晴と名乗っていた。
杖の主――ほだ木の神は、十三番を、じっと見ていた。
初めて、笑っていなかった。
「……鎖の、十三番」
湿った声が、かすかに震えていた。
「アンチゴッド」
神々のあいだで、その名を知らない者はいなかった。区画の外へ出ようとする神々が、何よりも先に恐れる名だった。
十三番は、困ったように頭を掻いた。
「その呼び方、あんまり好きじゃないんだけどな」
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4
ほだ木の神が、杖を一度、石畳についた。
周りを歩いていた人たちが、動いた。
ゆっくりと、ほだ木の神の周りに集まってくる。大家の爺さん。女将たち。悪ガキ三人組。穏やかな顔のまま、ほだ木の神と十三番のあいだに、壁のように並んだ。
「……ああ、そういう」
十三番は、半眼のまま呟いた。
「分かってて、やってます?」
「ええ。あなたの鎖は、人には向かないと聞いています」
ほだ木の神の声は、低く、湿っていた。
「わたしたちは、人の中にいます。……だから、大丈夫」
人の壁が、十三番の方へ歩き出した。
まっすぐに。
十三番は、鎖に手をかけなかった。
一歩、前に出た。
先頭の爺さんが伸ばした腕を、半身でかわす。女将の肩の横を、すり抜ける。まっすぐにしか進めない人たちの、その間の、わずかな隙間を、十三番は散歩でもするように歩いていった。
誰にも、触れなかった。
誰も、傷つけなかった。
悪ガキの一人が、よろけた。まっすぐに歩こうとして、足がもつれて、前に倒れかかった。
十三番の手が、その襟首を、ひょいとつかんだ。
倒れないように。そっと、石畳の上に立たせ直す。
「……危ないよ」
それだけ言って、また歩き出した。
井戸の陰で、パラゴンは、それを見ていた。
あれだけの人の間を、一度も武器を抜かずに。一人も転ばせずに。
足音が、しなかった。
石畳の上を、あの男は、足音ひとつ立てずに歩いていた。
どこかで、同じ歩き方を見た気がした。
パラゴンは、閉ざした家の戸を、一度だけ振り返った。
人の壁を抜けた十三番が、ほだ木の神の前に立った。
そのとき、声がした。
十三番の声ではなかった。
外套の下の、錆びた鎖の奥から。抑揚のない、平坦な声が響いた。
『対象、神格を確認』
人の声に似ていた。けれど、人の声ではなかった。息継ぎも、感情も、なかった。
『神格レベル、判定――レベル1』
『第一拘束、解除』
鎖が一本、じゃらりと音を立てて、外套の下から滑り落ちた。
鎖が巻きついていた何かが、ほどけた。
十三番の手に、一振りの剣が握られていた。
長い剣だった。刃の長さは、拳を十個並べたほどもあった。古い、古い形の剣だった。
「十握剣」
十三番は、剣の名前を、独り言のように呟いた。
そして、振った。
人の壁の、頭の上を。
音がしなかった。
ほだ木の神と人々を繋いでいた白い糸の網が、一瞬で、断ち切られていた。
人の壁が、ばらばらに崩れた。糸の切れた人たちは、その場にすとんと座り込んで、ぼんやりと空を見上げた。
誰の体にも、傷ひとつなかった。
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5
ほだ木の神が、杖の傘を、指で一つ潰した。
甘い匂いが、路地に溢れた。
次の瞬間、地面が、持ち上がった。
石畳の下から、白いものが、せり上がってきた。一本や二本ではなかった。路地一本、いや、街区ひとつ分の地面の下に張り巡らされていた菌糸が、いっせいに起き上がっていた。
家々の屋根を越えて、傘が開いた。塔のような軸が、何本も何本も、空へ伸びた。
路地が、森になった。
白い、巨大な茸の森。傘の裏から、白い粉が雪のように降っていた。
「……わたしたちは、ずっと、ここにいた」
森の奥から、ほだ木の神の声が響いた。
「この石の下に。蓋をされた、床の下に。……ずっと、待っていた」
十三番は、森を見上げていた。
半眼のまま。
『神格レベル、再判定――レベル2』
平坦な声が、また響いた。
『第二拘束、解除』
二本目の鎖が、外套の下から滑り落ちた。
十三番は、十握剣を肩に担いだまま、森の中へ歩いていった。
降ってくる粉の中を、ゆっくりと。
「ほだ木の神ってね」
十三番が、話し始めた。
誰に向かって話しているのか、分からなかった。森に向かってか。ほだ木の神に向かってか。それとも、独り言か。
「昔、ひどい日照りの年があったんだって。どこかの、山の中の村で」
白い軸の間を縫って、十三番は歩いていく。
「雨が、三月降らなかった。村の人たちは、いろんな神に雨を頼んだ。ほだ木の神にも、頼んだ。……でも、ほだ木の神には、雨を降らせる力がなかったんだよね。朽ち木に菌を宿すだけの、ちっちゃい神だったから」
森の奥で、何かが、身じろぎした。
「それで、どうなったと思う?」
十三番は、立ち止まって、傘の一つを見上げた。
「菌が、ぜんぶ乾いちゃった。粉になって、風に飛ばされて。神さまも、一緒に、塵になって。……雨が来るまで、ずっと、眠ってたんだって」
「――やめて」
森の奥から、声がした。
初めて、湿っていない声だった。
「目が覚めたとき、村の誰も、その神さまのこと、覚えてなかったんだってさ」
十三番は、十握剣を、石畳に突き立てた。
空いた手を、ゆっくりと持ち上げる。
「ごめんね。……神話、好きなんだ」
外套の下の鎖の奥から、別の何かがほどけた。
十三番の掌の上で、空気が、渦を巻いた。
水の気配だった。
天の裂け目を塞ぎ、溢れた水を治めた、古い女神の力。その力が、十三番の掌の中で、静かに回り始めた。
街区じゅうの湿り気が、吸い上げられていった。
石畳の隙間の水が。壁に染みた水が。空気に溶けていた水が。茸の傘の、軸の、菌糸の、一本一本に含まれていた水が。
すべて、十三番の掌へ。
白い森が、色を失った。
傘がしおれ、軸がひび割れ、菌糸が粉になって崩れていった。家々の屋根の上で、塔のような茸が、音もなく折れて、倒れる前に、塵になった。
路地に座り込んでいた人たちの上にも、乾いた風が吹いた。けれど、誰も、傷ひとつ負わなかった。人の体の水には、少しも触れていなかった。
窓の曇りが、晴れていった。
一枚、また一枚。
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6
乾ききった路地の真ん中に、ほだ木の神が膝をついていた。
濡れたように重かった髪が、ぱさぱさに乾いて、肩に落ちていた。灰白の肌に、ひびが走っていた。
杖を、両手で握りしめていた。
節から生えていた小さな傘は、どれも、しおれていた。もう、呼吸していなかった。
十三番が、その前にしゃがみこんだ。
「杖、預かりますね」
十三番の外套の下から、錆びた鎖が一本、するすると伸びた。蛇のように、ほだ木の神の杖に巻きついていく。
ほだ木の神が、杖を引いた。
鎖は、ほどけなかった。
「……それは、わたしたちの」
「うん。知ってる」
十三番は、半眼のまま、ほだ木の神を見ていた。
鎖が、杖を巻き込んでいった。杖だけではなかった。杖の中に宿っていたもの。菌を宿し、朽ち木を床に還し、また傘を開かせる――その神の、神話そのものを。
ほだ木の神の体から、何かが抜けていった。
目に見えるものではなかった。けれど、パラゴンには分かった。さっきまでそこにいた神が、ずっと小さく、ずっと軽くなっていくのが。
鎖が、杖を完全に巻き込んで、十三番の外套の下へ戻っていった。
「すんません、仕事なんで」
十三番は、立ち上がった。
ほだ木の神は、空になった両手を見下ろしていた。
乾いた指先。乾いた髪。乾いた路地。湿り気の一滴も残っていない、白く乾いた石畳。
「……わたしたち」
掠れた声だった。
「乾いた、棚に」
誰に言ったのでもなかった。
あの日照りの年と、同じだった。
乾いて、塵になって、誰にも覚えられずに眠る。
ただ、今度は、雨が来ることはない。錆びた鎖の奥で、乾いたまま、棚に並べられた品のように、しまい込まれるだけだった。
十三番は、何も答えなかった。
―――
路地が、静かになった。
座り込んでいた人たちが、ぼんやりと顔を上げ始めていた。白い糸は、まだ垂れていた。枯れた森は消えても、人の体に宿った菌までは、消えていなかった。
井戸の陰で、パラゴンは、剣の柄を握りしめたまま、動けなかった。
隣で、マキナが、十三番の背中を見ていた。
十三番が、振り返った。
半分だけ開いた目が、ゆっくりと、路地を横切った。座り込んだ人たちの上を。乾いた石畳の上を。
そして、井戸の陰で、止まった。
「……で」
気の抜けた声だった。
「そこの、二人」
(第6話 了)