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1
最初に消えたのは、運河沿いの倉庫街で夜警をしていた老人だった。
「トビアスさん、っていうんです。もう二十年以上、同じ道を回ってる人で」
HUB第三支部のカウンターで、ミレイが依頼書を差し出した。依頼人は、倉庫街の組合だ。
「五日前の夜から、家に帰っていないそうです。ただ……」
ミレイは、言いにくそうに言葉を切った。
「その後も、見たって人がいるんです。いつもの巡回路を、いつもの時間に、ランタンを提げて歩いてたって」 「なら、消えてないだろ」 「それが」
ミレイは、依頼書の備考欄を指差した。組合の担当者の、几帳面な字で書かれている。
――目撃者によれば、ランタンに火が入っていなかった。 ――声をかけると、振り返って会釈をした。ただし、目撃者の名前を間違えた。二十年来の知人である。 ――翌晩も同じ時刻に目撃された。その翌晩は、目撃されなかった。
パラゴンは、備考欄を二度読んだ。
「……それ、本人なのか」 「分からないから、依頼が来てるんです」
隣の丸椅子で、マキナがホットミルクのマグを抱えたまま、じっと依頼書を見ていた。
「なまえ、まちがえた」 「ああ」 「……ずっと、しってるひと、なのに」
マキナの声は、いつもより少しだけ小さかった。
「似たような話が、もう一件あるぞ」
カウンターの端から、ガルドが声を上げた。いつもの席。いつものジョッキ。ただし中身は水だった。夕方前には飲まないのが、この男の数少ない決まりだ。
ガルドは、自分の依頼書をひらひらと振ってみせた。
「運河の先の洗濯屋の娘だ。三日前から帰ってねえ。なのに昨日、店の前で洗濯物を干してたのを近所の婆さんが見てる。声かけたら、にっこり笑って、そのまま路地に入って、それっきりだと」
依頼書の受注者欄には、豪快に崩れた字で「ガルド・ベン」と署名がしてあった。
「お前が受けたのか」 「おうよ。洗濯屋の女将とは、昔から顔なじみでな。泣きつかれちゃ断れねえ」
ガルドは、ジョッキの水を一気に飲み干した。
「場所も近い。たぶん、根っこは同じだろ。……俺は娘の方を追う。お前は爺さんの方を頼む。何か分かったら、ここで落ち合おうや」 「一人で大丈夫か」 「誰に言ってんだ。人探しと撤退の殿は、俺の本職だぞ」
ガルドは立ち上がり、壁に立てかけていた中距離用の長銃を肩に担いだ。
それから、マキナの頭を大きな手でぐしゃぐしゃと撫でた。
「嬢ちゃんも、兄貴分の面倒見てやれよ」 「……うん。いってらっしゃい、いつもあかいひと」 「その呼び方、いつまで続くんだ?」
豪快に笑って、ガルドは支部を出ていった。
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2
運河沿いの倉庫街は、第十二区画の北の端に接している。
区画を隔てる低い壁の向こうに、あの日と同じ、静かな屋根の連なりが見えた。パラゴンは一度だけそちらを見て、それから視線を運河に戻した。
トビアスの巡回路は、組合から地図をもらっていた。倉庫の裏手を回り、運河に架かる古い石橋を渡り、排水路の脇の細い道を抜けて、また倉庫街に戻ってくる。二十年間、毎晩同じ道だ。
日が傾きかけた頃、パラゴンとマキナは、石橋のたもとでそれを見つけた。
最初は、誰かが白い塗料をこぼしたのだと思った。
石畳の上に、白いものが広がっていた。乾きかけた泡のような、粉を練ったような。その形が、妙だった。
人の形をしていた。
仰向けに寝そべった、人間の輪郭。頭があって、肩があって、腕が二本と、脚が二本。ただし、指はなかった。顔にあたる部分は、のっぺりと平らだった。
輪郭の、右手にあたる位置に、ランタンが一つ転がっていた。芯は乾ききっていて、火を入れた跡がなかった。
「……トビアスさんのか」
パラゴンは、しゃがみ込んで白いものに触れようとして、やめた。
腐臭はない。血の跡もない。ただ、ほんのかすかに、魔素の残り香のようなものがあった。雷が落ちたあとの、空気が焦げたような匂い。
「パラゴン」
後ろで、マキナが呼んだ。
「あれ」
マキナが指差したのは、排水路の脇の細い道だった。
野良犬が一匹、こちらを見ていた。
痩せた茶色の犬だ。尻尾を振っている。けれど、その振り方がおかしかった。左右ではなく、上下に振っていた。規則正しく、機械のように。
犬が、一歩こちらへ踏み出した。
前脚が、二本同時に出た。
次の一歩で、後ろ脚が、前脚と同じ向きに曲がった。
犬は、何事もなかったかのように、尻尾を上下に振り続けていた。そして、三歩目を踏み出したところで、ぐずりと崩れた。
輪郭が溶けた。茶色の毛並みが、白い泡に変わっていく。石畳の上に、犬の形をした白い染みが残った。
しばらく、どちらも口をきかなかった。
「……まねっこ」
マキナが、ぽつりと言った。
声が、少し震えていた。
「いぬの、まねっこ。……でも、いぬが、どうやって、あるくか、わかってない」 「ああ」 「わかってないのに、まねっこ、してる」
マキナは、白い染みから目を離さなかった。自分の両手を、胸の前でぎゅっと握りしめていた。
パラゴンは、その横顔を見た。何か言おうとして、何を言えばいいのか分からなかった。
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3
その夜、ガルドは支部に戻ってこなかった。
翌朝になっても、戻らなかった。
「ガルドさん、いつもは遅くても夜のうちに一度は顔を出すんです。報告だけでも」
ミレイが、何度目かに入り口の扉を見ながら言った。
昼を過ぎても、音沙汰はなかった。ガルドの借りている部屋に使いを出したが、昨夜は帰っていない、ということだけが分かった。
パラゴンが、運河の方へもう一度行こうと立ち上がったとき。
支部の扉が、開いた。
「――ガルドさん!」
ミレイが、ほっとしたような声を上げた。
赤ら顔の大男が、入り口に立っていた。肩に長銃を担いで。いつものように、ゆっくりと店の中を見回して。
そして、いつもの席に、腰を下ろした。
「よかった、心配したんですよ。何か分かりました?」
ガルドは、ミレイを見た。にこりと笑った。
「ええ。ご心配をおかけしました」
ミレイの笑顔が、止まった。
「……ガルドさん?」 「はい」
ガルドは、丁寧に頭を下げた。背筋を伸ばして。膝の上で、両手をきちんと揃えて。
パラゴンは、立ち上がったまま動けなかった。
ガルドは、ジョッキを頼まなかった。水も頼まなかった。ただ、いつもの席に座って、店の中を、ゆっくりと見回し続けていた。何かを確かめるように。何かを思い出そうとしているように。
マキナが、丸椅子から降りた。
ガルドの前まで、とことこと歩いていく。
見上げる。
「……あかく、ない」
マキナが、言った。
「いつもあかいひと、なのに。あかく、ない」
ガルドの顔は、赤くなかった。
言われてみれば、そうだった。あの赤ら顔が、今日は妙に白っぽい。血の気がない、というのとも違う。色を塗り忘れた、とでもいうような。
ガルドは、マキナを見下ろした。
「こんにちは、マキナさん」
マキナの肩が、びくりと震えた。
ガルドは、マキナを「さん」付けで呼んだことなど一度もない。「嬢ちゃん」だ。いつだって。
ガルドの顔が、ゆっくりと傾いた。何かを探すように、何かを思い出そうとするように。
「……みなみ、さんばん」
ガルドの口が、動いた。
「はいすい、だめ。……あし、が」
そこまで言って。
ガルドの輪郭が、崩れた。
赤くない頬が、白い泡に変わっていく。長銃を担いでいたはずの肩が、ぐずりと溶ける。ミレイが悲鳴を上げた。支部にいた傭兵たちが、一斉に椅子を蹴って立ち上がった。
数秒後、ガルドのいつもの席には、大男の形をした白い染みだけが残っていた。
長銃は、なかった。最初から、持っていなかったのかもしれない。
―――
「南三番の排水溜めだ」
パラゴンは、もう扉に向かっていた。
「あの偽物は、ガルドの何かを持ってた。記憶か、癖か、分からないけど。……ガルドは、そこにいる」 「パラゴンさん、CMAに通報しました! 分類不明の脅威だって、企業の方から解析班を出すって――」 「待ってられない」
後ろから、白いワンピースがついてくる。
パラゴンは振り返らなかった。今は、置いていけと言っても聞かないことは分かっていた。
「マキナ」 「うん」 「絶対に、何にも触られるな」 「……うん」
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4
南三番の排水溜めは、運河の地下にあった。
倉庫街の雨水と生活排水を一度溜めてから運河に流す、古い石造りの地下貯水槽だ。錆びた鉄梯子を降りると、湿った空気と、あの焦げたような魔素の匂いが、むっと押し寄せてきた。
魔導灯をかざす。
石の柱が並ぶ、広い空間だった。足元には浅く水が溜まっている。天井の格子から、細く夕日が差し込んでいた。
その光の中に、白いものがいくつも浮かんでいた。
柱に、貼りつくように。人の大きさの、白い繭が。
一つ、二つ、三つ。繭の表面が、ゆっくりと呼吸するように膨らんだり縮んだりしている。薄い膜の向こうに、目を閉じた人の顔が透けて見えた。トビアスらしい、白髪の老人。まだ若い娘。
生きている。眠っている。
そして、この街から、姿を消している。
「――遅えよ」
柱の陰から、掠れた声がした。
パラゴンは、魔導灯を向けた。
崩れかけた石の段の上に、大男が一人、座り込んでいた。赤ら顔。ちゃんと赤かった。右の脚が、膝の下から不自然な角度に曲がっている。その脚に、自分のベルトを巻いて締め上げていた。膝の上に、長銃。
「ガルド」 「おう。……本物だぞ。一応言っとくが」
ガルドは、にやりと笑った。顔色は悪かったが、声はいつもの調子だった。
「俺の偽物、そっち行ったろ。どうだった」 「礼儀正しかった」 「そりゃ偽物だ」
マキナが、ガルドの前にしゃがみ込んだ。顔を覗き込む。
「……あかい」 「おう、赤いぞ。何なら触ってみるか」
マキナは、そっとガルドの頬に触れた。それから、ほうっと息をついた。
「ほんものの、いつもあかいひと」 「だからその呼び方」
ガルドは、パラゴンを見上げた。笑いが、少しだけ引いた。
「娘を追って、ここまで来た。……あいつがいる。この奥だ。触ったもんを、真似る。人も、犬も、たぶん何でもだ。……俺も、指先を一本、かすられた。その瞬間、頭ん中を手で掻き回されたみてえになってな。このまま掴まれたら全部持ってかれる、ってのだけは分かった。だから、自分で脚を柱にぶつけて、段の下に転がり落ちた。おかげで、それ以上は手が届かなかった」 「自分で?」 「脚一本と、中身全部と、どっちがいい」
ガルドは、あっさりと言った。
「で、かすった分しか持ってかれなかったらしい。俺の偽物、中途半端だったろ。顔の色も、喋り方も、脚の傷も、全部取りこぼしてやがる。……そのくせ、この場所のことだけは、しっかり持ってったわけだ」
排水溜めの奥で、何かが動いた。
ぴちゃり、と水音がした。
魔導灯の光の端に、それはいた。
最初は、瓦礫の山だと思った。崩れた石の欠片と、泥と、錆びた鉄屑の塊。大きさは、せいぜい小型の犬くらい。輪郭が、はっきりしない。見ている間にも、形がじわじわと変わっていく。
それが、こちらを向いた。
顔はなかった。けれど、こちらを向いたのだと分かった。
「パラゴン、気をつけろ」
ガルドの声が、低くなった。
「さっきまで、あいつ、あんな小さくなかった」
瓦礫の塊が、膨らみ始めた。
最初に伸びたのは、脚だった。
折り畳まれた紙を広げるように、白く細長い脚が、瓦礫の中から次々と伸びていく。一本、二本、四本、八本。関節の数が合わない。曲がる向きが揃っていない。
次に、胴体が起き上がった。
瓦礫と泥が剥がれ落ち、その下から、滑らかな白い表面が現れる。胴体は、天井に届くほど高く伸び上がっていく。排水溜めの石の柱を、二本、三本と押し除けながら。
頭にあたる部分には、何もなかった。のっぺりとした、卵の殻のような白い曲面があるだけ。その上に、薄く光る輪が一つ、浮かんでいた。
胸の中央に、窪みがあった。窪みの奥で、何かが脈打っている。拳大の、濁った水晶のような芯。
パラゴンは、その形を知っていた。
形そのものではない。こういうものが存在する、ということを知っていた。
半年前、西都市で。空を覆うような、あの白い異形。
これは、あれより小さい。あれより、どこか雑だ。けれど、同じ種類のものだと、体の芯が理解していた。
神に似ていた。けれど、どんな神の名も、この白いものには似合わなかった。祈られたこともなく、畏れられたこともない。語られるべき神話を何一つ持たないまま、ただ神の形だけをなぞって、そこに立っていた。
「……ガルド、動けるか」 「無理だな。その代わり、口は動くぞ」
ガルドが、長銃を構えた。座ったまま。
「俺が見る。お前は、殴れ」
白い異形の、輪郭のない頭が、パラゴンの方を向いた。
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5
白い脚が、薙ぎ払うように振るわれた。
パラゴンは柱の陰に飛び込む。脚が柱を叩き、石が砕ける。破片が雨のように降ってくる。
拳銃を抜いて、三発。胸の窪みを狙った。一発目は脚に弾かれ、二発目は白い表面を浅く削り、三発目は窪みの縁に当たって火花を散らした。
効いてはいる。けれど、浅い。
「右の三本目だ!」
背後から、ガルドの声が飛んだ。
「あいつ、動くたびに右の三本目で体重を支えてる。そいつを落とせ!」
パラゴンは、剣を抜いて走った。
右の、三本目。白い脚が振り下ろされる。その下をくぐり抜けて、三本目の脚の関節に、剣を叩き込む。
硬い。刃が半分しか通らない。
それでも、脚が一本、がくりと折れた。巨体が傾ぐ。
その瞬間、異形の胴体から、何かが零れ落ちた。
白い泡が、水面に落ちて、膨らんで、立ち上がる。
人の形になった。
パラゴンの形だった。
黒い髪。継ぎ当てのあるコート。背中に剣。ただし、その目は琥珀色ではなかった。何色でもなかった。白く濁った、ガラス玉のような目が、じっとパラゴンを見ていた。
偽物のパラゴンが、剣を抜いた。
抜き方が、違った。パラゴンは剣を右肩の上から抜く。偽物は、腰の横から抜こうとして、剣が背中にあることに気づいたように、途中で手を止めた。それから、ぎこちなく右肩に手を伸ばした。
真似ようとしている。けれど、どう真似ればいいのか、分かっていない。
偽物が、斬りかかってきた。
動きは速かった。けれど、ばらばらだった。パラゴンの踏み込みと、パラゴンの剣筋と、パラゴンの呼吸を、全部別々に真似ていて、それが一つの動きになっていなかった。
パラゴンは、偽物の剣を弾き、その胴を斬った。
偽物は、白い泡になって崩れた。
崩れる寸前に、偽物の口が動いた。何か、言おうとしていた。声にはならなかった。
「……っ」
振り返ると、異形の胴体から、次々と白い泡が零れ落ちていた。
トビアスの形。洗濯屋の娘の形。ガルドの形。茶色の犬の形。パラゴンの形。
みんな、少しずつ間違っていた。
トビアスの偽物は、ランタンを逆さに提げていた。娘の偽物は、笑顔の形に口を開けたまま、表情が動かなかった。ガルドの偽物は、赤くなかった。
「……やだ」
小さな声がした。
振り向くと、柱の陰で、マキナが立ち尽くしていた。
偽物たちを見ていた。
目が、大きく見開かれていた。両手で、ワンピースの胸元をぎゅっと掴んでいた。
「やだ。……あれ、やだ」
マキナの声が、震えていた。怖がっている、というのとは違った。何か、見たくないものを見てしまったような。
「まねっこ、してる。いっしょうけんめい、まねっこ、してるのに。……ちゃんと、なれない」
偽物のトビアスが、逆さのランタンを提げたまま、マキナの方に首を傾けた。
「ちゃんと、なれないの、……わかってないの?」
誰に聞いているのか、分からなかった。
「マキナ、下がれ!」
白い脚の一本が、柱の陰に向かって伸びた。
先端が、細く、細く、糸のように割れていく。その糸が、マキナの銀色の髪の先に、触れた。
パラゴンは、剣を投げた。
剣が糸を断ち切る。けれど、ほんの一瞬、遅かった。
異形の胴体から、また一つ、白い泡が零れ落ちた。
泡が膨らむ。立ち上がろうとする。小さな、人の形に。
白いワンピースの形に。
――ならなかった。
泡は、形になりかけては崩れ、また形になりかけては崩れた。銀色の髪らしきものが見えたかと思うと、次の瞬間には、ただの白い塊に戻っていた。何度も、何度も。どうしても、一つの形に定まらなかった。
そして。
白い異形が、止まった。
八本の脚が、宙で止まった。零れ落ちかけていた泡も、偽物たちも、ぴたりと動きを止めた。排水溜めの中で、水の滴る音だけが響いていた。
輪郭のない頭が、ゆっくりと、柱の陰の方に向いた。
マキナの方に。
頭の上の、薄く光る輪が、一度だけ、明滅した。
何かを確かめるように。
何かに、気づいたように。
マキナは、動かなかった。まっすぐに、その頭を見上げていた。
一呼吸。
それだけの間だった。
次の瞬間、異形は再び動き出した。何事もなかったかのように。
「……パラゴン」
マキナが、呼んだ。
さっきまで震えていた声が、ひどく静かになっていた。まっすぐに、異形を見上げたまま。
「あのこ、いき、してる」 「息?」 「まわりの、くうき、ずっと、すってる。すって、まねっこの、かたち、つくってる」
マキナは、偽物たちを順番に見た。トビアス。娘。ガルド。パラゴン。
「みんな、おんなじ、いき。……ぜんぶ、ひとつに、つながってる」
―――
「今だ、パラゴン!」
ガルドが叫んだ。
「あいつ、今の間、全部止まってたぞ! 偽物も含めて全部だ! あいつの頭ん中、一個しかねえ!」
パラゴンは、床に転がった剣を拾い上げた。
走る。偽物たちが、ばらばらの動きで立ち塞がる。
吸っている、とマキナは言った。まわりの何かを吸って、形を作っている、と。
なら、吸うものがなくなればいい。
ポーチから、呪符を引き抜いた。一枚ではない。三枚まとめて。
親指で魔紋をなぞる。排水溜めに満ちていた魔素が、紙の上の回路へと一気に流れ込んでいく。
「――喰らえ」
三枚の呪符が、同時に弾けた。
目を焼くような閃光が、排水溜めを真っ白に染めた。
呪符が周囲の魔素を根こそぎ吸い上げて、光に変えて吐き出す。空気が、急に薄くなったように感じた。
そのとき。
偽物たちが、崩れた。
閃光に焼かれたのではない。光が消える前に、偽物たちの輪郭が、一斉にぐずりと溶けていった。トビアスも、娘も、ガルドも、犬も、パラゴンも。白い泡に戻って、水面に落ちていく。
異形の巨体も、ぐらりと揺らいだ。白い表面に、細かいひびが走る。
マキナの言葉が、どこまで正しかったのかは分からない。考えている暇もなかった。
パラゴンは、揺らいだ巨体の、折れた右の脚を駆け上がった。
胸の窪み。脈打つ濁った芯。
剣を、突き立てた。
硬い。
腕が痺れる。刃が、半分で止まる。
「押せぇ!」
ガルドの長銃が、火を噴いた。一発。二発。パラゴンの剣の、柄頭の真横。芯の、同じ場所に。
ひびが、走った。
パラゴンは、全体重を剣に乗せた。
芯が、砕けた。
甲高い音が、排水溜めに響き渡った。ガラスが割れるような、あるいは、誰かの悲鳴のような。
白い異形の巨体が、ゆっくりと崩れ落ちていく。脚が折れ、胴体が傾き、頭の上の光る輪が消える。
柱に貼りついていた白い繭が、次々と弾けた。
中から、人が転がり出てくる。トビアス。洗濯屋の娘。それから、パラゴンの知らない顔が、もう二人。咳き込みながら、目を覚まし始める。
パラゴンは、崩れた巨体の上から滑り落ちて、水の中に膝をついた。
肩で、息をしていた。脇腹に、いつの間にか深い擦り傷ができていた。
「……おう」
柱の陰で、ガルドが長銃を下ろした。
「なかなか、いい線だったぞ。七十点」 「採点するな」 「残りの三十点は、俺の脚の分だ。お前のせいじゃねえから安心しろ」
ガルドは、壁にもたれて、深々と息を吐いた。
「……いやあ、しかし何だありゃ。俺の若え頃は、街ん中にあんなもん出なかったぞ」
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6
CMAの車両が到着したのは、それから半刻ほど後のことだった。
排水溜めの入り口に、紺色の制服の執行官たちが次々と降りてくる。救護班が、繭から出てきた人々を毛布で包んで運び出していく。トビアスは、まだぼんやりした顔で、自分のランタンを探していた。
ガルドは、担架を断った。
「自分で上がれる」 「上がれないだろ」 「上がれる。……たぶん」
その押し問答の最中に、車両から、一人の女が降りてきた。
中央都市の企業が現場に出すときの、灰色がかった実用服。装飾はほとんどない。髪は短く、うなじのあたりできっちりと揃えられている。腰のポーチには、細い金属の針のようなものが何本も差してあった。
女は、排水溜めの入り口で足を止め、中を一瞥した。
それから、パラゴンの方に歩いてきた。
「エルニア・リップ。解析に来た」
名乗りは、それだけだった。
「触る前に、誰がどこを動かしたかだけ教えて」
パラゴンは、少し面食らってから、答えた。胸の芯を剣で砕いたこと。右の三本目の脚を斬ったこと。繭が弾けたこと。偽物たちが、白い泡に戻ったこと。
エルニアは、一度も口を挟まずに聞いた。聞き終えると、小さくうなずいた。
「ありがとうございます。それで足ります」
エルニアは、現場用の厚手の手袋を外した。ポーチから薄い内手袋を取り出して、指に馴染ませるように嵌め直す。それから、崩れた巨体の残骸の方へ、まっすぐに歩いていった。
―――
残骸は、もうほとんど白い泡になって崩れかけていた。
原形を留めているのは、胸の窪みのあたりだけだった。砕けた芯の破片が、白い殻の中に散らばっている。
エルニアは、その前にしゃがみ込んだ。
腰のポーチから、針を一本抜く。先端に、米粒ほどの小さな魔水晶が嵌め込まれた、細い金属のプローブ。
その針を、砕けた芯の断面に、そっと当てた。
魔水晶が、淡く光った。
エルニアは、しばらく何も言わなかった。
左手の親指が、プローブに嵌まった水晶の縁を、無意識のように撫でていた。何度も。ゆっくりと。
「コピーが崩れた跡だ」
やがて、エルニアは言った。報告書を読み上げるような、平らな声だった。
「死んではいない。居なくなっている」
パラゴンは、その後ろに立っていた。マキナが、隣にいた。
「石化じゃない。置き換えてる」
エルニアは、プローブの角度を少し変えた。
「対象の意識を落として、隔離して、その位置に模造体を置く。存在の差し替え。……対象を残さない方が、制御は楽だ。こっちは、わざわざ残してる」 「残してる?」 「繭の中の人間は、生かしてあった。模倣の元を、保存しておく必要があったから」
エルニアは、次の針を抜いた。芯の、別の断面に当てる。
魔水晶の光が、細かく揺れた。
エルニアの手が、止まった。
数秒。
排水溜めの中で、水の滴る音がした。
「……この制御精度」
低い声だった。驚いている様子はなかった。独り言というより、記録用に呟いているような。
「知ってる誰かの技術に似てる」
パラゴンは、エルニアの横顔を見た。
「似てる、って。誰の」 「似てる、以上のことは言えない」
エルニアは、プローブから目を離さずに言った。
「似てる」
それで、話は終わりだった。
エルニアは、次の断面に針を移した。パラゴンは、それ以上聞かなかった。聞いても答えは返ってこないと、分かったからだ。
芯の断面には、髪の毛ほどの細さの溝が、びっしりと刻まれていた。
「配線の癖が、市販でも軍用でもない」
エルニアが、淡々と続けた。
「量産向けの引き方じゃない。誰か特定の職人の、手癖に近い。……真似てる側が、元の手を分かってる。逆じゃない」
―――
マキナが、エルニアの隣にしゃがみ込んだ。
砕けた芯の破片を、じっと見つめている。
触れはしなかった。ただ、見ていた。
「……しってる、かんじが、する」
マキナが、小さく言った。
エルニアは、ちらりとマキナを見た。それから、プローブに視線を戻した。
「知ってる"感じ"は、記録に残らない」
平らな声だった。
「残るのは、波形だけ」
マキナは、少しだけ俯いた。
エルニアは、プローブの角度を調整しながら、付け加えた。
「……感じたことを、否定はしない。わたしの道具に、載せられないだけ」
マキナは、顔を上げた。エルニアは、もうこちらを見ていなかった。
けれど、それで十分だったらしい。マキナは、エルニアの隣にしゃがんだまま、そこを動かなかった。二人並んで、同じ破片を見下ろしていた。
―――
「おい、そこの解析の姉ちゃん」
排水溜めの入り口から、ガルドの声がした。結局、救護班に肩を借りて、入り口の段差に腰を下ろしている。
「何か分かったんなら、俺にも教えろ。俺は、あいつの一番近くで、一番長く見てたんだぞ」
エルニアは、立ち上がった。ガルドの方を見る。右脚の添え木を見る。
ガルドが、立ち上がろうと手すりに手をかけた。
「動くな」
エルニアの声は、平らなままだった。
「歩くのはお前の仕事じゃない。見る仕事なら残ってる」
ガルドが、目を瞬かせた。
エルニアは、ガルドの前まで歩いていって、しゃがみ込んだ。ポーチから、小さな記録板を取り出す。
「最後の閃光の直前と直後。模造体の崩れ方を、見たとおりに言ってください」 「……順番に崩れたんじゃねえ。一斉にだ。光が来る前に、もう溶け始めてた」 「光の前に」 「ああ。本体の方も、そこでぐらっと来た。ひびが入ったのは、そのあとだ」
エルニアは、記録板に何かを書き込んだ。それから、パラゴンの方を振り向いた。
「最後に使った呪符。周囲の魔素を、どれくらい吸い上げました」 「……三枚分。根こそぎに近い」
エルニアは、うなずいた。
「それだ」
記録板を閉じる。
「魔素濃度が急に落ちると、模倣が持たない。模造体を形として保つのに、周囲の魔素を常に食ってる。濃度が急変すると、その供給が途切れる」
パラゴンは、隣のマキナを見た。
マキナは何も言わずに、エルニアの記録板を見ていた。
エルニアは、崩れた残骸の方を見やった。
「意図的な安定装置が、見当たらない。……これだけ精度の高い制御をしておいて、そこだけ抜けてる。設計として、おかしい」 「おかしい、って」 「本体は、もっと丁寧なはずだ」
エルニアは、そう言った。
「これは、検証用」
パラゴンは、息を止めた。
「……本体?」
エルニアは、答えなかった。言えないことは言わない、という顔だった。
―――
その夜遅く、CMAから正式な通達がHUBに届いた。
分類不明の脅威、第四十七号。運河地下にて撃破。暫定七級と評価する。
七級。
一年前なら、この街で聞くはずのない数字だった。
―――
排水溜めの入り口で、エルニアは最後の記録を取り終えた。
内手袋を外し、現場用の厚手の手袋に嵌め直す。ポーチのプローブを一本ずつ確かめて、しまっていく。
パラゴンは、その背中に声をかけた。
「なあ。あんたの見立てじゃ、今日のは、失敗作なのか」
エルニアの手が、止まった。
振り返らずに、答える。
「これは、試作の失敗じゃない」
平らな声だった。
「試作の成功だ。成功してるのが、問題だ」
エルニアは、ポーチの留め具を閉じた。それから一度だけ、排水溜めの暗がりを振り返った。
左手の親指が、また、水晶の縁を撫でていた。
―――
帰り道。
マキナは、ずっと黙っていた。
パラゴンの半歩後ろを歩きながら、時々、自分の銀色の髪の先に触れていた。白い糸に触れられた、あの場所に。
何度も、確かめるように。
パラゴンは、何も聞かなかった。
聞いたところで、この子が答えられるのかどうかも、分からなかった。
(第8話 了)