第1話 綿柎開(わたのはなしべひらく)
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1
門の前は、人で埋まっていた。
荷車。担ぎ屋。笠をかぶった旅人。首に手ぬぐいを掛けた、白い着物の一団。手ぬぐいには、揃いの紋が染めてあった。口を開けた犬と、口を閉じた犬が、向かい合っている紋だった。
「……いぬ」
マキナが、パラゴンの袖を引いた。
「いぬ、いっぱい」
「犬じゃなくて、狛犬」
一会が、背伸びをして人垣の向こうを覗いた。
「あちゃあ。大祭の時期だったかぁ」
「大祭?」
「狛の社(こまのやしろ)っていう、この街で一番大きなお社のお祭り。あっちこっちから、お参りの人が集まってくるの」
一会は、指を折って数えた。
「……うん。ちょうど、今ごろだった。忘れてた」
門の検問は、長い列だった。
ようやく番が来ると、門番は、パラゴンの傭兵証を見て、マキナの厚紙の札を見て、一会の札を見た。
「ベル&クレスト。業務。……随行員」
平坦な声は、中央都市の兵士と同じだった。けれど、顔の下半分を布で覆ってはいなかった。首元に、例の狛犬の紋の手ぬぐいを巻いていた。
「通れ。……大祭中は、宿が埋まってる。早めに探しな」
―――
門をくぐると、湯の匂いがした。
瓦の屋根が、坂に沿って、どこまでも重なっていた。屋根と屋根の間から、白いものが立ちのぼっている。一つではなかった。高い煙突から。通りの石組みの溝から。路地の奥の、石で囲った小さな湯溜まりから。夏の終わりの空へ、湯けむりがゆらゆらと上っていた。
「この街ね、地面の下から、お湯が湧いてるの」
一会が、得意げに言った。
「湯屋も、あっちこっちにあるよ。朝から晩まで、お風呂の煙」
通りの脇の溝を、湯がさらさらと流れていた。溝の縁の石が、湯の熱で、うっすらと濡れて光っていた。
その溝のそばに、小さな祠があった。
膝の高さほどの、木の祠。その前に、白い碗が一つ置いてあった。碗の中に、水のように澄んだものが満たしてあった。
通りがかった婆さんが、祠の前で足を止めた。手を合わせて、小さく頭を下げて、また歩き出した。
その先の角にも、祠があった。碗があった。
「……おみず?」
マキナが、祠の前にしゃがみこんだ。
碗の縁に、そっと指先で触れた。
「……ぬるい」
「白湯だよ。朝に沸かして、ちょうどいいぬるさまで冷ましてから、お供えしてるの。……この時間だと、もうだいぶ冷めちゃってるけど」
一会が、マキナの隣にしゃがんだ。
「この街ではね、神さまには、お茶じゃなくて、お湯をお供えするの」
マキナは、冷めた碗の湯を、じっと見ていた。
パラゴンは、何かを思い出しかけた。
路地裏の小さな茶屋で、初めて一会に茶を出されたとき。マキナの前にだけ、一拍の間を置いて、白い碗が置かれた。
――この子には、茶より白湯か。
その一言の手触りが、なぜか今、胸の奥で小さく引っかかった。
一会は、もう立ち上がっていた。
「さ、行こ! 見せたいもの、いっぱいあるんだ!」
―――
坂を上りきったところで、通りが開けた。
低い垣根があった。
大人の腰ほどの高さの、朱塗りの木の垣根だった。垣根の内側は、木立のある広い境内で、砂利の道が奥へ続いていた。その奥に、社の屋根がいくつも見えた。
垣根の内側に、人ではないものたちがいた。
木の根元で、苔むした石のような老人が、日向ぼっこをしていた。池のほとりで、背中に甲羅のある子どもが、水面を指でつついていた。枝の上で、鳥の顔をした女が、羽の手入れをしていた。
額に、淡い模様があった。
神紋だった。
垣根の外に、人が並んでいた。一人ずつ、垣根の前で手を合わせて、頭を下げていく。白い碗に湯を注いで、垣根の足元に置いていく者もいた。
垣根の内側の神々は、それを穏やかな顔で眺めていた。
「……玉垣(たまがき)っていうの」
一会が、少しだけ声を落として言った。
「この街の、神さまの区画」
パラゴンは、垣根を見ていた。
中央都市の第十二区画の壁を思い出した。大人の胸ほどの、崩れかけた石の壁。やる気のない詰所の男。戸を閉ざした空き家。
ここには、崩れたものが何もなかった。境内は掃き清められていた。神々は、祀られていた。誰も、神々を「在庫」とは呼んでいなかった。
それでも。
垣根は、大人の腰ほどの高さしかなかった。子どもでも、またげる高さだった。
垣根の内側の神々は、誰一人、その外に出てこなかった。
「……檻じゃない」
パラゴンは、呟いた。
「……でも、誰も出てこない」
一会は、何も言わなかった。
マキナは、垣根の前に立って、内側の神々を見ていた。
池のほとりの甲羅の子どもが、顔を上げた。
マキナと目が合った。
甲羅の子どもは、不思議そうに首をかしげた。それから、また水面に目を戻した。
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2
茶屋街は、坂の下の、川沿いにあった。
細い石畳の道の両側に、格子戸の店が並んでいた。軒先に暖簾。店先の縁台に、赤い毛氈。どの店の奥からも、釜の湯の鳴る音がした。
その手前の、屋台の並ぶ辻で、一会が足を止めた。
「……あ」
煙が上がっていた。炭の匂い。たれの焦げる匂い。
焼き鳥の屋台だった。
一会は、ふらふらと屋台に吸い寄せられていった。串の並んだ網を覗き込んで、それから、品書きの木札を一枚ずつ見上げた。
木札の一枚で、目が止まった。
「……親鳥」
屋台の親父が、団扇をあおぎながら顔を上げた。
「あるよ。今日は、まだたっぷり」
一会の顔が、ぱあっと明るくなった。
「親鳥、ある! わぁい!」
「……何本だ」
パラゴンが、財布を出しながら訊いた。
「十本!」「多い」「五本!」「三本だ」
結局、四本になった。
一会は、串を両手に二本ずつ持って、幸せそうに頬張った。
「うままま……」
マキナも、一本もらって、かじった。
もぐもぐと噛んで、首をかしげた。
「……ポラリスのと、ちがう」
「でしょ! たれが違うの。こっちのは、ちょっと甘いの」
一会は、串の肉を噛みしめた。
「ここのが、一番おいしいんだ。昔から」
マキナは、真剣な顔で、もぐもぐと噛み続けた。
―――
茶屋街を歩きながら、一会はときどき足を止めた。
「ここ、団子屋さんだったのに」
格子戸に、貸店の札が下がっていた。
「……ここは、変わってない」
古い菓子屋の前で、ほっとしたように笑った。店先の硝子の箱に、色とりどりの干菓子が並んでいた。
少し先の、角の店の前で、一会は長く立ち止まった。
新しい店だった。硝子の戸。明るい看板。中で、若い客たちが、背の高い碗で冷たい茶を飲んでいた。
一会は、何も言わなかった。
しばらくして、また歩き出した。
「……で、宿はどうする」
パラゴンが訊くと、一会は、きょとんとした顔をした。
「宿?」
「門番が言ってたろ。大祭中は埋まってるって」
「ああ、それなら大丈夫」
一会は、串の最後の一口を飲み込んで、にこにこと言った。
「師匠のお店に、泊めてもらえばいいよ。昔もそうしてたし」
「……師匠の店に、泊まってたのか」
「うん。二階に、ずっと」
一会は、茶屋街の奥を指さした。
「この先。一番奥の、古いお店」
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3
茶屋街の一番奥に、古い店があった。
暖簾は、日に焼けて色が抜けていた。格子戸の木は黒ずんで、軒の瓦には苔が生えていた。店先の縁台には、客は一人もいなかった。
それでも、店の奥からは、釜の湯の鳴る音がしていた。
一会は、暖簾の前で、少しだけ立ち止まった。
それから、勢いよく暖簾をくぐった。
「ドーモ! ごめんくださーい!」
店の中は、薄暗かった。
土間の奥に、畳の小上がり。その真ん中に、古い風炉が置かれていて、黒い鉄の釜が掛けてあった。釜の口から、細い湯気が上っていた。
奥の暖簾が揺れて、女が一人、出てきた。
二十代の半ばほど。紺の前掛けに、たすき掛け。髪を手ぬぐいで一つにまとめている。袖をまくった腕は、水を運び慣れた、しっかりした腕だった。
女は、戸口の三人を見た。
旅の埃にまみれた赤い外套の男。銀色の髪の少女。焼き鳥の串を握りしめた、へらへらした男。
眉が、寄った。
「……いらっしゃい。お茶かい」
歯切れのいい声だった。
「えっと、お茶も飲みたいんだけど」
一会は、串を後ろ手に隠しながら、店の中を見回した。
「師匠は? ……えっと、ここのご主人」
「じいちゃんなら、奥で寝てるよ」
女は、顎で奥の暖簾を示した。
「手が震えて、もう茶は点てられない。今は、あたしがこの店をやってる」
一会の顔から、少しだけ笑みが消えた。
「……そっか」
小さな声だった。
それから、また、にこにこと笑った。
「じゃあ、あなたが、お孫さん?」
「汐(しお)。……で、あんた、誰」
「僕? 僕はね――」
一会は、胸に手を当てて、背筋を伸ばした。
「超絶暗黒極悪非道、一騎当千常勝不敗の天才軍師茶人! 一会です! 昔、ここで、師匠にお茶を習いました!」
店の中が、静まり返った。
釜の湯が、しゅん、と鳴った。
汐は、一会を上から下まで眺めた。
「……じいちゃんに、弟子なんかいたかね」
「いたよ! 僕!」
「じいちゃんの昔話に出てくる客なら、一人だけ知ってるけど」
汐は、腕を組んだ。
「死んだ魚みたいな目をした客が、毎日来て、毎日同じ席に座って、毎日黙って茶を飲んで帰った、って話なら。……あんたとは、似ても似つかないね」
一会は、何か言いかけて、口を閉じた。
笑ったままだった。
けれど、ほんの一瞬だけ、その笑い方が、いつもと違って見えた。
「……で」
汐が、一会の手元に目をやった。
「その串、なに」
「焼き鳥! 親鳥! 汐ちゃんも食べる?」
「いらない。……それと、ちゃん付けで呼ぶな」
―――
「あのね、汐ちゃん」
「汐」
「汐さん。お願いがあるんだけど」
一会は、両手を合わせた。
「しばらく、二階に泊めてくれない? 昔、僕、そこに住んでたの。三人だけど、静かにするから」
汐は、即座に言った。
「うちは、宿屋じゃないよ」
「そこをなんとか!」
「なんともならない」
汐は、くるりと背を向けた。釜の前に膝をつき、柄杓を手に取る。
「茶を飲むなら、客だ。座んな」
それだけ言って、黙って湯を汲み始めた。
一会は、パラゴンを振り返った。困ったように眉を下げて、笑っていた。
パラゴンは、息を一つ吐いた。
「……宿、探すか」
「お茶を飲んでからね!」
一会は、もう小上がりに上がり込んでいた。
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4
汐の点前は、速かった。
一礼。茶筅の穂先を湯にくぐらせる。白い布で碗を拭う。竹の匙で抹茶を二度すくう。
そこまでは、一会と同じ動きだった。
違ったのは、茶の量と、湯だった。
匙の上の抹茶が、一会よりも、ずっとこんもりと盛られていた。
汐は、釜から柄杓で湯を汲むと、そのまま、ためらわずに碗へ注いだ。湯気が、ぶわりと立った。一会なら、湯を汲む前に水差しの水を釜に差して、少し冷ましてから注ぐところだった。
茶筅が、碗の中で鳴った。
手首だけで振る、一会と同じ振り方だった。碗の中に、きめの細かい泡が、ふっくらと盛り上がっていった。
泡の下の緑は、一会の茶よりも、ずっと深い色をしていた。
汐は、碗の正面を客に向けて、パラゴンの前に置いた。
「どうぞ」
パラゴンは、碗を持ち上げた。
熱かった。手のひらが、じんと痺れた。
一会に教わったとおり、碗を手前に二度回した。口をつけた。
苦かった。
濃くて、熱くて、舌の奥に、苦さがどっしりと居座った。
パラゴンは、少し顔をしかめた。
それから、飲み下した。
喉を通ったあと、口の中に、不思議な甘さが残った。苦さの奥に隠れていた甘さが、あとからゆっくり上ってきた。
「……苦い」
パラゴンは言った。
「でも、うまい」
汐は、何も言わなかった。
けれど、柄杓を持つ手が、ほんの少しだけ止まった。
―――
二服目は、一会の前に置かれた。
一会は、碗を両手で持ち上げた。作法どおりに二度回して、口をつけた。
ひと口。
一会の顔が、くしゃりとゆがんだ。
「……にがぁ……」
「茶だからね」
「熱い……苦い……濃い……」
「茶だからね」
一会は、涙目になりながら、それでも最後まで飲んだ。碗の底に残った一滴まで。
飲み終えて、碗を置いた。
しばらく、碗を見下ろしていた。
「……師匠の、お茶だ」
ぽつりと言った。
「昔と、おんなじ」
汐の手が、止まった。
一会を、見た。
一会は、もういつもの顔に戻って、「にがかったぁ」と舌を出していた。
―――
マキナの前には、茶ではなく、小皿が置かれた。
白と薄紅の、小さな干菓子が二つ。
「子どもには、濃い茶は出さないよ」
汐は、ぶっきらぼうに言った。
マキナは、干菓子を一つつまんで、口に入れた。
目が、まんまるになった。
「……とける」
「砂糖と米の粉で、固めたもんだからね」
「……あまい。とける。……なくなった」
マキナは、空になった指先を見て、少し悲しそうな顔をした。
汐は、黙って、小皿にもう一つ干菓子を足した。
「うちの茶は、これだけだよ」
汐は、釜の前に座り直して言った。
「熱くて、濃くて、苦い。じいちゃんの茶だ。……文句があるなら、ほかの店に行きな」
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5
「ねえ、汐さん」
一会が、膝をそろえて座り直した。
「今度は、僕に一服、点てさせてくれない?」
「……は?」
「お礼。おいしいお茶のお礼に、僕のお茶も飲んでほしいなって」
汐は、しばらく一会を見ていた。
それから、無言で、釜の前の席を空けた。
一会は、釜の前に正座した。
背筋が、すっと伸びた。
いつものへらへらした空気が、どこかへ消えていた。店の中の音が、少しだけ遠くなった気がした。
一礼。
茶筅の穂先を、湯にくぐらせる。白い布で、碗を拭う。竹の匙で、抹茶を二度すくう。
それから、一会は、水差しの蓋を取った。
柄杓で水をすくって、釜の中に差した。
じゅっ、と。
釜が、鳴った。
いや、唸った。
ごぉぉぉ、と、低く、腹の底に響くような音だった。釜の中の湯が、ぐらりと揺れて、口から湯気が一度に吹き上がった。
パラゴンは、思わず腰を浮かせた。
一会は、動じなかった。
柄杓を持ったまま、釜の口を、じっと見下ろしていた。
それから、釜に向かって言った。
「……冷や水を差すなって、ひどくない?」
パラゴンは、一会を見た。
汐も、一会を見た。
一会は、釜に向かって、本気で眉を寄せていた。
「湯加減だよ、湯加減。ぬるくしないと、僕の茶にならないの」
釜が、また唸った。ごぉ、ごぉ、と、短く二度。
「うるさくないよ! 僕、お客さんだよ?」
ごぉぉ。
「え、昔も同じこと言ってた? 覚えてないよ、そんなの」
ごっ。
「……今、年寄りって言った? 言ったよね? そっちの方が、ずっと年寄りでしょ!」
汐が、ゆっくりと、パラゴンの方を向いた。
真顔だった。
「……この人、釜と喋ってる」
パラゴンは、何も言えなかった。
パラゴンの耳には、釜の唸る音しか聞こえなかった。
一会は、ぷりぷりしながら、湯を汲んだ。今度は、釜は唸らなかった。ぶつぶつと、小さく泡の立つ音がするだけだった。
一会は、碗に湯を注いだ。
茶筅が、しゃかしゃかと軽く鳴った。碗の中に、きめの細かい泡が、ふっくらと盛り上がっていった。
一会は、碗の正面を汐に向けて、そっと差し出した。
「どうぞ」
静かな声だった。
汐は、碗を見下ろした。
湯気が、ほとんど立っていなかった。
汐は、碗の縁に、指先で触れた。
ぬるかった。
汐の眉が、きつく寄った。
「……ぬるい」
「うん。ぬるいの」
「こんなの」
汐は、碗を、一会の前に押し戻した。
「ぬるい茶なんて、茶じゃない」
一会は、押し戻された碗を見下ろした。
何も言わなかった。
「茶は、熱くて、濃いもんだ。じいちゃんは、ずっとそうやって点ててきた」
汐の声は、硬かった。
「じいちゃんの弟子だって言うなら、なんでじいちゃんの茶を点てないんだい」
一会は、しばらく黙っていた。
それから、へにゃりと笑った。
「……苦いの、苦手なんだもん」
汐の顔が、みるみる赤くなった。
「――出てきな!」
―――
三人は、店の外に放り出された。
格子戸が、ぴしゃりと閉まった。
一会は、戸の前で、ぬるい茶の入った碗を持ったまま立っていた。汐が押し戻した碗を、そのまま持ってきてしまったらしかった。
「……怒られちゃった」
「怒らせたんだ」
パラゴンは、こめかみを押さえた。
マキナが、閉まった格子戸を見上げていた。
さっき、一会が釜と言い合っていたとき。マキナは、干菓子の皿を持ったまま、釜の方へ一歩だけ近づいた。
その瞬間、あれだけ唸っていた釜が、ぴたりと静かになった。
一会が文句を言い終えるまで、釜は、一度も鳴らなかった。
マキナは、首をかしげていた。
「……かま、しずかに、なった」
「ん?」
「わたしが、ちかくに、いったら」
一会は、手の中の碗を見下ろしていた。
「……そうだね」
それだけ言って、碗の茶を、ひと口で飲み干した。
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6
宿は、どこも埋まっていた。
一軒目は、表通りの大きな宿だった。帳場の男が、首を横に振った。
「大祭中でして。ひと月前から、いっぱいです」
二軒目は、裏通りの小さな宿。
「すまないねえ。廊下まで、お参りの人でいっぱいなんだよ」
三軒目は、川沿いの木賃宿。戸口に、「満」の札が下がっていた。
四軒目で、断られたとき、空は茜色になっていた。
どこかで、ひぐらしが鳴いていた。
「……ないね」
一会が、しょんぼりと言った。
「ないな」
「僕のせいかな」
「半分な」
「半分!」
マキナは、パラゴンの手を握ったまま、目をこすっていた。朝から歩き通しだった。
―――
気がつくと、三人は、茶屋街の一番奥に戻ってきていた。
色の抜けた暖簾の店。
店じまいのあとらしく、暖簾は中に取り込まれていた。格子戸の隙間から、行灯の明かりが細く漏れていた。
店先の縁台に、三人で並んで腰を下ろした。
誰も、戸を叩こうとは言わなかった。
一会は、膝を抱えて、暮れていく空を見ていた。パラゴンは、背嚢を足元に下ろして、腰の魔導灯のつまみに指をかけた。灯りくらいは、点けておこうと思った。
マキナは、パラゴンの腕にもたれて、うとうとし始めていた。
川の方から、涼しい風が吹いてきた。
店の中で、釜が鳴った。
ぼぉぉぉ――と。
低く、長く、どこまでも伸びていくような音だった。昼間の唸り声とは、まるで違った。寺の鐘の余韻のように、夕暮れの茶屋街に、静かに響き渡った。
パラゴンは、顔を上げた。
一会も、顔を上げていた。
釜の音は、長いあいだ鳴り続けて、それから、すうっと消えた。
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7
格子戸が、がらりと開いた。
汐が、立っていた。
たすきは外していた。前掛けも。手に、行灯を一つ提げていた。
汐は、縁台の三人を見下ろした。
眠りかけているマキナを見た。膝を抱えた一会を見た。魔導灯を手にしたパラゴンを見た。
それから、ため息をついた。
「……釜が、鳴ったんだよ」
ぶっきらぼうな声だった。
「長く、いい音で」
パラゴンは、汐を見上げた。
「うちの釜はね。いいことがあるときは、長く鳴る。悪いことがあるときは、鳴らない。……あたしは子どものころから、その音で、明日の天気も、客の入りも、読んできた」
汐は、店の中を振り返った。
風炉の上の、黒い鉄の釜。その口から、細い湯気が、まっすぐに立ちのぼっていた。
「あんな音、久しぶりに聞いた」
汐は、三人に向き直った。
「あんたらのためじゃないよ。釜が、そう言うから」
一会が、ぽかんと口を開けていた。
「……泊めてくれるの?」
「二階、空いてるよ」
汐は、そっぽを向いた。
「……じいちゃんの客なら、しょうがない」
一会の顔が、くしゃりとゆがんだ。
笑ったのか、泣きそうになったのか、パラゴンには分からなかった。
「わぁい……汐ちゃん、ありがとう……」
「ちゃん付けで呼ぶなって言ったろ」
汐は、行灯を掲げて、店の中へ戻っていった。
「上がんな。足、洗ってからだよ」
パラゴンは、眠っているマキナを背負った。マキナは、ほとんど目を開けないまま、パラゴンの首にしがみついた。
土間を通るとき、風炉の釜の前を横切った。
釜は、静かだった。
マキナを背負ったパラゴンが通り過ぎるまで、湯の音ひとつ立てなかった。
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8
二階は、畳の部屋が一つだった。
低い天井。小さな窓。窓の外に、茶屋街の屋根が並んで、その向こうに、川が暗く光っていた。
押し入れに、古い布団が何組か、きちんと畳んで入っていた。
一会は、部屋の真ん中に立って、ぐるりと見回した。
柱の一本に、小さな傷がいくつも刻まれていた。刃物で刻んだような、細い横線。
一会は、その柱に、そっと手を当てた。
何も言わなかった。
―――
夜が更けた。
マキナは、布団にくるまって、すうすうと寝息を立てていた。一会も、窓際の布団で丸くなっていた。
パラゴンは、窓辺に座って、手帳を開いていた。
魔導灯を膝の上に置く。硝子の窓の中で、針は、目盛りの四分の一ほどのところにあった。
――昴、着。大祭。宿、なし。茶屋の二階。
――灯り、夕刻に一刻ほど。針、半分から四分の一。
――ぜんまい、巻かず。
書き終えてから、通信機を耳に当てた。
『報告』
「昴に着いた。……灯りに一刻。針は半分から四分の一。ぜんまいは、今日は巻いてない」
少しだけ、間があった。
『……前よりは、報告』
それだけ言って、通信は切れた。
パラゴンは、通信機を見下ろした。
褒められたのかどうかは、分からなかった。
―――
階下から、咳の音が聞こえてきた。
奥の部屋からだった。乾いた、小さな咳。一度、二度。それから、静かになった。
パラゴンは、窓辺から、階段の方を見た。
階段の下の暗がりに、ぼんやりと明かりが見えた。
風炉の火だった。
釜の前に、汐が一人、座っていた。
背中を丸めて、膝を抱えて、風炉の火を見ていた。ときどき、火箸で炭を寄せる。釜の湯が、ことことと小さく鳴る。
汐は、それを、ただ黙って聞いていた。
店を閉めたあとの、誰もいない店で。
パラゴンは、しばらくその背中を見ていた。
それから、音を立てないように、窓辺に戻った。
―――
夜明け前だった。
パラゴンは、階下の物音で目を覚ました。
勝手口の戸を、誰かが叩いていた。こつ、こつ、と、遠慮がちな音。
階段の上から覗くと、汐が、欠伸をしながら勝手口の戸を開けるところだった。
戸口に、小さな影が立っていた。
十五、六ほどの少女だった。簡素な作務衣。首に、あの狛犬の紋の手ぬぐい。片手に手桶を、もう片手に柄杓を下げていた。
少女は、汐に向かって、ぺこりと頭を下げた。
「……おはようございます。お湯を」
短い声だった。
汐は、何も言わずに、少女を土間に入れた。少女は、風炉の釜の前に膝をついて、柄杓で湯を汲み、手桶に移していった。
湯気が、薄暗い土間に立ちのぼった。
少女の手は、湯を扱い慣れているせいか、少し赤かった。
釜が、小さく、ことりと鳴った。
(第1話 了)