銀と琥珀   作:らむさいだー

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第6話 乾いた棚

 

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1

街は、朝から一つの話で持ちきりだった。

 

――神々は、帰る。

 

管理塔の壁の墨の文字と、一か所だけ切れた円環。夜のうちに、区画の神紋がいっせいに光ったこと。噂は、一晩で街じゅうに広がっていた。

 

HUB第三支部も、その話ばかりだった。

 

「帰るって、どこへだよ」

「知るか。神の考えることなんざ」

「キノコも、神の仕業なんじゃねえのか」

「区画の連中が、示し合わせてやったってか」

 

カウンターの向こうで、ミレイが書類を揃えていた。

 

その目が、一度だけ、カウンターの端の席へ動いた。

 

いつもの丸椅子には、誰も座っていなかった。立てかけてあるはずの長銃もなかった。

 

ミレイは、何も言わずに、また書類に目を戻した。

 

パラゴンの懐には、紐で縛った茶葉の包みが一つ、入っていた。

 

「おい、聞いたか」

 

隣の卓で、傭兵の一人が声を落とした。

 

「管理塔が、ダエーワを出すらしいぞ」

 

卓の周りが、少しだけ静かになった。

 

ダエーワ。管理塔の第十三階層。番号で呼ばれる、ほんの一握りの者たち。名前は誰でも知っている。けれど、実際に見たことのある者は、ほとんどいなかった。

 

 

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2

昼過ぎ、長屋の路地の窓が、白く曇り始めた。

 

一枚、また一枚。

 

晴れた日だった。雨の気配もなかった。それなのに、路地に面した窓という窓が、内側から、じわりと白く曇っていった。

 

石畳の継ぎ目から、白い糸が起き上がった。

 

糸は、みるみる太くなった。束になって、壁を這い上がり、軒先を覆い、屋根の上で傘を開いた。路地が、白い森に呑まれていく。

 

パラゴンは、家の戸口で剣を抜いた。

 

路地の奥から、誰かが歩いてきた。

 

重ねた薄布の衣を、引きずって。紙を湿らせたような、灰白の肌。濡れたように重い髪。手には、節から小さな傘を生やした、皮を剥いだ木の杖。

 

南の通りの、あの空き家の階段を下りてきた誰か。

 

その周りを、人が歩いていた。

 

大家の爺さんがいた。ゆうべまで縁台で笑っていた爺さんが、生え際から白い糸を垂らして、ゆっくりと歩いていた。その後ろに、近所の女将たち。そして、悪ガキ三人組。

 

三人とも、指先から、首筋から、白い糸を垂らしていた。穏やかな顔で、まばたきを、ゆっくりとしていた。

 

「……っ」

 

パラゴンの喉が、詰まった。

 

杖の主が、立ち止まった。

 

「こんにちは。……ああ、よかった。いた」

 

その目が、パラゴンの後ろを見ていた。

 

戸口の陰から顔を出した、マキナを。

 

「材の違う方を、見に来ました」

 

パラゴンは、後ろ手に戸を押した。

 

「一会。ルーチェを頼む。――開けるな」

 

戸の向こうで、一瞬だけ、間があった。

 

「……うん」

 

静かな声だった。戸が、ぴたりと閉まった。

 

「マキナ、下がってろ」

 

パラゴンは、踏み込んだ。

 

剣を、横に払う。杖の主の前に垂れていた白い菌糸の幕が、切れて落ちた。

 

その向こうで、杖の主は、一歩も動いていなかった。

 

もう一度、踏み込む。今度は、杖を握る手を狙った。

 

刃が届く前に、足元の石畳から白い束が伸びて、剣に絡みついた。振りほどく。絡みつく。振りほどく。

 

杖の主は、パラゴンを見ていなかった。

 

一度も。

 

戦いに、ならなかった。

 

剣で払った菌糸は、切れた端からまた伸びた。呪符は使えなかった。風を起こせば、胞子が路地じゅうに舞う。その先には、家がある。戸の向こうに、ルーチェがいる。

 

足元の石畳から、白い糸の束が巻きついてきた。

 

振りほどく。また巻きつく。足首に、膝に。

 

パラゴンは、石畳に膝をついた。

 

杖の主は、パラゴンの横を、ゆっくりと通り過ぎていった。見向きもしなかった。

 

白い糸が、マキナの方へ伸びていった。

 

マキナの足元に。服の裾に。髪に。

 

糸は、マキナに触れた。

 

そして、そこで、止まった。

 

芽吹かなかった。傘も開かなかった。白い糸は、マキナの上で、行き場を失ったように、力なく垂れ下がった。

 

杖の主が、首をかしげた。

 

「……やっぱり、生えない」

 

一歩、近づく。

 

「わたしたちの、どれとも違う。人でもない。石でもない。……あなたは、何の材なんでしょう」

 

マキナは、答えなかった。

 

答えを、持っていなかった。

 

パラゴンは、足に巻きついた糸を剣で断ち切った。這うようにして、マキナの腕をつかむ。路地の脇の、古い井戸の陰へ転がり込んだ。

 

白い森の中で、杖の主が、ゆっくりとこちらを振り返った。

 

そのときだった。

 

「――あー。いたいた」

 

気の抜けた声が、路地の入り口から聞こえた。

 

 

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3

白い森の入り口に、男が一人、立っていた。

 

茶色い外套。長い、くすんだ灰銀の髪。半分だけ開いた目。少し疲れたような、ぼんやりした顔だった。

 

外套の下から、錆びた鎖が何本も垂れていた。鎖は、何かを幾重にも巻き込んで、男の体に括りつけていた。

 

パラゴンは、その顔を知っていた。

 

半年前、西都市。空を裂いて落ちた、一本の光の矢。それから、刀一振りで隣に並んだ男。

 

男は、キノコに覆われた路地を見回して、ぽりぽりと頭を掻いた。

 

「……キノコ、すご」

 

それから、杖の主の方を向いて、ぺこりと頭を下げた。

 

「ダエーワ十三番、朧です」

 

丁寧な声だった。

 

「えっと……ほだ木の神さん、で合ってます? 公務で来ました。杖、預からせてもらいます」

 

井戸の陰で、パラゴンは息を殺した。

 

……朧?

 

あのとき、あの男は、晴と名乗っていた。

 

杖の主――ほだ木の神は、十三番を、じっと見ていた。

 

初めて、笑っていなかった。

 

「……鎖の、十三番」

 

湿った声が、かすかに震えていた。

 

「アンチゴッド」

 

神々のあいだで、その名を知らない者はいなかった。区画の外へ出ようとする神々が、何よりも先に恐れる名だった。

 

十三番は、困ったように頭を掻いた。

 

「その呼び方、あんまり好きじゃないんだけどな」

 

 

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4

ほだ木の神が、杖を一度、石畳についた。

 

周りを歩いていた人たちが、動いた。

 

ゆっくりと、ほだ木の神の周りに集まってくる。大家の爺さん。女将たち。悪ガキ三人組。穏やかな顔のまま、ほだ木の神と十三番のあいだに、壁のように並んだ。

 

「……ああ、そういう」

 

十三番は、半眼のまま呟いた。

 

「分かってて、やってます?」

「ええ。あなたの鎖は、人には向かないと聞いています」

 

ほだ木の神の声は、低く、湿っていた。

 

「わたしたちは、人の中にいます。……だから、大丈夫」

 

人の壁が、十三番の方へ歩き出した。

 

まっすぐに。

 

十三番は、鎖に手をかけなかった。

 

一歩、前に出た。

 

先頭の爺さんが伸ばした腕を、半身でかわす。女将の肩の横を、すり抜ける。まっすぐにしか進めない人たちの、その間の、わずかな隙間を、十三番は散歩でもするように歩いていった。

 

誰にも、触れなかった。

 

誰も、傷つけなかった。

 

悪ガキの一人が、よろけた。まっすぐに歩こうとして、足がもつれて、前に倒れかかった。

 

十三番の手が、その襟首を、ひょいとつかんだ。

 

倒れないように。そっと、石畳の上に立たせ直す。

 

「……危ないよ」

 

それだけ言って、また歩き出した。

 

井戸の陰で、パラゴンは、それを見ていた。

 

あれだけの人の間を、一度も武器を抜かずに。一人も転ばせずに。

 

足音が、しなかった。

 

石畳の上を、あの男は、足音ひとつ立てずに歩いていた。

 

どこかで、同じ歩き方を見た気がした。

 

パラゴンは、閉ざした家の戸を、一度だけ振り返った。

 

人の壁を抜けた十三番が、ほだ木の神の前に立った。

 

そのとき、声がした。

 

十三番の声ではなかった。

 

外套の下の、錆びた鎖の奥から。抑揚のない、平坦な声が響いた。

 

『対象、神格を確認』

 

人の声に似ていた。けれど、人の声ではなかった。息継ぎも、感情も、なかった。

 

『神格レベル、判定――レベル1』

 

『第一拘束、解除』

 

鎖が一本、じゃらりと音を立てて、外套の下から滑り落ちた。

 

鎖が巻きついていた何かが、ほどけた。

 

十三番の手に、一振りの剣が握られていた。

 

長い剣だった。刃の長さは、拳を十個並べたほどもあった。古い、古い形の剣だった。

 

「十握剣」

 

十三番は、剣の名前を、独り言のように呟いた。

 

そして、振った。

 

人の壁の、頭の上を。

 

音がしなかった。

 

ほだ木の神と人々を繋いでいた白い糸の網が、一瞬で、断ち切られていた。

 

人の壁が、ばらばらに崩れた。糸の切れた人たちは、その場にすとんと座り込んで、ぼんやりと空を見上げた。

 

誰の体にも、傷ひとつなかった。

 

 

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5

ほだ木の神が、杖の傘を、指で一つ潰した。

 

甘い匂いが、路地に溢れた。

 

次の瞬間、地面が、持ち上がった。

 

石畳の下から、白いものが、せり上がってきた。一本や二本ではなかった。路地一本、いや、街区ひとつ分の地面の下に張り巡らされていた菌糸が、いっせいに起き上がっていた。

 

家々の屋根を越えて、傘が開いた。塔のような軸が、何本も何本も、空へ伸びた。

 

路地が、森になった。

 

白い、巨大な茸の森。傘の裏から、白い粉が雪のように降っていた。

 

「……わたしたちは、ずっと、ここにいた」

 

森の奥から、ほだ木の神の声が響いた。

 

「この石の下に。蓋をされた、床の下に。……ずっと、待っていた」

 

十三番は、森を見上げていた。

 

半眼のまま。

 

『神格レベル、再判定――レベル2』

 

平坦な声が、また響いた。

 

『第二拘束、解除』

 

二本目の鎖が、外套の下から滑り落ちた。

 

十三番は、十握剣を肩に担いだまま、森の中へ歩いていった。

 

降ってくる粉の中を、ゆっくりと。

 

「ほだ木の神ってね」

 

十三番が、話し始めた。

 

誰に向かって話しているのか、分からなかった。森に向かってか。ほだ木の神に向かってか。それとも、独り言か。

 

「昔、ひどい日照りの年があったんだって。どこかの、山の中の村で」

 

白い軸の間を縫って、十三番は歩いていく。

 

「雨が、三月降らなかった。村の人たちは、いろんな神に雨を頼んだ。ほだ木の神にも、頼んだ。……でも、ほだ木の神には、雨を降らせる力がなかったんだよね。朽ち木に菌を宿すだけの、ちっちゃい神だったから」

 

森の奥で、何かが、身じろぎした。

 

「それで、どうなったと思う?」

 

十三番は、立ち止まって、傘の一つを見上げた。

 

「菌が、ぜんぶ乾いちゃった。粉になって、風に飛ばされて。神さまも、一緒に、塵になって。……雨が来るまで、ずっと、眠ってたんだって」

 

「――やめて」

 

森の奥から、声がした。

 

初めて、湿っていない声だった。

 

「目が覚めたとき、村の誰も、その神さまのこと、覚えてなかったんだってさ」

 

十三番は、十握剣を、石畳に突き立てた。

 

空いた手を、ゆっくりと持ち上げる。

 

「ごめんね。……神話、好きなんだ」

 

外套の下の鎖の奥から、別の何かがほどけた。

 

十三番の掌の上で、空気が、渦を巻いた。

 

水の気配だった。

 

天の裂け目を塞ぎ、溢れた水を治めた、古い女神の力。その力が、十三番の掌の中で、静かに回り始めた。

 

街区じゅうの湿り気が、吸い上げられていった。

 

石畳の隙間の水が。壁に染みた水が。空気に溶けていた水が。茸の傘の、軸の、菌糸の、一本一本に含まれていた水が。

 

すべて、十三番の掌へ。

 

白い森が、色を失った。

 

傘がしおれ、軸がひび割れ、菌糸が粉になって崩れていった。家々の屋根の上で、塔のような茸が、音もなく折れて、倒れる前に、塵になった。

 

路地に座り込んでいた人たちの上にも、乾いた風が吹いた。けれど、誰も、傷ひとつ負わなかった。人の体の水には、少しも触れていなかった。

 

窓の曇りが、晴れていった。

 

一枚、また一枚。

 

 

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6

乾ききった路地の真ん中に、ほだ木の神が膝をついていた。

 

濡れたように重かった髪が、ぱさぱさに乾いて、肩に落ちていた。灰白の肌に、ひびが走っていた。

 

杖を、両手で握りしめていた。

 

節から生えていた小さな傘は、どれも、しおれていた。もう、呼吸していなかった。

 

十三番が、その前にしゃがみこんだ。

 

「杖、預かりますね」

 

十三番の外套の下から、錆びた鎖が一本、するすると伸びた。蛇のように、ほだ木の神の杖に巻きついていく。

 

ほだ木の神が、杖を引いた。

 

鎖は、ほどけなかった。

 

「……それは、わたしたちの」

 

「うん。知ってる」

 

十三番は、半眼のまま、ほだ木の神を見ていた。

 

鎖が、杖を巻き込んでいった。杖だけではなかった。杖の中に宿っていたもの。菌を宿し、朽ち木を床に還し、また傘を開かせる――その神の、神話そのものを。

 

ほだ木の神の体から、何かが抜けていった。

 

目に見えるものではなかった。けれど、パラゴンには分かった。さっきまでそこにいた神が、ずっと小さく、ずっと軽くなっていくのが。

 

鎖が、杖を完全に巻き込んで、十三番の外套の下へ戻っていった。

 

「すんません、仕事なんで」

 

十三番は、立ち上がった。

 

ほだ木の神は、空になった両手を見下ろしていた。

 

乾いた指先。乾いた髪。乾いた路地。湿り気の一滴も残っていない、白く乾いた石畳。

 

「……わたしたち」

 

掠れた声だった。

 

「乾いた、棚に」

 

誰に言ったのでもなかった。

 

あの日照りの年と、同じだった。

 

乾いて、塵になって、誰にも覚えられずに眠る。

 

ただ、今度は、雨が来ることはない。錆びた鎖の奥で、乾いたまま、棚に並べられた品のように、しまい込まれるだけだった。

 

十三番は、何も答えなかった。

 

―――

 

路地が、静かになった。

 

座り込んでいた人たちが、ぼんやりと顔を上げ始めていた。白い糸は、まだ垂れていた。枯れた森は消えても、人の体に宿った菌までは、消えていなかった。

 

井戸の陰で、パラゴンは、剣の柄を握りしめたまま、動けなかった。

 

隣で、マキナが、十三番の背中を見ていた。

 

十三番が、振り返った。

 

半分だけ開いた目が、ゆっくりと、路地を横切った。座り込んだ人たちの上を。乾いた石畳の上を。

 

そして、井戸の陰で、止まった。

 

「……で」

 

気の抜けた声だった。

 

「そこの、二人」

 

(第6話 了)

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