―――その冬、三咲町は少しずつ削られていた。
誰ひとり気づいてはいない。駅前のアーケードに灯る気の早い電飾も、長い坂を上る学生たちの白い息も、昨日と何ひとつ変わらない。十二月の風は乾いていて、枯れ葉の匂いと、どこかの家の石油ストーブの匂いを運んでくるだけだ。
けれど町の底――人の目には決して映らない場所で、古い網目のような何かが、一本、また一本と、音もなくほつれ始めていた。
それを知る者は、この町に二人しかいない。
坂の上の洋館に住む、二人の少女だけが。
……いや。
正確には、もう一人いた。
それが何であるかも知らないまま、毎朝、その「ほつれ」を眺めている少年が。
目を覚ますと、天井に線が走っていた。
日景忉利は、布団から顔だけを出したまま、しばらくそれを眺めていた。
古い木造二階建ての、煤けた天井板。その木目とはまるで無関係に、髪の毛よりも細い黒い線が一本、斜めに引かれている。インクで描いたような、というには黒すぎる。光を吸い込むような、底のない黒だった。
瞬きをひとつ。線は消えない。
もうひとつ。今度は、ふっと消えた。
「……乱視、また進んでんのか」
誰に言うでもなく呟いて、忉利は身体を起こした。夜のうちに火を落とした石油ストーブのせいで部屋は冷え切っていて、吐いた息がそのまま白く濁る。
昔からだった。視界の隅に、ありもしない線が見える。壁に、地面に、時には人の肩口に。眼科に連れて行かれたのは小学生の頃で、医者は「少し色素が薄いね」「乱視気味だね」と首をひねっただけだった。以来、忉利はそれを、ちょっと出来の悪い目の個性として扱ってきた。
眼鏡をかけるほどではない。疲れると増える。寝不足だと、もっと増える。
それだけの話だ。
階下から、焦げる寸前の豆の香りが立ちのぼってくる。深煎りの、鼻の奥にまで届く苦い匂い。この匂いで目が覚めない朝は、日景家には一日もない。
「Cafe HIKAGE」は、三咲町の古い商店街の外れにある、小さな純喫茶だ。
カウンター七席に、テーブルが三つ。壁には色の褪せた外国の港の写真。開店は朝七時、閉店は夜九時。客の半分は近所の年寄りで、残りの半分は、店主の淹れる一杯のためにわざわざ隣町から通ってくる物好きだった。
忉利が階段を下りていくと、その店主――父親は、カウンターの内側で黙々とネルを振っていた。
湯を落とす。粉が膨らむ。泡がゆっくりと沈んでいく。それを見届けてから、また細く湯を落とす。息子が起きてきたことにも気づいているはずだが、ネルから目を離すことはない。この人は、珈琲を淹れている間は地震が来ても手を止めない。
「おはよ」
「ああ」
返事はそれだけ。いつものことだ。
「お兄ちゃん、遅い!」
代わりに、店の奥から騒がしい声が飛んできた。セーラー服の上からエプロンを引っかけた妹の晴華が、トーストの皿を両手に持って仁王立ちしている。中学二年。三つ下のこの妹は、朝から無駄に元気だ。
「遅くねえよ。まだ七時前だろ」
「お父さんがもう三杯目淹れてるの。お兄ちゃんのぶん、冷めちゃうじゃん」
カウンターの端に、湯気の立つカップがひとつ置かれていた。忉利は黙ってそれを取り、一口すする。
苦い。けれど、その奥に、焦がした砂糖のような甘さがある。
この味を再現しようとして、忉利は何年も父のネルを借りてきた。今では客に出しても文句は言われない程度のものが淹れられる。それでも、この一杯には届かない。
「ねえねえ」
晴華がトーストを齧りながら、身を乗り出してくる。
「最近さ、青子ちゃん全然お店に来ないよね」
「……そうか?」
「そうだよ。前は週に三回は来てたのに、もう一ヶ月くらい見てないもん。ねえ、喧嘩した?」
「してねえよ」
「ほんとに? お兄ちゃんが何か余計なこと言ったんじゃないの?」
「なんでおれ前提なんだよ」
「だってお兄ちゃん、青子ちゃんにだけ口悪いもん」
反論しようとして、やめた。事実なので仕方がない。
蒼崎青子。
物心ついた頃から、隣にいるのが当たり前だった幼馴染。蒼崎の家はこの商店街の裏手にあって、小さい頃の青子はほとんど毎日のようにこの店のカウンターで、ホットミルクを飲んでいた。それが中学に上がる頃には父のブレンドに変わり、「日景のおじさんの珈琲以外は泥水よ」と言い切るまでになった。
その青子が、高校に上がってしばらくして実家を出た。坂の上の、町の人間が「幽霊屋敷」と呼ぶ古い洋館に、下宿を始めたのだ。家主は礼園女学院に通う、どこかのお嬢様らしい。忉利は、その同居人と顔を合わせたことが数えるほどしかない。
それでも青子は、しばらくは変わらず店に来ていた。
来なくなったのは――確かに、ここひと月ほどのことだ。
「忉利」
ネルを置いた父が、珍しく自分から口を開いた。カウンターの上に、銀色の魔法瓶がひとつ置かれる。
「持ってけ」
「……青子にか?」
「生徒会長さんは忙しいんだろう。忙しい人間ほど、ちゃんとしたものを飲まなきゃならん」
それだけ言って、父はまた次の豆を挽き始めた。
忉利は魔法瓶を鞄に押し込んで、残りの珈琲を飲み干した。
「行ってくる」
「いってらっしゃーい。青子ちゃんによろしくね! 今度お店来てって言っといて!」
晴華の声を背中で聞きながら、ドアベルを鳴らす。
外に出た瞬間、冷たい風が頬を切った。
見上げた冬空に、また一本。
細く黒い亀裂が、青い空を斜めに裂いていた。
三咲高校へ続く坂道は、冬になると風の通り道になる。
マフラーに顎を埋めて歩いていると、坂の上――高校の方角ではなく、さらにその向こう、丘の上の森の方から、見慣れた人影が下りてくるのが見えた。
長い髪。制服の上に羽織った、飾り気のないコート。どんなに疲れていても、背筋だけは妙にまっすぐな歩き方。
忉利は足を止めて、相手が気づくのを待った。
気づかない。
下を向いて、何か考え事をしているらしい。そのまま忉利の横を通り過ぎようとしたところで、ようやく顔を上げた。
「――っ、忉利?」
「よう、生徒会長様。朝から死人みたいな顔だな」
「…………」
蒼崎青子は、一瞬だけ、心底嫌そうな顔をした。
「朝一番に人の顔見て、第一声がそれ? バカじゃないの」
「事実だろ。隈、すげえぞ」
「うるさいわね。生徒会の仕事が立て込んでるのよ。年末なんだから当たり前でしょ」
ぷい、と顔を背けて歩き出す。忉利は黙ってその隣に並んだ。
小さい頃から、ずっとこの距離だった。肩が触れるか触れないか。青子の歩幅は忉利より少し広くて、だから意識して合わせないと、いつの間にか半歩前を行かれてしまう。
横目で見る。
青子の右手の甲に、真新しい絆創膏が二枚、斜めに貼られていた。
「それ」
「なによ」
「手。どうしたんだよ」
「…………猫よ」
「猫」
「そう、猫。引っかかれたの。屋敷の周り、野良が多いのよ」
嘘だ、と忉利は思った。
青子は嘘をつくとき、語尾を一度切ってから言い直す癖がある。本人は気づいていない。十年以上隣にいれば、嫌でも覚える。
けれど、それを指摘したところで、この幼馴染が素直に白状するはずもない。
忉利は代わりに、青子の頭に手を伸ばした。
「ひゃっ――な、なにすんのよ!」
「葉っぱ。ついてた」
指先でつまんだ枯れ葉を見せる。茶色く乾いた、広葉樹の葉。この辺りの街路樹のものではない。
「どこの山越えてきたんだよ、お前」
「げ、下宿の庭よ! ……っていうか、いきなり人の頭触らないでよ。自分で取れるわよ、そのくらい」
青子はひったくるように枯れ葉を奪い取ると、そのまま早足で坂を上っていった。耳の先が、寒さのせいとは思えないほど赤い。
忉利は小さく肩をすくめて、その背中を追おうとして――
ずきり、と。
右目の奥が、針で突かれたように痛んだ。
足が止まる。
青子の背中。その少し上、何もないはずの空中に、線があった。
今朝、天井に見たものとは違う。一本ではない。何本もの細い黒い糸が蜘蛛の巣のように絡み合い、青子の肩のあたりにまとわりついている。まるで、目に見えない何かが、彼女に爪を立てようとした痕のように。
―――なんだ、あれ。
息を止めて、瞬きをする。
消えない。
もう一度、強く目を閉じる。
開く。
消えていた。
冬の朝の、ただの澄んだ空気がそこにあるだけだった。
「……忉利? なにしてんの、置いてくわよ」
坂の上で、青子が振り返っていた。
「目、どうかした?」
「……いや。乱視。最近ひでえんだよ」
「眼科行きなさいよ。あんた昔から目だけは弱いんだから」
呆れたように言って、青子はまた前を向く。
忉利は右目を指で押さえたまま、しばらく坂の途中に立ち尽くしていた。
痛みは、もう引いていた。
二年C組の昼休みは、たいていやかましい。
その中心にいるのは、だいたい木乃美芳助だ。
「でさあ、静希。お前、昨日もバイトだったんだろ? 何時までやってたんだよ」
「十一時過ぎだったと思う」
「マジかよ。高校生の労働時間じゃねえって、それ」
窓際の席で、静希草十郎は膝の上に新聞紙を広げ、その上で握り飯を食べていた。
海苔も巻いていない、塩だけの白い握り飯がふたつ。弁当箱というものを、この転入生はまだ持っていない。
十一月の末日という、学期も終わりに近い半端な時期に三咲高校へ編入してきた男だった。山奥の、電気も通っていないような土地から下りてきたのだという。最初にその話を聞いたとき、クラスの誰もが冗談だと思った。二週間経った今では、誰も疑っていない。
なにしろこの男は、転入初日に公衆電話の受話器に向かって、真顔で「もしもし」と挨拶をしていたのだ。硬貨も入れずに。
「日景も聞いてくれよ。こいつ、バイト何個掛け持ちしてると思う?」
芳助が、後ろの席で頬杖をついていた忉利を振り返る。
「知らねえよ。校則じゃ一個までだろ」
「そこなんだよ! 普通は一個。でも静希は、会長が特例で二個まで許可したわけ。な、静希」
「ああ。蒼崎には感謝している」
草十郎は握り飯を飲み込んでから、律儀に頷いた。
「学費と家賃を払って、飯を食うには、一つでは足りなかった。蒼崎が職員室に掛け合ってくれた」
「で、実際いくつやってんの」
「…………」
草十郎は、指を折って数え始めた。
一本。二本。三本。
四本目で、少し考え込んだ。
「数え方にもよるが」
「おい」
忉利は思わず口を挟んだ。
「それ、会長の前で絶対言うなよ。特例ごと取り消されるぞ」
「そうか。なら、二つと言っておけばいいのか」
「そういう問題じゃねえ」
真顔だった。冗談を言っている顔ではない。この男は、たぶん本気でそれが解決策だと思っている。
忉利は額を押さえた。芳助がげらげらと笑う。
「で、どこでやってんの? 一個目は久万梨んとこだろ」
「ああ。『まっどべあ』だ。皿洗いと、出前をしている。久万梨が紹介してくれた」
久万梨金鹿の実家は、駅から少し離れた通りにある中華飯店だ。量が多くて安くて、店主がやたらとでかい声で怒鳴る店。高校生の間では「味はいいけど親父が怖い」で通っている。
「あとは、近所に一人で住んでいるおばあさんの家だ。物置の片付けや、買い物の荷物持ちをしている。……それと、話し相手だ」
「話し相手? それ仕事なの?」
「帰りに、お金をくれる」
草十郎は、少しだけ誇らしげに言った。
「話をするだけで、お金がもらえる。町というのは、すごいところだ」
「いや、それたぶん普通じゃねえからな」
忉利のツッコミは、どうやら届いていないらしかった。
ふと、窓の外で犬が吠えた。
校庭の向こう、フェンス越しの道を、散歩中の柴犬が通り過ぎていく。
その瞬間、草十郎の肩がわずかに強張ったのを、忉利は見逃さなかった。首に巻かれた古びた布の下で、喉が小さく動く。握り飯を持つ手の、袖から覗く腕には、白く引き攣れた古い傷跡。
「……犬、苦手なのか」
「ああ」
草十郎は、犬が見えなくなるまで窓の外を見ていた。
「子供の頃に、噛まれた。山の犬は、町の犬とは違う。だが、町の犬も、やはり苦手だ」
平坦な声だった。怖がっているというより、ただ事実を述べているだけの。
忉利がそれ以上何か言う前に、教室の後ろのドアが、がらりと乱暴に開いた。
「日景。静希。いるか」
入ってきたのは、槻司鳶丸だった。
二年A組、生徒会副会長。整った顔立ちに、刺々しい目つき。長めの髪を乱暴に撫でつけたその姿は、理事長の息子という肩書きとはおよそ噛み合わない。ついたあだ名は「ヤンキー殿下」。本人は、たぶん満更でもない。
「殿下!」
芳助が椅子から跳ね上がった。
「どうしたんすか殿下、C組に何のご用で――」
「お前に用はねえ。座ってろ」
一刀両断だった。
「会長からの伝言だ。『放課後、手の空いてる男手を二人よこせ』だとよ。年末の備品整理だ。お前ら二人、どうせ暇だろ」
「俺はバイトがある」
「静希、お前の皿洗いは六時からだろ。一時間で済む。……日景は?」
「暇じゃねえよ。店の手伝いが――」
「親父さんには、会長から店に電話を入れさせる。お前んとこの親父、蒼崎の頼みなら断らねえだろ」
逃げ道を丁寧に塞がれた。
忉利は溜息をついた。
「……わかったよ」
「殿下、俺も! 俺も手ぇ空いてます!」
「お前は手が空いてても頭が空いてるから要らねえ」
ひでえ、と机に崩れ落ちる芳助を尻目に、鳶丸はさっさと踵を返していった。
生徒会室は、本校舎三階の端にある。
段ボール箱を三つ重ねて運び込むと、窓際の机で帳簿を広げていた少女が、顔も上げずに言った。
「日景。そこ、置かないで。書類が潰れる」
「……じゃあどこに置けばいいんだよ」
「床。壁際。それ以外」
久万梨金鹿は、そっけなく鉛筆で壁際を示した。
小柄で、可愛らしい顔立ちをしているのに、愛想というものが根本的に欠けている。生徒会の会計。数字の間違いと、同い年の男子の落ち着きのなさを、何より嫌っている少女だ。
後ろから入ってきた草十郎が、同じように箱を――こちらは五つ重ねて、軽々と運び込んできた。
「久万梨。これはどこに置けばいい」
「……壁際。静希くん、それ全部一人で持ってきたの?」
「ああ。山では、薪を背負って峠を越えた。これは軽い」
「……あっそ」
金鹿は一瞬だけ草十郎を見て、すぐに帳簿に目を戻した。
忉利は壁際に箱を下ろしながら、部屋の奥に目をやった。
会長席。
窓から差し込む冬の西日の中で、蒼崎青子が、机に突っ伏して眠っていた。
腕を枕に、顔を半分埋めて。規則正しい寝息が、静かな部屋にかすかに聞こえる。
「……おい。寝てんのか、あいつ」
「最近ずっとこうだ」
鳶丸が、備品のリストに目を落としたまま答えた。
「昼休みに寝て、放課後も寝る。仕事は片付いてるから文句は言えねえがな。夜に何してんだか」
「……青子が居眠りなんて。槻司が真面目に授業に出るくらい、ありえない」
金鹿がぼそりと呟く。鳶丸が「おい」と眉をひそめたが、金鹿は素知らぬ顔で算盤を弾いた。
忉利は、鞄から魔法瓶を取り出した。
青子の机の、手の届く場所にそっと置く。
それだけのつもりだった。
けれど、ことり、という小さな音で、青子の瞼が震えた。
ゆっくりと顔を上げる。寝ぼけた目が焦点を結ぶまでに、数秒。目の前にいるのが誰かを理解した瞬間、その頬に一気に朱が差した。
「…………いつから、見てたの」
「今来たとこだ」
「嘘。絶対嘘でしょ、それ」
「涎、垂れてんぞ」
「っ!?」
青子は凄まじい速さで口元を拭い、それから、何もついていないことに気づいて、忉利を睨み上げた。
「――あんたねえ!」
「目、覚めたろ」
しれっと言って、忉利は魔法瓶を指さした。
「親父から。忙しい人間ほど、ちゃんとしたもん飲めってさ」
青子の手が、魔法瓶に伸びかけて、止まった。
蓋を開ける。立ちのぼる深煎りの香り。部屋の空気が、ほんの一瞬だけ、Cafe HIKAGEのカウンターの匂いに変わる。
「…………」
青子は、なぜか少しだけ困ったような顔をした。
「……私、今は紅茶派なの」
「は?」
忉利は、自分の耳を疑った。
「お前、中学の頃から、親父のブレンド以外は泥水だって言ってただろ」
「人は変わるのよ。……同居人がうるさいの。家の中で珈琲の匂いなんかさせたら、三日は口きいてくれないんだから」
青子は溜息をついて――それから、魔法瓶の蓋に、黙って珈琲を注いだ。
「……でも、これは別」
両手で包むように持って、一口。
「捨てたら、おじさんに悪いでしょ」
湯気の向こうで、青子の目元が、ほんの少しだけ緩んだ。
それは、ここひと月、忉利が一度も見ていなかった顔だった。
だから、訊いた。
「青子」
「なに」
「夜、何してる」
蓋を持つ手が、止まった。
部屋の空気が変わる。金鹿の鉛筆の音が止み、鳶丸がリストから顔を上げる。
青子は、珈琲の水面を見つめたまま、答えなかった。
三秒。
五秒。
「……別に。生徒会の仕事を、家に持ち帰ってるだけよ」
語尾を一度、切ってから。
忉利は、それ以上は訊かなかった。
「そうかよ」
窓の方に視線を逃がして、ぶっきらぼうに言う。
「倒れたら、担いで帰んのはおれだからな。重いんだから、倒れんなよ」
「……誰が重いのよ、誰が」
青子の声に、少しだけいつもの棘が戻る。
その横で、草十郎が、何の悪気もない顔で口を開いた。
「蒼崎は、夜にも働いているのか。俺と同じだな」
「一緒にしないで」
即答だった。そして青子は、ゆっくりと草十郎に向き直った。
「……それと、静希くん。ちょうどいいから確認しておくけど。あなたのバイト、ほんとに二つよね?」
「…………」
草十郎は、指を折りかけた。
忉利は、無言でその脛を蹴った。
「……二つだ」
「今の間はなに?」
「数え方の問題だ」
「数え方ってなによ!」
鳶丸が、堪えきれずに吹き出した。金鹿は帳簿で顔を隠していたが、肩が小刻みに震えていた。
騒がしくなった生徒会室で、忉利はひとり、窓の外を見ていた。
夕暮れの三咲町。
商店街の屋根、駅前のビル、遠くの鉄塔。その上に広がる茜色の空に――
無数の罅が、走っていた。
朝に見たものの比ではない。町の東の方角から、硝子にひびが広がるように、細く黒い亀裂が幾重にも枝分かれして、空の半分を覆っている。
ずきり。
また、右目の奥が痛む。
今度は、朝よりも深く。眼球の裏側を、熱い針でゆっくりと掻き回されるような――
忉利は、目を逸らした。
見なければ、痛まない。
ただの乱視だ。疲れているだけだ。寝不足なだけだ。
そう言い聞かせて、忉利は振り返らなかった。
だから、気づかなかった。
そのとき会長席の青子もまた、珈琲の蓋を握りしめたまま、同じ東の空を――そこにある、目には見えない何かを睨むように、険しい目で見据えていたことに。
中華飯店「まっどべあ」の暖簾をくぐると、湯気と油と怒鳴り声が一度に押し寄せてきた。
「餃子三枚あがったぞォ! 金鹿ァ、七番だ!」
「聞こえてる! 叫ばなくても聞こえてるってば!」
厨房の奥で中華鍋を振るっているのは、熊のような大男だった。腕は丸太のように太く、声は店の外まで響く。その手前、配膳口とレジの間を、エプロン姿の金鹿が小さな身体で走り回っている。
奥の座敷では、揃いのジャージを着た大柄な青年たちが四人、大皿の炒飯を囲んで、床運動の着地がどうのこうのと大声で論じ合っていた。
夜の七時半。父親から「今夜は閉店が遅くなる。晩飯は外で食ってこい」と千円札を一枚渡されて、忉利はここに来ていた。
「……いらっしゃい」
金鹿が、盆を抱えたまま忉利に気づいた。昼間の生徒会室と、まったく同じ温度の声だった。
「カウンターしか空いてない」
「いいよ。ラーメン一つ」
「ラーメン一丁」
金鹿が厨房に向かって声を張る。「ラーメン一丁ォ!」と、倍の音量で返ってくる。金鹿はうんざりしたように目を閉じて、伝票に数字を書き込んだ。
カウンターの端に座ると、洗い場の方から、見知った顔が覗いた。
草十郎だった。
白い調理服の袖をまくり上げ、山のように積まれた丼を、黙々と洗っている。昼間に見た腕の古傷が、湯気の中で白く浮いていた。
「日景。来ていたのか」
「晩飯。……お前、ほんとに働いてんだな」
「ああ。ここの親父さんは、声は大きいが、給金は正確だ」
それは褒め言葉なのか、と忉利は思ったが、草十郎の顔を見る限り、最大級の賛辞のつもりらしかった。
ラーメンが来た。醤油の、飾り気のない一杯。麺を啜りながら、忉利は店の中を眺めた。
金鹿は、客の注文を捌きながら、合間に厨房から回ってくる雑な伝票を直し、レジの小銭を揃え、兄たちの座敷に水を置いていく。無駄な動きが一つもない。
「……あいつ、ここ回してんのか。一人で」
「そうだ」
洗い物の手を止めずに、草十郎が答えた。
「久万梨がいないと、この店は一月で潰れると思う。親父さんも兄さんたちも、帳面をつけない」
「お前、そういうのはわかるんだな」
「数字は、嘘をつかないから」
六時から始まった皿洗いは、八時で終わりだった。草十郎は洗い場を明け渡し、調理服を脱いだ。
レジで、金鹿から茶封筒を受け取る。草十郎はその場で封を開け、中の千円札を一枚一枚、丁寧に数えた。
そして、ほんのわずかに――本当にわずかに、頬を緩めた。
「お金というのは、本当に便利なものだな」
しみじみと。まるで、山の頂から初めて海を見た人間のような声だった。
「これ一枚で、米が何日分も買える。山では、一冬かけて皮を干しても、こうはいかなかった」
「……静希くん。封筒、懐に入れて。そこで数えないで。後ろ詰まってるから」
「ああ、すまない」
草十郎は封筒をしまい、忉利の方を振り返った。
「俺は、これからおばあさんの家に行く。日景、また明日」
「ああ。……帰り、遅くなんのか」
「十一時くらいだろう。歩いて帰る」
戸が開いて、草十郎の背中が夜の中に消えていく。
金鹿が、その背中を見送ってから、ぼそりと言った。
「……あの人、善人すぎて胡散臭いのよね」
「わかる」
忉利は即答した。
「でも、嘘はついてないんだよな。あいつ」
「……それが一番、胡散臭いの」
金鹿は小さく溜息をついて、忉利の前に伝票を置いた。
「ラーメン一杯。四百五十円」
千円札を渡す。釣り銭を数える金鹿の指は、草十郎のそれよりもずっと速かった。
坂の上の洋館には、夜になると、町の音が届かない。
森に囲まれた古い屋敷。その一階の居間で、暖炉の火だけが、ぱちりと小さく爆ぜていた。
久遠寺有珠は、ソファに浅く腰掛けて、紅茶のカップを傾けていた。
膝の上には、開かれたままの古い本。けれどその目は、文字を追ってはいない。窓の外――黒々とした森の向こう、町の東の空を、じっと見つめている。
「……また、削られたわ」
呟くような声だった。
「東の鉄塔のあたり。今夜で四箇所目」
「わかってる」
居間の入り口で、青子がコートに袖を通しながら答えた。
昼間の制服ではない。動きやすいパンツに、暗い色のコート。長い髪を、首の後ろで一つに束ねている。
「人払いは?」
「張ったわ。いつもどおり」
「そ。助かる」
青子は手袋を嵌め、その指を一度、強く握り込んだ。
この町の地下には、古い網が張り巡らされている。蒼崎の家が代々守ってきた、目に見えない結界。その網目が、この一ヶ月、夜ごとに、何者かの手で少しずつ切り取られていた。
手口は巧妙だった。痕跡をほとんど残さない。気づいた時には、網の目がひとつ、ごっそりと消えている。そしてその穴を塞ぎに向かえば、決まって「何か」が待ち構えている。
「……どこの誰だか知らないけど」
青子は、低い声で吐き捨てた。
「人の町に土足で上がり込んで、いい度胸じゃない。顔くらい見せなさいよね、まったく」
有珠は答えなかった。
代わりに、カップを受け皿に戻して、ちらりと青子を見た。
「青子」
「なに」
「今日、学校で眠っていたでしょう」
「……なんで知ってるのよ」
「頬に、袖の跡がついているわ」
青子は反射的に頬を押さえた。とっくに消えているはずの跡を。
有珠は、表情ひとつ変えなかった。
「それと」
すん、と。有珠が、小さく鼻を鳴らした。
「……珈琲の匂いがするわ」
「――き、気のせいでしょ」
「そう」
有珠は、それ以上何も言わなかった。
言わなかったが、その沈黙には、はっきりと温度があった。冬の湖に張った、分厚い氷のような温度が。
青子は、そそくさとマフラーを巻いた。明日の朝食の席は、おそらく無言になる。
「じゃ、行ってくる。先に寝てていいから」
「……あ」
居間を出ようとした青子の背中に、有珠の声が落ちた。
青子が振り返る。
有珠は、何かを言いかけた口のまま、しばらく青子を見ていた。
暖炉の火が、一度、大きく揺れる。
「……なんでもないわ」
有珠は、本に目を戻した。
「気をつけて」
「――ええ」
玄関の重い扉が閉まる音。
それから居間には、薪の爆ぜる音だけが残った。
有珠は、開いた本の同じ頁を、長いこと見つめていた。
まっどべあを出たのは、九時を少し回った頃だった。
十二月の夜は、昼間の乾いた冷たさとは違う、湿った重さで身体にまとわりついてくる。吐く息が、街灯の下で白く溶けていく。
商店街へ戻る近道の、人通りのない裏通り。
その角を曲がったところで、忉利は、走ってくる足音を聞いた。
軽い。速い。迷いがない。
顔を上げると、暗い色のコートを着た人影が、街灯の光を横切っていくところだった。
髪を後ろで一つに束ねた、見慣れた横顔。
「――青子?」
声が、勝手に出た。
人影が急停止する。アスファルトの上で靴底が擦れる音。振り返ったその顔は、昼間の生徒会室で見たものとは、まるで別人のようだった。
張り詰めている。
目だけが、夜の中で異様に冴えていた。
「……忉利?」
青子は一瞬、ひどく困った顔をした。
「なんで、こんな時間にこんなとこにいるのよ」
「こっちの台詞だ。お前こそ、こんな時間にどこ行くんだよ。生徒会の仕事、家でやってんじゃなかったのか」
「…………」
青子は答えない。
答えないまま、一歩だけ、忉利の方に近づいた。
「早く、帰りなさい」
静かな声だった。
いつもの、突っかかるような棘がない。だからこそ、忉利は言葉に詰まった。
「今夜は、冷えるから。晴華ちゃんが心配するでしょ」
「青子」
「――お願い」
それだけ言って、青子は踵を返した。
コートの裾が翻り、足音が裏通りの奥――町の東、丘の麓にある公園の方角へと遠ざかっていく。
追いかけようとした。
一歩、踏み出した。
けれど、二歩目が出なかった。
理由はわからない。ただ、なんとなく――本当に、なんとなく、あっちに行きたくない、と思った。行く用事がない。寒い。明日も早い。そういうもっともらしい理由が、頭の中に次々と浮かんでくる。
まるで、誰かにそっと背中を押し戻されているかのように。
忉利は、しばらくその場に立っていた。
青子が消えていった方角の空を、見上げる。
夜空に、黒い糸が走っていた。
夕方に見たものより、さらに多い。公園のある丘の上空で、無数の細い線が、一点に向かって引き絞られるように集まっている。
ずきり、と右目が疼いた。
「……っ」
目を閉じた。
目を開けたときには、もう、見上げるのをやめていた。
踵を返す。商店街の方へ。家の方へ。
ポケットの中で握りしめた拳が、冷たかった。
―――何やってんだよ、あいつは。
答えは、どこにもない。
ただ、あの横顔だけが瞼の裏に焼きついていた。
十年以上隣にいて、一度も見たことのない顔。
喧嘩に向かう前の、ひどく静かな、覚悟を決めた人間の顔が。
静希草十郎がおばあさんの家を出たのは、十時半を過ぎた頃だった。
物置の古い箪笥をひとつ運び出し、茶の間でみかんを食べながら、おばあさんの亡くなった旦那さんの話を一時間ほど聞いた。帰り際には、いつものように、皺だらけの手で封筒を握らされた。
今日は、いい日だった。
冷えた夜道を歩きながら、草十郎はそう思った。
アパートまでは、歩いて四十分。バスというものがあるのは知っているが、乗り方がまだよくわからない。それに、歩くのは嫌いではなかった。山にいた頃は、一日に峠を三つ越えるのが当たり前だったのだから。
丘の麓の公園を突っ切れば、十分ほど近道になる。
草十郎は、何の迷いもなく、公園の入り口をくぐった。
―――このとき。
公園の周囲には、目に見えない「網」が張られていた。
人の無意識に働きかけ、その場所を避けさせる、ささやかな魔術。この道は遠回りだと、今夜はなんとなく気が進まないと、人の心にそっと囁きかける結界。裏通りで日景忉利の二歩目を止めたのも、同じものだ。
だが、静希草十郎には、それが効かなかった。
この少年は、無意識に道を選ぶということをしない。歩く道も、踏み出す足も、呼吸のひとつに至るまで、自分の意志で決めてから動く。そういう育ち方をしてきた。
だから、「なんとなく」が存在しない。
囁きかけられる隙間が、どこにもなかった。
公園の中は、しんと静まり返っていた。
街灯が、一本おきに消えている。葉を落とした桜の枝が、夜空に黒い網目を描いている。砂場。ブランコ。錆びた滑り台。
その奥の、広場の方から。
音がした。
硬いものが、硬いものにぶつかる音。木と陶器を、同時に叩き割ったような。
草十郎は足を止めた。
木立の陰から、広場を見る。
―――人がいた。
いや。人の形をしたものが、いた。
五体。背丈は大人ほど。けれど、顔がない。目も鼻も口もない、つるりとした白い面。関節が、軋むたびに乾いた音を立てる。その動きは、人間のそれではなかった。見えない指に吊られた操り人形が、滑るように地面を這い回っている。
そして、その五体に囲まれて。
一人の少女が、立っていた。
暗い色のコート。首の後ろで束ねた長い髪。
草十郎は、その横顔を知っていた。
「……蒼崎?」
声は、届かない距離だった。
人形の一体が、音もなく跳んだ。少女の背後から、腕とも刃ともつかない何かを振り上げて。
少女は、振り返らなかった。
ただ、右手を、すっと横に伸ばした。
指先に、光が灯った。
青い光だった。
夜の闇を、そこだけ切り取ったような、鮮烈な青。それが一瞬で膨れ上がり――
――――――――!!
轟音。
人形の上半身が、跡形もなく吹き飛んでいた。
遅れて、衝撃が来る。草十郎の頬を、熱い風が叩いた。焦げた匂い。雷が落ちた後の、鼻の奥がつんとするような匂い。
残りの四体が、一斉に動く。
少女は、今度は両手を掲げた。
青い光が、二つ。三つ。夜空に尾を引いて、人形たちを次々と撃ち抜いていく。砕けた白い破片が、季節外れの雪のように広場に降り注ぐ。
すべてが終わるまで、十秒もかからなかった。
最後の一体が崩れ落ちる音を聞きながら、草十郎は、木立の陰でただ静かに立っていた。
驚いては、いた。
けれど、恐ろしいとは思わなかった。
草十郎は、自分の手のひらを見下ろした。
ごく普通の、節くれだった手。山で木を伐り、獣を捌いてきた手。当然、光など出ない。
「……なるほど」
小さく、呟く。
「都会の人間は、手から光が出せるのか」
山にいた頃には、そんな人間はいなかった。
けれど、ここは町だ。電話というものがあって、テレビというものがあって、話をするだけでお金がもらえる場所だ。
人の手から光が出るくらいのことは、あるのかもしれない。
草十郎は、そう納得した。
納得して、帰ろうとした。
そのとき。
公園の外、遠くの住宅街で、犬が吠えた。
びくり、と。
草十郎の足が、意志とは無関係に、半歩下がった。
ぱきり。
踵の下で、枯れ枝が折れた。
静まり返った夜の公園で、その音は、ひどく大きく響いた。
広場の中央で、少女が弾かれたように振り返る。
鋭い目が、闇を射抜く。
草十郎が立つ、木立の陰を。
「―――誰?」
冷たい声だった。
昼間の生徒会室で聞いた声と同じ喉から出ているとは思えないほどに。
人払いの結界は、張ってあった。
この場所に、人が来るはずはなかった。
蒼崎青子の指先に、再び、青い光が灯る。
―――その夜。
静希草十郎は、見てはいけないものを、見た。