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1
管理塔の第四階層は、いつもより騒がしかった。
インフラ局、グリッド。都市の水と魔導灯と下水を、帳面の上で管理している部署だ。ふだんは紙をめくる音しかしない部屋を、今日は職員たちが走り回っていた。
部屋の隅に、腰の高さまで積まれた箱があった。
「保留」の判が押された書類の箱。
若い事務員が、その箱の一番上から、分厚い帳面を一冊抜き出した。
第十二区画。上水の使用量。
ふた月前、この数字を課長のところへ持っていったのは、自分だった。水の使用量が、半分近くまで落ちています。魔導灯の方も。――課長は、帳面をちらりと見ただけで言った。神の区画だろ。誤差だ。
赤い「保留」の判が、帳面の余白に、そのまま残っていた。
事務員は、帳面を持って奥の机へ行った。
課長は、机の上に広げた何冊もの帳面を、青い顔でめくっていた。第四区画。第七区画。第九区画。どの帳面にも、同じ判が押されていた。どの帳面の数字も、同じように落ちていた。
「……課長」
課長は、顔を上げなかった。
「第十二区画です」
事務員が帳面を置くと、課長の手が止まった。
自分の押した判を、課長は、長いあいだ見ていた。
―――
その日の夕方、管理塔の上層から、一枚の命令書が下りてきた。
――区画における神格の大規模失踪、および「神々は、帰る」の声明を、神格絡みの重大事件として扱う。
――各区画の管理、および区画外の記録にない神格の洗い出しを、第十階層に移管する。
第十階層。治安維持部隊、ファイアウォール。
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2
朝、パラゴンは、音で目を覚ました。
ざっ、ざっ、ざっ。
揃った足音だった。何十、何百という靴底が、同じ拍子で石畳を踏んでいた。
窓を開けた。
表通りを、隊列が行進していた。
煤色の外套。黒い胸当て。肩に担いだ長い銃。顔の下半分を覆う、灰色の布。誰もが同じ背丈に見えるほど、隊列はきっちりと揃っていた。先頭で、旗が一本、揺れていた。
誰も、何もしゃべっていなかった。
足音だけが、長屋の壁に跳ね返って、いつまでも続いていた。
「……パラゴン」
マキナが、窓辺によじ登ってきた。パラゴンの袖をつかんで、隊列を見下ろす。
「あれ、なに?」
パラゴンは、すぐには答えられなかった。
その制服を、知っていた。
数年前。企業連と管理塔の紛争。パラゴンは企業側の機動部隊にいて、あの煤色の外套と向き合った。同じ隊列。同じ足音。同じ、顔のない兵士たち。
あのとき隣にいた戦友の一人は、今も、第四工業区画で暴れて拘束されたまま、CMAの審理を待っている。ケイン・ハルデン。HUBの受付で、ミレイがそっと束の下に回した封筒の名前。
「……軍隊だ」
それだけ言って、パラゴンは窓を閉めた。
閉めても、足音は聞こえていた。
―――
昼までに、壁という壁に、新しい張り紙が貼られた。
――夜間外出禁止。日没より夜明けまで。
――区画への出入りは、管理塔の許可証を持つ者に限る。
――区画の外で記録にない神格を見かけた者は、最寄りの検問所へ届け出ること。
最後の一枚の前で、パラゴンは、足を止めた。
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3
鉄鍋亭の奥の卓で、朝霧が飲んでいた。
昼だった。
卓の上に、空の杯が三つ並んでいた。朝霧は四つ目を傾けて、パラゴンに気づくと、片手を上げた。
「おう、傭兵。座れ座れ」
「……昼間から、珍しいな」
「非番になったんでな。今日から」
朝霧は、杯を卓に置いた。
「区画のことは、軍の仕事だとよ。セイフガードは、街の中の、こまごましたことだけやってりゃいいんだと」
いつもの豪快な声だった。けれど、杯を持つ手に、力が入りすぎていた。
「倉庫で寝かせてた連中も、全部あっちに引き渡した。金物屋の親父も、お前んとこの大家の爺さんも、あの悪ガキどももだ」
女将が、何も言わずに、朝霧の前に水の杯を置いていった。
朝霧は、それを見て、少しだけ笑った。それから、声を落とした。
「傭兵。張り紙、見たか」
「……区画の外の、記録にない神」
「ああ。あれは本気だ。軍は、洗い出しにかかる。住民登録から、家を一軒ずつ」
朝霧は、パラゴンの目をまっすぐに見た。
「噴水の、あの昼寝の神。あいつは、どこにも記録がねえ」
コテン。
市場の北の外れの、水の出ない噴水広場で寝ている神。誰にも数えられず、記録の上では存在しない神。
「それと――」
朝霧は、言いかけて、やめた。
パラゴンの後ろに、誰がいるのかを知っている顔だった。銀色の髪の、神紋のない少女。
「……嬢ちゃんのことは、俺は何も聞いてねえし、何も知らねえ。いいな」
「……ああ」
「気をつけろよ。軍は、俺たちみたいに、融通は利かねえぞ」
朝霧は、水の杯を一気に飲み干した。
―――
その日の夕方、パラゴンは噴水広場へ行った。
ヴィンスが、看板を片付けていた。噴水の縁で、寝間着のような衣の男が、丸くなって寝ていた。
「コテン」
コテンは、ゆっくりと片目を開けた。
「あ。起きてる人」
「うちに来い。しばらく」
「……なんで?」
「ここで寝てると、危ない」
コテンは、しばらくパラゴンを見ていた。それから、広場の向こうの、壁に貼られた真新しい張り紙を見た。
「……そっか」
のそのそと起き上がって、毛布を肩に掛けた。
ヴィンスが、看板を抱えたまま言った。
「旦那。……この方を、頼みます」
いつもの軽口は、なかった。
―――
その夜、パラゴンの家は、いっぱいだった。
窓辺の寝台にルーチェ。その足元に、マキナ。かまどの前に、毛布にくるまった一会。長椅子に、コテン。
「わぁい。お客さん!」
「……いっぱい、いる」
「こんばんは、コテンさん。また会えたね」
ルーチェが、嬉しそうに笑っていた。前にこの長椅子にコテンが泊まったときも、ルーチェは同じ顔をしていた。
パラゴンは、戸口の柱にもたれて、狭くなった部屋を見回した。
外では、軍靴の音が、夜の通りを巡回していた。
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4
翌朝、パラゴンは第十二区画の検問ゲートへ向かった。
塩の包みを、一つ持っていた。
ゲートの前に、煤色の外套が並んでいた。
いつもの詰所の男は、どこにもいなかった。あくびを噛み殺しながら、中で何かあっても自己責任だぞ、とだけ言っていた男。その代わりに、顔の下半分を灰色の布で覆った兵士が四人、銃を構えて立っていた。
「止まれ」
兵士の一人が、パラゴンの前に出た。
「許可証を」
「……HUBの傭兵だ。中に、知り合いがいる」
「許可証を」
兵士の声は、平坦だった。パラゴンの顔を見ていなかった。
「区画は封鎖中だ。管理塔の許可証のない者は、通せない」
「塩を届けるだけだ」
「通せない」
後ろの兵士たちが、銃口を、ほんの少しだけ上げた。
パラゴンは、塩の包みを握りしめた。
ゲートの向こうに、区画の通りが見えていた。崩れかけた小屋が並ぶ、静かな通り。その奥に、ノラがいる。
届かなかった。
ほんの数十歩の距離だった。
パラゴンは、踵を返した。
背中で、兵士たちの軍靴が、また同じ場所を踏み直す音がした。
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5
区画の中は、前よりもっと静かになっていた。
戸を閉ざした家が、また増えていた。通りの向こうを、煤色の外套が二人、家を一軒ずつ覗き込みながら歩いていた。
崩れかけた小屋の戸口に、ノラが座っていた。
灰色のぼさぼさの髪。猫のように尖った耳。背中の奥に、札を剥がされた木箱が一つ。
ノラは、片手で、その蓋に触れていた。もう片方の手には、灰白色の小さな石を握っていた。
カケラの石だった。
軍靴の音が、通りの向こうで遠ざかっていった。
ノラの耳が、ぴくりと動いた。
背後の、小屋の暗がりに、誰かが立っていた。
足音はしなかった。気配だけが、いつの間にか、そこにあった。
背が高かった。体のどこもかしこも、乾いた枝のように細かった。黒い髪を、後頭部の一箇所できつく結んでいた。背中に、古くて華奢な弓を一張り。
ノラは、振り返らなかった。
「……だれ」
「射手」
短い声だった。
「箱の中身。それと、手の中に、一」
ノラの肩が、こわばった。
射手の目は、ノラを見ていなかった。ノラの背中の、木箱を測っていた。
「軍は、箱ごと数える。番号を振って、棚に並べる。……ここにいれば、次は、そうなる」
ノラは、黙っていた。
石を握る手に、力がこもった。
射手は、しばらく黙っていた。それから、言った。
「北へ行けば、石を戻せる者がいる」
ノラの耳が、また、ぴくりと動いた。
ゆっくりと、振り返った。
「……もどせる?」
「確かではない」
射手は、正直だった。
「だが、ここにいれば、確かに戻らない」
ノラは、射手を見上げていた。
長いあいだ、見ていた。
それから、手の中の小さな石に、目を落とした。
射手は、それ以上は何も言わなかった。
気づいたときには、小屋の暗がりには、もう誰もいなかった。
ノラは、石を握ったまま、戸口に座っていた。
木箱の蓋に置いた手は、離さなかった。
通りの向こうから、また、軍靴の音が近づいてきた。
(第9話 了)