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1
CMAの調停官は、紺色の背広をきっちりと着た、声の低い男だった。
HUB第三支部の奥にある、依頼者との面談用の小部屋。ミレイが気を利かせて出した茶には、一度も手をつけていない。
「企業調停庁、第二監督課のフェルナーです。本件は、フリーの方にお願いするのが適切と判断しました」
男は、机の上に数枚の写真を並べた。
夜間に撮られたものだった。破裂した配管。黒く焦げた貯蔵タンクの外壁。瓦礫の中に転がる、弾痕だらけの作業用重機。
「第四工業区画。三週間前から、計五件。いずれも深夜、無人の施設が狙われています。死傷者は、現時点でゼロ」 「ゼロ?」 「ええ。狙われているのは、稼働を止めた精製設備や、廃棄予定の配管区画ばかりです。盗まれたものもない。要求もない。声明もない」
フェルナーは、最後の一枚を指で押し出した。
現場に残された、薬莢と、焼け焦げた装備の破片。その一つに、識別章を削り取った跡がある。
「使用された装備は、旧式のノーヴァ・インダストリアル製です。識別番号は全て潰されていますが、仕様からして間違いない。……企業連紛争時の、正規軍用装備です」
パラゴンは、写真から顔を上げなかった。
「残党、ってことか」 「現時点では、そう見るのが妥当でしょう。敗戦後、ノーヴァは部隊を解散し、関係者の多くは消息不明になっています。複数人による組織的な行動、と我々は見ています。戦力は、推定で暫定四級相当」
フェルナーは、手元の書類を一枚めくった。
「アルマゲストさん。あなたは企業連紛争の従軍記録をお持ちだ。ポートマーズ機動部隊、第三小隊。ノーヴァと同じ戦域にいらした」
その書類に、自分の名前が書かれているのが見えた。
所属、階級、従軍期間。その下に、小さな活字で一行。
――企業連軍(敗戦側)。
「……それで、俺か」 「当時の彼らの戦い方をご存知の方が、適任かと」
フェルナーの口調に、他意はなかった。ただ事実を述べているだけだ。それが分かるから、なおさら何も言い返せなかった。
「パラゴン、どこ、いくの?」
HUBを出ると、カウンター脇の丸椅子から降りたマキナが、ぱたぱたとついてきた。
「仕事だ。今日は帰りが遅くなる。先に帰ってろ」 「……いっしょ、いく」 「駄目だ。今回は――」
言いかけて、パラゴンは口をつぐんだ。
マキナは、じっとこちらを見上げていた。
いつもの、何にでも目を輝かせる顔ではなかった。十二区画に向かったあの日と同じ、静かな目だった。
「パラゴン、さっきから、かお、こわい」
パラゴンは、自分の顔に手をやった。
こわい顔をしている自覚は、なかった。
「……離れたところで、待ってろよ。絶対に前に出るな」 「うん」
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2
第四工業区画は、中央都市の東の外れにある。
かつては企業の工場や精製設備が立ち並んでいた一帯だ。企業連紛争のあと、規制強化で操業を止めた設備がそのまま放置され、今では錆びた配管と、止まった煙突と、骨組みだけになった倉庫が、墓標のように並んでいる。
日が暮れかけていた。
フェルナーが用意したCMAの車両を、区画の入り口に停める。マキナには、車両の陰から出るなと言い含めた。フェルナーの部下が二人、彼女の傍についている。
パラゴンは、一人で区画の奥へ踏み込んだ。
足元で、砂利が鳴る。どこかで、壊れた配管から漏れた蒸気が、しゅうしゅうと細い音を立てている。
錆の匂いがした。油の匂いがした。
胸の奥が、嫌な具合にざわついた。
この景色を、知っている。
正確には、この景色によく似た場所を知っている。数年前。企業連の前線基地だった、あの精製プラントの跡地。錆びた配管と、止まった煙突と、骨組みだけの倉庫。
最初の銃声は、そのとき響いた。
パラゴンは、考えるより先に配管の陰に飛び込んでいた。
弾丸が、さっきまで立っていた場所の砂利を跳ね上げる。一発。二発。三発目は、撃たれなかった。
撃ち手の位置を探る。
左手の、崩れかけた倉庫の二階。いや、違う。今の射角なら、倉庫の骨組みの、もう一つ奥の梁の上。
次の瞬間、今度は右手から撃たれた。
さっきとは、まるで違う方向。配管の束の、真下から。
「――っ」
パラゴンは転がって、重機の残骸の陰に入った。
敵は二人いる。いや――
右手の配管の下を、よく見る。薄闇の中に、小さな鉄の箱が据えつけられていた。箱の前面に、細い銃身が一本。銃身の横で、小さな魔導灯が赤く点滅している。
設置型の自動砲台だ。ノーヴァの前線工兵が、よく使っていた。
周囲を見渡す。錆びた配管の陰。瓦礫の山の上。止まった重機の運転席。目を凝らせば、赤い点滅が、あちこちにあった。
組織的な行動。複数人。暫定四級相当。
違う。
これは、人数でごまかしているだけだ。
砲台を撒いて、射線を散らして、どこから撃たれているのか分からなくする。その間に、本命が一人、死角から死角へと移動する。
パラゴンは、その動きを知っていた。
梁の上から、影が一つ、音もなく配管の束へと飛び移った。
低い姿勢。膝の抜き方。着地の瞬間に、体重を左足に逃がす癖。移動のたびに、必ず一度だけ背後を振り返る、その振り返り方。
――左は俺が見る。右はお前が見ろ。
頭の中で、とうに忘れたはずの声がした。
名前を確認するより先に、体が分かっていた。
「……ケイン」
呟いた声は、蒸気の音にかき消されるはずだった。
なのに、配管の上の影は、ぴたりと動きを止めた。
長い沈黙があった。
やがて、影がゆっくりと立ち上がった。配管の上、薄闇の中に、痩せた男の輪郭が浮かび上がる。
「……まだ、その名前か」
低い声だった。記憶の中の声よりも、ずっと。
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3
ケイン・ハルデンは、痩せていた。
背丈はパラゴンとほとんど変わらないはずなのに、今は猫背のせいで、一回り小さく見えた。頬がこけ、首筋が浮いている。銃を握る手の甲には、骨の形がくっきりと出ていた。
髪は、戦場で刈り込んでいた頃の名残を、そのまま放っておいた長さだった。前髪が目にかかっている。髭は、剃り残したというより、剃る理由がなくなった顔をしていた。
着ているのは、古いノーヴァ製の防護服だった。胸元の、識別章があったはずの場所だけが、布ごと乱暴に剥ぎ取られている。その剥ぎ跡が、服についたどの傷よりも新しく見えた。
それなのに、銃だけは、磨き上げられていた。腰の刃も、ブーツの紐も。命に関わる場所だけが、異様なほど手入れされていた。
落ちくぼんだ目が、パラゴンを見下ろしていた。怒っているようには見えなかった。起きているのが面倒だ、とでもいうような目だった。
「止めに来たのか。それとも、続きをやりに来たのか」
「……CMAの依頼だ」 「そうか」
ケインは、少しだけ口の端を上げた。笑ったのだと、少し遅れて分かった。
笑いの形はしていた。けれど、その先に何もなかった。
―――
初めて会ったのは、撤退命令の食い違いで取り残された、精製プラントの跡地だった。
企業連軍の連携は、紛争の二か月目にはもう崩れていた。各社がそれぞれの指揮系統で動き、補給線も別々で、隣の部隊が何をしているのかも分からない。ポートマーズの第三小隊が受け取った撤退命令と、ノーヴァの工兵混成小隊が受け取った撤退命令は、指定された時刻が半日ずれていた。
気づいたときには、プラントに残っていたのは、パラゴンの分隊と、ケインの分隊だけだった。
識別上は、友軍だった。状況は、見殺しと変わらなかった。
「パラゴン? ご立派な名前だな。模範兵殿ってわけか」
最初に交わした言葉が、それだった。
煤けた顔で、ケインはにやりと笑った。からかわれたと分かって、パラゴンが何か言い返すより先に、ケインは地図を広げていた。
「冗談だ。で、パラゴン。そっちの残弾は。怪我人は何人だ」
それきり、ケインは二度と名前をからかわなかった。
確認、指示、冗談。ケインの言葉は、いつもその順番だった。短くて、無駄がなくて、最後に一つだけ、肩の力を抜かせるようなことを言う。
四日間、二人の分隊はプラントの跡地を守った。
ケインは撤退の判断が早かった。持ち場が持たないと見れば、迷わず下がった。そして、下がる途中で必ず、孤立した誰かを拾った。ノーヴァの兵も、ポートマーズの兵も、区別しなかった。
「会社の命令なんか、知るかよ。今、隣にいる奴が生きてりゃいい」
夜、配管の陰で携帯食を齧りながら、ケインはそう言った。
「上の連中は、会議室で『名誉ある前進』とか言ってんだろ。前進するのは、俺らの足だってのにな」
左は俺が見る。右はお前が見ろ。
それが、二人の決まりになった。合図は、ヘルメットを二回叩くのが「右」、拳を握るのが「待て」。三日目には、言葉がなくても、互いが次にどこへ動くか分かるようになっていた。
五日目の朝、ようやく救援が来た。ポートマーズの輸送車と、ノーヴァの輸送車が、別々に。
別れ際、ケインはパラゴンの肩を一度だけ叩いた。
「生きて、会社に戻んな。戻れたら、そこでまた話せ」
パラゴンは戻った。
戻って、そして、紛争はそれから一月も経たずに終わった。
管理塔第十三階層、思想実行実現部隊ダエーワ。
管理者の直下にありながら、隊員それぞれが自分の思想に従って動くことを許された部隊だ。命令よりも信念を優先する、とさえ言われる。番号で呼ばれる十数人の隊員は、一番下の者でさえ、企業の機動部隊長が数人がかりでようやく足止めできるかどうか、という手合いだという。脅威等級の十級は、事実上あの部隊のためにある、とさえ言われている。
企業連と管理塔の喧嘩に、その部隊から五人が出てきた。管理塔の側に四人。そして、企業連の側にも一人。同じ部隊の隊員同士が、敵と味方に分かれて戦場に立った。思想で動く部隊だというのは、そういうことらしかった。
一人では、四人を止められなかった。企業連軍は、数日で瓦解した。
化け物じみた連中だった。遠目に見ただけで、どれが人間で、どれがそうでないのかも分からなかった。膠着していた戦線が、まるで紙を裂くように割れていった。それを、パラゴンは撤退する輸送車の荷台から見ていた。
ケインとは、それきりだった。
―――
同じ夜の記憶だった。配管の陰で、携帯食を分け合った夜。
パラゴンにとっては、短くて、熱い記憶だった。紛争の中で、たぶん一番まともだった数日間だった。
目の前の男にとっては、どうだったのか。
「ポートマーズは、残ったのか」
ケインが、ぽつりと聞いた。
「……残ってない。西都市ごと、潰れた」 「そうか」
ケインは、少しだけ黙った。
「うちは、残す人間から捨てた」
平坦な声だった。
「部隊は解散。退職金は紙切れ。上の連中は別の会社に移って、今も会議室で何か言ってる。……あの紛争で死んだ連中のことは、書類の上じゃ『作戦中の損耗』だ」
ケインの視線が、パラゴンの顔から、少しだけ下にずれた。パラゴンのコートの、直したばかりの左袖のあたりに。
「同じ側だっただろ」
ケインは言った。
「なのに、お前は今も、名前で呼ばれてる」
パラゴンは、答えられなかった。
暫定十級を落とした傭兵。HUBでその名前を知らない者はいない。指名依頼が来る。朝霧が顔を覚えている。市場の人間が手を貸してくれる。
同じ戦場で、同じように負けた。それなのに、パラゴンには、あの紛争のあとにもう一つ、別の名前がついた。
ケインには、何もつかなかった。
―――
――怖かったんだ。
CMAの書類に、「敗戦側」と書かれているのを見たとき。胸の奥が冷たくなったのは、恥ずかしかったからじゃない。
西都市のあと、俺には新しい名前がついた。暫定十級を落とした傭兵。それで、ずいぶん楽になった。「企業連の、負けた側の元部隊員」じゃなくて、「あの化け物を落とした奴」として見られるようになった。
俺は、それに甘えていた。
負けた側の名前のまま、今の自分を見られるのが、怖かった。
あの紛争のことを、なかったことにしたわけじゃない。ただ、振り返らないようにしていた。振り返らなくても生きていけるだけの、別の名前があったから。
ケインには、それがなかった。
だから、あいつは今も、あの精製プラントの跡地にいる。
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4
「話は、それだけか」
ケインが言った。
そして、配管の上から、ふっと姿を消した。
同時に、区画じゅうの赤い点滅が、一斉に速くなった。
自動砲台が火を噴く。四方八方から、弾丸が降り注ぐ。パラゴンは重機の残骸の陰で身を縮め、射線の隙間を数えた。
一、二、三。砲台の射撃には、周期がある。ノーヴァの旧式は、連射のあとに必ず冷却の間が入る。
その間に、走った。
最寄りの砲台に拳銃を二発。魔導灯が砕けて、赤い点滅が一つ消える。次の遮蔽物へ。また二発。二つ目が沈黙する。
三つ目に銃口を向けたところで、背後から撃たれた。
右肩をかすめる。コートの生地が裂けた。
振り向く。いない。撃った場所から、ケインはもう次の死角へ移っている。
配管の束の下。骨組みだけの倉庫の中。倒れた貯蔵タンクの陰。ケインは、この区画を完全に把握していた。どこから撃てば、どこに逃げられるか。どの配管が、弾を通して、どの配管が弾を弾くか。
前線工兵の戦い方だった。正面からは、絶対に来ない。
そして、狙いは正確だった。
正確なのに、決めに来ない。
撃たれた弾は、どれも急所を狙っていた。狙っていたが、次の一発を急がない。当たれば当たったで、外れれば外れたで、ケインはすぐに次の死角へと消える。
まるで、この撃ち合いが、終わってほしくないとでもいうように。
パラゴンは、呪符を一枚引き抜いた。
親指で魔紋をなぞる。配管から漏れる蒸気に、周囲の魔素を叩き込む。
「――弾けろ」
呪符が光った。漏れ出していた蒸気が、一気に膨れ上がる。白い霧が、区画の一角を丸ごと飲み込んだ。
視界が消える。自動砲台の照準も、霧の中では鈍る。
パラゴンは、霧の中を走った。
足音を殺して、配管の束を回り込む。ケインが最後に撃ってきた方角。その死角の、さらに死角。
あいつなら、ここに下がる。
霧の切れ目の向こうに、痩せた背中が見えた。
パラゴンは、剣を抜いた。
距離を詰める。ケインが振り返る。銃口がこちらを向く。
その瞬間、パラゴンは、自分がどこに立っているのかに気づいた。
ケインの、右側。
――左は俺が見る。右はお前が見ろ。
四日間、ずっとそこに立っていた場所だった。
ケインの銃口が、止まった。
ほんの一瞬だった。
撃てなかったのではない。パラゴンにはそれが分かった。ケインの目は、パラゴンを見ていなかった。パラゴンの、さらに向こう。あの頃なら、右を見ている相棒がいるはずの場所を。
指が、昔の味方を探していた。
その一瞬で、パラゴンの剣の峰が、ケインの銃を持つ手首を打った。
銃が、砂利の上に落ちる。
ケインは、落ちた銃を拾おうとしなかった。代わりに、腰の刃を抜いた。流れるような動きだった。手入れの行き届いた刃が、霧の中で鈍く光る。
刃と刃がぶつかった。
一合。二合。
ケインの刃筋は、知っていた。知っていたから、受けられた。受けられたから、余計に怖かった。
初対面の敵なら、癖を読むのに時間がかかる。けれど、ケインの癖は、全部知っている。どこで踏み込んで、どこで引くか。どこで、わざと隙を見せるか。
そして、ケインも、パラゴンの癖を全部知っている。
互いに、互いの次の手が見えていた。見えているのに、止められなかった。
三合目で、ケインの刃がパラゴンの頬をかすめた。
四合目で、パラゴンの剣がケインの肩口を裂いた。
防護服が裂けて、その下の古い傷痕が覗いた。右肩から背中にかけて、斜めに走る、大きな裂傷の痕。何か、とても大きなものに抉られたような。
――誰かに庇われなければ、ああいう傷では済まない。
パラゴンの剣が、止まった。
ケインも、刃を下ろしていた。
二人とも、肩で息をしていた。霧が、少しずつ晴れていく。
―――
「……パラゴン」
小さな声がした。
振り向くと、配管の陰に、白いワンピースが見えた。
CMAの車両の陰から、いつの間にか出てきていた。フェルナーの部下が、後ろで慌てたように手を伸ばしている。
「マキナ、来るなって――」 「いかない。ここに、いる」
マキナは、配管の陰から一歩も出なかった。ただ、じっとパラゴンを見ていた。それから、ケインを見た。それから、またパラゴンを見た。
「パラゴン」
たどたどしい声だった。いつもと同じ。
「あのひと、まだ、むかしの、なかに、いる」
マキナは、ケインの方を見たまま言った。
それから、パラゴンの方に向き直った。
「……パラゴンも?」
パラゴンは、息を詰めた。
何も言えなかった。
マキナは、それ以上何も言わなかった。答えを待っているのでもなかった。ただ、見たままのことを、見たままに言っただけ、という顔をしていた。
その後ろで、ケインが、小さく笑う気配がした。
「……いい子だな、その子」
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5
ケインは、刃を砂利の上に放った。
「撃てよ」
静かな声だった。
「お前の依頼だろ。CMAの。……区画を五つも壊した、敗残兵の始末だ。お前が片付けりゃ、書類は綺麗に閉じる」
パラゴンは、剣を下ろしたままだった。
「……レン、っていたよな」
パラゴンが言うと、ケインの肩が、かすかに揺れた。
プラントの四日間。ケインの分隊に、いつもケインの後ろをついて回っている、年下の兵がいた。やたらと明るくて、よく喋って、ケインに怒鳴られては笑っていた。
「あいつは」 「死んだ」
ケインは、あっさりと言った。
「お前と別れて、二週間後。オペレーション・ハース。……輪環作戦って言った方が、通りはいいか」
ケインは、裂けた防護服の上から、自分の右肩に触れた。
「上が、見せしめに前進しろって言った。勝ち目がないのは、現場の全員が分かってた。前に出たら、撃たれるだけだ。……撃たれるだけなら、まだよかった」
ケインは、少しだけ黙った。
「あれが何だったのかは、今でも分からねえ。灰色の光が、前の列を舐めていった。それに触れた奴から順に、動かなくなった」
ケインは、ゆっくりと首を振った。
「管理塔の連中の装備じゃなかった。あいつらのやり方とは、何もかも違った。……あの戦場には、敵でも味方でもない何かが紛れ込んでた。後になって、どこの所属でもねえ連中が戦場の後ろをうろついてたって噂も聞いた。確かめようもねえけどな」
パラゴンは、息を止めた。
灰色の光。動かなくなる。その意味を、パラゴンは誰よりもよく知っていた。
言葉は、どこまでも平坦だった。
「レンは、俺の前に飛び出した。で、言いやがった。『お前は死ぬな』って。……言い終わる前に、あいつの足が、石になってた」
ケインは、少しだけ、口の端を上げた。
「俺が、いつもあいつに言ってた台詞だ。それを、そっくりそのまま返してきやがった」
笑いの形をしていた。先には、やっぱり何もなかった。
「……庇われたんだよ。俺が正しいから残ったんじゃない」
ケインの右肩の傷は、そのとき、石になりかけたレンの体ごと抉られた痕なのだと、パラゴンには分かった。
「石になったあいつを、ノーヴァは回収しなかった。重すぎて、運べねえからな。……停戦のあと、一人で探しに戻った。あったのは、泥の中に散らばった、灰色の欠片だけだった」
ケインの声は、どこまでも平坦だった。
「書類の上じゃ、『作戦中の損耗』だ。あの光のことも、どこにも残ってねえ。記録ごと、なかったことにされた」
蒸気の音だけが、区画に響いていた。
「戦争が終わって、俺は上に全部話した。輪環作戦のこと。見せしめの前進のこと。……握りつぶされた。紛争は、もう終わった話だってな」
ケインは、足元の刃を見下ろした。
「それから、あの時の連中が、一人ずつ死んでった。酒で死んだ奴がいた。借金で首が回らなくなった奴がいた。医者にかかる金がなくて、あの時の傷が腐って死んだ奴がいた。事故に見えるように、自分で終わらせた奴もいた」
ケインは、乾いた声で続けた。
「で、何週間かすりゃ、全員戻ってくる。同じ体で、同じ顔で。……戻ってきて、また飲む。また借りる。また終わらせようとする。何度戻っても、戻る場所がねえんだよ」
循環の機構は、傷ついた体を元に戻す。けれど、戻すのは体だけだ。
「そのうち、一人ずつ連絡がつかなくなった。どこかで、まだ繰り返してるんだろうよ。……この世界じゃ、終わることもできねえ」
「残ったのは、俺だけだ」
ケインは言った。
「正義の話なら、先に死んだ連中に言え。……勝ち負けの話も、先に死んだ連中に言え」
落ちくぼんだ目が、初めて、まっすぐにパラゴンを見た。
「俺たちは、全員負けてる。ポートマーズも、ノーヴァも、他の企業の連中も。勝ったのは、あの日ダエーワを寄越した連中だけだ。……なのに、なんでお前は、ここに立ってる」
パラゴンは、答えられなかった。
区画のあちこちで、止まっていた自動砲台の魔導灯が、一つ、また一つと消えていった。ケインが、どこかで操作を切ったのか。それとも、ただ魔素が尽きたのか。
「撃てよ、パラゴン」
ケインは、もう一度言った。
「あの日の続きだ。……どうせ何週間かすりゃ、戻ってくる。分かってる。それでも、お前の前でなら、いい」
その声に、どこか安堵のようなものが混じっているのを、パラゴンは聞き逃さなかった。
最初からそうだったのだ。配管の上で、名前を呼ばれたあの瞬間から。ケインは、パラゴンを敵として見るより先に、どこかでほっとしていた。
あの日を知っている人間が、ようやく来た、と。
パラゴンは、剣を鞘に納めた。
「撃たない」 「……そうか」
ケインは、それ以上何も言わなかった。
区画の入り口の方から、複数の足音が近づいてきた。CMAの執行官たちだった。紺色の制服に、鎮圧用の魔導具。フェルナーが、その先頭にいた。
執行官たちが、ケインを囲む。ケインは、抵抗しなかった。両手を後ろに回され、拘束具がかけられる。その間、一度も顔を上げなかった。
「ケイン・ハルデン。元ノーヴァ・インダストリアル所属、機動警備工兵混成小隊。企業調停法違反、危険装備の不法所持及び使用、施設損壊の容疑で拘束します」
フェルナーが、書類を読み上げるような声で言った。
フルネームで呼ばれたのは、たぶん、紛争が終わってから初めてなのだろう、とパラゴンは思った。そして、それが容疑者としての名前だった。
連行されていく途中で、ケインが一度だけ振り返った。
パラゴンではなく、パラゴンの右側。何もない、ただの空間を。
それから、ケインは前を向いて、二度と振り返らなかった。
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6
CMAの車両が去ったあとも、パラゴンはしばらく区画に立っていた。
日は、とっくに落ちていた。壊れた配管から漏れる蒸気の音だけが、途切れずに続いている。
「アルマゲストさん」
フェルナーが、最後に残っていた。
「ご協力、感謝します。報酬は、規定通りHUBに振り込みます」 「……あいつは、どうなる」 「企業調停法に基づいて、審理にかけられます。死傷者が出ていないことは、考慮されるでしょう」
フェルナーは、少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「輪環作戦の件は、記録にありません。訴えがあったという記録も、ありません。……私に言えるのは、それだけです」
それだけ言って、フェルナーも去っていった。
記録にない。
ケインも、同じことを言っていた。あの灰色の光のことは、どこにも残っていないと。
パラゴンは、鉄鍋亭で石化の杖を前にした朝霧の顔を思い出した。こんなものが闇で出回っているだけで大ごとだ、と朝霧は言った。セイフガードの隊長が、そう言ったのだ。
あの朝霧でさえ、たぶん、知らない。数年前の戦場で、同じ灰色が使われていたことを。
一般の捜査網には出てこない。記録ごと、どこかで握りつぶされている。
―――
区画の出口に向かって歩く。
マキナが、隣を歩いていた。何も言わずに。
頬の傷が、夜風にしみた。右肩の裂けたコートが、歩くたびにぱたぱたと鳴った。直したばかりだったのに、と思った。思っただけだった。
ケインは、拘束された。
区画はもう壊されない。死傷者も出なかった。依頼としては、たぶん、これ以上ないほど綺麗に終わった。
なのに、何も終わった気がしなかった。
あの紛争は、ダエーワが来て、数日で終わった。企業連は負けて、管理塔が勝った。書類の上では、とっくに決着がついている。誰もが、もう終わった話だと思っている。
終わっていなかった。
ケインの中では。死んでいった、ノーヴァの連中の中では。
そして、たぶん、パラゴン自身の中でも。
ずっと振り返らずに来た。振り返らなくても済む名前があったから。けれど、振り返らなかったからといって、あの日がどこかへ消えてくれたわけではなかった。ただ、背中の後ろで、ずっと続いていただけだった。
――生きて、会社に戻んな。戻れたら、そこでまた話せ。
戻った会社は、もうない。
話は、した。
これが、そうだったのか。
あの夜、配管の陰で携帯食を分け合いながら思い描いていた「また話せ」は、こんな形をしていたのか。
答えは、どこからも返ってこなかった。
区画の出口の手前で、パラゴンは一度だけ立ち止まった。
振り返る。
錆びた配管と、止まった煙突と、骨組みだけの倉庫。薄闇の中に、墓標のように並んでいる。
その景色の中に、まだ誰かが立っているような気がした。
右を見ている、誰かが。
「パラゴン」
マキナが、袖を引いた。
パラゴンは、前を向いた。
歩き出す。マキナが、黙ってついてくる。
背中の後ろで、蒸気の音が、いつまでも途切れずに鳴っていた。
(第6話 了)