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1
マキナがアルマゲスト家に住み着いて、十日が経った。
身元は、相変わらず分からない。セイフガードの窓口に問い合わせても該当者なし。住民登録機関のレジデントにも、「マキナ」という名の少女の記録はなかった。
それでも、生活はそれなりに回り始めていた。
朝、マキナはルーチェの髪を梳かす係になった。ルーチェはそのお返しに、マキナの銀髪を編む係になった。今日の三つ編みの先には、ルーチェのお古の青いリボンが結ばれている。
パラゴンの係は、相変わらず全部だ。
「今日のはこれです。地味ですよ」
HUB第三支部。カウンターの向こうから、ミレイが一枚の依頼書を滑らせてきた。カウンター脇の丸椅子は、いつの間にかマキナの指定席になっている。彼女の前には、頼んでもいないのにホットミルクが置かれていた。
「第十二区画。夜間の騒音と、住人同士の小競り合いの苦情が続いてるそうです。現地確認と仲裁、状況の報告まで」
報酬欄に目をやる。一日分の食費と、薬代の端数が払える程度。十日前の、あのゼロが一つ多い依頼書とは比べるべくもない。
「依頼主は?」 「隣接区画の住民自治会です。……ちゃんと読めますよ、今回は」
ミレイが小さく笑った。あの箱の一件は、第三支部ではちょっとした語り草になっている。
「十二区画か」
カウンターの端で、ガルドがジョッキを置いた。いつもの赤ら顔が、少しだけ渋くなっている。
「騒ぎなら、セイフガードの仕事じゃねえのか」 「問い合わせたそうです。そしたら、『区画内の住人間の揉め事には介入しない』と」
ミレイの声は平坦だった。平坦にしている、と言ったほうが正しいのかもしれない。
パラゴンは依頼書を折りたたんで、コートの内ポケットに入れた。
「受けるよ」 「かくりくかく?」
隣で、マキナが首を傾げた。ミルクの泡が、上唇に白い線を作っている。
「……神様が住んでるところだ」
パラゴンが答えると、マキナは一度まばたきをした。
「かみさま」
それだけ繰り返して、彼女はマグの中を覗き込んだ。何を考えているのかは、分からなかった。
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2
第十二区画は、中央都市ポラリスの南端にある。
区画を囲む壁は低い。大人の胸ほどの高さしかない。越えようと思えば誰でも越えられる壁が、それでも数百年、一度も越えられずに立っている。
検問ゲートの詰所では、制服の男があくびを噛み殺していた。パラゴンの傭兵証をろくに見もせずに、顎で中を示す。
「中で何かあっても自己責任だぞ。……その子も連れてくのか?」 「ああ」 「物好きだな」
ゲートをくぐると、空気が変わった。
音が少ない、というのが最初の印象だった。中層の商業区のような喧騒も、下層の路地のような生活の騒がしさもない。あるのは、どこかで水が垂れる音と、風に鳴るトタン板の音だけ。
建物は古かった。古い、というより、どれも何かの転用だった。屋根の落ちた祠に板を渡して住居にしたもの。石造りの社殿を布で仕切って、何世帯かが分け合っているもの。かつて噴水だったらしい円い石組みの縁に、痩せた女が腰掛けている。水の出ない噴水の底を、じっと見下ろしていた。
淡く光る髪を持つ者がいた。背に、羽根の抜け落ちた翼の名残を持つ者がいた。額に、擦り切れた紋様を刻んだ者がいた。
誰もが神だった。そして誰もが、ひどく疲れて見えた。
視線が、こちらに集まる。
ある者は警戒していた。武装した人間が何をしに来たのかと、戸口の陰から窺っている。ある者は諦めていた。どうせ何を言っても無駄だとでもいうように、一瞥しただけで目を伏せる。そしてほとんどの者は、何の関心も示さなかった。人間が来ようが来るまいが、自分たちの明日は何も変わらないと知っている顔だった。
足元の石畳は、妙に大きく、妙に立派だった。表面に、削れかけた浮き彫りの痕が残っている。
この区画の石畳は、昔ここに建っていた神殿の石を剥がして敷いたものだと聞いたことがある。その神殿を誰が積み上げたのかまでは、誰も口にしない。
パラゴンは、半年前の避難所を思い出していた。西都市から逃げてきた人々が、体育館の床に毛布を並べて眠っていた光景。明日がどうなるか分からない人間は、みんなああいう顔をしていた。
自分たちは、半年だった。
ここの住人たちが、いったい何年この顔をしているのか。パラゴンには分からなかった。
「……パラゴン」
マキナが、コートの袖を小さく引いた。
「ここ、しずか」 「ああ」 「しずかなの、あんまり、すきじゃない」
パラゴンは答えなかった。答えられる言葉を、持っていなかった。
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3
騒音の元は、すぐに見つかった。
区画の奥から、金属の何かが倒れる音が響いた。続いて、裸足で石畳を蹴る、軽い足音。
パラゴンは走った。マキナが後ろからついてくる。
角を二つ曲がった先の路地で、小さな影が壁際に追い詰められていた。
痩せた神だった。少年とも少女ともつかない体つきに、灰色のぼさぼさの髪。耳の先が、猫のように尖っている。首には、黒い金属の輪がはめられていた。表面に細かな魔紋が刻まれた、首輪だ。
その神を、三人の男が囲んでいた。
揃いの灰色のコート。きちんと撫でつけた髪。一人は帳面を抱え、一人は先端に鈍い灰色の鉱石を嵌めた短杖を持ち、一人は黒檀の杖をついている。
誰も、怒鳴っていなかった。誰も、殴りかかろうとしていなかった。
それが、かえって不気味だった。
「おや」
黒檀の杖の男が、パラゴンに気づいて振り返った。穏やかな顔立ちの、四十がらみの男だ。
「お騒がせして、申し訳ございません。すぐに片付きますので」
深々と、丁寧に頭を下げる。
「当該の個体は、当方の管理物でして。少々、搬出の手続きに手間取っております」
個体。管理物。搬出。
男の口から出る言葉のどれもが、壁際で震えている神を、ひとつの荷物として扱っていた。
「……そいつ、嫌がってるように見えるけどな」 「ええ、よくあることです。お気になさらず」
男は、心底不思議そうに首を傾げた。
「ご覧ください。譲渡の証書もこの通り、揃っております」
帳面の男が、一枚の書類を差し出してくる。見る気もなかった。
パラゴンは一歩、前に出た。灰色の神と男たちの間に、自分の体を割り込ませる。
「悪いな。こっちも仕事なんだ。この区画の騒音をどうにかしてくれって依頼でね」
背後で、小さな体がびくりと震えるのが分かった。
「とりあえず、この子の話を聞いてからにさせてもらう」
男は、しばらくパラゴンの顔を眺めていた。
それから、にこりと笑った。
「承知いたしました。では、改めて伺います」
もう一度、丁寧に頭を下げる。三人は踵を返し、路地の奥へ静かに消えていった。一度も振り返らなかった。
「……改めて、か」
パラゴンは、男たちの消えた暗がりを睨んだまま呟いた。
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4
灰色の神は、ノラと名乗った。
「なまえ、ない。みんな、そうよぶ。のらねこみたいだから」
ノラは、路地の奥の崩れた石段に座り込んでいた。マキナはその隣に、ぺたんと座っている。
首輪は外れなかった。パラゴンがナイフの刃を当てても、魔紋が淡く光って弾き返す。
「……これ、つけられると、ちから、でない」
ノラは、ぽつりぽつりと話した。
区画の住人が、少しずつ消えている。夜のうちに、買い手が来る。
まだ力の残っている者は、「上の街」へ連れていかれる。金持ちの屋敷で、見世物にされたり、飼われたりするのだという。
「つかえなく、なったら」
ノラは、そこで言葉を切った。
「……もどって、こない」
この世界では、誰も本当には死なない。力尽きた魂は、循環の機構によって、何週間か後には同じ姿で還ってくる。神も人間も、それは同じだ。
だから、「戻ってこない」ということの意味は、ひとつしかない。
「カケラが」
ノラの声が、かすれた。
「ともだち。……みっかまえに、つれていかれた」
ノラの案内で辿り着いたのは、区画の外れにある古い倉庫だった。かつての神殿の、宝物庫だったのかもしれない。分厚い石壁に、錆びた鉄の扉がついている。鍵は、壊れていた。
中は、がらんとしていた。
檻が並んでいる。どれも空だった。床には、引きずられた跡が何本も残っている。
壁際に、木箱が積まれていた。箱の側面には、事務的な文字で札が貼ってある。
――観賞用。 ――愛玩用。 ――部材。
パラゴンは、「部材」と書かれた箱の蓋を開けた。
中には、深い紺色のビロードが敷かれていた。
その上に、石が並んでいた。
親指の先ほどの大きさの、滑らかに磨かれた灰白色の石。一つ一つが、内側からごく淡く光っている。遠目に見れば、宝石のようにも見えた。
装飾品。儀式の道具。魔法の触媒。
用途を書き込んだ小さな札が、石のひとつひとつに添えられていた。
パラゴンは、その灰白色を知っていた。
半年前の西都市で、嫌というほど見た色だ。触手に触れられた人々が、悲鳴を上げる暇もなく、この色に変わっていった。
石にされた者は、循環しない。魂ごと、その中に閉じ込められる。
そして、砕かれた石は、二度と元の形には戻らない。
パラゴンは、息を止めていた。自分でも気づかないうちに。
ノラが、ふらふらと箱に近づいた。並んだ石の上を、震える指がさまよう。
やがて、その指がひとつの石の上で止まった。
小さな石だった。表面に、ほんのわずかに、赤い色が残っている。何かの模様の、ほんの切れ端のように見えた。
「……カケラ、の、ほっぺ。あかいの、かいてた」
ノラは、それ以上何も言わなかった。
石を両手で包んで、額に押し当てて、ただうずくまった。声は出ていなかった。
マキナは、何も言わなかった。
いつもなら、見るもの全部に「これ、なに?」と尋ねる少女が。温かいミルクひとつで目を丸くして、ありがとうと言う少女が。
ただ、じっと、ノラの手の中の石を見つめていた。
瞬きさえ、していないように見えた。
倉庫の外で、足音がした。
パラゴンは反射的にマキナとノラを檻の陰へ押しやり、扉の脇の暗がりに身を沈める。
声が近づいてくる。さっきの帳面の男だ。
「――ええ、部材のほうは予定通り、明朝に搬出します。上質なものは、研究用に回すようにとのことですので」
「研究用」。
その言葉が、妙に耳に残った。
扉が開く。三人の男が、さっきと同じ穏やかな顔で入ってくる。先頭の、黒檀の杖の男が、空になった檻の列を見渡した。
「……おや」
そして、扉の脇に立つパラゴンに、正確に視線を向けた。
「お待ちしておりました、と申し上げるべきでしょうか」
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5
最初に動いたのは、短杖の男だった。
灰色の鉱石を嵌めた杖の先端が、まっすぐパラゴンの胸を突きにくる。パラゴンは体を捻ってかわした。鉱石が、コートの左袖をかすめる。
かすめた場所から、布が灰白色に変わった。
乾いた音を立てて、袖が硬直していく。パラゴンは迷わずコートを脱ぎ捨てた。床に落ちたコートは、左腕の部分だけが、石の彫刻のように固まっていた。
――石化の武器。
「少々、お痛みがあるかもしれません」
黒檀の杖の男が、丁寧に言った。
「ご容赦を」
パラゴンは拳銃を抜いた。
撃ったのは、男たちではなく天井だった。吊るされていた古い魔導灯が砕け、倉庫の中が一瞬で闇に沈む。
暗がりの中で、腰のポーチから呪符を一枚引き抜く。親指で魔紋をなぞり、床に叩きつけた。
周囲の魔素が、紙に描かれた回路へ流れ込む。一拍遅れて、呪符が白く爆ぜた。目を焼くような閃光が、倉庫の中を真昼に変える。
短杖の男が、目を押さえてよろめいた。
その手首を、パラゴンの剣の峰が打ち据える。石化の杖が床を転がった。返す刀の柄頭を、帳面の男の鳩尾に叩き込む。男は帳面を取り落とし、声もなく膝を折った。
二人。
残るは、一人。
振り向いた瞬間、目の前に黒檀の杖があった。
違う。杖ではない。
杖の握りから、細い刃が抜き放たれていた。仕込み杖だ。握りの部分には、細工の凝った銀の意匠が施されている。傭兵の武器というより、どこかの魔法使いが持っていそうな品だった。
剣で受ける。
重い。
見た目の穏やかさからは想像もつかない、正確で、無駄のない一撃だった。二合、三合と打ち合うたびに、腕に痺れが溜まっていく。
「なかなか」
男が、感心したように呟いた。
「暫定十級を落とされた方と伺っておりましたが。なるほど」
「……こっちのことは、調べ済みか」
「お仕事ですので」
男の刃が、パラゴンの剣を弾き上げた。胴ががら空きになる。
その刹那。パラゴンは剣から手を離した。
落ちていく剣の陰で、左手の拳銃が火を噴いた。至近距離からの一発が、男の仕込み杖の刃を根元から撃ち折る。
男の顔から、初めて笑みが消えた。
パラゴンは床の剣を蹴り上げて掴み直し、切っ先を男の喉元に突きつけた。
「搬出の手続き、とやらは中止だ」
男は、切っ先を見下ろした。それから、ゆっくりと両手を上げる。
そのとき、男の胸元から、小さな音がした。
通信用の魔導具だ。耳障りな雑音の向こうから、女の声が漏れ聞こえる。
『――あらあら。手こずってるのぉ?』
間延びした、どこか楽しげな声だった。
『いいよぉ、引き上げて。在庫は惜しいけど、足がつくほうが面倒だもの。……ね?』
男が、小さく息をついた。
「……だ、そうです」
男の袖口から、一枚の符が滑り落ちた。床に触れた瞬間、見たことのない複雑な魔紋が浮かび上がる。
「待――」
光が弾けた。
パラゴンの切っ先の先には、もう誰もいなかった。床に倒れていたはずの二人も、同じように消えていた。
残されたのは、転がった石化の杖と、帳面の男が落とした帳面。
そして床の上に、小さな金属の徽章がひとつ。
パラゴンはそれを拾い上げた。
樹の紋章だった。大きく枝を広げた一本の樹。よく見ると、枝のうちの一本だけが、根元から断ち切られたように欠けていた。
何の意味があるのかは、分からなかった。
帳面をめくる。品目、数量、搬出先。整然と並んだ事務的な文字の列。搬出先の欄はほとんどが符号で、読めるものは一つもなかった。
――まだ、何も分かっていない。
ただ、あの穏やかな男も、帳面の男も、通信の向こうの女の声も、この件のほんの端っこでしかない。それだけは、はっきりと分かった。
振り返ると、ノラの首輪が外れていた。
使い手が消えて、魔紋の力も切れたらしい。首輪は床に転がって、ただの黒い金属の輪になっていた。
ノラは、自分の首に触れた。何度も。確かめるように。
それから、檻の陰から這い出してきて、パラゴンの前に立った。
「……ありがとう」
小さな声だった。
ノラの両手には、まだあの石が包まれていた。
「カケラも、つれて、かえる」
パラゴンは、「部材」と書かれた箱を見た。紺色のビロードの上に並ぶ、たくさんの石を見た。
そのひとつひとつに、誰かの名前があったのだろうか。
「……ああ。全部、持って帰ろう」
それしか、言えなかった。
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6
区画の長老だという、腰の曲がった老いた神に、ノラと箱を預けた。
長老は何も聞かなかった。礼も言わなかった。ただ、箱の中の石をしばらく見下ろして、それから、パラゴンに向かって一度だけ深く頭を下げた。
ゲートを出る頃には、日が傾いていた。
帰り道は、長い上り坂だ。中層区へ向かう坂の途中で振り返ると、第十二区画の低い壁が、夕日の影の中に沈んでいくのが見えた。
石化の杖と帳面と徽章は、袋に入れて背負っている。明日、セイフガードの朝霧のところへ持っていくつもりだった。区画内の揉め事には介入しない組織が、これをどう扱うのかは分からない。
左腕が、少し寒い。あのコートは、もう着られない。
―――
俺がこの街で踏ん張ってるのは、結局、ルーチェのためだ。
世界がどうとか、神と人間がどうとか、そんな大きい話じゃない。あいつが薬を飲めて、屋根の下で眠れて、明日も「いってらっしゃい」って笑えれば、それでいい。そのために依頼を受けて、そのために金をもらう。ずっとそうしてきたし、これからもそうするつもりだ。
今日だって、そうだった。報酬の安い、地味な仲裁依頼。それをこなしただけだ。
ノラは、助けられた。
カケラは、間に合わなかった。
三日早ければ、とは思わない。三日前の俺は、あの区画のことなんて気にもしていなかった。十二区画に神様が住んでいることは知っていた。知っていて、自分とは関係のない場所だと思っていた。
だから、たぶん、これは俺の責任じゃない。
……本当に、そうか?
ルーチェ一人を守ることと、目の前で誰かが売られていくのを見て見ぬふりをすること。それは、本当に別の話なのか。
あいつが「いってらっしゃい」と笑える世界と、カケラが石にされて砕かれる世界。それは、同じひとつの世界なんじゃないのか。
――分からない。
分からないまま、坂を上る。
……まあ、考えすぎだな。
明日も依頼はある。薬代も家賃もある。俺みたいなのが一人で何かを考えたところで、何かが変わるわけでもない。
そう思って、飲み込んだ。
飲み込んだはずのものが、喉の奥で、小さく引っかかったままだった。
―――
隣を歩くマキナは、倉庫を出てから、一言も喋っていなかった。
いつもならとっくに、夕焼けの色について十個は質問しているはずの少女が。
ただ黙って、パラゴンの横を歩いていた。時々、彼の顔を見上げて、また前を向く。
何を見ているのか、パラゴンは聞かなかった。
マキナは、何も言わないまま、その横顔をじっと見ていた。
(第2話 了)