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1
HUB第三支部の扉が、蹴られたような音を立てて開いた。
昼下がりだった。依頼書の貼られた壁の前で、若い傭兵たちが振り返った。
大きな影が、戸口をふさいでいた。
顔の傷。太い腕。背中に担いだ長銃。
「……よう」
ガルドだった。
酒場が、静まり返った。
誰かの手から、揚げ芋が床に落ちた。
「ガ、ガルドさん!」「戻ったんすか!」「いつ!」
「今朝だ。起きたら、施療院の裏の寝台だった」
ガルドは、のしのしと床を踏んで、カウンターの端まで歩いていった。
指先を、見た。
爪の際にも、髪の生え際にも、白い糸は一本も残っていなかった。菌に食われて、関節が傘の向きに固まりかけていた体は、きれいに元の形に戻っていた。
カウンターの端の丸椅子の上に、畳んだ手拭いが一枚、置いてあった。
ガルドは、それを見下ろした。
「……なんだ、こりゃ」
カウンターの向こうで、ミレイが眼鏡を押し上げた。
「席を、取っておいたんです」
いつもの、事務の声だった。けれど、書類を揃える手が、少しだけ止まっていた。
「洗濯屋の女将さんから届いた手拭いです。……おかえりなさい、ガルドさん」
ガルドは、しばらく手拭いを見ていた。
それから、それを拾い上げて、丸椅子に腰を下ろした。
「エール」「まだお昼ですよ」
ガルドは、壁の時計を見た。
「……水だ」
ジョッキが置かれた。中身は、水だった。
―――
パラゴンは、ガルドの隣の席に座った。
脇腹が、まだ少し突っ張った。数週間前、あの夜に矢に裂かれた場所だった。肩の傷も、腿の傷も、塞がってはいたが、雨の前の日には疼いた。生きている間の傷は、普通に治すしかない。
ガルドは、ジョッキを半分空けて、息を吐いた。
「……覚えてるぜ。全部」
ぽつりと言った。
「南へ、南へってな。足が勝手に向くんだ。湿った方へ、湿った方へ。俺の足なのに、俺の行きたい方には行かねえ」
ガルドは、ジョッキの縁を指でなぞった。
「頭は、はっきりしてんだよ。はっきりしたまま、足だけが菌のもんになってる。……ありゃあ、二度とごめんだな」
笑っていた。
けれど、手拭いを握っている方の手に、力が入っていた。
パラゴンは、何も言わなかった。
ガルドの長銃が、壁に立てかけてあった。あの日、ガルドが「散らす前に、止まっとくわ」と言って、自分に向けた銃だった。
「……杖代は、出なかったろ」
パラゴンが言うと、ガルドは声を上げて笑った。
「出るかよ。おかげで、今月は素寒貧だ」
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2
「パラゴンさん」
ミレイが、カウンターの上に、一枚の依頼書を置いた。
紙が、上等だった。隅に、見覚えのある刻印が押されていた。天秤と、鍵を組み合わせたような印。
ベル&クレスト魔道工業。
「長期の、遠方の依頼です」
ミレイは、依頼書を指でなぞりながら読み上げた。
「各地で起きている魔道具の事故と、出どころの分からない魔道具の調査。期間は、定めなし。行き先も、調査の進み具合に合わせて、自由に」
パラゴンは、依頼書を見下ろした。
依頼内容の欄に、細い、几帳面な字で、もう一行書き添えてあった。
――首の輪の件と、同じ系統のものを含む。
運河の水門で、グレイヴという男が首にはめていた、黒い金属の輪。呪符が一枚も動かなくなった、あの霧。
「……窓口は」
「現場解析班の、エルニア・リップさんです」
ミレイは、眼鏡の奥で、少しだけ目を細めた。
「前に、白い異形の件で解析に来てくださった方ですよ。パラゴンさんのことを、名指しで」
パラゴンは、黙って依頼書を読み直した。
ミレイは、声を落とした。
「長期の依頼なので、出発の前に前金が出ます。ルーチェちゃんのお薬代と、しばらくの生活費には足りるはずです」
「……それから、旅先の支部でも、依頼を受けてください。報酬は、支部を通して、ここに送られてきます。わたしが帳面につけて、ルーチェちゃんに届けますから」
ミレイは、一冊の新しい帳面を、カウンターの下から取り出した。
表紙には、まだ何も書いていなかった。
「支部の名前が、ここに一つずつ増えていくんですね」
少しだけ、嬉しそうな声だった。
パラゴンは、帳面を見て、それからミレイを見た。
「……出張、ってことか」
「表向きは、そうです」
ミレイは、にっこりと笑った。
「でも、報酬は本物ですよ」
―――
ミレイが、ペンを取った。
依頼書の下の方に、小さな欄があった。
――同行者。
ミレイのペン先が、その欄の上で止まった。
「……パラゴンさん。覚えてます? 最初の日」
「最初?」
「箱から、あの子が出てきた日です。この酒場の、隅のテーブルで」
パラゴンは、少し考えた。
騒がしかったことは覚えていた。胸元にしがみついて離れなかった、細い腕のことも。自分が何を言ったのかは、はっきりとは覚えていなかった。
「パラゴンさん、言ったんですよ。『身元が分かるまで、だからな』って」
ミレイは、くすりと笑った。
「……分かりませんでしたね。結局」
パラゴンは、答えなかった。
ミレイは、ペン先をインクに浸し直した。
それから、ゆっくりと、一文字ずつ書いた。
――マキナ。
インクが、紙に染みていった。
ミレイは、書いた名前を、しばらく見ていた。
「ベル&クレストから、随行員の業務渡航証も出ています。検問でも、陸運の乗り場でも、これで通れるはずです」
ミレイは、厚紙の札を一枚、依頼書の上に重ねた。企業の刻印と、番号と、「随行員」の三文字。名前の欄には、同じ名前が、今度は刷った字で入っていた。
住民登録はなかった。生まれも、年も、どこにも書いていなかった。
それでも、札は札だった。
「会社っていうのは、記録よりも、仕事が先なんです」
ミレイは、少しだけ肩をすくめた。
「……今回は、それが、助かりましたね」
隣で、ガルドが、ジョッキを置いた。
「おい、パラゴン。行くのか」
「……ああ」
「そうか」
ガルドは、それだけ言って、また水を飲んだ。
しばらくして、ガルドはぼそりと付け足した。
「土産話、俺にも聞かせろよ。……嬢ちゃんの話は、お前の話よりおもしれえからな」
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3
支給品は、木箱に入って、その日の夕方に家に届いた。
木箱の蓋を開けると、藁の中に、二つのものが入っていた。
一つは、手のひらに収まるほどの、黒い通信機。
もう一つは、真鍮の枠のランタンだった。
ガラスの火屋の内側に、薄い膜が張ってあった。明かりにかざすと、膜は、石鹸の泡のように、うっすらと虹色に光った。側面に、小さな手回しのぜんまい。根元に、弁のつまみ。つまみの横に、丸い硝子の窓があって、中で細い針が一本、目盛りの一番下に寝ていた。
台座に、刻印と、試作品の番号が打ってあった。
「……ランタン?」
寝台の上で、ルーチェが首を伸ばした。
「わぁい、新品だ!」
かまどの前から、一会が飛んできた。
長椅子で寝ていたコテンが、片目だけ開けた。
「ぴかぴか、してるね」
マキナは、木箱のへりに両手をかけて、硝子の窓を覗き込んでいた。
「はり、ねてる」
木箱の底に、説明書きが一枚、入っていた。細い、几帳面な字だった。
――全環境対応型魔導灯。量産前の試作品。ぜんまいを巻いて、周りの魔素を灯の中へ取り込むこと。魔素結晶を入れる口もあるが、なるべく使わずに運用し、記録を取ること。
パラゴンは、ランタンを持ち上げた。
見た目よりも、ずしりと重かった。
「……ぜんまい、ね」
ぜんまいのつまみを、つまんで回した。
きりきり、と音がした。
途中で、指が滑った。つまみが、ばね仕掛けのように逆に戻って、ぎゅるる、と間抜けな音を立てた。
一会が、吹き出した。
「下手だ!」
「……うるさい」
もう一度、巻いた。今度は、つまみを押さえる指に力を入れすぎて、ぜんまいがぎしりと鳴った。
「お兄ちゃん、力、入れすぎ」「入れなきゃ回らないだろ」「そういうのは、ゆっくりだよ」
ルーチェが、寝台の上から、手首だけで回す仕草をしてみせた。
「……茶筅と、おなじ」
マキナが、ぽつりと言った。
一会が、うんうんとうなずいた。
「手首だけ! しゃかしゃかしゃか!」
「茶を点てるんじゃないんだぞ」
パラゴンは、息を一つ吐いた。
それから、手首だけで、ゆっくりと巻いた。
きり、きり、きり。
硝子の窓の中で、針が、ほんの少しだけ持ち上がった。
「……うごいた」
マキナが、硝子に鼻をくっつけるようにして、針を見ていた。
きり、きり、きり。
針が、また少しだけ持ち上がる。
マキナは、まばたきもしなかった。
パラゴンがぜんまいを巻き終えるまで、マキナは、そこから一度も目を離さなかった。
―――
木箱の中で、黒い通信機が、ぶるっと震えた。
全員が、そちらを見た。
通信機の小さな格子から、ざ、ざ、と雑音がした。それから、雑音の向こうで、平坦な女の声がした。
『――聞こえてる?』
パラゴンは、通信機を拾い上げた。
「……聞こえてる」
『なら、いい』
少しだけ、間があった。
『ベル&クレスト魔道工業、現場解析班。エルニア・リップ』
白い異形の出た現場で、同じ名乗り方を聞いた覚えがあった。解析に来た、とだけ言って、それきり道具の話しかしなかった女。
「……名指しだって聞いた」
『そう。首の輪の件で、あなたの名前が報告書に載ってた。呪符を封じられて、それでも最後に荷船の綱を切った人』
声は、褒めているのか、ただ事実を読み上げているのか、分からなかった。
『魔導灯、届いた?』
「今、ぜんまいを巻いたところだ」
『針は、どこまで上がった?』
「……三分の一」
『そう。最初は、みんなそのくらい。ぜんまいに慣れてないと、途中で指が滑る』
パラゴンは、黙った。
後ろで、一会が、また吹き出していた。
『火屋の内側に、虹色の膜があるでしょ』
パラゴンは、ランタンを明かりにかざした。石鹸の泡のような、薄い膜。
『魔素は、濃い方から薄い方へしか流れない。呪符も魔導灯も、全部その流れで動いてる。……あの膜は、魔素だけを、外から中へ、片側にだけ通す膜』
「片側にだけ?」
『空気も、湯気も、埃も通さない。魔素だけ。それも、入る向きにだけ。ぜんまいを巻くと、灯の中の圧が下がって、膜の向こうから魔素だけを吸い込む。濃さの差じゃなくて、圧で引くから、周りが薄くても、灯の中は濃くしていける。出ていく向きには通さないから、周りがどうなっても、灯の中は吸い込んだ濃さのまま。使うときは、弁から出す』
エルニアの声は、淡々としていた。
『量産前の試作。膜の技術自体は、いずれどこにでも使われるようになる。灯りは、その最初の一つにすぎない』
『だから、使って。壊してもいい。どう壊れたかを、報告して。現場での試験運用の記録も、依頼のうち』
「……灯りの試験で、傭兵を雇うのか」
『灯りの試験じゃない』
一拍、置いた。
『魔素を封じられた場所で、その灯の中にだけは、濃度の差が残る。……あとは、使う人の考えること』
パラゴンは、手の中のランタンを見下ろした。
硝子の窓の中で、針が、目盛りの三分の一ほどのところで止まっていた。
ぜんまいで吸い込んだ、周りとは違う濃さの魔素。
運河の水門を包んだ、止まった霧を思い出した。あの霧の中では、呪符が一枚も動かなかった。紙が、周りの魔素を吸わなかった。
詠唱で魔法を起こせる者なら、体の中の魔素で流れを作れる。パラゴンには、それができない。だから呪符を使う。封じられれば、それで終わりだった。
その封じられた場所に、この灯なら、濃さの違う魔素を持ち込める。
『報告は、この通信機で。週に一度でいい。それじゃ』
雑音が、ぷつりと切れた。
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4
出発の二日前の晩、戸口が叩かれた。
どん、どん、と重い拳の音だった。
一瞬、部屋の空気が固まった。巡回の兵が戸を叩いた夜の音と、よく似ていた。
「おう、傭兵。開けろ」
聞き慣れた、豪快な声だった。
パラゴンが戸を開けると、朝霧が立っていた。その後ろに、ガルドがいた。二人とも、両手に酒瓶と包みを提げていた。
「なんだ、その顔は。取って食いやしねえよ」
朝霧は、ずかずかと上がり込んだ。
制服ではなかった。作戦の夜、この戸口の柱にもたれて朝まで立っていたときと同じ、古い外套だった。
「母上、お客さんだよ!」
一会が、嬉しそうに言った。
ルーチェは、寝台の上で、くすくす笑っていた。
―――
狭い部屋に、七人がひしめいていた。一人は、長椅子で寝ていた。
卓の上に、朝霧の持ってきた焼き鳥の包みが広げられた。
一会が、目を丸くした。
「親鳥!」
「あるだけ買ってきた」
「わぁい! うままま!」
一会は、串を両手に一本ずつ持って、幸せそうに頬張った。
ガルドは、鍋の前に陣取っていた。
「ガルドさん、お料理は――」
ルーチェが言いかけた。
「スープくらい作れる」
ガルドは、根菜を刻んで、豆と一緒に鍋に放り込んだ。
しばらくして、鍋の底から、焦げたにおいがしてきた。
「……なんでだ」
「火が強いんだよ、ガルドさん」
ルーチェが、寝台の上から言った。
ガルドは、焦げた鍋を見下ろして、心底不思議そうな顔をしていた。
―――
焼き鳥がなくなりかけたころ、朝霧が、杯を置いた。
「傭兵」
いつもの声だった。けれど、少しだけ低かった。
「嬢ちゃんのことは、俺は何も聞いてねえ。何も知らねえ。前にも言ったな」
「……ああ」
「長椅子のあの昼寝の神も、見たことがねえ」
朝霧は、長椅子の方を見ないまま言った。
「だから、この家には、病気の妹が一人で住んでる。……一人で住んでる家に、非番のセイフガードが、たまに様子を見に来る。それだけの話だ」
ガルドが、焦げたスープの椀を置いた。
「俺も、来るぞ」
「ガルドさんも?」
「支部から近えんだ。暇なときに、顔出すだけだ」
ガルドは、そっぽを向いた。
「……薬代が足りねえ月があったら、言え。言わなくても、分かったら、置いてく」
「ガルド、それは――」
パラゴンが言いかけると、ガルドは手をひらひらと振った。
「礼なんざ言うなよ。言ったら、置いていかねえからな」
パラゴンは、口をつぐんだ。
少しして、頭を下げた。
何も言わずに、ただ、深く。
ガルドは、見ないふりをして、焦げたスープをすすった。
「……薄い。塩が足りねえ。焦げてる」
「ガルドさんが作ったんでしょ」
「……うまくはねえな」
ルーチェが、声を上げて笑った。
―――
「で、どっちへ行くんだ」
朝霧が、最後の串に手を伸ばしながら訊いた。
「東だ。昴(すばる)」
「昴? また、ずいぶん遠くだな」
「僕が決めたの!」
一会が、焼き鳥の串を振り回した。
依頼書の行き先の欄は、空いていた。調査の進み具合に合わせて、自由に。どこへでも行けるということは、最初にどこへ行くかを、自分で決めなければならないということだった。
地図を広げた晩、一会は迷わず、東の端を指さした。
――一番遠いからね。
そのときも、串を振り回しながら言っていた。
パラゴンは、笑わなかった。
一番遠い。この街から。管理塔から。塔の上にいる者たちの目から。
一会がそれを分かって指さしたのかどうかは、分からなかった。
「それに、僕がお茶を覚えた街だから。案内できるよ! 迷子にならない!」
朝霧は、一会を見た。
「……あんたも行くのか。茶屋は」
「壊れちゃったもん」
一会は、けろりと言った。
「直すお金もないし。いつまでも居候じゃ、母上に悪いし。……それに」
一会は、串を皿に置いた。
「僕も、ちょっと、見られちゃったからね」
小さな声だった。
パラゴンは、長屋の路地の夜を思い出した。一会の茶室で茶を飲み干した十三番が、去り際に言ったこと。
――でも、報告は、します。規則ですので。
報告されたのは、マキナのことだけではなかった。十三番が「雷帝」と呼んだ、この茶人のことも。
一会は、すぐにいつもの顔に戻った。
「だから、みんなで遠足!」
「遠足じゃない」
―――
一会は、部屋の隅で、茶道具を布に包んでいた。
茶碗。茶筅。竹の匙。畳んだ白い布と、紫の布。
一つずつ、丁寧に包んでいく。
「昴って、どんなところ?」
ルーチェが訊くと、一会は、手を止めずに少し考えた。
「お茶と、焼き鳥がうまい」
「それだけ?」
「うーん。それと、湯気がいっぱい出てる。街のあっちこっちから」
一会は、包み終えた茶碗を、胸の前でそっと抱えた。
「……僕にね、お茶を教えてくれた人の、お孫さんがいるんだ。今も、小さな茶屋をやってるはず」
いつもの、ゆるい声だった。
けれど、茶碗を抱える手つきだけは、茶を点てるときと同じように、静かだった。
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5
出発の前の晩は、静かだった。
一会は、かまどの前で毛布にくるまって、とっくに寝息を立てていた。コテンは、いつものように長椅子で丸くなっていた。
窓辺の寝台で、ルーチェがマキナの髪を梳いていた。
銀色の長い髪に、ゆっくりと櫛を通す。一回。もう一回。
「旅の髪型にしよっか」
「たびの?」
「ほどけないように、きつめに編むの。それで、くるっと上にまとめて」
ルーチェの指が、髪をすくって、三つに分けた。
編んでいく。
マキナは、じっとしていた。
「……ルーチェ」
「なあに」
「いっぱい、はなす」
マキナは、前を向いたまま言った。
「とおくの、こと。ぜんぶ。……かえってきたら、ぜんぶ、はなす」
ルーチェの指が、少しだけ止まった。
それから、また動き出した。
「うん。待ってる」
三つ編みの先に、青いリボンを結んだ。
「はい、できた」
マキナは、頭に手をやって、編み目をそっと触った。
「……かたい」
「ほどけないように、だよ」
マキナは、しばらく編み目を触っていた。
やがて、ルーチェの寝台の足元で、丸くなって眠った。
―――
パラゴンは、戸口の柱にもたれて、部屋を見ていた。
眠っている一会。眠っているコテン。眠っているマキナ。
窓の外は、夏の夜だった。軍靴の音は、もう聞こえなかった。区画の締めつけは続いていたが、夜間の外出禁止は、数日前に解けていた。
――神か。
十三番の半眼が、マキナを見た。鎖が一本も外れないまま、『判定、不能』という平坦な声が響いた。
――上は、あの銀色の娘に興味があるらしいがな。
運河の水門で組み伏せたグレイヴが、首の輪を外される前に吐いた言葉だった。
マキナを見ている者がいる。
ダエーワも。樹も。
この家にいれば、いつか、その目はルーチェに届く。
だから、離れる。
それは、誰にも言わなかった。ミレイにも、朝霧にも、ガルドにも。
「……お兄ちゃん」
寝台の上から、ルーチェの声がした。
起きていた。
パラゴンは、寝台のそばまで行って、椅子に腰を下ろした。
「……寝てろ。熱が出るぞ」
「出ないよ。今日は、調子いいの」
ルーチェは、毛布を肩に掛け直した。
それから、足元で丸くなっているマキナの寝顔を見た。
「お兄ちゃんさ」
「ん」
「遠くに行くの、初めてだね」
パラゴンは、答えなかった。
西の都市に行ったことはあった。企業の機動部隊で、戦場に出たこともあった。
けれど、どれも仕事だった。薬代のための、金のための仕事だった。
「わたしのために、ずっと働いてくれたでしょ」
ルーチェは、静かに言った。
「薬代も、この家も。……お兄ちゃんが、どこかへ行くのは、いつも、わたしのためだった」
「……そんなんじゃない」
「そんなんだよ」
ルーチェは、少しだけ笑った。
「だからね」
寝台の上から、細い手が伸びてきた。
パラゴンの手の甲に、そっと重なった。
「お兄ちゃんも、たまには自分のために遠くへ行って」
パラゴンは、その手を見下ろした。
骨の浮いた、白い、細い手だった。
死んで戻ったとしても、この手は、このままのはずだった。
「……俺のためじゃ、ない」
言いかけて、パラゴンは口をつぐんだ。
本当の理由は、言えなかった。
言えば、この手は、きっと「行かないで」とは言わない。「わたしのことは、いいから」と言う。
ルーチェは、パラゴンの顔を見ていた。
何かを分かっているような目だった。分かっていて、何も訊かない目だった。
「……じゃあ、半分でいいよ」
ルーチェは言った。
「半分は、わたしのため。半分は、お兄ちゃんのため。……それなら、いいでしょ」
パラゴンは、しばらく黙っていた。
それから、重なった手を、そっと握り返した。
「……ああ」
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6
朝は、晴れていた。
戸口の前に、荷物が並んだ。
パラゴンの背嚢と剣と銃。腰に吊るした、真鍮のランタン。胸の隠しに、黒い通信機と、厚紙の渡航証。
一会の荷物は、茶道具の包みと、小さな風呂敷が一つだけだった。
「それだけか」
「それだけ! 軍師は身軽なのだ!」
マキナは、ワンピースの上に、ルーチェが繕ってくれた薄手の外套を羽織っていた。頭の上で、きつく編んだ三つ編みが、青いリボンと一緒にまとめてあった。
長椅子の上で、コテンが、毛布から顔を出した。
「……いってらっしゃい」
眠そうな声だった。
「ルーチェのこと、頼む」
パラゴンが言うと、コテンは、ゆっくりとまばたきをした。
「僕、寝てるだけだよ」
「それでいい」
コテンは、少し考えるような顔をした。
それから、ふわあ、と小さくあくびをした。
「……うん。寝てる」
―――
ルーチェは、寝台から降りて、戸口まで出てきた。
壁に手をついて、一歩ずつ。パラゴンが手を貸そうとすると、首を横に振った。
「今日は、自分で見送るの」
戸口の柱に、背中を預けた。作戦の夜、朝霧が背を預けていた柱だった。
マキナが、ルーチェの前に立った。
何か言おうとして、口を開いて、閉じた。
もう一度、開いた。
「……ルーチェ」
「うん」
「……いって、くる」
ルーチェは、マキナの頭に手を伸ばした。
編み目が崩れないように、そっと撫でた。
それから、パラゴンを見た。一会を見た。もう一度、マキナを見た。
「いってらっしゃい」
笑っていた。
「お土産話、いっぱいね」
―――
路地の角で、マキナは一度だけ振り返った。
戸口の柱のところに、ルーチェが立っていた。細い手を、大きく振っていた。
マキナも、大きく振り返した。
角を曲がると、見えなくなった。
マキナは、しばらく前を向いたまま歩いた。
パラゴンの袖を、ぎゅっと握っていた。
パラゴンは、何も言わなかった。握られた袖を、振りほどかなかった。
―――
メリディアン陸運の乗り場は、中央都市の東の門のそばにあった。
都市と都市のあいだに、魔導列車と隊商を走らせている会社だった。線路の尽きる先は荷馬車に乗り継ぎ、どの都市の門の前にも、同じ青い看板の乗り場がある。遠くへ行く者は、たいてい一度はここの切符を買う。
東へ向かう魔導列車が、白い蒸気のような魔素の霧を吐いて、長い車体を横たえていた。荷を積む人夫の声。発車を告げる鐘。売り子が、揚げ芋と冷えた麦茶を売り歩いていた。
乗り場の手前に、検問があった。
煤色の外套が、二人。黒い胸当て。顔の下半分を覆う、灰色の布。
区画の締めつけは、まだ終わっていなかった。都市を出入りする者の顔を、兵士たちは一人ずつ確かめていた。
パラゴンの番が来た。
傭兵証を見せる。兵士は、帳面と見比べて、うなずいた。
一会が、住民登録の札を見せる。
「茶屋。……旅行か」
「うん! お茶の修業の旅!」
兵士は、何も言わずに札を返した。
それから、マキナの番になった。
兵士の目が、マキナに落ちた。
銀色の髪。薄い色の瞳。
パラゴンの指先が、ほんのわずかに、剣帯に寄った。
マキナが、胸の前で、厚紙の札を両手で差し出した。
兵士は、札を受け取った。
企業の刻印。番号。「随行員」の三文字。
兵士は、札をひっくり返した。裏の、ベル&クレストの印を見た。それから、手元の帳面を、指でなぞった。
「……ベル&クレスト魔道工業。業務渡航。随行員、一名」
平坦な声だった。
兵士は、札を返した。
「通れ」
それだけだった。
誰も、マキナの額を見なかった。誰も、住民登録を訊かなかった。企業の印の押された札が一枚あれば、それで足りた。
マキナは、札を胸に抱えて、パラゴンを見上げた。
「……とおれた」
「ああ」
パラゴンは、息を一つ吐いた。
―――
列車の窓は、開いていた。
座席に座ると、マキナは、すぐに窓に張りついた。
鐘が鳴った。
がたん、と車体が揺れた。
乗り場が、ゆっくりと後ろへ流れ始めた。
東の門をくぐる。門の外に、夏の野が広がっていた。遠くに、管理塔の細い影が、空に一本、突き立って見えた。
マキナは、それをじっと見ていた。
塔がだんだん小さくなって、野の向こうに見えなくなるまで。
「……ノラも、こうやって、いった?」
「列車には、乗ってないだろうな」
「……あるいて?」
「たぶんな」
マキナは、窓の外を見ていた。
北の方角の空は、うっすらと霞んでいた。
「……ノラ、しお、たりてる?」
「分からん」
「いも、ゆでてる?」
「……分からん」
同じやり取りを、前にもしたことがあった。
あのときは、答えが分からないことが、ただ苦しかった。
今は、少しだけ違った。
マキナは、窓枠に顎を乗せた。
「……こんど、あったら、きく」
「ああ」
向かいの席で、一会が、弁当の包みをほどいていた。
「わぁい、焼き鳥弁当! パラゴン、見て、親鳥だよ!」
「朝飯、さっき食っただろ」
「列車の弁当は、別腹!」
パラゴンは、窓の外に目をやった。
腰のランタンが、列車の揺れに合わせて、かすかに鳴っていた。
硝子の窓の中で、細い針が、ぜんまいで吸い込んだぶんだけ、持ち上がったまま止まっていた。
―――
マキナが、ふと、窓から顔を離した。
パラゴンの方を向いた。
「パラゴン」
「ん」
「おみやげばなし、いっぱい、つくろうね」
パラゴンは、少しだけ考えた。
それから、窓の外の、どこまでも続く夏の野を見た。
薬代のためでも、金のためでもない、遠くへ行くための道だった。
半分は、ルーチェのため。
半分は――
「……ああ」
マキナが、ふにゃりと笑った。
列車は、東へ走っていった。
(第14話 了)
(第2章 機械仕掛けの神 了)