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1
線路は、野の真ん中で終わっていた。
終点の駅は、小屋が一つと、給水の塔が一本あるだけだった。その先は、轍の刻まれた土の街道が、東の丘の向こうまで続いていた。
駅の前に、幌をかけた荷馬車が何台も並んでいた。幌の横腹に、青い看板と同じ印。メリディアン陸運の隊商だった。
「ここから、馬車」
一会が、荷台によじ登りながら言った。
「昴まで?」
「ううん。途中で、何回も乗り換え。……ひと月ちょっとかな。もっとかも」
「……とおい」
マキナが、荷台のへりから街道の先を見た。
土埃の向こうに、丘がいくつも重なっていた。
―――
最初の宿場町に着いたのは、三日目の夕方だった。
街道沿いに、宿と酒場と鍛冶屋が並ぶだけの小さな町だった。それでも、町の真ん中に、見慣れた看板があった。
HUB。
中は、第三支部の半分もなかった。カウンターの向こうに、日に焼けた中年の男が一人。壁の依頼書は、十枚もなかった。
パラゴンは、その中から一枚を剥がした。
――街道の用水路に、大鼠が巣を作った。追い払ってほしい。
報酬は、安かった。
「……安いな」
「文句があるなら、ほかを当たりな。ほかは、ないがね」
受付の男は、にやりと笑った。
用水路の大鼠は、日が暮れる前に片づいた。
報酬を受け取るとき、パラゴンは、中央都市から持ってきた書類を一枚、カウンターに置いた。第三支部の判と、ミレイの几帳面な字。
――報酬は、HUB第三支部へ送金のこと。
受付の男は、書類を眺めて、眉を上げた。
「ポラリスの第三支部か。遠くから来たもんだ」
男は、帳面に何か書きつけて、書類に判を押した。
「送っとくよ。着くまで、ひと月はかかるがね」
パラゴンは、送金の控えの紙を、帳面の端から切ってもらった。それから、ペンを借りた。
控えの裏に、一行だけ書いた。
何を書くか、少し迷った。
結局、短くなった。
―――
その夜、宿の部屋で、黒い通信機が震えた。
『報告』
エルニアの声は、相変わらず平坦だった。
パラゴンは、寝台に腰かけて、通信機を耳に当てた。
「……用水路に、大鼠が出た。追い払った」
『それは、あなたの仕事の報告。魔導灯は』
「……使った」
『何に』
「灯りに」
『針は』
「……半分くらい」
少しだけ、間があった。
『それは、報告じゃない』
隣の寝台で、一会が枕に顔を埋めて、肩を震わせていた。
『どこで、何に、どのくらい使って、針がいくつからいくつまで下がったか。ぜんまいを何回巻いて、どこまで戻ったか。膜に曇りは出たか。……次から、書き留めて』
「……傭兵を雇ったんじゃなかったのか」
『雇ったのは、傭兵。報告書の書き方は、覚えて』
通信は、ぷつりと切れた。
パラゴンは、通信機を見下ろした。
それから、背嚢の底から、使っていない手帳を一冊、取り出した。
マキナが、横から覗き込んだ。
「……しゅくだい?」
「……そんなもんだ」
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2
街道の野営地で、一会が、小さな鍋に水を張っていた。
焚き火の上に、鍋をかける。
「マキナちゃん、白湯の沸かし方、教えてあげる」
「さゆ」
マキナが、焚き火の前にしゃがみこんだ。
「沸かすだけじゃ、ないの?」
「沸かすだけ。でも、ちゃんと沸かすの」
一会は、鍋の水面を指さした。
「最初は、底に小さな泡がつく。蟹の目みたいなの。それから、泡が上ってくる。魚の目。最後に、ぼこぼこって、波が立つ」
「かに、さかな、なみ」
「波になったら、少しだけそのまま。それから、火から下ろして、待つ」
「まつ?」
「熱いままだと、飲めないでしょ。ちょうどいいところまで、待つの」
マキナは、鍋の底をじっと見つめた。
小さな泡が、ぷつ、ぷつと、底につき始めた。
「……かに」
「そう」
泡が、上ってきた。
「……さかな」
鍋が、ぼこぼこと鳴り始めた。
「なみ!」
一会は、布で柄を包んで、鍋を火から下ろした。
白い碗に、湯を注いだ。
湯気が、夕暮れの空気の中に立ちのぼった。
「はい。少し、待ってね」
マキナは、碗を両手で包んで、湯気を見ていた。
しばらくして、ひと口すすった。
「……あつい」
「待ちきれなかったね」
一会が、笑った。
もう一つの碗に、一会が自分で湯を注いだ。一会は、それを、すぐに口元へ運んだ。
熱そうな顔は、しなかった。
マキナは、自分の碗と、一会の碗を、見比べた。
「……いちえの、おゆ」
「ん?」
「ずっと、おなじ」
マキナは、首をかしげた。
「きのうも。そのまえも。いつのんでも、おなじ、ぬるさ」
一会は、少しだけ目を丸くした。
それから、にこにこと笑った。
「茶人だからね!」
それきりだった。
焚き火の向こうで、パラゴンが、手帳に何かを書きつけていた。魔導灯の硝子の窓を、明かりにかざしながら。
一会の碗の湯は、夜が更けても、湯気を立てていた。
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3
管理塔の、ある階の奥に、灯りを落とした一室があった。
窓の外では、夏の夕立が、塔の外壁を叩いていた。
机の上に、紙の束が一つ。
その前に、誰かが座っていた。
紫の袖。細い指。丸い眼鏡の硝子に、紙の白さが映っていた。
――ダエーワ十三番、報告。
――区画外、長屋の路地にて、記録にない神格一柱を確認。銀色の髪。神紋なし。
指が、紙を一枚めくった。
――神格レベル判定。
指が、止まった。
――判定、不能。対象、等級の枠外。
丸眼鏡の奥で、誰かは、長いあいだその一行を見ていた。
雨の音だけが続いた。
指が、もう一枚、紙をめくった。
――同席者。「雷帝」。
誰かの口元が、ほんの少しだけ、ほころんだ。
「……ポラリスに、いたんですねぇ」
小さな声だった。
紙の束が、そっと閉じられた。
その上に、細い手のひらが、しばらく置かれていた。
窓の外で、雨脚が強くなった。
「……今は、大雨時行(たいうときどきふる)ですねぇ」
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4
HUB第三支部のカウンターで、ミレイが、新しい帳面を開いていた。
表紙には、まだ何も書いていない帳面だった。
一枚目の頁に、ミレイは、ゆっくりとペンを走らせた。
――HUB東街道第二宿場支部。用水路の大鼠の追い払い。
その横に、送られてきた金額。
安かった。
ミレイは、少しだけ笑った。
送金の控えに、紙が一枚、挟まっていた。裏に、見覚えのある、ぶっきらぼうな字で、一行だけ。
――全員、元気だ。
ミレイは、その紙を、しばらく見ていた。
それから、丁寧に畳んで、封筒に入れた。
―――
アルマゲスト家の戸口で、ルーチェが、封筒を受け取った。
「わぁ。お兄ちゃんから?」
「最初の支部からです。まだ、中央都市からそんなに離れてないところですけど」
ルーチェは、封筒から紙を取り出した。
裏返して、一行を読んだ。
もう一度、読んだ。
「……これだけ?」
「これだけです」
ルーチェは、声を上げて笑った。
「お兄ちゃんらしい」
長椅子の上で、コテンが、毛布から片目だけ出した。
「……帰ってきた?」
「ううん。元気だって」
「……そっか。よかった」
コテンは、また目を閉じた。
―――
ミレイが帰ったあと、戸口がまた叩かれた。
ガルドだった。
両足とも、ブーツを履いていた。
「近くまで来たからよ」
ガルドは、それだけ言って、卓の上に小さな包みを置いた。
「ガルドさん、これ――」
「薬屋の前を通ったら、買いすぎた。余ったから、置いてく」
ルーチェは、包みを見た。いつもの薬屋の包み紙だった。いつもの薬の、ひと月分だった。
「……ありがとう」
「言うなって言ったろ」
ガルドは、そっぽを向いたまま、戸口を出ていった。
路地の角で、見回りの朝霧とすれ違ったらしかった。表の方から、声が聞こえてきた。
「おう、赤いの。何してた」
「何もしてねえよ。あんたは」
「非番の散歩だ」
二人の笑い声が、路地の向こうへ遠ざかっていった。
―――
夕方、ルーチェは、窓辺の寝台で、手紙の紙を膝に置いていた。
全員、元気だ。
一行しかなかった。
それでも、ルーチェには、いろいろなものが見えた。
ぜんまいを巻くのが下手な兄。その横で、針をじっと見ているマキナ。親鳥の串を振り回している一会。
「……お土産話、いっぱいね」
窓の外に向かって、小さく言った。
長椅子の上で、コテンが、寝返りを打った。
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5
北へ向かう道は、細かった。
小さな影が、一つ、歩いていた。
灰色のぼさぼさの髪。猫のように尖った耳。背中に、札を剥がされた木箱を背負っていた。
木箱は、重かった。
一歩ごとに、背負い紐が肩に食い込んだ。
―――
村の外れの宿の戸を、ノラは叩いた。
戸が、少しだけ開いた。
宿の女将が、ノラの顔を見た。それから、額を見た。
戸が、閉まった。
何も言われなかった。
ノラは、戸の前に、しばらく立っていた。
それから、また歩き出した。
―――
その夜は、村はずれの、崩れかけた納屋の軒下で眠った。
小さな火を起こして、小さな鍋に水を張った。
ポケットから、いもを一つ、取り出した。
どこかの畑の隅に、転がっていたいもだった。小さくて、いびつだった。
水が、ことことと鳴り始めた。
ノラは、鍋の前にしゃがみこんで、中を覗き込んだ。
「……まだ」
誰も、訊いていなかった。
しばらくして、いもが茹で上がった。
ノラは、ポケットを探った。
何もなかった。
塩の包みは、もうなかった。最後のひとつまみまで使い切って、包み紙は、角を揃えて、あの窓辺に置いてきた。
ノラは、茹でたいもを、そのまま口に入れた。
もぐもぐと、噛んだ。
「……ふつ――」
言いかけて、黙った。
いもを持った手が、膝の上で止まった。
火が、ぱち、と鳴った。
ノラは、木箱に背中を預けて、空を見上げた。
北の空に、星が出ていた。
胸元が、かすかに温かかった。
火のせいかもしれなかった。
ノラは、片手で、胸元を押さえた。
それから、残りのいもを、ゆっくりと食べた。
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6
塔の窓辺に、白い髪の女が腰かけていた。
片側の肩にだけ、半分の甲冑。ワンピースの裾が、窓の外の風に揺れていた。
部屋の戸口に、男が一人、立っていた。
痩せた男だった。きちんと襟を留めた灰色の上着。胸の隠しに、紙の札が何枚も差してあった。脇に、分厚い帳面を抱えていた。
「お呼びでしょうか」
丁寧な声だった。
女は、振り返らずに、一冊の帳面を後ろ手に差し出した。
「これ、あげる」
男は、両手でそれを受け取った。表紙をめくる。
白い頁の上の方に、細い、丁寧な字で、一行だけ書いてあった。
――銀色の髪。神紋なし。傭兵と同行。
その下は、空白だった。
「……分類は」
「まだ、ないの。だから、あなたにお願いしたいのよぉ」
女は、窓の外に目をやった。
「新しい枝の、最初のお仕事。……できるかしらぁ」
男は、帳面を閉じた。
「行き先は」
女は、指先で、窓の外の、遠い空を指した。
「東の方」
男は、深く頭を下げた。
戸が閉まる音がした。
女は、窓の外を眺めたまま、小さく鼻歌を歌っていた。間延びした、調子の外れた鼻歌だった。
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7
隊商を乗り換えて、何度目かの朝だった。
街道は、いつの間にか、上り坂になっていた。
道端の草が、夏の盛りの色から、少しだけ乾いた色に変わり始めていた。畑の綿の木に、白いものがほころびかけていた。
荷台の上で、マキナが、幌の隙間から前を覗いていた。
「パラゴン」
「ん」
「けむり」
パラゴンは、身を乗り出した。
坂の向こう、遠い谷あいに、街並みが見えた。
屋根が、幾重にも重なっていた。瓦の屋根の間から、白いものが、いくつも、いくつも立ちのぼっていた。
煙ではなかった。
湯気だった。
街のあちこちから、細い湯気が、朝の空へ、ゆらゆらと上っていた。
「……みえた」
隣で、一会が、幌に手をかけて立ち上がっていた。
いつもの、にこにこした顔ではなかった。
湯気の立つ街を、じっと見ていた。
「……ただいま、かな」
小さな声だった。
それから、振り返って、いつもの顔に戻った。
「お茶と、焼き鳥! わぁい!」
マキナが、真似をして手を上げた。
「わぁい!」
パラゴンは、腰の魔導灯を見下ろした。
硝子の窓の中で、細い針が、揺れていた。
手帳の最初の頁は、もう、細かい字でいっぱいだった。
荷馬車は、坂を下り始めた。
(幕間 了)