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1
その日、パラゴンは珍しく家にいた。
窓際の椅子に座り、膝の上にコートを広げている。オーレルの店で買った濃い灰色の布を、左袖の継ぎ目に当てて、一針ずつ縫いつけていく。傭兵の手仕事にしては、なかなか丁寧な針目だった。
「お兄ちゃん、上手だねえ」
ベッドの上から、ルーチェが感心したように覗き込む。
「繕い物は、機動部隊の頃に散々やらされたからな。支給品を破くと始末書だったんだ」 「しまつしょ?」 「ごめんなさいの手紙だ。十枚くらい書かされる」
最後の一針を通して、糸を歯で噛み切る。広げてみると、色違いだった左袖は、よく見なければ分からない程度に馴染んでいた。
「うん。これなら朝霧もうるさく言わないだろ」 「マキナちゃんにも見せてあげなきゃね。お散歩から帰ってきたら」
マキナは、朝から散歩に出ている。第十二区画の一件以来、パラゴンは一人で遠くへ行くなと言い含めていたが、アパートの周りの路地くらいなら、もう慣れたものだった。
どこで何を見つけてくるのか、毎回帰ってくるたびに報告が長い。昨日は「かどのいえの、ねこ、ひなたで、ながくなってた」という話を十五分聞かされた。
そのとき。
ドンドンドンドン!
玄関の扉が、壊れそうな勢いで叩かれた。
「アルマゲストさん! アルマゲストさーん!」
扉を開けると、近所の悪ガキ三人組が息を切らして立っていた。
「たいへんたいへん! マキナねーちゃんが!」 「もふが! もふがでっかくなって!」 「マキナねーちゃんが、そっち走ってった!」
「……は?」
話が、何一つ分からなかった。
分からなかったが、「マキナ」と「たいへん」が同じ文の中に入っている時点で、パラゴンは縫い上がったばかりのコートを掴んでいた。
「ルーチェ、ちょっと出てくる」 「いってらっしゃーい。もふちゃんによろしくね」
妹は、なぜか事情を分かっている顔で手を振った。
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2
三つ先の路地を曲がったところで、パラゴンは足を止めた。
止めざるを得なかった。
目の前に、猫がいた。
二階建ての長屋の屋根の上に、猫がいた。
灰色と白の混じった、ふかふかの長毛。耳の先の房毛が、ほんのりと青白く光っている。丸い目。桃色の鼻。長いしっぽ。どこからどう見ても、猫だ。
ただし、屋根と同じくらいの大きさの。
「……ンナ゛ァ〜〜〜ォ」
地響きのような鳴き声が、路地じゅうの窓ガラスをびりびりと震わせた。
巨大な猫は、屋根の上で身を縮めていた。しっぽは限界まで膨らみ、耳はぺたりと伏せられている。どう見ても、怖がっている。その怖がっている前足が、落ち着きなく屋根瓦をふみふみしていた。
ばき。ばきばき。
ふみふみされた瓦が、景気よく割れていく。
「あああ、うちの屋根ぇぇぇ!」
長屋の大家らしい爺さんが、下で頭を抱えていた。
路地は、人でごった返していた。
「もふちゃーん! 降りておいでー!」 「おい誰だ、もふに変なもん食わせたの!」 「大福ー! 大福ちゃーん!」 「タマ! タマ、こっちだぞ!」 「閣下! 閣下、ご乱心召されるな!」
パラゴンは、眉間を押さえた。
「……名前、統一されてないのか」
「そりゃあ、あんた」
隣で見物していた洗濯物干しのおばさん――おつかいの日に、物陰のパラゴンを怪訝な目で見ていた人だ――が、腕を組んで答えた。
「あの子は誰の猫でもないからね。みんな好き勝手に呼んでるのさ。あたしは『もふ』派だけど」 「派閥があるのか」 「最大派閥だよ。二番手が『大福』。『閣下』は角のご隠居一人だけ」
屋根の上で、巨大な猫がまた「ンナ゛ァ〜ォ」と鳴いた。
それを合図に、近所の人々が一斉に動き出した。
「ほら、もふちゃん! 煮干しだよ! 大好きな煮干し!」
魚屋の女将が、バケツいっぱいの煮干しを掲げた。巨大な猫の前では、ひとつまみにも満たない量だった。
「違う違う、猫はこういうのが好きなんだ!」
パン屋の若旦那が、物干し竿の先にハタキを括りつけた、特大の猫じゃらしを振り回す。振りすぎて、向かいの家の植木鉢を叩き落とした。
「こらあ! うちのゼラニウム!」
「閣下! 閣下、こちらへ! 爺めの膝はいつでも空いておりますぞ!」
角のご隠居が、路地の真ん中で正座して自分の膝を叩いていた。膝の面積は、猫の肉球一つよりも小さかった。
「おい、セイフガードに通報したのか!?」 「したよ! そしたら『猫は管轄外です』だってさ!」 「冷てえなあ!」
悪ガキ三人組は、どこから持ってきたのか梯子を長屋の壁に立てかけ、よじ登ろうとしていた。
「降りろ!」
パラゴンは梯子を片手で押さえ、三人を順番につまみ下ろした。
「えー! 助けに行くんだよ!」 「お前らが落ちたら、今度はお前らを助けなきゃならないだろ」
騒ぎはますます大きくなる。野次馬も増える。誰かが露店を出して、焼き芋を売り始めていた。
「……で、マキナはどこだ」
パラゴンは、人混みを見渡した。
白いワンピースと銀色の髪は、どこにも見当たらなかった。
「パラゴン!」
声は、上から降ってきた。
見上げる。
長屋の隣の、物置小屋の屋根の上。巨大な猫の、ちょうど前足のすぐ横に、小さな白い姿がしがみついていた。
「……何やってんだ、お前は」 「もふ、ないてる! こわがってる!」
マキナは、今にも泣き出しそうな顔で叫んだ。
「もふ、しってるの。まえに、いちばで、いっしょに、ひなたぼっこした。……もふ、いいこなの!」
「分かったから、そこから降りろ! 危ないだろ!」 「やだ! もふ、ひとりに、しない!」
巨大な猫――もふが、足元の小さな声に気づいて、首を傾げた。
家ほどもある頭が、ぐうっと物置小屋の方に傾く。
野次馬が、一斉に悲鳴を上げた。
もふは、巨大な鼻先で、マキナの頭をふんふんと嗅いだ。鼻息だけで、マキナの銀髪がぶわっと逆立った。
「……もふ。わたし、わかる?」
「ンナ゛ァ」
小さく――巨大な猫なりに小さく――鳴いて、もふは、また怯えたように身を縮めた。
屋根の上で、しっぽがぶるぶると震えている。
分かっている。分かっているのに、怖さが勝っている。そういう鳴き方だった。
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3
「マキナ。もふは、いつからああなった」
物置小屋の屋根から、パラゴンがどうにかマキナを抱き下ろしたあと。路地の隅で、パラゴンはしゃがみ込んでマキナと目線を合わせた。
「わかんない。……わたしが、きたときには、もう、おおきかった」 「じゃあ、もふが普段よく行く場所、分かるか」
マキナは、少し考えてから、こくりとうなずいた。
「わかる。あさは、パンやさんの、うらぐち。ひるは、ひなたの、あきち。ゆうがたは、さかなやさんの、まえ」
迷いなく、すらすらと言う。
「……よく知ってるな」 「うん。もふの、まいにち。……たぶん、あってる」
パラゴンは立ち上がった。
「一番怪しいのは、昼の空き地だな。行くぞ」
空き地は、長屋の裏手にあった。
崩れた塀に囲まれた、狭い更地だ。普段なら、日当たりのいい隅で猫が昼寝をしているような、何の変哲もない場所。
だが今日は、何かがおかしかった。
「……草が」
空き地の隅の雑草が、異様に伸びていた。
パラゴンの腰ほどの高さまで。いや、一角だけは、パラゴンの背丈を超えている。タンポポの綿毛が、手のひらほどの大きさで、ふわふわと宙を漂っていた。
パラゴンは、雑草の伸び方を目で追った。
背の高い草は、空き地の北東の隅に集中している。そこから離れるほど、少しずつ低くなっていく。まるで、池に投げ込んだ石の波紋のように。
「中心は、あそこだ」
北東の隅。一番背の高い草を掻き分ける。
根元に、何かが落ちていた。
手のひらほどの大きさの、金属と硝子でできた機械の残骸だった。硝子の部分は割れて、中の芯材が剥き出しになっている。表面に刻まれた魔紋が、まだかすかに、青白く脈打っていた。
もふの耳の房毛と、同じ色だった。
「これ、なに?」 「……園芸用の、成長促進器だな」
パラゴンは、残骸の脇に落ちていた金属板を拾い上げた。製造元の刻印と、「鉢植え用」の文字。
「周りの魔素をかき集めて、植物に流し込むための魔道具だ。花を早く咲かせたり、野菜を大きくしたりする。……壊れて、誰かが捨てたんだろ」
パラゴンは、割れた硝子の縁を指先で示した。
「本当は、鉢植え一つ分だけ、ちょっとずつ流すようにできてるんだ。魔紋が弁の代わりになって、流れる量を絞ってる。それが割れて回路が傷ついたせいで、絞りが効かなくなった。……蛇口が壊れて、全開になっちまったみたいなもんだな」
硝子の割れ目の縁に、灰色と白の毛が数本、引っかかっていた。
「で、もふがこれに興味本位でじゃれついた」 「……それで、おおきく、なった?」 「たぶんな。全開の蛇口に、頭から突っ込んだようなもんだ。植物用の魔道具を、猫が浴びるとああなる」
マキナは、残骸をじっと見下ろした。
「……もふ、わるくない」 「ああ。悪いのは、こんなもんをその辺に捨てた奴だ」
パラゴンは、残骸を見下ろしてぼやいた。
「古い魔道具は、勝手に捨てちゃいけない決まりなんだけどな。本当は、ちゃんとCMAの回収窓口に出さなきゃいけない」 「しーえむえー?」 「魔道具の決まり事なんかを仕切ってるお役所だ。……ただ、書類が多いんだよ。だから面倒くさがって、こうやってその辺に捨てる奴が後を絶たない」
パラゴンは、ナイフを抜いた。
「こいつの魔紋を切れば、魔素の流れは止まる。そうすれば、もふの体に溜まった分も、時間が経てば自然に抜けて元に戻るはずだ」
魔素は、濃いところから薄いところへ流れる。流れを作っている回路さえ断てば、あとは水が低きに流れるように、勝手に散っていく。
「ただ、切った瞬間に溜まってた魔素が一気に抜ける。もふの方も、少し暴れるかもしれない」
パラゴンは、マキナを見た。
「だから、お前はここで――」 「もふのとこ、いく」
マキナは、パラゴンが言い終える前に言った。
「もふ、こわいとき、ひとりは、やだとおもう。……わたしが、そばに、いる」
まっすぐな目だった。
パラゴンは、しばらくその目を見つめ返した。
それから、ため息をついた。
「……危なくなったら、すぐ離れろよ」 「うん!」
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4
路地に戻ると、状況はさらに悪化していた。
もふは長屋の屋根から、さらに高い三階建ての集合住宅の屋根によじ登ろうとしていた。途中で雨樋を一本へし折り、物干し台を二つ蹴落とし、今は煙突の陰に頭だけを突っ込んで、ぶるぶると震えている。
頭は隠れている。
胴体と、しっぽと、ふかふかの尻は、全部丸見えだった。
「……隠れてるつもりなのか、あれ」 「かわいいねえ……」
洗濯物のおばさんが、心配と感嘆の入り混じった声で呟いた。周りの野次馬も、何人かが同じ顔をしていた。
マキナが、集合住宅の外階段を駆け上がっていく。
「おい、嬢ちゃん!」 「危ないよ!」 「閣下のお尻が!」
近所の人々の声を背中に受けながら、マキナは屋上に辿り着いた。
煙突の陰に頭を突っ込んだ、家ほどもある猫の、そのすぐ横まで歩いていく。
恐れる様子は、少しもなかった。
小さな手を、ふかふかの巨大な毛並みに、そっと当てる。
「もふ」
びくり、と巨大な体が震えた。
「もふ、だいじょうぶ。……わたしだよ」
マキナは、毛並みに頬を寄せた。
「こわかったね。いきなり、おおきくなって。みんな、ちいさくなって。……わけ、わかんなかったね」
もふは、動かなかった。
けれど、膨らみきっていたしっぽの毛が、ほんの少しだけ、しぼんだ。
「でも、もう、だいじょうぶ。パラゴンが、なおしてくれる。パラゴン、すごいから。……わたしも、ここにいる。ずっと、いる」
マキナの小さな手が、巨大な背中を、ゆっくり、ゆっくりと撫でる。
もふが、煙突の陰から、そろりと頭を出した。
家ほどもある顔が、マキナを見下ろす。丸い目に、小さな白い姿が映っている。
「……ンナァ」
さっきまでの地響きのような声とは違う、ずっと小さな鳴き声だった。
パラゴンは、それを空き地の塀の上から見ていた。
見届けてから、手元の残骸に目を落とす。青白く脈打つ魔紋の、一番太い線。回路の心臓にあたる部分。
ナイフの切っ先を当てる。
一息に、引いた。
魔紋が、ぱちり、と音を立てて途切れた。
青白い光が消える。空き地に満ちていた、微かなうなりのような魔素の気配が、ふっと抜けていく。
集合住宅の屋上で、もふの耳の房毛の光が、ゆっくりと薄れていった。
「……ナァ?」
もふが、首を傾げた。
その体が、少しずつ、縮み始めた。
家の大きさから、小屋の大きさへ。小屋の大きさから、馬くらいの大きさへ。馬くらいから、犬くらいへ。
路地の野次馬たちが、息を呑んで見上げている。
やがて。
屋上の真ん中に、普通の大きさの、灰色と白のふかふかした猫が、ちょこんと座っていた。
その隣で、マキナがへたり込んでいた。
「……もふ。もどった」
もふは、自分の前足をしげしげと眺めた。それから、何事もなかったかのように、マキナの膝の上にぴょんと飛び乗った。
ごろごろごろごろ。
喉を鳴らす音が、路地の下まで聞こえてきた。
一拍の沈黙のあと、路地じゅうから、わっと歓声が上がった。
パラゴンは、手の中の残骸に目を落とした。光の消えた魔紋が、まだほんのりと温かい。
――これが猫じゃなくて、人に当たってたら。
一瞬だけ、そんな考えが頭をよぎった。けれどそれは、路地から聞こえてくる「もふちゃーん!」「大福ー!」「閣下ー!」の大合唱に、あっさりとかき消された。
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5
それからが、大変だった。
「嬢ちゃん、ありがとうねえ! これ持ってきな!」 「ほら、焼き芋! 焼きたてだよ!」 「うちのパンも持ってけ! 昨日の残りだけど!」 「今夜はうちで飯食ってけ! 兄ちゃんも一緒に!」
屋上から降りてきたマキナは、あっという間に近所の人々に囲まれた。両腕には、もふを抱えたまま。その上から、焼き芋やパンや菓子の包みが、次々と積み上げられていく。
「え、えっと、えっと……ありがとう。ありがとう、ございます」
マキナは、目を白黒させながら、一人一人にお辞儀をしていた。お辞儀をするたびに、腕の中の荷物が一つずつ落ちて、誰かがそれを拾って、また積み上げた。
「閣下を救っていただき、爺め、感謝の言葉もございませぬ」
角のご隠居が、マキナに向かって深々と頭を下げた。
「かっか?」 「この猫の真の名でございます」 「……もふ、だよ?」 「閣下でございます」
「もふだよ」「大福だろ」「タマだって」
近所の人々が、またわいわいと言い合いを始める。
その喧騒の中心で、当の猫は、マキナの腕の中で大あくびをしていた。
パラゴンは、人混みの少し外で、その光景を眺めていた。
手の中には、魔紋を切った成長促進器の残骸。空き地の雑草は、そのうち元に戻るだろう。長屋の屋根瓦と、雨樋と、物干し台と、ゼラニウムの鉢植えは、戻らないが。
「あんた、あの子の兄貴かい」
長屋の大家の爺さんが、割れた瓦を手に隣に立った。
「兄貴じゃないけど。……まあ、似たようなもんだ」 「ふうん」
爺さんは、瓦の欠片を眺めて、それから、マキナの方を見た。
「屋根の修理代は、まあ、もふに請求するわけにもいかんしな。……あの子に免じて、今回は勘弁してやるか」 「助かる」 「その代わり、今度うちの屋根直すの手伝えよ。傭兵なんだろ、力仕事は得意だろう」 「……傭兵を何だと思ってるんだ」
そう言いつつ、パラゴンは断らなかった。
夕暮れ。
焼き芋と、パンと、菓子と、魚屋の女将に押し付けられた煮干しのバケツ(もちろん、もふが半分食べた)を抱えて、パラゴンとマキナはアパートへの道を歩いていた。
もふは、マキナの肩の上に乗っていた。さっきまで屋根より大きかった猫とは思えない、平和な顔で。
「パラゴン」 「ん?」 「そで、なおってる」
マキナが、パラゴンのコートの左袖を指差した。
「ああ。今朝な」 「きれい。……あさぎり、よろこぶね」 「うるさいくらいにな」
マキナは、嬉しそうに笑った。
それから、肩の上のもふに頬ずりする。
「もふ、きょうは、ルーチェのとこに、おとまり、する?」 「ナァ」 「するって」 「言ってないだろ」 「いった。いま、いった」
もふが、ぴんと尻尾を立てる。
パラゴンは、その丸い頭を指先でつついた。
「おい、もふ。……いや、大福か、タマか、閣下か。どれでもいいけど」
猫は、面倒くさそうに片目を開けた。
「もう二度と、そこらに落ちてるもんに手ぇ出すなよ。拾い食いは、お前のためにならないからな」
「ひろいぐい、だめ」
マキナが、真面目な顔で復唱した。
もふは、二人の顔を交互に見上げて。
「……ナァ」
大きなあくびを一つ、した。
絶対に分かっていない、という顔だった。
(第5話 了)