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1
カウンターの端の、いつもの席が空いていた。
丸椅子が一つ、壁際に寄せられている。ジョッキも、長銃も、豪快な笑い声もない。たったそれだけのことで、HUB第三支部の朝は妙に静かだった。
マキナが、その丸椅子の前で足を止めた。じっと見下ろしている。
「……いない」
「施療院だ。脚を折ってるんだから」
パラゴンがそう言うと、受付の奥からミレイが顔を出した。眼鏡の奥の目が、困ったように細くなっている。
「それが、パラゴンさん。ガルドさん、施療院を抜け出したらしいんです」
「は?」
「今朝、施療院の方から問い合わせが来まして。『退屈で死ぬ』って書き置きを残して、松葉杖で帰っちゃったそうです」
パラゴンは、額を押さえた。
いかにも、あの男のやりそうなことだった。
近くの卓で朝飯をかき込んでいた若い傭兵が、匙を止めて振り返った。
「ガルドさん、抜け出したんすか。やっぱりなあ。あの人、じっとしてると死ぬ病気なんすよ」
「そんな病気はない」
「いや、あるっすよ。俺、あの人が三日以上支部に来なかったの、見たことないっすもん」
言われてみれば、パラゴンもなかった。
雨の日も、祭りの日も、ガルドはあの席にいた。依頼がなくても来て、食堂の決まった席で飯を食い、新人をからかい、誰かが無事に帰ってくるのを見届けてから帰っていく。
空いた丸椅子が、急に広く見えた。
「部屋にいるなら、ちょうどいいです。これ、持っていってもらえませんか」
ミレイが、カウンターに包みを二つと、紙の束を一つ並べた。
一つめの包みからは、石鹸の匂いがした。洗い立ての手拭いが三枚、角をきっちり揃えて畳んである。洗濯屋の女将からだ、とミレイは言った。
二つめは、紐で縛った茶葉の包みだった。添えられた紙切れに、細い字で一行だけ書いてある。
――夜の番は長いから。
運河沿いの倉庫街で夜警をしている爺さん、トビアスからだった。あの排水溜めの繭から助け出された一人だ。
「それと、こっちが杖代の書類です。ご本人の署名がないと、下りないので」
マキナが、首をかしげた。
「つえ、だい?」
「ケガで働けなくなった傭兵に、HUBが生活費を出す仕組みだ。みんなの報酬から、少しずつ積み立ててある」
「つえの、おかね」「そういうことだ」
マキナは、書類の束をしばらく眺めていた。それから、パラゴンの袖を引いた。
「わたしも、いく。いつもあかいひとの、おみまい」
ミレイが、ふっと表情を緩めた。
「お願いします。……それと、ガルドさんに伝えてください。杖代が出るからって、施療院の支払いを踏み倒していいわけじゃありませんよ、って」
「伝えとく。聞くかどうかは知らないが」
―――
支部を出ると、朝の通りはもう荷車と人で賑わっていた。
マキナは、包みの一つを両手で大事そうに抱えて、パラゴンの半歩後ろを歩いた。途中、何度か石鹸の匂いのする包みに鼻を近づけては、満足そうにうなずいている。
「いいにおい」「洗濯屋だからな」「むすめのひと、げんき?」
「ああ。店に戻って、もう洗濯物を干してるそうだ。今度は本物がな」
マキナは少し考えてから、「よかった」と小さく言った。
それから、パラゴンの顔を見上げた。
「トビアスさんは?」
「夜警に戻った。ランタンも見つかったらしい。ちゃんと火も入ってる」
マキナは、今度は少しだけ長く黙っていた。
「……よかった」
さっきより、声が明るかった。
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2
ガルドの部屋は、支部の裏手にある古い集合住宅の二階だった。
扉を叩くと、中から怒鳴り声が返ってきた。
「開いてるぞ」
開けた途端、脱ぎっぱなしの上着と、読みかけの新聞と、なぜか片方だけのブーツが目に飛び込んできた。
その真ん中の寝台に、ガルドが寝転がっていた。
右脚には、膝の下から添え木が当てられている。布で、ぐるぐる巻きにされていた。壁には、松葉杖が一本立てかけてある。
「おう、来たか。遅えよ」「施療院にいろよ」
「無理だ。あそこは飯が薄い。窓の外は壁しか見えねえ。隣の爺さんは一晩中いびきをかく。三日で死ぬかと思ったぞ」
ガルドの顔は、今日もちゃんと赤かった。
マキナが、それを確かめるように覗き込んだ。それから、満足そうにうなずいた。
「あかい」「おう、赤いぞ。本物だからな」
パラゴンが包みを渡すと、ガルドは手拭いの匂いを嗅いで、目を細めた。茶葉の添え書きを読んで、しばらく黙った。
「……あの爺さん、律儀だな」
ガルドは、茶葉の包みを枕元の棚に置いた。一番、手の届くところだった。
棚には他に、干からびたパンの端と、封を切っていない酒瓶が一本並んでいた。
「それ、ごはん?」「ご飯だ」「パン、かたそう」
「硬えよ。食堂に行けねえんだから仕方ねえだろ。俺が作ると、なんでか全部焦げるんだ」
「酒は」「まだ昼前だ。飲まねえよ」
それだけは、譲らないらしかった。
ガルドは、杖代の書類を受け取った。枕元の板の上で、署名をする。紙からはみ出しそうな、豪快に崩れた字だった。
「しかしなあ、聞いたぞ。俺の偽物、支部に顔出したんだって?」
「礼儀正しかった」
「それも聞いた。ミレイの嬢ちゃんに『ご心配をおかけしました』って頭下げたんだろ。俺が四十年かけて、一度も言ったことのねえ台詞だ」
「あかく、なかった」
「それも聞いた。……ったく、どうせ真似るなら、もうちょっといい男に作れってんだ」
ガルドは笑いながら、添え木の脚を忌々しそうに叩いた。
「骨がつくまで二か月だとよ。まともに走れるのは、その先だ。……いっそ一回休みすりゃ、脚も元通りなんだがな」
マキナが、まばたきをした。
「いっかい、やすみ?」
「死んで、戻ってくるまでの間のことだ。すごろくの一回休みと同じだよ。戻ってくりゃ、体は元の形になってる」
「……本気でやる奴もいるからな」
パラゴンが言うと、ガルドは「いるいる」と肩をすくめた。
パラゴンは、ケインの話を思い出していた。死んでは戻り、また壊れていった仲間たちのことを。
戻ってきても、壊れたものまでは戻らない。
「けどな、戻ってくるまで数週間かかる。骨がくっつくのと、大して変わらねえ。おまけに死ぬのは痛え」
ガルドは、署名したばかりの書類を指で弾いた。
「それに、死んだら杖代が出ねえ。杖代は、生きて寝てる奴にしか出ねえんだよ」
「だから、いきて、ねてる」
「そういうこった。嬢ちゃんは飲み込みが早えな」
寝台の脇で、小さな魔導灯が昼間なのにぼんやりと点いていた。消し忘れらしい。台座には、すり減った「ベル&クレスト魔道工業」の刻印がある。どこの家にもある、ありふれた型だった。
マキナは、その灯りを少しだけ眺めていた。
それから、ガルドに向き直った。
「ねえ。しぬ、って、なに?」
ガルドが、ぽかんと口を開けた。
それから、頭をがしがしと掻いた。
「そう来たか。……俺も学者じゃねえからな。ガキの頃に習ったのと、爺さんから聞いたのしか知らねえぞ」
ガルドは、天井を見上げた。
「いいか、嬢ちゃん。『死ぬ』には二つあるんだ」
ガルドは、太い指を一本立てた。
「一つは、今の死ぬだ。さっき言った一回休みだな。痛えし、何週間かいなくなる。けど、ちゃんと戻ってくる」
それから、二本目の指を立てた。
「もう一つは、昔の死ぬだ。死んだら、それっきり。二度と戻ってこねえ。……本当の死ってやつだな」
「もどって、こない」
「ああ。昔は、みんなそっちだったんだ」
ガルドは、立てた指を下ろした。
「昔な、神さんと人間が戦争してた。何百年も前の話だ。その戦争の終わりごろ、ある日を境に、そっちの死ぬがなくなった。死んでも、誰も終わらなくなったんだ」
「どうして?」
「それがな、誰も知らねえんだ。負けた神さんたちへの罰だって言う奴もいる。勝った人間へのご褒美だって言う奴もいる。管理者さまの奇跡だって、ありがたがる婆さんもいる。……どれも眉唾だ」
ガルドは、鼻を鳴らした。
「妙なのはな、その『ある日』ってのが、いつなのか分からねえことだ。教科書を開いても、『戦争の終わりごろ』としか書いてねえ。何百年前の、どの日なのか、誰もちゃんと書いてねえんだよ。HUBの帳面なんざ、俺が何年何月にどの依頼でしくじったかまで、きっちり残してるってのにな」
戦争、という言葉が、パラゴンの耳に引っかかった。
煙の向こうに見えた、小さな背中。拳一つで、あの戦場を黙らせた女の後ろ姿。
それは、一瞬で消えた。
消えたことにも、パラゴンは気づかなかった。
「まあ、そういうわけでな。本当の死ってのは、もう誰の手にもねえもんだ。石になっちまうような、よっぽどのことでもなけりゃな」
マキナは、ガルドの言葉を口の中で繰り返すように、唇を小さく動かしていた。
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3
パラゴンは、最後の包みを取り出した。
布で何重にもくるんだ、小さな鍋だった。蓋を開けると、まだほんのりと湯気が立った。根菜と豆を、柔らかく煮込んだスープだ。
「ルーチェからだ。どうせ、まともなもんを食ってないだろうって」
「……妹さんに見抜かれてんのか、俺は」
ガルドは匙を受け取ると、一口すすって、顔をしかめた。
「薄い」「施療院と同じ文句を言うな」
「塩が足りねえ。豆が柔らかすぎる。……うまいけどな」
文句を言いながら、ガルドの匙は止まらなかった。
マキナが、鍋の底が見えていくのを、嬉しそうに見守っていた。
鍋がほとんど空になった頃、ガルドは、ふと匙を置いた。
「妹さん、具合はどうだ」
「……いつも通りだ。いい日もあるし、悪い日もある」
ガルドは、しばらく何も言わなかった。
窓の外で、荷車の車輪が石畳を叩く音がした。
「骨はな、そのうちくっつく」
ガルドは、自分の添え木の脚を見ながら言った。
「くっつかなきゃ、一回休みすりゃいい。死んだって、元の形に戻ってくる。……けどな、元の形ってのが最初っから弱えなら、そいつはどっちに転んでも変わらねえんだよな」
パラゴンは、答えなかった。
ガルドも、答えを待たなかった。空になった鍋に蓋をして、パラゴンの方へ押し返した。
「妹さんに言っとけ。塩が足りねえってな」
「全部食っといてか」
「全部食ったから言えるんだよ。残してたら、ただの悪口だろうが」
ガルドは、にやりと笑った。いつもの顔だった。
「さっさと稼いで、次はもっと塩の効いたのを持ってこい。俺は二か月、ここで寝てるからな」
「施療院に戻れ」「戻らねえ」
押し問答は、それ以上続かなかった。
パラゴンが鍋を布でくるみ直している間に、ガルドはマキナの方へ顔を向けた。
「嬢ちゃん、また来いよ。こいつ一人だと、話がつまらねえ」
「うん。こんどは、ブーツ、さがしにくる」
「おう、頼んだ。もう片っぽがどこ行ったのか、俺にも分からねえんだ」
マキナは、真剣な顔でうなずいた。本気で探すつもりらしかった。
部屋を出るとき、パラゴンは一度だけ振り返った。
ガルドは、もう寝台に仰向けになっていた。トビアスの茶葉の包みを、胸の上に乗せている。目を閉じて、鼻歌のようなものを歌っていた。
調子っぱずれで、ひどく下手だった。
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4
夕方、アルマゲスト家の小さな居間には、窓から傾いた光が差し込んでいた。
ルーチェは長椅子に座って、膝の前の床にマキナを座らせていた。銀色の髪を、柔らかい櫛でゆっくりと梳いていく。
朝の日課だが、今日は二回目だった。マキナが帰ってくるなり、梳いてほしいとせがんだのだ。
「それでね、ガルドさんの部屋、ブーツがひとつしかなかった」
「ひとつ? もうひとつは、どこに行ったの?」
「わかんない。さがしたけど、なかった」
ルーチェが、くすくすと笑った。
「あとね、トビアスさんから、おちゃ。よるのばんは、ながいから、って」
「優しいね。ガルドさん、飲むかな」
「たなの、いちばん、てのとどくところに、おいてた」
「じゃあ、きっと飲むね」
ルーチェの櫛は、話に合わせてゆっくりと動いた。
マキナの話は、あちこちに飛ぶ。ブーツの話から茶葉の話へ。茶葉の話から、ガルドの赤い顔の話へ。ルーチェはそのどれにも、同じくらい楽しそうに相槌を打った。
「スープ、うすいって。でも、ぜんぶたべた」
「ほんと? よかった。塩、足りなかったかなあ」
「つえだいは、いきてねてるひとにしか、でないんだって。だから、いっかいやすみは、しないって」
「いっかいやすみ?」
「しんで、もどってくるまでの、あいだのこと」
櫛が、髪の先に差しかかった。
マキナの肩が、ほんの少しだけ強張った。
白い糸に触れられた場所だった。帰り道、何度も指で確かめた場所だった。
ルーチェは、何も知らない。いつもと同じ手つきで、毛先の絡まりを一本ずつほどいていく。急がず、引っ張らず、丁寧に。
マキナの肩から、少しずつ力が抜けていった。
しばらく、櫛の音だけが続いた。
「……ルーチェ」「なあに?」
「しぬの、こわい?」
櫛が、一瞬だけ止まった。
すぐに、また動き出した。
「しぬのは、こわくないよ。みんな戻ってくるもの」
ルーチェは、マキナの髪をひと房すくい上げて、編み始めた。
「……戻っても、わたしはこのままなのが、ちょっとだけ、ね」
今日の天気の話でもするような声だった。
マキナが、振り返ろうとした。
ルーチェの指が、髪を押さえてそれを止めた。
「動いちゃだめ。曲がっちゃう」
ルーチェは、笑っていた。
「でも、マキナちゃんが外の話をしてくれるから。市場のことも、HUBのことも、ガルドさんのブーツのことも。……このままでも、ちょっと遠くまで行ける気がするの」
編み目が一つ、また一つと増えていく。
マキナは、前を向いたまま、しばらく黙っていた。窓の光が、少しずつ橙色に変わっていった。
「……じゃあ、いっぱい、はなす」
小さな声だった。
「もっと、とおくのことも。ぜんぶ、はなす」
「うん。楽しみにしてる」
ルーチェは、最後の編み目を結んだ。それから、マキナの頭をそっと撫でた。
―――
台所で夕飯の支度をしていたパラゴンが、その会話を聞いていたのかどうかは、分からない。
パラゴンは、鍋をかき混ぜる手を止めずに、塩の壺に手を伸ばした。
ひとつまみ、多めに入れた。
(第9話 了)