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1
どん、と。
夜更けの空気が、低く揺れた。
パラゴンは、寝台の脇で目を開けた。
もう一度。どん、と。南の方角だった。遠くで、警鐘が鳴り始めた。路地の向こうの表通りを、軍靴の音が、いっせいに南へ走っていく。
パラゴンは、懐に手を入れた。
指先に、小さく畳んだ紙が触れた。空になった塩の包み紙。角をきっちりと揃えて、窓辺に置かれていたもの。
今夜だった。
剣帯を締めていると、長椅子の毛布が、もぞりと動いた。
コテンが、起き上がっていた。
眠そうな目のまま、窓の外の、南の空を見ていた。
「……僕も、行く」
パラゴンは、手を止めた。
「行かないって、決めたんだろ」
「うん。北には、行かない」
コテンは、寝癖のついた頭を、ぽりぽりと掻いた。
「でもね。区画で寝てる子たち、無理に起こされたら、かわいそうだから」
いつもの、眠そうな声だった。
かまどの前で、一会が毛布を畳んでいた。
「お茶くらいは出すって、言ったもんね」
にこにこしながら、茶道具の包みを小脇に抱える。
マキナが、寝台の足元から飛び起きた。ワンピースの裾を握りしめて、パラゴンを見上げる。
「ノラ、みおくる」
止めても、聞かない顔だった。
パラゴンは、息を一つ吐いた。
「……離れるなよ」
戸を開けた。
戸口に、大きな影が立っていた。
朝霧だった。
制服ではなかった。古い外套を羽織って、肩で息をしていた。
「軍が全部、あっちに走ってった」
朝霧は、南の空を顎で示した。それから、部屋の奥の寝台を見た。毛布を肩に掛けて、こちらを見ているルーチェを。
「……俺は、区画には入れねえ。だから、ここにいる」
それだけ言って、戸口の柱に、どっかりと背を預けた。
「行ってこい、傭兵」
ルーチェが、寝台の上から言った。
「いってらっしゃい。……みんな、ちゃんと帰ってきてね」
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2
第十二区画の壁の前は、闇だった。
魔導灯が、一つ、また一つと消えていった。
消えるたびに、びぃん、と弦の音がした。
「灯りを守れ! 射手はどこだ!」
煤色の外套の兵士たちが、壁沿いに走り回っていた。長銃を構えて、闇に向かって撃つ。弾は、どこにも当たらなかった。
ひゅっ、と風を切る音。
兵士の一人の長銃が、手から弾かれて、壁に縫い止められた。矢が、銃身を貫いて、石の目地に深く刺さっていた。
隣の兵士の銃も。その隣も。
誰も、撃たれてはいなかった。誰の体にも、矢は一本も刺さっていなかった。それなのに、隊列はばらばらにほどけて、立て直せなかった。
「どこから撃ってる!」
「分からん! 上か――」
びぃん。
また一つ、魔導灯が消えた。
パラゴンは、路地の角から、それを見ていた。
神は、一柱でも、軍を手こずらせる。顔のない兵士たちが、見えない一本の弦に、まるごと振り回されていた。
検問ゲートは、開いていた。
いや、壊されていた。鉄の扉の蝶番に、矢が三本、正確に打ち込まれて、扉が斜めに傾いていた。
数週間前、パラゴンが塩の包みを持って、通してもらえなかったゲートだった。
今は、誰もいなかった。
「……行くぞ」
マキナの手を引いて、パラゴンは、傾いた扉の隙間をくぐった。
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3
区画の中は、静かだった。
外の騒ぎが嘘のように、崩れかけた小屋の並ぶ通りは、ひっそりとしていた。
ただ、ときどき、何かが動いた。
小屋の戸口から、影が一つ、滑り出る。通りを横切って、路地の暗がりに入る。そして、見えなくなる。
足音もなく。どこへ行ったのかも、分からなかった。
また一つ。また一つ。
出ていくと決めた神々だった。パラゴンの目の前で、次々と、闇に溶けるように消えていった。どの角を曲がったのか、どの戸をくぐったのか、目を凝らしても分からなかった。
ノラが言っていた「みち」だった。
―――
通りの奥から、別の音が聞こえてきた。
びぃん。
弦の音と、悲鳴。
パラゴンは走った。
区画の南の壁際の、少し開けた場所に、神々が集められていた。
十柱ほど。年老いた神。子どもの姿をした神。小屋の戸口から引きずり出されてきたような、寝間着のままの神。誰も、行くと決めてはいない顔をしていた。
その足元の地面に、矢が、一本ずつ突き立っていた。
逃げようとした方向に。戻ろうとした方向に。
矢が、神々の行き場を、一本ずつ塞いでいた。
壁の上に、細い影が立っていた。
背が高く、体のどこもかしこも乾いた枝のように細い。黒い髪を、後頭部の一箇所できつく結んでいる。古い、華奢な弓。
射手だった。
「北へ」
短い声だった。
「壁を、越えろ」
年老いた神が、震える声で言った。
「……行きたく、ない。わしは、ここで」
「道は、願う者しか通さない」
射手は、言った。
「願わないなら、壁を越えさせる」
びぃん。
老いた神の足元に、また一本、矢が突き立った。
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4
コテンが、神々の方へ、ぺたぺたと歩いていった。
矢の突き立った地面を、気にもせずに。
「こっち」
眠そうな声だった。
「こっち、おいで。……無理に、起きなくていいから」
神々が、コテンを見た。
寝間着のような衣の、寝癖のついた、記録のどこにもいない神。
子どもの姿の神が、最初に動いた。コテンの衣の裾をつかむ。老いた神が、それに続いた。
射手の弓が、コテンの方を向いた。
そのとき、通りの真ん中に、一会が座っていた。
いつの間に、と思う間もなかった。地面に正座して、茶道具の包みを膝の前に置いていた。背筋を伸ばして、静かに一礼する。
「どうぞ、お入りください」
静かな声だった。
「席を、設けました」
通りの真ん中に、小さな庵が建っていた。
土壁と、低い屋根。膝の高さに、小さな戸が一つ。
コテンが、振り返って、神々に言った。
「ね。こっち」
一柱ずつ、神々は、身をかがめて、その小さな戸をくぐっていった。子どもの姿の神。老いた神。寝間着の神。最後に、コテンが、あくびを一つしてから、這うように入っていった。
戸が、ぱたんと閉まった。
庵の中から、釜の湯の鳴る音だけが、かすかに聞こえた。
―――
びぃん。
射手の矢が、庵の土壁に向かって飛んだ。
壁を貫いた。
いや、貫いたように見えた。
矢は、土壁の障子窓を破って、庵の中へ吸い込まれていった。
そして、何の音もしなかった。
何かに刺さる音も。何かを傷つける音も。悲鳴も。
射手の指が、弦の上で止まった。
庵の中で、一会は、茶筅を持っていなかった。
膝の上に、畳んだ紫の布を広げていた。茶道具を清めるための、四角い小さな布。茶を点てるときと同じ手つきで、その布を、ふわりとさばいていた。
布の中に、矢が一本、包まれていた。
飛んできた勢いのまま、布のひだの中で、音もなく止まっていた。
一会は、それを、そっと畳の脇に置いた。何事もなかったように、茶筅を取った。
客の神々は、誰も気づいていなかった。コテンが、もう半分眠っていた。
―――
壁の上で、射手は、弓を下ろさなかった。
ただ、庵を見ていた。
測ろうとしていた。
どこに線を引けばいいのか。あの男は、どこにいるのか。
分からなかった。
「一点」で射る者が、線を引けない相手に、初めて出会っていた。
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5
庵と、壁の上の射手とのあいだに、まっすぐな一本の線があった。
パラゴンは、その線の上に立った。
「マキナ。庵の陰にいろ」
マキナは、うなずいて、庵の土壁に背中をつけた。
射手の目が、パラゴンに移った。
茶屋の土間で、卓を蹴り飛ばして通路を作った目だった。外套の裾と袖を、柱に縫い止めた目。
「……傭兵」
射手は、壁の上から、音もなく飛び降りた。
着地して、弓を構える。
「距離――」
言いかけて、止まった。
パラゴンを、見ていた。
測っていた。
茶屋の土間では、パラゴンは、殺す気もなく縫い止めればいい相手だった。脚の指一本ぶん外を狙えば、それで足りた。
今は、違った。
庵を守るように立つこの男を退かさなければ、あの神々は、壁を越えない。
射手の呼吸が、浅くなった。
まばたきが、止まった。
「……十二歩」
射手が、呟いた。
「一点」
弦が、引き絞られた。
パラゴンは、剣を抜いた。懐の呪符に、左手の指をかけた。
茶屋の土間とは、何もかもが違った。あのとき射手が見ていたのは、外套の裾だった。今、射手が見ているのは、パラゴンという一点だけだった。
びぃん。
パラゴンは、横へ跳んだ。
矢が、さっきまで心臓のあった場所を、まっすぐに抜けていった。
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6
区画の反対側。
北の外れの、崩れかけた小屋の裏に、小さな影が一つ、立っていた。
灰色のぼさぼさの髪。猫のように尖った耳。背中に、札を剥がされた木箱を背負っていた。
石の箱だった。中には、灰白色の小さな石が、並んでいた。
片手には、カケラの石を握っていた。
ノラの前に、何もない暗がりがあった。
ただの、小屋と小屋のあいだの暗がりだった。けれど、そこだけ、夜の冷たさが少しだけやわらいでいた。
誰も、いなかった。案内する者も、見送る者も。
ノラは、一人でここまで来た。一人で、ここから行くつもりだった。
ノラは、一歩、踏み出しかけた。
それから、止まった。
振り返った。
区画の南の方角。弦の音が鳴っていた。そのあいだに、剣が何かを弾く、硬い音が混じっていた。
その手前に、小さな庵の屋根が見えた。
ノラは、しばらく、そちらを見ていた。
石を握る手に、力がこもった。
尖った耳が、南の方角の音を、一つも逃すまいとするように、ぴんと立っていた。
(第12話 了)