銀と琥珀   作:らむさいだー

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第4話 欠けた枝

 

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1

「朝霧さんから、伝言です」

 

HUB第三支部。依頼の報告を済ませたパラゴンに、ミレイが折りたたんだ紙切れを差し出した。

 

「今朝、セイフガードの若い隊員さんが届けに来ました。『隊長から、パラゴンさんに直接』って」

 

開くと、豪快に崩れた字が目に飛び込んできた。

 

――例の件、ちょっと分かったことがある。今夜、鉄鍋亭で。嬢ちゃんも連れてこい。

 

それだけだった。

 

「……詰所じゃないのか」

 

呟いたパラゴンの手元を、マキナが横から覗き込む。

 

「てつなべてい?」 「飯屋だ。朝霧の行きつけの」 「あさぎり?」 「セイフガードの隊長だよ。この前の十二区画の件で、押収したものを預けてある」

 

マキナは、紙切れの崩れた字をじっと見つめた。

 

「……じが、おおきい」 「字がでかい奴なんだ。声もでかい」

 

パラゴンは紙切れをポケットにしまった。

 

詰所ではなく、飯屋。制服の隊員に伝言を持たせておきながら、中身は紙切れ一枚。

 

表立って話せることではない、ということだ。

 

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2

鉄鍋亭は、中層区の裏通りにある小さな食堂だった。

 

煤けた暖簾をくぐると、鉄鍋で何かを炒める音と、油と醤の匂いが押し寄せてくる。夕飯時の店内は、仕事帰りの職人や荷運びの男たちでほぼ満席だった。

 

「おう、待ってたぞ! こっちだこっち!」

 

店の奥から、店じゅうに響く声が飛んできた。

 

奥の小上がりで、大柄な男が手を振っている。がっしりした肩幅、短く刈り込んだ髪。日焼けした顔の頬骨のあたりに、古い刀傷が一本走っている。セイフガードの制服は一応きちんと着ているが、襟元は緩められ、ボタンが一つ外れていた。

 

セイフガード第3実働部隊隊長、朝霧実だ。

 

「声がでかいんだよ、お前は」 「でかくて困ることなんかねえだろ。ほら座れ座れ」

 

朝霧はパラゴンを小上がりに押し込み、それから、その後ろにいた銀髪の少女に目を留めた。

 

一瞬の間。

 

それから、日焼けした顔がくしゃっと崩れた。

 

「よう、噂の嬢ちゃんも一緒か! 元気そうだな!」 「……うわさ?」 「おう。箱から出てきた嬢ちゃんのことは、第三支部の連中から散々聞かされてんだわ。マキナ、だったな?」 「うん。マキナ」 「俺は朝霧だ。朝霧実。こいつの世話を焼いてる、しがない公僕ってやつだ。よろしくな!」

 

朝霧が、大きな手を差し出す。マキナは少しだけその手を見つめてから、両手でぎゅっと握り返した。

 

「よろしく、あさぎり。……て、おおきい。あったかい」 「ははっ、そうか! 嬢ちゃんの手はちっちぇえな!」

 

朝霧は豪快に笑って、それからパラゴンの方に向き直った。

 

そして、その笑顔のまま、眉だけをぐっと寄せた。

 

「……おい。その袖、まだ直してねえのか」

 

パラゴンのコートの左袖。石になった部分を切り落として、ありあわせの布で継いだままの、色違いの袖だ。

 

「別にいいだろ。着られるんだから」 「よかねえよ。見てるこっちが寒いわ。金がねえなら言え、布代くらい出してやる」 「いらない」 「かーっ、かわいくねえ」

 

朝霧は大げさに天を仰いでから、通りかかった店の親父に手を上げた。

 

「親父! 唐揚げ三人前、塩でな! タレじゃねえぞ、塩だぞ!」 「あいよ、いつものね」 「それと、嬢ちゃんには何か甘いもんを」 「あまいもの!」

 

マキナの目が輝いた。

 

運ばれてきた唐揚げを、朝霧は満足げに眺めた。

 

「ここの唐揚げはな、塩に限るんだわ。タレで食う奴の気が知れねえ。いいか嬢ちゃん、これは大事なことだから覚えとけよ。唐揚げは、塩だ」 「からあげは、しお」 「そうだ! 分かってるじゃねえか!」 「……人の連れに変な宗教を教えるな」

 

マキナは、湯気の立つ唐揚げを一つ、ふうふう冷ましてから頬張った。目を丸くする。

 

「……! しお、すごい」 「だろう!」

 

朝霧は心底嬉しそうに笑った。

 

その笑顔の横を、灯りに誘われた小さな蛾が一匹、ふらりと横切った。

 

「うおっ!?」

 

セイフガード第3実働部隊隊長が、座ったまま半歩ぶん飛び退いた。

 

「……虫、まだ駄目なのか」 「う、うるせえ。駄目なもんは駄目なんだよ。あいつら、何考えてるか分かんねえだろうが」

 

蛾は、マキナの指先にとまった。マキナは、それを不思議そうに眺めてから、そっと窓の外へ逃がしてやった。

 

「あさぎり、もう、いないよ」 「……おう。ありがとな、嬢ちゃん」

 

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3

唐揚げの皿が半分空いたころ、朝霧はふっと声を落とした。

 

小上がりの衝立を少しずらして、店の喧騒から自分たちを隠す。それから、足元に置いていた長い布包みを、膝の上でほどいた。

 

中から出てきたのは、先端に鈍い灰色の鉱石を嵌めた短杖だった。

 

あの夜、十二区画の倉庫で、パラゴンのコートの袖を石に変えた杖だ。

 

「こいつはな」

 

朝霧の声から、さっきまでの豪快さが消えていた。

 

「本当に、やばい代物だ。……って、お前に言うことじゃねえのは分かってるけどな」

 

朝霧は、ちらりとパラゴンを見た。

 

「西都市で、嫌ってほど見たんだろ」 「……ああ」

 

パラゴンは、鉱石の鈍い灰色から目を逸らさなかった。

 

触手に触れられた人々が、悲鳴を上げる暇もなく、この色に変わっていった。瓦礫の街に、人の形をした灰白色の石が、いくつも立ち尽くしていた。あの異形を地に落とした後も、それだけは元に戻らなかった。

 

「同じ色だ。あの時の、あれと」 「……そうか」

 

朝霧は、それ以上は聞かなかった。節くれだった指が、鉱石には触れないように、杖の柄だけをなぞる。

 

「斬られても、焼かれても、何週間かすりゃ元に戻る。この世界じゃ、それが当たり前だ。だから俺らの仕事も、極端な話、どこかで『どうせ戻る』って甘えがある」

 

朝霧は、杖を布の上に戻した。

 

「石だけは、戻らねえ。……セイフガードの記録にもな、石にされたまま、何十年も保管庫で眠ってる奴がいるんだわ。誰も戻し方を知らねえからな」

 

マキナが、唐揚げを食べる手を止めていた。

 

「あの化け物は、神格だった。こいつは、人間が持ち歩ける道具だ。……同じことが、道具でできちまう。そこが一番、やべえんだわ」

 

朝霧は、布の端で杖を包み直した。

 

「こんなもんが闇で出回ってるってだけで、本来なら大ごとだ。……で、本題はこっちだ」

 

朝霧は、胸ポケットから小さな革袋を取り出した。

 

中から出てきたのは、あの徽章だった。大きく枝を広げた一本の樹。そのうちの一本だけが、根元から断ち切られたように欠けている。

 

「実はな、あの紋章、ただの飾りじゃなかったんだわ」

 

朝霧は、徽章を指先で裏返した。裏面には、髪の毛ほどの細さの溝が、びっしりと刻まれていた。

 

「うちの鑑識に、魔紋に詳しいのが一人いてな。そいつに見せたら、顔色変えやがった。こいつは、魔紋だ。ものすごく細かく刻まれた、一種の術式なんだわ」 「術式?」 「おう。魔力を流すと起動する仕組みになってる。で、分かった範囲じゃ、役割は二つ」

 

朝霧は、指を一本立てた。

 

「一つ目は、鍵だ。持ち主が組織の一員だってことを示す、身分証みたいなもんだな。こいつを持ってる奴じゃなきゃ入れねえ場所とか、通れねえ扉とかがあるんだろうよ」

 

もう一本、指を立てる。

 

「二つ目は、呼び鈴だ。魔力を流すと、どこか上の方に合図が届く。……お前、あの夜、通信越しに女の声を聞いたって言ってたな」

 

パラゴンは、あの間延びした声を思い出した。

 

あらあら。手こずってるのぉ?

 

「……あれも、これか」 「たぶんな。少なくとも、同じ系統の術式だ。誰の声だったのかまでは、さすがに分からんが」

 

朝霧は、徽章を革袋に戻した。

 

「ちなみにこういう、神聖な名前を元に相手を認証する術式の系統を、界隈じゃ『テトラグラマトン系』って俗称で呼ぶらしいぞ。鑑識の奴の受け売りだけどな。名前を鍵にして、名前で相手を呼ぶ。古くせえ系統らしい」

 

「欠けた枝の方は?」 「そいつが、よく分からん」

 

朝霧は、あっさりと首を振った。

 

「術式の一部なのか、単なる意匠なのか、それとも何かの印なのか。鑑識も首をひねってた。……分からんもんを、分かったふりはしねえよ」

 

そして、最後に。朝霧は、帳面の写しを一枚、卓の上に置いた。

 

品目、数量、搬出先。あの夜、倉庫で見た事務的な文字の列。そのうちの一行に、朝霧の太い指が乗った。

 

――梱包資材 ビロード(紺)、麻紐、薄紙。納入元:オーレル雑貨店。

 

その横に、古びた丸い判子の跡が押されていた。

 

パラゴンは、その判子を知っていた。

 

数日前、マキナがおつかいで持ち帰った包み紙の端に、同じものが押されていたからだ。

 

マキナが、小さく息を呑んだ。

 

「……オーレルの、はんこ」

 

「知ってるのか、嬢ちゃん」 「うん。せっけん、かった。……いいひと。でんきゅうも、とりかえてあげるって、いってた」

 

朝霧は、しばらく黙って判子の跡を見つめていた。

 

「……あいつとはな、古い付き合いなんだわ」

 

朝霧の声は、低かった。

 

「俺がまだ下っ端だった頃から、あの店はあそこにあった。夜勤明けに寄っちゃ、茶ぁ一杯出してもらってよ。愚痴もさんざん聞いてもらった。……人を売り物にするような連中の片棒を、好きで担ぐような奴じゃねえ。それだけは、俺が保証する」

 

「じゃあ、なんで帳面に名前がある」 「それが分からねえから、困ってんだわ」

 

朝霧は、短く刈った頭をがしがしと掻いた。

 

「本当は俺が直接動きゃ早いんだけどな……こっちにも立場ってもんがあるんだわ、すまんな」

 

「区画内不介入、か」 「それもある。十二区画の件は、上に言わせりゃ『住人間の揉め事』だ。おまけにこの証拠は、お前が非公式に拾ってきたもんだろ。正式な捜査には持ち込めねえ。俺が制服着てオーレルの店に乗り込んでみろ。あいつは一発で『容疑者』になる。……それだけは、したくねえんだわ」

 

朝霧は、パラゴンの目をまっすぐに見た。

 

「だから、これは隊長としての依頼じゃねえ。俺個人の、頼みごとだ。オーレルに、それとなく探りを入れてほしい」

 

少し間を置いて、付け加える。

 

「疑ってるわけじゃねえんだ。ただ、あの帳面にあいつの名があったのが……な。何かあったんなら、力になってやりてえんだわ」

 

パラゴンは、帳面の写しを折りたたんでポケットにしまった。

 

「……報酬は?」 「唐揚げ、あと一皿追加でどうだ」 「安すぎるだろ」 「塩だぞ?」 「塩でもだ」

 

朝霧は、また豪快に笑った。けれど、その笑いの底に、ほっとしたような響きが混ざっているのを、パラゴンは聞き逃さなかった。

 

「気をつけろよ。お前から聞いた、あの仕込み杖の野郎。話を聞く限りじゃ、あの手合いはまあ、暫定五級ってとこだろうな。そんなのが下っ端の一人に過ぎねえ連中だ」

 

朝霧は、大きな手でパラゴンの肩を叩いた。

 

「無理すんなよ。危なそうだったらすぐ手ぇ引けよ、な?」

 

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4

翌日の昼下がり。パラゴンとマキナは、オーレル雑貨店の軒先に立っていた。

 

名目は、コートの袖を直すための布と糸を買いに来た、というものだ。朝霧に言われたからではない。あくまで、そろそろ直そうと思っていただけだ。

 

「ごめんください」 「はい、いらっしゃい。……おや、マキナちゃん。今日はお兄さんと一緒かい」

 

棚の奥から、オーレルが顔を出した。丸眼鏡の奥の目が、穏やかに細められる。

 

「こんにちは、オーレル。でんきゅう、ちゃんと、ついた」 「それはよかった。あの台所は明るくなったかな」 「うん。すごく、あかるい」

 

オーレルは、パラゴンの色違いの袖に目をやって、小さく苦笑した。

 

「ああ、それを直しに来たんだね。丈夫な厚手の布があるよ。色も、なるべく近いものを探してみよう」

 

オーレルは、店の奥から布の束を抱えてきた。一枚一枚、パラゴンのコートの生地に当てて、色味を確かめていく。手際がよく、迷いがない。

 

「この濃い灰色が一番近いかな。糸はこれ。針は……家にあるかい?」 「ある」 「なら、糸だけで十分だね」

 

布を裁ちながら、オーレルは世間話を続けた。市場の八百屋の親父が、最近腰を痛めたこと。薬局の婆さんの孫が、今度学校に上がること。

 

パラゴンは、相槌を打ちながら、頃合いを計っていた。

 

「そういえば」

 

なるべく、何でもない調子で切り出す。

 

「この前、仕事でちょっと変わったものを見かけてさ。徽章なんだけど。樹の形の、枝が一本欠けた――」

 

オーレルの手が、止まった。

 

布を裁っていた鋏が、布の途中で動かなくなる。

 

ほんの一瞬だった。すぐに、鋏はまた動き出した。何事もなかったかのように、布の端がまっすぐに切り落とされる。

 

「……ほう。珍しい意匠だね」 「それと一緒に、帳面も見つけたんだ。梱包資材の仕入れ先に、この店の名前が――」 「パラゴンくん」

 

穏やかな声だった。いつもと、何も変わらない声だった。

 

けれど、丸眼鏡の奥の目だけが、ほんのわずかに泳いでいた。パラゴンの顔と、店の入り口と、通りの向こうを、行ったり来たりしている。

 

「うちはね、ただの雑貨屋だ。紐も、紙も、布も、買いたい人がいれば売る。……それだけの店だよ」

 

オーレルは、裁ち終えた布を丁寧に畳み、糸と一緒に紙袋に入れた。いつもの丸い判子を、ぽんと押す。

 

そして、紙袋をパラゴンに手渡しながら、静かに言った。

 

「その話は、もうやめておきなさい」

 

「……オーレル」 「君には、妹さんがいるだろう。それに、この子も」

 

オーレルの視線が、マキナに向けられた。丸眼鏡の奥の目は、どこまでも優しかった。

 

「年寄りの小言だと思って、聞き流してくれていい。でもね。世の中には、知らないままでいた方がいいことも、あるんだよ」

 

マキナが、オーレルの顔をじっと見上げていた。

 

「オーレル」 「何だい」 「……こわいの?」

 

オーレルは、少しだけ目を見開いた。

 

それから、困ったように笑った。はじめてのおつかいの日、値切りに来たマキナに向けたのと同じ、穏やかな笑顔だった。

 

「……正直な子だね、本当に」

 

答えには、なっていなかった。

 

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5

店を出て、三つ目の角を曲がったところで、パラゴンは足を止めた。

 

「マキナ。俺の後ろにいろ」 「……?」

 

さっきから、ずっと視線を感じていた。オーレルの店を出たときから。いや、たぶん、店に入る前から。

 

振り返らずに、パラゴンは言った。

 

「出てこいよ。雑貨屋からずっとついてきてるだろ」

 

一拍の沈黙。

 

路地の奥、積み上げられた木箱の陰から、男が一人、姿を現した。

 

灰色のコートだった。あの夜、十二区画で見たのと同じ仕立ての。ただし、あの三人組の誰でもない。痩せた、若い男だ。

 

「……勘のいい方ですね」

 

男は、丁寧に頭を下げた。やはり、同じだった。この礼儀正しさまで、揃いの制服のように身についている。

 

「あの店の周りを嗅ぎ回るのは、お控えいただけますか。ご店主にも、ご迷惑がかかりますので」 「迷惑をかけてるのは、どっちだよ」

 

男は答えなかった。代わりに、コートの袖口から、何かを抜いた。

 

細い投げ短剣が三本。指の間に挟まれて、鈍く光った。

 

「警告は、一度だけと決められております」

 

短剣が飛んだ。

 

パラゴンは、横に置かれた空の樽を蹴り上げた。宙に浮いた樽の胴に、三本の短剣が立て続けに突き刺さる。

 

樽が落ちるより早く、パラゴンは踏み込んでいた。

 

男が、次の短剣を抜く。その手首めがけて、パラゴンは腰の拳銃を抜き撃った。弾丸は手首ではなく、男の足元の石畳を穿った。跳ねた石の欠片に、男が思わず身を引く。

 

その一瞬で、距離は詰まっていた。

 

剣は抜かない。狭い路地で振り回せば、マキナを巻き込む。

 

代わりに、左手でポーチから呪符を一枚引き抜いた。親指で魔紋をなぞる。路地の魔素が、紙の上の回路へ流れ込む。

 

「――吹け」

 

呪符が弾けた。路地の奥へ向かって、叩きつけるような突風が走る。

 

足元の砂埃と、干してあった洗濯物と、軒先の日よけの布が、まとめて男に襲いかかった。視界を塞がれた男が、腕で顔を庇う。

 

その腕を掴んだ。

 

捻り上げる。短剣が、からんと石畳に落ちた。

 

「さて」

 

パラゴンは、男の腕を背中側に固めたまま、低く言った。

 

「誰に言われて見張ってた。オーレルか、それとも――」

 

男の肩が、かすかに震えた。

 

笑っていた。

 

「……申し訳ございません。お答えできかねます」

 

男の空いている方の手が、自分のコートの胸元に触れた。

 

そこに、何かがあった。小さな、金属の硬い感触。

 

徽章だ。

 

指先から、魔力が流れる気配がした。

 

次の瞬間、男の体が、ふっと軽くなった。掴んでいたはずの腕が、手の中から抜け落ちる。

 

いや、違う。

 

男の姿そのものが、陽炎のように揺らいで、消えた。

 

後に残ったのは、突風で散らかった洗濯物と、樽に刺さった三本の短剣と、パラゴンの手の中の、何も掴んでいない空気だけだった。

 

「……転移か」

 

パラゴンは、空になった手を握り直した。

 

深追いは、できない。どこに飛んだのかも分からない。

 

分かったのは、一つだけだ。

 

あの連中は、まだこの街にいる。そして、オーレルの周りを、見張っている。

 

「パラゴン」

 

後ろから、マキナが袖を引いた。

 

「ケガ、ない?」 「ない」 「……よかった」

 

マキナは、散らかった洗濯物を一枚拾い上げて、律儀に物干しに掛け直した。

 

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6

オーレル雑貨店に戻ったのは、夕暮れ時だった。

 

店の軒先で、オーレルが一人、看板を仕舞おうとしていた。パラゴンたちに気づいて、その手が止まる。

 

路地で何があったのか、オーレルは聞かなかった。ただ、パラゴンの顔と、マキナの顔を、ゆっくりと見比べた。二人とも無事なのを確かめるように。

 

「……おかえり。忘れ物かな」 「いや。挨拶だけ」

 

パラゴンは、それ以上何も言わなかった。

 

オーレルも、何も言わなかった。

 

夕暮れの市場は、店じまいの物音で満ちていた。どこかで、戸板を下ろす音がする。子どもが母親を呼ぶ声がする。

 

オーレルは、剥げかけた「オーレル雑貨店」の看板を胸に抱えたまま、しばらく黙っていた。

 

それから、誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。

 

「……昔、『樹』を名乗る連中がいた」

 

パラゴンは、息を止めた。

 

「立派な連中だったよ。少なくとも、最初はね。……枝が、まだ全部揃っていた頃の話だ」

 

欠けた枝。

 

その言葉が出た瞬間。

 

パラゴンの隣で、マキナの表情が変わった。

 

いつもの、何にでも目を輝かせる無邪気な顔ではなかった。困ったような顔でも、泣きそうな顔でもなかった。

 

ひどく静かで、ひどく真剣な顔だった。

 

まるで、ずっと遠くにある何かを、まっすぐに見据えているような。

 

ほんの一瞬のことだった。

 

パラゴンが声をかけようとしたときには、もう、マキナはいつもの顔に戻っていた。

 

「年寄りの昔話だ。忘れておくれ」

 

オーレルは、看板を抱え直して、店の奥へ入っていった。

 

戸が閉まる。かちり、と内側から鍵のかかる音がした。

 

―――

 

帰り道。夕焼けの坂を、二人で上る。

 

パラゴンの手には、オーレルが裁ってくれた濃い灰色の布と、糸の入った紙袋。袋の端には、いつもの丸い判子が押されている。

 

「マキナ」 「んー?」 「さっき、どうかしたか」 「……? なにが?」

 

マキナは、きょとんと首を傾げた。

 

本当に分からない、という顔だった。少なくとも、そう見えた。

 

「……いや。なんでもない」 「へんなパラゴン」

 

マキナは、くすくすと笑った。

 

それから、坂の上の、夕焼けに染まった空を見上げた。

 

「ねえ、パラゴン。そで、なおしたら、あさぎり、よろこぶかな」 「……喜ぶだろうな。うるさいくらいに」 「じゃあ、はやく、なおそうね」

 

マキナは、パラゴンの紙袋の端を、ちょこんと指先でつまんだ。

 

判子の押された、その端を。

 

夕焼けの中で、その指先が、ほんの少しだけ、何かを確かめるように丸い判子の跡をなぞった。

 

(第4話 了)

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