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1
「朝霧さんから、伝言です」
HUB第三支部。依頼の報告を済ませたパラゴンに、ミレイが折りたたんだ紙切れを差し出した。
「今朝、セイフガードの若い隊員さんが届けに来ました。『隊長から、パラゴンさんに直接』って」
開くと、豪快に崩れた字が目に飛び込んできた。
――例の件、ちょっと分かったことがある。今夜、鉄鍋亭で。嬢ちゃんも連れてこい。
それだけだった。
「……詰所じゃないのか」
呟いたパラゴンの手元を、マキナが横から覗き込む。
「てつなべてい?」 「飯屋だ。朝霧の行きつけの」 「あさぎり?」 「セイフガードの隊長だよ。この前の十二区画の件で、押収したものを預けてある」
マキナは、紙切れの崩れた字をじっと見つめた。
「……じが、おおきい」 「字がでかい奴なんだ。声もでかい」
パラゴンは紙切れをポケットにしまった。
詰所ではなく、飯屋。制服の隊員に伝言を持たせておきながら、中身は紙切れ一枚。
表立って話せることではない、ということだ。
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2
鉄鍋亭は、中層区の裏通りにある小さな食堂だった。
煤けた暖簾をくぐると、鉄鍋で何かを炒める音と、油と醤の匂いが押し寄せてくる。夕飯時の店内は、仕事帰りの職人や荷運びの男たちでほぼ満席だった。
「おう、待ってたぞ! こっちだこっち!」
店の奥から、店じゅうに響く声が飛んできた。
奥の小上がりで、大柄な男が手を振っている。がっしりした肩幅、短く刈り込んだ髪。日焼けした顔の頬骨のあたりに、古い刀傷が一本走っている。セイフガードの制服は一応きちんと着ているが、襟元は緩められ、ボタンが一つ外れていた。
セイフガード第3実働部隊隊長、朝霧実だ。
「声がでかいんだよ、お前は」 「でかくて困ることなんかねえだろ。ほら座れ座れ」
朝霧はパラゴンを小上がりに押し込み、それから、その後ろにいた銀髪の少女に目を留めた。
一瞬の間。
それから、日焼けした顔がくしゃっと崩れた。
「よう、噂の嬢ちゃんも一緒か! 元気そうだな!」 「……うわさ?」 「おう。箱から出てきた嬢ちゃんのことは、第三支部の連中から散々聞かされてんだわ。マキナ、だったな?」 「うん。マキナ」 「俺は朝霧だ。朝霧実。こいつの世話を焼いてる、しがない公僕ってやつだ。よろしくな!」
朝霧が、大きな手を差し出す。マキナは少しだけその手を見つめてから、両手でぎゅっと握り返した。
「よろしく、あさぎり。……て、おおきい。あったかい」 「ははっ、そうか! 嬢ちゃんの手はちっちぇえな!」
朝霧は豪快に笑って、それからパラゴンの方に向き直った。
そして、その笑顔のまま、眉だけをぐっと寄せた。
「……おい。その袖、まだ直してねえのか」
パラゴンのコートの左袖。石になった部分を切り落として、ありあわせの布で継いだままの、色違いの袖だ。
「別にいいだろ。着られるんだから」 「よかねえよ。見てるこっちが寒いわ。金がねえなら言え、布代くらい出してやる」 「いらない」 「かーっ、かわいくねえ」
朝霧は大げさに天を仰いでから、通りかかった店の親父に手を上げた。
「親父! 唐揚げ三人前、塩でな! タレじゃねえぞ、塩だぞ!」 「あいよ、いつものね」 「それと、嬢ちゃんには何か甘いもんを」 「あまいもの!」
マキナの目が輝いた。
運ばれてきた唐揚げを、朝霧は満足げに眺めた。
「ここの唐揚げはな、塩に限るんだわ。タレで食う奴の気が知れねえ。いいか嬢ちゃん、これは大事なことだから覚えとけよ。唐揚げは、塩だ」 「からあげは、しお」 「そうだ! 分かってるじゃねえか!」 「……人の連れに変な宗教を教えるな」
マキナは、湯気の立つ唐揚げを一つ、ふうふう冷ましてから頬張った。目を丸くする。
「……! しお、すごい」 「だろう!」
朝霧は心底嬉しそうに笑った。
その笑顔の横を、灯りに誘われた小さな蛾が一匹、ふらりと横切った。
「うおっ!?」
セイフガード第3実働部隊隊長が、座ったまま半歩ぶん飛び退いた。
「……虫、まだ駄目なのか」 「う、うるせえ。駄目なもんは駄目なんだよ。あいつら、何考えてるか分かんねえだろうが」
蛾は、マキナの指先にとまった。マキナは、それを不思議そうに眺めてから、そっと窓の外へ逃がしてやった。
「あさぎり、もう、いないよ」 「……おう。ありがとな、嬢ちゃん」
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3
唐揚げの皿が半分空いたころ、朝霧はふっと声を落とした。
小上がりの衝立を少しずらして、店の喧騒から自分たちを隠す。それから、足元に置いていた長い布包みを、膝の上でほどいた。
中から出てきたのは、先端に鈍い灰色の鉱石を嵌めた短杖だった。
あの夜、十二区画の倉庫で、パラゴンのコートの袖を石に変えた杖だ。
「こいつはな」
朝霧の声から、さっきまでの豪快さが消えていた。
「本当に、やばい代物だ。……って、お前に言うことじゃねえのは分かってるけどな」
朝霧は、ちらりとパラゴンを見た。
「西都市で、嫌ってほど見たんだろ」 「……ああ」
パラゴンは、鉱石の鈍い灰色から目を逸らさなかった。
触手に触れられた人々が、悲鳴を上げる暇もなく、この色に変わっていった。瓦礫の街に、人の形をした灰白色の石が、いくつも立ち尽くしていた。あの異形を地に落とした後も、それだけは元に戻らなかった。
「同じ色だ。あの時の、あれと」 「……そうか」
朝霧は、それ以上は聞かなかった。節くれだった指が、鉱石には触れないように、杖の柄だけをなぞる。
「斬られても、焼かれても、何週間かすりゃ元に戻る。この世界じゃ、それが当たり前だ。だから俺らの仕事も、極端な話、どこかで『どうせ戻る』って甘えがある」
朝霧は、杖を布の上に戻した。
「石だけは、戻らねえ。……セイフガードの記録にもな、石にされたまま、何十年も保管庫で眠ってる奴がいるんだわ。誰も戻し方を知らねえからな」
マキナが、唐揚げを食べる手を止めていた。
「あの化け物は、神格だった。こいつは、人間が持ち歩ける道具だ。……同じことが、道具でできちまう。そこが一番、やべえんだわ」
朝霧は、布の端で杖を包み直した。
「こんなもんが闇で出回ってるってだけで、本来なら大ごとだ。……で、本題はこっちだ」
朝霧は、胸ポケットから小さな革袋を取り出した。
中から出てきたのは、あの徽章だった。大きく枝を広げた一本の樹。そのうちの一本だけが、根元から断ち切られたように欠けている。
「実はな、あの紋章、ただの飾りじゃなかったんだわ」
朝霧は、徽章を指先で裏返した。裏面には、髪の毛ほどの細さの溝が、びっしりと刻まれていた。
「うちの鑑識に、魔紋に詳しいのが一人いてな。そいつに見せたら、顔色変えやがった。こいつは、魔紋だ。ものすごく細かく刻まれた、一種の術式なんだわ」 「術式?」 「おう。魔力を流すと起動する仕組みになってる。で、分かった範囲じゃ、役割は二つ」
朝霧は、指を一本立てた。
「一つ目は、鍵だ。持ち主が組織の一員だってことを示す、身分証みたいなもんだな。こいつを持ってる奴じゃなきゃ入れねえ場所とか、通れねえ扉とかがあるんだろうよ」
もう一本、指を立てる。
「二つ目は、呼び鈴だ。魔力を流すと、どこか上の方に合図が届く。……お前、あの夜、通信越しに女の声を聞いたって言ってたな」
パラゴンは、あの間延びした声を思い出した。
あらあら。手こずってるのぉ?
「……あれも、これか」 「たぶんな。少なくとも、同じ系統の術式だ。誰の声だったのかまでは、さすがに分からんが」
朝霧は、徽章を革袋に戻した。
「ちなみにこういう、神聖な名前を元に相手を認証する術式の系統を、界隈じゃ『テトラグラマトン系』って俗称で呼ぶらしいぞ。鑑識の奴の受け売りだけどな。名前を鍵にして、名前で相手を呼ぶ。古くせえ系統らしい」
「欠けた枝の方は?」 「そいつが、よく分からん」
朝霧は、あっさりと首を振った。
「術式の一部なのか、単なる意匠なのか、それとも何かの印なのか。鑑識も首をひねってた。……分からんもんを、分かったふりはしねえよ」
そして、最後に。朝霧は、帳面の写しを一枚、卓の上に置いた。
品目、数量、搬出先。あの夜、倉庫で見た事務的な文字の列。そのうちの一行に、朝霧の太い指が乗った。
――梱包資材 ビロード(紺)、麻紐、薄紙。納入元:オーレル雑貨店。
その横に、古びた丸い判子の跡が押されていた。
パラゴンは、その判子を知っていた。
数日前、マキナがおつかいで持ち帰った包み紙の端に、同じものが押されていたからだ。
マキナが、小さく息を呑んだ。
「……オーレルの、はんこ」
「知ってるのか、嬢ちゃん」 「うん。せっけん、かった。……いいひと。でんきゅうも、とりかえてあげるって、いってた」
朝霧は、しばらく黙って判子の跡を見つめていた。
「……あいつとはな、古い付き合いなんだわ」
朝霧の声は、低かった。
「俺がまだ下っ端だった頃から、あの店はあそこにあった。夜勤明けに寄っちゃ、茶ぁ一杯出してもらってよ。愚痴もさんざん聞いてもらった。……人を売り物にするような連中の片棒を、好きで担ぐような奴じゃねえ。それだけは、俺が保証する」
「じゃあ、なんで帳面に名前がある」 「それが分からねえから、困ってんだわ」
朝霧は、短く刈った頭をがしがしと掻いた。
「本当は俺が直接動きゃ早いんだけどな……こっちにも立場ってもんがあるんだわ、すまんな」
「区画内不介入、か」 「それもある。十二区画の件は、上に言わせりゃ『住人間の揉め事』だ。おまけにこの証拠は、お前が非公式に拾ってきたもんだろ。正式な捜査には持ち込めねえ。俺が制服着てオーレルの店に乗り込んでみろ。あいつは一発で『容疑者』になる。……それだけは、したくねえんだわ」
朝霧は、パラゴンの目をまっすぐに見た。
「だから、これは隊長としての依頼じゃねえ。俺個人の、頼みごとだ。オーレルに、それとなく探りを入れてほしい」
少し間を置いて、付け加える。
「疑ってるわけじゃねえんだ。ただ、あの帳面にあいつの名があったのが……な。何かあったんなら、力になってやりてえんだわ」
パラゴンは、帳面の写しを折りたたんでポケットにしまった。
「……報酬は?」 「唐揚げ、あと一皿追加でどうだ」 「安すぎるだろ」 「塩だぞ?」 「塩でもだ」
朝霧は、また豪快に笑った。けれど、その笑いの底に、ほっとしたような響きが混ざっているのを、パラゴンは聞き逃さなかった。
「気をつけろよ。お前から聞いた、あの仕込み杖の野郎。話を聞く限りじゃ、あの手合いはまあ、暫定五級ってとこだろうな。そんなのが下っ端の一人に過ぎねえ連中だ」
朝霧は、大きな手でパラゴンの肩を叩いた。
「無理すんなよ。危なそうだったらすぐ手ぇ引けよ、な?」
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4
翌日の昼下がり。パラゴンとマキナは、オーレル雑貨店の軒先に立っていた。
名目は、コートの袖を直すための布と糸を買いに来た、というものだ。朝霧に言われたからではない。あくまで、そろそろ直そうと思っていただけだ。
「ごめんください」 「はい、いらっしゃい。……おや、マキナちゃん。今日はお兄さんと一緒かい」
棚の奥から、オーレルが顔を出した。丸眼鏡の奥の目が、穏やかに細められる。
「こんにちは、オーレル。でんきゅう、ちゃんと、ついた」 「それはよかった。あの台所は明るくなったかな」 「うん。すごく、あかるい」
オーレルは、パラゴンの色違いの袖に目をやって、小さく苦笑した。
「ああ、それを直しに来たんだね。丈夫な厚手の布があるよ。色も、なるべく近いものを探してみよう」
オーレルは、店の奥から布の束を抱えてきた。一枚一枚、パラゴンのコートの生地に当てて、色味を確かめていく。手際がよく、迷いがない。
「この濃い灰色が一番近いかな。糸はこれ。針は……家にあるかい?」 「ある」 「なら、糸だけで十分だね」
布を裁ちながら、オーレルは世間話を続けた。市場の八百屋の親父が、最近腰を痛めたこと。薬局の婆さんの孫が、今度学校に上がること。
パラゴンは、相槌を打ちながら、頃合いを計っていた。
「そういえば」
なるべく、何でもない調子で切り出す。
「この前、仕事でちょっと変わったものを見かけてさ。徽章なんだけど。樹の形の、枝が一本欠けた――」
オーレルの手が、止まった。
布を裁っていた鋏が、布の途中で動かなくなる。
ほんの一瞬だった。すぐに、鋏はまた動き出した。何事もなかったかのように、布の端がまっすぐに切り落とされる。
「……ほう。珍しい意匠だね」 「それと一緒に、帳面も見つけたんだ。梱包資材の仕入れ先に、この店の名前が――」 「パラゴンくん」
穏やかな声だった。いつもと、何も変わらない声だった。
けれど、丸眼鏡の奥の目だけが、ほんのわずかに泳いでいた。パラゴンの顔と、店の入り口と、通りの向こうを、行ったり来たりしている。
「うちはね、ただの雑貨屋だ。紐も、紙も、布も、買いたい人がいれば売る。……それだけの店だよ」
オーレルは、裁ち終えた布を丁寧に畳み、糸と一緒に紙袋に入れた。いつもの丸い判子を、ぽんと押す。
そして、紙袋をパラゴンに手渡しながら、静かに言った。
「その話は、もうやめておきなさい」
「……オーレル」 「君には、妹さんがいるだろう。それに、この子も」
オーレルの視線が、マキナに向けられた。丸眼鏡の奥の目は、どこまでも優しかった。
「年寄りの小言だと思って、聞き流してくれていい。でもね。世の中には、知らないままでいた方がいいことも、あるんだよ」
マキナが、オーレルの顔をじっと見上げていた。
「オーレル」 「何だい」 「……こわいの?」
オーレルは、少しだけ目を見開いた。
それから、困ったように笑った。はじめてのおつかいの日、値切りに来たマキナに向けたのと同じ、穏やかな笑顔だった。
「……正直な子だね、本当に」
答えには、なっていなかった。
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5
店を出て、三つ目の角を曲がったところで、パラゴンは足を止めた。
「マキナ。俺の後ろにいろ」 「……?」
さっきから、ずっと視線を感じていた。オーレルの店を出たときから。いや、たぶん、店に入る前から。
振り返らずに、パラゴンは言った。
「出てこいよ。雑貨屋からずっとついてきてるだろ」
一拍の沈黙。
路地の奥、積み上げられた木箱の陰から、男が一人、姿を現した。
灰色のコートだった。あの夜、十二区画で見たのと同じ仕立ての。ただし、あの三人組の誰でもない。痩せた、若い男だ。
「……勘のいい方ですね」
男は、丁寧に頭を下げた。やはり、同じだった。この礼儀正しさまで、揃いの制服のように身についている。
「あの店の周りを嗅ぎ回るのは、お控えいただけますか。ご店主にも、ご迷惑がかかりますので」 「迷惑をかけてるのは、どっちだよ」
男は答えなかった。代わりに、コートの袖口から、何かを抜いた。
細い投げ短剣が三本。指の間に挟まれて、鈍く光った。
「警告は、一度だけと決められております」
短剣が飛んだ。
パラゴンは、横に置かれた空の樽を蹴り上げた。宙に浮いた樽の胴に、三本の短剣が立て続けに突き刺さる。
樽が落ちるより早く、パラゴンは踏み込んでいた。
男が、次の短剣を抜く。その手首めがけて、パラゴンは腰の拳銃を抜き撃った。弾丸は手首ではなく、男の足元の石畳を穿った。跳ねた石の欠片に、男が思わず身を引く。
その一瞬で、距離は詰まっていた。
剣は抜かない。狭い路地で振り回せば、マキナを巻き込む。
代わりに、左手でポーチから呪符を一枚引き抜いた。親指で魔紋をなぞる。路地の魔素が、紙の上の回路へ流れ込む。
「――吹け」
呪符が弾けた。路地の奥へ向かって、叩きつけるような突風が走る。
足元の砂埃と、干してあった洗濯物と、軒先の日よけの布が、まとめて男に襲いかかった。視界を塞がれた男が、腕で顔を庇う。
その腕を掴んだ。
捻り上げる。短剣が、からんと石畳に落ちた。
「さて」
パラゴンは、男の腕を背中側に固めたまま、低く言った。
「誰に言われて見張ってた。オーレルか、それとも――」
男の肩が、かすかに震えた。
笑っていた。
「……申し訳ございません。お答えできかねます」
男の空いている方の手が、自分のコートの胸元に触れた。
そこに、何かがあった。小さな、金属の硬い感触。
徽章だ。
指先から、魔力が流れる気配がした。
次の瞬間、男の体が、ふっと軽くなった。掴んでいたはずの腕が、手の中から抜け落ちる。
いや、違う。
男の姿そのものが、陽炎のように揺らいで、消えた。
後に残ったのは、突風で散らかった洗濯物と、樽に刺さった三本の短剣と、パラゴンの手の中の、何も掴んでいない空気だけだった。
「……転移か」
パラゴンは、空になった手を握り直した。
深追いは、できない。どこに飛んだのかも分からない。
分かったのは、一つだけだ。
あの連中は、まだこの街にいる。そして、オーレルの周りを、見張っている。
「パラゴン」
後ろから、マキナが袖を引いた。
「ケガ、ない?」 「ない」 「……よかった」
マキナは、散らかった洗濯物を一枚拾い上げて、律儀に物干しに掛け直した。
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6
オーレル雑貨店に戻ったのは、夕暮れ時だった。
店の軒先で、オーレルが一人、看板を仕舞おうとしていた。パラゴンたちに気づいて、その手が止まる。
路地で何があったのか、オーレルは聞かなかった。ただ、パラゴンの顔と、マキナの顔を、ゆっくりと見比べた。二人とも無事なのを確かめるように。
「……おかえり。忘れ物かな」 「いや。挨拶だけ」
パラゴンは、それ以上何も言わなかった。
オーレルも、何も言わなかった。
夕暮れの市場は、店じまいの物音で満ちていた。どこかで、戸板を下ろす音がする。子どもが母親を呼ぶ声がする。
オーレルは、剥げかけた「オーレル雑貨店」の看板を胸に抱えたまま、しばらく黙っていた。
それから、誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。
「……昔、『樹』を名乗る連中がいた」
パラゴンは、息を止めた。
「立派な連中だったよ。少なくとも、最初はね。……枝が、まだ全部揃っていた頃の話だ」
欠けた枝。
その言葉が出た瞬間。
パラゴンの隣で、マキナの表情が変わった。
いつもの、何にでも目を輝かせる無邪気な顔ではなかった。困ったような顔でも、泣きそうな顔でもなかった。
ひどく静かで、ひどく真剣な顔だった。
まるで、ずっと遠くにある何かを、まっすぐに見据えているような。
ほんの一瞬のことだった。
パラゴンが声をかけようとしたときには、もう、マキナはいつもの顔に戻っていた。
「年寄りの昔話だ。忘れておくれ」
オーレルは、看板を抱え直して、店の奥へ入っていった。
戸が閉まる。かちり、と内側から鍵のかかる音がした。
―――
帰り道。夕焼けの坂を、二人で上る。
パラゴンの手には、オーレルが裁ってくれた濃い灰色の布と、糸の入った紙袋。袋の端には、いつもの丸い判子が押されている。
「マキナ」 「んー?」 「さっき、どうかしたか」 「……? なにが?」
マキナは、きょとんと首を傾げた。
本当に分からない、という顔だった。少なくとも、そう見えた。
「……いや。なんでもない」 「へんなパラゴン」
マキナは、くすくすと笑った。
それから、坂の上の、夕焼けに染まった空を見上げた。
「ねえ、パラゴン。そで、なおしたら、あさぎり、よろこぶかな」 「……喜ぶだろうな。うるさいくらいに」 「じゃあ、はやく、なおそうね」
マキナは、パラゴンの紙袋の端を、ちょこんと指先でつまんだ。
判子の押された、その端を。
夕焼けの中で、その指先が、ほんの少しだけ、何かを確かめるように丸い判子の跡をなぞった。
(第4話 了)