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1
「今日はね、マキナちゃんに、はじめてのおつかい、お願いしていい?」
朝。ルーチェがそう言ったのは、ちょうどマキナが彼女の髪を梳かし終えたときだった。
ベッドの縁に並んで座る二人。マキナの手には、柄の欠けた木の櫛。ルーチェの蜂蜜色の髪は、今朝もさらさらに整えられている。代わりにマキナの銀髪は、ルーチェの手で器用な編み込みにされていた。これが、ここ二週間ですっかり定着した、二人の朝の日課だ。
「おつかい?」 「うん。お買い物。市場まで、ひとりで」
マキナの目が、ぱっと見開かれた。
「ひとりで!」 「ひとりで」 「いく! わたし、いく!」
櫛を握りしめたまま、マキナが立ち上がる。勢い余って、ルーチェの毛布が半分ずり落ちた。
台所でパンを切っていたパラゴンは、包丁を持った手を止めた。
「……ひとりで?」
我ながら、白々しい声が出た。
実のところ、この話は昨日のうちにルーチェから聞かされていた。「明日、マキナちゃんにおつかい頼もうと思うの。お兄ちゃんは知らないふりしててね」と、枕元でこっそり耳打ちされたのだ。
「うん。お兄ちゃんも、いいでしょ?」
ルーチェがにこにこと振り返る。マキナも振り返る。二人分のきらきらした視線が、まっすぐこちらに刺さった。
「あー……」
昨日も思ったことだが、いいか悪いかで言えば、悪い。
マキナは市場に行ったことがない。というより、パラゴンの知る限り、どこにも一人で行ったことがない。お金の数え方を教えたのは三日前だ。道を覚えているかも怪しい。そもそも、あの子は箱から出てきたのだ。
「……いいんじゃないか」
昨日のうちに反対しておくべきだったのだ。それができなかった時点で、答えは決まっていた。
口から出たのは、正反対の言葉だった。
「やったー!」 「やったー!」
二人の声が重なる。パラゴンは、切りかけのパンに視線を戻した。
ルーチェが、枕元のメモ帳に丸っこい字で買い物リストを書いていく。
――夕ごはんのやさい(にんじん、たまねぎ、いも) ――おくすり(いつものやっきょく、この紙をみせてね) ――せっけん ――でんきゅう(台所の、きれちゃったやつ)
「それとね、お店の人に『ちょっとまけて』って言ってみるといいよ。市場はそういうところだから」 「まけて?」 「安くしてってこと」 「……! わかった。まけて、いう」
マキナは真剣な顔でうなずき、メモと財布を、宝物みたいにワンピースのポケットにしまい込んだ。
「いってきます!」 「いってらっしゃーい!」
扉が閉まる。軽い足音が、錆びた階段を駆け下りていく。
静かになった部屋で、パラゴンはパンを切り終えた。皿に並べた。水を汲んだ。
それから、コートを手に取った。
左の袖だけ、生地の色が違う。石になった袖の代わりに、ありあわせの布で継いだ急ごしらえの一着だ。
「お兄ちゃん、どこ行くの?」 「散歩」 「ふーん」
ルーチェは何も言わなかった。ただ、毛布の中でくすくすと笑っていた。
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2
散歩だ。これは断じて、ただの散歩だ。
たまたま今日は天気がよくて、たまたま足が市場の方に向いて、たまたま前方二十歩くらいのところを銀髪の少女が歩いている。それだけのことだ。
パラゴンは、建物の角に身を寄せながら自分にそう言い聞かせた。
マキナは、軽い足取りで下層の路地を進んでいく。一歩ごとに、編み込みの銀髪がぴょこぴょこ跳ねる。
と、その足が止まった。
路地の脇の、植木鉢の前だ。しゃがみ込んで、鉢の中をじっと覗き込んでいる。
「……何見てんだ」
鉢には、しおれかけた雑草が一本生えているだけだった。
一分。二分。
マキナは動かない。
パラゴンも動けない。
三分が過ぎたころ、マキナはようやく立ち上がり、雑草に向かって小さく手を振ってから、また歩き出した。
「……先が思いやられる」
小声で呟きながら、パラゴンは物陰から物陰へと移動する。すれ違った洗濯物干しのおばさんが、怪訝そうな顔でこちらを見ていた。
気にしない。散歩だ。
それに、打てる手はもう打ってある。
ルーチェから計画を聞かされた昨日の夕方、パラゴンは仕事帰りに少しだけ遠回りをした。市場の八百屋の親父。薬局の婆さん。雑貨屋の爺さん。いつも世話になっている何軒かに顔を出して、同じことを頼んで回った。
――明日、ちょっと変わった子が一人で買い物に来るかもしれない。銀色の髪の、白いワンピースの。悪いようにはしないでやってくれ。
何を大げさな、と笑われた。笑われたが、みんな最後には「はいよ」と言ってくれた。
だからまあ、大丈夫だ。大丈夫なはずだ。
大丈夫なら、なんで俺はここにいるんだ、という疑問は、とりあえず考えないことにした。
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3
下層と中層の境目にある市場は、朝から賑わっていた。
石畳の通りの両側に、屋台と露店がびっしりと並ぶ。色とりどりの野菜と果物。吊るされた干し肉。湯気を上げる揚げ菓子の鍋。呼び込みの声と値切りの声と、どこかの子どもの泣き声が混ざり合って、ひとつの大きな音の塊になっている。
市場の入り口で、マキナは立ち止まった。
そして、動かなくなった。
「…………わあ」
口が、ぽかんと開いている。目が、落ちそうなくらい見開かれている。
パラゴンは、入り口脇の古い樽の陰から、その背中を見守った。
嫌な予感がした。
「これ、なに?」
最初の犠牲者は、果物屋のおかみさんだった。
「これかい? 星梨だよ。切ると断面が星の形なのさ」 「ほし! なんで?」 「なんでって……そういうもんだからねえ」
「これ、なに?」
二人目は、香辛料屋の兄ちゃん。
「赤唐辛子。辛いから、お嬢ちゃんは触らない方が――」 「からい? どのくらい?」 「え、いや、だから――あっ、舐めるな舐めるな!」
「これ、なに?」 「これは?」 「これは、なんで、うごいてるの?」 「それは生きた蟹だからだよ!」
市場の入り口から十歩進むのに、十五分かかった。
樽の陰で、パラゴンは頭を抱えた。
違う。そっちじゃない。八百屋はもっと奥だ。薬局は右の路地だ。なんで蟹の桶に顔を突っ込もうとしてるんだ。挟まれるぞ。ほら、挟まれた。
「いたい! ……でも、つよい! このこ、つよいね!」
蟹に指を挟まれたまま、マキナは嬉しそうだった。魚屋の親父が慌てて蟹を外してやっている。
飛び出していきたい。今すぐ飛び出して、手を引いて、八百屋まで連れていきたい。
だが、それをやったら全部台無しだ。
パラゴンは、樽の縁を掴む手に力を込めた。みしり、と古い木が嫌な音を立てた。
「――ところでさ、聞いた? 南の方で、なんかあったらしいじゃない」
すぐ近くの屋台で、客の女が店主と話していた。
「南? 十二区画かい」 「そうそう。夜中に騒ぎがあったとか、なかったとか」 「あそこはいつも何かしら揉めてるからねえ。それより、あんたんとこの坊や、今度学校――」
話題は、すぐに別のところへ流れていった。
パラゴンは、一瞬だけ南の空を見た。
それから、蟹から解放されて手を振っているマキナに視線を戻した。
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4
市場の奥、八百屋の前にマキナが辿り着いたのは、出発から一時間近く経ってからだった。
「いらっしゃい。……おっ」
八百屋の親父が、マキナの銀髪を見て、ほんの一瞬だけ眉を上げた。
「にんじん、たまねぎ、いも、ください」
マキナはメモを両手で掲げ、一語ずつ読み上げた。
「はいよ。全部で――」
親父が、指を折って計算を始める。
「えーと、にんじんが三本で、たまねぎが二つ、いもが――」
言い終わる前に、店先の台の上に硬貨が並んでいた。
マキナが、財布から取り出したものだった。一枚の過不足もなく、ぴったりの額。
「……お、おう。ぴったりだ」
親父は目をぱちくりさせて、硬貨を数え直した。やっぱりぴったりだった。
樽の陰――から移動して、今度は向かいの金物屋の軒先に潜んでいたパラゴンも、同じように目をぱちくりさせた。
……計算、早いな。
三日前に教えたときは、硬貨の種類を覚えるだけで精一杯だったはずだ。いや、精一杯に見えた、というだけだったのかもしれない。
あれ、と思う。
思ったところで、マキナが「あっ」と声を上げた。
「まって。まだ、はらわない。……まけて、いうの、わすれてた」
マキナは、並べた硬貨をいそいそと回収した。
八百屋の親父が、ぽかんとした。
「……え?」 「まけて、ください」
マキナは、きりっとした顔で親父を見上げた。
「えっと……このにんじん、たかい」
「た、高いか?」 「たかい。となりのおみせのほうが、いっこ、やすかった」 「……そりゃ、隣は昨日の売れ残りだからな」 「それと、このたまねぎ、ちょっと、しなしなしてる」 「おい」 「いもは……いもは、いいいもだと、おもう」 「そこは褒めるのか」 「うん。だから、いもは、まけなくていい。にんじんと、たまねぎだけ、まけて」
八百屋の親父は、しばらく口を開けたまま固まっていた。
それから、とうとう堪えきれなくなったように噴き出した。
「ぶはっ……! 分かった、分かったよ、お嬢ちゃん。正直者には敵わねえ。にんじんとたまねぎ、半額でいい」 「ほんと?」 「ほんとだ。ついでにこれも持ってけ」
親父は、形の悪い小さないもを一つ、紙袋の中に放り込んだ。
「……! ありがとう! あなた、いいひと!」 「よせやい」
照れくさそうに鼻をこする親父に、マキナは深々とお辞儀をした。
金物屋の軒先で、パラゴンは財布の中身を数えていた。
にんじんとたまねぎの半額分。それにおまけのいも。
……後で払いに来よう。
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5
八百屋を出たあとのマキナは、少しだけ要領がよくなっていた。
気がする。
薬局では、ルーチェのメモを見せるだけで、奥から腰の曲がった婆さんが出てきて、いつもの薬を手早く包んでくれた。
「熱が出たら、こっちの白いのを一粒。お兄さんにもそう言っときな」 「……おにいさん?」 「おっと。なんでもないよ。ほら、落とさないようにね」
婆さんは、なぜかパラゴンの潜んでいる方をちらりと見てから、マキナの手に薬の包みを握らせた。
最後は雑貨屋だった。
市場の外れにある、小さな古い店だ。軒先には「オーレル雑貨店」と書かれた、塗装の剥げかけた木の看板が下がっている。店先から奥まで、棚という棚に物がぎっしりと詰め込まれていた。ランプ、鍋、糸巻き、ボタン、紙束、得体の知れない古道具。どこに何があるのか、店主以外には絶対に分からない種類の店だ。
「……ごめんください」
マキナが、おそるおそる店の中を覗き込む。
「はい、いらっしゃい」
棚の奥から、初老の男が顔を出した。白髪まじりの髪を後ろで束ねた、痩せた男だ。丸い眼鏡の奥の目が、穏やかに細められている。
「おや。これは、可愛らしいお客さんだ」 「せっけんと、でんきゅう、ください。……だいどころの、きれちゃったやつ」 「台所の電球だね。どんな形だったか、覚えているかな?」
マキナは、少し考えてから、両手の指で丸を作った。
「このくらい。……それで、ここが、くるくるって」 「ああ、ねじ込み式の小さいやつだ。それなら、ここに――」
オーレルは、迷いのない手つきで棚の一角を探り、埃ひとつない電球の箱を取り出した。
「これで合っているはずだよ。もし違ったら、持っておいで。取り替えてあげるから」 「ほんと?」 「本当だとも。それと石鹸は……そうだな。これはどうだろう」
差し出されたのは、薄紙に包まれた小さな石鹸だった。ほんのりと、花の匂いがする。
「……いいにおい」 「山百合の石鹸だ。少しだけ高いが、泡立ちがいい。髪を洗うのにもいいよ」
マキナは、じっと石鹸を見つめた。それから、財布の中を覗き込んで、困った顔をした。
「……たかい」 「おや、正直だね」 「まけて、ください」
オーレルは、声を立てて笑った。
「いいだろう。さっき、八百屋の親父が触れ回っていたよ。とびきり正直な値切りをするお嬢さんが来たってね。噂のお客さんに、わたしも一度値切られてみたかったんだ」
オーレルは、電球と石鹸を手際よく包んでいく。包み紙の端に、ぽん、と小さな判子を押した。店の名前が入った、古びた丸い判子だった。
「うちの判子だ。何かあったら、これを見せればいい」
それから、大小の紙袋を抱えたマキナを見て、少しだけ眉を寄せた。
「それは持ちにくいだろう。こうするといい」
オーレルは、店の奥から古い麻紐を持ってきた。紙袋の口を器用に束ね、持ち手を作ってやる。
「重いものは下に、軽いものは上に。卵を買うときは、一番最後だ」 「たまご、かってない」 「それは何より」
オーレルは、束ねた荷物をマキナに手渡した。
「気をつけてお帰り。また、いつでもおいで」 「うん! ありがとう、オーレル!」
マキナが、看板の名前を読み上げて手を振る。
オーレルも、ゆったりと手を振り返した。
マキナが背を向けて、通りの方へ歩き出す。
そのとき、オーレルがふと顔を上げた。
通りを挟んだ向かいの、古道具屋の積み荷の陰。そこに身を縮めている、左袖だけ色の違うコートの男の方へ。
目が合った。
オーレルは、何も言わなかった。ただ、丸い眼鏡の奥で、小さく片目をつぶってみせた。
――任せておきなさい。
そう言われた気がした。
パラゴンは、積み荷の陰で、長く息を吐いた。
気づけば、肩にずっと力が入っていた。コートの継ぎ目が引きつれるくらいに。
それが、ゆっくりとほどけていく。
市場の喧騒の中を、紙袋を抱えた銀髪の少女が歩いていく。すれ違う店主たちが、ひとり、またひとりと、彼女に声をかける。「気をつけてね」「転ぶなよ」「また来な」。マキナはそのたびに振り返って、律儀に手を振り返していた。
誰も、彼女を珍しがらなかった。誰も、彼女を怪しまなかった。
少なくとも今日、この市場は、あの子に優しかった。
「……悪くないな」
誰にともなく呟いて、パラゴンは物陰から抜け出した。
帰る前に、寄らなきゃいけない店が三軒ある。
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6
パラゴンが家に着いたのは、マキナより五分早かった。
裏通りを全力で走り抜けた結果、息が完全に上がっている。台所で水を一杯飲み干し、額の汗を拭って、椅子に腰を下ろしたところで、玄関の扉が勢いよく開いた。
「ただいまー!」
「おかえりー!」
奥の部屋から、ルーチェの声が弾む。
マキナは紙袋を抱えたまま、ぱたぱたと部屋に駆け込んでいった。パラゴンも、何食わぬ顔でその後に続く。
「ルーチェ! かってきた! ぜんぶ!」 「すごーい! 見せて見せて!」
ベッドの上に、戦利品が並べられていく。にんじん、たまねぎ、いも。おまけの小さないも。薬の包み。電球。そして、薄紙に包まれた山百合の石鹸。
「いいにおい! これ、どうしたの?」 「オーレルが、えらんでくれた。かみのけ、あらうのに、いいって」 「オーレルさん? 雑貨屋さんの?」 「うん。やさしいひと。にもつも、もちやすく、してくれた」
マキナは、身振り手振りを交えて話し続けた。
星の形の梨のこと。唐辛子を舐めかけて止められたこと。蟹に指を挟まれたこと。蟹はとても強かったこと。
「それでね、それでね、やおやさんに、まけて、いったの」 「言えたの!?」 「いえた! にんじんと、たまねぎ、はんぶんに、なった!」 「すごい! マキナちゃん、値切りの天才だ!」 「えへへ……てんさい」
胸を張るマキナの後ろで、パラゴンは空になった財布をそっとポケットの奥に押し込んだ。
「お兄ちゃん」
ルーチェが、ふとこちらを見た。
「散歩、どうだった?」 「……普通だよ」 「ふーん。汗、すごいけど」 「今日は暑いからな」 「今日、ちょっと寒いよ?」
マキナが、きょとんとパラゴンを見上げる。
パラゴンは、窓の外に視線を逸らした。
ルーチェは、また毛布の中でくすくすと笑っていた。
―――
その日の夕食は、マキナが買ってきた野菜で作ったシチューだった。おまけの小さないもは、マキナの皿に入れてやった。
食事のあと、ルーチェは山百合の石鹸で髪を洗ってもらった。
夜。ベッドの縁に並んで座る二人の姿が、扉の隙間から見える。
マキナが、柄の欠けた木の櫛で、ルーチェの髪を梳かしている。蜂蜜色の髪から、ほのかに花の匂いがした。
「あしたも、おつかい、いきたい」 「いいよ。じゃあ明日は、パン屋さんにしよっか」 「パンやさん! ……パンやさんにも、いいひと、いる?」 「いるよ。きっと」
ルーチェは、振り返らないまま答えた。
「この街には、いい人、ちゃんといるから」
扉の外で、パラゴンは小さく笑った。
明日も、散歩に行かなきゃならないらしい。
(第3話 了)