銀と琥珀   作:らむさいだー

8 / 10
第8話 神話のない神

 

________________________________________________________________________________

 

1

最初に消えたのは、運河沿いの倉庫街で夜警をしていた老人だった。

 

「トビアスさん、っていうんです。もう二十年以上、同じ道を回ってる人で」

 

HUB第三支部のカウンターで、ミレイが依頼書を差し出した。依頼人は、倉庫街の組合だ。

 

「五日前の夜から、家に帰っていないそうです。ただ……」

 

ミレイは、言いにくそうに言葉を切った。

 

「その後も、見たって人がいるんです。いつもの巡回路を、いつもの時間に、ランタンを提げて歩いてたって」 「なら、消えてないだろ」 「それが」

 

ミレイは、依頼書の備考欄を指差した。組合の担当者の、几帳面な字で書かれている。

 

――目撃者によれば、ランタンに火が入っていなかった。 ――声をかけると、振り返って会釈をした。ただし、目撃者の名前を間違えた。二十年来の知人である。 ――翌晩も同じ時刻に目撃された。その翌晩は、目撃されなかった。

 

パラゴンは、備考欄を二度読んだ。

 

「……それ、本人なのか」 「分からないから、依頼が来てるんです」

 

隣の丸椅子で、マキナがホットミルクのマグを抱えたまま、じっと依頼書を見ていた。

 

「なまえ、まちがえた」 「ああ」 「……ずっと、しってるひと、なのに」

 

マキナの声は、いつもより少しだけ小さかった。

 

「似たような話が、もう一件あるぞ」

 

カウンターの端から、ガルドが声を上げた。いつもの席。いつものジョッキ。ただし中身は水だった。夕方前には飲まないのが、この男の数少ない決まりだ。

 

ガルドは、自分の依頼書をひらひらと振ってみせた。

 

「運河の先の洗濯屋の娘だ。三日前から帰ってねえ。なのに昨日、店の前で洗濯物を干してたのを近所の婆さんが見てる。声かけたら、にっこり笑って、そのまま路地に入って、それっきりだと」

 

依頼書の受注者欄には、豪快に崩れた字で「ガルド・ベン」と署名がしてあった。

 

「お前が受けたのか」 「おうよ。洗濯屋の女将とは、昔から顔なじみでな。泣きつかれちゃ断れねえ」

 

ガルドは、ジョッキの水を一気に飲み干した。

 

「場所も近い。たぶん、根っこは同じだろ。……俺は娘の方を追う。お前は爺さんの方を頼む。何か分かったら、ここで落ち合おうや」 「一人で大丈夫か」 「誰に言ってんだ。人探しと撤退の殿は、俺の本職だぞ」

 

ガルドは立ち上がり、壁に立てかけていた中距離用の長銃を肩に担いだ。

 

それから、マキナの頭を大きな手でぐしゃぐしゃと撫でた。

 

「嬢ちゃんも、兄貴分の面倒見てやれよ」 「……うん。いってらっしゃい、いつもあかいひと」 「その呼び方、いつまで続くんだ?」

 

豪快に笑って、ガルドは支部を出ていった。

 

________________________________________________________________________________

 

 

2

運河沿いの倉庫街は、第十二区画の北の端に接している。

 

区画を隔てる低い壁の向こうに、あの日と同じ、静かな屋根の連なりが見えた。パラゴンは一度だけそちらを見て、それから視線を運河に戻した。

 

トビアスの巡回路は、組合から地図をもらっていた。倉庫の裏手を回り、運河に架かる古い石橋を渡り、排水路の脇の細い道を抜けて、また倉庫街に戻ってくる。二十年間、毎晩同じ道だ。

 

日が傾きかけた頃、パラゴンとマキナは、石橋のたもとでそれを見つけた。

 

最初は、誰かが白い塗料をこぼしたのだと思った。

 

石畳の上に、白いものが広がっていた。乾きかけた泡のような、粉を練ったような。その形が、妙だった。

 

人の形をしていた。

 

仰向けに寝そべった、人間の輪郭。頭があって、肩があって、腕が二本と、脚が二本。ただし、指はなかった。顔にあたる部分は、のっぺりと平らだった。

 

輪郭の、右手にあたる位置に、ランタンが一つ転がっていた。芯は乾ききっていて、火を入れた跡がなかった。

 

「……トビアスさんのか」

 

パラゴンは、しゃがみ込んで白いものに触れようとして、やめた。

 

腐臭はない。血の跡もない。ただ、ほんのかすかに、魔素の残り香のようなものがあった。雷が落ちたあとの、空気が焦げたような匂い。

 

「パラゴン」

 

後ろで、マキナが呼んだ。

 

「あれ」

 

マキナが指差したのは、排水路の脇の細い道だった。

 

野良犬が一匹、こちらを見ていた。

 

痩せた茶色の犬だ。尻尾を振っている。けれど、その振り方がおかしかった。左右ではなく、上下に振っていた。規則正しく、機械のように。

 

犬が、一歩こちらへ踏み出した。

 

前脚が、二本同時に出た。

 

次の一歩で、後ろ脚が、前脚と同じ向きに曲がった。

 

犬は、何事もなかったかのように、尻尾を上下に振り続けていた。そして、三歩目を踏み出したところで、ぐずりと崩れた。

 

輪郭が溶けた。茶色の毛並みが、白い泡に変わっていく。石畳の上に、犬の形をした白い染みが残った。

 

しばらく、どちらも口をきかなかった。

 

「……まねっこ」

 

マキナが、ぽつりと言った。

 

声が、少し震えていた。

 

「いぬの、まねっこ。……でも、いぬが、どうやって、あるくか、わかってない」 「ああ」 「わかってないのに、まねっこ、してる」

 

マキナは、白い染みから目を離さなかった。自分の両手を、胸の前でぎゅっと握りしめていた。

 

パラゴンは、その横顔を見た。何か言おうとして、何を言えばいいのか分からなかった。

 

________________________________________________________________________________

 

 

3

その夜、ガルドは支部に戻ってこなかった。

 

翌朝になっても、戻らなかった。

 

「ガルドさん、いつもは遅くても夜のうちに一度は顔を出すんです。報告だけでも」

 

ミレイが、何度目かに入り口の扉を見ながら言った。

 

昼を過ぎても、音沙汰はなかった。ガルドの借りている部屋に使いを出したが、昨夜は帰っていない、ということだけが分かった。

 

パラゴンが、運河の方へもう一度行こうと立ち上がったとき。

 

支部の扉が、開いた。

 

「――ガルドさん!」

 

ミレイが、ほっとしたような声を上げた。

 

赤ら顔の大男が、入り口に立っていた。肩に長銃を担いで。いつものように、ゆっくりと店の中を見回して。

 

そして、いつもの席に、腰を下ろした。

 

「よかった、心配したんですよ。何か分かりました?」

 

ガルドは、ミレイを見た。にこりと笑った。

 

「ええ。ご心配をおかけしました」

 

ミレイの笑顔が、止まった。

 

「……ガルドさん?」 「はい」

 

ガルドは、丁寧に頭を下げた。背筋を伸ばして。膝の上で、両手をきちんと揃えて。

 

パラゴンは、立ち上がったまま動けなかった。

 

ガルドは、ジョッキを頼まなかった。水も頼まなかった。ただ、いつもの席に座って、店の中を、ゆっくりと見回し続けていた。何かを確かめるように。何かを思い出そうとしているように。

 

マキナが、丸椅子から降りた。

 

ガルドの前まで、とことこと歩いていく。

 

見上げる。

 

「……あかく、ない」

 

マキナが、言った。

 

「いつもあかいひと、なのに。あかく、ない」

 

ガルドの顔は、赤くなかった。

 

言われてみれば、そうだった。あの赤ら顔が、今日は妙に白っぽい。血の気がない、というのとも違う。色を塗り忘れた、とでもいうような。

 

ガルドは、マキナを見下ろした。

 

「こんにちは、マキナさん」

 

マキナの肩が、びくりと震えた。

 

ガルドは、マキナを「さん」付けで呼んだことなど一度もない。「嬢ちゃん」だ。いつだって。

 

ガルドの顔が、ゆっくりと傾いた。何かを探すように、何かを思い出そうとするように。

 

「……みなみ、さんばん」

 

ガルドの口が、動いた。

 

「はいすい、だめ。……あし、が」

 

そこまで言って。

 

ガルドの輪郭が、崩れた。

 

赤くない頬が、白い泡に変わっていく。長銃を担いでいたはずの肩が、ぐずりと溶ける。ミレイが悲鳴を上げた。支部にいた傭兵たちが、一斉に椅子を蹴って立ち上がった。

 

数秒後、ガルドのいつもの席には、大男の形をした白い染みだけが残っていた。

 

長銃は、なかった。最初から、持っていなかったのかもしれない。

 

―――

 

「南三番の排水溜めだ」

 

パラゴンは、もう扉に向かっていた。

 

「あの偽物は、ガルドの何かを持ってた。記憶か、癖か、分からないけど。……ガルドは、そこにいる」 「パラゴンさん、CMAに通報しました! 分類不明の脅威だって、企業の方から解析班を出すって――」 「待ってられない」

 

後ろから、白いワンピースがついてくる。

 

パラゴンは振り返らなかった。今は、置いていけと言っても聞かないことは分かっていた。

 

「マキナ」 「うん」 「絶対に、何にも触られるな」 「……うん」

 

________________________________________________________________________________

 

 

4

南三番の排水溜めは、運河の地下にあった。

 

倉庫街の雨水と生活排水を一度溜めてから運河に流す、古い石造りの地下貯水槽だ。錆びた鉄梯子を降りると、湿った空気と、あの焦げたような魔素の匂いが、むっと押し寄せてきた。

 

魔導灯をかざす。

 

石の柱が並ぶ、広い空間だった。足元には浅く水が溜まっている。天井の格子から、細く夕日が差し込んでいた。

 

その光の中に、白いものがいくつも浮かんでいた。

 

柱に、貼りつくように。人の大きさの、白い繭が。

 

一つ、二つ、三つ。繭の表面が、ゆっくりと呼吸するように膨らんだり縮んだりしている。薄い膜の向こうに、目を閉じた人の顔が透けて見えた。トビアスらしい、白髪の老人。まだ若い娘。

 

生きている。眠っている。

 

そして、この街から、姿を消している。

 

「――遅えよ」

 

柱の陰から、掠れた声がした。

 

パラゴンは、魔導灯を向けた。

 

崩れかけた石の段の上に、大男が一人、座り込んでいた。赤ら顔。ちゃんと赤かった。右の脚が、膝の下から不自然な角度に曲がっている。その脚に、自分のベルトを巻いて締め上げていた。膝の上に、長銃。

 

「ガルド」 「おう。……本物だぞ。一応言っとくが」

 

ガルドは、にやりと笑った。顔色は悪かったが、声はいつもの調子だった。

 

「俺の偽物、そっち行ったろ。どうだった」 「礼儀正しかった」 「そりゃ偽物だ」

 

マキナが、ガルドの前にしゃがみ込んだ。顔を覗き込む。

 

「……あかい」 「おう、赤いぞ。何なら触ってみるか」

 

マキナは、そっとガルドの頬に触れた。それから、ほうっと息をついた。

 

「ほんものの、いつもあかいひと」 「だからその呼び方」

 

ガルドは、パラゴンを見上げた。笑いが、少しだけ引いた。

 

「娘を追って、ここまで来た。……あいつがいる。この奥だ。触ったもんを、真似る。人も、犬も、たぶん何でもだ。……俺も、指先を一本、かすられた。その瞬間、頭ん中を手で掻き回されたみてえになってな。このまま掴まれたら全部持ってかれる、ってのだけは分かった。だから、自分で脚を柱にぶつけて、段の下に転がり落ちた。おかげで、それ以上は手が届かなかった」 「自分で?」 「脚一本と、中身全部と、どっちがいい」

 

ガルドは、あっさりと言った。

 

「で、かすった分しか持ってかれなかったらしい。俺の偽物、中途半端だったろ。顔の色も、喋り方も、脚の傷も、全部取りこぼしてやがる。……そのくせ、この場所のことだけは、しっかり持ってったわけだ」

 

排水溜めの奥で、何かが動いた。

 

ぴちゃり、と水音がした。

 

魔導灯の光の端に、それはいた。

 

最初は、瓦礫の山だと思った。崩れた石の欠片と、泥と、錆びた鉄屑の塊。大きさは、せいぜい小型の犬くらい。輪郭が、はっきりしない。見ている間にも、形がじわじわと変わっていく。

 

それが、こちらを向いた。

 

顔はなかった。けれど、こちらを向いたのだと分かった。

 

「パラゴン、気をつけろ」

 

ガルドの声が、低くなった。

 

「さっきまで、あいつ、あんな小さくなかった」

 

瓦礫の塊が、膨らみ始めた。

 

最初に伸びたのは、脚だった。

 

折り畳まれた紙を広げるように、白く細長い脚が、瓦礫の中から次々と伸びていく。一本、二本、四本、八本。関節の数が合わない。曲がる向きが揃っていない。

 

次に、胴体が起き上がった。

 

瓦礫と泥が剥がれ落ち、その下から、滑らかな白い表面が現れる。胴体は、天井に届くほど高く伸び上がっていく。排水溜めの石の柱を、二本、三本と押し除けながら。

 

頭にあたる部分には、何もなかった。のっぺりとした、卵の殻のような白い曲面があるだけ。その上に、薄く光る輪が一つ、浮かんでいた。

 

胸の中央に、窪みがあった。窪みの奥で、何かが脈打っている。拳大の、濁った水晶のような芯。

 

パラゴンは、その形を知っていた。

 

形そのものではない。こういうものが存在する、ということを知っていた。

 

半年前、西都市で。空を覆うような、あの白い異形。

 

これは、あれより小さい。あれより、どこか雑だ。けれど、同じ種類のものだと、体の芯が理解していた。

 

神に似ていた。けれど、どんな神の名も、この白いものには似合わなかった。祈られたこともなく、畏れられたこともない。語られるべき神話を何一つ持たないまま、ただ神の形だけをなぞって、そこに立っていた。

 

「……ガルド、動けるか」 「無理だな。その代わり、口は動くぞ」

 

ガルドが、長銃を構えた。座ったまま。

 

「俺が見る。お前は、殴れ」

 

白い異形の、輪郭のない頭が、パラゴンの方を向いた。

 

________________________________________________________________________________

 

 

5

白い脚が、薙ぎ払うように振るわれた。

 

パラゴンは柱の陰に飛び込む。脚が柱を叩き、石が砕ける。破片が雨のように降ってくる。

 

拳銃を抜いて、三発。胸の窪みを狙った。一発目は脚に弾かれ、二発目は白い表面を浅く削り、三発目は窪みの縁に当たって火花を散らした。

 

効いてはいる。けれど、浅い。

 

「右の三本目だ!」

 

背後から、ガルドの声が飛んだ。

 

「あいつ、動くたびに右の三本目で体重を支えてる。そいつを落とせ!」

 

パラゴンは、剣を抜いて走った。

 

右の、三本目。白い脚が振り下ろされる。その下をくぐり抜けて、三本目の脚の関節に、剣を叩き込む。

 

硬い。刃が半分しか通らない。

 

それでも、脚が一本、がくりと折れた。巨体が傾ぐ。

 

その瞬間、異形の胴体から、何かが零れ落ちた。

 

白い泡が、水面に落ちて、膨らんで、立ち上がる。

 

人の形になった。

 

パラゴンの形だった。

 

黒い髪。継ぎ当てのあるコート。背中に剣。ただし、その目は琥珀色ではなかった。何色でもなかった。白く濁った、ガラス玉のような目が、じっとパラゴンを見ていた。

 

偽物のパラゴンが、剣を抜いた。

 

抜き方が、違った。パラゴンは剣を右肩の上から抜く。偽物は、腰の横から抜こうとして、剣が背中にあることに気づいたように、途中で手を止めた。それから、ぎこちなく右肩に手を伸ばした。

 

真似ようとしている。けれど、どう真似ればいいのか、分かっていない。

 

偽物が、斬りかかってきた。

 

動きは速かった。けれど、ばらばらだった。パラゴンの踏み込みと、パラゴンの剣筋と、パラゴンの呼吸を、全部別々に真似ていて、それが一つの動きになっていなかった。

 

パラゴンは、偽物の剣を弾き、その胴を斬った。

 

偽物は、白い泡になって崩れた。

 

崩れる寸前に、偽物の口が動いた。何か、言おうとしていた。声にはならなかった。

 

「……っ」

 

振り返ると、異形の胴体から、次々と白い泡が零れ落ちていた。

 

トビアスの形。洗濯屋の娘の形。ガルドの形。茶色の犬の形。パラゴンの形。

 

みんな、少しずつ間違っていた。

 

トビアスの偽物は、ランタンを逆さに提げていた。娘の偽物は、笑顔の形に口を開けたまま、表情が動かなかった。ガルドの偽物は、赤くなかった。

 

「……やだ」

 

小さな声がした。

 

振り向くと、柱の陰で、マキナが立ち尽くしていた。

 

偽物たちを見ていた。

 

目が、大きく見開かれていた。両手で、ワンピースの胸元をぎゅっと掴んでいた。

 

「やだ。……あれ、やだ」

 

マキナの声が、震えていた。怖がっている、というのとは違った。何か、見たくないものを見てしまったような。

 

「まねっこ、してる。いっしょうけんめい、まねっこ、してるのに。……ちゃんと、なれない」

 

偽物のトビアスが、逆さのランタンを提げたまま、マキナの方に首を傾けた。

 

「ちゃんと、なれないの、……わかってないの?」

 

誰に聞いているのか、分からなかった。

 

「マキナ、下がれ!」

 

白い脚の一本が、柱の陰に向かって伸びた。

 

先端が、細く、細く、糸のように割れていく。その糸が、マキナの銀色の髪の先に、触れた。

 

パラゴンは、剣を投げた。

 

剣が糸を断ち切る。けれど、ほんの一瞬、遅かった。

 

異形の胴体から、また一つ、白い泡が零れ落ちた。

 

泡が膨らむ。立ち上がろうとする。小さな、人の形に。

 

白いワンピースの形に。

 

――ならなかった。

 

泡は、形になりかけては崩れ、また形になりかけては崩れた。銀色の髪らしきものが見えたかと思うと、次の瞬間には、ただの白い塊に戻っていた。何度も、何度も。どうしても、一つの形に定まらなかった。

 

そして。

 

白い異形が、止まった。

 

八本の脚が、宙で止まった。零れ落ちかけていた泡も、偽物たちも、ぴたりと動きを止めた。排水溜めの中で、水の滴る音だけが響いていた。

 

輪郭のない頭が、ゆっくりと、柱の陰の方に向いた。

 

マキナの方に。

 

頭の上の、薄く光る輪が、一度だけ、明滅した。

 

何かを確かめるように。

 

何かに、気づいたように。

 

マキナは、動かなかった。まっすぐに、その頭を見上げていた。

 

一呼吸。

 

それだけの間だった。

 

次の瞬間、異形は再び動き出した。何事もなかったかのように。

 

「……パラゴン」

 

マキナが、呼んだ。

 

さっきまで震えていた声が、ひどく静かになっていた。まっすぐに、異形を見上げたまま。

 

「あのこ、いき、してる」 「息?」 「まわりの、くうき、ずっと、すってる。すって、まねっこの、かたち、つくってる」

 

マキナは、偽物たちを順番に見た。トビアス。娘。ガルド。パラゴン。

 

「みんな、おんなじ、いき。……ぜんぶ、ひとつに、つながってる」

 

―――

 

「今だ、パラゴン!」

 

ガルドが叫んだ。

 

「あいつ、今の間、全部止まってたぞ! 偽物も含めて全部だ! あいつの頭ん中、一個しかねえ!」

 

パラゴンは、床に転がった剣を拾い上げた。

 

走る。偽物たちが、ばらばらの動きで立ち塞がる。

 

吸っている、とマキナは言った。まわりの何かを吸って、形を作っている、と。

 

なら、吸うものがなくなればいい。

 

ポーチから、呪符を引き抜いた。一枚ではない。三枚まとめて。

 

親指で魔紋をなぞる。排水溜めに満ちていた魔素が、紙の上の回路へと一気に流れ込んでいく。

 

「――喰らえ」

 

三枚の呪符が、同時に弾けた。

 

目を焼くような閃光が、排水溜めを真っ白に染めた。

 

呪符が周囲の魔素を根こそぎ吸い上げて、光に変えて吐き出す。空気が、急に薄くなったように感じた。

 

そのとき。

 

偽物たちが、崩れた。

 

閃光に焼かれたのではない。光が消える前に、偽物たちの輪郭が、一斉にぐずりと溶けていった。トビアスも、娘も、ガルドも、犬も、パラゴンも。白い泡に戻って、水面に落ちていく。

 

異形の巨体も、ぐらりと揺らいだ。白い表面に、細かいひびが走る。

 

マキナの言葉が、どこまで正しかったのかは分からない。考えている暇もなかった。

 

パラゴンは、揺らいだ巨体の、折れた右の脚を駆け上がった。

 

胸の窪み。脈打つ濁った芯。

 

剣を、突き立てた。

 

硬い。

 

腕が痺れる。刃が、半分で止まる。

 

「押せぇ!」

 

ガルドの長銃が、火を噴いた。一発。二発。パラゴンの剣の、柄頭の真横。芯の、同じ場所に。

 

ひびが、走った。

 

パラゴンは、全体重を剣に乗せた。

 

芯が、砕けた。

 

甲高い音が、排水溜めに響き渡った。ガラスが割れるような、あるいは、誰かの悲鳴のような。

 

白い異形の巨体が、ゆっくりと崩れ落ちていく。脚が折れ、胴体が傾き、頭の上の光る輪が消える。

 

柱に貼りついていた白い繭が、次々と弾けた。

 

中から、人が転がり出てくる。トビアス。洗濯屋の娘。それから、パラゴンの知らない顔が、もう二人。咳き込みながら、目を覚まし始める。

 

パラゴンは、崩れた巨体の上から滑り落ちて、水の中に膝をついた。

 

肩で、息をしていた。脇腹に、いつの間にか深い擦り傷ができていた。

 

「……おう」

 

柱の陰で、ガルドが長銃を下ろした。

 

「なかなか、いい線だったぞ。七十点」 「採点するな」 「残りの三十点は、俺の脚の分だ。お前のせいじゃねえから安心しろ」

 

ガルドは、壁にもたれて、深々と息を吐いた。

 

「……いやあ、しかし何だありゃ。俺の若え頃は、街ん中にあんなもん出なかったぞ」

 

________________________________________________________________________________

 

 

6

CMAの車両が到着したのは、それから半刻ほど後のことだった。

 

排水溜めの入り口に、紺色の制服の執行官たちが次々と降りてくる。救護班が、繭から出てきた人々を毛布で包んで運び出していく。トビアスは、まだぼんやりした顔で、自分のランタンを探していた。

 

ガルドは、担架を断った。

 

「自分で上がれる」 「上がれないだろ」 「上がれる。……たぶん」

 

その押し問答の最中に、車両から、一人の女が降りてきた。

 

中央都市の企業が現場に出すときの、灰色がかった実用服。装飾はほとんどない。髪は短く、うなじのあたりできっちりと揃えられている。腰のポーチには、細い金属の針のようなものが何本も差してあった。

 

女は、排水溜めの入り口で足を止め、中を一瞥した。

 

それから、パラゴンの方に歩いてきた。

 

「エルニア・リップ。解析に来た」

 

名乗りは、それだけだった。

 

「触る前に、誰がどこを動かしたかだけ教えて」

 

パラゴンは、少し面食らってから、答えた。胸の芯を剣で砕いたこと。右の三本目の脚を斬ったこと。繭が弾けたこと。偽物たちが、白い泡に戻ったこと。

 

エルニアは、一度も口を挟まずに聞いた。聞き終えると、小さくうなずいた。

 

「ありがとうございます。それで足ります」

 

エルニアは、現場用の厚手の手袋を外した。ポーチから薄い内手袋を取り出して、指に馴染ませるように嵌め直す。それから、崩れた巨体の残骸の方へ、まっすぐに歩いていった。

 

―――

 

残骸は、もうほとんど白い泡になって崩れかけていた。

 

原形を留めているのは、胸の窪みのあたりだけだった。砕けた芯の破片が、白い殻の中に散らばっている。

 

エルニアは、その前にしゃがみ込んだ。

 

腰のポーチから、針を一本抜く。先端に、米粒ほどの小さな魔水晶が嵌め込まれた、細い金属のプローブ。

 

その針を、砕けた芯の断面に、そっと当てた。

 

魔水晶が、淡く光った。

 

エルニアは、しばらく何も言わなかった。

 

左手の親指が、プローブに嵌まった水晶の縁を、無意識のように撫でていた。何度も。ゆっくりと。

 

「コピーが崩れた跡だ」

 

やがて、エルニアは言った。報告書を読み上げるような、平らな声だった。

 

「死んではいない。居なくなっている」

 

パラゴンは、その後ろに立っていた。マキナが、隣にいた。

 

「石化じゃない。置き換えてる」

 

エルニアは、プローブの角度を少し変えた。

 

「対象の意識を落として、隔離して、その位置に模造体を置く。存在の差し替え。……対象を残さない方が、制御は楽だ。こっちは、わざわざ残してる」 「残してる?」 「繭の中の人間は、生かしてあった。模倣の元を、保存しておく必要があったから」

 

エルニアは、次の針を抜いた。芯の、別の断面に当てる。

 

魔水晶の光が、細かく揺れた。

 

エルニアの手が、止まった。

 

数秒。

 

排水溜めの中で、水の滴る音がした。

 

「……この制御精度」

 

低い声だった。驚いている様子はなかった。独り言というより、記録用に呟いているような。

 

「知ってる誰かの技術に似てる」

 

パラゴンは、エルニアの横顔を見た。

 

「似てる、って。誰の」 「似てる、以上のことは言えない」

 

エルニアは、プローブから目を離さずに言った。

 

「似てる」

 

それで、話は終わりだった。

 

エルニアは、次の断面に針を移した。パラゴンは、それ以上聞かなかった。聞いても答えは返ってこないと、分かったからだ。

 

芯の断面には、髪の毛ほどの細さの溝が、びっしりと刻まれていた。

 

「配線の癖が、市販でも軍用でもない」

 

エルニアが、淡々と続けた。

 

「量産向けの引き方じゃない。誰か特定の職人の、手癖に近い。……真似てる側が、元の手を分かってる。逆じゃない」

 

―――

 

マキナが、エルニアの隣にしゃがみ込んだ。

 

砕けた芯の破片を、じっと見つめている。

 

触れはしなかった。ただ、見ていた。

 

「……しってる、かんじが、する」

 

マキナが、小さく言った。

 

エルニアは、ちらりとマキナを見た。それから、プローブに視線を戻した。

 

「知ってる"感じ"は、記録に残らない」

 

平らな声だった。

 

「残るのは、波形だけ」

 

マキナは、少しだけ俯いた。

 

エルニアは、プローブの角度を調整しながら、付け加えた。

 

「……感じたことを、否定はしない。わたしの道具に、載せられないだけ」

 

マキナは、顔を上げた。エルニアは、もうこちらを見ていなかった。

 

けれど、それで十分だったらしい。マキナは、エルニアの隣にしゃがんだまま、そこを動かなかった。二人並んで、同じ破片を見下ろしていた。

 

―――

 

「おい、そこの解析の姉ちゃん」

 

排水溜めの入り口から、ガルドの声がした。結局、救護班に肩を借りて、入り口の段差に腰を下ろしている。

 

「何か分かったんなら、俺にも教えろ。俺は、あいつの一番近くで、一番長く見てたんだぞ」

 

エルニアは、立ち上がった。ガルドの方を見る。右脚の添え木を見る。

 

ガルドが、立ち上がろうと手すりに手をかけた。

 

「動くな」

 

エルニアの声は、平らなままだった。

 

「歩くのはお前の仕事じゃない。見る仕事なら残ってる」

 

ガルドが、目を瞬かせた。

 

エルニアは、ガルドの前まで歩いていって、しゃがみ込んだ。ポーチから、小さな記録板を取り出す。

 

「最後の閃光の直前と直後。模造体の崩れ方を、見たとおりに言ってください」 「……順番に崩れたんじゃねえ。一斉にだ。光が来る前に、もう溶け始めてた」 「光の前に」 「ああ。本体の方も、そこでぐらっと来た。ひびが入ったのは、そのあとだ」

 

エルニアは、記録板に何かを書き込んだ。それから、パラゴンの方を振り向いた。

 

「最後に使った呪符。周囲の魔素を、どれくらい吸い上げました」 「……三枚分。根こそぎに近い」

 

エルニアは、うなずいた。

 

「それだ」

 

記録板を閉じる。

 

「魔素濃度が急に落ちると、模倣が持たない。模造体を形として保つのに、周囲の魔素を常に食ってる。濃度が急変すると、その供給が途切れる」

 

パラゴンは、隣のマキナを見た。

 

マキナは何も言わずに、エルニアの記録板を見ていた。

 

エルニアは、崩れた残骸の方を見やった。

 

「意図的な安定装置が、見当たらない。……これだけ精度の高い制御をしておいて、そこだけ抜けてる。設計として、おかしい」 「おかしい、って」 「本体は、もっと丁寧なはずだ」

 

エルニアは、そう言った。

 

「これは、検証用」

 

パラゴンは、息を止めた。

 

「……本体?」

 

エルニアは、答えなかった。言えないことは言わない、という顔だった。

 

―――

 

その夜遅く、CMAから正式な通達がHUBに届いた。

 

分類不明の脅威、第四十七号。運河地下にて撃破。暫定七級と評価する。

 

七級。

 

一年前なら、この街で聞くはずのない数字だった。

 

―――

 

排水溜めの入り口で、エルニアは最後の記録を取り終えた。

 

内手袋を外し、現場用の厚手の手袋に嵌め直す。ポーチのプローブを一本ずつ確かめて、しまっていく。

 

パラゴンは、その背中に声をかけた。

 

「なあ。あんたの見立てじゃ、今日のは、失敗作なのか」

 

エルニアの手が、止まった。

 

振り返らずに、答える。

 

「これは、試作の失敗じゃない」

 

平らな声だった。

 

「試作の成功だ。成功してるのが、問題だ」

 

エルニアは、ポーチの留め具を閉じた。それから一度だけ、排水溜めの暗がりを振り返った。

 

左手の親指が、また、水晶の縁を撫でていた。

 

―――

 

帰り道。

 

マキナは、ずっと黙っていた。

 

パラゴンの半歩後ろを歩きながら、時々、自分の銀色の髪の先に触れていた。白い糸に触れられた、あの場所に。

 

何度も、確かめるように。

 

パラゴンは、何も聞かなかった。

 

聞いたところで、この子が答えられるのかどうかも、分からなかった。

 

(第8話 了)

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。