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1
夜になると、軍靴の音が通りを巡回した。
昼になると、角ごとに煤色の外套が立った。
外出禁止が出てから、七日が過ぎていた。
マキナは、毎朝、塩の包みを持って窓辺に座った。第十二区画の検問ゲートで、パラゴンが渡せずに持ち帰ってきた包みだった。
「……ノラ、しお、たりてる?」
「分からん」
「いも、ゆでてる?」
「……分からん」
マキナは、塩の包みを膝の上に置いたまま、窓の外を見ていた。
―――
HUB第三支部で、パラゴンはカウンターに身を乗り出した。
「区画の許可証。HUBから申請できないか」
ミレイは、眼鏡の奥で、少しだけ目を伏せた。
「……神様の関わることは、HUBでは扱えない決まりなんです。申請の窓口も、第十階層に移ってしまって」
「傭兵の依頼って形なら」
「依頼人が、区画の中の神様になってしまいます」
ミレイは、首を横に振った。
「ごめんなさい。わたしにできることは、ないんです」
いつもなら、決まりの隙間を一緒に探してくれる受付だった。その受付が、今日は、何も言えずに書類を揃えていた。
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2
セイフガードの拘置所の面会室は、窓がなかった。
鉄格子の向こうの椅子に、男が一人、座っていた。
首に、黒い輪はもうなかった。代わりに、輪の跡が、日に焼けない帯のように、白く残っていた。
グレイヴ。運河の水門で朝霧が捕まえた、樹の枝の実行部隊長。
「……非番の隊長さんが、何の用だ」
グレイヴは、格子越しに朝霧を見て、口の端を歪めた。
「差し入れなら、酒がいいんだがな」
「水で我慢しろ」
朝霧は、格子の前の椅子に、どっかりと腰を下ろした。
「区画に、軍が入った」
「知ってる。ここまで、足音が聞こえてくる」
グレイヴは、天井を見上げた。
「で? 俺に何を聞きてえ」
「樹は、何をしてる」
グレイヴは、笑った。
「枝が一本折れたくらいで、樹は倒れん。前にも言ったろ」
それから、少しだけ、身を乗り出した。
「まあ、折れた枝は、もういらねえんだとよ。……切られた枝が、樹に義理立てする筋合いもねえ」
襟の裏の、焼け潰れた徽章のあったあたりを、グレイヴは指で叩いた。
「なあ、隊長さん。軍が区画を締めりゃ、どうなると思う。残った在庫が、まとめて一か所に集まる。箱に詰めて、番号を振って、棚に並べてくれるんだ。管理塔が、親切にな」
朝霧の眉が、動いた。
「……それを、喜ぶのは誰だ」
「さあな」
グレイヴは、椅子の背にもたれ直した。
「ただ、樹の根っこってのはな。地面の下だけに張ってるとは限らねえ」
ゆっくりと、天井を指さした。
「塔の上の方まで、伸びてんだよ」
それきり、グレイヴは口を閉ざした。朝霧が何を聞いても、にやにやと笑っているだけだった。
面会室を出るとき、朝霧は、一度だけ振り返った。
グレイヴは、首の白い跡を、指でなぞっていた。まるで、そこにまだ、輪がはまっているかのように。
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3
その夜更け、裏の窓が、こつこつと鳴った。
パラゴンは、剣の柄に手をかけた。
外出禁止の夜に、戸口ではなく裏の窓を叩く者。巡回の兵なら、表の戸を叩くはずだった。記録にない神を洗い出しに来たのなら、なおさら。
長椅子のコテンを、ちらりと見た。コテンは、毛布にくるまったまま、目を開けていた。
パラゴンは、足音を殺して窓に近づいた。
窓の外に、小さな影が一つ、立っていた。
灰色のぼさぼさの髪。猫のように尖った耳。
パラゴンが窓を開けるより早く、マキナが寝台の足元から飛び起きていた。
「……ノラ!」
窓辺に駆け寄って、窓を押し開ける。
ノラが、そこに立っていた。
区画の外に。
石の箱は、背負っていなかった。片手に、灰白色の小さな石を握っていた。カケラの石だった。
ノラは、マキナを見上げた。
「……きた」
マキナの顔が、くしゃりと歪んだ。
「……どうやって、出てきた」
パラゴンが聞くと、ノラは、ふいと目をそらした。
「……みち、ある」
「道?」
「……おしえない」
それきりだった。
―――
狭い部屋に、明かりが一つだけ灯された。
ノラは、部屋の隅に、小さく膝を抱えて座っていた。マキナが、その隣にぴったりとくっついていた。寝台の上で、ルーチェが毛布を肩に掛けて、二人を見ていた。
かまどの前で、一会が黙って湯を沸かしていた。長椅子では、コテンが片目を開けていた。
一会が、小さな白い碗を、ノラの前に置いた。茶ではなかった。湯冷ましの、白湯だった。
ノラは、碗を見下ろして、それから一会を見上げた。一会は、にこにこと笑っているだけだった。
ノラは、両手で碗を包んで、ひと口すすった。
マキナが、その手元を見て、小さく言った。
「……おなじ」
マキナが、塩の包みを差し出した。
ノラは、それを見て、それからマキナを見た。
「……まだ、ある」
「でも、もってきた」
「……もらう」
ノラは、石を握っていない方の手で、包みを受け取った。
それから、しばらく黙っていた。
「……きた、って、いいに、きた」
言葉を、一つずつ選ぶように。
「きた、へ、いく」
マキナが、息を呑んだ。
「……きた、って、とおい?」
「……とおい」
ノラは、手の中の石を見下ろした。
「カケラ、もどす」
小さな声だった。けれど、揺れていなかった。
「もどせるか、わからない。……でも、ここにいたら、ぜったい、もどらない」
マキナは、何も言えなかった。
塩の包みがなくなった両手で、自分のワンピースの裾を、ぎゅっと握りしめていた。
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4
「……ゆみの、やつ、きた」
ノラが、ぽつりと言った。
「また。なんども」
パラゴンは、茶屋の土間を思い出した。卓を蹴り飛ばして作った、まっすぐな一本の線。距離、五歩。
「……のこってる、かみ、みんな、そと、つれてく、って」
「いつだ」
「……ちかいうち。……なんしゅうかん、か、あと」
ノラは、白湯の碗を握りしめた。
「……ゆみの、やつ、きらい」
尖った耳が、少しだけ伏せられた。
「いきたくない、かみも、かず、に、いれてた。……ぜんぶ、かぞえてた」
長椅子の上で、コテンが、毛布の端をつかんだ。
ノラの目が、コテンの方へ動いた。
「……おまえも、かず、に、はいってた」
コテンは、しばらく黙っていた。
「……僕、戻りたい昔、ないから」
眠そうな声だった。けれど、はっきりしていた。
「ここで、寝てる」
ノラは、コテンを見ていた。それから、短くうなずいた。
「……ん」
それから、手の中の石を、もう一度見下ろした。
「……あいつと、いっしょ、じゃない」
小さな声だった。
「きた、へは、ひとりで、いく。……じぶんで、きめた、から」
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5
パラゴンは、しばらく黙っていた。
部屋の中を、見回した。
北へ行くと決めたノラ。その隣で、裾を握りしめているマキナ。ここで寝ていると決めたコテン。寝台の上のルーチェ。かまどの前の一会。
行く者と、残る者が、同じ狭い部屋にいた。
「……出ていく者も、残る者も」
パラゴンは、言った。
「自分で選べるようにする」
ノラが、顔を上げた。
「ノラが北へ行く道は、守る。コテンがここで寝てるのも、守る」
どちらか一つではなかった。同じ一つのことだった。
ノラは、パラゴンを見ていた。
前に、区画に戻ると言ったときも、ノラは自分で選んだ。行かないことを選んだ神は、戻ることも、自分で選んだ。
今度は、出ていくことを、自分で選んでいた。
「……ん」
ノラは、短くうなずいた。
かまどの前で、一会が、にこにこと言った。
「じゃあ、僕は、お茶くらいは出すね」
いつもの、ゆるい声だった。
パラゴンは、何も言わなかった。茶屋の土間で、射手の前に音もなく踏み入った、あの背中を思い出していた。
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6
夜明け前、ノラは、裏の窓から出ていった。
路地は、まだ暗かった。遠くで、巡回の軍靴の音が、角を曲がっていった。
ノラは、窓の外で、一度だけ振り返った。
マキナが、窓枠に両手をかけて、身を乗り出していた。
「……ノラ」
ノラは、少しだけ黙っていた。
それから、言った。
「……また、くる」
マキナが、大きくうなずいた。
「まってる。いも、いっしょに、ゆでる」
ノラは、ふいと顔を背けた。尖った耳の先が、少しだけ赤くなった。
小さな影は、路地の暗がりに溶けて、すぐに見えなくなった。
どの角を曲がったのかも、分からなかった。
マキナは、いつまでも窓枠から離れなかった。
東の空が、少しずつ白み始めていた。
(第10話 了)