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1
朝、マキナはいつもどおりだった。
いつもどおりにルーチェの髪を梳かして、いつもどおりにルーチェに髪を編んでもらって、いつもどおりに一会の淹れた白湯を、両手で持って二回まわしてから飲んだ。
パラゴンは、それを見ていた。
気がつくと、見ていた。
銀白の髪。小さな手。白湯の湯呑みを包む、細い指。額には、何もない。
神だと、あの男は言った。
「お兄ちゃん」
寝台の上から、ルーチェが言った。
「さっきから、マキナちゃんのこと、じーっと見てる」
「……見てない」
「見てるよ。お茶、冷めてる」
パラゴンは、手元の茶碗を見下ろした。一会が淹れてくれた茶が、手つかずのまま、すっかりぬるさを通り越していた。
一会が、隣に座った。自分の分の茶を、ずずっとすする。
いつもの顔だった。昨日、十三番に「付き合え」と言った男と、同じ顔には見えなかった。
「……聞かないの?」
一会が、茶碗を見たまま言った。
「聞いたら、答えるのか」
「うーん。たぶん、はぐらかす」
「なら、聞かない」
「そっかぁ」
一会は、少しだけ笑った。それから、パラゴンの冷めた茶を取り上げて、新しいのを淹れ直した。
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2
マキナが、一会と一緒に水を汲みに出ていった。
戸が閉まってから、ルーチェが言った。
「お兄ちゃん。マキナちゃん、何かあったの?」
パラゴンは、しばらく黙っていた。
それから、話した。路地に来た男のこと。その男が、マキナを見て言ったこと。
「……神、だって言われた」
ルーチェは、目をぱちぱちさせた。
窓の外を見て、少し考えて、それからパラゴンを見た。
「それで、お兄ちゃんは、何か変わった?」
パラゴンは、答えられなかった。
変わったのか。変わっていないのか。自分でも、分からなかった。
ルーチェは、答えを待たなかった。にっこりと笑って、枕元のメモ帳を引き寄せた。
「マキナちゃんに、今日、おつかい頼んでいい?」
丸っこい字で、買い物のリストを書いていく。
――やさい(にんじん、いも)
――おくすり(いつものやっきょく)
――せっけん(オーレルさんのところの、山百合の)
「……こんなときにか」
「こんなときだから」
ルーチェは、書き終えたメモを畳んだ。
「お兄ちゃんは、お散歩でしょ?」
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3
散歩だ。これは、ただの散歩だ。
たまたま天気がよくて、たまたま足が市場の方に向いて、たまたま前方二十歩くらいのところを、銀髪の少女が歩いている。
前にも、同じことを自分に言い聞かせた気がした。
マキナは、軽い足取りで下層の路地を進んでいく。編み込みの銀髪が、一歩ごとにぴょこぴょこ跳ねる。
路地の脇に、植木鉢があった。
しおれかけた雑草が一本、生えている鉢。はじめてのおつかいの日、マキナが三分もしゃがみこんで、じっと覗き込んでいた鉢だ。
マキナは、今日は立ち止まらなかった。
歩きながら、雑草に小さく手を振って、そのまま通り過ぎた。
パラゴンは、建物の角で、少しだけ笑った。
―――
市場は、半分ほど戸を閉めていた。
呼び込みの声は、前よりずっと少なかった。角ごとに、灰色の制服のセイフガードが立っていた。石畳の継ぎ目のキノコは、どれも乾いて、白い粉になって崩れていた。
それでも、八百屋は開いていた。
マキナは、まっすぐ八百屋に向かった。星の形の梨の前でも、蟹の桶の前でも、止まらなかった。
「おっ」
八百屋の親父が、顔を上げた。
「値切りの天才じゃねえか。久しぶりだな」
「にんじんと、いも、ください」
「はいよ。……で?」
親父が、にやりと笑う。
マキナは、胸を張った。
「まけて」
「はっはっは! 変わんねえなあ、お嬢ちゃん」
親父は、形の悪い小さないもを一つ、紙袋に放り込んだ。
「こんなご時世だ。ちょっとでも笑わせてくれた礼だよ」
「……ありがとう。あなた、やっぱり、いいひと」
入り口脇の古い樽の陰で、パラゴンは、それを見ていた。
前と同じ樽だった。
親父が、ふとこちらを見た。
目が合った。
「兄さん。また、散歩かい」
親父は、手を振った。
パラゴンは、樽の陰で、額に手を当てた。
―――
薬局では、腰の曲がった婆さんが、いつもの薬を包んでくれた。マキナは、今日はメモを見せる前に、「いつもの、ください」と言えた。
市場の外れの、小さな古い店の前を通りかかった。
塗装の剥げかけた木の看板。オーレル雑貨店。
店先で、白髪まじりの髪を後ろで束ねた痩せた男が、棚の埃を払っていた。丸い眼鏡の奥の目が、マキナを見つけて、穏やかに細められた。
「やあ。いらっしゃい、値切りのお嬢さん」
「せっけん、ください。やまゆりの」
「覚えていてくれたんだね」
オーレルは、薄紙に包んだ石鹸を手渡しながら、ふと、通りの向かいに目をやった。
古道具屋の積み荷の陰。
目が合った。
オーレルは、何も言わなかった。前と同じように、丸い眼鏡の奥で、小さく片目をつぶっただけだった。
パラゴンは、積み荷の陰で、長く息を吐いた。
神だと言われた。記録にない神だと。
それでも、八百屋の親父はいもをおまけして、薬局の婆さんは薬を包んで、雑貨屋の主人は石鹸を手渡した。
マキナは、前と同じように、律儀に一人ずつ手を振り返していた。
そして自分は、前と同じように、物陰に隠れて、はらはらしている。
何も、変わっていなかった。
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4
市場の出口で、マキナが振り返った。
まっすぐ、パラゴンの隠れている積み荷の方を見た。
「パラゴン。さんぽ?」
パラゴンは、固まった。
それから、観念して、積み荷の陰から出た。
「……いつから、気づいてた」
「さいしょから」
マキナは、紙袋を抱え直した。
「まえの、おつかいのときも」
「……」
「たるの、うしろ。ずっと、いた」
パラゴンは、空を見上げた。
ルーチェは、全部知っていたのだろうか。たぶん、知っていた。
並んで歩き出した。
マキナの歩幅に合わせて、ゆっくりと。
しばらく歩いてから、マキナが、ぽつりと言った。
「……パラゴン」
「なんだ」
「わたし、かみさまだったら、パラゴン、こまる?」
足元を見たまま、小さな声で。
パラゴンは、少しだけ考えた。
「……困るのは、お前がまた蟹に指を挟まれるときだけだ」
マキナが、顔を上げた。
「かに、つよかった」
「知ってる」
「こんどは、はさまれない」
「そうしてくれ」
マキナは、紙袋を抱えたまま、少しだけパラゴンの方に寄った。
歩きにくかった。
パラゴンは、何も言わなかった。
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5
夜、寝台の縁に、ルーチェとマキナが並んで座っていた。
ルーチェが、山百合の石鹸で洗ったマキナの髪を、柄の欠けた木の櫛で梳かしていた。いつもとは逆だった。
花の匂いが、部屋の中に、ほのかに広がっていた。
「ルーチェ」
「なあに」
「わたし、かみさま、なんだって」
櫛が、一瞬だけ止まった。
それから、また動き出した。
「そっか」
ルーチェは、マキナの銀白の髪を、ひと房すくい上げた。
「……じゃあ、明日の髪型、神さまっぽくしよっか」
「かみさまっぽい?」
「うん。こう、くるくるーって。すっごく、えらそうなの」
「えらそう!」
マキナが、ぱっと振り返った。ルーチェが、くすくすと笑った。
かまどの前で、一会が毛布にくるまったまま、にこにこと二人を見ていた。
戸口の柱にもたれて、パラゴンは、それを見ていた。
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6
管理塔の上層の廊下は、夜になると、ほとんど灯りがなかった。
十三番は、自分の机の上に、報告書を一枚置いた。
――押収物:杖一。ほだ木の神、拘束。
――備考:下町、長屋の路地にて、記録にない神、一。
――神格レベル:判定不能。
書き終えて、事件の綴りに挟もうとしたとき、手が止まった。
綴りの一番上に、紙片が一枚、挟まっていた。
自分が挟んだものではなかった。
差出人の名前は、なかった。日付は、昨日の朝だった。十三番が、あの路地へ向かう前の。
――長屋の路地に、記録にない神がいる。
一行だけ。細い、丁寧な字だった。
十三番は、半眼のまま、しばらくその紙片を見ていた。
誰かが、あの路地へ、行かせた。
首を、かしげる。
廊下の向こうから、鼻歌が聞こえてきた。
間延びした、楽しげな、女の声だった。
十三番が顔を上げたときには、鼻歌は、もう遠ざかっていた。
(第8話 了)