銀と琥珀   作:らむさいだー

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第14話 土産話

 

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1

HUB第三支部の扉が、蹴られたような音を立てて開いた。

 

昼下がりだった。依頼書の貼られた壁の前で、若い傭兵たちが振り返った。

 

大きな影が、戸口をふさいでいた。

 

顔の傷。太い腕。背中に担いだ長銃。

 

「……よう」

 

ガルドだった。

 

酒場が、静まり返った。

 

誰かの手から、揚げ芋が床に落ちた。

 

「ガ、ガルドさん!」「戻ったんすか!」「いつ!」

 

「今朝だ。起きたら、施療院の裏の寝台だった」

 

ガルドは、のしのしと床を踏んで、カウンターの端まで歩いていった。

 

指先を、見た。

 

爪の際にも、髪の生え際にも、白い糸は一本も残っていなかった。菌に食われて、関節が傘の向きに固まりかけていた体は、きれいに元の形に戻っていた。

 

カウンターの端の丸椅子の上に、畳んだ手拭いが一枚、置いてあった。

 

ガルドは、それを見下ろした。

 

「……なんだ、こりゃ」

 

カウンターの向こうで、ミレイが眼鏡を押し上げた。

 

「席を、取っておいたんです」

 

いつもの、事務の声だった。けれど、書類を揃える手が、少しだけ止まっていた。

 

「洗濯屋の女将さんから届いた手拭いです。……おかえりなさい、ガルドさん」

 

ガルドは、しばらく手拭いを見ていた。

 

それから、それを拾い上げて、丸椅子に腰を下ろした。

 

「エール」「まだお昼ですよ」

 

ガルドは、壁の時計を見た。

 

「……水だ」

 

ジョッキが置かれた。中身は、水だった。

 

―――

 

パラゴンは、ガルドの隣の席に座った。

 

脇腹が、まだ少し突っ張った。数週間前、あの夜に矢に裂かれた場所だった。肩の傷も、腿の傷も、塞がってはいたが、雨の前の日には疼いた。生きている間の傷は、普通に治すしかない。

 

ガルドは、ジョッキを半分空けて、息を吐いた。

 

「……覚えてるぜ。全部」

 

ぽつりと言った。

 

「南へ、南へってな。足が勝手に向くんだ。湿った方へ、湿った方へ。俺の足なのに、俺の行きたい方には行かねえ」

 

ガルドは、ジョッキの縁を指でなぞった。

 

「頭は、はっきりしてんだよ。はっきりしたまま、足だけが菌のもんになってる。……ありゃあ、二度とごめんだな」

 

笑っていた。

 

けれど、手拭いを握っている方の手に、力が入っていた。

 

パラゴンは、何も言わなかった。

 

ガルドの長銃が、壁に立てかけてあった。あの日、ガルドが「散らす前に、止まっとくわ」と言って、自分に向けた銃だった。

 

「……杖代は、出なかったろ」

 

パラゴンが言うと、ガルドは声を上げて笑った。

 

「出るかよ。おかげで、今月は素寒貧だ」

 

 

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2

「パラゴンさん」

 

ミレイが、カウンターの上に、一枚の依頼書を置いた。

 

紙が、上等だった。隅に、見覚えのある刻印が押されていた。天秤と、鍵を組み合わせたような印。

 

ベル&クレスト魔道工業。

 

「長期の、遠方の依頼です」

 

ミレイは、依頼書を指でなぞりながら読み上げた。

 

「各地で起きている魔道具の事故と、出どころの分からない魔道具の調査。期間は、定めなし。行き先も、調査の進み具合に合わせて、自由に」

 

パラゴンは、依頼書を見下ろした。

 

依頼内容の欄に、細い、几帳面な字で、もう一行書き添えてあった。

 

――首の輪の件と、同じ系統のものを含む。

 

運河の水門で、グレイヴという男が首にはめていた、黒い金属の輪。呪符が一枚も動かなくなった、あの霧。

 

「……窓口は」

 

「現場解析班の、エルニア・リップさんです」

 

ミレイは、眼鏡の奥で、少しだけ目を細めた。

 

「前に、白い異形の件で解析に来てくださった方ですよ。パラゴンさんのことを、名指しで」

 

パラゴンは、黙って依頼書を読み直した。

 

ミレイは、声を落とした。

 

「長期の依頼なので、出発の前に前金が出ます。ルーチェちゃんのお薬代と、しばらくの生活費には足りるはずです」

 

「……それから、旅先の支部でも、依頼を受けてください。報酬は、支部を通して、ここに送られてきます。わたしが帳面につけて、ルーチェちゃんに届けますから」

 

ミレイは、一冊の新しい帳面を、カウンターの下から取り出した。

 

表紙には、まだ何も書いていなかった。

 

「支部の名前が、ここに一つずつ増えていくんですね」

 

少しだけ、嬉しそうな声だった。

 

パラゴンは、帳面を見て、それからミレイを見た。

 

「……出張、ってことか」

 

「表向きは、そうです」

 

ミレイは、にっこりと笑った。

 

「でも、報酬は本物ですよ」

 

―――

 

ミレイが、ペンを取った。

 

依頼書の下の方に、小さな欄があった。

 

――同行者。

 

ミレイのペン先が、その欄の上で止まった。

 

「……パラゴンさん。覚えてます? 最初の日」

 

「最初?」

 

「箱から、あの子が出てきた日です。この酒場の、隅のテーブルで」

 

パラゴンは、少し考えた。

 

騒がしかったことは覚えていた。胸元にしがみついて離れなかった、細い腕のことも。自分が何を言ったのかは、はっきりとは覚えていなかった。

 

「パラゴンさん、言ったんですよ。『身元が分かるまで、だからな』って」

 

ミレイは、くすりと笑った。

 

「……分かりませんでしたね。結局」

 

パラゴンは、答えなかった。

 

ミレイは、ペン先をインクに浸し直した。

 

それから、ゆっくりと、一文字ずつ書いた。

 

――マキナ。

 

インクが、紙に染みていった。

 

ミレイは、書いた名前を、しばらく見ていた。

 

「ベル&クレストから、随行員の業務渡航証も出ています。検問でも、陸運の乗り場でも、これで通れるはずです」

 

ミレイは、厚紙の札を一枚、依頼書の上に重ねた。企業の刻印と、番号と、「随行員」の三文字。名前の欄には、同じ名前が、今度は刷った字で入っていた。

 

住民登録はなかった。生まれも、年も、どこにも書いていなかった。

 

それでも、札は札だった。

 

「会社っていうのは、記録よりも、仕事が先なんです」

 

ミレイは、少しだけ肩をすくめた。

 

「……今回は、それが、助かりましたね」

 

隣で、ガルドが、ジョッキを置いた。

 

「おい、パラゴン。行くのか」

 

「……ああ」

 

「そうか」

 

ガルドは、それだけ言って、また水を飲んだ。

 

しばらくして、ガルドはぼそりと付け足した。

 

「土産話、俺にも聞かせろよ。……嬢ちゃんの話は、お前の話よりおもしれえからな」

 

 

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3

支給品は、木箱に入って、その日の夕方に家に届いた。

 

木箱の蓋を開けると、藁の中に、二つのものが入っていた。

 

一つは、手のひらに収まるほどの、黒い通信機。

 

もう一つは、真鍮の枠のランタンだった。

 

ガラスの火屋の内側に、薄い膜が張ってあった。明かりにかざすと、膜は、石鹸の泡のように、うっすらと虹色に光った。側面に、小さな手回しのぜんまい。根元に、弁のつまみ。つまみの横に、丸い硝子の窓があって、中で細い針が一本、目盛りの一番下に寝ていた。

 

台座に、刻印と、試作品の番号が打ってあった。

 

「……ランタン?」

 

寝台の上で、ルーチェが首を伸ばした。

 

「わぁい、新品だ!」

 

かまどの前から、一会が飛んできた。

 

長椅子で寝ていたコテンが、片目だけ開けた。

 

「ぴかぴか、してるね」

 

マキナは、木箱のへりに両手をかけて、硝子の窓を覗き込んでいた。

 

「はり、ねてる」

 

木箱の底に、説明書きが一枚、入っていた。細い、几帳面な字だった。

 

――全環境対応型魔導灯。量産前の試作品。ぜんまいを巻いて、周りの魔素を灯の中へ取り込むこと。魔素結晶を入れる口もあるが、なるべく使わずに運用し、記録を取ること。

 

パラゴンは、ランタンを持ち上げた。

 

見た目よりも、ずしりと重かった。

 

「……ぜんまい、ね」

 

ぜんまいのつまみを、つまんで回した。

 

きりきり、と音がした。

 

途中で、指が滑った。つまみが、ばね仕掛けのように逆に戻って、ぎゅるる、と間抜けな音を立てた。

 

一会が、吹き出した。

 

「下手だ!」

 

「……うるさい」

 

もう一度、巻いた。今度は、つまみを押さえる指に力を入れすぎて、ぜんまいがぎしりと鳴った。

 

「お兄ちゃん、力、入れすぎ」「入れなきゃ回らないだろ」「そういうのは、ゆっくりだよ」

 

ルーチェが、寝台の上から、手首だけで回す仕草をしてみせた。

 

「……茶筅と、おなじ」

 

マキナが、ぽつりと言った。

 

一会が、うんうんとうなずいた。

 

「手首だけ! しゃかしゃかしゃか!」

 

「茶を点てるんじゃないんだぞ」

 

パラゴンは、息を一つ吐いた。

 

それから、手首だけで、ゆっくりと巻いた。

 

きり、きり、きり。

 

硝子の窓の中で、針が、ほんの少しだけ持ち上がった。

 

「……うごいた」

 

マキナが、硝子に鼻をくっつけるようにして、針を見ていた。

 

きり、きり、きり。

 

針が、また少しだけ持ち上がる。

 

マキナは、まばたきもしなかった。

 

パラゴンがぜんまいを巻き終えるまで、マキナは、そこから一度も目を離さなかった。

 

―――

 

木箱の中で、黒い通信機が、ぶるっと震えた。

 

全員が、そちらを見た。

 

通信機の小さな格子から、ざ、ざ、と雑音がした。それから、雑音の向こうで、平坦な女の声がした。

 

『――聞こえてる?』

 

パラゴンは、通信機を拾い上げた。

 

「……聞こえてる」

 

『なら、いい』

 

少しだけ、間があった。

 

『ベル&クレスト魔道工業、現場解析班。エルニア・リップ』

 

白い異形の出た現場で、同じ名乗り方を聞いた覚えがあった。解析に来た、とだけ言って、それきり道具の話しかしなかった女。

 

「……名指しだって聞いた」

 

『そう。首の輪の件で、あなたの名前が報告書に載ってた。呪符を封じられて、それでも最後に荷船の綱を切った人』

 

声は、褒めているのか、ただ事実を読み上げているのか、分からなかった。

 

『魔導灯、届いた?』

 

「今、ぜんまいを巻いたところだ」

 

『針は、どこまで上がった?』

 

「……三分の一」

 

『そう。最初は、みんなそのくらい。ぜんまいに慣れてないと、途中で指が滑る』

 

パラゴンは、黙った。

 

後ろで、一会が、また吹き出していた。

 

『火屋の内側に、虹色の膜があるでしょ』

 

パラゴンは、ランタンを明かりにかざした。石鹸の泡のような、薄い膜。

 

『魔素は、濃い方から薄い方へしか流れない。呪符も魔導灯も、全部その流れで動いてる。……あの膜は、魔素だけを、外から中へ、片側にだけ通す膜』

 

「片側にだけ?」

 

『空気も、湯気も、埃も通さない。魔素だけ。それも、入る向きにだけ。ぜんまいを巻くと、灯の中の圧が下がって、膜の向こうから魔素だけを吸い込む。濃さの差じゃなくて、圧で引くから、周りが薄くても、灯の中は濃くしていける。出ていく向きには通さないから、周りがどうなっても、灯の中は吸い込んだ濃さのまま。使うときは、弁から出す』

 

エルニアの声は、淡々としていた。

 

『量産前の試作。膜の技術自体は、いずれどこにでも使われるようになる。灯りは、その最初の一つにすぎない』

 

『だから、使って。壊してもいい。どう壊れたかを、報告して。現場での試験運用の記録も、依頼のうち』

 

「……灯りの試験で、傭兵を雇うのか」

 

『灯りの試験じゃない』

 

一拍、置いた。

 

『魔素を封じられた場所で、その灯の中にだけは、濃度の差が残る。……あとは、使う人の考えること』

 

パラゴンは、手の中のランタンを見下ろした。

 

硝子の窓の中で、針が、目盛りの三分の一ほどのところで止まっていた。

 

ぜんまいで吸い込んだ、周りとは違う濃さの魔素。

 

運河の水門を包んだ、止まった霧を思い出した。あの霧の中では、呪符が一枚も動かなかった。紙が、周りの魔素を吸わなかった。

 

詠唱で魔法を起こせる者なら、体の中の魔素で流れを作れる。パラゴンには、それができない。だから呪符を使う。封じられれば、それで終わりだった。

 

その封じられた場所に、この灯なら、濃さの違う魔素を持ち込める。

 

『報告は、この通信機で。週に一度でいい。それじゃ』

 

雑音が、ぷつりと切れた。

 

 

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4

出発の二日前の晩、戸口が叩かれた。

 

どん、どん、と重い拳の音だった。

 

一瞬、部屋の空気が固まった。巡回の兵が戸を叩いた夜の音と、よく似ていた。

 

「おう、傭兵。開けろ」

 

聞き慣れた、豪快な声だった。

 

パラゴンが戸を開けると、朝霧が立っていた。その後ろに、ガルドがいた。二人とも、両手に酒瓶と包みを提げていた。

 

「なんだ、その顔は。取って食いやしねえよ」

 

朝霧は、ずかずかと上がり込んだ。

 

制服ではなかった。作戦の夜、この戸口の柱にもたれて朝まで立っていたときと同じ、古い外套だった。

 

「母上、お客さんだよ!」

 

一会が、嬉しそうに言った。

 

ルーチェは、寝台の上で、くすくす笑っていた。

 

―――

 

狭い部屋に、七人がひしめいていた。一人は、長椅子で寝ていた。

 

卓の上に、朝霧の持ってきた焼き鳥の包みが広げられた。

 

一会が、目を丸くした。

 

「親鳥!」

 

「あるだけ買ってきた」

 

「わぁい! うままま!」

 

一会は、串を両手に一本ずつ持って、幸せそうに頬張った。

 

ガルドは、鍋の前に陣取っていた。

 

「ガルドさん、お料理は――」

 

ルーチェが言いかけた。

 

「スープくらい作れる」

 

ガルドは、根菜を刻んで、豆と一緒に鍋に放り込んだ。

 

しばらくして、鍋の底から、焦げたにおいがしてきた。

 

「……なんでだ」

 

「火が強いんだよ、ガルドさん」

 

ルーチェが、寝台の上から言った。

 

ガルドは、焦げた鍋を見下ろして、心底不思議そうな顔をしていた。

 

―――

 

焼き鳥がなくなりかけたころ、朝霧が、杯を置いた。

 

「傭兵」

 

いつもの声だった。けれど、少しだけ低かった。

 

「嬢ちゃんのことは、俺は何も聞いてねえ。何も知らねえ。前にも言ったな」

 

「……ああ」

 

「長椅子のあの昼寝の神も、見たことがねえ」

 

朝霧は、長椅子の方を見ないまま言った。

 

「だから、この家には、病気の妹が一人で住んでる。……一人で住んでる家に、非番のセイフガードが、たまに様子を見に来る。それだけの話だ」

 

ガルドが、焦げたスープの椀を置いた。

 

「俺も、来るぞ」

 

「ガルドさんも?」

 

「支部から近えんだ。暇なときに、顔出すだけだ」

 

ガルドは、そっぽを向いた。

 

「……薬代が足りねえ月があったら、言え。言わなくても、分かったら、置いてく」

 

「ガルド、それは――」

 

パラゴンが言いかけると、ガルドは手をひらひらと振った。

 

「礼なんざ言うなよ。言ったら、置いていかねえからな」

 

パラゴンは、口をつぐんだ。

 

少しして、頭を下げた。

 

何も言わずに、ただ、深く。

 

ガルドは、見ないふりをして、焦げたスープをすすった。

 

「……薄い。塩が足りねえ。焦げてる」

 

「ガルドさんが作ったんでしょ」

 

「……うまくはねえな」

 

ルーチェが、声を上げて笑った。

 

―――

 

「で、どっちへ行くんだ」

 

朝霧が、最後の串に手を伸ばしながら訊いた。

 

「東だ。昴(すばる)」

 

「昴? また、ずいぶん遠くだな」

 

「僕が決めたの!」

 

一会が、焼き鳥の串を振り回した。

 

依頼書の行き先の欄は、空いていた。調査の進み具合に合わせて、自由に。どこへでも行けるということは、最初にどこへ行くかを、自分で決めなければならないということだった。

 

地図を広げた晩、一会は迷わず、東の端を指さした。

 

――一番遠いからね。

 

そのときも、串を振り回しながら言っていた。

 

パラゴンは、笑わなかった。

 

一番遠い。この街から。管理塔から。塔の上にいる者たちの目から。

 

一会がそれを分かって指さしたのかどうかは、分からなかった。

 

「それに、僕がお茶を覚えた街だから。案内できるよ! 迷子にならない!」

 

朝霧は、一会を見た。

 

「……あんたも行くのか。茶屋は」

 

「壊れちゃったもん」

 

一会は、けろりと言った。

 

「直すお金もないし。いつまでも居候じゃ、母上に悪いし。……それに」

 

一会は、串を皿に置いた。

 

「僕も、ちょっと、見られちゃったからね」

 

小さな声だった。

 

パラゴンは、長屋の路地の夜を思い出した。一会の茶室で茶を飲み干した十三番が、去り際に言ったこと。

 

――でも、報告は、します。規則ですので。

 

報告されたのは、マキナのことだけではなかった。十三番が「雷帝」と呼んだ、この茶人のことも。

 

一会は、すぐにいつもの顔に戻った。

 

「だから、みんなで遠足!」

 

「遠足じゃない」

 

―――

 

一会は、部屋の隅で、茶道具を布に包んでいた。

 

茶碗。茶筅。竹の匙。畳んだ白い布と、紫の布。

 

一つずつ、丁寧に包んでいく。

 

「昴って、どんなところ?」

 

ルーチェが訊くと、一会は、手を止めずに少し考えた。

 

「お茶と、焼き鳥がうまい」

 

「それだけ?」

 

「うーん。それと、湯気がいっぱい出てる。街のあっちこっちから」

 

一会は、包み終えた茶碗を、胸の前でそっと抱えた。

 

「……僕にね、お茶を教えてくれた人の、お孫さんがいるんだ。今も、小さな茶屋をやってるはず」

 

いつもの、ゆるい声だった。

 

けれど、茶碗を抱える手つきだけは、茶を点てるときと同じように、静かだった。

 

 

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5

出発の前の晩は、静かだった。

 

一会は、かまどの前で毛布にくるまって、とっくに寝息を立てていた。コテンは、いつものように長椅子で丸くなっていた。

 

窓辺の寝台で、ルーチェがマキナの髪を梳いていた。

 

銀色の長い髪に、ゆっくりと櫛を通す。一回。もう一回。

 

「旅の髪型にしよっか」

 

「たびの?」

 

「ほどけないように、きつめに編むの。それで、くるっと上にまとめて」

 

ルーチェの指が、髪をすくって、三つに分けた。

 

編んでいく。

 

マキナは、じっとしていた。

 

「……ルーチェ」

 

「なあに」

 

「いっぱい、はなす」

 

マキナは、前を向いたまま言った。

 

「とおくの、こと。ぜんぶ。……かえってきたら、ぜんぶ、はなす」

 

ルーチェの指が、少しだけ止まった。

 

それから、また動き出した。

 

「うん。待ってる」

 

三つ編みの先に、青いリボンを結んだ。

 

「はい、できた」

 

マキナは、頭に手をやって、編み目をそっと触った。

 

「……かたい」

 

「ほどけないように、だよ」

 

マキナは、しばらく編み目を触っていた。

 

やがて、ルーチェの寝台の足元で、丸くなって眠った。

 

―――

 

パラゴンは、戸口の柱にもたれて、部屋を見ていた。

 

眠っている一会。眠っているコテン。眠っているマキナ。

 

窓の外は、夏の夜だった。軍靴の音は、もう聞こえなかった。区画の締めつけは続いていたが、夜間の外出禁止は、数日前に解けていた。

 

――神か。

 

十三番の半眼が、マキナを見た。鎖が一本も外れないまま、『判定、不能』という平坦な声が響いた。

 

――上は、あの銀色の娘に興味があるらしいがな。

 

運河の水門で組み伏せたグレイヴが、首の輪を外される前に吐いた言葉だった。

 

マキナを見ている者がいる。

 

ダエーワも。樹も。

 

この家にいれば、いつか、その目はルーチェに届く。

 

だから、離れる。

 

それは、誰にも言わなかった。ミレイにも、朝霧にも、ガルドにも。

 

「……お兄ちゃん」

 

寝台の上から、ルーチェの声がした。

 

起きていた。

 

パラゴンは、寝台のそばまで行って、椅子に腰を下ろした。

 

「……寝てろ。熱が出るぞ」

 

「出ないよ。今日は、調子いいの」

 

ルーチェは、毛布を肩に掛け直した。

 

それから、足元で丸くなっているマキナの寝顔を見た。

 

「お兄ちゃんさ」

 

「ん」

 

「遠くに行くの、初めてだね」

 

パラゴンは、答えなかった。

 

西の都市に行ったことはあった。企業の機動部隊で、戦場に出たこともあった。

 

けれど、どれも仕事だった。薬代のための、金のための仕事だった。

 

「わたしのために、ずっと働いてくれたでしょ」

 

ルーチェは、静かに言った。

 

「薬代も、この家も。……お兄ちゃんが、どこかへ行くのは、いつも、わたしのためだった」

 

「……そんなんじゃない」

 

「そんなんだよ」

 

ルーチェは、少しだけ笑った。

 

「だからね」

 

寝台の上から、細い手が伸びてきた。

 

パラゴンの手の甲に、そっと重なった。

 

「お兄ちゃんも、たまには自分のために遠くへ行って」

 

パラゴンは、その手を見下ろした。

 

骨の浮いた、白い、細い手だった。

 

死んで戻ったとしても、この手は、このままのはずだった。

 

「……俺のためじゃ、ない」

 

言いかけて、パラゴンは口をつぐんだ。

 

本当の理由は、言えなかった。

 

言えば、この手は、きっと「行かないで」とは言わない。「わたしのことは、いいから」と言う。

 

ルーチェは、パラゴンの顔を見ていた。

 

何かを分かっているような目だった。分かっていて、何も訊かない目だった。

 

「……じゃあ、半分でいいよ」

 

ルーチェは言った。

 

「半分は、わたしのため。半分は、お兄ちゃんのため。……それなら、いいでしょ」

 

パラゴンは、しばらく黙っていた。

 

それから、重なった手を、そっと握り返した。

 

「……ああ」

 

 

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6

朝は、晴れていた。

 

戸口の前に、荷物が並んだ。

 

パラゴンの背嚢と剣と銃。腰に吊るした、真鍮のランタン。胸の隠しに、黒い通信機と、厚紙の渡航証。

 

一会の荷物は、茶道具の包みと、小さな風呂敷が一つだけだった。

 

「それだけか」

 

「それだけ! 軍師は身軽なのだ!」

 

マキナは、ワンピースの上に、ルーチェが繕ってくれた薄手の外套を羽織っていた。頭の上で、きつく編んだ三つ編みが、青いリボンと一緒にまとめてあった。

 

長椅子の上で、コテンが、毛布から顔を出した。

 

「……いってらっしゃい」

 

眠そうな声だった。

 

「ルーチェのこと、頼む」

 

パラゴンが言うと、コテンは、ゆっくりとまばたきをした。

 

「僕、寝てるだけだよ」

 

「それでいい」

 

コテンは、少し考えるような顔をした。

 

それから、ふわあ、と小さくあくびをした。

 

「……うん。寝てる」

 

―――

 

ルーチェは、寝台から降りて、戸口まで出てきた。

 

壁に手をついて、一歩ずつ。パラゴンが手を貸そうとすると、首を横に振った。

 

「今日は、自分で見送るの」

 

戸口の柱に、背中を預けた。作戦の夜、朝霧が背を預けていた柱だった。

 

マキナが、ルーチェの前に立った。

 

何か言おうとして、口を開いて、閉じた。

 

もう一度、開いた。

 

「……ルーチェ」

 

「うん」

 

「……いって、くる」

 

ルーチェは、マキナの頭に手を伸ばした。

 

編み目が崩れないように、そっと撫でた。

 

それから、パラゴンを見た。一会を見た。もう一度、マキナを見た。

 

「いってらっしゃい」

 

笑っていた。

 

「お土産話、いっぱいね」

 

―――

 

路地の角で、マキナは一度だけ振り返った。

 

戸口の柱のところに、ルーチェが立っていた。細い手を、大きく振っていた。

 

マキナも、大きく振り返した。

 

角を曲がると、見えなくなった。

 

マキナは、しばらく前を向いたまま歩いた。

 

パラゴンの袖を、ぎゅっと握っていた。

 

パラゴンは、何も言わなかった。握られた袖を、振りほどかなかった。

 

―――

 

メリディアン陸運の乗り場は、中央都市の東の門のそばにあった。

 

都市と都市のあいだに、魔導列車と隊商を走らせている会社だった。線路の尽きる先は荷馬車に乗り継ぎ、どの都市の門の前にも、同じ青い看板の乗り場がある。遠くへ行く者は、たいてい一度はここの切符を買う。

 

東へ向かう魔導列車が、白い蒸気のような魔素の霧を吐いて、長い車体を横たえていた。荷を積む人夫の声。発車を告げる鐘。売り子が、揚げ芋と冷えた麦茶を売り歩いていた。

 

乗り場の手前に、検問があった。

 

煤色の外套が、二人。黒い胸当て。顔の下半分を覆う、灰色の布。

 

区画の締めつけは、まだ終わっていなかった。都市を出入りする者の顔を、兵士たちは一人ずつ確かめていた。

 

パラゴンの番が来た。

 

傭兵証を見せる。兵士は、帳面と見比べて、うなずいた。

 

一会が、住民登録の札を見せる。

 

「茶屋。……旅行か」

 

「うん! お茶の修業の旅!」

 

兵士は、何も言わずに札を返した。

 

それから、マキナの番になった。

 

兵士の目が、マキナに落ちた。

 

銀色の髪。薄い色の瞳。

 

パラゴンの指先が、ほんのわずかに、剣帯に寄った。

 

マキナが、胸の前で、厚紙の札を両手で差し出した。

 

兵士は、札を受け取った。

 

企業の刻印。番号。「随行員」の三文字。

 

兵士は、札をひっくり返した。裏の、ベル&クレストの印を見た。それから、手元の帳面を、指でなぞった。

 

「……ベル&クレスト魔道工業。業務渡航。随行員、一名」

 

平坦な声だった。

 

兵士は、札を返した。

 

「通れ」

 

それだけだった。

 

誰も、マキナの額を見なかった。誰も、住民登録を訊かなかった。企業の印の押された札が一枚あれば、それで足りた。

 

マキナは、札を胸に抱えて、パラゴンを見上げた。

 

「……とおれた」

 

「ああ」

 

パラゴンは、息を一つ吐いた。

 

―――

 

列車の窓は、開いていた。

 

座席に座ると、マキナは、すぐに窓に張りついた。

 

鐘が鳴った。

 

がたん、と車体が揺れた。

 

乗り場が、ゆっくりと後ろへ流れ始めた。

 

東の門をくぐる。門の外に、夏の野が広がっていた。遠くに、管理塔の細い影が、空に一本、突き立って見えた。

 

マキナは、それをじっと見ていた。

 

塔がだんだん小さくなって、野の向こうに見えなくなるまで。

 

「……ノラも、こうやって、いった?」

 

「列車には、乗ってないだろうな」

 

「……あるいて?」

 

「たぶんな」

 

マキナは、窓の外を見ていた。

 

北の方角の空は、うっすらと霞んでいた。

 

「……ノラ、しお、たりてる?」

 

「分からん」

 

「いも、ゆでてる?」

 

「……分からん」

 

同じやり取りを、前にもしたことがあった。

 

あのときは、答えが分からないことが、ただ苦しかった。

 

今は、少しだけ違った。

 

マキナは、窓枠に顎を乗せた。

 

「……こんど、あったら、きく」

 

「ああ」

 

向かいの席で、一会が、弁当の包みをほどいていた。

 

「わぁい、焼き鳥弁当! パラゴン、見て、親鳥だよ!」

 

「朝飯、さっき食っただろ」

 

「列車の弁当は、別腹!」

 

パラゴンは、窓の外に目をやった。

 

腰のランタンが、列車の揺れに合わせて、かすかに鳴っていた。

 

硝子の窓の中で、細い針が、ぜんまいで吸い込んだぶんだけ、持ち上がったまま止まっていた。

 

―――

 

マキナが、ふと、窓から顔を離した。

 

パラゴンの方を向いた。

 

「パラゴン」

 

「ん」

 

「おみやげばなし、いっぱい、つくろうね」

 

パラゴンは、少しだけ考えた。

 

それから、窓の外の、どこまでも続く夏の野を見た。

 

薬代のためでも、金のためでもない、遠くへ行くための道だった。

 

半分は、ルーチェのため。

 

半分は――

 

「……ああ」

 

マキナが、ふにゃりと笑った。

 

列車は、東へ走っていった。

 

(第14話 了)

 

(第2章 機械仕掛けの神 了)

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