夜明けの色を見る眼   作:にんら

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本編
罅の見える夜


 ―――夏の日のことを、蒼崎青子は今でも時々夢に見る。

 

 父の車のボンネットの中。エンジンの熱が残っていて、暖かかったのだろう。三匹の子猫がそこに潜り込んでいた。

 

 誰も気づかなかった。

 

 鍵を回したのは、助手席に乗せてもらった青子だった。父に、やってごらん、と言われて。得意になって。

 

 音がした。

 

 それから、匂いがした。

 

 十歳の青子は、山の中の祖父の洞穴まで走った。裸足で。泣きながら。魔法使いなんでしょ、と暗闇に向かって叫んだ。生き返らせてよ。三匹とも。お願いだから。

 

 暗闇は、駄目だ、と答えた。

 

 そういうことは、してはいけない。

 

 それが、青子が魔法使いというものについて、最初に教わったことだった。

 

 それから時々、視界の端に赤い影を見るようになった。

 

 何なのかはわからない。誰に訊いても答えてはくれない。ただ、それはいつも少しだけ離れた場所に立っていて。青子が何かを、してはいけない何かを、しようとする時にだけ。

 

 ほんの少しだけ、近づいてくる。

 

 

◇

 

 

 その冬、三咲町は少しずつ削られていた。

 

 誰ひとり気づいてはいない。駅前のアーケードに灯る気の早い電飾も、長い坂を上る学生たちの白い息も、昨日と何ひとつ変わらない。十二月の風は乾いていて、枯れ葉の匂いと、どこかの家の石油ストーブの匂いを運んでくるだけだ。

 

 けれど町の底――人の目には決して映らない場所で、古い網目のような何かが、一本、また一本と音もなくほつれ始めていた。

 

 この町の地下には、網が張られている。

 

 蒼崎という家が、何代もかけてこの土地に縫い込んできた、目に見えない結界。町の五つの場所に打ち込まれた礎から、大地の底を流れる力を汲み上げて、坂の上の古い洋館に集める、見えない水路。

 

 その網目が今、夜ごとに何者かの手で少しずつ切り取られていた。

 

 それを知る者は、この町に二人しかいない。

 

 坂の上の洋館に住む二人の少女だけが。

 

 ……いや。

 

 正確には、もう一人いた。

 

 それが何であるかも知らないまま、毎朝、その「ほつれ」を眺めている少年が。

 

 

◇

 

 

 目を覚ますと、天井に線が走っていた。

 

 日景忉利は、布団から顔だけを出したまま、しばらくそれを眺めていた。

 

 古い木造二階建ての煤けた天井板。その木目とはまるで無関係に、髪の毛よりも細い黒い線が一本、斜めに引かれている。インクで描いたような、というには黒すぎる。光を吸い込むような底のない黒だった。

 

 瞬きをひとつ。線は消えない。

 

 もうひとつ。今度は、ふっと消えた。

 

「……乱視、また進んでんのか」

 

 誰に言うでもなく呟いて、忉利は身体を起こした。夜のうちに火を落とした石油ストーブのせいで部屋は冷え切っていて、吐いた息がそのまま白く濁る。

 

 昔からだった。視界の隅に、ありもしない線が見える。壁に、地面に、時には人の肩口に。眼科に連れて行かれたのは小学生の頃で、医者は「少し色素が薄いね」「乱視気味だね」と首をひねっただけだった。以来、忉利はそれを、ちょっと出来の悪い目の個性として扱ってきた。

 

 眼鏡をかけるほどではない。疲れると増える。寝不足だと、もっと増える。

 

 それだけの話だ。

 

 誰にも言ったことはない。言ったところで変な子だと思われるだけだ。親父の店の邪魔になる。

 

 だから黙って、見ないふりをする。

 

 もう十年以上、そうしてきた。

 

 階下から、焦げる寸前の豆の香りが立ちのぼってくる。深煎りの、鼻の奥にまで届く苦い匂い。この匂いで目が覚めない朝は、日景家には一日もない。

 

 

◇

 

 

 「Cafe HIKAGE」は、三咲町の古い商店街の外れにある、小さな純喫茶だ。

 

 カウンター七席にテーブルが三つ。壁には色の褪せた外国の港の写真。開店は朝七時、閉店は夜九時。客の半分は近所の年寄りで、残りの半分は、店主の淹れる一杯のためにわざわざ隣町から通ってくる物好きだった。

 

 三十年近く、この場所にある。

 

 忉利が階段を下りていくと、その店主――父親はカウンターの内側で黙々とネルを振っていた。

 

 湯を落とす。粉が膨らむ。泡がゆっくりと沈んでいく。それを見届けてから、また細く湯を落とす。息子が起きてきたことにも気づいているはずだが、ネルから目を離すことはない。この人は、珈琲を淹れている間は地震が来ても手を止めない。

 

「おはよ」

 

「ああ」

 

 返事はそれだけ。いつものことだ。

 

 母親は、忉利が小学校に上がる前にいなくなった。それ以来、この人は一人でこのカウンターに立って、二人の子供を育ててきた。何も言わずに。何も頼まずに。

 

「お兄ちゃん、遅い!」

 

 代わりに、店の奥から騒がしい声が飛んできた。セーラー服の上からエプロンを引っかけた妹の晴華が、トーストの皿を両手に持って仁王立ちしている。中学二年。三つ下のこの妹は朝から無駄に元気だ。

 

「遅くねえよ。まだ七時前だろ」

 

「お父さんがもう三杯目淹れてるの。お兄ちゃんのぶん、冷めちゃうじゃん」

 

 カウンターの端に、湯気の立つカップがひとつ置かれていた。忉利は黙ってそれを取り、一口すする。

 

 苦い。けれど、その奥に焦がした砂糖のような甘さがある。

 

 この味を再現しようとして、忉利は何年も父のネルを借りてきた。今では客に出しても文句は言われない程度のものが淹れられる。それでも、この一杯には届かない。

 

「ねえねえ」

 

 晴華がトーストを齧りながら、身を乗り出してくる。

 

「最近さ、青子ちゃん全然お店に来ないよね」

 

「……そうか?」

 

「そうだよ。前は週に三回は来てたのに、もう一ヶ月くらい見てないもん。ねえ、喧嘩した?」

 

「してねえよ」

 

「ほんとに? お兄ちゃんが何か余計なこと言ったんじゃないの?」

 

「なんでおれ前提なんだよ」

 

「だってお兄ちゃん、青子ちゃんにだけ口悪いもん」

 

 反論しようとして、やめた。事実なので仕方がない。

 

 蒼崎青子。

 

 物心ついた頃から、隣にいるのが当たり前だった幼馴染。蒼崎の家はこの商店街の裏手にあって、小さい頃の青子はほとんど毎日のようにこの店のカウンターで、ホットミルクを飲んでいた。それが中学に上がる頃には父のブレンドに変わり、「日景のおじさんの珈琲以外は泥水よ」と言い切るまでになった。

 

 その青子が、高校に上がってしばらくして実家を出た。坂の上の、町の人間が「幽霊屋敷」と呼ぶ古い洋館に下宿を始めたのだ。家主は礼園女学院に通う、どこかのお嬢様らしい。忉利は、その同居人と顔を合わせたことが数えるほどしかない。

 

 それでも青子はしばらくは変わらず店に来ていた。

 

 来なくなったのは――確かに、ここひと月ほどのことだ。

 

「忉利」

 

 ネルを置いた父が、珍しく自分から口を開いた。カウンターの上に、銀色の魔法瓶がひとつ置かれる。

 

「持ってけ」

 

「……青子にか?」

 

「生徒会長さんは忙しいんだろう。忙しい人間ほど、ちゃんとしたものを飲まなきゃならん」

 

 それだけ言って、父はまた次の豆を挽き始めた。

 

 忉利は魔法瓶を鞄に押し込んで、残りの珈琲を飲み干した。

 

「行ってくる」

 

「いってらっしゃーい。青子ちゃんによろしくね! 今度お店来てって言っといて!」

 

 晴華の声を背中で聞きながら、ドアベルを鳴らす。

 

 外に出た瞬間、冷たい風が頬を切った。

 

 見上げた冬空に、また一本。

 

 細く黒い亀裂が青い空を斜めに裂いていた。

 

 

◇

 

 

 三咲高校へ続く坂道は、冬になると風の通り道になる。

 

 マフラーに顎を埋めて歩いていると、坂の上――高校の方角ではなく、さらにその向こう、丘の上の森の方から、見慣れた人影が下りてくるのが見えた。

 

 長い髪。制服の上に羽織った飾り気のないコート。どんなに疲れていても、背筋だけは妙にまっすぐな歩き方。

 

 忉利は足を止めて、相手が気づくのを待った。

 

 気づかない。

 

 下を向いて、何か考え事をしているらしい。そのまま忉利の横を通り過ぎようとしたところで、ようやく顔を上げた。

 

「――っ、忉利?」

 

「よう、生徒会長様。朝から死人みたいな顔だな」

 

「…………」

 

 蒼崎青子は一瞬だけ、心底嫌そうな顔をした。

 

「朝一番に人の顔見て、第一声がそれ? バカじゃないの」

 

「事実だろ。隈、すげえぞ」

 

「うるさいわね。生徒会の仕事が立て込んでるのよ。年末なんだから当たり前でしょ」

 

 ぷい、と顔を背けて歩き出す。忉利は黙ってその隣に並んだ。

 

 小さい頃から、ずっとこの距離だった。肩が触れるか触れないか。青子の歩幅は忉利より少し広くて、だから意識して合わせないと、いつの間にか半歩前を行かれてしまう。

 

 横目で見る。

 

 青子の右手の甲に真新しい絆創膏が二枚、斜めに貼られていた。

 

「それ」

 

「なによ」

 

「手。どうしたんだよ」

 

「…………猫よ」

 

「猫」

 

「そう、猫。引っかかれたの。屋敷の周り、野良が多いのよ」

 

 嘘だ、と忉利は思った。

 

 青子は嘘をつくとき、語尾を一度切ってから言い直す癖がある。本人は気づいていない。十年以上隣にいれば、嫌でも覚える。

 

 けれどそれを指摘したところで、この幼馴染が素直に白状するはずもない。

 

 忉利は代わりに青子の頭に手を伸ばした。

 

「ひゃっ――な、なにすんのよ!」

 

「葉っぱ。ついてた」

 

 指先でつまんだ枯れ葉を見せる。茶色く乾いた広葉樹の葉。この辺りの街路樹のものではない。

 

「どこの山越えてきたんだよ、お前」

 

「げ、下宿の庭よ! ……っていうか、いきなり人の頭触らないでよ。自分で取れるわよ、そのくらい」

 

 青子はひったくるように枯れ葉を奪い取ると、そのまま早足で坂を上っていった。耳の先が、寒さのせいとは思えないほど赤い。

 

 忉利は小さく肩をすくめて、その背中を追おうとして――

 

 ずきり、と。

 

 右目の奥が、針で突かれたように痛んだ。

 

 足が止まる。

 

 青子の背中。その少し上、何もないはずの空中に、線があった。

 

 今朝、天井に見たものとは違う。一本ではない。何本もの細い黒い糸が蜘蛛の巣のように絡み合い、青子の肩のあたりにまとわりついている。まるで、目に見えない何かが、彼女に爪を立てようとした痕のように。

 

 ―――なんだ、あれ。

 

 息を止めて瞬きをする。

 

 消えない。

 

 もう一度、強く目を閉じる。

 

 開く。

 

 消えていた。

 

 冬の朝のただの澄んだ空気がそこにあるだけだった。

 

「……忉利? なにしてんの、置いてくわよ」

 

 坂の上で青子が振り返っていた。

 

「目、どうかした?」

 

「……いや。乱視。最近ひでえんだよ」

 

「眼科行きなさいよ。あんた昔から目だけは弱いんだから」

 

 呆れたように言って、青子はまた前を向く。

 

 忉利は右目を指で押さえたまま、しばらく坂の途中に立ち尽くしていた。

 

 痛みは、もう引いていた。

 

 

◇

 

 

 二年C組の昼休みは、たいていやかましい。

 

 その中心にいるのはだいたい木乃美芳助だ。

 

「でさあ、静希。お前、昨日もバイトだったんだろ? 何時までやってたんだよ」

 

「十一時過ぎだったと思う」

 

「マジかよ。高校生の労働時間じゃねえって、それ」

 

 窓際の席で、静希草十郎は膝の上に新聞紙を広げ、その上で握り飯を食べていた。

 

 海苔も巻いていない、塩だけの白い握り飯がふたつ。弁当箱というものを、この転入生はまだ持っていない。

 

 十一月の末日という、学期も終わりに近い半端な時期に三咲高校へ編入してきた男だった。山奥の、電気も通っていないような土地から下りてきたのだという。最初にその話を聞いたとき、クラスの誰もが冗談だと思った。二週間経った今では、誰も疑っていない。

 

 なにしろこの男は、転入初日に公衆電話の受話器に向かって、真顔で「もしもし」と挨拶をしていたのだ。硬貨も入れずに。

 

 その日、担任の山城は生徒会長を職員室に呼び出して、転校生の校内案内を頼んだ。青子は、面倒くさそうな顔一つ見せずに、校舎の端から端まで一時間かけて草十郎を連れ回した。そして最後に、購買部の前で、生活の面倒は自分が見る、と宣言した。

 

 それ以来、草十郎は、青子のことを山の年寄りたちと同じくらい、無条件に信頼している。

 

「日景も聞いてくれよ。こいつ、バイト何個掛け持ちしてると思う?」

 

 芳助が、後ろの席で頬杖をついていた忉利を振り返る。

 

「知らねえよ。校則じゃ一個までだろ」

 

「そこなんだよ! 普通は一個。でも静希は、会長が特例で二個まで許可したわけ。な、静希」

 

「ああ。蒼崎には感謝している」

 

 草十郎は握り飯を飲み込んでから、律儀に頷いた。

 

「学費と家賃を払って、飯を食うには、一つでは足りなかった。蒼崎が職員室に掛け合ってくれた」

 

「で、実際いくつやってんの」

 

「…………」

 

 草十郎は指を折って数え始めた。

 

 一本。二本。三本。

 

 四本目で、少し考え込んだ。

 

「数え方にもよるが」

 

「おい」

 

 忉利は思わず口を挟んだ。

 

「それ、会長の前で絶対言うなよ。特例ごと取り消されるぞ」

 

「そうか。なら、二つと言っておけばいいのか」

 

「そういう問題じゃねえ」

 

 真顔だった。冗談を言っている顔ではない。この男は、たぶん本気でそれが解決策だと思っている。

 

 忉利は額を押さえた。芳助がげらげらと笑う。

 

「で、どこでやってんの? 一個目は久万梨んとこだろ」

 

「ああ。『まっどべあ』だ。皿洗いと、出前をしている。久万梨が紹介してくれた」

 

 久万梨金鹿の実家は、駅から少し離れた通りにある中華飯店だ。量が多くて安くて、店主がやたらとでかい声で怒鳴る店。高校生の間では「味はいいけど親父が怖い」で通っている。

 

「あとは、近所に一人で住んでいるおばあさんの家だ。物置の片付けや、買い物の荷物持ちをしている。……それと、話し相手だ」

 

「話し相手? それ仕事なの?」

 

「帰りに、お金をくれる」

 

 草十郎は少しだけ誇らしげに言った。

 

「話をするだけで、お金がもらえる。町というのは、すごいところだ」

 

「いや、それたぶん普通じゃねえからな」

 

 忉利のツッコミは、どうやら届いていないらしかった。

 

 ふと窓の外で犬が吠えた。

 

 校庭の向こう、フェンス越しの道を、散歩中の柴犬が通り過ぎていく。

 

 その瞬間、草十郎の肩がわずかに強張ったのを、忉利は見逃さなかった。首に巻かれた古びた布の下で、喉が小さく動く。握り飯を持つ手の、袖から覗く腕には白く引き攣れた古い傷跡。

 

「……犬、苦手なのか」

 

「ああ」

 

 草十郎は、犬が見えなくなるまで窓の外を見ていた。

 

「子供の頃に、噛まれた。山の犬は、町の犬とは違う。だが、町の犬もやはり苦手だ」

 

 平坦な声だった。怖がっているというより、ただ事実を述べているだけの。

 

 忉利がそれ以上何か言う前に、教室の後ろのドアが、がらりと乱暴に開いた。

 

「日景。草の字。いるか」

 

 入ってきたのは、槻司鳶丸だった。

 

 二年A組、生徒会副会長。整った顔立ちに刺々しい目つき。長めの髪を乱暴に撫でつけたその姿は、理事長の息子という肩書きとはおよそ噛み合わない。ついたあだ名は「ヤンキー殿下」。本人は、たぶん満更でもない。

 

「殿下!」

 

 芳助が椅子から跳ね上がった。

 

「どうしたんすか殿下、C組に何のご用で――」

 

「お前に用はねえ。座ってろ」

 

 一刀両断だった。

 

「会長からの伝言だ。『放課後、手の空いてる男手を二人よこせ』だとよ。年末の備品整理だ。お前ら二人、どうせ暇だろ」

 

「俺はバイトがある」

 

「草の字、お前の皿洗いは六時からだろ。一時間で済む。……日景は?」

 

「暇じゃねえよ。店の手伝いが――」

 

「親父さんには、会長から店に電話を入れさせる。お前んとこの親父、蒼崎の頼みなら断らねえだろ」

 

 逃げ道を丁寧に塞がれた。

 

 忉利は溜息をついた。

 

「……わかったよ」

 

「殿下、俺も! 俺も手ぇ空いてます!」

 

「お前は手が空いてても頭が空いてるから要らねえ」

 

 ひでえ、と机に崩れ落ちる芳助を尻目に、鳶丸はさっさと踵を返していった。

 

 

◇

 

 

 生徒会室は本校舎三階の端にある。

 

 段ボール箱を三つ重ねて運び込むと、窓際の机で帳簿を広げていた少女が、顔も上げずに言った。

 

「日景。そこ、置かないで。書類が潰れる」

 

「……じゃあどこに置けばいいんだよ」

 

「床。壁際。それ以外」

 

 久万梨金鹿は、そっけなく鉛筆で壁際を示した。

 

 小柄で、可愛らしい顔立ちをしているのに、愛想というものが根本的に欠けている。生徒会の会計。数字の間違いと、同い年の男子の落ち着きのなさを何より嫌っている少女だ。

 

 後ろから入ってきた草十郎が、同じように箱を――こちらは五つ重ねて、軽々と運び込んできた。

 

「久万梨。これはどこに置けばいい」

 

「……壁際。静希くん、それ全部一人で持ってきたの?」

 

「ああ。山では、薪を背負って峠を越えた。これは軽い」

 

「……あっそ」

 

 金鹿は一瞬だけ草十郎を見て、すぐに帳簿に目を戻した。

 

 忉利は壁際に箱を下ろしながら、部屋の奥に目をやった。

 

 会長席。

 

 窓から差し込む冬の西日の中で、蒼崎青子が、机に突っ伏して眠っていた。

 

 腕を枕に、顔を半分埋めて。規則正しい寝息が、静かな部屋にかすかに聞こえる。

 

「……おい。寝てんのか、あいつ」

 

「最近ずっとこうだ」

 

 鳶丸が、備品のリストに目を落としたまま答えた。

 

「昼休みに寝て、放課後も寝る。仕事は片付いてるから文句は言えねえがな。夜に何してんだか」

 

「……青子が居眠りなんて。槻司が真面目に授業に出るくらい、ありえない」

 

 金鹿がぼそりと呟く。鳶丸が「おい」と眉をひそめたが、金鹿は素知らぬ顔で算盤を弾いた。

 

 忉利は鞄から魔法瓶を取り出した。

 

 青子の机の手の届く場所にそっと置く。

 

 それだけのつもりだった。

 

 けれど、ことり、という小さな音で青子の瞼が震えた。

 

 ゆっくりと顔を上げる。寝ぼけた目が焦点を結ぶまでに、数秒。目の前にいるのが誰かを理解した瞬間、その頬に一気に朱が差した。

 

「…………いつから、見てたの」

 

「今来たとこだ」

 

「嘘。絶対嘘でしょ、それ」

 

「涎、垂れてんぞ」

 

「っ!?」

 

 青子は凄まじい速さで口元を拭い、それから、何もついていないことに気づいて、忉利を睨み上げた。

 

「――あんたねえ!」

 

「目、覚めたろ」

 

 しれっと言って、忉利は魔法瓶を指さした。

 

「親父から。忙しい人間ほど、ちゃんとしたもん飲めってさ」

 

 青子の手が、魔法瓶に伸びかけて、止まった。

 

 蓋を開ける。立ちのぼる深煎りの香り。部屋の空気が、ほんの一瞬だけ、Cafe HIKAGEのカウンターの匂いに変わる。

 

「…………」

 

 青子はなぜか少しだけ困ったような顔をした。

 

「……私、今は紅茶派なの」

 

「は?」

 

 忉利は自分の耳を疑った。

 

「お前、中学の頃から、親父のブレンド以外は泥水だって言ってただろ」

 

「人は変わるのよ。……同居人がうるさいの。家の中で珈琲の匂いなんかさせたら、三日は口きいてくれないんだから」

 

 青子は溜息をついて――それから、魔法瓶の蓋に黙って珈琲を注いだ。

 

「……でも、これは別」

 

 両手で包むように持って、一口。

 

「捨てたら、おじさんに悪いでしょ」

 

 湯気の向こうで、青子の目元が、ほんの少しだけ緩んだ。

 

 それはここひと月、忉利が一度も見ていなかった顔だった。

 

 だから、訊いた。

 

「青子」

 

「なに」

 

「夜、何してる」

 

 蓋を持つ手が、止まった。

 

 部屋の空気が変わる。金鹿の鉛筆の音が止み、鳶丸がリストから顔を上げる。

 

 青子は、珈琲の水面を見つめたまま、答えなかった。

 

 三秒。

 

 五秒。

 

「……別に。生徒会の仕事を、家に持ち帰ってるだけよ」

 

 語尾を一度、切ってから。

 

 忉利はそれ以上は訊かなかった。

 

「そうかよ」

 

 窓の方に視線を逃がしてぶっきらぼうに言う。

 

「倒れたら、担いで帰んのはおれだからな。重いんだから、倒れんなよ」

 

「……誰が重いのよ、誰が」

 

 青子の声に少しだけいつもの棘が戻る。

 

 その横で、草十郎が、何の悪気もない顔で口を開いた。

 

「蒼崎は、夜にも働いているのか。俺と同じだな」

 

「一緒にしないで」

 

 即答だった。そして青子は、ゆっくりと草十郎に向き直った。

 

「……それと、静希くん。ちょうどいいから確認しておくけど。あなたのバイト、ほんとに二つよね?」

 

「…………」

 

 草十郎は指を折りかけた。

 

 忉利は無言でその脛を蹴った。

 

「……二つだ」

 

「今の間はなに?」

 

「数え方の問題だ」

 

「数え方ってなによ!」

 

 鳶丸が、堪えきれずに吹き出した。金鹿は帳簿で顔を隠していたが、肩が小刻みに震えていた。

 

 騒がしくなった生徒会室で、忉利はひとり窓の外を見ていた。

 

 夕暮れの三咲町。

 

 商店街の屋根、駅前のビル、遠くの鉄塔。その上に広がる茜色の空に――

 

 無数の罅が、走っていた。

 

 朝に見たものの比ではない。町の東の方角から、硝子にひびが広がるように、細く黒い亀裂が幾重にも枝分かれして、空の半分を覆っている。

 

 ずきり。

 

 また右目の奥が痛む。

 

 今度は、朝よりも深く。眼球の裏側を、熱い針でゆっくりと掻き回されるような――

 

 忉利は目を逸らした。

 

 見なければ、痛まない。

 

 ただの乱視だ。疲れているだけだ。寝不足なだけだ。

 

 そう言い聞かせて、忉利は振り返らなかった。

 

 だから、気づかなかった。

 

 そのとき会長席の青子もまた、珈琲の蓋を握りしめたまま、同じ東の空を――そこにある目には見えない何かを睨むように、険しい目で見据えていたことに。

 

 

◇

 

 

 中華飯店「まっどべあ」の暖簾をくぐると、湯気と油と怒鳴り声が一度に押し寄せてきた。

 

「餃子三枚あがったぞォ! 金鹿ァ、七番だ!」

 

「聞こえてる! 叫ばなくても聞こえてるってば!」

 

 厨房の奥で中華鍋を振るっているのは、熊のような大男だった。腕は丸太のように太く、声は店の外まで響く。その手前、配膳口とレジの間を、エプロン姿の金鹿が小さな身体で走り回っている。

 

 奥の座敷では、揃いのジャージを着た大柄な青年たちが四人、大皿の炒飯を囲んで、床運動の着地がどうのこうのと大声で論じ合っていた。金鹿の兄たちだ。四人とも体操部で、四人とも帳面というものをつけたことがない。

 

 夜の七時半。父親から「今夜は閉店が遅くなる。晩飯は外で食ってこい」と千円札を一枚渡されて、忉利はここに来ていた。

 

「……いらっしゃい」

 

 金鹿が、盆を抱えたまま忉利に気づいた。昼間の生徒会室とまったく同じ温度の声だった。

 

「カウンターしか空いてない」

 

「いいよ。ラーメン一つ」

 

「ラーメン一丁」

 

 金鹿が厨房に向かって声を張る。「ラーメン一丁ォ!」と倍の音量で返ってくる。金鹿はうんざりしたように目を閉じて、伝票に数字を書き込んだ。

 

 カウンターの端に座ると、洗い場の方から、見知った顔が覗いた。

 

 草十郎だった。

 

 白い調理服の袖をまくり上げ、山のように積まれた丼を黙々と洗っている。昼間に見た腕の古傷が、湯気の中で白く浮いていた。

 

「日景。来ていたのか」

 

「晩飯。……お前、ほんとに働いてんだな」

 

「ああ。ここの親父さんは、声は大きいが、給金は正確だ」

 

 それは褒め言葉なのか、と忉利は思ったが、草十郎の顔を見る限り、最大級の賛辞のつもりらしかった。

 

 ラーメンが来た。醤油の飾り気のない一杯。麺を啜りながら、忉利は店の中を眺めた。

 

 金鹿は、客の注文を捌きながら、合間に厨房から回ってくる雑な伝票を直し、レジの小銭を揃え、兄たちの座敷に水を置いていく。無駄な動きが一つもない。

 

「……あいつ、ここ回してんのか。一人で」

 

「そうだ」

 

 洗い物の手を止めずに、草十郎が答えた。

 

「久万梨がいないと、この店は一月で潰れると思う。親父さんも兄さんたちも、帳面をつけない」

 

「お前、そういうのはわかるんだな」

 

「数字は、嘘をつかないから」

 

 六時から始まった皿洗いは、八時で終わりだった。草十郎は洗い場を明け渡し、調理服を脱いだ。

 

 レジで金鹿から茶封筒を受け取る。草十郎はその場で封を開け、中の千円札を一枚一枚、丁寧に数えた。

 

 そして、ほんのわずかに――本当にわずかに、頬を緩めた。

 

「お金というのは、本当に便利なものだな」

 

 しみじみと。まるで、山の頂から初めて海を見た人間のような声だった。

 

「これ一枚で、米が何日分も買える。山では、一冬かけて皮を干しても、こうはいかなかった」

 

「……静希くん。封筒、懐に入れて。そこで数えないで。後ろ詰まってるから」

 

「ああ、すまない」

 

 草十郎は封筒をしまい、忉利の方を振り返った。

 

「俺は、これからおばあさんの家に行く。日景、また明日」

 

「ああ。……帰り、遅くなんのか」

 

「十一時くらいだろう。歩いて帰る」

 

 戸が開いて、草十郎の背中が夜の中に消えていく。

 

 金鹿が、その背中を見送ってから、ぼそりと言った。

 

「……あの人、善人すぎて胡散臭いのよね」

 

「わかる」

 

 忉利は即答した。

 

「でも、嘘はついてないんだよな。あいつ」

 

「……それが一番、胡散臭いの」

 

 金鹿は小さく溜息をついて、忉利の前に伝票を置いた。

 

「ラーメン一杯。四百五十円」

 

 千円札を渡す。釣り銭を数える金鹿の指は、草十郎のそれよりもずっと速かった。

 

 

◇

 

 

 坂の上の洋館には、夜になると、町の音が届かない。

 

 森に囲まれた古い屋敷。その一階の居間で、暖炉の火だけが、ぱちりと小さく爆ぜていた。

 

 久遠寺有珠は、ソファに浅く腰掛けて、紅茶のカップを傾けていた。

 

 膝の上には開かれたままの古い本。けれどその目は、文字を追ってはいない。窓の外――黒々とした森の向こう、町の東の空を、じっと見つめている。

 

「……また、削られたわ」

 

 呟くような声だった。

 

「東の鉄塔のあたり。今夜で四箇所目」

 

「わかってる」

 

 居間の入り口で、青子がコートに袖を通しながら答えた。

 

 昼間の制服ではない。動きやすいパンツに、暗い色のコート。長い髪を首の後ろで一つに束ねている。

 

「五つの礎のうち、東のがいちばん近い。……あいつら、次は、そこに来る」

 

「そうね」

 

 有珠はカップを受け皿に戻した。

 

「だから、今夜は、あなたが一人でやりなさい」

 

 青子の手がコートの釦の上で止まった。

 

「……一人で?」

 

「わたしは、丘の上で見ている。人払いは張る。……でも、手は出さないわ」

 

 有珠の声は暖炉の火よりも、静かだった。

 

「あなた、実戦は、まだ一度もないでしょう。網を繕うのと、網を切りに来た者を追い返すのは、違うことよ」

 

「…………」

 

「あの人形たちは、あなたを殺しに来る。……今夜、それを、覚えなさい」

 

 青子はしばらく、有珠の横顔を見ていた。

 

 それから手袋を嵌め、その指を一度、強く握り込んだ。

 

「……わかったわ」

 

 この町の地下には、古い網が張り巡らされている。蒼崎の家が代々守ってきた、目に見えない結界。その網目がこの一ヶ月、夜ごとに何者かの手で少しずつ切り取られていた。

 

 手口は巧妙だった。痕跡をほとんど残さない。気づいた時には、網の目がひとつごっそりと消えている。そしてその穴を塞ぎに向かえば、決まって「何か」が待ち構えている。

 

「……どこの誰だか知らないけど」

 

 青子は低い声で吐き捨てた。

 

「人の町に土足で上がり込んで、いい度胸じゃない。顔くらい見せなさいよね、まったく」

 

 有珠は答えなかった。

 

 代わりにちらりと青子を見た。

 

「青子」

 

「なに」

 

「今日、学校で眠っていたでしょう」

 

「……なんで知ってるのよ」

 

「頬に、袖の跡がついているわ」

 

 青子は反射的に頬を押さえた。とっくに消えているはずの跡を。

 

 有珠は表情ひとつ変えなかった。

 

「それと」

 

 すん、と。有珠が小さく鼻を鳴らした。

 

「……珈琲の匂いがするわ」

 

「――き、気のせいでしょ」

 

「そう」

 

 有珠はそれ以上何も言わなかった。

 

 言わなかったが、その沈黙には、はっきりと温度があった。冬の湖に張った分厚い氷のような温度が。

 

 青子はそそくさとマフラーを巻いた。明日の朝食の席は、おそらく無言になる。

 

「じゃ、行ってくる。先に寝てていいから」

 

「……あ」

 

 居間を出ようとした青子の背中に、有珠の声が落ちた。

 

 青子が振り返る。

 

 有珠は、何かを言いかけた口のまま、しばらく青子を見ていた。

 

 暖炉の火が一度、大きく揺れる。

 

「……なんでもないわ」

 

 有珠は本に目を戻した。

 

「気をつけて」

 

「――ええ」

 

 玄関の重い扉が閉まる音。

 

 それから居間には、薪の爆ぜる音だけが残った。

 

 有珠は、開いた本の同じ頁を、長いこと見つめていた。

 

 それから、立ち上がって、黒い外套を手に取った。

 

 止まり木の上で、青い駒鳥が片目を開けた。

 

「マイ天使、行くッスか」

 

「……見ているだけよ」

 

 有珠は外套の襟を立てた。

 

「あの子が、初めて人を殺しかけるところを」

 

 

◇

 

 

 まっどべあを出たのは、九時を少し回った頃だった。

 

 十二月の夜は、昼間の乾いた冷たさとは違う、湿った重さで身体にまとわりついてくる。吐く息が、街灯の下で白く溶けていく。

 

 商店街へ戻る近道の人通りのない裏通り。

 

 その角を曲がったところで、忉利は、走ってくる足音を聞いた。

 

 軽い。速い。迷いがない。

 

 顔を上げると、暗い色のコートを着た人影が、街灯の光を横切っていくところだった。

 

 髪を後ろで一つに束ねた、見慣れた横顔。

 

「――青子?」

 

 声が勝手に出た。

 

 人影が急停止する。アスファルトの上で靴底が擦れる音。振り返ったその顔は、昼間の生徒会室で見たものとは、まるで別人のようだった。

 

 張り詰めている。

 

 目だけが、夜の中で異様に冴えていた。

 

「……忉利?」

 

 青子は一瞬、ひどく困った顔をした。

 

「なんで、こんな時間にこんなとこにいるのよ」

 

「こっちの台詞だ。お前こそ、こんな時間にどこ行くんだよ。生徒会の仕事、家でやってんじゃなかったのか」

 

「…………」

 

 青子は答えない。

 

 答えないまま、一歩だけ、忉利の方に近づいた。

 

「早く、帰りなさい」

 

 静かな声だった。

 

 いつもの突っかかるような棘がない。だからこそ、忉利は言葉に詰まった。

 

「今夜は、冷えるから。晴華ちゃんが心配するでしょ」

 

「青子」

 

「――お願い」

 

 それだけ言って、青子は踵を返した。

 

 コートの裾が翻り、足音が裏通りの奥――町の東、丘の麓にある公園の方角へと遠ざかっていく。

 

 追いかけようとした。

 

 一歩、踏み出した。

 

 けれど、二歩目が出なかった。

 

 理由はわからない。ただ、なんとなく――本当に、なんとなく、あっちに行きたくない、と思った。行く用事がない。寒い。明日も早い。そういうもっともらしい理由が、頭の中に次々と浮かんでくる。

 

 まるで、誰かにそっと背中を押し戻されているかのように。

 

 忉利はしばらくその場に立っていた。

 

 青子が消えていった方角の空を見上げる。

 

 夜空に黒い糸が走っていた。

 

 夕方に見たものよりさらに多い。公園のある丘の上空で、無数の細い線が、一点に向かって引き絞られるように集まっている。

 

 その一点が。

 

 まるで、何かに狙いを定めているように、見えた。

 

 ずきり、と右目が疼いた。

 

「……っ」

 

 目を閉じた。

 

 目を開けたときには、もう見上げるのをやめていた。

 

 踵を返す。商店街の方へ。家の方へ。

 

 ポケットの中で握りしめた拳が冷たかった。

 

 ―――何やってんだよ、あいつは。

 

 答えはどこにもない。

 

 ただ、あの横顔だけが瞼の裏に焼きついていた。

 

 十年以上隣にいて、一度も見たことのない顔。

 

 喧嘩に向かう前の、ひどく静かな、覚悟を決めた人間の顔が。

 

 

◇

 

 

 静希草十郎がおばあさんの家を出たのは、十時半を過ぎた頃だった。

 

 物置の古い箪笥をひとつ運び出し、茶の間でみかんを食べながら、おばあさんの亡くなった旦那さんの話を一時間ほど聞いた。帰り際には、いつものように、皺だらけの手で封筒を握らされた。

 

 今日はいい日だった。

 

 冷えた夜道を歩きながら、草十郎はそう思った。

 

 アパートまでは、歩いて四十分。バスというものがあるのは知っているが、乗り方がまだよくわからない。それに、歩くのは嫌いではなかった。山にいた頃は、一日に峠を三つ越えるのが当たり前だったのだから。

 

 丘の麓の公園を突っ切れば、十分ほど近道になる。

 

 草十郎は、何の迷いもなく、公園の入り口をくぐった。

 

 ―――このとき。

 

 公園の周囲には、目に見えない「網」が張られていた。

 

 人の無意識に働きかけ、その場所を避けさせる、ささやかな魔術。この道は遠回りだと、今夜はなんとなく気が進まないと、人の心にそっと囁きかける結界。裏通りで日景忉利の二歩目を止めたのも、同じものだ。

 

 だが、静希草十郎にはそれが効かなかった。

 

 この少年は、無意識に道を選ぶということをしない。歩く道も、踏み出す足も、呼吸のひとつに至るまで、自分の意志で決めてから動く。そういう育ち方をしてきた。

 

 だから「なんとなく」が存在しない。

 

 囁きかけられる隙間がどこにもなかった。

 

 

◇

 

 

 公園の中はしんと静まり返っていた。

 

 街灯が一本おきに消えている。葉を落とした桜の枝が夜空に黒い網目を描いている。砂場。ブランコ。錆びた滑り台。

 

 その奥の広場の方から。

 

 音がした。

 

 硬いものが、硬いものにぶつかる音。木と陶器を同時に叩き割ったような。

 

 草十郎は足を止めた。

 

 木立の陰から広場を見る。

 

 ―――人がいた。

 

 いや。人の形をしたものが、いた。

 

 五体。背丈は大人ほど。けれど、顔がない。目も鼻も口もない、つるりとした白い面。関節が軋むたびに乾いた音を立てる。その動きは、人間のそれではなかった。見えない指に吊られた操り人形が、滑るように地面を這い回っている。

 

 そしてその五体に囲まれて。

 

 一人の少女が、立っていた。

 

 暗い色のコート。首の後ろで束ねた長い髪。

 

 草十郎はその横顔を知っていた。

 

「……蒼崎?」

 

 声は届かない距離だった。

 

 

◇

 

 

 広場の真ん中で、蒼崎青子は息を整えていた。

 

 五体。

 

 丘の上から見ていた時は、四体だと思った。一体、木立の陰に潜んでいた。

 

 人形たちは動かなかった。

 

 青子を円く囲んで。等間隔に。まるで時計の文字盤の上に置かれた駒のように。

 

 白い面。関節の継ぎ目。指先まで精巧に作られた陶器の身体。その関節の隙間から、細い鋼線が覗いているのが、街灯の残りの光で見えた。

 

 誰が作ったものかは知らない。

 

 けれど、上手い、と青子は思った。

 

 腹立たしいほどに、上手い。

 

 ――あの人形たちは、あなたを殺しに来る。

 

 有珠の声が耳の奥で響いた。

 

 右手の手袋を指で確かめる。手の甲の二枚の絆創膏。三日前、網を繕っていて、跳ね返った線に切られた傷。

 

 あれはまだ、戦いではなかった。

 

 これが、最初だ。

 

 青子は背中の、腰のあたりに意識を落とした。

 

 身体の中に回路がある。魔術師の身体に、生まれつき通っている、目に見えない神経。祖父から、三年前に叩き込まれた。目を閉じて、その回路の一本一本を内側から辿る。

 

 ――開く。

 

 背骨の奥で何かが、ぱちりと点いた。

 

 熱が、腹の底から指の先まで、一気に駆け上がる。

 

「―――」

 

 短い一語。

 

 人形の一体が動いた。

 

 滑るように。音もなく。青子の正面からまっすぐに。

 

 速い。

 

 人間の速さではなかった。二十メートルの距離が瞬きの間に、半分になる。白い腕が肘のあたりから、刃のように鋭く折れ曲がっている。

 

 青子は、動かなかった。

 

 右手を正面に、まっすぐに突き出した。

 

 指先に光が灯る。

 

 青い光だった。夜の闇をそこだけ切り取ったような、鮮烈な青。それが、指先の一点で、ぐっと圧縮されて――

 

 撃った。

 

 ―――――!!

 

 光が一直線に走った。

 

 人形の胸の真ん中に着弾する。

 

 白い面が半分、吹き飛んだ。

 

 けれど、止まらなかった。

 

 胸に穴を開けたまま、人形は、残った腕を青子の顔面に向かって振り下ろしてきた。

 

「――っ」

 

 青子は身体を横に投げ出した。

 

 刃のような腕が束ねた髪の先を、掠めた。数本の髪がはらりと宙に舞う。

 

 地面を転がる。膝をつく。顔を上げる。

 

 人形が振り返っていた。

 

 胸に拳ほどの穴。それでも、動く。

 

 ――魔力を胴に置いてない。

 

 青子は奥歯を噛んだ。

 

 人形は、心臓で動くのではない。動かしているのは、どこか遠くにいる操り手だ。人形の身体のどこかに、その操り手と繋がる一本の糸がある。それを断たなければ、胴に穴を開けたところで、止まらない。

 

 どこだ。

 

 頭か。首か。それとも――

 

 考える暇はなかった。

 

 残りの四体が、一斉に動いた。

 

 右から二体。左から一体。それから正面の、胸に穴の開いた一体。四方向から、同時に。

 

 正面の一体の後ろに、もう一体が隠れていた。五体目。地面すれすれを蜘蛛のように這って。

 

「―――、―――」

 

 二語。

 

 両手を掲げる。

 

 指先に二つの光。それが三つになり、四つになる。青子の周りの空気が、びりびりと震え始めた。

 

 撃った。

 

 右へ。左へ。正面へ。

 

 三発。同時に。

 

 右の一体が腕ごと吹き飛んで、砂場に転がった。左の一体が脚を失って、地面に崩れる。正面の一体がもう一度胸を撃ち抜かれて、後ろに弾き飛ばされる。

 

 けれど。

 

 その正面の一体の陰から、五体目が、跳んだ。

 

 真上から。

 

 青子の頭上に、白い影が落ちてくる。

 

 刃のような腕が、二本。振り下ろされる。

 

 ――間に合わない。

 

 青子は目を見開いた。

 

 視界の端に赤いものが、見えた気がした。

 

 少しだけ、近づいてきていた。

 

 その瞬間。

 

 青子の右手が勝手に動いた。

 

 考えるより先に。狙うより先に。頭上の白い影の、面の真ん中――目も鼻もない、つるりとした白の中心のその少し上に。

 

 撃った。

 

 ―――!!

 

 白い面が砕けた。

 

 その奥に、小さな黒い石が埋め込まれているのが、一瞬だけ見えた。石に細い糸のようなものが繋がっている。

 

 石が、割れた。

 

 糸が、切れた。

 

 五体目の人形は宙で、糸の切れた操り人形そのものになって、青子の目の前にがらがらと崩れ落ちた。

 

 白い破片が季節外れの雪のように、青子の肩に降りかかった。

 

「……そこか」

 

 青子は息を吐いた。

 

 面の奥。額の裏。

 

 そこに、操り手との糸がある。

 

 残り三体。

 

 右の、腕を失った一体が片腕で身体を起こしていた。左の、脚を失った一体が両腕で地面を這って、こちらへ向かってくる。正面の、胸に二つ穴を開けた一体がゆらりと立ち上がる。

 

 青子は立ち上がった。

 

 コートの雪を払う。

 

 三体の人形の白い面を、順番に見た。

 

 その額の裏の一点を。

 

「――遅い」

 

 撃った。

 

 一発。二発。三発。

 

 三つの白い面が続けざまに砕けた。三つの黒い石が割れて、三本の糸が切れて。

 

 三体の人形は、同時に崩れ落ちた。

 

 静寂が戻った。

 

 青子は両手をゆっくりと下ろした。

 

 指先が痺れていた。

 

 背骨の奥の熱が、少しずつ引いていく。

 

 広場の真ん中に、五体分の白い破片が散らばっていた。焦げた匂い。雷が落ちた後の、鼻の奥がつんとするような匂い。

 

 すべてが終わるまで、二十秒もかかっていなかった。

 

 青子は自分の右手を見下ろした。

 

 手袋の上から絆創膏の感触を確かめる。

 

 震えていた。

 

 少しだけ。

 

 ――殺しに来た。

 

 本当に、殺しに来た。

 

 あの、頭上から落ちてきた腕。あれが、あと半秒、早かったら。

 

 青子は拳を握った。

 

 震えを握り潰した。

 

 視界の端の赤い影は、もう、どこにもなかった。

 

 

◇

 

 

 木立の陰で、草十郎はただ静かに立っていた。

 

 驚いては、いた。

 

 けれど、恐ろしいとは思わなかった。

 

 草十郎は自分の手のひらを見下ろした。

 

 ごく普通の、節くれだった手。山で木を伐り、獣を捌いてきた手。当然、光など出ない。

 

「……なるほど」

 

 小さく呟く。

 

「都会の人間は、手から光が出せるのか」

 

 山にいた頃にはそんな人間はいなかった。

 

 けれど、ここは町だ。電話というものがあって、テレビというものがあって、話をするだけでお金がもらえる場所だ。

 

 人の手から光が出るくらいのことは、あるのかもしれない。

 

 草十郎はそう納得した。

 

 納得して帰ろうとした。

 

 そのとき。

 

 公園の外、遠くの住宅街で犬が吠えた。

 

 びくり、と。

 

 草十郎の足が意志とは無関係に、半歩下がった。

 

 ぱきり。

 

 踵の下で枯れ枝が折れた。

 

 静まり返った夜の公園で、その音はひどく大きく響いた。

 

 広場の中央で少女が弾かれたように振り返る。

 

 鋭い目が闇を射抜く。

 

 草十郎が立つ木立の陰を。

 

「―――誰?」

 

 冷たい声だった。

 

 昼間の生徒会室で聞いた声と同じ喉から出ているとは思えないほどに。

 

 人払いの結界は張ってあった。

 

 この場所に人が来るはずはなかった。

 

 蒼崎青子の指先に、再び青い光が灯る。

 

 丘の上の木立で、黒い外套の少女がそれを見下ろしていた。

 

 肩の上の駒鳥が小さく震えた。

 

「……マイ天使。人が」

 

「見えているわ」

 

 有珠は目を細めた。

 

「……なぜ、入れたのかしら」

 

 ―――その夜。

 

 静希草十郎は見てはいけないものを、見た。

シエルの小説満足度調査

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