________________________________________
1
びぃん。
パラゴンは、剣で矢を払った。
払ったつもりだった。刃が弾いたのは矢の羽根だけで、矢の本体は、剣の腹をすべって、左の肩をかすめていった。
外套が裂けた。熱いものが、腕を伝った。
射手は、もう次の矢を番えていた。
パラゴンは、腰の銃を抜いて撃った。二発。射手は半身を切っただけで、どちらもかわした。
「銃。右手。癖、一」
射手が呟いた。
びぃん。
パラゴンの右手の甲を、矢がかすめた。銃が、手から弾かれて、石畳を転がった。
呪符を抜く。指で紋をなぞる。風が、射手の足元から吹き上がった。
射手の黒い髪の結び目が、揺れた。それだけだった。
「風、下から。四」
次の矢は、吹き上がる風の中を、まっすぐに抜けてきた。
パラゴンは、横へ跳んだ。跳びきれなかった。
左の腿に、矢が突き立った。
「――っ」
膝が、石畳についた。
茶屋の土間では、射手は外套の裾を縫い止めただけだった。脚の指一本ぶん外を狙って、それで足りた。
今は、違った。
腿から、血が流れていた。本物の血だった。
射手は、弓を下ろさなかった。まばたき一つしなかった。膝をついたパラゴンを、上から、測っていた。
「……傭兵。退け」
短い声だった。
________________________________________
2
パラゴンは、腿の矢を、根元で折った。
歯を食いしばって、立ち上がった。
背中の庵から、釜の湯の鳴る音が、かすかに聞こえていた。中には、行かないと決めた神々がいた。コテンがいた。一会がいた。
退くわけには、いかなかった。
―――
射手の矢は、外れなかった。
外れる矢も、あった。最初の何本かは、パラゴンの脇をすり抜けて、後ろの壁に刺さった。けれど、ある矢からは、一本も外れなくなった。
肩。手の甲。腿。
パラゴンは、荒い息の中で、それを数えていた。
外れた矢と、外れなかった矢。その違いは、何だ。
「距離、十二」
「風、右から。二」
「銃。右手。癖、一」
「風、下から。四」
射手は、射る前に、必ず何かを口にしていた。
口にしたあとの矢は、外れなかった。
茶屋の土間を、思い出した。風の呪符で、二本目の矢が逸れた。射手は呟いた。風、右から。二。そして三本目は、風の中をまっすぐに抜けてきた。
測っていたのだ。
測りきったものには、必ず届く。それが、あの弓だった。
距離も、風も、パラゴンの癖も。一つずつ測られて、測られたものから順に、パラゴンの手の中から消えていった。
なら。
測らせなければいい。
________________________________________
3
パラゴンは、懐から呪符を、ありったけ抜いた。
一枚目の紋をなぞる。風が起きる。二枚目。三枚目。
一枚ずつではなかった。続けざまに、休みなく。右から。左から。上から。足元から。
区画の通りに、風が吹き荒れた。
小屋と小屋のあいだに渡された紐から、干してあった布が、いっせいに舞い上がった。瓦礫の砂埃が、渦を巻いた。崩れかけた小屋の板切れが、からからと音を立てて転がり、宙に跳ねた。
布が、射手とパラゴンのあいだを横切った。砂埃が、それを追いかけた。板切れが、その前を掠めた。
一瞬ごとに、形が変わった。
「風、右から、三……」
射手の声が、途切れた。
「……左。いや、上から……」
測る声が、風に追いつかなかった。
パラゴンは、布の陰から陰へ走った。腿の傷が、一歩ごとに焼けた。
それでも、射手は射ってきた。
測れる数字だけを拾って、風の隙間から、正確に。
びぃん。
右の脇腹を、矢がかすめた。
びぃん。
左の腕に、浅く刺さった。
パラゴンは、転がるようにして、瓦礫の陰に身を伏せた。
血が、石畳に点々と落ちていた。呪符は、あと一枚しか残っていなかった。
―――
風が、弱まり始めていた。
布が、一枚、また一枚と、地面に落ちていく。砂埃が、薄れていく。
射手の目が、瓦礫の陰を見ていた。
パラゴンは、最後の一枚を握りしめて、立ち上がった。
射手と、目が合った。
布の最後の一枚が、二人のあいだを、ゆっくりと落ちていった。
射手の唇が、動いた。
「……一点」
弦が、鳴った。
その瞬間、パラゴンは、最後の呪符の紋を、自分の足元でなぞった。
風が、真下から、パラゴンの体を押した。
手のひら一つぶん。
横へ。
矢は、測ったとおりの一点に届いた。
さっきまでパラゴンの胸があった場所へ。
矢は、パラゴンの左の脇腹を裂いて、背中の向こうへ抜けていった。
胸ではなかった。
射手の目が、見開かれた。
________________________________________
4
パラゴンは、踏み込んだ。
脇腹から、血が溢れていた。腿が、もう言うことをきかなかった。それでも、前に出た。倒れ込むように、一息に間合いを詰めた。
射手が、次の矢を番えた。
速かった。これまでのどの矢よりも。
弦を引き絞って、パラゴンに向けて――
射手の唇が、動いた。
「距離――」
止まった。
パラゴンは、射手の目の前にいた。
弓の、内側に。
矢の先よりも、近くに。
射手の唇が、もう一度動いた。数字が、出てこなかった。
距離が、なかった。線が、引けなかった。一点が、定まらなかった。
剣の切っ先が、射手の喉元で、止まった。
誰も、動かなかった。
射手の呼吸が、浅かった。至近距離で誰かと向き合うことを、何より嫌う神だった。
「……近い」
掠れた声だった。
パラゴンは、剣を引かなかった。突きもしなかった。
「神々は、自分で選ぶ」
息が、続かなかった。一言ずつ、絞り出した。
「出ていく者も、残る者も。……あんたが、決めることじゃない」
射手は、長いあいだ、パラゴンを見ていた。
測っていなかった。ただ、見ていた。
それから、弓を握った指が、ほどけた。
膝が、石畳に落ちた。
________________________________________
5
射手の弓に、何かが巻きついていた。
錆びた鎖だった。
いつから、そこにいたのか分からなかった。射手の隣に、茶色い外套の男が、半分だけ目を開けて立っていた。
十三番だった。
足音は、しなかった。外套の裾が、どこか別の場所の煤で、黒く汚れていた。
「……遅くなりました」
誰に言うでもない、気の抜けた声だった。
「ほかの区画も、ずいぶん騒がしくて」
区画の壁の向こうの、あちこちの方角で、まだ警鐘が鳴っていた。今夜、騒ぎが起きていたのは、ここだけではなかった。
十三番が来たとき、ここでの決着は、もうついていた。
外套の下の、錆びた鎖の奥から、平坦な声が響いた。
『対象、神格を確認』
『神格レベル、判定――レベル2』
射手が、顔を上げた。
十三番を見て、それから、自分の弓に巻きついた鎖を見た。
何も言わなかった。
ただ、ほどけかけていた指に、もう一度、力をこめようとした。
鎖が、弓を巻き込んでいった。弓だけではなかった。弓の中に宿っていたもの。番えて、測って、一点で決める――その神の、神話そのものを。
射手の指から、弓が、するりと抜けていった。
鎖が、弓を完全に巻き込んで、十三番の外套の下へ戻っていった。
「すんません。仕事なんで」
射手は、空になった左手を見下ろしていた。
弦の溝が、骨まで刻まれた指だった。その溝に、もう何も、かからなかった。
―――
軍靴の音が、通りに雪崩れ込んできた。
煤色の外套の兵士たちだった。壁際で銃を縫い止められた隊とは別の、よその区画から回されてきた新しい隊だった。銃口を構えて、庵と、膝をついた射手と、血まみれのパラゴンを、半円に取り囲んだ。
そして、十三番を見て、止まった。
誰も、引き金に指をかけなかった。
兵士たちの後ろから、胸当てに徽章をつけた男が進み出た。指揮官らしかった。
「ダエーワか。……ご苦労」
指揮官は、区画の北の方角を指さした。
「北の外れで、影が消えていくのを見た兵がいる。神が逃げている。追え」
十三番は、そちらを見もしなかった。
「仕事は、あの弓だけなんで」
指揮官の顔が、布の下で強張った。
「これは命令だ」
「ダエーワは、そっちの命令系統じゃないんで」
十三番は、鎖を一本伸ばして、射手の手首にそっと巻きつけた。射手は、抵抗しなかった。
十三番は、射手を連れて歩き出した。
パラゴンの横を、すれ違った。
半分だけ開いた目が、ほんの一瞬、パラゴンの脇腹の血を見た。それから、庵の方を見た。壁を越えずに済んだ神々が、まだその中にいる庵を。
「……今度は、ちゃんと、やったんだ」
それだけだった。
足音も、最後まで聞こえなかった。
________________________________________
6
パラゴンは、北へ歩いた。
走れなかった。腿を引きずって、脇腹を押さえて、崩れかけた小屋の壁に手をつきながら。
区画の北の外れの、小屋と小屋のあいだの暗がりの前に、小さな影が二つ、並んで立っていた。
マキナと、ノラだった。
ノラは、石の箱を背負っていた。行かずに、待っていた。
マキナが、パラゴンに気づいて、振り返った。
「パラゴン!」
ノラも、振り返った。
パラゴンの血まみれの脇腹を見て、尖った耳が、ぴくりと動いた。
「……ち、でてる」
「……ああ。出てる」
ノラは、少しだけ黙っていた。
それから、石の箱の肩紐を、ぎゅっと握り直した。
パラゴンを、まっすぐに見上げた。
「……いってくる」
パラゴンは、うなずいた。
「……ああ。いってこい」
ノラは、マキナの方を向いた。
マキナは、ワンピースの裾を握りしめて、ノラを見ていた。
「いってらっしゃい」
少しだけ、声が震えていた。
「……いも、また、ゆでよう」
ノラは、ふいと顔を背けた。
尖った耳の先が、赤くなっていた。
それから、何も言わずに、暗がりの方へ歩き出した。
一人で。
小さな影は、暗がりに溶けて、見えなくなった。
どの角を曲がったのかも、分からなかった。
―――
南の方角で、庵が、湯気がほどけるように消えていった。
神々が、一柱ずつ、通りに出てきた。行かないと決めた神々が、自分の小屋へ戻っていく。
コテンは、通りの真ん中で、一会の膝を枕にして眠っていた。
東の空が、白み始めていた。
________________________________________
7
管理塔の上層の廊下を、十三番が歩いていった。
外套の下で、錆びた鎖が、何かを巻き込んで揺れていた。古い、華奢な弓の形をしていた。
廊下の突き当たりの窓辺に、二つの影があった。
一人は、窓枠に腰かけて、煙草を吸っていた。拳に、古い傷が走っていた。
もう一人は、窓の外の、白み始めた下層の家並みを見下ろしていた。ワンピースの上に、片側だけの半甲冑。白い髪。
十三番は、二人に目もくれずに、通り過ぎていった。
窓辺の女が、間延びした声で、ぽつりと言った。
「石を戻せる人、かぁ」
楽しげな声だった。
「……そういう話、どこから流れたのかしらぁ」
煙草の女は、何も言わなかった。
窓の外へ、細く煙を吐いただけだった。
―――
塔の別の階の、灯りを落とした一室。
窓辺に、誰かが座っていた。紫の袖と、丸い眼鏡の縁が、夜明け前の薄い光を受けていた。
その人は、膝の上で、片方の手のひらを上に向けていた。まるで、そこを何かが通っていくのを、確かめるように。
一つ。また一つ。
最後に、ひどく小さなものが一つ、通り過ぎていった。背中に重い荷を背負った、小さなものが。
「……今は、腐草為螢(くされたるくさほたるとなる)ですねぇ」
誰に言うでもなく、その人はつぶやいた。
(第13話 了)