銀と琥珀   作:らむさいだー

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第12話 一点

 

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1

どん、と。

 

夜更けの空気が、低く揺れた。

 

パラゴンは、寝台の脇で目を開けた。

 

もう一度。どん、と。南の方角だった。遠くで、警鐘が鳴り始めた。路地の向こうの表通りを、軍靴の音が、いっせいに南へ走っていく。

 

パラゴンは、懐に手を入れた。

 

指先に、小さく畳んだ紙が触れた。空になった塩の包み紙。角をきっちりと揃えて、窓辺に置かれていたもの。

 

今夜だった。

 

剣帯を締めていると、長椅子の毛布が、もぞりと動いた。

 

コテンが、起き上がっていた。

 

眠そうな目のまま、窓の外の、南の空を見ていた。

 

「……僕も、行く」

 

パラゴンは、手を止めた。

 

「行かないって、決めたんだろ」

「うん。北には、行かない」

 

コテンは、寝癖のついた頭を、ぽりぽりと掻いた。

 

「でもね。区画で寝てる子たち、無理に起こされたら、かわいそうだから」

 

いつもの、眠そうな声だった。

 

かまどの前で、一会が毛布を畳んでいた。

 

「お茶くらいは出すって、言ったもんね」

 

にこにこしながら、茶道具の包みを小脇に抱える。

 

マキナが、寝台の足元から飛び起きた。ワンピースの裾を握りしめて、パラゴンを見上げる。

 

「ノラ、みおくる」

 

止めても、聞かない顔だった。

 

パラゴンは、息を一つ吐いた。

 

「……離れるなよ」

 

戸を開けた。

 

戸口に、大きな影が立っていた。

 

朝霧だった。

 

制服ではなかった。古い外套を羽織って、肩で息をしていた。

 

「軍が全部、あっちに走ってった」

 

朝霧は、南の空を顎で示した。それから、部屋の奥の寝台を見た。毛布を肩に掛けて、こちらを見ているルーチェを。

 

「……俺は、区画には入れねえ。だから、ここにいる」

 

それだけ言って、戸口の柱に、どっかりと背を預けた。

 

「行ってこい、傭兵」

 

ルーチェが、寝台の上から言った。

 

「いってらっしゃい。……みんな、ちゃんと帰ってきてね」

 

 

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2

第十二区画の壁の前は、闇だった。

 

魔導灯が、一つ、また一つと消えていった。

 

消えるたびに、びぃん、と弦の音がした。

 

「灯りを守れ! 射手はどこだ!」

 

煤色の外套の兵士たちが、壁沿いに走り回っていた。長銃を構えて、闇に向かって撃つ。弾は、どこにも当たらなかった。

 

ひゅっ、と風を切る音。

 

兵士の一人の長銃が、手から弾かれて、壁に縫い止められた。矢が、銃身を貫いて、石の目地に深く刺さっていた。

 

隣の兵士の銃も。その隣も。

 

誰も、撃たれてはいなかった。誰の体にも、矢は一本も刺さっていなかった。それなのに、隊列はばらばらにほどけて、立て直せなかった。

 

「どこから撃ってる!」

「分からん! 上か――」

 

びぃん。

 

また一つ、魔導灯が消えた。

 

パラゴンは、路地の角から、それを見ていた。

 

神は、一柱でも、軍を手こずらせる。顔のない兵士たちが、見えない一本の弦に、まるごと振り回されていた。

 

検問ゲートは、開いていた。

 

いや、壊されていた。鉄の扉の蝶番に、矢が三本、正確に打ち込まれて、扉が斜めに傾いていた。

 

数週間前、パラゴンが塩の包みを持って、通してもらえなかったゲートだった。

 

今は、誰もいなかった。

 

「……行くぞ」

 

マキナの手を引いて、パラゴンは、傾いた扉の隙間をくぐった。

 

 

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3

区画の中は、静かだった。

 

外の騒ぎが嘘のように、崩れかけた小屋の並ぶ通りは、ひっそりとしていた。

 

ただ、ときどき、何かが動いた。

 

小屋の戸口から、影が一つ、滑り出る。通りを横切って、路地の暗がりに入る。そして、見えなくなる。

 

足音もなく。どこへ行ったのかも、分からなかった。

 

また一つ。また一つ。

 

出ていくと決めた神々だった。パラゴンの目の前で、次々と、闇に溶けるように消えていった。どの角を曲がったのか、どの戸をくぐったのか、目を凝らしても分からなかった。

 

ノラが言っていた「みち」だった。

 

―――

 

通りの奥から、別の音が聞こえてきた。

 

びぃん。

 

弦の音と、悲鳴。

 

パラゴンは走った。

 

区画の南の壁際の、少し開けた場所に、神々が集められていた。

 

十柱ほど。年老いた神。子どもの姿をした神。小屋の戸口から引きずり出されてきたような、寝間着のままの神。誰も、行くと決めてはいない顔をしていた。

 

その足元の地面に、矢が、一本ずつ突き立っていた。

 

逃げようとした方向に。戻ろうとした方向に。

 

矢が、神々の行き場を、一本ずつ塞いでいた。

 

壁の上に、細い影が立っていた。

 

背が高く、体のどこもかしこも乾いた枝のように細い。黒い髪を、後頭部の一箇所できつく結んでいる。古い、華奢な弓。

 

射手だった。

 

「北へ」

 

短い声だった。

 

「壁を、越えろ」

 

年老いた神が、震える声で言った。

 

「……行きたく、ない。わしは、ここで」

「道は、願う者しか通さない」

 

射手は、言った。

 

「願わないなら、壁を越えさせる」

 

びぃん。

 

老いた神の足元に、また一本、矢が突き立った。

 

 

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4

コテンが、神々の方へ、ぺたぺたと歩いていった。

 

矢の突き立った地面を、気にもせずに。

 

「こっち」

 

眠そうな声だった。

 

「こっち、おいで。……無理に、起きなくていいから」

 

神々が、コテンを見た。

 

寝間着のような衣の、寝癖のついた、記録のどこにもいない神。

 

子どもの姿の神が、最初に動いた。コテンの衣の裾をつかむ。老いた神が、それに続いた。

 

射手の弓が、コテンの方を向いた。

 

そのとき、通りの真ん中に、一会が座っていた。

 

いつの間に、と思う間もなかった。地面に正座して、茶道具の包みを膝の前に置いていた。背筋を伸ばして、静かに一礼する。

 

「どうぞ、お入りください」

 

静かな声だった。

 

「席を、設けました」

 

通りの真ん中に、小さな庵が建っていた。

 

土壁と、低い屋根。膝の高さに、小さな戸が一つ。

 

コテンが、振り返って、神々に言った。

 

「ね。こっち」

 

一柱ずつ、神々は、身をかがめて、その小さな戸をくぐっていった。子どもの姿の神。老いた神。寝間着の神。最後に、コテンが、あくびを一つしてから、這うように入っていった。

 

戸が、ぱたんと閉まった。

 

庵の中から、釜の湯の鳴る音だけが、かすかに聞こえた。

 

―――

 

びぃん。

 

射手の矢が、庵の土壁に向かって飛んだ。

 

壁を貫いた。

 

いや、貫いたように見えた。

 

矢は、土壁の障子窓を破って、庵の中へ吸い込まれていった。

 

そして、何の音もしなかった。

 

何かに刺さる音も。何かを傷つける音も。悲鳴も。

 

射手の指が、弦の上で止まった。

 

庵の中で、一会は、茶筅を持っていなかった。

 

膝の上に、畳んだ紫の布を広げていた。茶道具を清めるための、四角い小さな布。茶を点てるときと同じ手つきで、その布を、ふわりとさばいていた。

 

布の中に、矢が一本、包まれていた。

 

飛んできた勢いのまま、布のひだの中で、音もなく止まっていた。

 

一会は、それを、そっと畳の脇に置いた。何事もなかったように、茶筅を取った。

 

客の神々は、誰も気づいていなかった。コテンが、もう半分眠っていた。

 

―――

 

壁の上で、射手は、弓を下ろさなかった。

 

ただ、庵を見ていた。

 

測ろうとしていた。

 

どこに線を引けばいいのか。あの男は、どこにいるのか。

 

分からなかった。

 

「一点」で射る者が、線を引けない相手に、初めて出会っていた。

 

 

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5

庵と、壁の上の射手とのあいだに、まっすぐな一本の線があった。

 

パラゴンは、その線の上に立った。

 

「マキナ。庵の陰にいろ」

 

マキナは、うなずいて、庵の土壁に背中をつけた。

 

射手の目が、パラゴンに移った。

 

茶屋の土間で、卓を蹴り飛ばして通路を作った目だった。外套の裾と袖を、柱に縫い止めた目。

 

「……傭兵」

 

射手は、壁の上から、音もなく飛び降りた。

 

着地して、弓を構える。

 

「距離――」

 

言いかけて、止まった。

 

パラゴンを、見ていた。

 

測っていた。

 

茶屋の土間では、パラゴンは、殺す気もなく縫い止めればいい相手だった。脚の指一本ぶん外を狙えば、それで足りた。

 

今は、違った。

 

庵を守るように立つこの男を退かさなければ、あの神々は、壁を越えない。

 

射手の呼吸が、浅くなった。

 

まばたきが、止まった。

 

「……十二歩」

 

射手が、呟いた。

 

「一点」

 

弦が、引き絞られた。

 

パラゴンは、剣を抜いた。懐の呪符に、左手の指をかけた。

 

茶屋の土間とは、何もかもが違った。あのとき射手が見ていたのは、外套の裾だった。今、射手が見ているのは、パラゴンという一点だけだった。

 

びぃん。

 

パラゴンは、横へ跳んだ。

 

矢が、さっきまで心臓のあった場所を、まっすぐに抜けていった。

 

 

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6

区画の反対側。

 

北の外れの、崩れかけた小屋の裏に、小さな影が一つ、立っていた。

 

灰色のぼさぼさの髪。猫のように尖った耳。背中に、札を剥がされた木箱を背負っていた。

 

石の箱だった。中には、灰白色の小さな石が、並んでいた。

 

片手には、カケラの石を握っていた。

 

ノラの前に、何もない暗がりがあった。

 

ただの、小屋と小屋のあいだの暗がりだった。けれど、そこだけ、夜の冷たさが少しだけやわらいでいた。

 

誰も、いなかった。案内する者も、見送る者も。

 

ノラは、一人でここまで来た。一人で、ここから行くつもりだった。

 

ノラは、一歩、踏み出しかけた。

 

それから、止まった。

 

振り返った。

 

区画の南の方角。弦の音が鳴っていた。そのあいだに、剣が何かを弾く、硬い音が混じっていた。

 

その手前に、小さな庵の屋根が見えた。

 

ノラは、しばらく、そちらを見ていた。

 

石を握る手に、力がこもった。

 

尖った耳が、南の方角の音を、一つも逃すまいとするように、ぴんと立っていた。

 

(第12話 了)

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